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1.  春夏秋冬そして春
西洋のイメージした東洋を見ている気がずっとした。老師の感じなんかスターウォーズみたいだし、池の中の浮き堂も美しいんだけど、西洋の視線を経由してるように感じちゃう。季節ごとに若者の設定が替わるの。罪を越えて次の世代の老師になる。それらを仏が高みから見てござる、って感じ。猫の尻尾で般若心経を書いたり、どうも禅的なハッタリにすべて感じられ、まあ禅と言うものが、大部分そういうハッタリの世界なのかもしれないが、他者の思惑を意識しすぎた精神性って、やでしょ。こちらが必要以上に拒否反応起こしてる気もするけど、せっかく画は美しいんだから、それを素直に愛で られるストーリーだったら良かったのに。むかし韓国で作られた『達磨はなぜ東へ行ったのか』なんてのは、素直だったよ。
[DVD(字幕)] 6点(2014-02-22 09:48:46)
2.  モーターサイクル・ダイアリーズ
1952年、ほとんど半世紀前という時代の空気は感じられなかったが、演出のせいなのか、そういう風土なのか。旅行者・ゆきずりの「見る人」だったものから、次第に「関わっていく人」に変わっていくのがポイントだろう。それもすぐに「怒り」にはならず、社会の不平等への戸惑いが順々に蓄積して高まっていくところを描いているわけだ。銅山のあたりから、船の後ろに繋がれた舟。そして閉ざされたハンセン病の島へ泳いで渡れることを身を持って証明する「行動する人」になっていく。偉大な革命家の誕生物語という型にはまった伝記ではなく、「見る青年」が「行動する青年」に変貌していく記録として描かれている。繰り返されるダンス。南米万歳と唱えた彼が、なぜキューバへ向かうのかは、それはまた別の話と言うことで。
[DVD(字幕)] 7点(2014-02-15 09:45:25)
3.  ネバーエンディング・ストーリー第2章 《ネタバレ》 
主人公の子役が気味悪いとか、幼ごころの君が全然幼ごころでない顔だったりとか、ブツブツ言いながら観てたが、けっきょくは大人を経由したファンタジーでしかないって不満。もちろんファンタジーの世界を作り上げるのは大人には違いないけど、子どもを尊重してないんだよな。原作者エンデがあんまり好きでないのは、どこかそういう「大人だまし」の作家って気がする(キャロルや賢治のようには古典になれないのでは)。願いごとが叶うたびに記憶が消えていく、ってのなんかはちょっとオツなんだけど、最後の願いが「あなたの心に愛を」で決められると、やはり呆然とする。カラッポってのが深そうに感じられたのに、それを埋めるのが「愛」だったとは。どこまでが原作の責任で、どこから脚色の責任なのか知りませんが、筋が単線で広がりがない。
[映画館(字幕)] 4点(2014-01-16 09:41:39)
4.  明りを灯す人
ほのぼのした映画の線かと思っていた。たしかにおおむねそうなのだが、政治の混乱期のドラマなのだった。アカーエフ独裁政権が崩壊したあとのキルギス。当時一応日本でも報じられていた記憶はあるが、「独裁者」の風貌がモロに日本人だなあといった感想しか持たなかった。イラクは独裁者が消えたあと、混乱に突入した。こちらは都市部ではワイワイやってるようだが本作の舞台となった村ではのどか。電気のメーターを操作した罪で捕らえられていた主人公が、政権崩壊で釈放されたくらい。と思ってると、底のほうでは動いていた。やり手の男が村を牛耳りだし、親戚のおとなしい男(妻は赤旗なびかせたトラックに乗って出奔してしまう)を次の村長に押したて、中国の土地開発団を呼んだりしている。そういった動きの気配に合わないものを感じていく主人公の困惑、といった話で「ほのぼの」では終わらない。そしてこういう「転換か否か」という話は、変革期の国では(日本の幕末維新期もそうだったが)どこでも起こってきた。主人公は子どもがみな娘で息子がいないのを気に病んでいる昔風の男、でも電気技術者である彼を尊敬しているらしい男の子がいつもそばをチョロチョロしている。電信柱に乗っているときマッチを投げ上げてくれと頼むと、中に小石を入れて風に飛ばないように工夫してくれる賢い子。後にこの子が(だと思うんだけど、顔をよく識別できない)木に上って降りられなくなり主人公が助けにいく。山の向こうを見たかったと言う少年。この地方の希望がじんわい感じられるいいシーンだった。
[CS・衛星(字幕)] 6点(2013-11-29 09:04:55)
5.  吸血鬼(1931)
サイレントじゃなかったんだ。サウンド版的だが、声もときどき入る。字幕なしでつらかったのはセリフよりも文章だった。夢魔にどっぷり漬かる体験。影が動いてきて人間の影と重なる。天井。噛まれた女の表情、苦しい表情から邪悪な表情へ。愛するものへ災いをなすかもしれないという不安の中から、悪がヌッと顔を出す。幽体離脱、縛られている女。自分の死体、その棺からの視線。蓋をネジ釘で止めていく回転作業。顔を覆っているガラスの上に立てられるロウソク、そして運ばれていく空の光景。圧巻ですなあ。これと同時上映でやはりドライヤーの『彼らはフェリーに間に合った』という短編も見たんだけど(火事を出す前のフィルムセンターで、デンマークから借りてのなんかの映画祭だった記憶)、交通安全キャンペーン用の映画。疾走する現代性と死神の古典性が対比されているのではなく、疾走感そのものの中にまがまがしさが感じられるあたりがミソ。たぶんこれが初めてのドライヤー体験。全編疾走している映画で、後に彼の他の作品を見るようになり、その地味さにびっくりすることになる。あの疾走の記憶は正しかったのか今では不確か。
[映画館(字幕なし「原語」)] 8点(2013-11-13 10:14:30)
6.  クラッシュ(2004)
群像もの。善人でも悪人でもない人々の小さな気分の揺れが、大きな善になったり大きな悪になったりすること。やくざな警官が必死の救助者になったり、正義感ばりばりの新入り警官が人を撃ってしまったり。そういう社会なのだよ、という諦めを語ったのか。希望を語りたい・夢を持ちたい、という前提で社会を点検してみたら…、というスタンスなのか。妖精のマント。昔のアメリカの「社会もの」は、白人と黒人との対立だけですんでいたんだけど、いまは複雑で、アラブ人と間違えられて襲撃されるペルシャ人もいる。少数民族は優遇されすぎてるという白人の不満も高まっている。希望や夢を持つことが難しい状況が蔓延している中で、何か手探りしようとしている意志を感じる。希望そのものを歌うより、希望を持とうとする意志を模索していることに希望を持とう、と控え目な控え目な夢を語っているような。
[DVD(字幕)] 7点(2013-10-31 09:39:32)
7.  サウンド・オブ・サンダー 《ネタバレ》 
大事になるきっかけが「些細」ってのが、ワクワクさせる。倒して液体酸素が漏れる「些細」な事故。塀を突き破る植物の出現ってのも「些細」だった。大事そのものよりも、そのクレッシェンドがワクワクさせるんだ。最初は蝶のように些細なら些細なほど嬉しい。その分植物に覆われる都市ってのをもっと味わいたかったな。こちらにモロ敵意を示す動物よりも。あからさまに邪悪の相してるんだもの。もっと無関心なのに害をなしてくる、って方が怖いと思うんだ。哺乳類と爬虫類がくっついて進化したんだって。例のごとく有色人種が麗しい犠牲者となる。エネルギーはどういうふうに供給してるのか、自家発電なのか。
[DVD(字幕)] 6点(2013-10-24 09:42:30)
8.  M:i:III
これの興味はフィリップ・シーモア・ホフマンの悪役だった。コンプレックスの裏打ちのある人をやらせると絶妙な役者で、何か新鮮な悪役像を生んでいるのではないかと期待したが、ごくフツーの悪漢だった。昔の007映画のように、さしたる必要性もないのに世界中を回っていて、それは嬉しかった。ベルリン・バチカン・アメリカの海上ハイウェイ・上海と、質感の違う風景を並べていくのが楽しい。交通法規を無視しずいぶん巻き添えの事故死者を出してしまっただろうなあ、といった小市民感情からしばし自由になるのがこういう映画の味わいなので、積極的に無視しぶっ飛ばしてるつもりになる。でも悪漢の方だって、ジェット戦闘機持ってるのに人質の警備が粗雑だったり、きっと根は小市民なんだぜ。
[DVD(字幕)] 7点(2013-09-22 09:46:11)(笑:1票)
9.  メトロポリス(1984)
群衆への不信が根強くある監督で、そっちのほうが資本家対労働者の図式より奥にある。偽のマリアに興奮させられていくくだりなど、おっかない。ロボットが資本家の言いなりになって、なんとなく話の輪郭が掴めた気分になったところで、ロボットが言うことをきかなくなり、破壊そのものの楽しさへ走っていく。それまでのところはナチズムを予見したというレベルだが、こうなると、兵器が人間の理性の範囲を超えてズンズン進化していってしまっている現代(1985年3月にロードショーで見た)の恐怖そのものに迫っている。1920年代に、もうここまで予見していた我々人類を自慢していいのか、それを知っていながら愚行を重ねた20世紀史にションボリすべきなのか。ロック音楽をかぶせたバージョンで、労働者たちが首うなだれて行進してるとこなんか、独自の効果があった。ソ連映画じゃないので労働者がすべて前向きなわけではなく、使いの役を忘れてヨシワラに行っちゃったりするのも、苦くてよろしい。
[映画館(字幕)] 7点(2013-08-26 09:33:53)
10.  ニーチェの馬 《ネタバレ》 
ラシドミドシ、ラシドミドシといううねりに乗ってド~~シ~~ラ~~と下降するモチーフが否応なく陰気。息を切らせる馬の映像とあいまって、もう映画のトーンが定まる冒頭。前作『倫敦から来た男』では、話の内容とスタイルが合ってない、という不満を持ったが、本作は合い過ぎるほど合った。中風の後遺症か、右手の不自由な父とかしずく娘、老いた馬、荒天の外を窓から眺めるのが日課の日々。やがて馬は病み、井戸は涸れ、ここを離れようとしてもなぜか戻ってしまい(単に行くあてがないことを映像で表現したのかもしれないが、そう思いたい)、どうもここらあたりから何かが起こり始めている。ランプの火が消え、灯そうとしても着かない。娘は「何が起きてるの」と呟く。外の風は止むのだが、娘は馬が食べるのを止めたようにじゃが芋を食べず、「食わねばならん」と言っていた父もじゃが芋を食べる手を止め、静かにフェイドアウト。何かが起きている。人生を放擲してしまうまでの無力感なのか、もっと宗教的な終末観なのか。この終盤の「何かが片付きつつある感じ」はホラーに近い。この家族の絶望だったのかもしれないが、もっと大きなレベルでの推移だったと思いたい。日常を包む大きな世界を垣間見た気にさせる映画だった。
[DVD(字幕)] 7点(2013-05-04 09:15:56)
11.  エレンディラ
ヒロインは海に憧れ続け、ラストでやっと海のそばにテントを立てるが、また砂漠のほうに逃げていく。この青空が印象的で、海の青より空の青を選んだ、という感じ(青と言えば、初めて体売られたときカーテンを青い魚が過ぎていく。「百年の孤独」に、ずっと雨が降り続いて湿度が上がった室内を、魚が泳ぎ過ぎていくってイメージがあって、好きだった)。マルケスの小説って凄く映像的だと思ってたんだけど、やはりあれ文学なんだな。この映画で一番美しいイメージは祖母の夢語りなんだ。エイが空を飛んでいくような。その瑞々しさに比べると、ガラスの変色など、実際の映像で示されるとかえってイメージがしぼんでしまう。そこだけが特異点として浮き上がってしまう、日常の中の非日常として。全体が溶け合ったものになってくれない。さらに言えば、あの仕掛けはどうなってんのか、などとあらぬことを考えてしまう。これ映像の不利な点ですね。修道院から帰ってくるところがミソか。幸福と懐かしさで、彼女は懐かしさのほうを選んだってこと。
[映画館(字幕)] 7点(2013-01-30 09:57:34)
12.  トト・ザ・ヒーロー
社会学的に見ると、アイデンティティの不安とか何とか、人生論的に見ると、他人への妬みや呪いを支えにして生きることの不幸とか何とか、心理学的に見ると、ユングの影とか何とか、いろいろ出そう。面白いのよ、一応面白いんだけど、なんちゅうか、作者の設計図が見えすぎちゃってるというか、醒めすぎてるところがあって、酔わせてくれない。ちょっと窮屈。若い監督なんだから(当時)、もっと破綻ぎりぎりの冒険もあってほしいところ。ラストの笑いはなんだったんだろう。他人を呪うことで支えられていた自分の人生の空しさを知ってしまった絶望に裏打ちされた笑い? 人生ってものを哄笑するような、ドロッとしたような、他人に対する呪いがもう社会を超えて神にまで向かったような。自分の人生を他人に奪われたと思い込む人間ってのにピンと来るか来ないかが、本作を楽しめるか否かの分かれ目のよう。
[映画館(字幕)] 7点(2012-12-02 09:42:03)
13.  三文オペラ(1931)
友情讃歌ととればいいんだろうか。警視総監、泥棒、乞食の巴となっての。それらをひっくるめて、乞食の群衆の裏表の関係になってたのか。とにかく全部セットで、風景を映したシーンがないのも、舞台を意識したよう。泥棒の情婦、乞食の娘としっかりした女たちが小気味いい。男のキザ加減も見事、警官に追われても走らないし、屋根から下りてくるときでもステッキを離さない。こういうキザに徹するのを風刺としてでなくそのままで楽しむって姿勢、日本にはないけど、ヨーロッパは「007」なんか見てもあるな。紳士の文化ってのが、なんかあるんだな。あと「愛すべき泥棒たち」ってのも、あちらの文化的。日本で似たのを考えると、歌舞伎の白浪ものになるが、あれは「愛すべき」という仲間的な親しみじゃなく、やはり見上げるヒーローという距離がある。鼠小僧ってのは、江戸の町人にとってどうだったんだろう、仲間・同類って感じあったのかな。
[映画館(字幕)] 6点(2012-08-07 09:01:52)
14.  M(1931) 《ネタバレ》 
映画史上最も異様な作品。そのまま解釈すれば精神病に対する偏見の作品てことになるけど、後半の異様な熱気がそんなものでないことを示す。「時代の不安」の映画であることは間違いないが、そう簡単に言い切っちゃっていいのかい、とフィルムのほうがこちらを値踏みしてくるような落ち着かなさを感じる。子どもたちの未来を奪っていく黒い影、その性的変質が政治的変質と一つのかたまりになってスクリーンから押し出してくる。犯人が少女を見てムラムラッとなるところや、「裁判」での弁明に時間を割いて丁寧にやっているのも、単なるスリラーでない証拠だ。「心の中の悪魔が言うことをきかなかった」という犯人の弁明は、ドイツ人が十数年後に繰り返すことになる。小悪党によって変質者が裁かれ、いざ刑の執行になると、目に見えぬ官憲に踏み込まれる、という話に何らかの隠喩があるのかも知れないが、カフカに通じるような、異様さを異様なまま納得させるリアリティがあって、そっちのほうが急ごしらえの解釈など吹っ飛ばしてしまう。弁護士がさかんに「犯意のない犯行は無実ではないか」と主張するのも、これからファシズムを支えていく民衆の弁護になっており、誰かを裁くだけで済む問題ではないぞ、とドイツの未来に対して、さらには世界の歴史に対して先取りして発言しているよう。無数の解釈の可能性に覆われた、まるでカサブタだけで本体の見えぬ怪物に出会ってしまった気分にさせられる作品だ。ちなみに本作のP・ローレ、『サイコ』のA・パーキンス、『コレクター』のT・スタンプが、私にとっての愛すべき三大変態(別格扱いの『ソドムの市』の四人組とで「変態七福神」とも呼ぶ)。
[映画館(字幕)] 8点(2012-08-03 10:07:21)
15.  イタリア麦の帽子
人のちょっとした傷を描くのがいい。靴が合わない、手袋の片一方がない。妻にしょっちゅうネクタイの緩みを注意される、なんてのが傑作で、もうビクビクしちゃって条件反射的に首元に手がいくようになっちゃうの。悪夢の世界ということではキートンと同じだけど、質が違う。キートンの悪夢は荒々しく襲いかかってくるが、こちらは直接暴力の被害は受けない。あちらは第三者の目から見れば、ああ大変なことになってるなあ、と同情される状態なのに対し、こちらは孤独。絶望的なのだが場を取り繕おうと懸命なわけ。キートンが「恐怖の悪夢」であるのに対して、クレールは「不安の悪夢」と言えるかもしれない。当人に何の落ち度もないのだから不条理の悪夢には違いないんだけど、「関係」の形で出てくるので、キートンの悪夢が比較的サッパリしているようには行かない。粘つく。これがクレールコメディの特徴だろう。フランス映画の粋はしっかりあり、最後はピタリと収まる。絶品である。
[映画館(字幕)] 8点(2012-07-25 10:16:38)
16.  カリガリ博士 《ネタバレ》 
ストーリーはたわいないもので、「権力とは何ぞや」などといろいろ深読みするより、当時の娯楽一般が病的に歪んでいたものだったことを確認するぐらいでいい。この表現主義に影響された日本の『狂った一頁』も精神病院になっちゃうわけで、時代のグロテスク趣味にとどまっている気がする(それはそれでセットの美術だけ見れば悪くないけど)。夢遊病男が夜、女性の家に忍び込む場面は不気味であった。これよりもこの翌年の『朝から夜中まで』のほうが、狂気で片づけてないぶん、一歩前進があるよう。ことの起こりは主人公の狂ったような激情だけど、ストーリーは幻想というわけでなく、いわば悪夢のような現実。電灯の光までヒラヒラを付けて描写し、表現主義もこういった方向で発展していったら、グロテスクで病的なものだけに閉じない新展開があったんだろうが、不健全を許さない「病的に健康」な時代にドイツが入っていってしまうからなあ。
[映画館(字幕)] 6点(2012-07-08 09:59:02)
17.  夢の涯てまでも
この人は求心力よりも遠心力の人だったけど、これはもう分解寸前までいってる。前半の世界旅行は正直言ってほとんどノレなかった。部分で言えばリスボンの路面電車なんかは悪くないんだけど、前半キチンと物語としての面白さを出していないと後半生きないから、これでは困る。でも作家の質として仕方ないんでしょうな。皮肉なことに、その物語が終わって人々が映像病に閉じていく後半、オーストラリアに入ってからのほうが若干面白いんです。荒野をさすらうあたりからこの人のトーンが出てくる。世界の終わりという大規模なスケールのところから、次第に極所に集中してくる。盲目の母に視界を与えるという家の世界になり、そこから個人の夢の世界にと狭く狭くなっていく。意外と「家族」って、この作家のポイントなのかもしれない。世界はあまりに広すぎ、個人の夢はあまりに普遍から遠い。家族の愛を単位としたらどうか、って。も一つ意外だったのは、映像の病いから抜け出すのが「言葉」なんですな。映像作家の皮肉な結論。映像は閉じ、言葉は開く。映像(夢)は人それぞれのものだが、言葉は普遍に使われているものを借りて綴っていく。そこに開かれるものを見ている。ハイビジョンによる夢の映像ってのがウリだったが、ある種の夢のような感じ・明晰でないことの美しさは出ていた。今見るとどうだろうか。
[映画館(字幕)] 6点(2012-07-03 09:56:33)
18.  意志の勝利
演説と行進と整列。繰り返し繰り返し所属することの悦びを歌い上げ、今あなたが所属している党/ドイツという国家の確実性・正統性を保証してくれる。この時代のこの国に生まれたことは何と幸運なんだろう。大人数を捉えるときは俯瞰でその秩序正しさを描き、ヒットラーを初め指導者たちを捉えるときはやや下から見上げ偉大さを強調する。演説者を横移動でゆっくり撮るのは、ありがたい仏像を拝むときの気持ちに似通った効果を狙っているのかもしれない。ヒットラーはしばしば逆光で捉えられ、彼の黒髪があたかも純粋なアーリア民族の(彼が夢見た)金髪であるかのような錯覚を与える。ショーというものの力を最も有効に使った権力者だけのことはある。モンタージュによる作為、反復の陶酔、映像の力をフルに生かした点でプロパガンダ映像史上の一つの頂点であり、後世にも影響を残した。拍手が鳴り止まぬ熱狂を司会者の困惑で描くうまさなんて、以後の劇映画でも目にした気がする。これ東京の有楽町そごうデパート7階だったかに短期間存在した「映像カルチャーホール」ってんで見たんだけど、500円で海外のドキュメンタリーの名作を見られるいいところだった(いまはデパートそのものもない)。映画史の本に載ってるような英国サイレント期の傑作を、ここでずいぶん見られた。あれどこが運営してたのか、あれらのフィルムは今どうなっているのか、ほとんど日本語字幕が付いてたし、無駄なく活用されていればいいんだけど。
[映画館(字幕)] 8点(2012-06-23 09:45:48)
19.  カティの愛した人 《ネタバレ》 
このままのシナリオで日本を舞台にしても出来そうな道具立て。国防婦人会みたいなおばさんから、チョコレート、戦後のジャズ、買い出しの苦労と、みんな日本にも揃っている。この映画のよさは明るさ。大変な時代ではあったけど、その瓦礫の時代だけにあった、青空の見える下の生活の明るさ、解放感が出ている。ファシズムからの解放だけでなく、世間のしがらみからの解放も。これも日本とまったく同じだな。そう思って見てみると、ラストで帰ってくる亭主の象徴性が深まってくる。主婦が主人公の時代だったのに、そこに「主人」が(しがらみを伴って)帰ってきてしまった、というささやかな幻滅が感じられて、それも日本と同じか。ハイキングシーンで走っていたのは、木炭車か? あんなものは日本人の独創だと思っていたのに。ヒロインが何かをするときの、実際はグズグズ迷っていただろう部分をあっさりカットして、飛ばすところがいい。田舎へ行っちゃうとことか、市電の車掌さんを見上げて、次のシーンではもう彼女が車掌になってたりとか。こういうところに明るさがある。楽団員が揃わないので、ベートーベンの交響曲を室内楽で演奏してたなんて、ドイツの文化性というか、文化の飢えには我慢できない、という矜持が感じられた。
[映画館(字幕)] 7点(2012-06-06 10:05:27)
20.  ブンミおじさんの森 《ネタバレ》 
夏の夜の感じ。背後では虫の声が続き、夕涼みをしている部屋でぼそぼそと語り合う親族一同。そこにふんわりともう一人、すでに亡くなった親族が現われてきてもおかしくないような夜。一年中こういう夏の夜の感じが続いているのなら、さらに毛むくじゃらの猿の精霊となったせがれも、階段をゆっくり上がって来ることがあるかも知れない。ちょっとは驚くが、あとはすんなり状況を受け入れて会話は続いていく。「ずいぶん毛が伸びたのね」。すると次に美貌を失った王女さま(?)と輿かつぎの若者の悲恋っぽい話になり、それを見守るナマズが慰めたりする鏡花にでもありそうな世界に唐突に切り替わる。バックの滝が美しいが、こちら観客はその展開にただ呆然とする。するとさきのブンミさんの話に戻って幽霊との洞窟探検になり、分かりやすく判断すれば亡妻に死の国へ導かれたような図だが、そういうおどろおどろしさはない。いたって淡々とブンミさん死んで、淡々と葬儀に移り、画面では香典の金勘定をやってる。王女さまのおとぎ話の対極のような世界。お寺が怖くて睡眠不足だった坊さんはシャワーを浴びTシャツに着替え(坊さんがシャワー使ってる光景なんてたぶん人生でこれ一回見るきりだろうが、だからってなぜこう丹念に見せられるのか)、さて飯でも食うか、と出かけるところで最後のサプライズが来、観てるものの呆然を残して映画は終わる。ついついこちらは「アジア映画」というものを「素朴な良さがある」「癒しの」世界という心構えで観てしまっていた。題名もなんかそれっぽいし。ところが前衛映画ってやつだった。エピソードのひとつひとつは奇譚として面白いんだけど、それがどう関係しているのかが分からない(前世ってこと?)。もうちょっとヒントくれてたら心穏やかに観られたのに。アジアの映画も、そう「癒し」ばかりじゃなく、むかし見たバングラデシュの『車輪』っていうのは、行き倒れの死体を遺族の村に運ぶように頼まれた男の話で、なかなか目的地の村にたどり着けず(村の名前を間違えていたり、結婚式をやっていて不吉だと追い返されたり)、しだいに死体には蝿もたかり、死者の幽霊が「俺の村を見つけられるかな」とからかってきたりと、なんかブニュエルを思わせるような傑作だった。アジア映画が、「癒し」「素朴」の方向で享受される時代はとっくに終わっていたことを悟らされるこの『ブンミおじさん』ではあった。
[DVD(字幕)] 6点(2012-05-26 10:23:21)(良:1票)
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