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1.   《ネタバレ》 
今ではすたれてしまった、南部曲家で馬と共に暮らす農民の厳しい生活ぶりを、四季折々の農村風習と峻厳な自然風景を織り交ぜながら、詩情豊かに描いた名作。民俗資料としての価値が高い。馬好きの娘イネが、艱難にめげずに母馬と仔馬を愛育していく過程が軸となって展開する。「最後は売られていく」という結末が容易に予想されるので、鑑賞中、随所に哀愁を感じることになる。艱難としては、借金で馬が買えない、父親が馬に蹴られて負傷して借金が膨らむ、母親が馬を厄病神扱いする、馬が病気になるが金欠で医者にかかれない、借金延滞で仔馬が売られる、仔馬を探そうと母馬が逃奔する、などがある。これらを毅然と跳ね返す、イネの土性骨の据わった強情っ子ぶりが最大の見所だ。しかし、それと同等かそれ以上に、イネと母親の、一見反発しあう二人だが、心の底で強い絆で結ばれている関係が描かれる。イネは馬に夢中で、馬のことしか見えない。母は、そんなイネを親不孝者となじり、馬を軽んじる。だが、イネが病気の馬のために、遠隔の温泉地まで雪を踏んで青草を採り、夜間に凍えながら帰ってくると、二人の感情が堰を切ったように爆発する。劇的な場面だ。仔馬が生まれると、母親は自分がイネを産んだときを思い出して、馬にも情が移る。祖母は、母親を補完する役割をしている。母親には無い、柔和で優しい母性を示す。祖母の母性がよく出ているのが、紡績工場へ出発するイネに寒餅を与える場面だ。「これを食えば水中りしねえぞ。来年の盆には馬っこに乗って迎えにいくから」と元気づけるが、一分間ほどの歳月経過風景描写を挟んで位牌姿となって登場する。これぞ熟練の演出で、泣かせる。才能の冴えだ。ひるがえって、父親の影は薄い。母と子の関係に焦点を絞りたかったのだろう。母、イネ、母馬と、母性を描いた映画ともいえる。夜になれば照明は裸電球一つだけの、暗い当時の農家の様子が忍ばれ、又、馬市、かまくら、なもみ、わらべ歌、雪下ろし、馬の代掻き、村祭、などの東北の土俗が丹念に描かれていて飽きない。尚、弟の見送りで、汽車と並走しながら馬上颯爽と尾根を駈け抜けるのは代役の老翁だ。この一場は作品中最も美しいと思う。当時、馬は容易には運べず、野外撮影地毎に別の馬が演じ、のべ総十五、六頭で演じているという。残念な点。病気の馬が洟汁を流す様子、イネが雪中の青草を採る様子、出産の様子が省略されている。
[ビデオ(邦画)] 8点(2015-02-19 16:55:06)
2.  噂の女 《ネタバレ》 
売春防止法が施行される以前の京都の色街の老舗置屋を舞台に、三つの視点から描かれる。 芸者が芸と売春で接待するという伝統的風俗の楽屋裏と、そこで働く女性の厳しい現実。一人の男性を母と娘で争う骨肉の愛憎劇。実家が置屋であることが原因で結婚が破談となり自殺未遂までした娘が、実家に帰り、母と置屋商売に理解を示して再出発する物語。 女将は密かに若い医者と情誼を通じており、金を出して開業させてやりたいとまで思っている。医者は女将の好意に甘えて交際してきたが、女将の娘が帰ってくると、娘に乗り換えてしまう。女将は娘に嫉妬するが、そのとき、狂言の舞台では、老いらくの恋を揶揄した「枕物狂」が演じられていた。道具立てが凝っている。娘が、母と医者の関係を知り、ひと騒動起るが、結局、医者の底が割れて二人は別れる。この愛憎劇が最大の山場と思うが、割とあっさりと描かれ、精彩を欠く。母にしろ娘にしろ、本当の男のことが好きだったのか疑問が残る。情念が感じられないのだ。どうも用意した素材を活かしきれていないように思える。芸者の一人が病気になるが、これもあっさりと死んでしまう。最大の悲劇なのに涙を流す暇もない。逃げた芸者が戻ってくるが、逃げ出した理由などもよく解らない。死んだ芸者の妹が、父の病気と貧困を理由にここで働かせて欲しいと申し出るが、返事は保留されたまま終る。人物の心の深層にまでは立ち入らない姿勢を貫いている。娘が若女将になるという暗示で、希望を持たせて終るが、娘が女将を継ぐと決めたわけではない。全てにおいて、明瞭に描くのを避けているようだ。善悪、正邪、理非、白黒がはっきり決められないのが人間である。女将は世間慣れしているが、医者に対しては愚かである。娘は学があり賢いが、男性には経験不足である。医者は外面は良いが、利己的である。そこが人間の面白さであり魅力である。そういう生の人間を描くのに、置屋はうってつけである。監督は、賢者にも聖人にもなれない人間が愛おしくてたまらないのだろう。あいまいさを残すのが日本流だ。日本映画の真髄を見た気がする。
[DVD(邦画)] 7点(2015-02-07 03:07:28)
3.  影の車 《ネタバレ》 
母の愛情を独占したい幼少期に、母の元へ通ってくる愛人がいて、二人の艶場を目撃してしまったとしたら、その愛人が憎くてたまらないだろう。六歳のときにその愛人を実際に殺してしまった男の悲劇の物語である。大人になって妻帯者の浜島は、幼馴染で今は未亡人の泰子と再会して、不倫関係に発展していくが、泰子には六歳になる男児がいた。いつまでも懐かない男児に対して浜島は、自分に殺意を持っているのでないかと疑念を抱く。男児の気持ちは痛いほどわかるのだ。毒入り団子を誤食したり、居眠り中にガスが漏洩する事件が発生すると、浜島は恐怖におののき、泰子の家に近づかなくなった。事情を知った泰子に勘違いだと諭され、宿泊した夜に事件が突発した。便所から出た浜島の前に斧を持った男児が出現、慌てた浜島は男児の首を絞めてしまう。刑事から、「まだ六歳の頑是ない子に殺意などあるはずがない」と詰難されると、浜島は「あるんだ!」と封印した忌まわしい過去を告白する。 人間の心理を鋭く抉った深みのある作品だが、共感はしなかった。 普通の人は、懐かない子供はいるが、殺意までは抱かないだろうと考える。けれども、浜島は実際に殺人を犯しているので、恐ろしくて仕方がない。罪の意識が妄想を生み、惑乱したのだろう。しかし、例えば六歳の男児が自分に対して殺意を抱いているとして、恐怖を覚えるだろうか。鉈や斧やナイフを自由に操る、田舎育ちの子供でない限り恐くはないだろう。やはり設定に無理があるのだ。 映画は二人の日常生活を平坦に描くが、特に前半は非常に退屈した。二人の仕事ぶりと不倫に到る感傷的通俗劇が丁寧に描かれるのは良いが、事件らしきものが何も起こらないのだ。短編映画を長編映画にした弊害である。浜島の妻が夫の浮気に気づくとか、泰子が保険金殺人などに関わるとか、より複雑な構想が望まれる。また、殺人は未遂に終わるので悲劇性が薄い。 原題は「潜在光景」で、「影の車」は「潜在光線」の収録された短編集の題名だからややこしい。影の車って何だろうと、ずっと考えていた。
[DVD(邦画)] 6点(2015-02-06 13:17:39)
4.  戦場のメリークリスマス 《ネタバレ》 
奇妙な味わいの映画だ。捕虜体験者で原作者の分身たるロレンスよりも、セリアズの心理描写に重きが置かれている。彼は障害者の弟を学校のいじめから守ってやれずに見棄てたという罪悪感に苦しんでいた。美しい声を持つ弟は歌を唄わなくなってしまった。それで結婚もせず、戦争が始まると志願し、積極的に危険な任務に身を投じてきた。一方、所長の与野井も同志と誓った226事件の蹶起に参加できず、仲間を裏切ったという負い目に苛まれていた。主義も主張も立場も文化も違うが、共に心の暗渠を持ち、死に場所を求めていた二人が戦場で邂逅した時、やがて惹かれあうのは当然のことだった。魅かれあうのにもう一つ男色という要素もある。共に美青年なのだ。映画冒頭に発生する朝鮮人軍属の男色騒動がそれを示唆している。 俘虜が与野井に殺されそうになったとき、セリアズは彼に接吻して錯乱させ、結果的に俘虜を救った。セリアズは弟は救えなかったが、俘虜を救えたことに満悦し、夢の中で弟の歌を聞きつつ、矜持のうちに死んでいった。与野井はセリアズへの愛憐に堪えず、密かに形見として髪を持ち帰る。そんな与野井も戦後、処刑場の露と消える運命だった。 原軍曹は蒙昧で粗暴な男だが、諧謔を解し、どこか憎めないところがある。自らをサンタクロースになぞらえ、窮地のロレンスとセリアズを救ったことがあった。戦後、戦犯となり、明日処刑という日、ロレンスが訪ねて来た。「あなたは犠牲者だ」と慰めるロレンスに原は、「あのクリスマスのことを覚えているか?」と尋ね、「メリークリスマス、ミスター・ロレンス」と笑顔で言った。彼は訴追に対する弁解は一切せず、苛酷な運命を受忍した。ロレンスは原の死を超越した、凛とした人間性に感動を覚える。軍人としての皮を剥けば、人間味あふれる人物なのだ。戦争がなければ良き友人であったものを。 戦場で憎しみ合う敵同士でありながら、原とローレンスの間に芽生えた友情こそが奇跡なのだ。セリアズと与野井の敵同士で交した接吻こそが奇跡なのだ。それが人間の本来の美しい姿なのだ。神様のくれた奇跡、それが戦場のメリークリスマスだ。戦闘場面を一切描かずに、戦争の愚かさと人間の尊厳と愛と死を審美的に謳いあげた小粋な作品である。演技に難があるのが残念。
[映画館(邦画)] 7点(2015-01-30 03:46:40)(良:2票)
5.  古都(1963) 《ネタバレ》 
近代化によって変化する京の伝統や町屋の風景など、「失われゆく美」に対する愛惜の情を数奇な運命を辿る双子に託して表現している。 美を象徴するのは双子姉妹。別々に育った二人だが、共に実の両親を知らない。これは切れた凧のように運命に抗うことができないことを意味している。 千重子は呉服問屋の一人娘として両親の寵愛を受け、何不自由なく育った。自分が捨て子だったのを知り、両親の云う事には何でも従う覚悟がある。父親から幼馴染の真一の兄・竜介を婿養子にする話を持ちかけられると結婚をすんなり承諾する。自立していないのではなく、受容的な性質なのだ。意志が弱いのではなく、番頭に帳簿を質すなど、芯の強さは持っている。相手が自分のことを愛しており、両親も勧める結婚ならば、反対する理由などない。その胸底には、昔ながらの商売の伝統を守ろうとする決意がある。 苗子は両親の元で育てられたが、物心がつく前に両親を亡くして孤児同然の身だ。北山杉の製材所で働き、自活している。彼女は、双子の姉妹・千重子を知って喜ぶが、育ちの違い、身分の違いを自認しており、千重子を「お嬢さん」と呼び、自分の存在が少しでも彼女の幸せに支障をもたらしてはいけないと考えている。だから西陣織職人の秀男から求婚されても断わろうと考えている。何故なら、、秀男は自分に八重子の幻を見ているのであり、万一結婚した場合、自分の存在が八重子の周囲に知られてしまうのを恐れているからだ。その背景には、双子を不吉とする迷信がある。 苗子が八重子を思い遣る気持ち、自分を勘定に入れずに献身的に相手に尽くす気持ちこそが「失われゆく美」だ。苗子が望んだのは、八重子の呉服屋で共に一夜を過ごすというだけのもの。それも周囲の目を慮って、夜に来て、早朝に帰るという慎重さ。雪の残る町屋を早足で去っていく苗子の姿こそ原作者の理想の姿で、「謙譲の美」とでも呼ぶべきか。幻想的ですらある。 音楽も映像も端麗で、四季を通じての古都の美を堪能できる秀作である。 ただし、スッポン料理は若い男女が食べるものではなく、不似合いだ。老年だった原作者の趣味を持ち込んだだけである。
[DVD(邦画)] 9点(2014-12-13 15:34:38)
6.  幕末残酷物語 《ネタバレ》 
田舎から上京した柔弱な郷士青年・江波三郎が、新選組にあこがれて入隊するも、苛烈な規律で隊士を統率し、違反者は容赦なく殺戮するという恐怖の支配する閉塞的組織の中で徐々に人間性を失っていく様子を描く物語。と、視聴中思って疑わなかった。血を見ただけで卒倒していた江波が自ら切腹の介錯を申し出るようになり、又女中さととの恋愛も悲恋に終り、悲劇を盛り上げるものと信じていた。しかし最後に思わぬどんでん返しがあった。江波は近藤派に殺された、新選組初代隊長・芹沢鴨の甥で、復讐を誓って新撰組にもぐりこんだのだ。しかも坂本龍馬の海援隊の間諜でもあった。こうなると話が違ってくる。現実主義的手法で殺戮を繰り返す侍達の人間性を冷徹に描く筈が、単なる復讐譚に堕してしまうのだ。物語の軸がぶれており、失望感がぬぐえきれない。 新撰組の鉄の掟に辟易しながらも、心情的に近藤から離れられない沖田総司の葛藤の描写も全くの無駄に終る。沖田は江波のまだ汚れていない純粋な精神を見込んで新撰組に入れたのだ。だから江波の変化を意外に思うし、新選組の暗黒史である芹沢鴨暗殺の秘密も洩らす。その辺りの両者の微妙な心情変化もよく描けていた。結局のところ、江波の正体が間諜で近藤を狙う刺客であるという設定が全てを台無しにした。近藤を狙う機会はいくらもあったのに、何もしなかったという矛盾もある。舞台のほとんどが新撰組の屯所の中だけなのも不満だ。不逞浪人を取り締まる外でこそ新撰組の面目躍如があるからだ。途中までは非常に良いのに最後でしくじった作品である。白塗りのない大川橋蔵が見れる貴重な作品だが、興行面では失敗だったとのこと。
[DVD(邦画)] 7点(2014-12-13 01:50:01)
7.  愛と死をみつめて 《ネタバレ》 
軟骨肉腫という難病に冒され、21歳で散った女性ミコと彼女を支えた恋人マコの悲恋の物語。二人は病院で出逢い、淡い恋心を抱き合い、二年間文通が続いた。病気が悪化したミコがマコに別れに手紙を出したのは、相手を思い遣ってのことであり、それを読んで激怒したマコが上京して真意をただしたのは純粋であればこそだ。この一件があって、二人の絆は深まった。しかし若き生命を燃やして愛し合う二人を病気が無残にも引き裂いていく。やる瀬なくも暗鬱たる内容だが、何と言っても特筆すべきは病魔の恐ろしさで、 怖じ気がひしひしと胸に迫り、気鬱になった。肉腫が眼球と鼻骨の間に出来、何度か手術を受けるが肉腫の浸潤は止まず、それが頭蓋骨の底部に広がらないように、左眼と左頬骨、上顎の左半分を摘出する外科手術が必要になる。これは左の顔のほぼを半分を失うことを意味する。手術が成功しても、2年生存率3割程度、5年生存率ゼロに近いという厳しさだ。女性が顔半分を失うのはどんなに辛いことだろうか。想像を絶する。自分の身に起ったと考えるだけでぞっとする。この激烈たる悲劇性が、万人の心を打つ要因となっているのは皮肉なことだ。彼女が自殺を考えたのも無理からぬことだ。恋人の前では美しく居たいという気持ちは痛いほど分かる。いっそ一緒に死んでくれたらと、思いつめる気持ちも理解できる。しかしマコは自殺を断固否定し、ミコに最後まで病気と戦うように諄諄と説得する。情に流されない立派な態度だ。これで二人の絆の強さは決定的となった。だから彼女は死を受け入れることができた。死を覚悟し、身の回りの整理をする為に人形を燃やすときの静穏な顔は神々しい。。観葉植物を老患者に譲る心根の優しさにも感じ入る。彼女は、この世に恨みや未練を残して死に赴いたのではない。十分に生き、愛し愛されたという充足感に抱かれながら永眠したと思う。力を尽くした生き方が胸を打つのだ。老患者の「わしが変わって死にたかった」という絶叫は本心だろう。乙女の死は悲痛だ。主演女優の熱演は認めるが、関西弁はなっていなかった。ミコを脅して、化け物扱いした女優の演技が光っていた。憎まれ役は必要だ。原作を読んで映画化を熱望したという吉永小百合。彼女が映画撮影の合間を縫ってミコの実家を訪れると、両親と妹の歓待を受け、請われてミコの着物を着て、丸一日彼女の代りをして過ごしたという逸話が残されている。 
[DVD(邦画)] 9点(2014-12-12 03:45:06)
8.  ひろしま(1953) 《ネタバレ》 
原子爆弾によって罹災した広島の惨状を描く大作。原爆が投下された日の惨劇を群像劇で描くのみならず、原爆症や差別、戦災孤児、風化など様々な問題を盛り込んでいる。三十分続く原爆投下直後の被災地の様子や人々の惨状の映像は文句なく素晴らしい。あの日を再現したいという情熱が伝わってくる。熱風で全身火傷を負い、蓬髪弊衣で逃避場所を求めてさまよい歩く異様な人々の群れ。焼け跡に立ち、泣いて母を呼ぶ幼児。建物の下敷きとなり、最後の声を出して助けを求める生徒。下敷きの人を助け出そうとしても果たせず、生きながら炎に焼かれる人。川に逃避したものの、力尽きて流れに呑み込まれる先生と女学生。重傷者でごった返し、うめき声と嬌声の入り乱れる臨時病院の様子。累々と横たわる死体と焼かれる死体。ありとあらゆる阿鼻叫喚の地獄絵が再現されている。場所、建物も、広島城、学校、川、橋、銀行、電車、防火水槽、埠頭、似島とひと通り押えてある。時代を考慮して特撮の拙さには目をつぶろう。子供たちの生硬な台詞回しも置くとして、彼等の体当たりの演技は評価できる。特に、延数万人を動員したという群集場面は圧巻である。ただ有名な、腕の皮膚が剥がれて布のように垂れ下がった様子や体に多数の硝子片の刺さった負傷者の描写が無いのが残念だ。被爆者は差別され、嫌われるので隠れるように暮らしているのはその通りと思うが、戦後八年にして既に記憶の風化が著しいとは思わなかった。「広島の恐ろしさとあの非人道的なことを先ず、広島の人に知ってもらいたい」と生徒が訴えている。1952年までのGHQ統治下では原爆の報道規制が敷かれていたことと、急激な人口流入が原因だろう。問題なのは、製作者側の政治、思想が混入していることだ。原爆を投下した爆撃機の添乗員の手記と、日本人が有色人種だから原爆を落とされたというドイツ人の手記を紹介し、警察予備隊が創設されたからまた戦争が始まるとの危惧を伝え、朝鮮戦争の特需で砲弾を造った軍事産業への批判、戦争遂行を優先して被災者を棄民扱いしたとして軍部批判を行っている。それで大手映画会社の配給を受けられず、幻の映画となってしまった。余計な事は排して、惨事を描くことに特化すれば良かったのだ。何も語らずとも、惨劇は雄弁に語るものだ。最終場面で大勢の死者が起上がり、訴えかけてくる。演出手法としては斬新だが、演技と演出が洗練されていない。
[DVD(字幕)] 8点(2014-12-11 21:30:44)(良:2票)
9.  小さいおうち 《ネタバレ》 
女中タキが、奉公先の平井家の時子夫人と、平井の会社の若手社員である板倉の不倫を目撃する話。徴兵検査丙種合格だった板倉にも召集令状が届き、時子が会いに行くのをタキが世間に関係が知れるからと止める。その代わり自分が手紙を届けるからと手紙を書かせるが、届けなかった。その後、タキは田舎に帰り、平井夫婦は空襲で鬼籍に入る。満州事変、支那事変、大東亜戦争と戦争が拡大しても、戦争なんてどこか他人事だった時子とタキの明るい暮らしぶりに新鮮味がある。この暮らしが戦争の拡大により崩壊していく様子を描き、反戦の意を伝えている。但し、低予算の為、当時の東京の様子は写真以外、一切出て来ない。空襲もおもちゃによる特撮で、セットも最小限。こじんまりとした映画だ。タキは時子への贖罪のためか、生涯結婚しなかった。そして、自分は長生きし過ぎたと号泣する。悲しい物語だが、感涙を催すほどの感動はなかった。理由の第一は、タキの不倫の理由が不明なことだ。子供に恵まれ、何不自由ない暮らしをして、夫に不満があるわけでもなく、板倉が美青年でもなく、人妻の理性を狂わすほどの漁色家でもない。不倫に走る必然性がないのだ。時子が板倉にどうしようもなく魅かれる理由を描かない限り、観客は時子に同情できないだろう。次に、タキの手紙の秘密だが、これには重要な意味が無いと思う。タキが板倉に手紙を渡そうが、渡さなかろうが、板倉は出征したし、時子は爆死した。板倉は翌日平井家を訪れているので、最後の別れも果たしている。手紙の内容もただ来てくださいという至極単純なのもの。手紙は秘密を解く重要な品目のように扱われているが、実は大勢に影響を及ぼさない程度のものでしかない。完全な肩透かしである。従って、タキが生涯結婚しなかった理由に成りえないのである。このような秘密を演出する場合、渡さなかった所為で誰かの人生が大きく変わるとか、誰かが非常な不幸に陥るというような展開にしないと均衡が取れない。板倉が「僕が死ぬとしたら、タキちゃんと奥さんを守るためだからね」とタキを抱きしめるが、これは頂けない。当時の人は決してこのような直接的な物言いはしないと思うし、タキと板倉の間に恋愛感情があったと誤解される恐れがあるからだ。タキが、板倉が描いた赤い屋根の家の絵を所有していた由来が描かれていないのも不親切だ。戦争批判を含んだ“毛色の変わった不倫劇”で終っている。
[DVD(字幕)] 6点(2014-12-05 23:39:59)(良:1票)
10.  千年女優 《ネタバレ》 
三十年前に女優を引退した藤原千代子が取材に応じ、過去を振り返る物語。初恋の相手であり、女優となる機縁となった、鍵の君への一途な恋が語られる。回想場面に立花と井田が登場するのが特徴で、中盤からは、井田は役の人物にもなるという斬新な演出。戦国時代からSFまでを演じたので千年女優。主題は一貫して千代子が鍵の君を追いかけること。残念なのは、千代子の目に輝きがなく、顔に生気も感じられず、主人公に魅力が無ければ興味は半減だ。彼女が何故あそこまで鍵の君を一途に思い続けるのかも不明だ。彼女が鍵の君に助けられる等の演出が欲しかった。彼女は類型行動を繰り返し、精神的にも成長しない。何度も地震が起きたり、土蔵の絵画が残ったり、特高が鍵の君の手紙を持っていたりと不自然な点もある。表面だけ追っても理解できない。鍵は、鍵の君の絵画道具の入った鞄の鍵で、これは千代子も承知だ。鍵の君は特高の拷問で死んでおり、彼女は幻を追っていたことになる。追いかけることは、あこがれに向かっていることで、女優であることの象徴。鍵があることで女優でいられた。千代子に恋の呪いをかける老婆はもう一人の千代子。千代子は映画の中で虚構の生を生き、虚構の恋をする。一種の輪廻転生で、それを客観的に見ている自分が老婆。自分に永遠に女優でいる呪いをかけた。だから千代子を生まれる前から知っており、憎くてたまらず、いとおしくてたまらない。鍵をなくして一時呪いの効力は失せたが、鍵が戻り、女優として再生し、撮影途中で投げ出したSF映画を脳内で完成させる。「彼を追いかけている自分が好き」は、女優である自分が好きという意味。最後のロケットがワープ航法で消える場面は、現実での死であり、女優としての輪廻転生からの解脱だ。輪廻転生は随所に出て来る蓮の花で示唆され、ロケット基地も蓮の花の形をしている。劇中、監督が言う。「観客も女優も適当に嘘をおりまぜて乗せてやるんだよ」これは千代子にも当てはまることで、最高の演技をするために、一途な恋を自分自身に演じてみせていた。鍵の君への想いが演技の糧だった。彼女は鍵の正体を知っていたし、鍵の君がこの世にいないことも薄々気づいていた。が、自分に呪いをかけて、永遠に恋焦がれるよう、すなわち女優でいられるよう暗示にかけた。映画も女優も嘘、すなわち虚構である。死ぬまで女優でいることの素晴らしさ。映画愛の詰まった作品だ。 
[DVD(邦画)] 7点(2014-11-21 23:56:01)
11.  潮騒(1964) 《ネタバレ》 
原作は牧歌的な島を舞台に、少年と少女とに芽生えた恋とその成就を抒情的に描いた作品。裸になって焚火の火を飛び越える行為は、文明という皮相の衣を脱ぎ棄て、人間の原初の姿に立ち還ること。原初の人間として純粋に愛しあうことが最も美しい。二人が漁師と海女という、自然を相手とした生業であったからこそ可能だった。その為、映画では、主人公新治と初江の、普段は隠れている未開の自然人としての本来の姿、美質を描くことが重要となる。新治は日焼けした筋骨隆々たる海の男で、島を五周できるほど泳ぎが巧みだ。映画では優男で、とても海の男には見えず,又、泳ぎの巧者という紹介がないため、最高潮場面での嵐の海に飛び込む行為がやや唐突に思える。初江は健康的で純朴、内気だが芯の強さを秘め、野の花を絵に描いたような海女見習いの少女。映画では、申し分のない演技を見せるが、遺憾ながら、少女の美しさの象徴であり、処女を証明する乳房の露出がないので、原作の意図が表現しきれていない。原作では、乳房は欠くべからざる美質として最重要扱いで、詳細に記述する。『それは決して男を知った乳房ではなく、まだやっと綻びかけたばかりで、それが一たん花をひらいたらどんなに美しかろうと思われる胸なのである。薔薇色の蕾をもちあげている小高い一双の丘のあいだには、よく日に灼けた、しかも肌の繊細さと清らかさと一脈の冷たさを失わない、早春の気を漂わせた谷間があった。四肢のととのった発育と歩を合わせて、乳房の育ちも決して遅れをとってはいなかった。が、まだいくばくの固みを帯びたそのふくらみは、今や覚めぎわの眠りにいて、ほんの羽毛の一触、ほんの微風の愛撫で、目をさましそうにも見えるのである』新治が灯台長の家に魚を届けるのは、中学の卒業が困難となった時に、灯台長が学校に陳情して卒業叶ったという恩義があるから。灯台長の娘千代子は、二人の噂を流したことを後悔して、東京から贖罪の手紙を送るが、その心境の変化の理由が明かされない。千代子は顔の劣等感を持っていたとき、新治に美しいと言われて好意を抱くようになったが、東京に戻って島の二人の噂を聞き、真に彼の幸福を願うようになったのである。映画としての出来は悪くないが、奥行きがない。欲望や醜さも描いてこそ、真の人間の美しさが見える。恋愛を魅せる青春映画としては合格だが、人間の真の姿を描く芸術映画としては物足りない。 
[DVD(邦画)] 6点(2014-11-02 14:25:34)(良:1票)
12.  絶対の愛 《ネタバレ》 
恋愛倦怠期にさしかかった恋人同士、ジウとセヒの物語。セヒは、恋人のつれない態度に疑心暗鬼となり、彼が自分に飽きてしまったのではないかと深く憂慮し、起死回生の策として、何も告げずに行方をくらまし、顔を整形手術し、別人スェヒとして恋人の前に姿を現した。スェヒの期待した通りに事は進んで二人は恋人関係になるが、ジウがまだセヒを愛していることが発覚し、過去の自分に嫉妬した彼女は、自分はセヒだと正体を告げる。驚愕したジウは惑乱し、錯綜の果てに、自分も整形して別人になろうと失踪する。ジウを一心不乱に探すスェヒだが、ジウの姿は見え隠れするものの、本人には出会えない。そんな中、ジウらしき男が交通事故に遭って死亡する。錯乱状態に陥ったスェヒは、整形外科医の勧めで、再度整形手術を受けて別人になろうとする。 原題は「TIME」。どんなに深く愛し合った恋人同士でも、時の経過と共に恋の新鮮さは減じてゆくが、それを潔しよしとせず、別人になることで愛情を取り戻そうという話。現実には元恋人であれば、いくら顔を変えても、声や口調が同じならすぐに本人とばれてしまう。特に房事での艶声は変えられないだろう。映画では、掌を合せることで相手を確認しようとしているが、まどろこしい。ちょうど小道具に使えそうな掌の彫刻があったから、思いついた発想だろう。掌は温みがあり、恋人の暗喩として最適である。その掌の彫刻が、満ち潮で海に半ば浸かっている景色で、恋の終わりをを表現している。対照的に、セヒが過去の自分と別れを決意する場面では、自分の写真を足で踏みつける。大木をジウとスェヒが蹴りつける場面が二度出て来るが、大木は年輪を重ねることから時間の象徴であり、二人が時間を憾む気持ちを表現している。小道具の使いかたは巧みで、映像表現技法の冴えはみられるものの、あまりにも現実離れした話なので、心は動かない。こういった内容の話であれば、時代を未来にし、整形して超絶美人に変貌するような設定にすれば良い。それなら誰もが納得し、興味が湧くだろう。物語は冒頭と最後がつながる円環構造となっているが、意味がない。ちょっとした仕掛けで観客を煙に巻こうとしただけかもしれない。時間が円環することと、作品の主題とが結びつかないからだ。
[DVD(字幕)] 6点(2014-10-29 20:18:41)(良:1票)
13.   《ネタバレ》 
源氏物語の若紫巻に少女を略取し、理想の女性に育てて妻とする話があるが、それの老人版。南方浄土をめざす補陀落渡海も連想させる。弓は曲線で女性、矢は直線で男性器及び男性、弓矢で夫婦和合の象徴となる。弓は、昼は少女の守護をし、夜は音楽を奏でて少女を慰撫する。弓占いは、少女が神性の宿る巫女であり、同時に少女が老人に全幅の信頼を置いていることの証しだ。 船は仏画が描かれ、いわば神殿である。絶海にあるのは俗世間と隔絶する意味と水の浄化作用が必要なため。少女が大人になるには十年の歳月が必要だが、同時に水による浄化も必要。 老人の祈願は聖少女と夫婦になることだが、その本質は若さを取り戻したいという願望。若さとは永遠の命のこと。 老人は日々少女を慈しみ育て、結婚の日を心待ちにしていた。が、思わぬ邪魔立てが入る。少女が釣客の青年に恋をし、青年も少女を連れて行くという。老人は青年を射殺そうとするが、少女が身を挺して庇う。諦観した老人は自死を図るが、それに気づいた少女に助けられる。老人の純粋な愛を知った少女は老人との結婚を決断する。 小舟で結婚の儀式が執行される。老人は天に矢を放ち、海中に身を投じる。永遠の命を得るには肉体は滅びなくてはならない。老人の霊魂は天上に昇り、矢と融合して小舟に還ってきた。少女はその霊魂と交合し、初夜を終える。処女で無くなった少女は神性を失い、俗世間に帰ってゆく。そこで新しい人生が始まるのだ。 多義的解釈のできる寓話に満ちた内容で、現代の神話である。永遠の若さを求めるのは古くからの人類の欲望だ。それを監督は「ピンと張った糸には強さと美しい音色がある。死ぬまで弓のように生きていたい」と表現する。神話といってもきれいごとばかりではない。老人は決して聖人ではない。嫉妬深く、暦をごまかし、青年を殺そうとし、自死の時もナイフを隠して、苦しさのあまり綱を切断しようとしたことを少女に分からないようにする。少女も排尿姿をさらけ出す。純粋で美しいな部分も、利己主義で醜い部分も。清濁併せ持つのが人間の本来の姿だ。老人が本来の姿をさらけ出すことで、思いが生も死も超越して少女に届き、結婚の願いが叶った。青年の登場は、実は老人の宿願達成には必要だったのだ。青年が少女の両親を探し出す部分は不要だろう。両親がすぐに乗り込んでくる筈だから。相手が老人だけに感情移入はしにくい。 
[DVD(字幕)] 8点(2014-10-28 20:50:18)
14.  大江山酒天童子 《ネタバレ》 
源頼光とその家臣四天王により首を刎ねられた酒天童子の「大江山の鬼退治」伝説が下敷きになっている。酒天童子は鬼ではなく、盗賊の首領となった元近衛武士の橘致忠で、藤原道長に妻なぎさを奪われたことを恨み、復讐に血をたぎらせているという設定。童子は妻が自害しないことを嫌厭し、妻を憎んでいる。彼の手下に鬼や妖術使いがいて、道長となぎさを襲う。狼狽した道長はなぎさを源頼光の妻に下す。ここに童子と頼光の因縁が生まれる。 脚本の方針が優柔不断だ。大江山鬼伝説を換骨奪胎して、復讐に燃える男が悔悛するという真摯な人情物語に加えて、特撮を駆使した妖術の娯楽活劇要素も色濃く残している。ある意味贅沢だが、中途半端感は否めない。人間劇として見ると妖術が邪魔するし、特撮ものとして見ると人間劇が鼻につく。童子と頼光の一騎打ちの決着がつかない上に、悪逆を尽くし謀叛を企てた童子が無罪放免になるなど生ぬるい。鬼と妖術使いを倒すには救世観音から施与された正法の弓矢が必要だが、施与された理由が十分に描かれていない。弓は夢に見た救世観音から唐突に与えられる。童子が悔悟したのは、なぎさの自害を知ったことと、頼光の人品骨柄を見て武士の世の到来を予見したからだが、後者はいかにもとってつけたような理由だ。悪者の道長には何の咎めもない。結局、魅力的な敵役が不在で、勧善懲悪という落とし所を失った物語は迷走せざるを得ない。間諜として乗り込んだ渡辺綱の妹もたいして活躍しない。童子と鬼との淡い恋も描かれるが、蛇足以外の何物でもない。酒天童子の部下が恣意に殺掠行為を働き、統制が取れていないのも気になる。 特撮だが、土蜘蛛と巨牛は見て脱力感がぬぐえなかった。鬼と救世観音の場面は見応えあった。俳優陣はみな凛々しく、達者な演技を見せていたが、童子役の俳優が役にしては老けていたのが残念だった。往年の役者を総覧するにはもってこいの映画だ。
[地上波(邦画)] 6点(2014-09-20 12:26:12)
15.  ウルトラQ ザ・ムービー 星の伝説 《ネタバレ》 
日本各地に残る浦島伝説、羽衣伝説、竹取伝説を下敷きにして、宇宙人と怪獣を登場させ、自然破壊や公害等で地球を毀損する現代人に警鐘を鳴らす内容である。宇宙人が、日本の原人ともいうべき海人族を導き、宇宙人が遮光器土偶やかぐや姫や羽衣天女の雛型となったという設置。宇宙人は、現代人の遺跡破壊や行き過ぎたリゾート開発に瞋り、怪獣を使って破壊行動を行った後、海人族の末裔を伴い宇宙船で地球を脱出した。宇宙船は「ノアの方舟」で、行く先は「常世の国」の理想郷だ。内容から、観客が宇宙船に乗った人々を羨ましいと思わなければ成功とはいえないだろう。実際は、全く羨ましさを感じなかった。宇宙人は、意に染まない人間を抹殺する酷薄な殺人鬼に過ぎないし、海人族は能面のように不気味で生彩がなく、人間らしさに欠けている。自然を心から愛し、仁徳に優れ、善行をなす、理想的な人間として描けば印象は違っただろう。慈悲深い宗教指導者のような描き方でも共感できただろう。宇宙人も海人も薄気味悪いので同調できないのだ。目玉であるべき肝腎の怪獣が添え物扱いでは、ウルトラQの名前が泣く。ウルトラQ・シリーズは、怪獣番組の嚆矢で、怪獣を魅せることで爆発的人気を獲得し、次のウルトラマン・シリーズに繋がった。本作品で、怪獣の出番はほんの顔見世程度でしかなく、民家を少し破壊して早々に退出する。登場する必然性も希薄で、天変地異でも代替え可能だ。又、怪獣の造詣に魅力が無いことも申し添えておく。怪獣に対する愛情、思い入れが足りないのは明らか。「怪獣を中心に据えた物語」という基本概念を尊重すべきだった。宇宙人の造詣もお粗末だ。遮光器土偶は宇宙服に似ているという発想から、宇宙人の姿を遮光器土偶そのものとし、もう一つの金属質の形態も、取り立てて見映のするものではない。最後まで、彼女の真意や苦悩は伝わらなかった。目指しているもの、理想としている姿が不得要領なのだ。地球を捨てれば解決ということでもあるまい。独特の角度、構図、移動撮影、照明等の凝った演出が堪能できるのが、この映画最大の佳処だ。建物をゆがめたり、構図を奇妙な形に切り取ったり、隠微で乾いた雰囲気を出す演出が達者なのだ。竹取物語の輝く竹にちなんで、竹林の地中から照明を放射する映像は脳裏に焼き付いている。ただ斬新だった演出手法も、今となっては尋常一様のものでしかなく、これは前衛芸術の宿命だ。
[地上波(邦画)] 6点(2014-09-18 01:07:43)
16.  うつせみ 《ネタバレ》 
無断で留守宅に住みつく男が主人公。原題の「空家」は心の空虚を意味する。男は社会との接点を持たない。その象徴として彼は“無言”。彼は留守宅に侵入すると、音楽をかけ、洗濯をし、料理を作り、風呂に入り、寝る。人が居ないと寛げるのだ。壊れものがあれば修理する。これは男に“癒す力”があることの象徴。ある家で、心に空家を持つ女と出逢い、一緒に行動するようになる。男と居ることで女は癒される。始めは言葉を失っていたが、最後は言葉を取り戻す。愛の言葉だ。英題の「3-Iron」はゴルフクラブの3番アイアン。低い弾道で長距離を飛ばせるが、扱いが難しい。この映画の隠れた命題は「暴力」だ。3番アイアンはその象徴。クラブは護身用、凶器にもなる。この世に暴力はなくならない。女が心を喪失したのも夫の暴力による。ボクシングも一種の暴力で、男が修理した子供用ピストルも使い方次第で暴力となる。警察の取り調べでも暴力が横行する。男は護身用としてクラブを持ち、常に技を磨いている。心の防御を固めていたのだ。が、時には凶器としても使われる。男が女の夫と刑事に、夫が男に痛打を加えた。暴力の危険性を知っている女は男にゴルフの練習を辞めさせようと邪魔をする。しかし、男の誤打した球が車のフロントガラスに当って事故が起る。落ち込む男。今度は女が癒す番となり、二人の心は接近した。冒頭の揺れるゴルフネット越しの女神像は、暴行される女を表現する。洗濯物を手洗いするのは、洗濯機の音や動きが暴力的だから。家庭には温かみが必要だ。が、実際には諍いや暴力が絶えない。だから男は留守にしか入り込めない。長椅子のある家は夫婦仲が良い。温かみのある家庭だ。だから、女も自然に入っていけたし、夫婦も受け容れた。あの家は「理想の家」の象徴である。世の中が理想の家になれば男にも住む場所ができる。暴力のある家に入るには、不可視になるしかない。男はその術を身につけ、夫には見えない人物となり、女の家に侵入した。そして二人は結ばれた。お互いが相手の心の家に住みついたので、二人合わせても体重はゼロだ。恋愛の姿を借りて、暴力ある社会を批判した眩い幻想譚。その奇想と整合の取れた脚本、映像の美しさには瞠目する。消極的な解決策に異論もあるが、口にするのは無粋だ。雰囲気を楽しめばよい。男が納棺士の技術を持つ。女がアナログ体重計を操作する。この二点は不要と感じた。
[DVD(字幕)] 8点(2014-09-13 05:39:42)(良:1票)
17.  綴方教室 《ネタバレ》 
小学校の女子児童の作文が原作という異色作。 貧困にあえぎながらも、明るく懸命に生きていく庶民の姿が清新に描かれる。 綴方とは作文のことだ。先生は、「見たまま、思ったままを正直に、一番頭に残っていることを自由にのんびりと書け」と指導する。写生文の勧めだ。それは正子の、横着者だが可愛い末弟、弟との英語ごっこ、弟との胡瓜の取り合い、鶏をさばく、立ち往生する馬車、道端の団子売り等の文に結実する。しかし、それだけでは「良い作文」にすぎない。原作が優れているのは、豊かな物語性を包容していることだ。 裁判所からの立ち退き命令が、実は家賃催促にすぎなかった。 兎をもらった作文が、思いも寄らぬ筆禍事件を引き起こし、父親が失業の危機に陥る。 友達が母親と田舎に行く話を羨んでいると、実際は離婚で帰るのだった。 自転車が盗まれたことが、父親がブリキ職人を辞め、日雇い人夫になることに繋がる。 芸者に売られていく娘を目撃するが、それが我が身にも降かかりそうになる。 父親が仕事にあぶれていると仕事が飛び込んできて、喜び勇んで出掛けて行ったが、仲介人に騙されて給与が貰えず、泥酔して帰ってくる。 このように、一方ならず劇的なのだ。貧困の悲哀を描いても明るさを失わないのは、人が良すぎて世渡り下手だが、妻子思いの父親の存在が大きい。どこか可笑しくて温かみのある、愛すべき人物なのだ。 正子にとって貧乏は特別なものではなく、日常だ。だからありのままに描いた。貧乏故に意外な出来事や幸不幸が起りやすい。それが文章に起伏をもたらし、期せずして物語性をもつに到った。貧乏も、子供の明澄な眼と感性を通じて文章化されると、瑞々しい抒情性を持ったものになる。一種の奇跡だ。その作文に目を付けた監督の感性が素晴らしい。 冒頭、カメラは、荒川を映し、明るく歌を唄って下校する子供達の姿を追い、あばら家集落に消えるを見せ、明るくはしゃぐ広子の様子を捉え、広子の長屋の入口にたどり着く。観客に映画の世界観を端的に表出して見せる、傑出した導入部だ。日常をそのまま切り取ったような自然な演出で、観客を無理に感動させようとするあざとさとは無縁。長屋のセットも本物とみまがうもの。寔に好ましい。この映画を通じて得た経験が、黒澤明に大きな影響を与えたものと察する。 
[地上波(邦画)] 8点(2014-09-09 18:11:49)
18.  水で書かれた物語 《ネタバレ》 
美しい母親とそれを思慕する息子、近親相姦にも似た母と子の性の物語。銀行に勤める静雄は、実業家である橋本伝蔵の娘ゆみ子との結婚が決まる。だが静雄は乗り気ではない。奔放なゆみ子から婚前交渉を誘われても断る。性に潔癖なのではなく、伝蔵からあてがわれた芸者の女は抱く。そんなとき、伝蔵と静雄の母静香が出ているという封書が机の中に入っていた。同僚のいやがらせだが、思い当たる節があった。若くして病没した静雄の父が存命の頃、伝蔵の家に母が入るのを見たのだ。自分の父親は伝蔵かもしれないという疑念がふと湧いた。母を監視し、最近になって、また伝蔵と関係を持ち始めたことを知った。全てを伝蔵に支配されているような重苦しさに耐えきれなくなった静雄は、伝蔵に疑念をぶつけ、会社を辞め、ゆみ子とも別れ、母に心中を迫る。 物語のほとんどが性にまつわることばかりで戸惑いを覚える。息子にとっては母の「女」の部分は見たくないが、美し過ぎる母親の功罪で、近親相姦に近い感情を抱いてしまう。父親を早くに亡くして、母親の愛情一つで慈しみ育てられたことも影響している。母は、一児の母でありながらも「女」の部分を捨てられない。寡婦の寂しさと、一人息子が家を出た開放感もあり、伝蔵に強引に口説かれると抗うことができなかった。 「水で書かれた物語」とは、すぐに消えゆく儚い物語という意味だろう。これにちなんで水を素材にした演出が多く、効果を上げている。愛欲場面は、白黒の明暗の調子のはっきりとした美しい構図の連続で、女性の裸は見せず、静謐であり、どこか清潔ささえ感じる。逆さに映した構図、鏡に映した構図、女性らもて遊ばれるに幻想場面、水に反射する光の映像など婉美で佳麗だ。だが、主題と映像様式が合っていない。人間の性の感情や情念を描くのではなく、性の観念や感覚を描こうとしている。芸術主義、哲学的なのだ。斬新さは認めるが、際立ってはいない。静雄役の俳優に色気がないことが大きいだろう。美形で無い上に、情念の象徴の髪も短髪だ。この物語は傾城の母と童顔美形の子が演じなければ成立しないと思う。禁忌に触れる甘美さが出せないからだ。むさくるしい男が性に悩んでも絵にならない。性と死が結び付いた最終場面もさほど衝撃的ではない。音楽も退屈だった。商業的に成功するはずもない難しい主題に挑んだ意欲は尊敬できる。
[DVD(邦画)] 6点(2014-09-08 11:00:50)
19.  日本の悲劇(1953) 《ネタバレ》 
随所に実録映像、時事ニュース映像、新聞記事を挿入し、戦後日本の混乱期の世相を伝えている。一家庭が崩壊する姿を描いて、「日本の悲劇」とはいかにも大仰である。その意図は、個人の悲劇を「世の中のせい、政治のせい、戦争のせい」とみなし、個人の不幸の責任を国家が負うべきだと考えているのだろうか。そこまで極端でなくとも、責任の一端は国家や政治にあると訴えたいのだろう。結論から言えば、実録映像等などは一切不要である。戦争未亡人春子一家の悲劇を粛々と描けば、それはそのまま国家批判、世相批判につながるからだ。そもそも個人の不幸と国家を同一には論じられない。 主題は家庭の崩壊である。春子にすれば、戦後の混乱期の中、女手一つで二人の子供を育てるのに死にもの狂いだった。二人を盲愛し、その将来を心配する余り、我武者らに闇屋をやったり、売春めいた行為に走ったり、子供達を義理の弟夫婦にまかせて住み込みで旅館の中居になったり、相場に手を出したり、気が付けば海千山千、世間の裏表を知り尽くした女丈夫になっていた。娘にすれば、闇屋や売春行為などをする母親を到底許せるものではない。また、従兄に強姦された傷心から人を信じることが出来なくなってしまった。一方で不倫相手との逃避行にも惹かれる。息子にすれば、大学には行かせてもらったものの、医師になれる将来性は無く、老医師の養子に入るしかない。母の婚前交渉による妊娠は不潔である。客観的に見れば、母親が二人の子供と別居したことが最大の問題である。これにより二人は母親に見放されたと思い込んでしまった。電話や仕送りでは愛情は伝わらない。膝下において育てることが重要である。二人に去られたことで、生き甲斐を喪失したと感じた母親は咄嗟に鉄道自殺してしまう。娘も息子も生きているのだから、自殺するほどの境遇では無いと感じたので意外だった。同情の念は浮かばなかった。演技は達者なものの、主演女優に魅力がなく、終始退屈に感じた。こうした役柄は同情を引きやすい、可愛い手合いの女優が演じるのがよい。この母親にして娘が美人過ぎる。
[DVD(邦画)] 6点(2014-09-06 17:49:02)
20.  白昼堂々 《ネタバレ》 
女掏摸(すり)が捕まったと思ったら、実は元掏摸が助けたという導入部は興を引く。元掏摸は伝説の箱師の銀三で、女掏摸の親分が綿勝、再会した二人は旧交を温める。廃炭鉱の無人宿舎に掏摸や万引きの常習犯が逃げ込む「泥棒部落」がある。綿勝はそこの首領で、四十人程の組合員を養っている。組合員は炭鉱閉鎖で行き場をなくして仕方なく悪事を働く朝鮮人、記憶喪失者、老人等で、同情の余地がある。綿勝は銀三を仲間に誘い、組合員を率いて大掛かりなデパート万引きを行う。これを追うのが嘗て二人を逮捕し更生させた老刑事森沢。仲間が逮捕された綿勝はデパートの売上を盗むという大勝負に出る。それを嗅ぎ付けた森沢との一騎打ちが最大の佳境。 義理と人情の狭間で悩む銀三の姿が描かれ、痛快な犯罪映画ではない。組合員の悲哀も描かれ、銀三の恋愛、若刑事と女掏摸の恋愛もある。犯罪、喜劇、社会派の入り混じった混合映画だ。犯罪映画としては、犯罪世界を見せる面白みに欠け、痛快さが無い。掏摸は洗練さを欠き、万引きの方法も目新しいものではなかった。社会派としては中途半端である。構成員の人物の掘り下げが浅い。老刑事も喜劇に組み込まれているので立ち位置が微妙である。人情喜劇としても物足りない。笑える場面もあるが、銀三と娘の逸話の“泣き”の比重が大きく、「泣き笑い劇場」になっている。分りやすく言えば、犯罪を背景とした二人の男の友情物語だろう。。 構成は悪くない。最初に魅力的な女掏摸や泥棒部落という奇抜さで興味をもたせ、構成員の哀れみを見せ、中盤から二つの恋愛を交えつつ、二人の友情と老刑事の執念を描き、最終対決に至る。要は均衡と落としどころの問題だ。最終対決は悪くないが、語り継がれるような水準ではなく、もう一工夫か、もう一波乱欲しい。何より森沢が二人の大勝負の相談の会話を立ち聞きするという安易な設定が興味を削ぐ要因となっている。犯罪者と刑事の知恵比べが見たかった。二人が看守から掏った煙草を吸い合う場面は一服の清涼剤だ。
[DVD(邦画)] 7点(2014-09-06 11:49:33)
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