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マーク・レスターさんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 31
性別 男性
ホームページ http://ouiaojg8.blog56.fc2.com/
自己紹介 某光学メーカーの宣伝部に所属
通勤の地下鉄の中で、ポータブルDVDプレイヤーで映画鑑賞し、モバイルPCでレビューを作成。全てを通勤の地下鉄内で実施しております 。


在学中に制作した 「LAST FESTA」 という名の8mm映画が ’84 ぴあ・フィルム・フェスティバルに入選。
映像作家を夢見て 3年ほど映像の現場に、根性無しの性根が露呈して途中断念。
方向転換して レディースファッションの宣伝部に、その後、専門学校の広報部に、そして今、光学メーカーの宣伝部におります。


1000文字の限度内ではではどうしても、映画に対する思いを伝えにくく、こちらには一言感想のみに控えさせていただきます。

↓ 正式HPはこちら、長文の完成版はこちらにあります。どうぞお立ち寄り下さいませ!

http://ouiaojg8.blog56.fc2.com/

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21.  モスラ(1961) 《ネタバレ》 
卵から幼虫、幼虫から繭、そして繭から成虫へと劇的な変体をするモスラのこれらの変化の真髄は、[移動方法の変化]に集約される。卵という「点」における停止状態から誕生という生命の出発点を経て、「線」移動を開始する芋虫状の幼虫となる。幼虫による移動の特徴はその距離をそのまま忠実に辿るところにあって、「跨ぐ」ということをしない移動方法によって通過場所は例外無く破壊され、その跡はあくまでも「線」を基本としている。その愚鈍なまでの忠実さは、その後に来る飛翔に向けての聖なる自制として感動的ですらある。幼虫としての移動距離を全うした彼は、第二の誕生を迎えるべく再び「点」に引きこもる。繭という自主的な卵に身を潜め、しばしの停滞を演じる。その直後の羽化。繭から「再生」したモノはまるで別の生き物だった。小美人を探し求めるためのDNAを受け継いだ、しかし全く違う肉体がそこにはあったのだ。 この肉体がもたらす最大の成果は「飛ぶ」という移動形態を獲得するところにある。 この「飛ぶ」ことによって彼は人間達がへばりついている「面」の世界を一気に凌駕することになるのだ。自力では飛べない人類がX軸とZ軸によって生成される「面」の世界に留まらざるを得ないのに対し、「飛ぶ」ことでY軸のプラス方向を獲得した彼は「面」に執着する人類を俯瞰の位置で見おろす、「宙」の世界を制覇する神々しい存在へと自らを転身させていくのです。■この華麗なる転身物語と同時に、この映画の世界観もインファント島という土着の地から、東京へ、そして急転、日本人が憧れをもつ欧米の地へと、順次ブランド・アップさせていることに気付く。そんな映画的構造の中に1961年公開当時の高度経済成長期の気運を見たようで大変興味深く感じました。が、しかし、結局、彼は小美人を救出して、今まで構築してきた「ブランディング」などかなぐり捨てて、出発点である土着の地、インファント島にあっさりと戻ってしまうのです。無粋きわまりないことは百も承知だが、イメージ戦略の端くれにいる自分としては、この有様を見て「おい....モスラ、お前、もったいないじゃん....」という言葉がつい口から漏れ出てしまったのでした、マル。
[DVD(字幕)] 7点(2005-05-11 22:24:17)(笑:1票)
22.  フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ 《ネタバレ》 
デカダンスの香り高き、実に上質なSF映画でした!。■最も興味深かかったのは“悪”のありかたで、従来は建造物の“破壊”とそれによる人的被害が怪獣による“悪”の表現でしたが、今作に持たされるものは“食べられる”という“破壊”の恐怖を超えた、生物であるが為の否定し難い、根源的な恐怖なのです。“異形”ゆえに持つ人類との“差別と疎外感”どころではない、捕食者と被捕食者という、両者の間には共存の妥協点などありようもない、揺るがし難い関係が構築されるのです。生きるために他者を殺し“食べる”という、自己存続のための“悪”に対し、人類(自衛隊)は異形の者(ガイラ)へ“メーサー殺獣光線車!”を駆使し、存続をかけた戦闘を仕掛けます。しかしその“悪”は生物の端くれである人類自体も背負っている宿命、どうしょうもない行為ではあるのです....。ガイラが殲滅される直前に、突如として善玉サンダが助けに入ります。今作は「“サンダ”善玉 ⇔ “ガイラ”悪玉」という対比の2体を 用意し、人類 対 異形の者 という単調な図式からの脱却を図っています。善玉のサンダは山岳地に息を潜め、「もののけ姫」「平成狸合戦ぽんぽこ」等のジブリ映画に見られる、人間社会に追いやられる“封印された生命体”という役回りを演じています。 人類に対する同化願望・従順性・ヒロイズム。それと並行する人類に対する疎外感・哀しみ。サンダとガイラの細胞レベルの結びつき等、様々な関係・感情がサンダの登場で生まれ、それらが絡み合いながらあの不条理なラストに突入していくのです。結局のところサンダは、ガイラによる根源的な“悪”と“異形である自分達”の存在を完全に封印するために、(彼らには予知できていた)海底火山での2体同時消滅という決着を望んだのかもしれません(涙...)。そしてガイラが、サンダや人類によって命を奪われたのではなく、海底火山という寓話性によったところに、ある法話を思い出しました。ガイラが“捕食”という、生を持つ者全てに備わっている醜悪さを一身に背負っているとすれば、そんな彼を無為に消滅させられるのは(裁くのは)同じ宿命を持つ“生物”であってはならないのです。何故なら、【他の生物に対して行われる行為の中で、唯一許されるのは“食べる”ことしかない。】からなのです。    
[映画館(字幕)] 9点(2005-01-16 00:20:51)
23.  シカゴ(2002) 《ネタバレ》 
これって、もしかして「映画的キュビズム!?」と思ってしまいました。■ピカソによって提唱された「キュビズム」は“複数の視点による対象の把握と画面上の再構成”を意図する芸術活動のことで、隠れて見えない立体物の裏側や、もともと見えない人間の内面を、サイコロの展開図のように2次元絵画へ定着させていく手法であると理解しています。そもそも従来のミュージカル映画のミュージカルシーンというものは「映画の構造」を語る上では重要な要素になり得ないと認識をしていましたが、この映画のミュージカルシーンこそは、対象物の裏側や内面を訴求しうるものとなっており、光の当たらない・目に見えない・隠された側面を浮き立たせ、物語の真正面を語るストーリーシーンとともに、対象物を多面的に複合的にそして立体的に訴えかけてくるのです。この映画は“複数の視点による対象の把握”という作業を経て、ミュージカルシーンという異なるアプローチを内包することによって“映画を(多面的に複合的に立体的に)再構成”しているのです。そんな「映画の構造」を考え巡って、前述の「キュビズム」という言葉に行き着いたわけです。今作品が他の凡庸なミュージカル映画と一線を画す要因となるのが、演出味たっぷりなナイトクラブのショーという別次元で、全てのミュージカルシーンが実施されているところにあります。出演者がショーのパフォーマーとなり、観客に向けてストーリーシーンとは違う手法のプレゼンテーションを繰り広げていくのです。その内容は「嘘まるだしの逆説的自己プレゼン」や「可笑しいほど自虐的な自己プレゼン」であったり「ある状況下における人間関係、力関係の変化、役割説明」までもが、照明・衣装・大道具を利かした劇的空間で展開されるのです。このようにストーリーシーンとミュージカルシーンとの明快で大胆な分離を計ることによって、「違う視点」がクローズアップされ、この映画は厚みのある立体感のある作品へと昇華し、稀有なミュージカル映画と醸成していったのです。■ラスト2人組による機関銃ショーは 「誇大妄想としての叶わなかった夢物語」であったと主張しておきたい。結局、共演が成功しなかった末の妄想だったのだ。嘘・自惚れなど虚実入り乱れたこの映画のラストとしては悪くない解釈だと思いますが、いかがでしょうか?  
8点(2005-01-01 00:54:03)(良:1票)
24.  夢みるように眠りたい 《ネタバレ》 
①叶わなかった「想い」を片時も忘れずに、老女となった今、胸の奥に秘めながら静かに人生の幕を閉じる。というモチーフと、■②「現実と虚構」そして「現在と過去」が錯綜しつつラストを迎える。という大好きなモチーフが2つもありました。■①の「遂げられなかった想い」は「シザーハンズ」や「タイタニック」にも見られるものです。「若さ」「美しさ」というプラスのベクトルの中で輝やかしき瞬間を持ち、それ故に他人の心を揺さぶり、ドラマが生じる。様々な要因によって想いは遂げられず、不本意で永い人生を歩むことになる。いつしか「老い」「衰え」という負のベクトルの中で、その終着点である「死」を迎える。死に逝く彼女の胸に去来するものは、「若さ」「美しさ」に恵まれながらも、「想い」を遂げられなかった運命への悔恨..。しかしこの死の到来によって彼女達は時間や肉体をも超越した“回帰”という方法で「想い」を遂げていくのです。「タイタニック」では舞踏会で彼と再会をし、この映画では黒頭巾によって救出されるのです。ここにおいて「死」は気が遠くなるほどの永い“消化試合”であったこの人生から放たれて、本来あるべき人生を生きるための、「崇高なる儀式」となるのです。■②の「現実と虚構の融合」というモチーフは、「田園に死す」や「陽炎座」、「マトリックス」や「ダークシティ」に共通します。知的な迷宮に身を任す快感と映画の構造的な解を得たときの高揚感は、映像という媒体でこそ得られるものと信じます。■さて本題の「夢みるように眠りたい」は、やっと終了10分前にして「現実と虚構」の急接近で映画が動き始めます。桔梗を探索するうちに、50年前の未完の映画の結末を演じていた、いや、演じさせられていた!という構造的な解に刺激を受け、「虚構・過去」である黒頭巾が探偵によって実体を成し、時空を超えてラストシーンを構築していく。そんな静的なスペクタルに魅せられたのです。「夢みるように眠る = 穏やかな死 → マイナスのベクトルからの開放 → プラスのベクトルを持つ桔梗への“回帰”」の図式の中で、現実において自らの「人生の終焉」を迎え、虚構では「映画の人生を成就」させていくのです。「現実」からも「虚構」からも独立した、映像ならではのラストシーンは、「想い」が叶い、「現実と虚構」「現在と過去」が渾然となった映像的エクスタシーに満ちたものでした。 
6点(2004-08-28 22:57:10)
25.  パットン大戦車軍団 《ネタバレ》 
フランクリン・J・シャフナー監督ごめんなさい、この映画をフランシス・フォード・コッポラ監督(本作の脚本)の系譜として捉えてしまいました。■パットンは、シーザーやナポレオンを標榜するも、影響力を「軍事」の領域に限定された一介の軍人に過ぎなく、憧れのシーザーやナポレオンは軍人である以前に、皇帝や執政官という「政治」を司る立場にあったのです。いかに個人的資質が高くとも、未曾有の破壊力に肥大した「軍事力」と、新たな“民主主義”という手法の「政治」を一元管理する事など、この高度に分業化した社会構造の中では不可能なことになっていたわけです。70年代終盤、コッポラはカーツ大佐という、違う形の「戦場のカリスマ」に、パットンが成しえなかった伝説の指揮官を実行させることになります。行動目的を「軍事」から「政治」に、「勝敗」から「支配」へと拡大させたのです。“戦う者”から“統治する者”への巨視的展望こそが、パットンとカーツを、そしてパットンと伝説の指揮官を分ける決定的な要因だったのです。しかし、残念なことにカーツは“民主主義”とは極北にある“シャーマニズム”を導入しての絶対的な“神”へと成り下がっていくのです。このカーツの事例でコッポラは、「軍事と政治の一元化」は時代に逆行した“独裁”形態でしか成しえないことを実証し、パットンの時代的ハンディキャップをも擁護しているかのように思えました。■この映画の冒頭、パットンは熱い演説で【第二次世界大戦の新兵】を鼓舞しますが、聴衆を画面から徹底排除した作為的な演出を行うことで、この演説が、この映画を観ている【来たるべきベトナム新兵】を洗脳する戦意発揚プロパガンダにすり変わったと感じました。公開が1970年という絶妙のタイミングに国家的陰謀の臭いをかいだのです。70年初頭-パットンに尻を叩かれながらベトナムに赴き、75年-地獄を見ての帰国。やっと癒えた79年-カーツによる悪夢の再現。そしてそれによる心的外傷後ストレス障害(PTSD)の発症。さぞかしコッポラに憤慨したアメリカ人も多っかたことでしょう。“コッポラ黄金の70年代”を総括すると、このパットンで颯爽と幕を開け、73年、ビトー・コルレオーネという「戦場(抗争)のカリスマ」で急展開、70年終盤にカーツと共に破滅的に終焉を迎えた、と言えるのではないでしょうか。■あっ!!本当にゴメンなさい!フランクリン・J・シャフナー監督!
7点(2004-06-08 22:25:39)(良:2票)
26.  チョコレート(2001) 《ネタバレ》 
「継続されない遺伝子」、「“種”における死」、という言葉がグルグルと頭を駆け巡った。人種差別で全く関わることのなかった男女の人生が、各々の息子の死をキッカケとして、近づき・引かれ合い、そして最後には深く求め合う、というこの映画の構造の中に、プリミティブな意味を妄想してしまった。それは、息子の死によって「己の遺伝子を受け継ぐ存在」を無くしてしまった両性が、その喪失感を互いに埋め、最終的にカラダのスキマを埋めることによって、無自覚的にそして本能的に「遺伝子を継続」させる行為に到達・実行していた、という観点です。両性は息子達が死ぬことによって、生物の根源的な目的である「“種”の保存」を実行できない存在に急落し、「“個”としては生きているが、“種”の存在価値では終焉を迎えた」という状況にいたのです。そんな両性が本能的に、各々を補完できる存在を求め、“人種”という表層的な障害を排除し、“種”における自己の存在意義回復を試みる映画である、と受け取ったのでした。人類は「脊椎動物門・哺乳綱・霊長目・ヒト科・ヒト属・サピエンス種・ホモサピエンス」と言い、人類学者は「これ以上細かく“人種”なるものに細分する生物学的根拠は何も無い」とし、“コーカソイド”と “ネグロイド”という、言われ無き区分は、意識レベルでの思惟的な差異・差別であり、“ホモサピエンス”という、たった1つの “種”の前では、黒も白も関係無く、ただ男と女がいるだけのことだったのです。“男であることの存在意義”と“女であることの存在意義”を肉感的にぶつけ合い、「この“黒人女”と関わりたい」という、つき動かされるような自己欲求を認識した時、男は阻害要因となる黒人差別主義の父親を追放することになります。それは父親の主義・存在を否定し、究極的には血縁を断つことを意味し、大袈裟に言うと「遺伝子を受け継がない」と宣告したことに他ならないのです。「八方塞がりだ」と父親は最後のセリフを言う。“種”における死(存在意義の消滅)と、そのすぐ後にやってくるであろう“個”の死を自覚したのだろうか...。  ラスト、女の内なる葛藤が発露され、それをグッと自分の胸に飲み込むことによって、男との関わりを静かに受け入れてゆきます。それぞれに、“秘めた思い”を胸に仕舞い込みながら佇むこの夜から、両性の根源的な復権がきっと、なされていくのでしょう.....。  
7点(2004-04-11 23:27:12)
27.  ショーシャンクの空に 《ネタバレ》 
刑務所限定の、非常に特徴的な“ピンポイント大河ドラマ”となってい ました。空間的な広がりを<横展開>、時間の推移を<縦方向> として、映画を敢えて彫刻のような「立体物」として捉えてみる と、この特異性が明確になります。 この映画は、面積や距離という<横展開>が全く期待できない刑 務所という“点”が、20年という長い時間軸を<縦方向>に移動 した結果生成される、“針のように細長い”実に奇妙な“カタチ” をしているのです。この極細な外観を形成する「刑務所の壁」 が、結果的には「経験」という人間の内面的な広がりをも否定し てしまう悲劇に、強く心を動かされました。「刑務所の壁」は長 期の隔離により、“娑婆(シャバ)”での常識(日常慣習・対人関係・ 社会システム)を脳内から一掃し、刑務所だけでしか通用しない 「非日常的で非常識的な常識」に囚われた、“廃人”を量産していたのです。仮釈放者の人生は、この映画と同じ脆弱な極細形状を 成し、彼らの消え入りそうな存在感は、高層の針(極細の<縦方 向>)のテッペンで、爆発的に膨張する<横展開>(“娑婆”で の常識)という重い十字架を背負い、危なげなバランスを取る道 化師になぞらえます。偏見・差別・疎外感という強風により、今 にも転落しそうな情況にあったのです。 (ロープを首に巻き付け、極細の人生から飛び降りたブルックス という存在もいました...。) 主人公達が目指す場所はこの危険なアメリカ社会ではなく、“記 憶の無い海”なのです。“娑婆”の致命的な点は、刑務所での偏 重した極細の<縦方向>が、危険な“位置エネルギー”へと転換されることですから、「記憶の無い→過去が問われない→時間軸< 縦方向>の極細形状がリセットされる」と解釈するならば、“記 憶の無い海”は彼らの危機状況を構造的に是正できる、聖なる場所 だったのです。 ラスト近く、この映画の全貌が、実は極細ではなかったことに驚 愕します。極細の<縦方向>から、直角に横方向に伸びる、見す ぼらしく、しかしながら強い意志を持つ“抜け穴”が水面下で形 成されていたのです。それは一瞬だけアメリカ社会に通じ、遥か “記憶の無い海”へと直結。 穏やかに広がる<横展開>と豊かに熟する<縦方向>。 忌まわしき過去を払拭するべく、今、人生がこの海から再生して いくのです。
7点(2004-03-28 00:39:09)(良:2票)
28.  2001年宇宙の旅 《ネタバレ》 
「人類」と「道具」の進化。そして両者の支配関係を巡る映画でした。始まりは「人類」が“サル”で、「道具」が“骨”の頃。今や2001年。道具を使って効率良く動物を殺し、食うことにより、“種”の競争を生き延びてきた類人猿はホモサピエンスへと進化。「道具」は、蒸汽動力を得て「機械」へ、電子工学の活用で「コンピュータ」へと進化。そんな進化を遂げた時、両者の支配関係に見直しの儀式が実施されたのです。場所は宇宙空間ディスカバリー号。人類代表ボーマン船長、一方はHAL。感情や自尊心を持つことでHALは「有機体的な無機物」という「有機」と「無機」の中間的存在へと究極の進化を果たす。ボーマンは酸素・重力が存在しない激変の環境で、自己制御が効かない「無機物的な有機体」となる脆弱な瞬間にいます。両者は「有機(能動)」と「無機(受動)」の境界線上にいる点で並列であり、“人類がHALを創造したが、HALが乗組員を管理し、支配もしている”という「支配・被支配」の混迷下にある非常にボーダーレスな関係にあったのです。 “種”の闘争に勝利し、次のステージ(宇宙空間)で対峙したのが、己の武器である「コンピュータ」の「狂暴な正体」だったのです。そもそも“骨”は他の部族や動物を支配するための「残虐な武器」として描かれており、「機械」や「コンピュータ」になってからも、「防衛・兵器」の側面から進化を加速させてきた経緯があります。支配関係逆転のための、偶然を装った必然の攻撃だったわけです。■結局。HALは電子動力を断たれ機能停止。勝者であるボーマンは次のステージへの新規DNA配列をダウンロードする為、再起動・強制終了を受けます。いくら文明が洗練されようとも、地球では「繁殖し、他者を殺し、食う。」「繁殖し、他者を殺し、食う。」という原始的で残虐な“種の保存”行為が繰り返されていくのです。宇宙空間に浮かぶ胎児は、この“種の保存”を実行する為に発生し、今後も発生するであろう夥しい数の胎児(=繁殖)を表現していると感じました。膨大な数の胎児を用意し、切り捨てを前提とした様々なロールプレイングを経て、DNAは生き残る術を学習していきます。地質学的な時間の中で最適なDNA配列に行き着いて、“種”は「進化」を続けていくのです。■■確実に、強固に、そして徹底的に他者を支配するために.......。  
8点(2004-01-04 21:53:19)(良:1票)
29.  ショコラ(2000) 《ネタバレ》 
「母親から主人公へ」、「主人公から娘へ」と連綿と続く「世代間連鎖」に強い興味を持ちました。 昨今、取りざたされている「幼児の虐待連鎖」に例を見ると、 「幼児期に虐待された心の傷(トラウマ)が、時間を経て親となった時に、“我が子への押さえられない虐待衝動”として噴出する悲劇のサイクルで、被害者がいつしか加害者に変貌し、新たな被害者と同時に次代の加害者をも作り続ける冷たい鎖。」なのです。この主人公は幼児虐待はしないが、「放浪」という行為で「世代間連鎖」の大きな鎖となっているのです。 主人公は母親と放浪した子供時代に、何らかのトラウマ的精神傾向を植え付けられ、押さえ切れない衝動のまま、自分の娘にも「放浪」という極端な生き様を強要してしまうのです。 問題なのは、深層的に娘がそのライフスタイルを望んでいないところにあり、居もしないカンガルーを唯一の友にしている点に、そんな娘の「心の闇」が見えてきます。 主人公は他者への心くばりを見せる前に、最も身近な存在である自分の娘が持つ、この構造的な悲劇を理解し、一刻も早く解決するべきだったのです。  そんな閉塞情況に、それこそ「河原者」(反権力、芸能の象徴)の彼が船に乗って登場。村の“正統”に突然“異端者”がチョコレート店を開業し、追い討ちをかけるように水上生活者という“異教徒”が大挙して侵入して来たワケで、ちょっとした宗教戦争の様相を呈するのです。(異教徒は“えせ十字軍”に火あぶりの奇襲にあって一時的にその勢力を縮小しますが......。) 筋書きの取りあえずの和解を見て、「中世の宗教的価値観に支配されていた村に、近代の夜明けが訪れる。」という大団円を迎えます。しかし、主人公たちに真の開放がやって来るのは、その後なのです。「河原者」の彼が丘にあがり、「変わり者」の主人公と村に定住するという、“異端者”と“異教徒”の改宗という穏やかな形で具現化するのです。 娘の精神的危うさの象徴であったカンガルーが娘のもとを去り、 放浪衝動の発生起因である「北風」に、トラウマの元凶だった母親の遺灰をゆだねる姿から、幾世代にもわたり強固に繋がってきた「鎖」が切れる音を聞きました。 この映画は主人公の「血縁的因習からの開放」と村人の「地縁的因習からの開放」という二重構造があったからこそ、映画としての膨らみを持つことができたのです。
6点(2003-12-01 23:57:12)(良:5票)
30.  ブラス! 《ネタバレ》 
ブラスバンドが、あの街・あの共同体にとって、何らかの前向きな感情を与える 「求心力」に昇華して欲しかったと強く思いました。 一瞬そのような雰囲気にもなるのですが、監督の自制が良く効いており、 感情の発露は望むべくもありませんでした。 「優勝・恋愛・家族の再生」という晴れがましい表面上の結末と、 「炭鉱閉鎖・集団失業」という絶望的な境遇。この落差が、「痛い」映画となっていたのでした。 ロンドンの街をオープンバス(?)に乗って「威風堂々」を演奏するラストに至っては、 まるで「威風堂々」がこれから始まるコミュニティ解体の葬送行進曲のように、 オープンバスが経済的破綻の末の「巨大な共同棺桶」のように思えてなりませんでした。 先日、「三井三池炭鉱」の廃坑以後を丹念に追いかけた写真展に行ってきました。 炭鉱という、たった一つの産業が崩壊した点で、「ブラス!」のあの街と同じであり、 いわば「ブラス!」以降のあの街を擬似体験してきたわけです。 写真展に、こんな作品がありました。 「見晴らしの良い丘にたつ墓地。その背景に広がる大規模工場。」 工場はかつて、全面的に石炭に依存し、その供給を支えたのがこの墓地に眠る人々だったのでしょう。 無情にもシステムを乗り換えた工場は今なお稼動し、片や時代遅れの墓がポツンと置き去られている。 写真家はこんなコメントを残しています。 「炭鉱で繁栄していたことを恥じるように、この街は死んでいった。炭鉱で働いていた過去を 消し去るがごとく、人々は姿を消した」。 そうなのです。「ブラス!」の街は「三井三池」の街と同じく、社会的インフラを剥奪され、 人的コミュニケーションも崩壊し、経験や感情が継承されない「共同体の廃墟」へと 朽ち果てていくことになるのです。(その象徴的な存在として「忘却された墓」が僕の脳みそを 直撃したのでした。) このコミュニティ解体による惨状を写真家は凄まじい執着で訴えかけてきます。 そう。彼もこの街で生まれ、多感な少年時代を過ごし、出ていった一人だったのです。 「ブラス!」と「三井三池」。九州とヨークシャー。時空を超えて感情が「バチバチ」とリンクした。   《遠く離れた地で、少年たちはこの「街」を思い出すことがあるのだろうか?  ダニーが「眠る」墓は、はたしてどんな風景を見おろすことになるのであろうか......。》
6点(2003-11-13 00:35:10)(良:2票)
31.  怪談(1964) 《ネタバレ》 
昨今の、安っぽい ハッタリを利かせたホラー物とは、明らかに一線を画す怪作です。  恐怖を暴力的に振り回すのではなく、小泉八雲の「怪談」の世界を「超アナログなSF」として捉え、非現実世界を舞台に、真剣に「耽美・妖美」に向き合った映画なのです。 水の中に落とされる黒、赤のインクの不穏で不吉な美しいオープニングから圧倒されました。 特にオムニバス形式の1話と2話は仰天モノです。  第1話の「黒髪」は非物理的なものと肉体的なものの対比がおもしろかった。 心や精神(この場合は執着、怨念)という非物理的なものは残存し、時間の経過の前には肉体(そして家屋)という物理的なものは脆くも朽ち果ててしまった というお話。 ラストは妻の肉体の崩壊が発覚するとともに家屋の老朽も露呈。 その家屋を次なる崩壊へと促進するのが、とりもなおさず妻を死に追いやった主人公なのだ。 恐怖から逃れるためにバリバリと家屋を壊しながら自らも老朽していく恐怖は 凄まじい。 妻の肉体崩壊の発覚を期に家屋崩壊と自らの肉体崩壊がリンクしていくのです。 「執着の残存」と「家屋や肉体の老朽と崩壊」この図式を際立たせる為に、あの不必要なほどでかいセットが必要だったのですね。 しかもメロディを廃した、精神的キシミ、肉体的・物的キシミをデフォルメしたあの音楽!(60年代の大島渚のあの凄まじい作品群は 美術・音楽ともにこの映画の存在が大きいことを今さらながら発見しました。)  第2話の「雪女」は悲しい母性の物語であり、悲しい恋の物語と感じました。 目的は監視だったのでしょう。ホリゾントに浮かぶ眼がそれを示していると思います。 それが男と姑の人間性に触れて結婚。子供まで設けてしまう。 ささやかな幸せの毎日。しかしそれも永遠ではなかったわけです。 とうてい男を殺せるわけもなく、子供を案じながら家を出ていく彼女の姿が、哀れで、いとおしく感じてしまいました。 男がソッと置いたわらじも雪の中、フッと消えていきました。 きっと、ささやかながら、穏やかだった幸せの証として、感謝しながら持って行った。と私は思いたい。   
10点(2003-11-12 23:20:44)(良:5票)
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