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onomichiさんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 404
性別 男性
ホームページ http://onomichi.exblog.jp/
年齢 55歳
自己紹介 作品を観ることは個人的な体験ですが、それをレビューし、文章にすることには普遍さを求めようと思っています。但し、作品を悪し様にすることはしません。作品に対しては、その恣意性の中から多様性を汲み取るようにし、常に中立であり、素直でありたいと思っています。

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121.  ヴィヨンの妻 ~桜桃とタンポポ~ 《ネタバレ》 
これはいけない。前半は『ヴィヨンの妻』、後半は別物。『太宰と妻の物語』と言いたいところだけど、実際の太宰の妻は全く違う境遇だったし、なんと言ったらよいか、ひとつの物語として、その「接ぎ木」は、とても中途半端に思える。  ヴィヨンの妻とは、大谷が泥棒を働いたということを店の主人から聞かされ、その台詞まわしに思わず笑い出してしまう佐知その人なのである。彼女を演じる松たか子がみせた泣き笑い、苦境をもろともしない根拠のない明るさ、小さく噛みしめる充実の表情はとてもよかった。それは一歩間違えば簡単に不幸に潰され、埋もれてしまうような仄かな明るさであり、だからこそ、それを真摯に描いてみせることによって、僕らははっとするような生の本質を感じる。彼女のからりとした明るさと大谷という破天荒な誠実さの対比にこそ、その本質がある。それが太宰治の『ヴィヨンの妻』なのだと僕は思う。  だから、、、途中から、ちょっと違うよなぁと思ってしまう。松たか子と浅野忠信はイメージに合うのだけど、「接ぎ木」以降の物語は、不要な「落ち」としか思えないのである。
[DVD(邦画)] 7点(2010-05-13 00:28:37)
122.  ラウンド・ミッドナイト 《ネタバレ》 
世界は何故丸裸なのかな? 心と魂は人間の中にある。 魚は水の中。  だが世界は周りに何もない。 いいことか、悪いことか、 覚えておこう。  『ラウンド・ミッドナイト』 -デクスター・ゴードン/海辺の語り-  デクスターゴードンのナチュラルな演技(アドリブ)に魅了される。 その息遣い。失われた熱情をなぞりながらもジャズへの愛情を深く感じる映画。 そう、これは映画である。ジャズ・ライクな映画。  ジャズに生きた男がその魂を語る言葉。声。そして音楽。 それが彼の世界であり、この映画の魂。 レディ・フランソワが受け止めたように、 それは、僕らの心と魂に伝わる。 失われたものを想起させる。  素晴らしい映画。珠玉の作品。 ハービー・ハンコック、ウェイン・ショーター、ロン・カーター、トニー・ウィリアムス。 演奏シーンも痺れる。 
[ビデオ(字幕)] 10点(2010-04-03 09:39:26)
123.  ある日どこかで 《ネタバレ》 
ジェーン・シーモアが美しく、クリストファー・リーヴが颯爽としている。そして儚い。1980年のラブストーリー。 『ある日どこかで』”Somewhere in Time”は、恋愛のカルト映画と呼ばれ、熱狂的なファンもいるらしい。確かにストーリーは奥行きに乏しく、プロットは破錠している。けど、惹きつけられる。それも確かだ。  冒頭、1972年、年老いたエリーズが若きリチャード・コリアーの前に現れ、”Come back to me”と囁く。その夜、彼の処女作の脚本を胸に抱き、ラフマニノフ『パガニーニのラプソディー』を聴きながら、グランド・ホテルの一室で彼女は静かに息を引き取る。 数年後、リチャードが偶然に立ち寄ったグランド・ホテルで若きエリーズの写真を見つけ、彼女に惹きつけられる。68年前の写真の彼女に恋をする。彼はタイムトラベルの末、1912年のグランド・ホテルで公演中の女優エリーズに会う。リチャードとエリーズの湖畔での邂逅。近づくリチャードの姿にエリーズが思わず呟く。”Is it you?” この一言が運命だった。  全ては彼の一夜の幻想だった、、、と言ってもいいし、1980年時点において、彼の衰弱死は単なる虚妄と錯乱の結末でしかない。 しかし、だからこそ、僕らはこの物語に惹きつけられるのではないだろうか。ただひたすらに彼女の美しさに惹かれたリチャードのように。それを受け止めたエリーズのように。その幻想を美しき物語に。
[インターネット(字幕)] 8点(2010-04-03 09:28:06)(良:1票)
124.  誰も知らない(2004) 《ネタバレ》 
『誰も知らない』は、登場人物達の絶対的などうしようもなさを残酷なまでにリアルに描ききった作品である。親たちは何の悪気もなく、子供を突き放し、結果的に彼らを疎外する。そのどうしようもなさ。その衝撃。そして、子供たちは何の屈託もなく、親たちを赦し、結果的にそういう社会を自明のものと受け入れる。そのどうしようもなさ。その衝撃。  カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』や『日の名残り』の主人公たちを思い出す。彼らは自らの運命を受け入れ、そこから決して逸脱することがない、限定された世界の住人たちである。彼らの独白は、限定された世界から決して外れない、彼らの世界観の中でこその語り、その絶対的な記憶であるが故に、僕らにある種の違和と共に欠落を想起させた。 それが『誰も知らない』の子供たちにも言える。諦念という言葉では当てはまらない現代的な心情、そのどうしようもない底の浅さと生来的な欠落を感じさせる。  しかし、全く救いのない物語の中に、子供たちの生き生きとした姿を感じてしまう(『空気人形』の人形と同じに)、そこで描かれる救いとは一体何だったのだろう。彼らが否応もなく受け入れた世界。それを自明のものとして引き受ける逞しさとアカルさに現代的な救いと希望を感じてしまう。ある種の恐ろしさをセットにして。。。
[DVD(邦画)] 10点(2010-04-03 09:16:44)
125.  アバター(2009)
表現されている以上の世界が設定としてその背景に隠れている、というのは、『機動戦士ガンダム』の「一年戦争」に代表される(戦史としての)メタ物語の典型であり、仮想現実的なキャラクター世界の手法そのものである。『アバター』も同じで、それが多くの人に今熱狂されている「世界観」というものだと思うけど、僕にはそれが模造的であるが故に映像としてもアカル過ぎて、陰影を感じない。全てが計算された「世界観」の一角のみを映像で示してみせる。それが設定としても映像としてもあまりにも「浅い」と感じるのは何故だろう。おそらくそれが自然ではない、人工の模造的映像の限界であり、設定そのものがデータベースからの類型としての演繹に過ぎないからなのだろう。そこに自然という驚きや想像力を超えた迫力が無いというのは、全てが所詮は数値変換の産物に過ぎないということが透けて見えるからなのだろう。 今後、こういったCGを駆使した新しい映像表現はどんどん進化していくに違いない。しかし、それはどうにもアカルすぎるのだ。(僕らのミライと同じで)  「明瞭な色分けは、それこそ仮想世界にのみ可能なのだ。現実は単純ではない。多層的で多面的だ。曖昧で不可分だ。ちょうど今日の天気のように。晴れでもないが雨でもない。曇りかと思えば日が差し込む。この曖昧さは、人の営みの実相でもあるはずだ」-森達也『東京番外地』-  上記は、正常な精神と「精神病」との間の差異についての森達也の言説である。 あえて言えば、『アバター』は精神的に正常にすぎる、そういう映像に思える。だから退屈なのだ。  と、ここまで書いて、僕が『アバター』を退屈だと思うのは、TVゲームを全くやらないからかもしれないと思った。ゲーム空間がこれまでどのように進化してきて、全面CGの『アバター』がどれほど凄いのか、歴史的にも技術的にもいまいちよく分からないのである。あしからず。 
[映画館(字幕)] 7点(2010-03-12 18:44:38)(良:1票)
126.  いつか読書する日 《ネタバレ》 
気持ちというものは、言葉にして初めて形になる。他者に表明して初めて具現する。そうでない時、それは得体の知れないものとして在る。表情として、仕草として、態度として、それは明白なものでは有り得ない、、、と僕は思う。 田中裕子と岸部一徳は、お互いにお互いを意識する間柄であるが、それは今の日常に踏みとどまるよう気持ち(言葉)を抑えることで成り立っているが故に、彼らの中には、「得体の知れなさ」が、幻想として肥大している。時々、敢えて言葉にしてみることにより、自らの感情を認識しつつ、それはガス抜きされる。いわゆる「恋」である。倦怠さを超えて尋常かつ切実に繰り返されてきた30年間に渡る「恋」のファンタジーである。  唐突であり、また都合のよい展開。それもファンタジーとしての物語である。  30年間思い続け、それが成就するというファンタジー。「恋」を扱った物語として、それは必然の展開なのではないか。  「いつか読書する日」というのは、いつか彼女が買い揃えた文芸小説を心静かに一人読んで過ごす日(は「そのこと」を超えないとやってこないということ)を指し示しているのだと僕は思った。そして、過剰な思いや欲望を意識しつつ、自ら抑圧した長い日々があり、言葉を紡いだ「その日」があり、お互いを心のままに求め合った瞬間があり、それらが想い出に変わる日々、瞬間を永遠のものとして、これからようやく様々な物語を自らに引き入れることができるのであろうことを暗示しているのだと思った。もちろんそれが解釈として妥当なのかどうかは分からないけど、この映画がそういった想像を含め、様々な思いを喚起させることは間違いない。  幾多の社会問題を散りばめながら、その関係性の中でさざめく日常があり、日常を超えて持続した「恋」のファンタジーがある。胸を突く、感動的な映画だった。 
[DVD(邦画)] 9点(2010-03-05 00:40:57)
127.  愛のむきだし 《ネタバレ》 
観てしまった!『愛のむきだし』を!  奥田瑛二の娘 安藤サクラと満島ひかりが評判通りすごかった。なんというか、70年代的なエロを感じたなー。永井豪マンガの実写版みたい。それでもって、話は盛りだくさんなんだけど、全てが確信的に薄い。薄っぺらのペラペラーって感じ。まるで阿部和重の小説みたい。  愛=勃起だなんて。確信的に過ぎるくらいにアカルくて、ポップだ。それって、70年代から80年代にかけての価値観そのもののように思えるけど、それが今、同時代的なのかなぁ?  薄っぺらさの質感、その凄みというものがあるとすれば、それを作品として体現しているのが、実は、阿部和重の小説である。以下は彼の小説に関して以前に書いたレビュー抜粋である。  「冒頭で、昨今頻発する殺人事件の動機は「心の闇」などという問題ではないと述べた。阿部の小説を読んでいると、その認識は実は全く逆で、「心の闇」のなさこそが我々現代を生きる人間の荒んだ心情の由来ではないかと感じてしまう。真空にも物質的な密度があるように、平板さと明るさの中にこそ現代的な「心の闇」が裏返しに潜んでいて、それが瞬間的に漏れ出てくるのではないか。それこそが現代の心情の根源であるのだと。その境界の「薄っぺらさ」がある種の得体の知れなさ=息苦しさとして、僕らの胸に文学的に響いてくるのである」  人間の狂気を僕らの認識の下、無意識の奥深くに湛えられたものとこれまでイメージしていたのではなかったろうか?しかし、狂気は、トランプの裏側に貼り付けられたもの、それをめくれば、そこに現れるもの、簡単に表が裏になり、裏が表になる、そういったものに今成りかわっているのではないだろうか。そのトランプこそは人間であり、まるでトランプ兵の姿として、そこに在るのだとしたら。朝起きたら、自分の体がトランプ兵になっていたとしたら。。  この作品が現代的な得体の知れなさ=息苦しさを描ききっている、、、とは全く思わないけど、最後に主人公が愛に絶望して狂気に落ち込んだ後、愛する人との邂逅により、いとも簡単に正気に戻るのは、そのありえなさ故に示唆的である。だけど、その最大の起因が、「勃起」だというのは、あまりにも牧歌的というか、やっぱり70-80年代のマンガ的な単純さに過ぎる気がするけど。。。 
[DVD(邦画)] 9点(2010-03-05 00:39:24)(良:1票)
128.  日の名残り 《ネタバレ》 
思慕の熱情は徹底的に抑えられるが、微かな戸惑いの表情と動作に現れるズレが彼の心情を切実なものとして僕らに伝える。映像は彼のモノローグを確かに映す。それは、生きるということに付きまとう様々な心情の物語であり、ラブストーリーである。 彼は自らの役割に生き、その忠実さによって生の充実を得てきた。そこに差し挟まれる仄かな疑義。戸惑い、躊躇しつつ、それでも愚鈍に役割を演じることを選ぶ。それは何という諦念であり、決意なのだろう。沈黙の中に様々な心情を映す。これこそが真のヒューマニティなのだと僕は言いたい。 物足りる作品は、想像力を掻き立てない。物足りない作品こそ、僕らの想像力によって補われ、僕らの為の作品となる。 『日の名残り』が最上のドラマであることは改めて言うまでもない。良質の映画というものは、その良質さ故に、結局のところ、分かる人にしか分からないものなのだろう。
[DVD(字幕)] 10点(2010-02-22 22:48:41)(良:2票)
129.  マイケル・ジャクソン/THIS IS IT
即席で作られたにしては、よく出来ていると思います。画面を躍動するマイケルも既にこの世にはいないことを想うと、その事実だけでこの作品にも意義があると言えるでしょう。彼の叶わなかった夢のステージの断片として、この作品は優れたドキュメンタリーだと思えます。 リハーサルのみの映像ですが、僕らはマイケルが今でも一流のエンターテイナーであったことを、今までもずっとそう在り続けていたであろうことを改めて認識できたのではないでしょうか。だからこそ、'This Is It' は、彼の最後のコマーシャル作品として商業的にも成功してほしいし、彼にとってエンターテイナーとしての最後の証であってもいいのだと思います。細かい構成の云々よりも、死の直前にして、50歳にして、僕らを感動させるマイケル・ジャクソンの生き様を感じられたこと、それは彼の歌であり、ダンスであり、ステージングであり、彼の躍動であったことを、、僕は素直に称えたいと思います。 余談ですが、僕は『スリラー』ドンピシャのアラフォー世代ですけど、当時、スーパースターだったマイケル・ジャクソンのことを実はあまり好きではありませんでした。それはおそらく彼の姿が必要以上に煌びやかで、あまりにも作り込まれた「虚像」という印象が強かったからだと思います。しかし、スーパースターというのはそもそも作られるものですし、幻想です。それはまたマスイメージ故に簡単に覆るものです。ここ10年程の不遇の時代を経て、マイケル・ジャクソンという幻想はすっかり地に落ちたと思われました。しかし、彼は天才でした。彼の天才は、彼を取り巻くあらゆる負のイメージを超えて、彼を一流のエンターテイナーと誰もが認めるに十分なタレントだったのです。この作品はそのことをよく伝えます。それだけでもマイケルにとって大きな意義と価値のある作品なのだと僕は思います。そして、様々なことを抱え、乗り越え、失い、それでも昔と全く変わらない「愛と平和」を歌うマイケルのことを今では素直に尊敬します。ピース。 
[映画館(字幕)] 8点(2009-11-01 22:30:39)(良:1票)
130.  スクール・オブ・ロック
遂に登場!「ハイ・フィデリティ」で変態的ロックおたく&ソウルシンガーを見事に演じたジャック・ブラックが、本職のロッケンローラーに戻って、その本物のロック魂を思う存分発揮した正真正銘のロック映画「スクール・オブ・ロック」! この映画は日本ではGW公開なので、まだ多くの人は観てないと思うけど、いやー面白かったなぁ。ジャック先生、最高です。落ちぶれたロックミュージシャンが代理教師を偽って小学校に潜り込み、なんと小学生とロックバンドを組んで地元のロックコンテストを目指す、という破天荒なストーリーなんだけど、まぁそんなストーリーはとりあえず置いておいて、とにかくジャック先生の一見狂犬のような容貌と躍動感溢れるボディアクションから繰り出されるパワフルなロックスピリットには圧倒されましたねー。笑えたし。やっぱりジャック・ブラックは「愛しのローズマリー」のさえないヤッピーなんかよりもロックが関わるこっちの映画の方がそのキャラクターを100%発揮できるんだろうな。まぁ、この映画はジャック・ブラックのオンステージですよ。そのアクの強いキャラクターにウンザリする人もいるだろうけど、僕は完全にハマリましたね。改めてロックって様式というかスタイルが重要なんだなぁって感じましたよ。ジャック先生も案外と趣味が幅広くって、AC/DCからザ・フー<ジャック先生のロック講義の中ではハードロックにジャンル分けされてましたねー>、ピンク・フロイドにブロンディ、ときたもんだ。ジェーン校長のスティービー・ニックス好きにも笑えたしね。ギターを使った授業は、なんか月亭可朝みたいだったよw。最後にステージでの演奏が盛り上がって、念願叶って観客へのダイブを受け止めてもらえたジャック先生。なんだ、これがやりたかっただけなの?? なんて、思っちゃったりしたけど、まぁご愛嬌。これもロックのスタイルなのだ。いやーとにかく面白い映画でしたぁ。
[映画館(字幕)] 9点(2009-10-25 23:13:41)(良:1票)
131.  空気人形 《ネタバレ》 
とても胸をうつ映画だった。空気人形っていうのは、現代に生きる人々のある種の象徴であり、その実体であり、何のつながりもない登場人物たちの心無き心の純粋な在り様であり、、、まぁいろんな意味にとれそうだけど、そのメタ的な要素以上に僕はペ・ドゥナ演じる生き生きとした「空気人形」の姿に胸を打たれたのである。  僕が一番感動したのは、やっぱり、彼女の空気を抜き、吹き込むところかな。彼は言うのである。「空気を抜きたい」と。それは多分、空気を入れたいということ。空気を抜き、そして吹き込む。また抜き、吹き込む。その時、彼と彼女を捉えた充実感。これは何というコミュニケーションだろうか。彼女の心を捉えたもの。しかし、彼女がそれを手に入れてしまったこと自体がそもそもの悲劇なのであった。。  得られないことよりも、失うことの方が、つらい。 (川上弘美『これでよろしくて?』より)  『空気人形』は、心を持ってしまった空気人形のお話。空っぽなのに、心を持ってしまう、空気人形。心を持つって、一体どういうことなんだろう? 心って何だろう? 空っぽの心って? 空っぽって?? 空っぽな人間と空っぽな空気人形。でも、本当に空っぽなのは、空気で出来ている空気人形だけ。僕らは実体として空っぽなわけではない。もっと得体の知れない機能のかたまりとしてあるもの。でも、人間として、関係としてあるとき、人は空っぽになる、ような気がする。そして、空っぽに耐えられず、それを埋めたいと願う。 人は自分自身が空っぽなのではなく、ただ空っぽに捕まえられるのである。その空っぽを相手にして(格闘したり、哀願したりして)、どうしようもなく空振りしてしまう。この作品の登場人物達は、実は空っぽというよりも、ただ空振りしているだけなのではないか。だから、彼ら(彼女ら)に希望は、、、ある。それに対し、空気人形は失うことによって心が萎み、最後にまた空っぽになってしまった。。  過食症の女性はバットを振り続けていたからこそ、偶然にもボールに当てることができた。窓を開けることができた。そういう類の希望がこの作品にはある。僕らの中に潜在化した「心をめぐる物語」。それが登場人物達の心を通り抜け、空気人形によって語られる。つなげられる。この映画は、そういうファンタジーなのだと思う。
[映画館(邦画)] 10点(2009-10-09 23:56:23)(良:1票)
132.  スパルタンX
内容的には、怪鳥ベニー・ユキーデとのラストの格闘シーン以外あまり印象に残っていないかも。。。3人の活躍はそれなりに楽しめたけど、スペインという舞台には少し違和感があったような気がする。(やっぱりジャッキー&サモハン、ユンピョウは香港が舞台なのがしっくりくるね)  僕ら中坊の男子にとって、ジャッキー映画が必見だった1984年。この映画がジャッキー最高潮の年の〆の作品だった。翌年から、『ポリス・ストーリー』や『大福星』、『サンダー・アーム』とか新たなジャッキー映画の怒涛の攻勢があるけど、僕らの年代的には盛り上がりも前年に比べて下火になっていったと思う。映画館で観るのも殆ど惰性だったような。。。今思えば、『プロジェクトA』(や『五福星』)が如何に衝撃的ですごい映画だったかと。  あと、スパルタンXといったらアーケード・ゲームと三沢光晴(泣) いずれにしても、すごい邦題だよね。
[映画館(字幕)] 8点(2009-09-27 00:07:08)
133.  セントアンナの奇跡 《ネタバレ》 
素晴らしい映画。胸にグッとくる物語。 村上春樹が『1Q84』の中で「物語」についてこう言っている。「それは理解できない呪文が書かれた紙片のようなものだ。時として整合性を欠いており、すぐに実際的な役には立たない。しかしそれは可能性を含んでいる。いつか自分はその呪文を解くことができるかもしれない。そんな可能性が彼の心を奥の方からじんわりと温めてくれる」  この映画で語られる物語も最初は「理解できない呪文」のようだった。それが最後の最後に大事なところで繋がったように見える。実際のところ、セントアンナの大虐殺が絡んだ少年の過去も、詩を読むナチス将校の役割も、パルチザンの存在によってナチス親衛隊とアメリカ黒人兵部隊が結び付けられる、彼らの行く末も最後に明らかになる。しかし、登場人物達の様々な思いであり、愛憎という形で散りばめられたパズルのピースは、全て埋まらずに終わる。なぜなら、この物語の登場人物の殆どが死んでしまうから。 英語、イタリア語、スペイン語、ドイツ語が飛び交う。国籍を超えて、彼らはそれぞれのナラティブを生きていることをこの映画は確実に伝える。戦争はそういった個人が紡ぐ歴史の全てを大量死の中で奪い取ってしまう。戦争とは喪失の物語である、と同時に物語の喪失なのだと僕らに伝えられる。 『セントアンナの奇跡』が素晴らしいのは、そのような喪失の中にこそ「奇跡」を描いてみせたことだと思う。奇跡とは何か?それは、生き残った黒人通信兵の存在である。彼は少年とナチス将校によって生かされる。また少年はチョコレートの巨人に生かされ、逃亡を幇助したドイツ兵によって生かされる。彼らによって紡がれる生の可能性こそがこの物語の呪文を解く鍵なのだろう。奇跡は人々の祈りによって生み出され、微かだけど確かな光を未来に指し示す。 最後の銃撃戦は、イタリア・トスカーナ地方の小さな村の住民たちを否応なく巻き込む。傷ついた少年を胸に呆然と佇むチョコレートの巨人。想いの人の名を叫ぶ女性。支えあう人々。それらは直ぐに背景となり、登場人物達の壮絶な最後が描き出される。ここで物語は一度喪失し、僕らは人を想うことのかけがえのなさを切に感じ、それが失われることに涙する。しかし、「奇跡」は起こる。本当のラストシーンで、僕は差別や偏見、憎しみを超えて紡がれた命に、「奇跡」が指し示す希望という明るい未来に、涙を禁じえなかった。
[映画館(字幕)] 10点(2009-08-13 06:44:33)
134.  愛を読むひと 《ネタバレ》 
ケイト・ウィンスレットの演技に脱帽。原作のハンナのイメージそのままに、物語る身体を忠実に再現してみせる。出来れば、原語であるドイツ語の台詞だったらどんなにか良かっただろう。(あと、タイトルは何故『朗読者』でなかったのだろう?) この物語は、そして彼女の演技は、語られないハンナの生き様を否応なく想像させる。少年と同じように、僕らは強く惹きつけられる。 ハンナの立ち姿とその因果を見るにつけ、悪とは?善とは何だろう?ということを深く思う。『1Q84』ではないけれど、この世の中に絶対的な悪がないように、絶対的な善もない。善悪とは静止し固定されたものではなく、常に場所や立場を入れ替え続けるものだ。 ハンナは親衛隊であり、ユダヤ人収容所の看守だったことが大罪であった。戦後20年が過ぎ、彼女はナチ狩りの裁判によって断罪される。戦後20年の視点により、同じドイツ国民の名において、戦時の彼女が断罪されるのである。しかし、彼女が罪を認めたのは、「文盲」であり、そのことを自らに恥じていたからだった。彼女には物事の「ほんとう」を知るすべがなかった。そういう意味でこそ、彼女は真の悪人だったのだろう。  善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。 – 『歎異抄』第3章  悪人  衆生は、末法に生きる凡夫であり、仏の視点によれば「善悪」の判断すらできない、根源的な「悪人」であると捉える。  阿弥陀仏の大悲に照らされた時、すなわち真実に目覚させられた時に、自らが何ものにも救われようがない「悪人」であると気付かされる。その時に初めて気付かされる「悪人」である。   善人  「善人」を、自らを「善人」であると思う者と定義する。「善人」は、善行を完遂できない身である事に気付くことのできていない「悪人」であるとする。  また善行を積もうとする行為(自力作善)は、「すべての衆生を無条件に救済する」とされる「阿弥陀仏の本願力」を疑う心であると捉える。  出典: Wikipedia  僕らも本来的に救われようがない悪人なのだろう。それは共同性を超えて、私というものの避けがたい在り方を直視させる。しかし、下記のような言葉もある。実は、ここにこそ僕らにとっての生きる「救い」があるのではないだろうか。  「君は悪から善をつくるべきだ。それ以外に方法はないのだから」(ロバート・P・ウォーレン 『ストーカー』題辞)
[映画館(字幕)] 9点(2009-08-10 07:57:14)
135.  天使と悪魔 《ネタバレ》 
作品のメインテーマである宗教と科学という問題は個人的にも興味深いタームである。小説の中のローマ教皇はそれが融合されることを望み、犯人はそれを拒否する。事件は全てそこから生まれた悲劇と言えよう。 僕はこう思う。日本的発想かもしれないけど、宗教(神という概念)はそもそも細部に宿るものだ。またそれは全ての究極の果てにおいて否が応でも関わってくる。ビッグバン以前、高密度の物質と真空エネルギーのインフレーションは、その空間と時間の始まりのゼロ地点→特異点という問題にぶつかる。近年、それはトンネル効果であるとか、量子ゆらぎであるとか、いろいろ言われているが、要はこれが「神のひと押し」であり、科学の限界の先の物語なのである。そういう神懸り的な(人知の及ばない)領域は、宇宙の始まりだけでなく、量子論や生命科学にも存在する。(池谷裕二の最新本はそのことをよく教えてくれる) 全てのフォアフロントにこそ、神は「見出せる」のではないだろうか。 宗教と科学は乖離とか融合とかを意図するものではなく、元々が同じ領域のものである。(特に日本では宗教こそが鎮魂の為の科学だった) この作品ではその認識の違いが最初の死者を生み、死者が十分に理解しながら、犯人が最後まで理解できなかった点となっている。 
[映画館(字幕)] 8点(2009-08-09 21:34:29)
136.  ダ・ヴィンチ・コード
原作は夢中になって読んだ。その謎は僕らのイマジネーションを刺激するのに充分衝撃的だったし、尚且つそれなりのリアリティがあった。しかし、ミステリーとしては一流だけど、サスペンスとしては三流だったかもしれない。スリリングなオープニングの展開がサスペンスとして持続していないのは、やはり拍子抜けの感が否めない。それは著者がサスペンスよりも歴史ミステリーを優先させたからなのか、単なるプロットとストーリテリングの能力の問題なのかよくわからないけど、なかなかこの2つを兼ね備えた作品というのはないようである。だけど単純に言えば、僕はこの作品が好きである。それは、この作品のミステリー部分が僕の歴史的記憶にとてもマッチしたからだ。  映画にしろ、小説にしろ、音楽にしろ、作品とはそれ自体がイマジネーションであると同時にそれは僕らのイマジネーションを補完するものである。作品の技術的な良し悪しがあるのと共に、作品が僕個人のイマジネーションに共振し、僕個人の物語を補完する。それがどのように僕を掴み、震わすのか?そういった評価軸は絶対個人的にのみ存在し、それこそが作品に対する絶対的評価になり得る。(評価とはそもそも絶対的でしかありえない) だから敢えて言うけど、この『ダ・ヴィンチ・コード』という映画は、『ダ・ヴィンチ・コード』という小説世界を映像として補足しているだけのものであるにもかかわらず(というかだからこそ)、小説を読んだものにとって、この映画は小説の映像的な補完として違和感なく受け入れられる。『2001年宇宙の旅』が映画とノベライゼーションでワンセットの作品であった、、、のとは意味合いがちょっと違うかもしれないけど、映画がその映画だけで評価されなければならないという決まりは全くないのである。 つまり、僕の映画『ダ・ヴィンチ・コード』の評価は、映画単独での評価というよりも作品として小説とワンセットとなっていることが前提なのである。  あと、、、実在するオプスデイやバチカンをあからさまに非難する姿勢はなかなかすごい。オチのつけられなさはこの作品の性質上自明であるとも言えるが、そこに明確な思想というかイデオロギーが全くないところも現代的でこれまたすごい。なんというか、如何にもアメリカ的な「能天気な合理的過激さ」とでも言うべきものがある。。。
[映画館(字幕)] 8点(2009-06-07 22:55:31)
137.  グラン・トリノ 《ネタバレ》 
「クリント・イーストウッド映画の集大成」と言われる。実際、集大成なのか、落とし前なのか、議論はあるかもしれないけど、この映画がイーストウッドの歴史の中に位置づけられ、その軸に沿ってこそ最大級に評価されているのは事実であろう。 確かに、イーストウッドの過去の作品のイメージ無しにこの映画を観ることはできない。『夕陽のガンマン』や『ダーティハリー』があり、『許されざる者』がいる。そういった俳優としての、或いは監督としての歴史の一連として作品が評価されるのは現代ではイーストウッド以外にいないとも思える。 作品が作者を排した一個のテキストとして評価されるべきと唱えられた時代があった。『グラン・トリノ』という映画はそんな作品論を易々と超える。作品とは個人を縛り、作品は個人に縛られる、それは作者であろうと、作品の受け手であろうと絶対的なもの、、、まぁ、そんなもんだろうと。  綿密に計算された「上手い」映画だと思う。だからこそ、ラストの驚きも自然な流れの中で観られる。そこにイーストウッドの歴史を見ればこそ、全ては腑に落ちるようだ。彼は、荒野の無頼漢であり、44マグナムを携えたタフガイだった時代の彼ではない。苦悩に満ちた「許されざる者」であり、アメリカという栄光と傷を見据えたオールドマンであり、自らの赦しを胸に刻み、新しい「光」の中に希望を見出すプレイヤーなのである。現代のアメリカの中で、ワイルドバンチはメランコリーの波間に消えたのだ。  やはり、この映画はイーストウッドの集大成的な映画なのだと僕は思う。だって、あんなラストはイーストウッド以外に考えられないじゃないか。 
[映画館(字幕)] 10点(2009-05-02 23:17:22)(良:3票)
138.  トレマーズ
現代人は、自らの過剰さに対する幻想に囚われるものである。その顕著な例が青春時代に僕らが経験する様々な鬱屈や疎外感であるが、それらの幻想は大人への成長という物語によって回収されるのがこれまでの常であった。しかし、僕らはもう、そういう物語によって、自らの過剰さを制御できないのではないか。 現代のラディカルな心情というのは無根拠の内に潜んでいるのだ。そこには如何なる物語も届かない。共同性が壊れ、薄っぺらな幻想が崩れた地平に現われた無根拠の過剰さは、まるで映画『トレマーズ』の怪物のように突如として地上に亀裂を走らせ、人を襲うのである。僕らは何だか訳の分からない怪物を相手に戦っているのだろうか。そうであれば、セキュリティがいくら強化されても、僕ら自身で亀裂を抑えることはできない限り、それは自身の無力さを実感するしかないというものだろう。 この映画、怪物という存在の無根拠さに由来する恐怖、それと闘わざるを得ない徒労、壮大なメタファーの上に描かれた実に現代的な物語なのかもしれない。  【後記】これってモンスターと戦うゲームだったんだね。無根拠さに由来する壮大なメタファーって、要はゲーム的リアリティのことだったのか。ゲームだから単純に楽しめるんだね。。
[ビデオ(字幕)] 7点(2009-05-02 22:45:37)(良:1票)
139.  さらば青春の光 《ネタバレ》 
60年代中期、ブライトンでのモッズ・ムーブメント及びロッカーズとの抗争をモチーフとした悩める若者のお話。もちろん、原題の『四重人格』から分かるように、この作品はザ・フーの同名ロックオペラを基に製作されたものだ。 当時のイギリスというのは、ティーンエージャーともいうべき新たな人種による脱階級的な雰囲気があったと言われる。モッズにしても、そんなティーンエージャー達の無邪気な反抗心によって、上流社会のファッションであるスーツをデフォルメし、ストリート風にアレンジしたスタイルである。マッシュルームカットにサイドベンツの三つボタンスーツ、そしてヴェスパの改造スクーターが定番であろうか。<この映画でみるとアーミーコートも必須のようである> さて、この映画がフーの音楽と切っても切り離せない関係にあるというのは言うまでもない。フーのロックは<というか、ロックというのはそもそも>、若者達の反社会的、脱階級的なメッセージを歌ったものであり、ピート・タウンゼントにとって、ロックこそ、そんな矛盾した世の中を生きるための哲学そのものなのである。 この映画は、『さらば青春の光』という邦題から、一人の若者の青春との決別、大人への成長の物語だとイメージされる。本当にそうだろうか? この映画の主人公ジミーは、ロックに心酔した典型的なモッズ青年である。映画の中で描かれる一軒家でのDJパーティや派手なヴェスパなど、彼はファッションを生き方と錯覚しているお坊ちゃん的気質のようである。彼は自堕落であることを執拗に追い求め、何事にも安易で我慢ができない。自分の思う通りに物事が進まないことに対して苛立ちながら、絶対に自分を省みようとしない。つまり自信がないのである。だからこそ、彼は最後に憧れのエースがベルボーイとして働く姿に世の中がひっくり返るようなショックを受けるのである。そこで彼が見つけたものとは何だろうか。ヴェスパを中空へ放り投げた地点、彼が最後に辿りついた場所とは何処だったろうか? 世の中に対する鬱屈とした感情というのは、外部に対して彼を何処にも導きはしない。彼が見詰めるべきは彼自身のゼロ地点であり、それこそが彼の辿りついた場所ではなかったか。エースの生き方という現実が彼をその場所に導いたのである。映画はその場所で終わるが、それ以上のものはこの映画に必要ないだろう。
[DVD(字幕)] 8点(2009-05-02 22:25:14)(良:2票)
140.  実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 《ネタバレ》 
坂口弘らの手記を基にして構成されたであろう連合赤軍の山岳ベースを舞台にしたリンチ殺人・粛清劇の映画化である。そもそも連合赤軍事件は、12人の同志殺害という事実だけで繋ぎ合わせてみれば、「総括」や「自己批判」などという内実のない言葉だけが飛び交う、理想と現実と空想が入り乱れた薄っぺらな観念劇とならざるを得ない。 本当にそうだったのだろうか? 連合赤軍事件とは一体何だったのか? 学生達が殺し合い、12人が死んだという事実を連ねただけでは事件の全てを「総括」できはしないだろう。12人の同志殺害というテロルの論理は、密室における群衆心理や永田洋子の執拗な嫉妬心等の心理学だけで理解できるものではないと思う。そもそも、彼らを集団殺人へと駆り立てた観念とは何なのか? 一線を越えさせた契機とは一体何だったのか?  先鋭化した学生運動に深く関わった経歴をもつ推理小説作家笠井潔は、連合赤軍事件に衝撃を受け、革命という観念が必然的に生み出すテロルの論理について思考し、三島由紀夫やドストエフスキーの小説についての文芸批評、ヘーゲル哲学の方法論によってマルクス主義を象徴とする観念批判論を纏め上げた。80年代に上梓された名著『テロルの現象学』である。この本によれば、テロルは、自己観念-共同観念-党派観念という道筋を辿ることにより、方法論として正当化され、論理的、観念的に絶対化される。 僕は学生時代に『テロルの現象学』と『バイバイ、エンジェル』を読み、連合赤軍という事件を初めて理解した(と思った)。事件そのものは映画で描かれたような思想的に矮小な集団殺人劇であったかもしれないが、それを本当に批判の対象とするには、観念という悪霊の出自、テロルの論理を理解することが必要なのだと思う。 連合赤軍事件とは一体何だったのか? オウム事件からさえも10年以上経った現在では、その問い自体が空疎に響かざるを得ない。それはこの映画が放つ薄っぺらな切実さと共鳴し、(その後に鑑賞した)映画『トウキョウソナタ』で描かれた現在の廃墟へと一直線に伸びているように思えた。
[DVD(邦画)] 9点(2009-04-03 23:59:16)
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