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onomichiさんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 404
性別 男性
ホームページ http://onomichi.exblog.jp/
年齢 55歳
自己紹介 作品を観ることは個人的な体験ですが、それをレビューし、文章にすることには普遍さを求めようと思っています。但し、作品を悪し様にすることはしません。作品に対しては、その恣意性の中から多様性を汲み取るようにし、常に中立であり、素直でありたいと思っています。

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141.  トウキョウソナタ 《ネタバレ》 
廃墟の光景。 その昔、世界を失った者は、生活という場所に帰った。或いは、自己観念に囚われ否応なく破滅を志向した。今やそのような行き方というか逃げ場自体が失われてしまったようだ。それが『トウキョウソナタ』で描かれた現代的な喪失感なのだと思った。 役割を失えば、信じるべき自分という存在すら信じられない。役所広司演じる全てを失った泥棒に小泉今日子演じる「お母さん役」の佐々木恵が言う。「最後に信じられるのは自分自身でしかないと」 その言葉は空虚に響き、結局のところ、彼は自らの命を絶つに至る。 自己という観念が崩壊した世界で、彼らは帰るべき自分という場所すら見出せず、ただ孤立したまま、家族の食卓に戻る。そこで大切なのは、失った者同士が改めて集い、新たな役割を再構築することなのだと僕は思う。 最後の「月の光」とは、一体何だったのだろうか? 夜の海辺に瞬く光の波。カーテンに差し込む穏やかな光の漣。ピアノ曲。このとってつけたご褒美のような「希望」と「救い」は何だったのだろうか? そうか、それが「アカルイミライ」なのか。行き場のない現代人にとってのフラットで等価交換的なアカルイミライなのか。そもそもそこには深みや影がないという、表層の瞬きという発見なのだろうか。
[映画館(邦画)] 10点(2009-03-31 19:18:31)(良:1票)
142.  おくりびと 《ネタバレ》 
死とは非日常である。『おくりびと』を語る時、僕らは必然的に「死」というものを手元に引き寄せて、その輪郭を凝視することを強いられる。 死とは穢れである。故に古より、死は死穢を伴うものであり、日常から隠されてきた。  映画は「死」を美化しているように捉えられる。実際はそんなことはないと思うが、事実として、この映画を観て納棺師を志す人が増えたというニュースを聞けば、この映画がある種のイメージを喚起していることは否めない。もちろん、死者は「隠されるが故に美化される」というのが本来正しいだろう。死を衣装することにより、日常の中で隠蔽する技術こそが納棺師の仕業というものなのだと思うから。但し、この映画の中で納棺師は「おくりびと」というイメージを以て僕らに伝えられる。  医者、葬儀人、屠者、皮革加工者、料理人、刑吏、警吏、狩猟者、清掃人、等、死に纏わる職能者は、その存在そのものが死を喚起する為に古来より忌み嫌われていたと言われる。その中には医者や料理人のように現在では全く差別の対象ではない職能も含まれる。それは新しい知識とその蓄積、資格の敷居の高さによって克服されてきた。果たして納棺師はどうであろうか。  ハレやケという考え方は、日本人の心情の由来として説明されることが多いが、それは今でも有効なのだろうか? ファストフードやリサイクルの考え方、幾多の映像や情報が席巻する現代の世の中で、それらは既に新しい物語に組み込まれることが必要なのかもしれない。古からの伝統と心情を現代の日本にマッチさせる為の新しいイメージ。そういうものが可能なら、『おくりびと』は、良くも悪くもその先駆けなのかなと思った。 
[映画館(邦画)] 8点(2009-03-29 20:44:21)
143.  TOKYO! 《ネタバレ》 
池袋の新文芸坐で『トウキョウソナタ』(こっちが本命!)との2本立てで鑑賞。東京シリーズか。。 『エターナル・サンシャイン』のミシェル・ゴンドリー、『ポンヌフの恋人』のレオス・カラックス、『グエムル/漢江の怪物』のポン・ジュノ。3人の作家が描くオムニバス形式のTOKYOの物語である。 人々の想像の裏側から描く東京というファンタジー。椅子女。下水道の怪人。ボタン少女。ある種の「東京奇譚集」だろうか。 予備知識がなかった分、それぞれに意外な展開が面白かった。唐突に椅子に変身し、そのことに充足し依存していく女の仄かな孤独。都市への安住を否定する存在、下水道の怪人メルド(糞)という潜在的恐怖とその捩れた存在の奇怪さへの戸惑いと怒り。そして、恋と地震によって揺りだされる引きこもり達の生への欲求と畏れ。 新しい東京物語は、現代的な心情が紡ぐ都市伝説とでも言うべきものだろうか。そこには悲壮感がそこはかとなく漂うのみで、全体的にアカルイ映像が印象的だった。
[映画館(邦画)] 8点(2009-03-29 20:38:21)
144.  美しい夏キリシマ 《ネタバレ》 
この物語は死者と共にある。 少年は、学徒動員先の工場で戦死した親友を見殺しにしたという意識に取り付かれ、薄ぼんやりとした生と贖罪の中で生きている。 全てをジャングルに置いてきたと語る片脚を失った傷病復員兵と不安の中で彼に嫁ぐことになった女。彼は自分は幽霊のようなものだと女に語る。 南方で戦死した夫を持ちながら兵士と関係する女、その兵士は満州で人を殺したと呟く。それを受け流す彼女の生は日常の中での生死の意識を軽々と越えている。 静かに特攻での決死の覚悟を報告する海軍将校とそれを受け入れる女。それは既に多くの死の上にある運命といえる。  死者は記憶となり、記憶は生者を縛る。そしてその風景の中で人は生きた。  石田えり演じる宮脇イネが事の終わりに兵士に言う。 「死んでるもんでも生きてるもんでもなか気色の悪かものになっていくのが恐ろしゅうて、気持ちよか」 彼女は、戦死したと思っていた夫が生きていることを知り、罪の意識の中で生と死に揺れる。兵士に導かれて死を選ぼうとするが、結局、その男にも逃げられ、入水も未遂に終わる。彼女は生と死の日常を拒み、死者すらも失って村を出る。  死と死者が日常を揺蕩う終戦間近のキリシマ。そこでの数日間の出来事を美しい自然と人々の心象の風景と共に綴る叙事詩。それが黒木和雄なりの当時キリシマに生き、死んだ人々に対する鎮魂歌なのだと思った。それは美しい夏に翳り、さざめく影となって僕の心を打った。素晴らしい映画だと思う。
[DVD(邦画)] 10点(2009-03-29 20:36:51)(良:1票)
145.  ぐるりのこと。 《ネタバレ》 
自らの意志のみで世の中を真っ当に生きることはそもそも難しいことである。智に働けば角が立ち、情に棹させばながされる、意地を張れば窮屈だ。明治の代からそれは変わらない人情という世情である。 夏目漱石が『草枕』で描いた非人情の風景。誠実さ故に人情の世界の中では「狂い」のものとされてしまう女。その女に人間として惹かれる画家の男。それは絵画的な風景としての生の捉え方であったか。  『ぐるりのこと。』は、自らの行き方と世の中のズレを許容できないばかりに、次第に精神を病んでいく女とそれを見守る男の物語である。「ぐるり」とは、自分たちを取り巻く世の中のこと、という意味だと察せられる。(英語題より) 女は非日常的に自らの誠実さを表現できる「絵画」を日常とすることによって快復していく。男はそれを見守る法廷画家の男である。彼は「ぐるり」を描き続ける男でもある。 もちろん、彼らは10年という年月をリアルに生きており、それは決して非人情という風景の断片ではない。丹念に描かれ、紡がれる生活というもの。日常があり、非日常がある。その繰り返しの中で生きる辛さに押しつぶされてしまったが為に、破錠しかける2人の生活。 生きるというのは「ぐるりのこと。」であり、「関係」であるが故に辛いけど、それが為に繋がる喜びである可能性もある。彼らの10年はそのことを漸く知る為の10年であったことが僕らに伝えられる。  生きることは、年輪を重ね合わせることである。そう思わせてくれる「物語」であった。
[DVD(邦画)] 9点(2009-03-18 23:53:16)(良:1票)
146.  ベンジャミン・バトン/数奇な人生 《ネタバレ》 
彼らは永遠を求めた。 そして、それを見つけた、、、のだろうか? 海と解け合う太陽を胸に刻んだのだろうか?  この物語はファンタジーであり、寓話である。2人の男女が同じように年を経るのではなく、男は80歳から老いを逆行し、若年化する過程で女の時間に自らの年齢を重ねていく。2人は共に40歳代という人生の中間地点で、ようやくお互いを真っ当に愛し合えるようになる。それは短いが故に密度の濃い時間の流れであった。その後、ベンジャミンとデイジーは別離という運命を受け入れる。  ベンジャミンの物語をひとつの人生として考えれば普通と変わらないのではないか、という見方があるが、デイジーという常に身近に感じる他人の人生と重ねあわせると、やはり若返りという逆向きの人生というのは特異であると言わざるを得ないだろう。それは、ベンジャミンとデイジーの年輪の重なりにこそ、恋愛によって輝いている時間が短いというある種の人生訓的な観念を想起させる。 しかし、ベンジャミンとデイジーにとって、それは現実以外の何ものでもなかった。だから彼らは40代前半で意図的に出会い、愛し合い、別れる。そして、そこに永遠を確信する。 ベンジャミンとデイジーは「終わり」を現実として認識していた。長い人生があり、お互いが愛し合える短い時間がそこにしかないということを。。。恋愛について意図的であるということは、自らの人生に対して鳥瞰的であり、「私」を超えて、第三者的であることを意味する。この映画がファンタジーでありながら、本格小説の如き重みを備えるのはその視点故だと思う。 普段、僕らは人生が限定的であることを知ってはいても、そのことを意識から遠ざけて生きている。時の流れがあり、それに身を任せることにより、永遠という時間は常に遠ざかっている。  ベンジャミンとデイジーは永遠を確信する。 永遠はその瞬間にあり、瞬間は永遠に引き延ばされるから。 
[映画館(字幕)] 9点(2009-03-18 20:54:45)(良:1票)
147.  ジャニス
ロック映像・ドキュメンタリーとしては、BBS "An American Band"、The Who "The Kids are Alright"、The Band "Last Waltz"、John Lennon "Imagine"、Elvis "That's the Way It Is"と共に時代を代表する作品と言えよう。  ジャニスを一躍スターダムに押し上げた1967年のMonterey POP Festivalでの名唱"Ball and Chain"、BB&HCとの"Summertime"のレコーディング風景、そして、Kozmic Blues Bandとの共演によるヨーロッパツアー、フランクフルトでの演奏などを収録している。 圧巻なのは、やはり、Full Tilt BoogieとのFestival Express(カナダ)での演奏であろうか。"Tell Mama"、"Kozmic Blues"、"Cry Baby"と素晴らしいステージングが続くが、正に鬼気迫る熱唱と言う他ない。(彼女の夭折はその3ヶ月後である) ジャニスのステージというと夜のイメージが僕にはある。ウッドストックでの"Work Me, Lord"もナイターの煌びやかさが映えた印象に残るステージだった。  本作『JANIS』には彼女の代表的なステージ映像の他に貴重なインタビューも収録されている。実は、このインタビューがジャニスの本性とでも言うべき彼女の誠実さをよく伝えていて、演奏シーン以上に感動的なのである。それは上記のロック映像作品の全てに共通するが、彼らの生き様そのものを垣間見せ、そのステージの印象をより彫り深いものとさせてくれる。  ロックが最も幸せだった時代、彼女は自由を心から信じ、そして歌った。夢見がちで傷つきやすい少女、世間から孤立し、笑いものでしかなかった少女は歌によって救われ、その彼女の歌が今度は多くの人々の胸を奮わせるのだ。彼女の存在の偉大さを改めて感じさせてくれる。彼女ほどロックの本質、その強さであり、弱さである「誠実さ」を体現するボーカリスト、ミュージシャンは他にいないと僕は思う。 改めて思うけど、ロックとは天性であるとともに、より人間的なもの、ブルージーでソウルフルな、その根源的な哀しみと密やかな喜びから発せられるものなのだ。彼女の歌はそのことをよく教えてくれる。
[DVD(字幕)] 10点(2009-03-18 20:48:54)
148.  アリスの恋 《ネタバレ》 
子連れの独身女性という設定は、昨今の映画でありふれている。 『アリスの恋』は、夫の交通事故死によってアリスが子持ちの未亡人という境遇に陥るところから始まり、家財道具一切を車に詰め込んで最愛の息子と二人で故郷の町を目指して旅を続ける様子が丁寧に描かれる。まさに70年代のロード・ムーヴィーである。 彼女らは失い、探し、見つける。彼女は旅の中で昔憧れていた歌手を目指すがすぐに挫折し、幾多の困難に遭遇しつつ、最後のハッピーエンディングで彼女が得るのは将来の伴侶となる「男」であった。  その後のハリウッド映画の流れの中で、子連れの独身女性という設定は、『ドク・ハリウッド』や『フォーエバー・ヤング』等、恋愛ドラマのヒロインの典型となり、『恋愛小説家』や『ショコラ』では子連れであるという境遇そのものがありふれたものとなって、且つ、それが女性の性としての逞しさや優しさの象徴であり、ネガティブな要素でなくなっていくように思える。さらに『エリン・ブロコビッチ』に至っては、まさにそれこそがアイデンティティの一部であり、女性の自立という「父性」と共存すべきものとして描かれる。もちろん、そこで見事に虐げられているのは全てを失った男性である。 『アリスの恋』と『エリン・ブロコビッチ』で主人公を支える男のキャラクターはとても似ているけど、その扱われ方は180度違う。父性すらも奪われることによって、虐げられる男性は、まさに『エリン・ブロコビッチ』の中で象徴的に復讐されているように思える。 さらに『ボルベール<帰郷>』に至っては、父親という存在そのものが忌まわしきものとして葬り去られるのである。  以上のことからも『アリスの恋』が女性を主人公として描いた映画として、如何に微笑ましいものであったかが分かる。旅の途中で悪い男(H・カイテル!)につかまったり、仕事で失敗したり、子供の非行に手を焼いて泣いてばかりいるエレン・バースティン。はっきり言って年はいってしまっているけど、実に可愛らしい女性じゃあないか!  今や、この映画のクリス・クリストファーソンは僕らの憧れの存在かもしれない。へたに男気を発揮して、殺されて埋められてしまわないように、僕らは常に気を配っていないと、、、男性は分子生物学的にも発生の過程における女性のできそこないで、ただの「使い走り」にすぎないらしいので。(福岡伸一の本によるとね)
[DVD(字幕)] 8点(2009-03-18 20:42:49)
149.  歩いても 歩いても 《ネタバレ》 
映画の舞台となっている三浦海岸には半年ほど住んでいたことがあるので、画面に描かれる夏の終わりごろの色彩と空気の質感はとても懐かしいものがあった。 高台から見える青い海とその手前の街を走る京急電車の高架。所々に茂る緑。国道を跨ぐ歩道橋の向こうに広がる砂浜。海岸線の先には浦賀の岬、海の向こうには房総の山々。  とても印象に残る映画だった。 淡々とした日常の生活を描くものであるが、そこに確かな生の質量を感じる。言葉は単なるコミュニケーション手段であることを超えて、家族としての記憶を確実に紡いでいく。夫々が発する言葉は止め処なく拡散していくようにみえるけど、それは確実に風景として家族の歴史に刻まれる。  「人生はいつもちょっとだけ間に合わない」 この物語、僕ら40歳周辺のアラフォー世代にはとても身に詰まらされるものがある。親や兄弟との距離、子供との距離、家族の中の自分。子供の頃の記憶を自分の子供に重ねつつ、教育という名のもとに親としての役割を演じる。親の老いを見て人生を知り、また自らの老いへの予感に思いを馳せる。人生の中途だからこそ思うこと。 僕の父親は数年前に死んでしまったけど、彼が自分と同じような弱い人間で、人生の中の様々な引き合いの中で、いくつかの諦めがあり、手の負えなさがあり、それでも家族の為に必死に生きてきたという自負があり、それらのいろんな思いを僕は彼の死ぬ間際になってようやく実感した。子供の頃、学生の頃、そのことに気づいていたら、もっと違った関係を築くことができたのかもしれない、、、でも、人生とはそういうものなのだろう。大事なことは年をとって初めて気づく。その時に改めて本当の優しさというものを知るのだ。  小津安二郎や成瀬巳喜男が描いた北鎌倉の風景が現代の三浦海岸の風景に重なる。全ては新しくなったけれど、確実に紡がれているものがあるのだなぁ。家族の歴史の中で、彼らの言葉の断片は記憶となり、風景となり、伝えられるのだなぁ。  映画の最後に、切り取られた1日の出来事が永遠の風景となったことを僕らは告げ知らされる。引き延ばされた瞬間という永遠。彼の人が亡くなり、新しい命が生まれる。その中で気づくこと。すばらしいエピローグだと思う。
[DVD(邦画)] 10点(2009-03-18 20:37:01)
150.  イントゥ・ザ・ワイルド 《ネタバレ》 
ジョン・クラカワーの原作はクリスのアラスカ入りまでの放浪生活を追い、彼が出会った人々を広く取材して、その行動と言動を丹念に拾い集める。このノンフィクション・ノベルは一人の青年のセンセーショナルな死を出発点としているが、クリスという一風変わった、それでいて実に魅力あふれる青年の生き様を様々な角度で描き抜いていることが最大の面白さであると感じる。 クリスの人物像。彼は単なる自分探しを求める夢見がちな若者の一人ではなかった。トルストイとソローをこよなく愛する厳格な理想主義者で孤独と自然を崇拝し、それでいて真に文学的な青年でもあった。理知の上に立つ無謀さ。心に屈折を抱えながらも自らの強さを過信するが故に様々なものが赦せなかった青年が2年間の放浪の中で、そして荒野での生活によって徐々に変化し、生きる可能性を掴む。人々とのふれあいの中で心を残す。最終的に彼は死んでしまったけれど、彼の生は、彼と出会った人々の心に確実に生きている。そのことが伝える生の重みを原作であるノンフィクション・ノベルは拾い上げ、そして映画が主題化し物語として紡がれた。  映画は正にショーン・ペンの作品となっている。原作はクリスという人格を外側から炙り出すパズルのような構成となっているが、映画はクリスという実体の行動を中心にして話が進められる「物語」としてある。原作によって炙り出されたクリスという人間像をショーン・ペンは自らの思想性によって肉付けし、物語の主人公として見事に再生させた。映画は、70年代ニューシネマ風のロード・ムーヴィーとして観ることができるだろう。ニューシネマの掟通りに主人公は最後に死んでしまうが、そこには明らかに「光」があった。この光こそ、ショーン・ペンの映画的主題である現代的な「赦し」の物語なのだと僕は思う。クリスが真実を求めた先に見えたものは、ふれあいの中で知った人の弱さであり、そして大自然に対した自らの弱さであった。彼は自らの中で家族と対話する。自分が自分であることを認める。そして、全てを赦したのだと僕は思う。そういう物語としてこの物語はある。  現代に荒野はもう存在しない。彼は地図を放棄することで荒野を創出し、その中で自らの経験によって思想を鍛錬しようとした。荒野へ。理知の上に立つ無謀さ。これこそが失われかけたフロンティア精神の源泉で、現代の想像力を超えた強烈な憧憬なのかもしれない。
[映画館(字幕)] 10点(2009-03-18 20:31:29)(良:3票)
151.  EUREKA ユリイカ 《ネタバレ》 
人と人とは基本的に分かり合えないものだという認識を僕らは否定できない。ただ、彼の人が自分と同じような弱い人間であること。そういった妥当によって、僕らは赦しあい、関係を生きていく原理を掴むことができる。  冒頭に起こるバスジャック事件の犯人(利重剛)が発する狂気。その境遇は全く語られないが、サラリーマン風の出で立ちからも彼が何の変哲もない普通の人間であったことが想像される。彼は普通に社会と関わり、彼自身の物語を生きてきたはずである。そして、飛び越えられた一線。狂気は日常という明るさの中に偏在し、顕在している。人と人との断絶と同じように。  日常の中の狂気が導く些細な殺意。それは事件の被害者である沢井(役所広司)達に執拗に纏わりつく。しかし、彼らがそれらを抱えつつ、それでも人と人との関係の回復を求め、その中で生き続けたいと願った時、彼ら自身、生きる原理を掴むことから始めることが必要だった。人と人との繋がり、その関係性を生きる為の再生の旅である。  この作品の中で「何故、殺してはいけないのか」ということが問われる。それは正に日常の狂気とも言うべき観念であり、少年(宮崎将)の心を侵食し行為に駆り立てたものであるが、沢井はその意味も行為も一身に引き受けることで、まるで全てを抱擁するかのように、問いそのものを包み込み無化しようとする。それがこの映画に込められた最大の「願い」であり、「赦し」だったのではないか。自らの死と引き換えに、生の可能性へと繋がる彼自身の全身全霊を込めた「赦し」だったのではないか。それは僕らの心を確実に動かす。  バスが最後に辿り着いた場所。世界は色彩を取り戻し、その声が蘇る。言葉を失った少女(宮崎あおい)は沢井と同じように全てを受け入れ、生きる可能性を得ることによって、言葉(世界)を取り戻す。それが世界の原理だと分かる。(ユリイカ=見つけた) この映画は「癒し」と「再生」をテーマとしていると言われる。僕にはそれがもっとポジティブな意味において、全てを抱擁し、赦すというイメージとして描かれていると感じる。 断絶された世界、そのことが生み出す狂気や諦念が可視的な様相の中で、この長い物語は、人が人をしてまっとうに生きる原理を丁寧に描き出す。断絶と狂気から始められ、それでも人と人が繋がりを求め、全てを抱擁し、赦しあう物語として。その再生は描かれたのである。
[DVD(邦画)] 10点(2008-11-23 01:04:57)(良:1票)
152.  ラスト、コーション 《ネタバレ》 
恋愛映画であり、その本質がエロティシズムであることを示した作品である。  その決定的なシーンとは、女スパイのワン(タン・ウェイ)が標的であるイー(トニー・レオン)からダイヤモンドの指輪をプレゼントされた際に、恍惚として思わず「逃げて・・・」と呟いてしまった瞬間である。 この映画の全てのシーンはこの一言のプロローグであり、エピローグとしてあったとも思える。それ程に深く、にも関わらず、なんという衝動的な一言だったろうか。 エロティシズムとは、非連続な存在であり、関係性である人間にとっての連続性への郷愁であり、衝動である。オルガスムこそが(小さな)死という連続性への瞬間的な接近であり、生という可能性の実感であった。それは刹那であるが故に深く、そして衝動的なのだ。  互いの孤独を紡ぐようなセックスシーンと共に、最後の指輪のシーンこそは、存在の孤独を癒す連続性の光、この映画のクライマックスであり、オルガスムの瞬間だったのではないか。  ワンの一言によって、脱兎のごとく店を飛び出したイー。 青酸カリを、そして指輪を見つめながら、最後の可能性を握り締めるワン。  彼女はその瞬間を反芻し、生の充実を得る。 彼女はエロティシズムという自我を超えた外部の力に捉えられ、引き裂かれた。それは結局のところ侵犯の報いとして生の終焉に行き着かざるを得ないのか。恋愛という最上級の幻想を、その美しい瞬間を見事に捉えた傑作。
[DVD(字幕)] 10点(2008-11-23 01:01:07)(良:1票)
153.  ランボー/最後の戦場 《ネタバレ》 
機関銃を乱射し、狂ったように大量殺戮を行うラストシーンは現代版『ワイルドバンチ』だと言える。確かにその時ばかりはランボーがウォーレン・オーツに見えた。 『ムダに生きるか、何かのために死ぬか、お前が決めろ』 そのセリフもまさにワイルドバンチ達の生き様、死に様そのものだ。しかし、何かが違う。無残かつ美しく散ったワイルドバンチ達と違う、即物的な殺戮、正統な狂気というべき幻想、その空虚さ、それがこの映画が訴える戦争のリアリティなのだろうか?  『ランボー』と言えば、第一作である。 1982年、僕が中学2年生の頃である。ランボーが一人で多数の警官隊に立ち向かう姿には興奮したし、崖から決死のダイブや森の中でのサバイバル生活、全てがエキサイティングだった。そして、ラストの独白。 所謂ベトナム帰還兵の悲劇。そこには善も悪もなく、ただ戦闘の記憶と呪縛だけがあった。それは決して単純な戦争ヒーローものではなかったのである。その映画自体を14歳の少年達が喝采したのだ。  『ランボー 最後の戦場』の殺戮シーンは確かにリアルである。そこには職人的とも言うべき、リアリティの追求があり、人が破壊されること、その細やかなシミュレートへの偏狂的なこだわりが感じられる。それは本来失われているものを浮かび上がらせ、僕らは殺戮そのもののリアリティを目の当たりにする。しかし、それはそれだけのことである。戦争とはそういった不条理な暴力であり、生死を超えた狂気そのものであるということを訴えるのも重要かもしれないが、それは何処まで行ってもただそれだけのことなのである。より本来的なのは言うまでもなくその由来である。もちろん、そんなものはこの映画に一切描かれない。  ランボーも第一作から26年経ち、すっかり中年になった。 ベトナム帰還兵の空虚、その自覚的な敗北感は既にない。決死の大量殺戮の後、故郷の牧場に帰るランボー。 この映画がまっとうな感じがしない、何とも言えない違和を感じさせるのは、いくつかの寄せ集めの要素があまりにも無自覚的に組み合わされているからだと思う。それはまさに、ゲーム的リアリティとでも言うべきフラットな現代性ではないか。それがこの映画の得体の知れなさの最大の要因であると僕は思う。結局のところ、殺戮のリアリティもデータベース化されたパーツでしかないと感じざるを得ないのだ。
[映画館(字幕)] 7点(2008-08-15 15:24:44)
154.  ペイ・フォワード/可能の王国 《ネタバレ》 
心と体に傷を持ち、過去に縛られ外界に対して心を閉ざす男-ケビン・スペイシー。信じることを渇望しながら、それをアルコールによってしか満たせない女-ヘレン・ハント。そんな2人のラブストーリーとしてみれば、この映画はとても切実で素直に心を動かされる。2人のオスカー俳優のやりとりは時に微笑ましく、観る者を優しい気持ちにさせてくれる。 2人を結びつける少年はキューピッドの役回りである。黄金と鉛の矢を携えた気紛れな幼児として描かれる小天使。彼は世の中の「善きこと」をめぐる自身の満足感とその効果を秤にかけて思い悩む少年として描かれる。その中で少年は「ペイ・フォワード」という言葉/約束事を思いつく。「ペイ・フォワード」とは何か?「善きこと」を行うということは本来的に自己満足を伴い、常に自己欺瞞の罠に捕らえられるのであるが、それを「ペイ・フォワード」という約束事に置き換えることで「善きこと」を行おうという心情を常態化(システム化)させる試みである。劇中でそれは本人の意図とは全く別のベクトルで成功するが、最終的に少年は自らの「善きこと」の為に自らを犠牲にして命を落とす。まさに少年は天使となったわけである。「ペイ・フォワード」は人と人を繋ぐ約束事であると同時に、ケビン・スペイシーとヘレン・ハントを結びつけた愛情そのもの、キューピッドはアモルであり、エロスと同一視されることに思い至らせる。  しかし、約束事としての「ペイ・フォワード」は結局のところ、愛というものを単純化して目に見える行為として強制、定式化したともいえる。ある意味で子供的な発想である。 正直言って、こういった単純化や定式化に大人(青年?)の複雑さを捨てきれない僕は賛同できない。そういったものを易々と神話化してしまうのが如何にもアメリカ的だなぁと感じる。ラブストーリーとして観ればとても秀逸な作品だと思うが、そういう意味で少し不満も残った。
[DVD(字幕)] 8点(2008-03-06 02:10:23)
155.  死ぬまでにしたい10のこと 《ネタバレ》 
とてもグッとくる映画だった。この映画は一種のファンタジーだと思う。  彼女はまだ23歳の女性だ。17歳で子供ができ、まともな恋愛も経験していない2児の母親である。夫は失業しており、自身は夜勤パート。昼間は寝ていて夕方と朝に夫と子供に触れ合う生活。低所得居住の象徴たるトレーラー暮らし。母親も父親もそれぞれ別々の移民系で、父親は刑務所にいる。ただ、生活に追われながらもそれなりに充足する毎日。それが主人公のバックグラウンドとしての現実である。僕らはその現実を理解できるだろうか? 感情移入できるだろうか? それはそれとして、実はその現実そのものを描くようなシリアスな作品を作るのは容易いことだ。しかし、それは当然のことながら製作者の本意ではない。それと同じように彼女の死に至る過程、病状や告知、闘病生活を描くこと(いわゆる難病もの?)も本意ではないと僕は思う。 「私のいない私の生活」それが原題である。さて、私がいなくても私の生活があるのだろうか? それがこの映画のタイトルに込められた作品のテーマではないかな。その時の「私」とは一体誰のことだろうか? この作品の主人公の境遇は上記に述べた通りであるが、何故、彼女が主人公に選ばれたのだろう?  この映画で印象的だったのは最初と最後のモノローグである。 人は死ぬ時にひとりであることを強烈に自覚するに違いない。私がひとりの私であること。孤独。普段、僕らは生活の中でいろいろな関係性を生きている。(それが人間というものだから) しかし、その関係性の中にいる自分という人間、「私」を疎かにしていないだろうか。孤独を感じたくないが故に「私」を見殺しにしていないだろうか。 「死ぬまでにしたい10のこと」というのは印象的なタイトルであるがそれほど重要なことのように僕には思えない。彼女は「私のいない私の生活」を想像し、それを生きる決意をすることにより、「私」を得たのだと思う。それは楽しいことではない、とても辛いことでもあるのだけど、その実感こそが、彼女の現実を価値あるものにしたのではないだろうか。  最後に、、、母親役のデボラ・ハリー。存在感がありました。そして、隣人のアン役のレオノール・ワトリング。すごく魅力的な人だと思ったら、『トーク・トゥ・ハー』の彼女だったのですね。ショートカットもよく似合います。
[DVD(字幕)] 10点(2008-03-06 02:07:48)(良:3票)
156.  それでもボクはやってない 《ネタバレ》 
いい映画だと思う。映画というのはそもそも主観的で恣意的なもの。中立である必要性は全くないし、そうあるべき意味もない。 この作品を一方的な見方で糾弾することは簡単だけど、これってそんな簡単な作品なのかな? ものごとを単純化してしまうと本来そこにあるはずの多様性を感じることができないと思う。中立であるべきなのは僕らであって、必ずしも作品の方ではない。 僕は多少首をかしげるところもあったけど、概ね作品の流れには感心した。主人公は痴漢をしたのか、していないのか、それを真実と言うのならば、結局のところそれは主人公以外に分からない、ということが最後に分かったのである。判決はあくまで有罪であり、それが事実の結果なのだから。ラストの宙吊り感は作品に深みを与えていると思う。 
[映画館(邦画)] 8点(2008-03-06 02:02:39)(良:2票)
157.  ロッキー・ザ・ファイナル 《ネタバレ》 
実は、『ロッキー・ザ・ファイナル』こそは『ロッキー』の30年ぶりの続編として捉えるのが妥当なのではないだろうか。この映画では冒頭から『ロッキー』の名場面がその所縁の場所とともになぞられ、ロッキー自らの口からその思い出話が語られる。『ロッキー』の端役であったスパイダー(ロッキーにバッティングを食らわせ、逆にKOされる作品最初の対戦相手)やリトル・マリー(酒場からロッキーに連れ戻され、道すがら説教を受ける不良少女)が印象的な役として30年を隔てて蘇る。まさに『ロッキー・ザ・ファイナル』は『ロッキー』へのオマージュとして作られた作品であることが僕らに示されるのであるが、それはまた30年ぶりの『ロッキー』の焼き直しでもあった。確かに30年の年月は鈍重で長い。60歳のスタローンがもう一度『ロッキー』の世界を再現する、そのことに対する世間の手放しの賞賛もよく理解できるが、やはりボクシングはそんなに甘くない。本来それは自分自身に対する大きな投企であり、そこから湧き上がる歓喜であり、それを飲み込む恐怖であるべきものである。当然のことながら60歳のロッキーは若くないし、ある種の生き難さ、もどかしさ、焦燥感、人生に対するラディカルな切実感も30年前に比べて薄い。(そういうものを全て包んでくれたエイドリアンもいない)しかし、まぁそれはそれでいいのかもしれないと僕は思っている。それが今回の60歳のロッキーなのだから。 僕らが『ロッキー・ザ・ファイナル』にベビーブーマー達の人生の岐路、第2の人生とでも言うべきイメージを重ね合わせてみてしまうのは致し方ない。もちろん、ロッキーの言葉はとても説得的なので世代を超えた共感も得られるだろう。しかし、逆に言えば、それが『ロッキー』から30年という年輪を経た現代の教訓的な教条主義(お説教)でしかなく、この物語は結局のところ、(60歳のプロボクサーと世界チャンプとの接戦という破天荒さとは別に)そんな教科書的な感動話の枠組みに行儀よく収まってしまうように思える。また別の見方として、この映画は、60歳のロッキーが30年前の自分の姿をなぞってみせたものの、そこにかつての切実感はもうなく、失われた熱情だけがあった、というように僕には思えた。確かにそれが年をとるということであり、それは否応なく受け入れざるを得ないことなのだ。 
[映画館(字幕)] 7点(2007-05-03 09:45:06)(良:1票)
158.  ロッキー 《ネタバレ》 
この作品は、ボクシング映画であると共に、ロックとエイドリアンの孤独と恋愛の物語でもある。ロッキーは孤独であった。彼にはボクシングしかなかったが、30歳になって、彼にはもう闘う気持ちがなくなりかけていた。チャンプになって金が稼げれば違っていたろうが、引退を勧告された彼にもう闘い続ける理由が見出せなかったのである。ボクシングが全てだったロッキーにとって、ボクシングを失うということはどういうことだろう。優しさ故にゴロツキにもなりきれず、中途半端な自分の境遇を持て余すしかなかったロック。そんな彼がエイドリアンと付き合うようになったのは、エイドリアンもロッキーと同じように孤独だったからである。二人は都市の下層に息を潜めるように生きてきたけれど、自分が孤独であることを知り、そしてそれが癒されることの可能性を捨てなかった。だからこそ、二人はお互いを理解し合い、深く求め合い、そして優しさをもって付き合うことができたのだ。 彼は何のために、誰のために闘ったのだろう。『ロッキー』はやはり『ロッキー』で完結すべき話だったように僕は思う。ロッキー2も3も4も5も『ロッキー』とは別ものの話である。何故なら、ロッキーに元々必要だったのは勝利ではなく、やり遂げること、それをエイドリアンに認めてもらいたかった、そのことだけだったからである。それは何故か?だって、ロッキーにはエイドリアンしかいなかったし、エイドリアンにもロックしかいなかった。二人はそれまで孤独だったから。(それはもちろんフィラデルフィアの為でもアメリカの為でもない。それらの声援とは無縁の二人だけの世界、そういう作品だったのである。最初は、、、) Rocky : Adrian! Hey, where's your hat? Adrian : I love you! Rocky : I love you! セリフだけ見たら洒落た恋愛映画のようなラストシーンに込められた思いは、この映画が単なるアメリカンドリームを体現したスポ根映画であることを超えて、超個人主義的な純愛映画であるとともに、そんな純愛を別種の可能性へと高らかに昇華させてみせたアカルイミライな人生賛歌であることを示している。そして、その物語は僕の胸にキリキリと切実に響くのだ。 
[インターネット(字幕)] 10点(2007-05-01 23:26:20)
159.  ブルックリン最終出口 《ネタバレ》 
ジェニファー・ジェイソン・リーが発散する空虚さ、その美しさと悲しさがとても痛かった。それでも最後に僕も一筋の光を見た思いがする。彼女にもスト解除と共に開いた最終出口があったと信じる。「無知の涙」という言葉(というか小説の題名)があるが、彼女は最後に無知である自分を涙し、他人の愛情を感じることによって救いを得ている。この映画の舞台は1950年代であり、同名小説も1960年代前半に書かれたもので、僕らのイメージとして多分に牧歌的な時代だと思っていた当時のアメリカ社会における下層の暗黒部が淡々と描かれている。当時も今もそれでしか生きられない、生きることができない人がいる。そういう人達は知ることによって救われる可能性があるのだろうか。悔恨の涙を流すことができるだろうか。しかし、知っていながらそこへ落ち込んでしまう、最も可能性が閉ざされた、出口の全く見えないそういう現実があるのではないか。最後の光を見ながらそういう暗澹がチラッと頭を掠め、少し背筋がゾッとした。
[DVD(字幕)] 9点(2007-04-20 23:42:12)
160.  アカルイミライ 《ネタバレ》 
明るい未来ではなく「アカルイミライ」である。それは決して約束された未来、誰もがその輪郭をイメージできる立体感のある未来ではなく、戯画化されフラット化した「アカルイミライ」である。その「アカルイ」は本当に「明るい」のだろうか?ゲーム的なリアリティに意味を見出さざるを得ないような社会が真っ当に明るい未来なのだろうか?2極化した社会。その断絶は年々広がり、自らの価値観の中でしか現実が選択されず、オンリーワンであることに自足して閉じこもる一部の若者達。彼らの(そして僕らの)目の前の未来はとても暗澹としているように思える。  この映画の主人公、仁村はそんな一部の若者達を象徴する存在として描かれる。しかし、仁村に信頼される年長の有田守は、そういった現代的な等価交換的な考え方の染み付いた若者達とは一線を画する存在であるように思える。彼は、「待つこと」と「行くこと」の意味を理解している。有田守は自白によって殺人罪で逮捕されるが、実際の行為は描かれず、理由は明らかにされない。その場面では、殺されて横たわった夫婦と家を飛び出し歩いている少女のみが映し出され、有田守は何かを庇って罪を犯したか、又は罪そのものを被っているのではないかということが暗示される。(そう考えなければ彼の人物造形と行動が物語として矛盾する) そして彼は「待つこと」と「行くこと」の重要性をメッセージとして残しつつ沈黙と共に自死を選択する。 結局のところ、仁村は、有田守やその父親に導かれるように「生きる」ことそのものが、「待ち」そして「行く」ことであることを理解する。そうであれば、仁村は「許され」、癒されるべき存在であり、その未来を自ら進み、掴むことができるであろう。 同じようにゲバラTショーツを着た少年たちや両親を失った少女に明るい未来があるだろうか? この映画はそれを「アカルイミライ」と称し、決してその希望と可能性を失うべきではないと宣言しているように思える。有田守やその父親、そして仁村も、結局のところ、その少年少女達の「アカルイミライ」を保護し、承認する存在として描かれていると僕には思えた。  そして、僕はこの希望的「ミライ」を支持したいと思う。黒沢清のメッセージはこの作品から強く僕らに伝えられる。僕はゲーム的リアリティよりも、やはり人間的なリアリティを信じたい。それがどんなに狭く光微かな道であっても、である。
[インターネット(字幕)] 10点(2007-04-20 23:08:24)
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