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onomichiさんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 404
性別 男性
ホームページ http://onomichi.exblog.jp/
年齢 55歳
自己紹介 作品を観ることは個人的な体験ですが、それをレビューし、文章にすることには普遍さを求めようと思っています。但し、作品を悪し様にすることはしません。作品に対しては、その恣意性の中から多様性を汲み取るようにし、常に中立であり、素直でありたいと思っています。

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381.  CUBE
CUBE=システム社会というメタファーだろうか?それは違うと思う。システム社会というのは、人間の欲望を消費動力とする自己増殖的な自動機械というイメージで語られるものであるから、この映画のCUBEとは本質的に全く別物だろう。では、CUBEとは何か?実は僕にもよく分からないw これまでのホラー映画に見られたジェイソンだのなんだのの何か得体の知れない不条理な存在とも全く違う。単に幾何学的な法則に従って構成されたパズルそのもののように思える。センサーによる幾多の殺人デバイスを持ち、単純な循環プログラムを施された自動機械。そんな単純かつ完全さ故にCUBEの謎は幾何学的に回答可能だ。実際、内部の人間は数学的解法によって謎をスイスイと解いていくではないか。そんでもって、皆が一致協力して脱出、めでたし、めでたし、ではなく、そこに現れるあまりにも人間くさい闘争、チープな愛憎は、一体何なのか?はっきり言って僕にはテーマがよく呑み込めなかった。メタファーとは何かしら切実さをもって語られてこそ僕らに共鳴するものである。この映画で描かれる「CUBEという完全性に立ち向かう愚かな人間」という図式は、モチーフとしてかなり古くさいが、実はそのあからさまな捩れと薄っぺらさこそが今は新しいものなのかもしれない。その白々しさが妙にいじらしい映画ではあった。そういえば、整数というのは神的完全性を備えており、その美しさはまだまだ人知の及ばない世界だ、というようなことを最近読んだけど、そういう美しさをもっと表現できればまた違った見方ができたかもしれない。まぁぐたぐた言ったけど、面白いか、面白くないかと言ったら、まぁそこそこ面白い映画だったということだ。
7点(2004-05-19 00:20:42)(良:2票)
382.  フランスの思い出
都会の少年が片田舎で過ごす夏休み。少年は迷える大人の世界を垣間見、そして初めての喪失を経験する。子供の通過儀礼的な物語はわりとありふれている。この手のストーリーって結構あるからね。子供を主人公とした素朴すぎる展開も今では古めかしい手だという感じもする。ただ、この作品の見所は案外、大人たちの世界の方にあるのかもしれない。  見た目はイカツいが実は心優しい男、リシャール・ボーランジェ。<彼の得意な役どころである> 心に傷を持ちながらも田舎の日常を必死で生きる女、アネモーヌ。彼女の「はすっぱなねーちゃん」って感じも悪くない。  これは、ある事件をきっかけにして心を通わすことができなくなった夫婦が、一時的に預かることになった少年の無邪気さに触れて、お互いを思いやる素直な気持ちを取り戻す、という物語でもある。しかし、これもまた十分に素朴すぎる展開だ。あからさまな素朴さが僕らに無邪気なノスタルジーを感じさせる、それだけの映画。昔だったらそう思って終わりだったかもしれない。でも、今では違った感じ方もできるようになった。ささやかだけど確かな日常という、その手触りが感じられる、そういう映画として素直に観ることができたのだ。今の世の中で「ささやかな日常」ほど僕たちの拠り所となるものはないだろうから。
[DVD(字幕)] 7点(2004-05-15 22:08:08)
383.  A.I.
「鉄腕アトム」には、成熟しない永遠の子供ロボットというモチーフがある。彼には元々家族が存在しなかった。<妹のウランはアトムが誕生日プレゼントにもらったものなのだ> 天馬博士からは成長しないことを理由に捨てられ、ロボットというだけで人間から疎外されながらも、愛情に飢え、逆に人類に対して無償の愛情を与え続ける、そういう存在がアトムの原型<原アトム>なのである。成熟の放棄は、人間のファンタジックな願望であるとともに人的異常さの象徴であり、心を持つアトムにとってそれは深い哀しみそのものだったのである。<「鉄腕アトム」の前身「アトム大使」では宇宙人から大人の顔をプレゼントされて終わるらしいが> というわけで、この「A.I.」という映画、「火の鳥」のウーピーやロビタ、永遠に生き続ける未来編の男、それらの物語群を彷彿とさせると同時に、僕には原アトムの物語を思い出させた。手塚治虫は、ディズニーアニメを模倣することによって、日本マンガの技術的手法を確立したが、成熟しない主人公という日本マンガ普遍のモチーフは、実は「鉄腕アトム」から培われたものなのだ。そしてその未成熟ロボットが愛すべきキャラクターとして肯定されたことが、戦後日本空間を象徴する確信的意味合いをもつのである。<その辺りのことは大塚英志の評論に詳しい> キューブリックやスピルバーグが手塚治虫のマンガを意識したのかどうかは知らない。ディズニーの「ライオンキング」の例のようにあからさまではないが、「A.I.」も明らかに似ていると感じる。A.I.として蘇った苦悩する愛情ロボット<原アトム>の物語は、その根底に時代的モチーフを持ちながらも、ピノキオという西洋ファンタジーの真綿に包まれることによって、アメリカ的成長物語として<全く逆のベクトルをもって>再生した、というように僕には感じられた。「成熟と喪失」というテーマは本来、日本にこそ相応しいが、アトムの本来的苦悩など今の日本で忘れ去られているのが現実であろうか。
7点(2004-05-03 10:01:08)
384.  ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ
B級映画の巨匠セルジオ・レオーネのノスタルジー溢れる青春ギャング大作。確かにキャスト、音楽、映像、上映時間、そしてタイトルと、どれをとっても米メジャー資本の超大作と呼ぶに相応しいと感じられるが、やっぱりこの映画は所詮B級だ。友情と裏切り、愛と金、栄光と挫折、そこで描かれるテーマの実に類型的なことか。少年時代から延々とエピソードを積み重ねて、最終的には壮年になった2人の男の対決に繋がっていくのだが、そのなんとも言えないヒューマンタッチには正直いって奥深さが感じられない。ギャング映画といえば「ゴッドファーザー」という名作があるが、そこで描かれた孤独と呪縛の歴史に比べ、ノスタルジーに重きを置いた情緒的ストーリー、ただ「時の過ぎ行くままにこの身を任せた」歌謡曲的進行はあまりにも軽々しい。大体、肝心の場面にBeatlesの「Yesterday」とは、、、確かに時代設定と主人公の心情を伝えるにはいいけど、楽曲としてはちょっと安っぽい。男たちの生き方に苦悩の本質が見出せず、印象的なモリコーネの音楽と妙にミステリータッチな展開で押し切ってしまった演出も。。。う~む、実は、「ワンス~」をレビューするにあたり、自分がこの作品をここまで酷評するとは実際に書きだしてみるまで思いもよらなかった。しかし、思い出してみるにやっぱりこの映画はB級だ。それがマカロニと称されたセルジオ・レオーネの拘りと限界であり、また逆に愛すべきところでもあるのだ。最後に褒めておくけど、この映画、僕としては、そんなセルジオ・レオーネの頑固なまでのB級性を楽しむことができたし、時間もそれほど長くは感じなかった。まぁそれなりに面白かったということなのである(実は)。そして、デニーロ。彼の「笑顔」はやはり強烈だ。そこに何らかの意味を求めたくなる気もするが、それは凡庸な展開の裂け目に垣間出でたデニーロ自身の押さえ切れない狂気と見るべきなのだろう、ということにしておく。
[ビデオ(字幕)] 7点(2004-04-18 00:12:04)(良:1票)
385.  異人たちとの夏
この作品は本来、美しきホラー映画になるべきものであったと思う。片岡鶴太郎と秋吉久美子演じる両親との暖かい再会と名取裕子演じる女性との恋愛。この2種類の死者達との邂逅/交流のストーリーを同列に見なければ物語の真意は掴めない。ファンタジーの裏側にあるグロテスクさ。僕らはそれに惹かれるのだ。本来はその幻想性と一体であるはずのグロテスクさを一身に引き受けてしまった名取裕子の存在を完全に否定したい気持ちは分からないでもないが、これはそういう物語なのだから仕方がない。異界との交流を描くファンタジーとは、いつでもそういう地平の上で描かれるべきものなのだ。誰もがノスタルジックな気分に浸れる両親との切ない別れのシーンは確かに泣けた。それと対比するはずだった恋人とのおぞましき対決シーン。その出来栄えが、、、何ともチープな超B級特撮とは。。。確かにちょっと言葉を失うけど、「ハウス/HOUSE」や「漂流教室」の大林宣彦監督だから、それはそれで仕方がない。というか、やっぱりもったいなかったよなぁ。
7点(2004-04-07 18:41:14)
386.  ベイビー・イッツ・ユー
「クリエイター」と「グッドモーニング・バビロン」を観て以来、ヴィンセント・スパーノという役者は僕にとってちょっと気になる存在だった。そんな彼の初主演映画がこれ。残念ながら観たのがもう15年以上前なのであまりストーリーは覚えていないけど、ヴィンセントがシナトラに憧れて誰もいないキャバレーのステージで「夜のストレンジャー」を歌うシーンは印象に残っている。良家のお嬢様だった若きロザンナ・アークェットが次第にヒッピーかぶれになっていく様も印象的だ。どちらも切なく痛々しい。
7点(2004-02-21 23:55:15)
387.  死の接吻(1991)
小説のネタバレにはならないので言っちゃいますけど、この映画の原作は叙述トリック(というかフーダニットかな?)の名作です。皆さんいろいろと書かれていますが、おそらくこの映画を手に取った動機というは、「ほんとに映画化できるのかよー、どれどれ。。。」と言ったところではないでしょうか。僕もそうでした。<我らがマットとショーンの共演というのも理由のひとつですが。。。> 実際に観たのはもう10年くらい前になるので、いまいち記憶もあいまいなのですが、僕の印象としてはそれほど悪くはなかった、というところです。実際、原作の一部叙述を無視すれば映画化も可能なのだなぁと感心したものです。双子っていうことで丸ごとごそっと抜けているところもまぁ仕方ないかなと。<それが大事なところで、だからダメなんだという話もあるけど;> 叙述トリックのミステリーと言えば、クリスティのあの作品やアイリッシュのあの作品がありますよね。でも叙述トリックは日本の方にも名作が多く、筒井康隆のあの作品とか、綾辻行人のあの作品やあの作品とか、我孫子武丸のあの作品とか、去年の話題になったあのミステリーもありますねぇ。まぁいろいろありますけど、日本の名作ということで左記に挙げた作品は絶対映画化できない!でしょうね。これは断言できます。。。といっても何がなんだかよく分からないか;
7点(2004-01-26 01:00:57)
388.  ベルベット・ゴールドマイン
僕が初めて定価で買った洋楽アルバムがデビッドボウイの「ジギースターダスト」だった。あれから20年ちかく経ったが、いまだに僕の愛聴版である。5~6年前にCDを購入したらExtraとして入ってたなぁ「ベルベット・ゴールドマイン」。なんかのシングルBサイドだったんだよね。確か。デビッドボウイの世界というのは多分にビジュアル的なものがあり、当時を知らない僕らには、「ジギースターダスト」を聴くことによって、そのステージングの神秘的なイメージをよく喚起されたものである。デビッドボウイには「ダイアモンドドッグス」や「スペースオディティ」という名作もあるけど、「ジギースターダスト」というアルバムは、SF的な要素を盛り込みながら、リアルタイムの音楽ムーブの末路を予見する形で、セルフポートレイト的なロックスターの隆盛をクールに演じきった記念碑的な作品であるといえる。さて、「ベルベット・ゴールドマイン」という映画は、ビデオジャケットを観れば一目瞭然、デビットボウイそのものの再現を目的としているように感じられる。ロックスターを目指した一人の美しい青年が巨大なショービズにどのような形でまみれていったか、そこで何を得て何を捨てたのか、という幾ばくかのセルフストーリーを盛り込むことによって今の時点からみた当時のムーブのある側面を炙り出そうとしているようにも見える。しかし、この映画のボウイ的な世界は、C.ベール演じるフリークの視点から描かれるが故に類型的にならざるを得ず、僕らが「ジギースターダスト」を聴いて描くボウイの意外とクールな自己演出的なイメージが宙に浮いてしまうように感じる。実はこの映画の中にデビッドボウイそのものはいない。そこにはボウイ的な世界がとても浅はかなイメージで描かれているにすぎない。まぁある意味で「ジギースターダスト」というアルバム世界をなぞっていると言えなくもないが、映画にするならそれはとても中途半端な気がする。もう少し違った見方ができるのかもしれないが、「ジギースターダスト」というアルバムに思いいれのある僕のような人間にはこんな感想しか書けないようだ。あと、C.ベールが回顧する地点の1984年というのは<ボウイも歌ってましたね。関係ないけど>、日本では洋楽全盛時代。グラムロックへの印象はだいぶ違うものを感じました。あれはダサかったのか、それとも神格化へ昇華していたのか?!
7点(2003-12-06 18:34:15)
389.  マトリックス レボリューションズ
20世紀の哲学者ボードリヤールは、世紀後半の世界をオリジナルとコピーの区別が付かない、また、付き得ない世界になるだろうと予言した。<それをオリジナルとコピーの中間形態であるシミュラークルの世界と呼んだ> インターネットの普及はまさにその予言の具現化に大きな役割を果たしたといえる。コンピューターの俗語で「コピペ」という言葉があり、これはオリジナルをコピーしてペーストするという意味であるが、インターネット環境で何度も「コピペ」を繰り返す内に、そのオリジナルと思っていたものが、実は元のオリジナルの巧みなコピーであり、それがその又元のオリジナルのコピーのコピーであったかもしれないという事態が容易に起こるのである。つまり、インターネットの世界に関していえば、既に厳密な意味でのオリジナルは存在しないといってよく、引用に対する制限はもはや制御不可能な状態にある。インターネット世界が現代社会を写すイメージそのものというのであれば、現代は「コピペ」の時代といってかまわないが、それはまさにシミュラークルの世界そのものでもある。シミュラークルの世界には、絶対的価値観など有り得ない。すべてが相対化され、データベース化され、その中で差異を表出することに価値を見出すのみである。映画の世界ですら、この世界観から逃れられない。それが「マトリックス」である。
7点(2003-11-09 11:41:13)
390.  ハンニバル(2001)
「ブレードランナー」のラストシーンは原作を超えていた。リドリー・スコットは、ラストシーンでルトガー・ハウアーの美しき死に様を見事なまでに演出してみせたが、本作での新たな解釈を持ち込んだラストシーンは、果たしてどうであったか? 僕は、はっきり言って納得できない。「ブレードランナー」が原作のモチーフを十分に理解した上で、レプリカントの悲哀と自尊心という「人間らしさ」を新たな軸に加えて作品を原作から悠々と昇華させてみせたのに対し、「ハンニバル」の原作ぶち壊しの甘ちゃんラストは、、、ま、まったくなんてことだ! ハンニバル・レクターこそ、意識を自由自在に操る「超人」であり、「人間らしさ」を超えてしまったが故に、ある意味で悲哀を備えたレプリカント以上にレプリカント的人物として捉えられるべきではなかったか。それこそリドリー・スコットお得意の分野のはずだ。なのに。。。「ハンニバル」は言うまでもなくレクター博士の物語である。原作では、レクター登場から3作目にして、レクター自身の独白や過去の物語がようやくと語られる。特に彼自身が経験したトンでもなく残酷な出来事を通じて、彼が既に人間という枠を見事に超えてしまったことが僕らに伝えられるのである。それは映画では語られない。そのことは別にいい。原作は長いし、映画に原作そのものをすべて詰め込むことはできない。ただ、レクター自身が、映画で見られるようなあんなラストシーンに掴まされるような人格では決してないということを分かっているのだろうか。(あの手錠のシーンです。。。) そして、クラリスもレクターと同種であるのなら、あんなラストを導くようなことはしないはずなのではないのか。原作のあの2人して人間界から飛翔する驚愕のラストシーンは何だったのか。凡百のサスペンスドラマのような結末は、途中までが良かっただけにかなり興ざめである。やっぱり、ここでもハリウッドスタイルの万人向けの座りの良い結末志向が顔を見せているのだろうか。小説「ハンニバル」が哲人ニーチェの思想をベースにした「超人」物語であることをリドリー・スコットが理解していないはずはないのだが。まったく不可解である。
7点(2003-11-08 18:52:32)(良:1票)
391.  バック・トゥ・ザ・フューチャー
映画館で観たのは高校生の頃かな。スリルがあって面白い映画だとは思うけど、それだけじゃん。。。なんて書くと、映画は娯楽でしょ!楽しければいいじゃん!って声が聞こえてきそうだ。でも、なんというか、映画の見方は人それぞれっていうけど、「不朽の名作」だとか「最高のSF映画」だとか、こんなに高い評価が並ぶのには本当にびっくり。そんなものなのかな。<まぁ「普及の名作」だとは思うけど、これがサイエンスフィクションかと言われると首をひねっちゃうな> 
7点(2003-10-25 12:54:04)(良:1票)
392.  フットルース
ちなみに僕の中ではケビン・ベーコンといえば、いまだに「フットルース」です。それで「フットルース」といえば、やっぱりケニー・ロギンスになる。ちなみにケニー・ロギンスといえばジム・メッシーナ。ジム・メッシーナといえばバッファロー・スプリングフィールド。バッファロー・スプリングフィールドといえばニール・ヤング。ニール・ヤングといえば「ヘルプレス」。「ヘルプレス」といえば「いちご白書」。「いちご白書」といえばバンバン。バンバンといえばスズキのバイク。スズキのバイクといえば仮面ライダー。仮面ライダーといえば藤岡弘。藤岡弘といえばアメリカのサムライ映画。アメリカのサムライ映画といえば「ラストサムライ」。「ラストサムライ」といえばトム・クルーズ。トム・クルーズといえば「トップガン」。「トップガン」といえば「デンジャーゾーン」。「デンジャーゾーン」といえばケニー・ロギンス!ケニー・ロギンスといえば「フットルース」!!「フットルース」といえば、やっぱりケビン・ベーコンだぁ!!! 
7点(2003-10-19 15:04:23)(良:1票)
393.  ブラザー・サン シスター・ムーン
今ではこんな作品を創る人はいないだろうな。70年代前半になぜこのような映画が創られたのか?宗教というのは一つの生き方だとは思うが、あの挫折の時代(70年代)において、敢えて神の名のもとに、確信的に所有を否定する考えは、やはり一種の逃避としか思えない。この作品に見られるフランチェスコのような聖者像や彼に従って若い青春を抑圧する信者には、いまでは多くの人が共感し得ないだろう。若さ故の自意識の表出というのは、とても自然なことだ。そこでの挫折を僕らは「青春」と呼ぶが、生き難さの抑圧の中でも僕らは真っ当に生きることを目指して、社会における様々なエロスと抑圧を引き合わねばならないのだ。僕らは21世紀の高度資本主義社会に生きる者として、自明の抑圧に耐え、その中でささやかな生きていく欲望を見出だすのみである。青春を抑圧するところに哲学はない。。。と今では思うが、この映画を観た10数年前には、違和を感じながらもその清清しさに心を動かされたような気もする。実のところ。
7点(2003-10-18 14:14:33)(良:1票)
394.  就職戦線異状なし
バブルの時代ですねぇ。僕の就職時期よりもちょっと前のお話。こういう時代が昔確かにあったのですよ。当時の就職活動というのは、言ってみれば自己錯覚的な狂乱狂喜の儀礼だったのかもしれない。あの頃、自分を見失った人たちは、たぶん今頃大変だろうなぁ。ちなみにこの映画、作品としてはわりとよく出来ていると思います。あの頃流行ったトレンディドラマの映画版という感じがしないでもないけど。
7点(2003-10-13 15:45:03)
395.  マネキン
これ主題歌が流行ったんだよね。PVがMTVでよく流れてました。それだけで映画を観た気分になったものです。<もちろん全編通しても観ましたけど。。。>
7点(2003-10-13 15:32:23)
396.  初体験/リッジモント・ハイ
80年代がダサい時代であったのは全くもって正しい。映画も音楽もどうしようもないものが多かったのは確か。僕が青春時代を過ごした当時でさえそう思ってましたよ。でもダサさを排除した90年以降は、そのダサさが内包していた空虚さ自体をも排除してしまい、ある意味で洗練されすぎてしまったという感覚があるのはどう評価したらいいのかな? そこで失われてしまったのは「喪失」の感覚そのものだと思うんだけど、まぁこれはこの映画の話とは全く関係ないか。さて、僕はジェニファージェイソンリーの大ファンなのでこの映画にはとても満足しました。ストーリーは殆ど覚えてないけど、いまだに彼女の白い裸体が目に付いて離れないんだな。。。
7点(2002-06-02 01:00:13)(良:1票)
397.  ブレイクダンス
この映画の続編である「ブレイクダンス2」に比べて、その印象はかなり薄い。殆んどストーリーも覚えてないのが実情だ。本当は「ブレイクダンス2」をレビューするのにいきなり続編だけというのも何なので、ついでに登録したが、あまり書くこともないかなぁ。「ブレイクダンス2」の併映で観たんだけどね。あの当時、「フラッシュダンス」とか「フットルース」とか流行ったけど、僕らにとっては、あのブレイクダンスというダンススタイルがかなり強烈だったんだよね。よく部屋で練習したなぁ。学校の体育館でクルクル回ったりしたよ。このパート1でもターボの踊りが冴えてたような記憶がある、、、まぁそのくらいかな。
6点(2004-10-16 01:37:40)
398.  きょうのできごと a day on the planet
淡々とした展開に潜む日常の危うさ。人々の心のさざめき。そういうものが一切感じられないという、僕にとっては非常に不幸な映画であった。ある種のニュアンス的世界といってもいいか。微妙なニュアンス、ちょっとした感覚のズレ。まさに現代的感性の映画かもしれない。時代的モチーフとしてはよく分かるが、正直いって僕にはついていけないところがある。モチーフの切実さが感じられないのは、僕にとって致命的なのだ。確かに僕にも日常というものへの絶対的帰依の気持ちは十分にあるが、その信頼性に関しては無自覚、無感覚に受け入れることがどうしてもできない。根底にはいつでも日常に対するアンビバレンツな感情があるはずなのだ。なんというか、そんなことを思ってしまう限り、この映画のツボは永遠に理解できないのかもしれない。
6点(2004-08-12 20:37:08)
399.  ラスト サムライ
中途半端な印象は拭えませんね。確かに「ダンス・ウィズ・ウルブス」のサムライ版ってところでしょう。武士道などというものをハリウッドが表現できるとは到底思えなかったけれど、そもそもそれを日本人自身が理解していない限り、その評価も推して知るべしです。まぁいろいろと書かれているようにあまりその辺りのことを意識せずに架空的日本国を舞台にした日本人とアメリカ人との「愛と友情物語」として見れば、なんのことはない、従来のハリウッドスタイルそのものなのですね。「サムライ」や「インディアン」というタームは、反近代的なモチーフ、傍流の歴史を理解する為に選ばれてはいるけど、最終的にはアメリカイズムという個人主義にすっかりと回収されてしまっているように僕には思えました。 僕自身が武士道というものをよく理解している訳じゃないけど、武士道って江戸時代の一部の武士階級にとっての特権的な観念であって、ああいう戦国時代のような戦士や半農民的な足軽たちにとっては、日常的に不要の観念だったのではないかな。平和な時代だったからこそ、自らを律する為の観念が必要とされたのです。それに武士道自体を本当に尊ぶようになったのは明治初期でそれも一部の人々の間でしかないでしょう。あと利用されたという意味では太平洋戦争の頃ですか。「葉隠」なんて江戸時代でも多くの人たちはその存在すら知らないわけで、それを日本人全体の精神性かのように捉えるのはそもそも間違い。実際、日本人のすべてがサムライの息子ではないのだからね。 まぁそれはそれとして、ストーリー的にも僕にはあまりぐっとくるものがなかったなぁ。途中で三島由紀夫の描いた「神風連史話」(「奔馬」)が頭をよぎったけど、あの決起と自死の顛末に描かれたものこそ日本人が武士道的なものとして憧れるperfectな精神性ではないかな。その静謐さをハリウッドで描くことは不可能でしょう。
6点(2004-08-12 20:32:08)
400.  世界の中心で、愛をさけぶ
主人公と同じ年の僕は、学生の頃、世界の中心で愛がないことを叫んでいた。もちろん世界の中心は僕で、それは僕に向かって叫ばれていた。当時、100%の恋愛小説というキャッチフレーズで刊行された村上春樹の「ノルウェイの森」が流行っており、この物語に心奪われた僕は、彼の作品を旧作に遡って何度も読み返したものだ。恋愛小説というのは愛に溢れたお話ではなく、恋という自己の病に囚われるお話で、僕はそのやりきれなさと不確かさを現実に持ち込んでは、廻りの人達を傷つけていたように思う。未来すらも既に終わってしまった物語のように強烈なメランコリーに只々取付かれていた。何もかも納得できなかったし、納得したくなかっただけなのに。先日、話題の小説「世界の中心~」を読み、そして映画を観た。何故、今、この物語がこんなにも流行るのか、それはよく分かるような気がする。「君と世界の戦いでは世界を支援せよ」これはカフカの言葉であるが、加藤典洋がこの言葉を自著の表題とした80年代中頃、僕らは、毒虫<自己の喪失>の姿に犯され始めていたとはいえ、まだ内面の名残をもつ「君」<自己>としてキリキリと存在していた。だから加藤典洋は、カフカの言葉を引きながら、失われつつある「君」の存在、その敗北をもう誰も止められない時代に来たことを敢えて宣言しえたのである。今や世界は「君」や「僕」を呑み込んで、僕らは相対化した世界の差異の中にしか自身の存在感を得ることができない。世界の中心なんてないし、それは僕の中心でもない。そんな自明性すら既に失われて、ある種のノスタルジーに覆われた甘美な物語に、漠然とした世界で確かなものとしてあるべき「愛」を叫びたくなるのである。そういう時代を敢えて否定はしない。けど、物語は作り物であっても、本来それは自分の物語を喚起させるべきものだ。特に映画版は僕にとってまるで遠い国の神話のように自身との接点を確認することができなかった。そこから自分の物語にどうつながるんだ~? と叫びたくなる気持ちを僕は捨てがたい。
[映画館(字幕)] 6点(2004-06-26 01:26:40)
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