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1.  2001年宇宙の旅
光の急流が起こるまでは、ほとんどゆっくりした動きが主流。宇宙船は猛スピードで飛んでるのだろうが、背景がないので画面上はゆっくりとした動きに見える。無重力の宇宙船内では、吸着靴のせいで、たどたどしい歩きになる。宇宙空間ではゆっくりとした遊泳になるし、人が走るのは体力保持のランニングぐらい。一番激しい動きは、非常脱出用の爆発で本船へ戻るシーンだろうが、その激しさを宇宙空間の無音が飲み込んでしまう(全体音への配慮が緻密)。死はドラマチックでなく、生命維持装置の直線や、デイジーの歌のスピード低下で表現される。宇宙ステーションの回転に合わせたヨハン・シュトラウスのテンポが、全編に持続している(全体音楽への配慮が効果をあげている映画で、リヒャルト・シュトラウスやリゲティをそこで鳴らすのは考えつきそうだと分かるんだけど、あそこにウィンナ・ワルツを持ってくるのはすこぶる非凡)。この「ゆっくり」で押していった後に光の急流が来る。効果は絶大で、まして本作を初めて見たのはテアトル東京の大画面だったので、脚が攣るぐらい興奮した(ああいう前方への疾走は大画面でより効果が出るよう、『地獄の黙示録』のワルキューレの騎行シーンもテアトル東京で見た最初のときが一番興奮した)。それまでゆっくり慎重に歩んできた「宇宙の旅」が、ここで疾走する。未知のものに立ち会うときの慎重さが、未知のものに呼び込まれていく急流になる。ここでヨーロッパ近世風の部屋になるのが、分からないながら昔はキズに思えたが、彼のほかの映画でもあそこらへんの時代への偏愛が見られ、なにか人類にとって一番いい時代と思ってるのか、それでそこから新人類の誕生を願ってるのか、などと理屈をこじつけてもみた。
[CS・衛星(字幕)] 9点(2013-07-27 09:27:41)
2.  ニッポン国 古屋敷村
農家の人たちの専門用語って、なんか美しい。「しろみなみ」とか「あんどん穂」とか、嫌なものにもきれいな言葉をつける。そういう言葉たちに満ちた前半の理科の授業も面白いが、本当にいいのは後半、老人たちが語り出してからだ。この映画の忘れ得ぬ場面は、フィルム上に現われるのではなく、人の語りの中から浮かんでくる。わり婆さんの生涯最大のびっくりした話、家訓で熊撃ちをやめた話、景気がよかったころの花火の話。一日かけて町へ売りに行き疲れて帰ってきた後、親子で馬の脚を洗う情景など実際に映画で見たような気になってしまう。これら過去の物語が、みずみずしく現出してくる。語りかける相手を失っていたこういう無数の話が、このフィルムにかろうじて記録され、でもおそらく21世紀の現在は、語り手も含めてすべて消え失せてしまっただろう。花屋さんの作った炭のたてた澄んだ響きも、蚕が桑を食べるささやかな音も。
[映画館(邦画)] 9点(2008-03-11 12:23:09)(良:1票)
3.  にんじん(1932)
意外とシビアなホームドラマ。不幸な家庭というものは厳として存在し、ある子どもにとっては寄宿舎のほうが助かる場合もある、ってこと。母のにんじんに対する態度、特別原因がないだけに怖い(一応夫との間が冷えてから生まれた子どもってことか)。最も緊密な関係のはずの母と子においても「どうもウマが合わない」ということは生じ得るし、家庭は和気あいあいでという理想をあんまり高く掲げるのも、いかがなものか。原因がないんだから、母も改心のしようがなく、それぞれがそれぞれの不幸を守ったまま、父と子の間に光がほの見えるだけで閉じていく。その父と子が正常に相手を呼び合うラストが感動的。「フランソワ…」「お父さん…」。初めて母に反抗するシーンもいい。それまでの仕打ちにはビクともしなかったのに、盗みの疑いで少年の誇りを傷つけられるとこたえるわけ。全体子どもの捉え方が「けなげ」よりも「したたか」で、翌年の『操行ゼロ』やトリュフォーにつながっていくフランスの伝統なんだろう。牧歌調のシーンの美しさ、偽の結婚式後の行進、長く伸びた影、自殺しようとする池、どれも清澄さがあって素晴らしい。祝宴の中で取り残されていく惨めさが、それがあってクッキリする。にんじんがいざロープに首を突っ込んだときの震えの無惨さも見事。日本ではデュヴィヴィエは『望郷』に代表されるセンチメンタルな監督という評価があるが、それだけでもないんだ。
[映画館(字幕)] 8点(2012-10-12 10:09:15)
4.  2ペンスの希望
イタリア映画はこうでなくちゃいけない。叫ぶ・どなる・ののしる・手を広げて近所に吹聴してまわる・すぐぶつ・前屈みになって走り回る。オペラの発声は、あれはリアリズムだったのかもしれないと思わせるほど、全編声を張り上げている。この元気のよさが身上。崖の上の百姓女とのののしり合いのところなんか、別に気が利いたセリフだからと言うわけでもなく笑ってしまう。ほれぼれと「アリア」に聞き入ってしまう感じ。爽快。この元気のよさにすべてを託していこう、って。「神さまが人間をお作りになった以上、なんとか食っていけるんだ」ってね。楽天的過ぎるかもしれないけど、そういう気持ちを奮い立たせたかった時期なんだろうということは、同じ敗戦国としてよく分かる。いろいろな職業変遷、坂を三台ぐらい馬車を押し上げていく勢いのよさ。そして馬車は時代遅れだと、新品同様(!)のバスを共同で買い、これが走り抜けていくシーンのなんとも陽気なこと。ここらへんのドタバタはフェリーニを思わせ、家同士が喧嘩したあと両家の母親が懺悔しているあたりはパゾリーニの寓話を思わせ、全体の民話的語り口にはタヴィアーニを連想させ、イタリアの監督ってみなネオレアレズモから生まれた兄弟なんですね。映画館のフィルム配達。「おい、なんで女が殺されたのか分からんと客が騒いでるぞ」。いつも太陽が照りつけているような陽気さに、ずっとひたっていたくなる映画。
[映画館(字幕)] 8点(2011-07-21 10:08:43)
5.  日本の夜と霧
50年代の共産党分裂騒ぎで傷ついた男と、60年安保闘争で挫折した女の結婚式、いう設定。その「儀式」の設定は、言葉の空疎さで生きてくる。結婚式スピーチの空疎さが、しばしば中山が語る党の公式見解の空疎さに通じ、そのままラストの「演説」の空疎に雪崩れ込む。真摯な問いかけは硬直した言葉で返され、その果てについに問いを遮断する演説に至る。言葉が溢れ返っている映画だが、その言葉たちは互いの理解に向かうのではなく、壁や塀として臆病に建て回されていく。言葉を封じるための言葉の氾濫。これは日本共産党批判の映画ではあるが、日本の政治風土全般の空疎を射抜いているだろう。上の指令で方針がコロコロ転換し、火炎瓶闘争は歌声運動に代わられる。それに疑問を持たない中山ら「良き前衛」に対する苛立たしさ。しかしもっと苦いことは、ここで批判者として登場する新左翼の若者たちも、60年代後半にはさらに空疎な演説言葉に振り回されていくその後の歴史をも私たちが知ってしまっていることだ。ワンシーンワンカットで、ちょっとしたセリフの詰まりぐらいは無視してずんずん進んでいくカメラ。安保闘争後急速に冷めていく時代に抵抗するような、「これでいいのか」という苛立ちの熱気の高温の中だけで生まれることが出来た、特殊金属のような強度を持つ奇跡の映画だろう。「突き詰める」という一番日本映画が、というか日本人が苦手としていることを、やり通そうとした爽快感がある。
[DVD(邦画)] 8点(2011-03-02 12:28:22)(良:1票)
6.  日本解放戦線・三里塚
シリーズ2作目。小川の主要なモチーフの一つが見えてくる。三里塚で起こっていることで最も痛ましいのは、国家権力が直接農民に振るう暴力ではなく、農民同士の間で起こっている人間関係の崩壊だ、という視点。実際本作で印象に残るのは、ドラマチックな対決のシーンよりも、農民たちが“裏切り者”へのののしりを浴びせる場面の、その容赦のなさだろう。かつての農民仲間が公団職員となって測量にやってくる、反対派農民たちは彼を取り囲み「人間じゃない」などと罵声を浴びせ、カメラから顔を隠し地に伏せているその男に土を掛ける。これは観ていてなんともやり切れなくなるシーンなのだが、小川はそのやり切れなさこそを手応えのある怒りの対象としてつかまえる。“裏切り者”を農民と一緒になって糾弾するのではなく、同じ土地で働いていた者同士の関係を、修復することが不可能になってしまうまで壊してしまったものをこそ糾弾しようとする。小川の67年の作品『圧殺の森』で印象に残るのも、人々が分かれていくこと・別れていくことの酷薄さだった。学生闘争をしていた仲間が当局の切り崩しにあってしだいに脱落し、主要な残ったメンバーが、非協力的な態度をとる新聞部の学生を追いつめていくところなど、この三里塚のシーンと似た痛みのようなものが画面から感じられた。一緒に働いていたもの、一緒に戦っていたものが離れ、互いに非難し糾弾しあう残酷さ、小川はそれにことのほか敏感に反応する。そういう残酷を仕組み操作するものとしての権力を憎悪するのである。
[映画館(邦画)] 8点(2010-01-19 12:24:22)
7.  日本解放戦線・三里塚の夏
シリーズ第1作。測量を急ぐ公団側と農民・学生との攻防が描かれる。この映画で強く印象されるのは、人々の顔であり手であり、TVのニュースだと共感的であれ批判的であれ無個性の集団となってしまう反対派農民たちが、それぞれ一人の人間として存在していることへの、作者の賛美・驚嘆である。始まってすぐの両者の衝突のエピソード、この映画はその激しくぶつかっている場面ではなく、農民たちの作戦本部をまず捉える。無線機によっていちいち報告される現場の状況、それを私たちは拡げられた手書きの地図を頼りに聞かされ、現場を遠くから想像しなければならない。そしてカメラがしばしば注目するのは農民たちの「手」、膝をいじったりタバコを揉みほぐしたり、落ちつかなげに動いている手である。現場に出て石を投げている手でもなく、もちろん農機具を動かしている手でもない。そういった明確な役割にたどり着けないで所在なげに行き場を失っている手の印象がまずある。そういう手を持った人間がその人ただ一人だけ存在している、という当たり前の事実が驚きのように伝わってくる。映画は「顔」にも執着する。農民たちがしばしば繰り広げる仲間同士の会話、内容は正直言って硬直しすぎて非個性的なアジテーションまがいのことが多い。しかしカメラは顔をアップで捉える。同時録音でないので口と声は合わないのだけれど、そのことがかえって時間が蓄積しているような不思議な効果をあげ、いやおうなく言葉より顔への注意を高めていく。しゃべっている言葉よりしゃべっている人間が強く意識される。農業とは集団主義の世界で、私はついそういう閉じた村社会に否定的な気持ちを持ちがちなのだが、しかしそういう人間関係の中でしか農業という大仕掛けな作業は成り立ち得ないのかも知れず、だとすると都市の人間よりも個人が個人である場面には敏感なのかも知れない。手と顔のこの映画は、それの輝きだけを捉えているわけではなく、手錠が掛けられる手のアップもフィルムに収められているし、機動隊員たちがカメラからそらし続ける顔のアップも、ねちっこく写している。個人が個人であり続けることの危うさも意識しているからこそ、人間の集団の中から立ち現われてくる個人の大きさに作者は心から感嘆できるのではないか。
[映画館(邦画)] 8点(2010-01-17 12:14:25)(良:1票)
8.  偽大学生 《ネタバレ》 
誰が正義なのか、誰が弱者なのか、誰が被害者なのか、と簡単に割り切れない社会の根を物語の設定に据えるの、初期の大江健三郎はうまかったが、これなんかそう。偽大学生をひとり60年安保時の学生集団に据えることで、権力の対抗者だけではなかった彼らの、特権性・エリート意識・権力志向をえぐっていく。学生たちは、その闘争の目標とするものにどこかで安住しているところがあり、コンパで偽大学生のジェリー藤尾が「学歴なんて関係ないんだ」ってはしゃぐところが皮肉。で仲間に警察のスパイと疑われて監禁される。“進歩的文化人”教授の船越英二も印象深い。偽証による学生たちの保身のあたりが、見ていて一番チリチリと来るところで、正義づらした・弱者づらした加害者たち。集会でジェリーが許しを乞うあたり、若尾文子の発言をエヘラエヘラ流すあたり、現場検証の場で偽学生を見る視線など、見事。
[映画館(邦画)] 8点(2009-01-03 12:13:20)
9.  尼僧物語
カトリックの国の監督たちはかえって否定的な宗教観を持っており、フェリーニやブニュエルを見てくると辛辣な目でカトリックを捉えがちになる。本作もカトリック批判の映画ではあろうが、非カトリック国のせいか冷静に眺められ、貴重な映画体験になった。とくに前半の修道院の部分が素晴らしく、じわじわと周りを取り囲む重苦しさの描き方が圧巻。これはたまらんとすぐ逃げ出したくなるのではなく、こういう世界もアリかなあ、としばらくは様子を見ていられて、でもやっぱりこれはたまらんとなる感じ。この主人公の心のなかであれこれ計りに掛けてる気配が映画としての充実になっている。仕事上の工夫や成果への自足が「高慢の罪」になってしまう。わざと落第することを迫られ、それに疑問を持つと「神への疑い」。これは自伝小説か何かが原作になってるのか。だとしたら沈黙の戒律でたまっていた気分が一気に反動で噴出したのであろう。後半はいささか駆け足になってしまった。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2013-12-11 10:06:02)
10.  ニーチェの馬 《ネタバレ》 
ラシドミドシ、ラシドミドシといううねりに乗ってド~~シ~~ラ~~と下降するモチーフが否応なく陰気。息を切らせる馬の映像とあいまって、もう映画のトーンが定まる冒頭。前作『倫敦から来た男』では、話の内容とスタイルが合ってない、という不満を持ったが、本作は合い過ぎるほど合った。中風の後遺症か、右手の不自由な父とかしずく娘、老いた馬、荒天の外を窓から眺めるのが日課の日々。やがて馬は病み、井戸は涸れ、ここを離れようとしてもなぜか戻ってしまい(単に行くあてがないことを映像で表現したのかもしれないが、そう思いたい)、どうもここらあたりから何かが起こり始めている。ランプの火が消え、灯そうとしても着かない。娘は「何が起きてるの」と呟く。外の風は止むのだが、娘は馬が食べるのを止めたようにじゃが芋を食べず、「食わねばならん」と言っていた父もじゃが芋を食べる手を止め、静かにフェイドアウト。何かが起きている。人生を放擲してしまうまでの無力感なのか、もっと宗教的な終末観なのか。この終盤の「何かが片付きつつある感じ」はホラーに近い。この家族の絶望だったのかもしれないが、もっと大きなレベルでの推移だったと思いたい。日常を包む大きな世界を垣間見た気にさせる映画だった。
[DVD(字幕)] 7点(2013-05-04 09:15:56)
11.  西陣の姉妹
ブルジョワってほどでもない西陣の織元の家、金貸しに潰されるその没落を描きながらも、各階層を織り込んであるのが眼目で、職工たちまで捉えている視点が優れている。けっきょくこの映画で対立しているのは階級よりも、古い考えと新しい考えで、この方がより日常に密着した混乱だったのだろう。職工連中も単一な新興勢力として捉えられているのではなく、今までの奉公関係を引きずっている者から割り切っている者までいる。姉妹でも「妾が勝手口から入ってくるような義理は古い」と言う末娘がいるが、彼女も没落ではオロオロし、婚約者のほうがまだ「新しい人」だったりする。姉妹の苦労を描いた後、機女の愚痴をソロッと入れるとこなんかがうまく、パッと世界が広がる。常に各階層に目を配っており、シナリオの新藤兼人としても優れた仕事だろう。画面は陰影深く、俯瞰が気になるのは宮川一夫と気にしすぎたせいか。美しかったのは宇野重吉が兄と橋の上で話をするシーン、空と電線を入れた見上げた図。シルエットで撮ったカットなんざ最高ね。
[映画館(邦画)] 7点(2013-03-21 10:07:39)
12.  人間の運命 《ネタバレ》 
一兵士の体験する苛酷な戦争。ふと「悪夢のオデュッセイ」なんて文句を思い浮かべたが、いやいやこれは夢ではなく多くの兵士の実体験が凝り固まったものなんだ、と反省した。ソ連の映画は自由の描写に敏感で、脱走後の鳥のさえずりを聞きながら草の中に寝転んでいるとこの俯瞰など、思いが詰まっている。記憶に残るエピソードとしては、教会を汚すことは出来ないと便意をこらえきれずに殺される者、細かく分配されるパンとチーズ、やっと石を運び上げたとこで突き落とされる者。さらに妻の爆死と自慢の息子の戦死と、ここまで人民はかわいそうにされなくちゃいけないのか、という気もするけど、社会参加へ持っていくのに踏み台としては「家族」が必要なのね。ただどうしてもこの手の社会主義映画の弱点は、怒りを他者に向け切っちゃってるとこで、跳ね返ってくる危険のない場所で攻撃してる、ってとこがある。まあだからこれだけ徹底して「かわいそう」が出来るんだろう。これはこれで一つの視点だろうが、限界でもあった。ソ連映画は音楽がやたら格調高い。
[映画館(字幕)] 7点(2012-04-24 09:40:16)
13.  人情紙風船 《ネタバレ》 
芝居の世話物の世界。物売りの声が流れる道、長屋の暮らし。それなら舞台のような横長の構図が似合いそうなのに、この映画で外の世界を描くときは徹底して奥に伸びる縦の構図を選んでいく。もちろん舞台との違いを映画として際立たせたいという意図もあるだろうが、別の効果も生まれた。横の構図だと人物はただ舞台の袖に消えていくだけだが、縦だとパースペクティブの消失点が生まれ、なにか消滅していくような気配が生じる。この世界から排除されてしまうような。そして実際縦長の路上を歩いた新三はやくざものに殺され、縦長の路上をさすらった海野も、縦長の長屋の路地にたたずんでいた妻女によって無理心中に導かれていく。ほんのりと暖かくあるはずだった世話物の世界が、縦に配置換えされただけでたちまち悲劇の様相を呈してくる。まるで舞台の奥へ続く花道がしつらえられたように、人々は消え失せていく。そしてやはり舞台では作れない激しい雨が、この世界の惨めさを増幅していて素晴らしかった。白子屋のお駒さん(歌舞伎の髪結新三だと「お熊」、霧立のぼるが「お熊」じゃちょっとね)に現代的なキャラクターを与えようとしたけど、うまく映画と調和させられなかったって感じがある。
[CS・衛星(邦画)] 7点(2011-11-22 09:57:56)(良:1票)
14.  二十四の瞳(1954)
木下恵介は、ちょっと離れて平行移動する二人を描くととてもよく(『野菊の如き君なりき』など)、それの絶唱とも言うべき最高の成果が、本作の修学旅行の場。食堂で働く松っちゃんを大石先生が訪ね、嬉しさと恥ずかしさが混ざったような松江が距離を置いてもじもじしている。大石先生が去るとたまらず飛び出したものの、旧友たちが先生へ走り寄ってくるのを見てサッと身を隠す。たまらないシーン。そして次にとぼとぼ歩く松江と、旧友たち・先生を乗せた船とが平行移動していく名場面になる。心象風景がそのまま抒情の極致となり、画としての構図もピタリと決まった。またチョイ役ながら、食堂の女将、蝿叩きを持った浪花千栄子が絶品なんだ。この映画の長さは、唱歌が流れるシーンで歌をたっぷり入れているので膨らんでいるところがあり、欠点と言えば欠点なんだけど、作品ごとに趣向を凝らす監督が本作では、唱歌が軍歌に勝利する歌合戦っていうような試みをしたと思われ、ロングを生かした画面もあいまって、そこにじっくりひたれる世界を作り上げている。木下恵介はコメディで最も才能を生かした監督だと思っているが、本作は抒情の作家としての代表作になった。
[CS・衛星(邦画)] 7点(2011-04-12 09:46:14)(良:1票)
15.  紐育の波止場
夜霧の波止場。すさんだ人々の吹きだまり。これだけの状況設定なら話はこうなる、という風に淡々と進行していく、その確実さ。霧の中の逆光、女を部屋に運び入れるあたりが特に美しい。また、男の荒っぽさの描写がいいんだなあ。ただ荒いってだけじゃなくて、不器用な感じをにじませる。どんちゃん騒ぎの中での結婚式。酒場女からの指輪のプレゼント、あとで刃傷沙汰のときの口をつぐむことが、それへのお返しになる。この酒場の賑わいの合い間に、たとえば牧師がやってくるあたりの、外の暗い静けさがはさまるのが、いいんだよね。まわりの暗さからこの一角を必死に守ろうとしているような、いとおしさ。主人公の火夫の無表情ぶりもいい。戻ってくるところなんか。こういう「片隅の人情もの」は、そのまま松竹によって模倣され(島津保次郎の『上陸第一歩』ってのになった。小津の『出来ごころ』ともつながってるな)、日本の風土に見事に移し替えられていくわけだ。
[映画館(字幕)] 7点(2011-01-12 10:15:38)
16.  日曜日のピュ
イングマールの息子、ダニエル・ベルイマン監督作品だが、脚本担当の父の匂いが漂う、とりわけ『野いちご』。神の沈黙と湿疹ってのは『冬の光』にもあったモチーフだが、キリスト教に何か象徴があるのかなあ。孤独という罰、周囲に息苦しさを与えてしまう性格、息づまる家庭…、ただそれを少年に観察させたことによって、柔らか味が出た。父と子の不和と和解というテーマより、あくまで父を観察するものとしての子ども、というテーマ。つまりイングマールとその父の物語に、イングマール-ダニエルの親子が重なって、一興。『野いちご』が幼年時代の記憶にひたって幕を閉じたのの裏返しのように、この作品は終わる。そこが救いのような、甘さのような。『野いちご』のイサクに対するほど厳しく裁いてはいない。それでも息子を愛していたのだ、そういう形でしか息子を愛せない父だったのだ、っていう了解があり、それを子どもも知ってやる。せがれに対する贖罪のシナリオなのか、弁明のシナリオなのか。うまくいってない夫婦の会話を書かせると、この人はいくらでも書けるのね、どんな人生を歩んできたのやら。父と子の間にいい感じが出るとバッハが流れ出す。とりわけ朝の湖の場が美しい。あいかわらず、時計への偏執。どうしたってイングマールの映画という印象だ。かつて『冬の光』が公開されたとき、併映で『ダニエル』という短編も公開された。このダニエルの幼年時代を撮ったホーム・ムービー。そこではモーツァルトが流れていた。そして「たえず人と触れ合おう」というようなことが語られた。孤独な父の道を歩むな、といういましめの映画でもあったのか。あの子がこう、お父さんのシナリオで映画を撮るまで大きくなったのか、と時の流れに素直に驚嘆させられる。
[映画館(字幕)] 7点(2010-08-04 10:23:27)
17.  2012(2009) 《ネタバレ》 
切り上げどきの判断が出来ない映画。前半はいいのよ。見世物に徹していて、映画が誕生した当時のDNAを受け継いでいるなあ、とワクワクしながら観てた。小説でも芝居でも絵画でも出来ない映画ならではの興奮。重大な災厄へ導いていく些細な兆候のあれこれ。危機一髪の脱出も似たパターンの繰り返しながら、やはり嬉しく眺めた。でもそれも中国到着まで。あそこで切り上げる話に設定してくれてれば、ヨシッ、と膝をたたいたんだけど、ズルズルあと退屈な1時間が続く。「日本沈没」の拡大版か、と思ってたら、あちらはどうしても、ノアの箱舟と大洪水を出さないとならないらしい。いらない教訓シーンまで付けてガックリきた。こういう映画は2時間半を越さないといけない、という決まりでもあるのか。コンパクトにまとめて上映の回転数増やしたほうが、映画館だって嬉しいだろうに。見応えの前半、崩壊していく世界をうっとり眺めながら、しかし人々の間にこういうリセット願望が深まってるってのは、あんまりいい傾向じゃないな、と思わされた。日々のゴチャゴチャしたあれこれに埋め尽くされている日常からの解放への誘惑。渋滞した道路や街が海に飲み込まれていく晴れ晴れしさ。複雑になりすぎていた社会が、単純な重力の法則にのみ従ってものみな沈降していく。我々はこういった光景にスッキリするまでに、身辺が窮屈になっているわけだ。そして自分=主人公は生き残る側にいて当然と思っている。これが深まると変な宗教にハマったりするまであと一歩。
[DVD(吹替)] 7点(2010-06-05 12:04:30)(良:2票)
18.  日本侠客伝 決斗神田祭り
鶴田浩二の殴り込みがも一つ説得力に欠ける。まあいちおう裁判という筋を通しておいて、さらに健さんに長ドスを持ってもらわなければならないという製作上の要請があるわけだけれども。時代の雰囲気はよく出ていた。滅んでいく火消しの運命と重ね合わせるようにして。新興の工場が見えていたり、一方では深川の遊郭を見せたり。ここらへんのしっとりした風物描写が、仁侠映画のけっこう大事な味わい。気のついたこと。「人生劇場」も3拍子だが、任侠道系の歌ってどうして3拍子になるんだろう? 日本の音楽は基本的に2拍子だ、ってなことを民俗音楽の人が言ってたけど、あるいは朝鮮半島から流れ込んできた系統なのか。任侠道って国粋じゃないのか? 任侠道じゃないけど、日本人好みの世界である「王将」も、堂々と3拍子だ。
[映画館(邦画)] 7点(2009-10-29 12:06:30)
19.  ニクソン
この人の映画は締まりがいいほうではなく、ブワブワと始まるが、語っていくうちに熱を帯び、ゴチャゴチャしながらもある感動の時を迎える、ってのが多いけど、これもそうだった。『JFK』の時のように、言いたいことがあってそれに集中していくのではなく、なんとかニクソンという魅力的な人物を掴まえたいが掴まえ切れない、という悪戦苦闘ぶりが面白い。まず、ケネディコンプレックスがある。ほとんど『アマデウス』のサリエリのようで、ラスト、ケネディの肖像を見つつ「国民はケネディには理想のみを見、私には現実のみを見る」って言わせるのが一つの結論。理想の最たるものはリンカーンだったが、映画は南北戦争の死者とベトナム戦争の死者とを重ねて、彼にも皮肉な目を向けていた。そしてベトナム戦争は、ハト派のケネディによって始められタカ派のニクソンによって終わったという事実もあるわけだ。あるいは、成り上がって失墜していく『バリー・リンドン』的な悲劇として捉える見方。制御できぬ野獣のごときものとしての権力の不思議さを、遠くから眺めた映画でもある。時間をあちこちするシナリオだったけど、これなんか時代通りに順にやったほうが良かったのではないかな。
[映画館(字幕)] 7点(2009-06-16 12:02:01)
20.  NY検事局
シドニー・ルメットは、このころだってもう峠を越したと思われてたんだけど、見ればやっぱりいい。この人は“正義を通すことの困難さ”ってことをずっとテーマとしてきて、これもそのモチーフを軸に職業としての警官の生々しさを見せてくれた。張り込みの会話から突入へ、別にどうということもなさそうだった事件から警官汚職へと、話のすすめ方の手堅さが心地よい。内部調査の場の光と影の効果など、あれ? こういう画面も作る人だったか、と思った。生きた民主主義は、場合によっては法よりも個人個人の倫理的判断を優先する、ってとこが、アメリカなんだろうなあ。微妙に危ない面もあるけど。マンハッタンの夜景を生み出すタイトルが洒落てた。 
[映画館(字幕)] 7点(2009-03-09 09:06:13)
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