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六本木ソルジャーさんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 823
性別 男性

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341.  グレムリン
母親の瞬殺が見所。一瞬のうちに3体を始末するとは只者ではないだろう。
[DVD(字幕)] 3点(2006-12-31 00:05:06)(良:1票)
342.  卒業(1967) 《ネタバレ》 
初めて観る人にはトンデモないストーリーで、ストーリーだけを単純に追えば疑問だらけで大した映画ではないのかもしれないが、映画の根底にある子どもでもない、大人でもない、大人になり切れない微妙な時期の若者の不安定感を見事に表現している映画である。 本作を鑑賞するにあたり、この映画のタイトルである「卒業」とは、何からの「卒業」なのかを考えながら観ていた。色々な意味(下ネタもありかも)が掛かっているとは思うが、「無責任な子ども時代からの卒業」「大人への依存からの卒業」ではないかと思う。大人によって敷かれたレールの上を、優等生としてただ平凡に歩くだけの人生に疑問をもったベンであるが、不安だけがつきまとい、自分の確たる信念も決断もなく、ただ無気力に日々を送るだけしかできない。彼の行動を冷静にみれば、ただ単に大人の誘惑に惑わされ、親に与えられた車を乗り回し、親が所有しているプールで暇を持て余しているだけである。 エレーンに再会し、ようやく人生において初めて大きな決断であるバークレー行きを決心するものの、そこでも何をしてよいか分からない。ただ単にストーカーまがいの行動しかできないというもどかしいほどの若さである。このあたりも大人になりきれない不安定感、何かをしたくても何もできない若さゆえの無力感が十分に描きこまれていると思う。そして、エレーンが強引に結婚されることを契機にして、ベンは考えるよりもまず行動を開始する。何かに悩んで深く考えすぎて行動を躊躇するよりも、まず直感的に行動することも必要ではないかと言っているようにみえる。 また、親から貰った赤いスポーツカーではなく、自分の足で結婚式場に向かい、バスを使っての逃亡がよい。親から与えられた車を使って逃亡するのでは、真の意味において「卒業」ではない。しかし、親から「卒業」したとしても、必ずしも明るい未来が待ち受けているとは限らない。「親や大人たちからの依存」から卒業することは今以上に苦しく、険しい道のりが待ち構えているということを、バスの中での二人の表情に込めているのではないか。それが「子ども」を卒業して、「大人」になることなのかもしれない。
[DVD(字幕)] 8点(2006-12-31 00:03:35)(良:1票)
343.  オーメン(2006) 《ネタバレ》 
オリジナルもそれほど好きではなかったが、リメイク作品は、オリジナルに比べて、数段劣るという印象を受けた。 たとえストーリーが同じであっても、演出にさらなる工夫を施せば、映画は面白くなっただろうと思うが、かえって陳腐なものになってしまっている。 例えば、病院の火事で火傷を負った修道士に会うシーンがあったと思うが、あそこまでの特殊メイクを施せば、恐怖というよりも逆に滑稽だ。まるでスターウォーズに登場する異星人のようでもある。 また、主人公がダミアンを連れ出すところをミアファローに邪魔されるシーンも「ひつこさ」が全く感じられない。執拗なほどの「ひつこさ」というのは、結構な恐怖を感じさせるものではないか。 そういう意味においてファローの退場のさせ方はもったいない。ワイヤーでも使ってファローの人形を上空に5m位飛ばせば、確かに爽快さは得られるが、このシーンにあれが果たして適していたかと問われれば、「ちょっと違うのではないか」と言わざるを得ない。 せっかくミアファローに出演してもらっているのに、彼女を使いこなせてないという気がした(本人が必要以上のアクションを嫌がったかもしれないが)。車に死ぬまでしがみつくくらいのしつこさが必要だっただろう。 さらに、ジュリアスタイルズが抱える我が子への恐怖というものがオリジナルほど描かれていないような気がする。愛する我が子と思っていたかわいい子供が、だんだんと得体の知れない何かではないかと疑うような精神的なプレッシャーが弱いのではないか。彼女を精神的に追い込む方法が、「悪夢」では「多少逃げているな」という印象も受ける。 また、時代的なものか、山犬とのバトルは、かなり動物に遠慮しているようにもみえた。オリジナルにあった「恐怖」はなくなり、犬の訓練師の下で安全に撮影していますという感じがよく出ている。当然、自宅における黒犬の地下室誘導もあっさりとしたものだ。
[DVD(字幕)] 3点(2006-12-31 00:00:55)
344.  ロボコップ(1987) 《ネタバレ》 
ポールバーホーベン監督って、最低な監督の代表名詞みたいになっているけど、本作を観る限りはかなり才能がある人なんだなと思った。DVDの特典をみると、相当大変な思いをして作られたようであるが、CGもない当時に、この題材で映画を作れって言われたら、これ以上のものを作れる人はいないのではないか。 テーマに「アイデンティティ」を持ってきていることが、映画が引き締まった理由の一つだろう。記憶を抹消されて、何ら思考を持たない死体から作り上げられたサイボーグだったはずが、アンルイスからは「名前は?」と聞かれたり、副社長からは「名前などない」と言われたりするやり取りをすることによって、「アイデンティティ」をストーリーの核に持ってきているのがよく分かる。 殺されたときの悪夢の記憶、過去の家族との懐かしい思い出などにより「アイデンティティ」に苦しみながら、徐々に自分が何者であったかを考えていくようになる。最後には、社長から「いい腕だ。名前は何かね?」と聞かれたときに、一言「マーフィー」と答え、タイトルがドカンと出る爽快感が実に素晴らしい。 ラスト間際にヘルメットを脱いだり、ベビーフードを食べないのも、サイボーグからの脱却なのだろう。ED209という完全なロボットとの対比も面白い視点。ロボコップはたんなる機械ではないということを明確にしている。 バイオレンス度がきついという意見が多々見られる。確かに右腕を吹っ飛ばされたり、有害廃液まみれになった悪役がぐちゃぐちゃになってクルマで吹っ飛ばされたりと普通の映画よりもバイオレンス度は高いとは思うが、バーホーベンレベルを踏まえると、バイオレンス加減もそれほどキツメではなく、子どもの観客にも耐えられる抑えられたものにはなっていると思う。 バイオレンス以上にアメリカの風刺がややドギツイかなと思われる。 未来のメチャクチャなテレビニュース、過激なテレビコマーシャル(家庭用核兵器ゲームや1ドルがどうのこうの言っている下品なピザらしきCM)、警察や軍の民間委託などは、すべて当時のアメリカ批判だろう。
[DVD(字幕)] 7点(2006-12-30 23:58:42)
345.  トータル・リコール(1990) 《ネタバレ》 
バーホーベンらしく、映像にはこだわりが感じられる。この時代に、よくここまで映像化できたものだ。また、バーホーベンらしいグロさもSFストーリーによくマッチしている。 問題は、本作のすべてがリコール社の創り出したクエイドの夢かどうかという点だろう。 すべて「夢」であった方がバーホーベンらしいとは思うが、普通に観た限りは、「夢」のようで「夢」ではなく、全部「現実」だったのではないかと思わざるを得ない。 「夢」として観た場合には、リコール社でのやり取りを詳細に描きすぎたため、どうしても無理を感じてしまう。この部分も実は「夢」であったという解釈もできるが、クエイドは気を失っているので、やはりその説明が難しいだろう。「以前、火星に行ったことがあるようだ」というリコール社の社員のセリフも矛盾する点だ。 リコール社の社員と妻役のローリーが火星にいるクエイドを訪ねた際の「汗」についても、本作が「夢」であればストーリーとして活きてこないシークエンスだ。 また、火星における作り込みに手が込んでおり、ラストには爽快感もあり、「夢オチ」という流れにはもっていきづらいのではないか。 個人的には、もっと「夢」「現実」のどちらの解釈でも可能なほどに曖昧にしておけばよかったと思う。 そうすれば、同じ原作者の「ブレードランナー」のようなディカードは人間か、レプリカントかという論争が起きたかもしれない。 本作において面白い点は「夢」「現実」論争よりも、「植えつけられた仮の記憶による自分」が「本来の自分」を凌駕していくところではないかと思う。 「偽りの自分(クエイド)」が「本当の自分(ハウザー)」を捨てて、偽り(コーヘイゲンを裏切りレジスタンスに加担してコーヘイゲンを失脚させる)が真実(コーヘイゲンを倒し、火星を開放させる)となっていくところだろう。 「本当の自分」よりも「偽りの自分」の方に居心地のよさを覚えてしまうという感覚は面白いと思う。 「夢」「現実」とは別に、そういう意味においても「記憶」の曖昧さという点はしっかりと描きこまれている。
[DVD(字幕)] 7点(2006-12-30 23:56:21)(良:1票)
346.  ビフォア・サンセット 《ネタバレ》 
前作「恋人までの距離(ビフォアサンライズ)」と対になっているのが面白い。 本作は冒頭から「ビフォアサンライズ」を意識している。前作のラストでは、彼らが過ごした場所が静かに次々と映し出されるが、本作は冒頭から彼らが過ごすであろう場所が次々と映し出されていく。 彼らの出会いが偶然によるものならば、彼らの再会は偶然によるものではなく、意図されたものだ。ジェシーがフランスでサイン会を開くという意思と、セリーヌがそこに顔を出すという意思がなければ、この再会はあり得ない。 9年ぶりにみせる彼らの性格も前作とは対比的である。 前作ではロマンティストであったセリーヌは、本作では現実主義者になり、前作で現実主義者であったジェシーは、本作ではややロマンティストになった気がする。セリーヌ自身も、ジェシーの本を読んで、自分の今のドライさを嘆いているのが印象的だ。人間は時間とともに変化するのが見て取れる。 しかし、根っこの部分は変わらないのも人間だ。 自分のドライさを嘆くセリーヌだったが、彼女らしいロマンティックさは残っている。自分のやりたいことをやり、自立した強い女性を装っているが、愛されたいけど愛せない、愛を渇望しながら愛に怯える姿がセリーヌらしい。 ロマンティックに本を描いたジェシーもやはり現実主義者であった。彼が本を描いたのには、セリーヌと再会して、12月に来なかった理由を問うものであったのは彼らしい。セリーヌの歌を聴いて、人名は聴く人によって変わるのだろうと本心ではない冗談を言うのは、前作の詩のシーンをなぞったものだ。 前作が「別れる二人」を描いたものならば、本作は「別れない二人」を描くものだ。9年前に再会を果たせなかった二人のその後の人生は決して恵まれたものではなかった。人生を変えた「出会い」によって、彼らの人生には微妙に狂いが生じてしまったかもしれないが、彼らの「再会」によって、再び彼らの人生も大きく変わるだろう。個人的には、ジェシーはこの飛行機には乗らず、セリーヌとともに人生を歩んでいくのではないか。 ジェシーはジェシーの妻に幸せを願っているからこそ、別れようとするだろう。 再会はしたものの彼らは上手くいくのか、たとえ上手くいかなくて美しい思い出が壊れたとしてもチャレンジすることが大切なのだろうかと、色々と観終わった後に考えられるのが、本シリーズの良さだろう。
[DVD(字幕)] 7点(2006-12-26 23:34:58)(良:1票)
347.  恋人までの距離(ディスタンス) 《ネタバレ》 
非常に上手いなと唸らされる映画。 出会いから別れまでを1日程度で無理なく描けている点が見事だ。 国籍も違う見知らぬ旅人同士が、二人にとって見知らぬ地ウィーンで、徐々に惹かれあう過程(視聴室での二人、観覧車の二人は見事)、本音をぶつけあう姿(ピンボールを交互にプレイする二人、親友への擬似電話を掛ける二人は見事)、そして別れをじっくりと堪能できる。彼らの約束と別れたあとの二人の表情が余韻を引きずる。花火のようにパッと燃え上がった恋が、一瞬で静まり返って、お互いが冷静に振り返るいくばくかの時間と二人が過ごした場所が静かに映し出される点がとても印象的だ。 恐らくジェシーはこのままアメリカに帰ってもこの出会いを引きずるだろうと思われる(一度スペインとの遠距離恋愛で失敗しているのに、再び失敗を繰り返すのが男の悪くもあり、良いところだ)。 一方、セリーヌも最初は渋い表情をしているが、徐々に笑顔を取り戻している。彼女の中で、別れの苦しみというよりも美しい思い出として記憶されたのではないか。やはり、女性の方が切り替えはかなり早いようだ。 また、この二人が再開するかどうかの余地が残されている点はたいへん面白い。鑑賞者の恋愛感によって、又は性別によって、二人が再開するかの考え方は異なるだろう。続編を無視して、自分の目線で判断すると、男はまた必死に旅費を貯めて、半年後ウィーンに戻ってくるだろうなと思われる。女はどうだろうか、一概に判断はつかない。恐らく直前まで悩むのではないか。戻ってくるかもしれないし、戻らないかもしれないという女性ならではの不可思議さが描かれていると思う。 さらに、男と女が対比的に描かれている点も面白い。男はやはり子どもっぽさがあるし、ヤリたがる。また、見栄を張ったり、つまらないことに腹を立てる一方で、とても現実的な点がある(ミルクセーキの「詩」は最初からできていたのではないかと夢のないことを言ったりもする)。 女は幸せな環境に育ったとしても、何かに怯え、どこか満たされない想いを抱え、その不安をなんとか埋めたい、人生を実りあるものにしたいとと願っている。やはり、現実的な考えよりも、ロマンティックな考えを優先している。 考え方や性格も異なる二人だけれども、惹かれあわずにいられない男と女の関係の不可思議さを感じられる素晴らしい作品だ。
[DVD(字幕)] 8点(2006-12-22 22:53:30)(良:1票)
348.  王の男 《ネタバレ》 
「グエムル」に抜かれるまで韓国歴代興行成績の一位であり、また本作のような歴史物は結構好きなため、期待を込めて鑑賞したけど、悪くはないけど良くもないという印象。チャンセンとヨンサングン役の俳優の演技は結構良かったが、欠点としては脚本がだいぶ粗い感じがする。主要キャラクターの内面がほとんど読み取れない。行動に対する動機付けが描けていないから、なぜそのような行動を取るのかがよく分からない。そのために感情移入できないという悪循環に陥っている。それぞれの心理面を探るまでの材料すら与えられていない気がした。特に肝心要のコンギルの心理描写が弱すぎる。 <以下ネタバレ>王の寵愛を一身に受けていたノクスがコンギルを嵌めようとする行為は理解できる。芸人たちを宮廷に住まわせることによって、宮廷に巣食う重臣を追放し、母親を失った呪縛から開放させ、ヨンサングンを暴君ではなく、立派な王にさせたいと考えた重臣チョソンの行為も理解できる。 理解できないのがヨンサングンがコンギルに嵌まる点だ。美男子だからといって、自分の内面までもさらけ出す理由はない。彼の孤独の矛先がなぜコンギルに向かったのか、もう少し踏み込むべきだっただろう。 王の孤独や悲しみを知り、コンギルが王に同情する点は理解できる。しかし、芸人の相方という関係を超えた存在であるチャンセンの「宮廷を出よう」という言葉をないがしろにするほど、王に尽くす義理はないだろう。 チャンセンにとっても、何度も出ようといったにも関わらず、自分よりも王を取ったコンギルのために、重臣チョソンが救ってくれた自分の命を無駄にするほどの関係が描きこまれていない。 このストーリーを自分なりに解釈するしかないようだ。コンギルは王に対して同情というよりも、愛情を抱いてしまったと解釈すればよいのかもしれない。だから、コンギルは王の下から離れようとしなかったのかもしれない(王に「行かせてくれ」と頼んでいたが)。しかし、チャンセンが身を賭して、自分の命を救ってくれたことと自分のために戻ってきてくれたことによって、彼の本当の愛と相方として切っても切れない絆に気付かされたのかなとも考えられる。だから、チャンセンが死ぬのならば、自害しようとしたのではないか。王がコンギルの気持ちに気付いていないとしたら、チャンセンが最後の芸で「王が盲目だった」と皮肉ったようにも感じることができる。
[映画館(字幕)] 5点(2006-12-19 00:07:54)
349.  硫黄島からの手紙 《ネタバレ》 
「父親たちの星条旗」同様に極力エモーショナルに描くことは避け、「真実」を炙り出そうとしている。本作を観て、硫黄島で「何があったのか」を知って、観たそれぞれに何かを感じ取ってもらいたいという強い意図が感じられる。何かを押し付けるということはほとんどしていない。 「家族からの手紙又は家族への手紙」を有効に利用することや、大げさに演技させることによってエモーショナルに描くことは簡単である。本作の題材ならば、ストレートに観客を感動させることなど容易いだろう。だが、あえてそうしないのがイーストウッドの味であり、「わび」と「さび」ではないか。もちろん「戦争」をエンターテイメントに利用する気など微塵もない。栗林の知略をこと細やかに説明することも、壮絶な穴掘りの苦痛を描くこともしない。「戦争」を美化するつもりはないからだ。 イーストウッドの映画は昨今のハリウッド映画とは異なり、ただ映像を垂れ流すだけの「一方向」の映画ではない。映画を通しての「問いかけ」があり、観客は映画から何かを感じて考えるという「双方向」の映画なのだと思う。誰でも撮れる普通の映画ではなく、イーストウッドでしか撮れないから評価されるのだろう。 自分が一つ強く感じたのは、中将という司令官であっても、ただの一兵卒であっても、そして敵の兵士であっても、皆愛すべき家族がおり、愛される家族の一員でいたということだ。この点に関しては、身分も国籍も関係ない。それぞれの想いは、日常的な生活を綴った手紙や千人針に静かに託されているのが印象的だ。アメリカ側から本作を観た場合、「敵」であっても、バロン西のような人間的な痛みを知るものと戦っていたことを知らしめるだろう(伝説となっているバロン西投降勧告(真偽は不明)も当然描かない)。 また、「星条旗」同様に「戦争」には正義も悪も、英雄もいないということを強く描いている。「戦場」にあるのは醜さだけだ。 アメリカ側としては、日本人捕虜を抹殺する姿や、戦利品を強奪する姿や、「星条旗」では誤射によるアメリカ兵の死ですら描いていた。 日本側としても、アメリカ兵をリンチする姿、敵側に投降しようとする者を撃ち殺したり、戦場から後退しようとする者の首を刎ねようとしている姿が描かれている。 「万歳」といって自決する姿にも、玉砕しようとする姿(伊藤中尉)にも、「美しさ」はない。あるのは、「虚しさ」だけだ。
[映画館(字幕)] 8点(2006-12-15 23:36:14)(良:1票)
350.  007/カジノ・ロワイヤル(2006) 《ネタバレ》 
この映画で号泣するとは思わなかった。悲しすぎるボンドの原点をポールハギスが詳細丁寧に描き込んだ。終盤まで残るボンドの「甘さ」が消えて、誰も何も信じない冷酷で非情な諜報員になる過程が実に見事だ。 ラストの「あの裏切り女は死んだ」というクレイグのセリフはしっかりと聞き取れなかったが、「ビッチ」という言葉も聞こえてきた。愛した女性をこう呼ばざるを得なかった悲痛がクレイグの全身から伝わってくる。 ピアースを非難するつもりは全くないが、本作を描くためにはクレイグでなくてはならなかっただろう。ピアースは既に「完全体」のボンドゆえ、この「不完全体」のボンドを描くためには、新しくかつ内面の演技ができる俳優である必要があった。 クレイグのボンドは、本当に荒々しく、しかも甘さが目立つ。 Mの言うことは聞かず、大使館で監視カメラに映るという失態も犯す、毒を盛られたり、大事なゲームにも敗退する。「裏」を読み込めずに、感情に流されて、職を辞すると言い出す始末だ。 ポーカーに敗れた後に「マティーニはシェイクか、それともステアか」と聞かれ、「どっちでもいい」と怒鳴った挙句に、ナイフを手にするシーンは、人間的にも諜報部員的にも未熟さや余裕のなさが窺われる。 だが、これらの経験が、我々が知る「ボンド」を形作ったかと思うと、なかなか面白い。 ラストにおいてホワイトを殺さなかったのも秀逸だ。ホワイトを殺せば、ただの「私怨」を果たしたに過ぎない。まだヴェスパーに未練があることが分かる。 「組織」のために生け捕りにすることで女王陛下のための完全な諜報員が誕生したことがよく分かる。決め台詞のタイミングも完璧だった。 ヴェスパーの人間像もしっかりと描きこまれている。首飾りをキーアイテムにして内面を描いている。恋人を裏切ることも、本気で愛してしまったボンドも裏切ることもできない。そのような苦しみが随所に感じられる。シャワー室で震える姿の意味も後から考えればより深まるようになっている。 演出面においてもキレがあったと思う。肝心のポーカー対決も見応えはあり、拷問シーンもなかなかのものだった(クレイグのユーモアも垣間見れるよいシーン)。 冒頭の追いかけっこにおいても、視覚的に観客を楽しませるのと同時に、圧倒的身体能力の差にある者に対して、ボンドの機転や大胆さや度胸でその差を埋めていっているのがよく分かるシーンでもある。
[映画館(字幕)] 10点(2006-12-11 21:17:55)(良:5票)
351.  007/ダイ・アナザー・デイ 《ネタバレ》 
(過去のシリーズのネタバレも含みます)10作目の「私を愛したスパイ」がそうであったように、20作目の本作は過去の作品の大量オマージュで構成されている。過去の作品に新しいネタをふんだんに取り込み、シリーズが好きな人はより楽しめるように、知らない人でも十分楽しめるようになっている。 ボンドが溺れそうになっているジンクスを必死で救い出そうとするシーンはかなり良い。前作「ワールドイズノットイナフ」で愛した女性を殺してしまったことの罪滅ぼし的な意味があると思う。 初めて観る人にはイカルスという人工衛星に違和感を感じるかもしれないが、この荒唐無稽さがボンドシリーズの歴史でもある。 「ダイヤモンドは永遠に」という作品では、ダイヤモンドで作った衛星で世界各地を破壊し脅すというストーリーになっており、ダイヤモンドと人工衛星という組み合わせは本作にもっとも近いものだ。「ムーンレイカー」や「私を愛したスパイ」では全人類を滅亡させるストーリーなのだから本作はまだマシな方だ。 オマージュや過去のアイテムは各所に現れている。大量にありすぎて書ききれないので個人的に好きだったオマージュを取り上げると、まずはジンクスの登場シーンだ。1作目「ドクターノウ」のハニーライダー(アーシュラアンドレス)の有名なシーンを意識したものになっている。ちゃんと腰にナイフを携帯しているところもファン泣かせになっている。 本作のラスト付近で人間が飛行機からどんどん放り出されるが、これは3作目「ゴールドフィンガー」を意識したものだろう。 4作目「サンダーボール」で使ったアイテムも登場。空中を飛べる装置がQの部屋(過去の多数のアイテム)においてあるばかりか、口に挟めば数分間息ができるというアイテムを使って、ボンドはグスタフの氷の屋敷に潜入している。 「トゥモローネバーダイ」で明かされたボンドの習慣でもある「枕の下に銃を隠している」というネタも大いに活かされ、逆に利用されるのは面白い。 ラストの飛行機でのフロストとジンクスが意味も無く薄着なのも本シリーズならではの流れ(特に「ダイヤモンド」「黄金銃」「ワールド」)を汲んだものだ。 また、キューバで鳥類学者にボンドが扮したと思うが、これはなかなか深いネタだ。フレミングの家にたまたまあった鳥類図鑑の作者がジェームズボンドであり、この名前をフレミングが拝借したというのは有名な話だ。
[DVD(字幕)] 7点(2006-12-11 21:08:25)(良:2票)
352.  トゥモロー・ワールド 《ネタバレ》 
10点をつけざるを得ない超絶神映画。 常人のセンスを遥かに越えた監督と撮影監督の手腕と想像力には脱帽せざるを得ない。 普通の映画とはまさに一線を画すモンスター映画だ。 本作を有楽町「日劇1」という1000人程度のキャパの映画館で観れたことは、自分にとって誠に貴重な体験となった。 映画の中の世界を、まさに「体験」したと言っても言い過ぎではないだろう。 終盤の8分長回しが話題になっているが、凄いのはその8分だけではなく、冒頭からずば抜けている。この映画のカメラの動きを考えながら観ていたら、武者震いが止らなくなった。あまりに凄すぎて圧倒されっぱなしで、観ている自分は終始半笑い状態だった。 まばたき一つするのが惜しいほどだ。少しでも油断したら「やべぇ、今どうやって撮ったんだ」と後悔してしまう。 監督に負けず劣らずクライブオーエンもよい演技をしている。 子どもが産まれなくなった世界で、アイロニカルながらもとても情熱的な男を演じきった。 ジュリアンが死んで木陰で泣き崩れる姿、ジャスパーが死んでミリアムに「触るな」と怒鳴る姿、怒鳴った後にキーに「大丈夫だ」という姿、ラストの船の上で「ゲップさせてやれ」とアドバイスを送って(自分の過去の経験が活きているのだろう)、「本当に良かった」とつぶやいて息を引き取る姿、どれも素晴らしいものだ。 そして何よりも本作の世界がクライブオーエンが知り得た情報のみで成り立っているのも面白いところだ。 情報不足・説明不足という批判を承知で、あえてそういうモノ作りを試みている。 「子どもが産まれなくなった理由」や「ヒューマンプロジェクトとはどういう組織か」などはあえて描かなくてもよい。むしろ本作ではこれらについても十分過ぎるほど情報が与えられていると思う。 ストーリーがないという批判を受けるかもしれないが、ストーリーも十分すぎるほど描かれていると思う。これ以上描いたら「蛇足」になってしまうかもしれない。 ストーリーにおいても、映像においても、メッセージ(子どもを観て皆戦いを止め、道を開けるシーンは映画史に刻まれてもよい)においても文句の付け所のない完璧な映画と思う。 映画の見方・作り方、映画に真摯に向き合う姿、映画の面白さを教えてくれた本作には感謝したい。
[映画館(字幕)] 10点(2006-12-08 22:46:53)(良:3票)
353.  ペイチェック 消された記憶 《ネタバレ》 
フィリップKディック原作だけあって、骨となるストーリーはやっぱり面白い。 本作ではディックのストーリーとジョンウーの奇抜さとのミスマッチさが意外と「よい味」になっていると感じた。 ただ、気になった点としては、やや丁寧さを欠いていないだろうか。 冒頭では2ヶ月、途中で3年という空白の歳月な流れるわけだが、どうみても、その時間の流れを感じさせない演出になっている。 なぜなら、ベンアフレック他の風体にまったく変化がないからだ。同じ髪型、同じ服装ではいくらなんでも不味いだろう。 特に冒頭の2ヶ月が酷い。ベンアフレックは恐らく2ヶ月前と同じネクタイをしていると思われる。 自分が演出家ならば、ユマサーマンとの出会い時も彼女の髪をロングにさせたりしておくと思う(多少の変化をつけていたが)。 髪がショートになると時代の変化などが感じられるともに、すり替えの女性が来たとしても髪形によって女性の印象も変わるから以前の記憶の曖昧さ(サーマンとの出会いとなったパーティーの記憶は消される対象になっていない)の理由にもなるだろう。 また、脳の温度が43度に達すると危険という訳の分からない設定があったかと思うが、いきなり42.9度までやるのはいささかやり過ぎではないか。こういうシーンはだんだんと0.1度間隔で上げていって、観客のハラハラ感を煽るものではないか。そして、あと0.1度で危険という難を逃れたにもかかわらず、直後のベンアフレックが意外と平然としているのにも酷い違和感を感じた。自分が俳優ならば、もっと「頭がぼうっとする」「頭が痛い」というような演技をしようとするものだろう。 さらに、本作で気になったセリフとしては、「壊す前に、未来を覗いておこう」だろう。 ストーリーの流れから判断して全く必然性を欠くセリフであり、もっと「未来を覗こうとすること」に対してなんらかの動機付けや工夫が必要ではないか。これでは「機械を直す(エッカートにアフレックの未来を見せる)こと」以外の効果は無くなる。結局、時計のタイミングが脱出のタイミングを教えており、「未来を覗いたこと」の大きな意味を失っているようにも思える。夢でフラッシュバックされる自分の最期に何かしらの違和感を感じて、「未来を覗くこと」によって何らかの確認的な意味(時計のアラームに気付く等)を与えた方が良かっただろう。
[DVD(字幕)] 6点(2006-12-07 21:33:56)(良:1票)
354.  ミリオンダラー・ベイビー 《ネタバレ》 
とても繊細で複雑な映画である。こんな映画を撮ることができるのかいうくらい、繊細さを感じた。光と影によるコントラストが、さらに本作を繊細にしている。また、セリフのない数秒のカットでさえ、数分間を物語るくらいの効果があるものがいくつも垣間見られた。この点に関しても、流石と感心せざるを得ない。 ストーリーにおいて、一番気になったのは、彼女が「悔いのない人生」を送ることができたかどうかということだ。 あのような反則による事故によってあのような結末に至り、また「彼女が何のために戦い続けていたか」ということと家族の酷い仕打ちを見ると、果たして悔いのない人生と言えるのだろうか疑問に感じる。むしろ失意のうちに、また無念の想いを抱いていたのではないか。 家族については、家は買えても、心は買うことは出来ないので仕方がないとしても、ボクシングの試合に関しては、自分が脚本家ならば、チャンピオンの反則により、大きな怪我を負う。怪我を負っても戦うことを止めようとしないマギー。何度もタオルを投げ込もうとするも、戦う彼女の姿を見て、どうしてもタオルを投げ込めないフランキー。勝つか負けるかどちらでも良いが、最後までリングで戦った代償として全身不随の怪我を負うという流れにした方が良いのではないか。最後までリングで戦うことができれば、彼女は「悔いのない人生」を送ったと思うし、スクラップが失明した試合をカットマン故、止めれなかったけど実際はどうだったのか…という話ともリンクする。 フランキーはトレーナーとしては、マギーの試合にタオルを投げ込むことができなかったけど、トレーナーを超えた存在として、マギーの人生にタオルを投げ込む業をフランキーに背負わせるというのが、すっきりする流れと思われる。彼女の人生に自己責任を負わせることが出来ないと、後味の悪い、救いのなさだけが残ることになるのではないか。 他方、彼女を死なせないという流れの方が整合的なストーリーのような気もする。スクラップの語る「誰でも一度は負ける」というセリフには、裏を返せば「負けたとしも、どんなに傷ついても、人間は再び立ち上がれる」ということを言いたいのではないか。ラストで彼女が大学で車椅子の姿でもゲール語を学ぶ姿が見られたら、アカデミー賞受賞作品に相応しい映画になったのではないかと思う。
[映画館(字幕)] 7点(2006-12-07 21:22:10)(良:2票)
355.  007/ワールド・イズ・ノット・イナフ 《ネタバレ》 
ドラマ性や人間性を重視しようとした意欲作。しかし、アクションとドラマのバランスを失し、ものの見事に中途半端な作品に仕上がった。 やや貫禄はついたがボンドも中途半端、Mの誘拐も中途半端、心の痛みを感じないエレクトラも頑張ったが中途半端、エレクトラを本気で愛していたレナード(肉体的な痛みを感じない)も中途半端、ドクタークリスマスはギャグだろう。彼女の魅力を最大限に引き立てる服装を考えての結果だと思うが、核物理学者にあんな服装をさせるというセンスを疑う。 本作の最大の見所というのは、ボンドがエレクトラを撃つということだろう。ボンドが女性(しかも愛した女性)を正面から銃で撃つのは始めてではないか。番外編の「ネバーセイネバーアゲイン」で危機一髪のところでファティマを特殊アイテムで撃ち殺したくらいしか記憶にない。「サンダーボール」のフィオナに対しては敵からの射撃の盾にしただけだし、「ゴールデンアイ」のオナトップに対しては、未必の故意によるものだが飛行機事故を利用したものだ。ボンド史に刻まれるであろうこの一大イベントがあのような結果に終わったのは残念でならない。あの場面ではエレクトラを殺しても、殺さなくても状況は変わらない(むしろ、殺さない方がレナードと交渉できたかもしれない)。このシチュエーションでただ撃ち殺すという行為の代償は、彼に「冷酷さ」「非情さ」のイメージを与えるものだ。製作者の意図はそこに尽きるのだろう。 しかし、これは単なる殺しであって、あまり効果的ではない。自分にはなぜこのシチュエーションでMを使わないのかという疑問しか沸かない。エレクトラがMを盾にして、「銃を置かないと殺す」と脅せば、彼女を殺す大義がうまれる。エレクトラを撃つことにやや躊躇するボンドにMが撃つように諭せば、Mの役割や彼女誘拐の意義も生じるだろう。自分の魅力を使ってなんとか寝返させようとする理想主義のボンドと、現実主義のM、戻れないところまで来てしまったが葛藤するエレクトラの三者の演技を光らせる絶好の機会だったが、製作陣はあまり深みを描くことを放棄したようだ。 二作目の「ロシアより愛をこめて」以来17本に登場し、作品にユーモアとファンタジーさを添えたQは本シリーズで不可欠な素晴らしい存在感を示していた。我々に二つの言葉(弱みをみせるなと逃げ道を残しておけ)を残して見事な去り方をされたと思う。
[DVD(字幕)] 4点(2006-12-01 23:38:07)
356.  父親たちの星条旗 《ネタバレ》 
この映画に「答え」はないのかもしれないが、「真実を知ること」の重要性を問いかけている作品だと思う。 ドクはイギーの死の真実をイギーの母親に伝え、アイラはハーロンの父親に星条旗の写真に映っているのがハーロンであるという事実を告げる。 そして、ドクの息子ジェームズは硫黄島で起こったことの真実、父がアメリカで行ったことの真実を知るのである。 この真実をどのように受けとめるかは、この映画を観た我々にイーストウッドから託されたことだ。 「反戦」でも「アメリカの欺瞞」でも良い。この真実から何かを受けとって欲しいというメッセージはしっかりと感じられた。 演出や脚本においても以下のような見事な工夫がされている。 【三つの舞台】①硫黄島の戦い、②英雄に祭り上げられ、戦争国債の宣伝に駆り出される日々と真実に目をつむり、偽りの勝利に歓喜する国民の姿、③現代(父ジョンの生き様を探る息子)という三つの舞台が目まぐるしく描かれていく。 しかも、それぞれの時間軸がずれているから、初見ではなかなか分かりづらいかもしれないが、それぞれ舞台から小出しにされた情報が見事に底辺を形作り、それが山となって、頂上(真実)を炙り出しているのが見事である。 【三人の英雄】二本目の星条旗を掲げた六人のうちドク、ギャグノン、アイラの三人の帰国時の対応は見事に異なる。 ギャクノンは英雄の名声を利用し、将来に対するコネクションと地位を恋人とともに築こうとする。 アイラは英雄と扱われることに激しい拒否反応を示す(上官に飲んだくれと罵られ、戦場に戻されるのはまさに欺瞞であり、戻される前に母親に会いたいと頼んでも、「英雄」であるはずの彼の頼みは受け入られない)。 一方、ドクは「英雄」と扱われることに対して、態度を明らかにせず、口を閉ざしたままだ。彼の寡黙さは見事にイーストウッドの問いかけになっている。 彼はギャグノンとは対照的に、恋人を近くに置くことはしない。戦争国債を宣伝することは必要悪と捉え、任務はきちんとこなすが、自分を決して「英雄」とは思っておらず、利用することも当然考えていない。その苦痛は彼を戦争後も寡黙にさせている。 三人の母親(マイク、ハンク、フランクリン)に会ったときの三者の異なる態様も実に見事な問いかけだ。
[映画館(字幕)] 7点(2006-12-01 23:31:24)
357.  007/トゥモロー・ネバー・ダイ 《ネタバレ》 
往年の作品に似た雰囲気になっており、素直に楽しむことができた。 マニーペニーとボンドの会話がつまらなくなった分、Mとマニーペニーの会話は面白くなったのは良かった。Mについては慎重派、理論派ということは描かれていたが、前作でスパイに懐疑的だったMがすっかりスパイを信用し切ってしまうのはいかがなものか。 カーアクションはなかなか工夫がされている。無人のクルマが右往左往するというのは面白いアイディアであるし、整備されたアイテムも多彩で効果的に使用されている。手錠に繋がれた二人によるオートバイアクションもより緊張感を増す展開となっている。 しかし、銃撃戦に関してははっきりいって面白くない。何百発、何千発とボンドに撃ち込まれようと、銃弾がかすることも、傷つくこともないのは、逆に緊張感をそぐものだ。なんらかの改善が必要だろう。 また、本作は、なかなか面白い視点が描かれている。ボンドと同等程度に戦うウェイリンの存在である。「私を愛したスパイ」でもロシアのアニヤもいたが、彼女は対等とはいえない存在であった。敵として戦う相手としては、「美しき獲物たち」のメイディなどはいたが、共同して戦うボンドガールは彼女が始めてではないか(消されたランセンスのパムは単なる協力者)。 面白いのは、同等に戦うだけでなく、スパイとしての質についてボンドとリンは互いに比較されていることがよく分かる。カーヴァーの新聞社に潜入した際は、ボンドは屋上から用心深く侵入したものの、不用意に侵入し、警報を鳴らしたのはリンである。 ラストのステルス艦においても、ボンドは監視カメラをかいくぐりながら、爆弾を設置していたが、リンは監視カメラに注意せずに爆弾を設置していたため、囚われてしまう。リンのミスのせいで、自分の立場が危うくなった際でさえ、相手の兵士を使って、自分の死を偽装するというスパイとしての腕の違いを思う存分見せつけている。しかし、そうはいっても常にボンドが優位であるばかりではない。手錠バイクの危機を脱して、二人で仲良くシャワーを浴びている際には、リンはボンドに一杯食わせている。スパイとしての腕ならばボンドは負けることはないが、女の魅力には負けるという洒落が利いたことをしているのはなかなか良い。 メディア王カーヴァーは悪くないが、彼の陰謀は言葉として理解できるが、過去の悪役と比べ、イマイチピンと来ない部分はある。
[DVD(字幕)] 6点(2006-11-30 23:49:00)(良:1票)
358.  007/ゴールデンアイ 《ネタバレ》 
ピアースボンドの印象はというと、正直いって何も無い。他のボンドにあったような長所もなければ短所もない、極めて優等生であるが面白みに欠けるボンドである。強いていえばスマートさや洗練さが彼の売りだろうか。 敵役はどんどん魅力的になり、ボンドガールも単なる添え物ではなく、今後はボンドと対等な存在まで主張するようになってきている状況下で、肝心の主役の影が薄くなっているのは少し問題ではないか。 しかし、本作の視点はなかなか面白いと思う。6年という空白の歳月を利用して、その時代の流れを取り入れようとしている。冷戦は既に終結し、世界はどんどん大きく変わりつつある。ハイテク化が進む時代において、スパイという存在は過去の遺物ではないか、この時代にスパイは果たして必要なのかを問おうとしている。 マニーペニーとの会話にはセクハラという時代の視点が感じられ、Mについても、ボンドのような勘に頼るスパイに任せるのではなく、数字(恐らく確率や可能性など)を重んじる人物で、かつ女性の台頭という視点を取り入れているのは面白い。 そういう点を踏まえると、アレックの位置付けはあまり好ましくない。 彼の組織名となっている「ヤヌス」とは二つの顔を持つ神である。つまり、ボンドとアレックはもっと表裏の関係として描いた方がよかったはずである。二人のスパイを通して、スパイ不要の時代に何のために自分を犠牲にして、何のために人を殺すのかというスパイの在り方や信念を問うた方がよかったはずだ。 しかし、コサック(イギリスの裏切りによってロシアで生き恥をさらした人々)の生き残りとか、結局は金のため(自分の理解不足かもしれないが、彼らの方法では証拠を残さず金を奪うことは困難ではないか)という「逃げ方」をしてしまうのは残念でならない。 ナターリアの位置づけも中途半端だ。彼女は本作のキーパーソンであることは間違いない。しかし、その重要性や動機があまり告げられぬまま、敵の捕虜になったり、ボンドに随行するので混乱する。今までのガールは、私怨であったり、裏切られたための報復であったり、任務としてボンドと行動を共にするわけである。しかし、どうも彼女の場合はそれが当てはまらないような気がする。 また、確かにボールペンのトリックは面白いが、時間の制約下において片手でキーボードを打つ奴がいるとは思えないという疑問が沸いてしまうので無理を感じる。
[DVD(字幕)] 5点(2006-11-30 00:17:21)
359.  007/消されたライセンス 《ネタバレ》 
本作は興行的に失敗した部類に入る作品であり、また、あまり目立たなかったダルトンの最後の作品ということもあり評価は高くない気がするが、ストーリーもアクションもかなり質の高い作品となっていると思う。 ボンド、サンチェス(これほど魅力的で出番の多い悪役はいない)、彼の部下たち、二人のボンドガール、M(父親のような存在)、Q(普段は仲が悪そうにみえるが親友のような存在)、マニーペニー(母親のような存在)のいずれも役割がしっかりとしており、見事に噛み合っている展開が見事だ。 私情で動くボンドにはかつてないほどの人間味が感じられる(シャーキーを殺された際には自らの危険を顧みず、復讐に打って出ている)。後ろ盾を無くしてしまったが、その分ボンドの状況把握の上手さ、機転の利かせ方が非常に上手く描かれている。 また、今回の件によってボンドは諜報部員として多くのことを学んだのではないか。単独で動きたいと主張しながらも、何度となくパムやQに助けられ、何度となく彼らに助けを求めている。逆にいえば、いままでも一人でミッションを成功させてきたわけではなく、様々な人々の協力があったために成功できたということを言い表しているのではないか。 また、彼の暴走のために、香港麻薬局の計画やCIAによるヘラー寝返り計画を台無しにしたことを知り、かなり落胆した様子も窺えた。諜報員である彼にとってこれが意味することは大きく、自分の行動の重みを理解するよい機会だったのではないかと思われる。 ラストにおいても、サンチェスに対してフェリックス(第一作のドクターノウ以来の友人)のライターを使っているのもよい。どのボンドアイテムよりもこれには敵わないだろう。ボンドのボロボロとなった姿も、この復讐劇の壮絶さを物語っている。ムーアのボンドだったら、こんな姿は見られない。 また、通常であればボンドガールと意味のないラブシーンで締めくくられることが多い本シリーズにおいて、ガールの選択が与えられるのも面白い趣向だった。美人で魅力的なルペを振り、自分のために何度も身を挺して助けてくれたパムのためにプールに飛び込む姿は、いままでの中でもかなりかっこいいボンドの姿だといわざるを得ない。 コメディ的な要素は少ないが、ジョー教授にその役割を与えたり、サンチェスのアジトに爆弾を仕掛ける際に、彫刻の胸を掴んだりといったさりげない工夫はされている。
[DVD(字幕)] 8点(2006-11-28 22:45:10)(良:1票)
360.  007/リビング・デイライツ 《ネタバレ》 
ダルトンボンドは派手さやユニークさには欠けるが、渋さとカッコよさと冷静さと重厚さを兼ね備えた男だ。無理を承知で自分に協力してくれたソンダースを殺された際の怒りに満ちた表情がなんとも言えず人間味にあふれている。ダルトンはアクションだけでなく演技もできる人だったと思う。 彼のボンド像としては、ボンドカーをフルに利用し、ボンドアイテムもさりげなく利用するところはコネリー路線を踏襲するものか。レーゼンビーのリアリティ路線を加えて、ムーアのコメディ路線から脱却しようとしているのが窺われる。ダルトンは真面目すぎるとよく言われるが、パラシュートで降りた場所が美女のヨットだったため「1時間で戻る…いや2時間だ」というところには、やはりボンドの根本スタイルに変化はないことも観客に伝えている。 ストーリーに関しては、チェロを巡る金の流れからだんだんとコスタフ将軍の亡命事件の裏がみえてくるのは面白い展開であり、雰囲気もよいのだが、もっと面白くなっただろうと思われるところがある。 特に、ボンドとコスコフとカーラの三角関係はストーリーをもっと面白くできたはずだ。まだカーラがコスタフを信じている段階(ボンドにクスリを飲ませている)で突然コスタフがカーラまでをも始末しようとするのは違和感(ボンドに彼女を殺させて切り捨てるつもりだったが)があり、カーラとコスタフは愛人関係にあるという設定があまり活かされていない。ボンドとの国境越えを巡る逃走劇や遊園地デートでボンドの魅力を知り、また、コスタフの真の正体を知ったことで、ボンドとコスタフとの天秤で揺れるカーラの姿をもっと描くべきだっただろう。コスタフがカーラを裏切るのではなく、カーラがコスタフを裏切った方がよほどストーリーとしては面白い展開になっただろう。嫉妬までをも絡めるとなお良くなるはずだ。コスタフもウィテカーも存在感は薄い。 また、次作の「消されたライセンス」で私情に走るボンドからライセンスが取り消されたが、本作のボンドは、「コスタフ将軍を狙う狙撃手を暗殺する」「プーシキン将軍を暗殺する」という二つの指令をいずれも独断で背いているのは「消されたランセンス」以上に問題ではないのか。ソンダースにMに報告すると言われた際に「クビになるのは願ったりだ」と発言していることからも、やや国に対する忠誠心が感じられないのが、ダルトンボンドの欠点なのかもしれない。
[DVD(字幕)] 5点(2006-11-28 00:09:59)
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