Menu
 > レビュワー
 > 六本木ソルジャー さんの口コミ一覧。8ページ目
六本木ソルジャーさんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 823
性別 男性

表示切替メニュー
レビュー関連 レビュー表示
レビュー表示(投票数)
その他レビュー表示
その他投稿関連 名セリフ・名シーン・小ネタ表示
キャスト・スタッフ名言表示
あらすじ・プロフィール表示
統計関連 製作国別レビュー統計
年代別レビュー統計
好みチェック 好みが近いレビュワー一覧
好みが近いレビュワーより抜粋したお勧め作品一覧
要望関連 作品新規登録 / 変更 要望表示
人物新規登録 / 変更 要望表示
(登録済)作品新規登録表示
(登録済)人物新規登録表示
予約データ 表示
評価順1234567891011121314151617181920
2122232425262728293031323334353637383940
4142
投稿日付順1234567891011121314151617181920
2122232425262728293031323334353637383940
4142
変更日付順1234567891011121314151617181920
2122232425262728293031323334353637383940
4142
>> カレンダー表示
>> 通常表示
141.  卒業(1967) 《ネタバレ》 
初めて観る人にはトンデモないストーリーで、ストーリーだけを単純に追えば疑問だらけで大した映画ではないのかもしれないが、映画の根底にある子どもでもない、大人でもない、大人になり切れない微妙な時期の若者の不安定感を見事に表現している映画である。 本作を鑑賞するにあたり、この映画のタイトルである「卒業」とは、何からの「卒業」なのかを考えながら観ていた。色々な意味(下ネタもありかも)が掛かっているとは思うが、「無責任な子ども時代からの卒業」「大人への依存からの卒業」ではないかと思う。大人によって敷かれたレールの上を、優等生としてただ平凡に歩くだけの人生に疑問をもったベンであるが、不安だけがつきまとい、自分の確たる信念も決断もなく、ただ無気力に日々を送るだけしかできない。彼の行動を冷静にみれば、ただ単に大人の誘惑に惑わされ、親に与えられた車を乗り回し、親が所有しているプールで暇を持て余しているだけである。 エレーンに再会し、ようやく人生において初めて大きな決断であるバークレー行きを決心するものの、そこでも何をしてよいか分からない。ただ単にストーカーまがいの行動しかできないというもどかしいほどの若さである。このあたりも大人になりきれない不安定感、何かをしたくても何もできない若さゆえの無力感が十分に描きこまれていると思う。そして、エレーンが強引に結婚されることを契機にして、ベンは考えるよりもまず行動を開始する。何かに悩んで深く考えすぎて行動を躊躇するよりも、まず直感的に行動することも必要ではないかと言っているようにみえる。 また、親から貰った赤いスポーツカーではなく、自分の足で結婚式場に向かい、バスを使っての逃亡がよい。親から与えられた車を使って逃亡するのでは、真の意味において「卒業」ではない。しかし、親から「卒業」したとしても、必ずしも明るい未来が待ち受けているとは限らない。「親や大人たちからの依存」から卒業することは今以上に苦しく、険しい道のりが待ち構えているということを、バスの中での二人の表情に込めているのではないか。それが「子ども」を卒業して、「大人」になることなのかもしれない。
[DVD(字幕)] 8点(2006-12-31 00:03:35)(良:1票)
142.  硫黄島からの手紙 《ネタバレ》 
「父親たちの星条旗」同様に極力エモーショナルに描くことは避け、「真実」を炙り出そうとしている。本作を観て、硫黄島で「何があったのか」を知って、観たそれぞれに何かを感じ取ってもらいたいという強い意図が感じられる。何かを押し付けるということはほとんどしていない。 「家族からの手紙又は家族への手紙」を有効に利用することや、大げさに演技させることによってエモーショナルに描くことは簡単である。本作の題材ならば、ストレートに観客を感動させることなど容易いだろう。だが、あえてそうしないのがイーストウッドの味であり、「わび」と「さび」ではないか。もちろん「戦争」をエンターテイメントに利用する気など微塵もない。栗林の知略をこと細やかに説明することも、壮絶な穴掘りの苦痛を描くこともしない。「戦争」を美化するつもりはないからだ。 イーストウッドの映画は昨今のハリウッド映画とは異なり、ただ映像を垂れ流すだけの「一方向」の映画ではない。映画を通しての「問いかけ」があり、観客は映画から何かを感じて考えるという「双方向」の映画なのだと思う。誰でも撮れる普通の映画ではなく、イーストウッドでしか撮れないから評価されるのだろう。 自分が一つ強く感じたのは、中将という司令官であっても、ただの一兵卒であっても、そして敵の兵士であっても、皆愛すべき家族がおり、愛される家族の一員でいたということだ。この点に関しては、身分も国籍も関係ない。それぞれの想いは、日常的な生活を綴った手紙や千人針に静かに託されているのが印象的だ。アメリカ側から本作を観た場合、「敵」であっても、バロン西のような人間的な痛みを知るものと戦っていたことを知らしめるだろう(伝説となっているバロン西投降勧告(真偽は不明)も当然描かない)。 また、「星条旗」同様に「戦争」には正義も悪も、英雄もいないということを強く描いている。「戦場」にあるのは醜さだけだ。 アメリカ側としては、日本人捕虜を抹殺する姿や、戦利品を強奪する姿や、「星条旗」では誤射によるアメリカ兵の死ですら描いていた。 日本側としても、アメリカ兵をリンチする姿、敵側に投降しようとする者を撃ち殺したり、戦場から後退しようとする者の首を刎ねようとしている姿が描かれている。 「万歳」といって自決する姿にも、玉砕しようとする姿(伊藤中尉)にも、「美しさ」はない。あるのは、「虚しさ」だけだ。
[映画館(字幕)] 8点(2006-12-11 21:20:21)(良:1票)
143.  007/消されたライセンス 《ネタバレ》 
本作は興行的に失敗した部類に入る作品であり、また、あまり目立たなかったダルトンの最後の作品ということもあり評価は高くない気がするが、ストーリーもアクションもかなり質の高い作品となっていると思う。 ボンド、サンチェス(これほど魅力的で出番の多い悪役はいない)、彼の部下たち、二人のボンドガール、M(父親のような存在)、Q(普段は仲が悪そうにみえるが親友のような存在)、マニーペニー(母親のような存在)のいずれも役割がしっかりとしており、見事に噛み合っている展開が見事だ。 私情で動くボンドにはかつてないほどの人間味が感じられる(シャーキーを殺された際には自らの危険を顧みず、復讐に打って出ている)。後ろ盾を無くしてしまったが、その分ボンドの状況把握の上手さ、機転の利かせ方が非常に上手く描かれている。 また、今回の件によってボンドは諜報部員として多くのことを学んだのではないか。単独で動きたいと主張しながらも、何度となくパムやQに助けられ、何度となく彼らに助けを求めている。逆にいえば、いままでも一人でミッションを成功させてきたわけではなく、様々な人々の協力があったために成功できたということを言い表しているのではないか。 また、彼の暴走のために、香港麻薬局の計画やCIAによるヘラー寝返り計画を台無しにしたことを知り、かなり落胆した様子も窺えた。諜報員である彼にとってこれが意味することは大きく、自分の行動の重みを理解するよい機会だったのではないかと思われる。 ラストにおいても、サンチェスに対してフェリックス(第一作のドクターノウ以来の友人)のライターを使っているのもよい。どのボンドアイテムよりもこれには敵わないだろう。ボンドのボロボロとなった姿も、この復讐劇の壮絶さを物語っている。ムーアのボンドだったら、こんな姿は見られない。 また、通常であればボンドガールと意味のないラブシーンで締めくくられることが多い本シリーズにおいて、ガールの選択が与えられるのも面白い趣向だった。美人で魅力的なルペを振り、自分のために何度も身を挺して助けてくれたパムのためにプールに飛び込む姿は、いままでの中でもかなりかっこいいボンドの姿だといわざるを得ない。 コメディ的な要素は少ないが、ジョー教授にその役割を与えたり、サンチェスのアジトに爆弾を仕掛ける際に、彫刻の胸を掴んだりといったさりげない工夫はされている。
[DVD(字幕)] 8点(2006-11-28 22:45:10)(良:1票)
144.  ソウ3 《ネタバレ》 
本作の鑑賞の前に是非ⅠとⅡの予習をしてから観て欲しい。自分は予習をしたので、とても楽しく充実して本作を鑑賞することができた。 Ⅱで感じた自分の疑問点などに対してきちんと回答が用意されているのが嬉しい。Ⅱの成功を受けて、Ⅲの製作が決まったということから、Ⅲを前提にしてⅡは創られていないのである。穴というか矛盾が多かったⅡを逆に利用するところが製作者の頭がキレルところだ。演出力も前作よりも格段とパワーアップしている。 本作のゲームの構造は、①ジェフが息子の死に責任がある者を赦せるかというゲーム、②リンがジグソウをゲーム終了まで生かせるかというゲーム、③ジグソウとアマンダのジグソウとしての資格を問うゲーム、④ジグソウとジョン(ジグソウ)のゲームという4つのゲームで成り立っている。 ③のゲームはⅡの疑問点を受けている。生き残るための道は残されるべきというゲームのルールを守れるのかをアマンダに説いた。ジグソウのゲームと単なる快楽殺人とは全く違うということを明確に示している。本作の冒頭の二件のゲームも前作同様に答えも逃げ道も用意されていないのが特徴になっている。 特に、④のゲームが興味深い。ジグソウは「ゲームを通して人を変えることができるのか」、「ゲームによって人の生き方を改めることができるのか」というゲームを自分に課したのである。自分が行ってきた数々のゲームは「生」の喜びを享受しない人々に対して果たして意味があったのか、ということを自分に問うたのである。アマンダは確かに生まれ変わったようにもみえたが、本当に彼女の生き方を変えることができたのか、逆に間違った方向に導いてしまったのではないかということをジグソウは自問したのではなかったか。 この問いに対する答えは明確なものだった。「人は変わらない」ということだ。一時の感情に支配され、愚かしいまでに過ちを繰り返すことが「人間の本質」ということをしっかりと描かれている。本作を鑑賞し終わった後は、我々はジグソウに向かって心の中でつぶやくだろう。「ゲームオーバー」と。 彼もこの答えは知っていたに違いない。「保険のために用意していた」というテープが流れるが、テープを用意するということは、このゲームに自分が勝てないと知っていたからではないか。 このシリーズはこれでもう完結させた方がこのシリーズのためにも良いような気がしたが、どうだろうか。
[映画館(字幕)] 8点(2006-11-20 20:43:20)(良:4票)
145.  カポーティ 《ネタバレ》 
小説「冷血」は未読。せめて映画「冷血」は観たかったが、常にレンタル中のため、待ちきれず本作を鑑賞することにした。読んでおくにこしたことはないが「冷血」を知らなくても、なんとか本作は十分鑑賞できるのではないか。 本作の主眼は、事件の真相というよりも「人間の内部に潜む冷酷な二面性」だろう。カポーティは、ペリーに近づき、親身になって友人として振る舞うことによって、小説のネタにするための事件の真相を探ろうとしたに過ぎない。徐々に、彼の心の闇を垣間見てしまうとふいに気付いてしまう、彼は自分自身と同じであると。「表出口から出て行ったのが自分で、裏口から出て行ったのがペリーだ」と気付く。一方は、賞賛される人気作家であり、他方は、死刑が待ち受ける犯罪者であるが、その根っこは同じである。人々から、奇異と受け止められ、周囲から疎まれ、誰からも自分のことなど理解してもらえない。ゲイの恋人はいるものの、真の意味で通じ合っているわけではない。カポーティは自分自身しか愛せなかったからだ。そんなカポーティに、真の意味で通じ合えたのが、家族から愛されず、理解もされないペリーだ。彼は、どんな日常生活よりもペリーと過ごす時間の方がくつろげたはずだ。自分自身しか愛せなかったカポーティが自分と同視できる存在と向き合えるのだから。 そんな心の安らぎであるペリーに対して、誰よりも死を待ち望んでいるのは、紛れもなくカポーティである。4年もの歳月を費やした小説を完成させるためには、彼らの死がなければ始まらない。本作のポスターのうたい文句にもなっていたが、まさに「彼の死を恐れるとともに、彼の死を望む」という状態である。カポーティこそ「冷血」であることは間違いない。クリスクーパーの「事件を起こした犯人が冷血なのか、それともそれを描く作家が冷血なのか」という問いかけは見事としか言いようがない。 そして「助けることができなかった」と嘆くカポーティに「助けたくなかったんでしょう」と言い放つネル。ネルでさえもカポーティの二面性に傷つく心を理解できず、彼は一層立ち直れないほどに孤独になっていく。 この矛盾するような感情を抱え、精神が徐々に蝕まれていく様子を、見事にホフマンが演じきっている。彼のアカデミー主演男優賞には全く異論がない。ただ単にカポーティの仕草を似せたのではなく、内面までも深く演じきっているから素晴らしいのである。
[映画館(字幕)] 8点(2006-10-16 22:12:38)(良:1票)
146.  アンタッチャブル 《ネタバレ》 
論理的な理屈で映画を構成して知性や感情に訴えるというよりも、派手で記憶に残りやすいシーンを多数用いることで、視覚に訴える作品となっている。 比較的重いテーマであるにも関わらず、2時間以内に収めて、万人向けの軽めの映画に仕上げている。本作のような映画は、スコセッシやコッポラには創れない映画だろう。 キャスティングも実に絶妙だ。コネリー、デニーロ、スミス、ガルシア、殺し屋など、見た目だけで既に、どんな人物かということを言い表しているだろう。 また、バットで仲間を殴り殺すという衝撃的な映像をワンシーン描くことで、カポネの残虐性や性格を瞬時に観客に伝え切っている。 コネリーも流石だ。正義感の強い情熱的な警官を熱演している。ネスに対する指導者っぽい接し方には厳しさとともに、彼の歴史・誇りの高さを感じさせる。警官としての誇りをワンアイテムに託したのも分かりやすくなっている。 ラストを観るにあたり、エリオットは、この戦争において、何を得たのだろうかと思わざるを得ない。「アンタッチャブル」メンバーを二人失い、当初「法の遵守」を標榜していた彼も、最後には法を犯して、殺し屋を突き落とすという行為に走り、カポネを有罪にするためには「はったり」をかますという、なり振り構わぬ姿が描き出されている。そこには財務省特別捜査官という姿はなく、感情を剥き出しにして戦う戦士のような姿である。家族を危険に晒して、自らの信念も曲げて、行き着いた先はカポネの有罪であるが、彼らはいったい何を得たのか。 カポネの有罪と、禁酒法の撤回により、10歳の少女が巻き込まれるような争いはなくなり、シカゴの街に秩序の回復が図られたと考えてよいのだろうか。やや、ラストの締めの工夫に物足りなさを感じる。 さらに、ちょっと気になったのは、デパルマらしくないなということである。何が足りないのだろうと思ったら、本作にはデパルマ作品に必須な「女性」が足りないのではないか。 しかし、よくよく思い起こしてみると、ウォルシュ殺害の前にエレベーターから美しい女性を降ろしたり、ネス夫妻の夜の会話において、自宅で仕事に取り掛かろうとするエリオットに対して、「ブラッシングして欲しいの」と妻がエリオットに頼み、しばらくすると第二児が誕生しているのをみると、やっぱりデパルマらしさは随所に出しているのだな、とも感じさせる。
[DVD(字幕)] 8点(2006-10-04 21:55:15)(良:1票)
147.  市民ケーン 《ネタバレ》 
本作が長い映画史において燦然と首位に輝く最高の傑作とは思えないけど、高い水準にある映画であることは間違いない。 まず、映画の構成がとても独創的であると感じた。スーザンがザナドゥでジグソーパズルをやっていたと思うが、本作こそはまさに「ジグソーパズル」ではないか。観客は、示されたいくつかのピース(ケーンの人生の断面)を与えられ、ケーンの人生像を探ろうとするものの、ジグソーパズルの全体像(ケーンの人生像)は最後まであまり見えてこない。しかし、最後のワンピースである「ローズバド」が観客に示されると、とたんにこのジグソーパズルは完成するという仕掛けになっている。観客は鑑賞中に、ケーンというジグソーパズルを完成させるという脳内での作業を強いられるわけであり、頭脳を使わなくてもよい、ただのハリウッド映画とは性格を異にする映画である。そういう意味においても、万人が好評価できる万人向けの映画とは思えない。 ストーリーに目を向けると、「ローズバド」によって明らかになったケーンの人生は、悲惨なものだった。金によって欲しいものは何も買うことはできず、金によって必要なものは失われていき、金によってますます孤独になっていく(ザナドゥの城のように)。人を愛そうとしても愛することができず、人や市民から愛されたいと願っても愛されることはなく、すべて自分本位でしかいられなくなった。大金を有したことによって人生が狂わされていく。 もっとも悲惨なのはスーザンに対するケーンの対応ではないか。 スーザンに対してケーンは金の力を利用して、彼女の望まない人生を歩ませる。これはまさにケーンが後見人のサッチャーなどからされたことにすぎない。ケーンは自分の力で歩むことができなかった人生に対して怒りを感じていたにもかかわらず、愛そうとした者に対して、同様のことをさせることしかできなかった…そういう愛情の方法しかできなかった、知らなかったのである。この矛盾こそ、ケーンの人生を一番明らかにしているだろう。スーザンに歌を止めさせようとしなかったことも、知事選に負け、ジャーナリストとして道を外してしまった自分の(勝利を確約されていたはずの)人生の負けを認めたくなかったからなのだろう。大金を掴んでしまった故に、悲惨な人生を歩むざる得なかった、とても哀しい、寂しい男の一生がきちんと描きこまれていた点において本作は評価せざるを得ない。
[DVD(字幕)] 8点(2006-10-01 15:40:00)(良:2票)
148.  カリートの道 《ネタバレ》 
「スカーフェイス」とは関係ない映画だが、「スカーフェイス」のトニーモンタナを、逮捕前のカリートとダブらせるとより楽しめるようになっている。モンタナは常にイライラした感じで、「ファック」を連発していたが、カリートは、感情を抑えて、控え目で、かなり落ち着いた印象である。自己を冷静にみつめ達観した様子も伺えるが、「筋」だけはきちんと通す「古いタイプの男」がそこにいる。 「殺し」についてはカリートは美学を持っているようで、「殺そう」と思って殺すのではなく、「殺さないとこちらが殺される」から殺すというもの。冒頭の甥っ子の仲間とラストのマフィアでは躊躇なく殺しているのがカリートの生きる道である。 それにしても、アルパチーノが、この世界から引退して、バハマでのレンタカー屋を夢見る中年オヤジを好演している。「スカーフェイス」とは全く違う演技だ。やはりこの演技力には唸らされる。 「カジュアリティーズ」でもデパルマと組んだショーンペンもテンパッた弁護士を好演している。彼の存在によって、本作はさらに輝きを増したといえる。 そして、監督デパルマの職人芸が相変わらず冴えに冴えまくっている。カリートとマフィア4人組との「追いかけっこ」はまさに必見というしかない。階上にいたカリートを映していたカメラマンが自らエレベーターを降りて、マフィアたちを映すシーンの、計算し尽されたスムーズさには、感嘆し、驚愕せざるを得ない。 本作で議論になる点としては、冒頭にカリートが死ぬとネタバレしているところだろう。 カリートが死ぬと分かりながら、本作を観る「効果」としては、「カリートの夢に向かう努力は報われず、すべてまさに夢に終わると知っているから、彼の行為はどこか儚くみえるのだろう」と監督は考えたのだろうか。 しかし、その効果はあまり高くはないと思う。冒頭であのような結末を描くのではなく、「彼の夢があと一歩で叶う」と観客に思わせておいて、寸でのところで断ち切られるという虚しさや、そんなに簡単にこの道からは抜け出せないという、この世界の深さを感じさせた方がよかっただろう。 クライマックスを冒頭で示して、フラッシュバックして過去に戻るという手法が多くの映画で取られているが、流行の手法だからという理由だけでやっている場合があると思う。本作のストーリーを踏まえると、この手法は明らかにマイナスといえるだろう。
[DVD(字幕)] 8点(2006-10-01 15:26:32)(良:2票)
149.  スカーフェイス 《ネタバレ》 
2時間50分という長尺だけれども、その長さをまったく感じさせなかった。トニーモンタナの人生をきっちりと3部に分けて、飽きさせることなく描き切られている。 第一部は「チンピラから成り上がりまで」、第二部は「ボスとして伸し上がり、盛隆を極めた日々」、第三部は「落日」という感じだろうか。きっちりとストーリーが時系列に、かつドラマテッィクに流れていくから、飽きないのだろう。 これらを通じて感じたことは、「チンピラは、金を得て、権力を得て、女を得たとしても、やはりチンピラでしかない。」ということだ。チンピラという言葉は、トニーモンタナには失礼かもしれないいかもしれない。彼はトラみたいな猛獣のような存在かもしれない。決して群れることができず、周囲を信用することもできず、周囲を傷つけることしかできない。そんな孤独で哀しい男の「生き様」がしっかりと描き切られており、アルパチーノが見事に演じきった。まさにトニーモンタナという人間に完全になりきったような演技であった。アルパチーノのベストといってもよいのではないか。 そして、トニーモンタナの変化が痛々しくも描かれている。「びびったら心臓に悪い」と言いつつも、セキュリティを完備した「城」に立て篭もり、「信頼とガッツが自分の取り柄」のようなことも言っていたが、徐々に人々から「信頼」が失われていく。「世界をこの手におさめる」という「夢」を追い求めるものの、自分の「ファミリー」すら手中におさめることはできず、結局「金」に溺れ、「権力」に溺れ、「ヤク」に溺れていき、破滅への道を歩んでいくしかなかった。 トニーは前々から、エルヴィラに対して「子供は好きか?」とか、「自分の子供を生んで欲しい」と言っていたから、幸せな家族に憧れていたのだろう。父親はおらず、自分の母親から罵倒され、非難される。そんなバラバラな家庭生活を送っていたから、「子供」や「妹」、「家族」に対して、固執したのではないか。エルヴィラとの間に子供さえできていれば…彼の生活も少しは変わったのではないだろうか。 映画の評価としては、7点くらいかなあと思うけれども、アルパチーノの演技のおかげで、深みのある素晴らしい映画に仕上がったので、もう1点追加して、8点としたい。
[DVD(字幕)] 8点(2006-09-26 00:01:39)(良:2票)
150.  カジュアリティーズ 《ネタバレ》 
原題は「Casualties of War」である。直訳すると「戦争の犠牲者達」という意味だろうか。 一人目の犠牲者は、紛れもなく「ベトナム人の少女」だろう。 戦争である以上、兵士同士が殺しあうことはこの際問題にはしない。また、民間人であっても爆撃によって巻き込まれることもあろうが、今回のケースはそれとは全く次元を異にするものだ。無実・無害の農村の少女が、拉致られた挙句に無惨に殺害されるというものである。まさに「戦争による狂気が生んだ犠牲者」である。 二人目の犠牲者は「エリクソン」だ。 「善悪」という倫理の境界線が崩壊した中で、一人「善」を主張し、正しいことをしようとしても、仲間からは疎まれ、告発したとしても誰からも相手にされず、一人絶望的に孤立する。「悪」に対して立ち向かおうとしても、「戦争」の前に阻まれ、助けることはもちろん、何もかもできない無力感を思い知らされる。たとえ、告発に成功したにせよ、彼女の命は戻らない、無力感も消えることもなく、復讐に怯えることになるだけである。エリクソンもまた一人の犠牲者だろう。 三人目の犠牲者は「ミザーブ他」だと思う。自分には、彼らこそ本当の意味での「戦争の犠牲者」ということを感じずにいられない。ミザーブは冒頭では、エリクソンを助けたりもする立派な兵士である。プラトーンでいうところのエリアスのような存在だ。しかし、戦友の死を契機にして、虚無感によって倫理観が崩壊し、命の重さを感じられなくなり、魂がどんどんと腐っていったのだろう。プラトーンでいうところのバーンズのようになっていった。ミザーブに同情はできないが、明るいリーダーシップを発揮するような普通の青年だったはずが、あのような行動を平気でできるほど堕落してしまったのは、「戦争による異常な空気」のためなのだろう。 エリクソンの周りをウロチョロしていた若い兵士が死んだとき、この映画を観ている人はどう感じただろうか。自分は「間抜けなアホが死んだな。」と死んで当然のように思っていた。しかし、よくよく考えてみると、一人の人間が死んでいるという重要なことが感じられなくなっていた。自分も「戦争」という「空気」によって、命の重みを感じられなくなっていたのだ。映画ですらそうなのだから、実際の戦場では人の命はアリの命のようなものだったのだろう。あのシーンの意味・重みが後から伝わってきた。
[DVD(字幕)] 8点(2006-09-23 23:51:58)(良:2票)
151.  ミッドナイトクロス 《ネタバレ》 
ブライアンデパルマの作品群の中で良作の一本だと思う。 まず、設定がかなりユニークなのが良かった。「音響技師」が主役というのは珍しいと思う。「音」がキー(鍵)になる映画というのも、あまり見かけたことがなかったので、とても新鮮味があった。たまたま録音された「音」が徐々に事件の全貌を明らかにしていく様は見事である。 その描き方もなかなかリアルであり、凝った感じに仕上げられており、普段感じることがない音響や効果について学ぶこともできる。 ラストにナンシーアレンの悲鳴を作成中のB級映画に用いたのは賛否があろうが、個人的にはかなり良かったと思う。あの時のトラボルタの心境としては、自分に対する一種の「戒め」の意味が強いのではないかと感じた。 以前にオトリ捜査で失敗して、刑事を死なせているという過去を持ち、今回も再び失敗して人を死なせてしまった。しかも今回はただ人を死なせただけではなく、自分の愛する女性であり、自分に対して悲痛なまでも「救い」を求めた女性である。 あのときの「悲鳴」は決して彼は二度と忘れることはできないだろう。二度と耳から離れることはないと思うが、それ以上に己に対する「責め」を課したように感じる。どんなに忘れたくても忘れられない方法で、なおかつ絶対に消したくても消せない方法で、あの「悲鳴」を自己の作品に留めることによって、彼女を救えなかったという「罪」を一身に背負おうとしたのだろう。あのB級映画を二度と観なくても、映画界に席を置いている限り、その「罪」から逃れることはできない。たとえ映画界から離れたとしても、彼が生きている限り、やはり逃れることはできないと思う。救えなかった「罪」を一生背負い続け、生き続けるという決心を彼はしたのだと思う。 そして、本事件の真相は必ずしも明らかにならなかったことも逆に良かったのではないか。知事の死は単なる事故として処理され、知事の殺人犯は返り討ちにあった連続殺人鬼の死として幕を閉じる。 様々な事件はすべて闇へと葬られていくが、これら事件はひとつの「悲鳴」という形に結晶化され、事件の一端を物語ることになるという儚さが、美しい花火と対比的に描かれている。さらに、トラボルタの悲痛な表情やセリフ、流れる音楽が「後味の悪さ」に輪を掛ける。なんとも表現のしようのない独特の感情は他の映画では味わえないものだろう。こういった映画は高評価したい。
[DVD(字幕)] 8点(2006-09-21 00:01:30)(良:2票)
152.  スネーク・アイズ(1998) 《ネタバレ》 
表面上のストーリーだけを評価すれば5、6点程度の映画なのかもしれないが、デパルマ監督の卓越した手腕を見せつけられたことにより、個人的な評価が随分上がった。8点はちょっと高すぎかもしれないが、デビットコープの大した事のない脚本を高レベルの映画にきちんと仕上げた点を評価したい(コープ脚本の「パニックルーム」を高レベルの映画に仕立てたフィンチャーと同様)。 ポイントはなんといっても、冒頭ちょっと過ぎからの「長回し」だろう。100分未満の映画にも関わらず10分以上をワンショットで撮ってしまう技量には驚愕する。その他にも分割画面により同時並行にストーリーを進め、緊迫感を高めたり、同じ場面を色々な角度から描いて、全貌を徐々に明らかにしたり、仕切られたホテルの部屋の上からカメラを動かしたりと、デパルマ監督の演出が冴えわたった見事な作品に仕上がっている。 ニコラスケイジも役になりきった演技が好印象だ。決してヒーローでもない安っぽい小悪党役が彼にハマッタ感じがする。金への誘惑などに対する「心」の揺れをタバコの手の揺れで表現しているのもベタであるが、分かりやすくてよかった。決して100万ドルの男ではなくて、血塗られた100ドル程度の男(汚れた安っぽい男)なんだよ、あのニコラスケイジの役は。 シニーズも好演している。彼は部下を見捨てて溺死させた過去によって「命」の重みに対して不感症になってしまったのだろう。数万の命のために数名の命を犠牲にしても厭わない「軍人」と、一人の命のために働くことが本分の「警官」の構図が面白い。また、親友同士の駆け引きも見所の一つになっている。 ラストではシニーズは自害し、ニコラスが親の一人勝ち(スネークアイズ)をしたかのように見えたが、実はそうではなかった。一躍「英雄」に祭り上げられるものの、汚職が次々と明らかになり(高級車に乗り回す)、「別荘(刑務所)」に行く破目になる(刑期を終えて真人間になったらジュリアはまた逢いましょうと言ってキスをする)。結局、親の一人勝ち(スネークアイズ)をしたのは、事件の全貌が闇に葬られ、予定通り建設を進めるパウエルであったと、ラストの宝石(赤毛の女が嵌めていたもの)が告げている。そういうオチにするんだったら、もうちょいパウエルにもスポットを当てても良かったかなとは思うが、真の悪人は捕まらないという一種のメタファーなのかもしれない。
[DVD(字幕)] 8点(2006-09-14 21:13:41)(良:1票)
153.  ゆれる 《ネタバレ》 
この映画を観て正直面白かったとは思わないが、「いい映画とはこういう映画なんだな」とは思った。観終った後の余韻に浸れる感じがよい。しばらくの間、頭の中で様々なことがぐるぐるとかけ巡る感じがした。 特に、観終った直後から「あの後、稔はバスに乗っただろうか。それとも乗らなかっただろうか。」ということをしばらくずっと考えていた。 意見は別れるとは思うが、恐らく稔はバスに乗って、猛の元を去ったのではないかと思う。 稔はこの事件を通じて猛に対して兄弟の関係を問いたかったはずだ。稔は「智恵子が付けた爪の傷跡(無罪を立証する物証)」というカード(信頼)を猛に委ねて、猛に対して執拗に兄弟の関係をぐらぐらとゆらしてみた。その激しい揺れに耐えかねて、そのカードを切らずに猛は稔を裏切ってしまった。 しかし、ラストでようやく稔は「兄」の存在の大きさに気づかされる。「今、自分がこうしているのも兄のおかげだ」と。 稔と猛の兄弟は、兄弟という関係に初めて真剣に向かい合って、ラストには真の意味で昔のような兄弟に戻れたと思う。それは猛の叫びと、稔の笑顔が証明している。 確かに兄弟という関係には戻れたと思うが、以前のような生活には戻れないはずだ。 やはり、弟の裏切りには、責めを負わせる必要があるだろう。兄は、なにもかも奪ってしまった弟から、はじめてなにかを奪われる責めを弟に負わせたはずだ。稔は猛から「兄」という存在を奪ったのではないか。だから、自分は最後にバスに乗ったと思う。 また、稔自身もリスクだけを背負ったわけではない。もし弟がカードを切らなかったとしてもよかったと思ったはずだ。この事件がなければ、田舎町でしがないガソリンスタンドを経営し、ボケた父親とともに一生つまらない人生を送っただろう。いっそのこと有罪になることで、彼なりに「つまらない人生からの逃亡」を謀ったのではないか。 そういう点からももうあの家には戻らないだろう。 猛がカードを切って無罪となれば、猛に対して語ったようにガソリンスタンドを改修して、田舎町で人生を送るつもりだったのだろう。弟からの信頼があれば、つまらない人生に対しても意義を見出せると思ったのではないか。
[映画館(邦画)] 8点(2006-09-02 02:48:59)(良:3票)
154.  ターミネーター 《ネタバレ》 
冒頭のSFシーンをみて「さすがに20年前の作品で低予算だから、ちゃちぃなぁ。これでは高得点は付けられないだろうな。」と思いながら鑑賞をし続けていたら、あっという間に世界観に引きずり込まれた。 見方によってはムチャクチャなストーリーかもしれないけれども、ストーリーも意外ときちんとした論理的な武装(パラレルワールド以外)がなされていると思う。 自分の長年の疑問だった「なぜターミネーターが一体しか送られてこないのか?」という問いにもちゃんと答えが用意されていることが新たな発見だった。 「なぜ有機体しかトランスポートできないのか?」「有機体しかトランスポートできないのにロボットがなぜトランスポートできるのか?」という問いに対して、「細かいことは俺にも知らん」と答えてしまうところにはキャメロンの大胆さも窺われる。 本シリーズの魅力としては大きく三点ほどが挙げられる。 ①『大胆な世界観』SFでありながら現代社会で争いが繰り広げられる構図がユニークだ。まだ見ぬ未来の息子のために、トラブルに巻き込まれていく悲劇には、体験したことがない不思議な共感を覚えるだろう。 ②『悲劇のヒロインから戦士への変化』最初は、リースや警察に保護されるだけのヒロインであったが、徐々に「逃げちゃだめだ。戦わないと自分の運命と!」と自己の運命を受け入れて、カイル以上に勇ましい戦士へと変化していく様には、まさに「サナギから蝶へ」と変化していくような不思議な感覚を覚えるだろう。ただのブサイクな姉ちゃんと思っていた存在から、惹かれる魅力的な女性へと変化していく過程は面白い。 また、リースと抱き合った後に一瞬二人がふざけ合うカットが挿入されているのも見逃せない。二人の関係は成り行きまかせのものではなくて、ちゃんと愛し合う二人の結果ということが分かる重要なカットだと思う。 ③『観客を飽きさせないしつこさ』ストーリーを知っている者でさえもこのしつこさには興奮させられ、刺激的に感じるだろう。それとともに、ロボットのしつこさ、怖さ、おそろしさが非常に上手く表されている部分である。与えられた使命のためには、手段を選ばず、完全に破壊されるまで任務を遂げようとする姿には、未来の機械への恐怖を感じさせる。
[DVD(字幕)] 8点(2006-08-30 23:26:28)
155.  ブレードランナー/ディレクターズカット<最終版> 《ネタバレ》 
リドリースコット監督は、ディカードを「レプリカント」として描きたかったのかもしれない。しかし、個人的にはディカードを「人間」と捉えた方が面白い解釈ができるのではないかと思う。というのも、本作では「人間」と「レプリカント」とが実に『対比』的に描かれていると思う。 「自己及び愛する者の命」のともし火がまさに消えようとしているレプリカントは必死になって、「命」を延長しようとする方法を探っている。この世界では、「命の重さ」を知っているのは、人間ではなくレプリカントではないか。「人間」は与えられた命の重さも考えずに、「目的」もなくただただ漠然と生きているだけである(ディカードのような)。そんな「人間」であるディカードに対して、「命の重さ」を教えてくれたのがレプリカントのロイではないだろうか。ディカードとロイの最後の追いかけっこは、「死にたくない」とディカードに必死にさせることにより、「命の重さ」をディカードに知らしめようとしている。まさにレプリカントが体験している「寿命(時間)」との追いかけっこを、「人間」であるディカードに体験させているのではないか。ディカードを「レプリカント」と捉えるとこのような見方ができなくなるので勿体無いと思う。 そして、「人間」であるディカードはレプリカントから教わるだけではない。レプリカントのレイチェルに対して、「感情の表わし方」を教えている。感情を上手くコントロールできず、表現できないレイチェルに対して、「愛情の示し方」を教えたのはディカードだろう。やがて「愛情」は「生きる希望」に繋がり、レイチェルもまた「命の重さ」を実感できるはずだ。 「人間」が「レプリカント」に教えられることがあるのと共に、「レプリカント」に対して教えることもある。これこそ人間とレプリカントの「共生」(最後のディカードとレイチェルの逃避行)に繋がるのではないか。「レプリカント」は、過酷な労働を強制するために創られた道具でも、狩られる対象でもなく、近未来では「人間」と共に生きる「パートナー」となるというメッセージが込められているのではないか。また、ディカードがレプリカントだとすると、最後のロイの独白が意味をなさなくなってしまう。過酷な生き方をしたロイがレプリカントにそんな話をしても、ただの内輪話であるだけで意味をなさない。あれは「人間」に対して語られなくてはいけない内容である。
[DVD(字幕)] 8点(2006-08-30 23:07:18)(良:2票)
156.  プラトーン 《ネタバレ》 
ベトナム戦争を扱った映画の中では、本作が王道をいく作品だろう。 そのように感じるのは、ストーン監督自らが従軍をし、映画に描かれた大部分が実際に「現実」として起きたことだからなのだと思う。登場人物に関しても、ストーン監督自らが属した二小隊で出会った兵士が基礎となっているらしい。彼らを演じた俳優たちも、過酷な特殊訓練を受けて、過酷な状況下で撮影をしたために、苛立ちと疲労感を感じさせるちゃんとした「兵士」となっている点も見逃せない。 戦場という善と悪の境界が曖昧な領域において、いかにして人々が「理性」を失っていくかが描かれている。戦場において、人を殺すことは決して「悪」というわけではないだろう。それは否定しようがない。だからといって、罪のない人々や仲間を殺してしまうことは許されるのか。その境界線をいかにして守ることができるのかということが、「自分のなかの戦い」なのではないか。 バーンズは、仲間を殺された怒りと苛立ちから、徐々に「理性」の境界線を失っていく。兵士ではない、ただの女性の農民を撃ち殺し、目障りとなった仲間であるはずのエリアスに重傷を負わせ、ジャングルに孤立させる。 そして、クリスもまた、仲間であるエリアスを殺された恨み、クリス自身も殺されそうになったことから、仲間であるはずのバーンズを射殺する。この時点で、クリスも自身の境界線を失ったのではないか。境界線を保てなくなった者は戦場にいるべきではないのだろう。バーンズを射殺したことで、クリスのなかの戦いは終わり、彼の戦争は幕を閉じたのではないか。クリスは、「善」であるエリアスの精神を維持しながら、「悪」であるバーンズと同様の行為をしてしまう。だから、クリスは彼らの中間的な存在なのだろう。クリスだけではなく、このような「善」と「悪」の境界線を失い中間的な存在となった兵士がベトナムには多くいたのではないか。彼らがアメリカの故郷に戻ったとしても、壊れた精神はそれほど簡単には癒されることはないだろう。アメリカの底辺にいる彼らは、貧しさや学歴のなさから、より一層精神を病んでいってしまうのではないか。この映画によって、少しでも彼らの苦悩が理解され、共感されることが望まれる。
[DVD(字幕)] 8点(2006-08-22 23:38:02)
157.  私の中のもうひとりの私 《ネタバレ》 
観終わったあと、しばらくの間自分の人生や、他人との関係など、言葉にはならないけど色々と考えさせられてしまった。劇中にて、偶然レストランで出くわした、過去にマリオンに教わった学生が「自分の人生を変えさせられた」と、マリオンの授業に対して感謝の気持ちを述べていたが、まさにあのときの学生の気持ちと同じ気持ちだ。この映画こそ「自分の人生を見つめさせられた」と言わざるを得ないほどの衝撃を受けた。本作は、ある意味でアレン教授による哲学の授業なのかもしれない。 描き方も実に見事だ。マリオンは、現在・過去・夢の中を縦横無尽に、かつ全く違和感なくスムーズに行き来する。観客がマリオンと同一化できるような手法や工夫がとられていると思う。人生を見直すきっかけが、隣室からの患者と医者の会話からというのも見事なやり方だ。なにげないきっかけから、徐々に自分を見つめなおすということは、映画の主人公(特別な存在)というよりも、一人の50歳の女性として受け止められるのだろう。 そして最後には、マリオンとホープは一枚の鏡のようにお互いを映し出していく。マリオンを見たホープは、マリオンのようなあんなかわいそうな女性((色々と多くのものを持っていそうでも)何ももっていない人間)にはなりたくないと言って、マリオンの存在が反面教師になり「希望」を見出したように思えた(医者の対応からすると「自殺」したかもしれないけど)。ホープを見たマリオンは、自分の偽りの人生に気づき、人生をリセットして再スタートするという「希望」を見出した。マリオンとホープがお互いの鏡になったように、観客にとっても「マリオン」は自分を映す鏡になったのではないか。 また、白い仮面やクリムトの絵「希望Ⅰ」もいい使われ方をしていた。彼の絵の多くには官能的かつ絶望的な悲壮感が漂っているが、そういう絶望の中にも「希望」は確かにあると感じられる絵だ。 知らず知らずのうちに、自らを人よりも優位にみせようとする行為は人間にとっては避けられないことかもしれない。自分でも傷つけるつもりはなかった、たわいもない言葉が、相手にとってはかなりショックな言葉だったと受け取られたことがあった。その気がなくても、確かに人を見下したような言葉だったかもしれない。相手の気持ちを推し量ることは難しいと思ったことがあった。この映画をみて、そのときのことを少し思い出した。
[ビデオ(字幕)] 8点(2006-08-17 22:38:33)
158.  ユナイテッド93
本作は、美談満載、お涙頂戴の感動モノではない。また、テロリストを「悪」と位置付けて、乗客が「英雄」として戦う映画でもない。 ただ、あのとき何があったのかを丁寧に徹底的に描き出したにすぎない。ここにはエンターテイメント性や複雑な人間ドラマなどもない。だから、「涙」や「面白さ」を期待してはいけないだろう。 自分は、この映画は「問いかけ」なのではないかと感じた。 このような状況下におかれたら、あなたはどう行動しますか?という問いかけ。 ユナイテッド93の乗客もたまたまあの飛行機に乗り合わせたにすぎない。自分もよく飛行機には乗るし、誰でも彼らと同じような状況に陥る可能性はあるだろう。 軍は機能しない、管制塔も混乱している、そのような時に自分ならばどういう行動ができるだろうか。自分ならば誰に最後の愛の言葉を掛けるだろうか。自分ならばどんな感謝の言葉を伝えるだろうかというようなことを考えずにいられない。 そして、この映画をみて、「映画」とは何かを考えずにもいられない。 「映画の持つ意味」、「映画の果たすべき役割」とは何であろうか。 嫌な記憶を思い出したくないとアメリカ人の中には本作の公開を拒否する運動もあったかもしれない。しかし、あったことをただ風化させるだけでは何の解決にもならない。イギリスでもまたもテロが起きようとしていたばかりである。 映画は、人々に事件から目をそらすのではなく、事件に対して直視させ、何かを感じとってもらい、何かを考えさせるチカラがあるのではないか。 映画によって、何があったのかを伝え、自分たちに何ができるのか、なぜこのようなことが起きるのか、どうすればこのようなことを防ぐことができるのかを人々に考えさせるきっかけになると信じている。
[映画館(字幕)] 8点(2006-08-13 02:52:23)
159.  M:i:III 《ネタバレ》 
このシリーズは万人が楽しめるように創られていて好感が持てる。あまり深く考えなければ相当興奮できる内容になっている。シリーズを観てなくても楽しめる内容にもなっており、シリーズ毎に特徴を変える戦略もよい。本作では前作以上にラブストーリー色を強め、人間臭いイーサンを描き出している。原点回帰のチームプレイを重視し、非現実的な世界ながらも比較的リアリティ(変装、声、振り子の原理等)にこだわっている。オープニングから全編を通してクライマックスのように迫力あるシーンの連続で緊迫感が保たれているが、逆にいえば美味しいところを序盤・中盤にもってきているために最大のクライマックスであるラストにもう一工夫必要だったのかもしれない。 <ネタバレ>イーサンとホフマンのオープニングのやり取りにあまり意味がないことは残念だ。モナハンはアレだし、ホフマンはカウントダウンして一体何が聞きたかったんだということになる。単にホフマンの一種の遊び(遊び好きみたいなセリフもあったし)で、イーサンをパニックに陥らせて、飛行機から落とされそうになったことへの復讐だったのだろう。 また、ホフマンは雑草というセリフがあったが、雑草相手にしては奪還劇が度を越えている。度を越えた奪還劇を描きながら、ラビットフットという重要なものが存在している場所ではアジトや護衛の手薄さをみせつけられるとやや違和感を覚える。 それにしても、全シリーズ、内部から裏切り者を輩出するというのは、いったいどんな組織なのかと思わざるを得ない。方向性が違うだけで根っからの悪人ではないし、この組織にいれば普通の生活はできないというセリフで補充はされているものの。そして、肝心のラストでミシェルモナハンに銃を握らせる必要はなかったと思う。せっかくリアリティを重視した本作であるにも関わらず、初めて銃を握った女性が訓練を受けた複数の人間相手に立ちまわるのは相当の違和感である。あんなシーンよりもむしろ蘇生を重視すべきである。イーサンがなかなか蘇生せずにそれでも必死に蘇生を試みさせる姿に二人の愛の深さや信頼感を感じ、観客は感動をするのではないか。「イーサンひょっとしてマジ死んだかも」と観客に思わせる位、このシーンはもっと時間を掛けて描くべきだったと思う。不評だと思うけど、ラビットフットの正体をぼやかした点とラビットフット強奪を省略した点はなかなか面白いやり方だ。
[映画館(字幕)] 8点(2006-06-25 04:07:51)
160.  テイキング・ライブス 《ネタバレ》 
異常に評価が低いけど、率直にいって楽しめた。 なんといっても、ジョリーの魅力ある演技が満載で、かなり良かったと思う。 笑顔と後悔の表情のギャップなんて相当良かったと感じた。 また、イーサンもなかなかの好演をみせていたのではないか。 ストーリーについては、確かに犯人はモロバレ(DNA鑑定でシロだったとか、ジョリーの判断(犯罪者の脳は普通とは違うとか)ではシロの可能性が高いとか、一応脚本の努力は認めてあげてもよいのではないか)しているけど、自分の想像以上に話が膨らんだと思う。普通のサスペンス映画なら病院を歩いているイーサンが実の母親に名指しされて犯人であることがジョリーにバレて適当に抵抗して捕まって終わりでしょう。 キーファーの起用も全く意味のない役柄であったが、逆の意味で良かったと思う。こんなどうでもいい役にキーファーが出るわけないのではないかという先入観があるから、脳が多少混乱する。キーファーの役どころが全く無名のおっさんだったら、観客を少しも騙せないでしょう。それにしても確かに扱いが酷すぎた。真犯人ではないにせよ、もうちょっと何らかのストーリーに絡まるキャラクターに設定すると思う。例えば、イーサンがキーファーをテイキングライブスしようとキーファーのことを観察していたら、実はキーファーは過去に殺人を犯しておりスネに傷を持つ身であったとする。そこでイーサンが自分の過去の犯罪をキーファーになすり付けて自己を清算するために、イーサンが目撃者のフリをしてキーファーのことを警察に告発するという流れでもよかったかな。キーファーのことを追いながら真相を突き止めようとするジョリー、警察に守られながらキーファーをはめようとするイーサン、自己の潔白のために逃走しながらイーサンの真の姿を暴こうとするキーファーの三者の駆け引き合戦でも面白い映画になったと思う。
[DVD(字幕)] 8点(2006-06-15 00:10:24)
030.36%
140.49%
2121.46%
3394.74%
4789.48%
59111.06%
615618.96%
719523.69%
816319.81%
9607.29%
10222.67%

全部

■ ヘルプ
© 1997 JTNEWS