Menu
 > レビュワー
 > なんのかんの さんの口コミ一覧
なんのかんのさんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 2336
性別

表示切替メニュー
レビュー関連 レビュー表示
レビュー表示(投票数)
その他レビュー表示
その他投稿関連 名セリフ・名シーン・小ネタ表示
キャスト・スタッフ名言表示
あらすじ・プロフィール表示
統計関連 製作国別レビュー統計
年代別レビュー統計
好みチェック 好みが近いレビュワー一覧
好みが近いレビュワーより抜粋したお勧め作品一覧
要望関連 作品新規登録 / 変更 要望表示
人物新規登録 / 変更 要望表示
(登録済)作品新規登録表示
(登録済)人物新規登録表示
予約データ 表示
【製作国 : イギリス 抽出】 >> 製作国別レビュー統計
評価順12345678910
投稿日付順12345678910
変更日付順12345678910
>> カレンダー表示
>> 通常表示
1.  オリバー!
フェイギン一党が物語の中心に「やくざな連中」としてあるのに対し、カタギの人たちがその前後で「実直な労働」の世界を群舞で展開している。下町の労働者グループと屋敷町の物売りたちの世界。それが悪の世界よりも見どころになっている。ミュージカル映画で楽しいのは踊りそのものより踊り始めるときの緊迫・日常が非日常に移るスリルだが、下町ではオリバーたちが逃げ込んだ路地裏で女たちがキャベツを盛った籠をえっさえっさとこちらへ運んでくるところ。以下労働のリズムでダンスが繰り広げられ、肉や魚を振り回して配分していたり、地固めやってる男たちやらと楽しい。後半では舞台が屋敷町に移り、まず花売りの一人の朗唱があり、次第にミルク売りやイチゴ売りらと呼び交しあっていく(前半のオリバーを売り歩く雪のシーンの朗唱が思い返された)。ミルク売りの脚が揃って伸ばされ、労働がダンスに変容していく。ダンスはさらに子守たちや窓拭き連中に広がっていく。残念なのは悪の連中にこれに拮抗するだけの魅力がないことで、まさか倫理的判断でそうしてるのではないだろうが、フェイギンに縛り首のキワで生活している緊迫感はなく、どこか「愉快なおじいさん」に傾いている。せっかく悪の魅力を得意にした映画監督なのに、舞台ミュージカルの映画版として仕上げていた。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2014-03-13 09:35:19)
2.  真珠の耳飾りの少女
芸術家にとって実生活の鬱陶しさってのがあって、そういうのに関わらずに芸術世界に没入したいという夢を持つが、その芸術の対象に選んだのがまさに「実生活」の少女だった。調理をしたり洗濯したり、芸術家の家の裏で家を支える実生活の部分。苦悩する芸術家って、とかくつまらないのが多いんだけど、演劇的な誇張に見えてしまうからか。名画を実写で撮っていくっていうのには、独特の面白さがある。描きかけのところとか。色の原材料いろいろ。スカーレット・ヨハンソンってポカーンと口を開け気味にしてて、必ずしも色っぽさに収斂されきらない・まだ色っぽいという以前のあどけなさの魅力も合わせ持っている不思議な味わい(むかしのベルイマン映画の常連だったリヴ・ウルマンの唇とちょっと似ている厚ぼったさ。北欧ならではの質感なのか)。ラストで耳飾りを渡されたときの表情が、単純に一つの感情表現に収斂し切れないのと同じで、よい。時代色を楽しむ映画。
[DVD(字幕)] 6点(2014-03-11 09:52:26)
3.  モーターサイクル・ダイアリーズ
1952年、ほとんど半世紀前という時代の空気は感じられなかったが、演出のせいなのか、そういう風土なのか。旅行者・ゆきずりの「見る人」だったものから、次第に「関わっていく人」に変わっていくのがポイントだろう。それもすぐに「怒り」にはならず、社会の不平等への戸惑いが順々に蓄積して高まっていくところを描いているわけだ。銅山のあたりから、船の後ろに繋がれた舟。そして閉ざされたハンセン病の島へ泳いで渡れることを身を持って証明する「行動する人」になっていく。偉大な革命家の誕生物語という型にはまった伝記ではなく、「見る青年」が「行動する青年」に変貌していく記録として描かれている。繰り返されるダンス。南米万歳と唱えた彼が、なぜキューバへ向かうのかは、それはまた別の話と言うことで。
[DVD(字幕)] 7点(2014-02-15 09:45:25)
4.  運命の逆転
ちょっと前に実際にあった事件もの。当事者がまだ生きてるうちの映画化ってのは、それで盛り上がってたアメリカ人には面白かったでしょう。こういうナマの面白さは映画にとって大事だと思ってるんだが、それを知らなかった異国のものにとっては、疎外感はあります。真実がどんどん分裂していく面白さ、といった「形而上学的」興味を無理に味わうしかない。形而下の楽しみも味わいたかった。金持ちには金持ちなりの不幸があるんだなあ、とは思った。「上流社会の奇人」って独特の世界を造れちゃうからいい。ルートヴィヒのように道楽で城を建てられる。日本にも金持ちがニ笑亭って珍妙な家を作っちゃった話があった。この映画では回想シーンの庭園に虎の子が出てくる。
[映画館(字幕)] 6点(2014-01-06 09:27:02)
5.  いつも2人で
「ああここ来たことある」と不意に思い当たり、つられて当時の自分の周辺までまざまざと思い出されることがある。このシナリオはその感じからヒントを得て膨らませてみたのでは。ヨーロッパを車で移動中の現在の夫婦と並んで過去の彼ら、出会いのとき・アツアツのとき・危機のときの彼らも、ときに追い越したり追い越されたりしながら駅伝のように走っている。その楽しさ。これって広い意味での「意識の流れ」の話に分類されるんじゃないか。A・レネが小難しく『去年マリエンバートで』を作ったのとは違い、S・ドーネンはミュージカル監督の才を生かして洒脱にこしらえた。あちらは小説家ロブ・グリエによる脚本だったが、こちらは間違いなく映画の台本だ(フレデリック・ラファエルって人)。意識の流れって映画向きなんだ。記憶とか妄想の具体化って映画の得意分野。カットが代わると違う世界・違う時代に飛び込んでいるスリルを存分に生かし、過去の記憶に引きずられがちの夫婦の意識の流れを描いた。黒澤明は「映画はカットとカットの間にある」と言ったが、本作なんかその例証。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2013-12-17 09:52:24)
6.  メンフィス・ベル(1990)
『Uボート』の空中版。爆撃機の中だけの狭苦しい「戦場」での青春群像もの。でも結局は「勇敢さ」に収斂されていっちゃう。ヒロイズム讃歌。「戦争は良くないけれども、いろんな階級の人が平等に触れ合えるのはいいことだった」なんて意見に導きそう。カチンときたのは、そばに病院や学校などの民間施設があって誤爆してはいけないからと旋回するとこ。そりゃこのメンフィス・ベルはそうだったのかもしれないけど、そうだとしてもそれはよほど特殊なケースでしょ。東京と違いすぎるじゃん。最近のイスラム圏でも豪快に誤爆しまくってる。フジサンケイグループが絡んでいて(冒頭に「石田ナントカに捧ぐ」と出てのけぞった)ま金を出しただけだろうが、歴史の部分を拡大して全体を美化するあそこの歴史観となら通じ合うものがあっただろう。爆撃機が離陸するときの揺れ具合やバチンバチンというトタンを叩くような音にのみリアリティが感じられた。
[映画館(字幕)] 5点(2013-12-04 09:49:19)
7.  シェルタリング・スカイ
10年目の夫婦の物語であり、戦争の熱狂のあとの物語でもある。もう一度ヒリヒリする時間を持ちたい。いつも空に覆われて、保護されてて、何かと剥き出しで対峙したい。そんな前提で、精神的な疲れから肉体的な病気に至る夫婦の旅になる。彼らには、何らかのリフレッシュか決定的な破局かを期待する旅だった。で旦那は腸チフスという決定的な破局以上のものを手に入れてしまうんだけど、それは同時に愛の再確認の場でもあった、って。字幕のない放浪が続き、砂漠ってのは紫禁城と違い歴史のまったくない場所。でもやはり同じ場所に帰ってくるの。ここを撮りたかったのだろうな、と思わせる。夫婦互いのじらし合いが、ずるずると拡大し大袈裟になっていって、浮気になり、別行動になり、そして…、というドラマ。彼らの空虚感を共有できるかどうかが、感動の分かれ目でしょう。
[映画館(字幕)] 7点(2013-10-23 09:52:42)
8.  グッドナイト&グッドラック
再現ドラマ的で、ニュースフィルムを使った部分の興奮を超えるところはなかったけど、時代の気分は味わえた。それはつまり赤狩り時代の気分であり、後世にとってはこの21世紀初頭の記録になっている(つまり赤狩り時代を検証したくなる社会情勢だったということ)。アメリカ映画はよくテレビ界をテーマにしており、単に映画界のライバルとしてのやっかみを超えて、大衆批判としての意義を持っている。あれは偉い。本作でも、ついにマッカーシーに勝った番組を持ち上げるものの、それもクイズ番組には勝てずゴールデンアワーを追われていくの。
[DVD(字幕)] 6点(2013-10-18 10:02:28)
9.  ジプシーのとき
シュールリアリズムって、欧米の「正統」文化史観からだと「こういうのもありました」と傍系的に見られるけど、もっと広く捉えるとスペインあり南米ありこの東欧ありと、もしかしてそっちのほうが主流なんじゃないか。ごく自然に超能力が描かれる。空缶移動、壁を這い回るスプーン、七面鳥。あの七面鳥が死んでこの一家に不幸がやってくる。主人公も悪の道に入って行っちゃう。盗みに入った家で思わずピアノを弾いてしまうエピソード。空中浮遊もよく出てきたが、あれいい。雨の野を駆け出していくお父さん、合唱が入るところで“まいった”と思いました。民族の力、いうか。ジプシーってなんか遠く離れた東洋の我々にはロマンチックな雰囲気があるが、ヨーロッパ人にとっては、魔法を使う犯罪者のイメージがあるよう。古い推理小説ではよくそんな扱われ方をしてたし、だいたい差別用語になっちゃって、今はロマって言わないといけないんでしょ。ジプシーの扱われた歴史は、たぶんユダヤ人とともにヨーロッパを考えるとき大事なんだろう。主人公の顔が良く、ちょっと頼りなげで、組織の中にいればひょうきんな人気者だけど、外に出るとグレちゃいそうな弱さがある。そこらへんに実感があった。/このころユーゴの映画がよく公開されてて『アーティフィシャル・パラダイス/カルポ・ゴディナ監督』ってのもあった。フリッツ・ラングの東欧での青春時代を描くの。20世紀初頭の演劇や詩やカメラに漬かっていたある階級の雰囲気と、その崩壊の予感が味わい。ラング作品のネタ探し的楽しみもあった。
[映画館(字幕)] 8点(2013-09-17 10:06:19)
10.  英国式庭園殺人事件
いつも「イギリス」を背負ってる監督の長編第1作。典雅と暴力。典雅なものが典雅であり続けるために必要とされる策謀や暴力。上品なものが上品であり続けるための残酷。そういったものへの関心がずっとあるよう。夫はいつも殺される。趣向を大事にする人で、今回は12枚の絵。実物と絵を見比べる楽しみ。絵のなかで探す楽しみ。移動はあまりなかった。食事のテーブルを横に動いたり、あと屋外で少々。庭が奥から晴れていくところなんか、よく撮りました。あの彫像男分からなかったんだけど、実際ああいう人間を雇ってたことが歴史上あったとか。下層階級の視点だったのかもしれない。趣向が先走りしてる気もしたが、この人はその後もずっと趣向を先走らせる姿勢を貫くのだった。
[映画館(字幕)] 6点(2013-08-12 09:27:15)
11.  蝿の王 《ネタバレ》 
原作は「権力とは何ぞや」に迫る小説だが、これはただ「二年間の休暇(十五少年漂流記)」を引っくり返しただけにも思える。20世紀は文明が文明そのもので野蛮になった時代で、文明が非文明に退化して野蛮になったわけじゃない。人間の集団の根源を見せてくれる原作。19世紀の「二年間の休暇」の時代は、権力機構がちゃんと機能すれば秩序正しい2年が送れるという人間の組織性に対する素朴な信頼があったが、20世紀は人間の集団こそが人類の敵だとはっきり分かってきた時代。まるでレジャーを楽しむような青空、青い海。象徴性を持たされた子どもたち。それでも彼らは儀式を必要としだす。「春の祭典」に近い音楽で盛り上げていく。サイモン殺しも怖いけど、ピギー殺しの戯れのような雰囲気が怖い。ラストで兵士が「いったい君たちは何をしてるんだ」と言う。その理性的な言葉を兵士(20世紀の野蛮の代表)が言う皮肉。演出での面白味はあまり感じられなかったが、「手堅い」ってことかもしれない。
[映画館(字幕)] 7点(2013-08-11 09:33:33)
12.  ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ
「ハムレット」に登場する二人の端役、ストーリーの展開のためだけに登場して無意味に殺されていく二人。シェイクスピアの時代はそういうものだったが、20世紀は彼らのような人間こそが主人公になる時代だ。投げたコインがいつも表になってしまう世界。限りなく微少にされていく確率の中にのみ存在し得る世界でもある。この二人からハムレットの悲劇を眺め直してみると、エルシノア城はカフカの城になり、悲劇はブラックユーモアの喜劇に姿を変える。この二人コミで“ローゼンクランツとギルデンスターン”で、どっちがどっちでもいい存在だった。G・オールドマンは作品を通して科学発達史を演じており、もうちょっとで歴史上の発明家として名を残したかもしれないが、王の使い走りに潰されていく。そういう理不尽さ。荘重な死を与えられる主役と、馬鹿馬鹿しく死んでいく小物たち。オールドマンとロスを本作で、コミで覚えたような気がする。さて、これを観たころラップに凝っていて、以下のようなものを作っていた。ローゼンクランツ生まれはフランス?/いやいやスイス?それともドイツ?/マインツ?グラーツ?はたまたリンツ?/どこでもかまわぬ架空の人物』怪しい一座の座長はサターン/操られるはギルデンスターン/芝居の幕が上がった途端/どっこい元へはノーリターン』コイン投げてるローゼンクランツ/確率論など所詮へりくつ/「表」「表」と賭けてまた打つ/馬はお城へ一歩ずつ』一人のせりふを二人で分担/ローゼンクランツ・ギルデンスターン/どちらがブオトコ?どちらが美男?/見分けは困難なんでも半々』たそがれてゆく時は暮れ六つ/狂った王子は何やらブツブツ/気分は鬱屈とにかく憂鬱/何すりゃいいのかローゼンクランツ』何を目にするギルデンスターン/無惨凄惨阿鼻叫喚/人の本性所詮は野蛮/悲劇のもとは一つの王冠』前の王様とっくに成仏/幽霊よりも城こそ怪物/迷い込んだるローゼンクランツ/さながら二人は不思議のアリス』ギルデンスターンどうにも不安/波に揺られて処刑の予感/気分は暗澹将来悲観/こんな人生もういや~ん』もうあと一歩で科学の理屈/見いだし損ねるローゼンクランツ/落下の法則飛行のバランス/発見できずに立たない面子』すちゃらかちゃんちゃん、すちゃらかちゃん。
[映画館(字幕)] 7点(2013-08-07 09:39:20)
13.  2001年宇宙の旅
光の急流が起こるまでは、ほとんどゆっくりした動きが主流。宇宙船は猛スピードで飛んでるのだろうが、背景がないので画面上はゆっくりとした動きに見える。無重力の宇宙船内では、吸着靴のせいで、たどたどしい歩きになる。宇宙空間ではゆっくりとした遊泳になるし、人が走るのは体力保持のランニングぐらい。一番激しい動きは、非常脱出用の爆発で本船へ戻るシーンだろうが、その激しさを宇宙空間の無音が飲み込んでしまう(全体音への配慮が緻密)。死はドラマチックでなく、生命維持装置の直線や、デイジーの歌のスピード低下で表現される。宇宙ステーションの回転に合わせたヨハン・シュトラウスのテンポが、全編に持続している(全体音楽への配慮が効果をあげている映画で、リヒャルト・シュトラウスやリゲティをそこで鳴らすのは考えつきそうだと分かるんだけど、あそこにウィンナ・ワルツを持ってくるのはすこぶる非凡)。この「ゆっくり」で押していった後に光の急流が来る。効果は絶大で、まして本作を初めて見たのはテアトル東京の大画面だったので、脚が攣るぐらい興奮した(ああいう前方への疾走は大画面でより効果が出るよう、『地獄の黙示録』のワルキューレの騎行シーンもテアトル東京で見た最初のときが一番興奮した)。それまでゆっくり慎重に歩んできた「宇宙の旅」が、ここで疾走する。未知のものに立ち会うときの慎重さが、未知のものに呼び込まれていく急流になる。ここでヨーロッパ近世風の部屋になるのが、分からないながら昔はキズに思えたが、彼のほかの映画でもあそこらへんの時代への偏愛が見られ、なにか人類にとって一番いい時代と思ってるのか、それでそこから新人類の誕生を願ってるのか、などと理屈をこじつけてもみた。
[CS・衛星(字幕)] 9点(2013-07-27 09:27:41)
14.  スターダスト(1991)
アイルランドってどこか湿っぽい。イギリスのブラックで乾いたのと手触りが違う。イギリスが人の心をとげとげしく観察するのに対して、人と人との間の空気の感触を大事にするみたい。これなんかぼんやりと心のどこかで主人公が母親かもしれないとうすうす感じてるところがいいんじゃないか。ローズ嬢のロレイン・ビルキントンっての、おそらく主役をやることはないだろうが、覚えといてやろう(そばかすがちらほらしてる文学趣味)。曇った朝に放たれる動物たちのイメージがいい。教会を訪れる象から始まって、うらぶれた幻想味が溢れる。ジミーへの情熱の解放でもあって、さっぱりした感じもある。自嘲と言うと毒々しくなりすぎて、もっと穏やかな気分。こういうのが一番アイルランド的と思っちゃう。
[映画館(字幕)] 6点(2013-07-08 09:18:47)
15.  ゴッホ
群像ものではなく兄弟もの。困った兄さんをとことん尊敬しぬく弟、で彼も兄と同じようにだんだん閉じていき、妻も追い出し、兄の絵だらけの部屋に閉じこもる。徹底した社会への不信。でもこの病む兄弟に対して弟の妻はやたらに食べて健康。彼女がいたからヴィンセントの絵は残ったんだなあ。弟テオは自分の「家庭」よりも、兄との「家族」に拘束されてしまっていたんだ。芸術の狂気の物語でありつつ、現代の投資としての芸術とどこかで対比させていた。カラスがワッと飛び立つとき、麦畑に隠れて合図を待っていたスタッフたちのことを想像してしまってはいけない。
[映画館(字幕)] 6点(2013-05-18 10:26:07)
16.  ナック
ポップだなあ。怒れる若者たちの時代、大人たちの視線を折り込みつつ、老大国イギリスの自意識でもあろうけれど、若者たちを街に走らせる。ベッドを走らせるあたり、イキイキしてる。いつもどこか開いてしまうコインロッカーのドア、コーヒー販売機のボタンで閉まる。あと路地の出入り、とかギャグもいろいろ。この監督アメリカ生まれなのね(たしかJ・アイヴォリーもそう)。根っからの英国人でないことも、この視点に関係しているか。伝統を背負う責任がない。若者たちの子どもっぽさを肯定する空気がある(いや、それこそイギリス的なのかも)。ジョン・バリーのジャズっぽい音楽が(つまり大人っぽいってこと)、若者たちとの間に距離を作ってる。彼らの明るさに対する翳り、この世は無常ですぞ、といった雰囲気。
[映画館(字幕)] 6点(2013-05-11 09:15:32)
17.  ゾンビ大陸 アフリカン
ゾンビ映画最初のころは、なぜ死者が蘇るのかいちいち説明してたよな。化学物質による汚染だったり、特殊な宇宙線の照射だったり、「科学的」な説明が付いていた。そのうち面倒になったのか、見るほうも「そいうのはいいから早くやれ」という無言の圧力を強めたのか、最近は自然現象のように死者が蘇ってくる。ゾンビ映画という世界中で作られるジャンルが一つのシリーズもののように、後続は細部を説明しなくなった。これって映画史的に見て珍しいことなんじゃないか。自然現象となったゾンビ発生は、とうとう人類の故郷アフリカにまで広がった。主人公が白人男性なので、なんか植民地時代の差別観が根底に来るかと思ったが(海岸で襲われるあたりは「人食い土人の島への漂流もの」をほうふつ)別にそうでもなく、今はアフリカなら内戦多発地帯ということで、死体がごろごろしてるのが自然なんだ。昔風のゆっくり歩くゾンビが嬉しく、主人公の車がエンコしたりすると、近所の村人たちが暑さしのぎに散策してるような感じで、ジワジワとやってくるのが風情。グチャグチャドロドロの描写はあるが、全体爽やかなサバンナの風に吹かれていて、腐臭が漂う感じがない。湿度が低い。腐肉をあさる猛獣や猛禽類の存在を思うと、早晩ここのゾンビは絶滅するのではないかと心配だ。
[DVD(字幕)] 5点(2013-05-02 09:45:12)(笑:1票) (良:1票)
18.  ゲット・バック(1991)
60年代のフィルムなんかも最初のうちは折り込んで、「ロング・アンド・ワィンディング・ロード」なんかにベトナム戦争を重ねたりしてたけど後半は面倒臭くなったか。「フール・オン・ザ・ヒル」、変な台に乗ってクルクル回り出したのはちょっと恥ずかしい。初期のイキのよさが今でも新鮮。「アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア」なんか。このころの方が音楽としては純度が高かったのでは。クラシック音楽も歌曲より舞踏曲のほうが純粋に発展していったようなもので、ダンスのバックで鳴ってる音楽だったころの純度ね。「ヘイ・ジュード」は、しっかりやれよ、と友を励ます歌だったのか。ほとんどカタカナで丸覚えしていた彼の歌の、詞のニュアンスを知ることができた。
[映画館(字幕)] 6点(2013-04-26 09:45:40)
19.  落ちた偶像
なんといってもかくれんぼのシーンの怖さ。もう一人がうろうろしてるんだもん。足が見えてたり、ドアが閉まったり、隠れてると思われる部屋へカップルが入って衝立の後ろを覗こうとしたり。大きな家で留守番してる子どもの幻想と通じるものがあります。誰かもう一人いるんです。子どもが夜道を逃げ回るシーンは『第三の男』の二番煎じかと思ったら、こっちが先か(監督のサスペンス3作は、『邪魔者は殺せ』→本作→『第三の男』の順になる)。二つの秘密の板ばさみで、どういう風に嘘をつけばいいか困る実感。子どものいちいちの発言が警察を刺激するところのおかしさ。あるいは紙飛行機を巡るハラハラ。滞空時間が長いんだもん。
[映画館(字幕)] 8点(2013-04-11 09:53:05)
20.  ハムレット(1990)
シェイクスピアものってのは、いわば落語を聞くときの心構えになるわけで、ストーリーは知ってるから、その語り口で芸を見してもらおうじゃねえか、ってとこ。でもこの監督は真面目にストーリーを語っちゃうんだな。でまた、メル・ギブソンが真面目。あの人はイギリス連邦のオーストラリア出身だからか、なんか女王陛下の臣として真面目方向で、英国の国民戯曲に対処しちゃう。移民の国の人たちは、どうも故郷ヨーロッパにコンプレックスが強いらしくて、マックィーンは最後にイプセンやってたし…、国の問題ってよりも、アクション映画出身スターのコンプレックスなのかな。マッドマックスやってた男がハムレットやる面白さを狙えばいいのに、「シェイクスピア役者」の堅苦しい型に入っちゃって演じている。でもやや明るいフーテン的な線を狙ってたか。ラストの決闘でもちょいとオドケを折り込んで軽みを出そうとしてたり。
[映画館(字幕)] 6点(2013-04-09 09:43:40)
全部

■ ヘルプ
© 1997 JTNEWS