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鉄腕麗人さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 2598
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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【製作年 : 1970年代 抽出】 >> 製作年レビュー統計
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1.  テレフォン 《ネタバレ》 
チャールズ・ブロンソンが、ソ連のスパイを演じるというキャスティングが的確だったかはさておき、単身アメリカに乗り込んで、自国が生み出してしまったテロリストを阻止するために暗躍するというストーリーはユニークでエキサイティングだった。 何十年も前に深層心理に植え付けられた「命令」が、催眠術によって“発動”されるという設定に対して既視感があったが、「シビルウォー/キャプテン・アメリカ」でも同様のアイデアで、ウィンター・ソルジャーを操っていたな。多分本作が元ネタなんだろう。  米ソ冷戦下において、ソ連のテロリストを米国の諜報員が核戦争勃発を防ごうと奮闘する映画は多々あるけれど、ソ連側が自国のスパイを米国に潜り込ませて、秘密裏に危機を防ごうとする展開が新鮮だった。 ソ連側のスパイらしく、任務遂行のために時に冷徹に不安因子を消し去っていく様も印象的で、その部分においてはチャールズ・ブロンソンの無骨な存在感が合っていたと思える。  リー・レミックが演じる在米KGB局員との絡みも良い。アメリカ文化に馴染むおしゃべりな彼女のことを主人公が疎ましくぶっきらぼうにあしらったり、彼女自身も主人公を暗殺する密命を受けていたりと、表裏の感情が入り交じるやり取りが興味深く、また別の緊張感を生んでいた。  ストーリーテリングとしては、下手すればもっと煩雑で分かりにくくなりそうな展開をコンパクトにまとめられていて良かった。そのあたりは、ドン・シーゲル監督による娯楽映画職人としての技量が存分に活かされていると思う。 ソ連側(KGB)独特の冷酷さや非人道的な雰囲気も、それが正しいかどうかは別にして、うまく表現できていたとも思う。  その一方で、米国側(CIA)の描写はややおざなりで物足りなさを覚えた。 CIA側はコトの情報を掴みつつも、結局何も影響力を及ぼすことなく解決してしまうので、コトの重大性のわりにとてもミニマムな範囲で収束してしまったことは否めない。 この時代としてはとても先進的に、コンピューターを“相棒”のように駆使して分析をするCIAの女性局員など、ユニークなキャラクターは存在していたので、彼女たちがもう少し直接的に主人公やメインストーリーに絡む展開が欲しかった。 あと、時代的に致し方ないとはいえ、ソ連本国の描写においても人物たちがすべて英語を話すのには、いささか興が冷めたことも否定できない。  とはいえ、70年代の娯楽映画としては、今観ても十分に見応えのあるエンターテイメントだったので、現代の社会や世界情勢の設定でリメイクしても面白いのではないかと感じた。 本作では催眠術による命令発令の手段が「電話」しかない限定性が面白味でもあったが、ありとあらゆる通信手段が存在する現代においてもまた新たな展開が考えられると思う。まあその場合タイトル変更は必至となるが。  任務終了後、米ソ両国から命を狙われる自らの状況を悟って、どちらの体制にもなびかずに、女とモーテルに向かうラストシーンも良い。ダンディズム!
[インターネット(字幕)] 7点(2024-02-04 10:22:02)
2.  くまのプーさん 完全保存版
小学3年生の息子は、太っているという程ではないけれど、お腹がぷっくりと膨れている。さらに小さい頃からの服を気に入って長く着るので、段々とお腹が見えそうになってくる。 「何かに似てるなあ」と、常々感じていたが、彼を小脇に抱えながら観た映画で、「ああ、なんだコレか」と思い至った。「くまのプーさん」だ。  念願のDisney+を契約して、とりあえず何を観ようと、息子と選んで何気なく観始めた。 2011年に製作された「くまのプーさん」は観ていたが、どうやら1977年に製作(実際は1960年代〜70年代に製作された短編映画の総集編的構成)された本作がオリジナルのようだ。自分の記憶の限りでは、描かれるストーリーとエピソードの大筋はほぼ同じだったように思う。 ただ、さすがにクラシカルなアニメーションの風合いが本作には溢れ出ていて、40年前からディズニー映画を観続けて育ってきた世代としては、やはりこちらの方が馴染みやすく、物語の世界観にも没入できたように思える。  ほぼ中毒者のようにはちみつを追い求めるプーの姿は、可愛らしさを少し越えてシュールで愉快だし、彼を取り巻く様々なキャラクターたちも、みんな少しずつズレていて可笑しい。 そして、そのキャラクターたちの世界が、クリストファー・ロビンという一人の少年の“イマジナリー”が生み出したものであるという俯瞰的な視点も、作品上にちゃんと表現されていて、それがこのゆる〜いファンタジー世界に「芯」を持たせているようにも感じる。 ラスト、クリストファー・ロビンが、成長していく自分自身の変化を感じつつ、プーに語りかけるシーンは、とても愛しくもあり、とても切なくもあった。  と、「くまのプーさん」を観て、くどくどと綴ってしまう自分は、いよいよ子どもの無垢な心とは離れてしまったなあと思う。 一方、傍らで観ていた小3の息子は、キャラクターたちの言動に合わせて足をバタつかせたり、フンフンとリズムに乗ったり、挙げ句は途中で「はちみつ食べたい」と言ってキッチンに行ってマヌカハニーを舐めていた。 「ああ、これこそが正しいプーさんの観方だな」と、まるでプーさんそのものの息子に教えられた気分だった。
[インターネット(吹替)] 7点(2024-01-20 07:36:23)
3.  男はつらいよ 望郷篇
2024年も映画初めは“寅さん”でスタート。今年も50年以上前の人情喜劇に心が安らぐ。  「望郷篇」とういタイトルに相応しく、寅次郎の故郷東京柴又をはじめ、この国のかつての風景や風俗描写が何気なく映しとられている。 撮影当時とすれば、それは至極当たり前のロケーションだったのだろうけれど、それから50年あまりの月日が流れた現在では、一つ一つのありふれていたのであろう描写がことさらに印象的だった。 江戸川の河川敷、発展途上の札幌や小樽の街並み、小沢駅前の旅館、北海道の広い大地を縦横する蒸気機関車、浦安の豆腐屋、河口を行き交う船……。無論私自身はその光景を実際に目にしていたわけではないけれど、郷愁を覚えるのはなぜだろう。  前2作では監督から離れていた山田洋次が監督に戻り、作品としての安定感が増しているように感じた。 キャラクター設定やストーリー展開等やっていることはほぼほぼ同じなのに、何とも言語化しづらい絶妙な間合いによる可笑しみや人間ドラマ、それに伴う情感が、山田監督の演出力と、彼に絶対的な信頼を置くキャスト陣の安心感によって増幅されているのだと思えた。 前2作では今ひとつ出番が少なかった妹さくらの登場シーンが多いことも嬉しかった。映画内の季節が真夏なこともあり、さくら役の倍賞千恵子のミニスカート姿も眩しい。  随所で、脚本通りなのか、アドリブなのか、NGスレスレなのか、その境界がアバウトなシーンも見受けられ、それらも含めて「作品」として成立させてしまう“ライブ感”みたいなものが、本シリーズの核心である人間模様の豊潤さを生み出しているのだとも思う。 前述の各地のシーンにおいても、当たり前の光景を当たり前のように映し出しているように見えて、そのロケーションの素晴らしさや、画作り、カメラワークの巧みさが、印象的なシーンとして仕上がっている要因なのだろう。 流石は山田洋次である。この日本映画史に残る巨匠監督が、2024年現在においてもバリバリの“現役”であることの価値と意義を改めて認識すべきだと痛感した。  さて5年に渡って毎年正月に「男はつらいよ」を観ることを恒例にしているが、全50作を観終わるにはあまりにも年数がかかりすぎてしまうことに今更気づいた。 よくよく考えれば、撮影当時の製作ペース自体が当初は2〜3作ペースなので、今年からはこちらも2〜3作ペースで鑑賞していこうと思う。
[インターネット(邦画)] 8点(2024-01-06 12:45:12)
4.  新・男はつらいよ
今年も正月は“寅さん”からスタート。元日の夜半、シリーズ4作目にしてしっかりと定番化したキャラクター描写とお決まりの喜劇が心地よく身にしみる。  前作(第3作「男はつらいよ フーテンの寅」)は、舞台設定やストーリーテリングがやや脱線気味でまとまりがない印象があったが、本作は「新」という冠のもとで、原点回帰というか、本作以降も続くであろう定形が固まった印象を受ける。  決して特別に感動的な話が展開されるわけではないが、渥美清演じる車寅次郎の特異なキャラクター性を軸にしてベタな喜劇が安定していたと思う。  ヒロインの描写がやや表面的で、彼女が抱える人生模様に踏み込みきれていないようにも思うが、自身の実父の死に対する悲しみを、とらやの面々の滑稽な様を目の当たりにしつつ深めて、自分の中の本当の思いに気づく様は印象的だった。  寅次郎は相変わらず馬鹿で迷惑な男だけれど、人間誰しも素直になれない不器用さや愚かさは内包しているもの。これからも、時代を越えて、この国の人たちは寅さんに思いを重ね続けるのだろう。
[インターネット(邦画)] 7点(2023-01-03 11:16:27)
5.  男はつらいよ フーテンの寅
あいも変わらず車寅次郎という男は、馬鹿で、愚かで、滑稽だ。 まったく自分自身とは関わりの無い映画の中の世界の他人であるにも関わらず、馬鹿さ加減には、時に苛立ち、若干の憎しみすら感じる。 でも、ぎりぎり、本当に紙一重の部分で、憎みきれず、愛おしい。 そのキャラクター性は、映画というマジックが生み出した一つの奇跡だとすら感じる。  シリーズ第三作目にして、監督が山田洋次から変更になっていることが影響しているのか、作品としてどこか勢いの無さみたいなものは感じる。 無論、分かりやすい派手やさや勢いがある類の娯楽作品ではないのだが、第一作、第二作には、ささやかで何気ない描写の中で、言葉では表しきれない演出や演者の大胆さや迷いの無さが、極上の娯楽を生み出していたように思える。  三重県が舞台ということもあり、全編に渡って随所に挟み込まれる工業地帯の背景や、行き交うトラック、公害による患いを想起させるキャラクター描写など、少々作品のテイストにそぐわない社会性が不協和音になっていたようにも感じた。 それはそれで、作品当時の社会性や風俗を映し出しているとも捉えられ、興味深いポイントではあったのだけれど、“寅さん”という娯楽に求められるものとはやや乖離していたように思う。  倍賞千恵子の登場シーンが極めて少ないことなど、この後何十年にも渡ってシリーズ化されることなど想像もしていないのだろう製作現場の空気感も伝わってくる。  とはいえ、車寅次郎というキャラクター造形と、彼が織りなす人生の機微は益々深まっていく。 プロローグとエピローグで共通して、寅次郎が存在しない自分の家族を朗々と語るさまは、なんとも切ない。  毎年正月(1月)に、「男はつらいよ」」を観ることを決めて早3年。 3年で3作目では、流石に50作もあるシリーズを負いきれないので、少しペースを上げて車寅次郎が越えていく時代を追いかけようと思う。
[インターネット(邦画)] 6点(2022-12-15 21:50:27)
6.  暴走パニック 大激突
いやはや、なんともトンデモナイ。 大胆で、猥雑で、非常識。時代を越えた昔の映画に対して、現在の倫理観と照らし合わせることはナンセンスだと思うが、あまりに自由で、あまりに奔放でエキサイティングな映画世界には、いまや「羨望」の眼差しを向けざるを得ない。  先日鑑賞した「狂った野獣」に続いての渡瀬恒彦主演作(同年製作)だったが、やっぱりこの時代のこのスター俳優の存在感と“アクション”は唯一無二であったろうことがギンギンに伝わってくる。 80年代生まれの者としては、渡瀬恒彦という俳優を認識した頃には、すでにサスペンスドラマに多数出演する好感度の高いテレビ俳優という印象が先行しており、渡哲也の実弟という立ち位置もあり俳優としてそれほど強いインパクトを感じたことはなかった。 しかし、この時代の彼の佇まいと雰囲気は、アクの強いダークヒーローであり、あらゆるアクションシーンを自分自身でこなしたという逸話も伝説的だ。 本作においても、決して正々堂々としたヒーローではなく、姑息さや残酷さも持ち合わせた犯罪者であるというキャラクター性が、ダークヒーローとしての存在感と哀愁を際立たせている。  そしてそこに「深作欣二」という巨大な劇薬が混ざり、映し出された映画世界は娯楽の混沌と化している。 中盤、本筋と外れたところで、或る変態医師のアブノーマルプレイがじっくりと映し出された時には、思わず「一体何を見せられているんだ」と困惑し呆然としてしまったが、それすらも最終的には娯楽の混沌の一要素としてまかり通してしまう圧倒的なエンターテイメント力にひれ伏すしか無かった。  クライマックスで待ち受けていたのは、タイトル通りの大暴走と、大パニック。 主人公のみならず、川谷拓三、室田日出男ら演じるこれまたアクの強い脇役たちや、通りすがりの端役に至るまで、それぞれが孕んでいた狂気性が爆発し、泥と爆音と共に入り乱れる様はまさしく阿鼻叫喚。 この時代を生きるすべての人間たちの鬱積が撒き散らされているようだった。  現代の最新カーアクション映画の筆頭といえばご存知「ワイルド・スピード」シリーズだが、50年近く前のニッポンに“元祖ワイルド・スピード”と呼ぶに相応しい映画が存在していたことを、ハリウッドの映画人たちは知っているだろうか。 あ、クエンティン・タランティーノ以外でね。
[インターネット(邦画)] 8点(2022-04-16 11:49:25)
7.  狂った野獣(1976)
主演の渡瀬恒彦が、スター俳優であるにも関わらず、走行中のバイクからバスに飛び乗り、自ら運転する大型バスをド派手に横転させる、ノースタントで。 世の好事家たちの文献から聞き及んではいたけれど、この時代の渡瀬恒彦は“ヤバい”。その様は時に狂気的にも見え、故に俳優として魅力的だ。  或る深夜、ふいに古めの日本映画が観たくなり、時刻も深かったので上映時間が78分と短かった本作をサクッと鑑賞。 程よい雑多感や、荒々しい風俗描写がそのまま「娯楽」として“激突”してくるような芳しいエンターテイメントだった。  一台の路線バスに偶然乗り合わせた一般人と、悪党と、別の悪党。 それぞれが孕んでいた欲望と焦燥は、暴走するバスと同調するかのように行き場を見失い、破滅へと突き進む。 先に主演俳優の狂気的な破天荒ぶりに言及したが、この映画の登場人物たちは皆々狂っている。いや、結果的にそもそも人間がうちに秘めている狂気を抑えきれなくなったということかもしれない。  主演の渡瀬恒彦のみならず、脇役の俳優たちもみな個性的で印象的。 特に終始“小物感”を撒き散らし、衝撃的な死に様を見せる川谷拓三が見事。
[インターネット(邦画)] 7点(2022-03-31 22:39:55)
8.  資金源強奪
溢れ出る「昭和」のギラつく雑多感。 人からも、服装からも、街並みからも、すべてから放たれるそのギラギラに圧倒される。 展開される犯罪アクションの卓越したエンターテイメント性もさることながら、映し出される「昭和」そのものが揺るぎない「娯楽」だった。  ムショ帰りの主人公(北大路欣也)が、塀の中で知り合った仲間と共に、自身の組が主催する賭場の資金強奪を謀る。 計画は見事に成功するが、そこから報復と裏切りが織りなす容赦ない強奪金争いが始まる。  ハリウッド映画などでは、玉石混交に描きつくされたプロットであるが、それがこの時代の日本映画で、これ程まで娯楽的な完成度の高い作品として存在していたことにまず驚く。 ストーリーテリングのテンポの良さとユニークさ、そして何よりも、登場するキャラクターたちの個性がそれぞれ際立っていて、そのアンサンブルが娯楽映画としての質を高めていると思う。  北大路欣也の決してヒーロー然としてはいない悪党としての男臭さ。梅宮辰夫演じる悪徳刑事の軽妙さと曲者ぶり。そして何と言っても、川谷拓三の泥臭すぎる雑草魂。 最終的に“三つ巴”となって、「金=命」を奪い合う三者のキャラクター性が、俳優本人の個性とも掛け合わさり、特に印象的だった。     匂い立つような昭和娯楽の匂いにクラクラしっぱなしだった。 各種動画配信サービスの普及に伴い、これまでその存在すら知り得なかった“昭和映画”にも容易に触手を伸ばすことができるようになった。今一度、昭和娯楽の真髄を掘り起こす沼にハマっていきそうだ。
[インターネット(邦画)] 8点(2021-06-08 21:16:44)
9.  仁義なき戦い 完結篇
昼寝から目覚めた土曜日の夕刻、この「完結篇」を鑑賞。 思い返せば、シリーズ第一作目の「仁義なき戦い」を初鑑賞したのは、2004年だった。つまり、足掛け17年でこのヤクザ映画シリーズ5部作を観終えたことになる。 この17年の間で、菅原文太をはじめ、松方弘樹も、梅宮辰夫も、今シリーズに限らず、この国の“ヤクザ映画”という娯楽を彩った名優たちがこの世を去ってしまった。なんとも寂しいことだ。  感傷に浸る一方で、驚かされるのは、この5部作が1973年から1974年の僅か一年半あまりで、怒涛の如く製作され、公開されているという事実だ。 日本映画界そのものがギラギラと隆盛を極めたプログラムピクチャー全盛の時代だったとはいえ、「映画製作」に対するあらゆる意味での今はなき「熱量」を感じずにはいられない。  今シリーズは、本来前作の「頂上決戦」で“完結”する予定で、ストーリー的にも綺麗に収束していたのだけれど、東映社長・岡田茂の一声で、半ば強引にこの「完結篇」が製作されたらしい。 そういう映画会社の権威性やその重役の豪腕ぶりも、この時代ならではのことであり、是非はあろうけれど、今の時代にはないエネルギーが満ち溢れている。  時代劇研究家の春日太一の著書「あかんやつら」などを読むと、当時の東映映画は、その撮影現場そのものが文字通りの“修羅場”であったことがよく分かる。 会社重役も、監督や脚本家をはじめとするスタッフも、俳優たちも、すべての“映画人”たちが血気盛んに入り乱れ、その延長線上に映画作品が結実していたのだろう。  実際、これまでの「任侠映画」の概念を打ち破り、実録映画として実在のヤクザ・暴力団組織をモデルに描いた今シリーズは、“ホンモノ”の方々と密接に繋がりながら製作されており、まさしく“命がけ”の製作現場であったことは想像に難くない。  今作単体としては、シリーズにおける「蛇足」感を拭えないけれど、そういうフィルムに映し出されているもののすぐ裏面に焼き付いている“戦い”を思うと、メタ的かつ重層的な新たな娯楽性が見えてくる。  その壮絶な「内幕」にこそ悲喜こもごもの娯楽性が溢れていることは明らかだ。 当時の撮影現場の空気感をリアルに汲み取って、ぜひとも映画化に挑んでほしいものだ。
[インターネット(邦画)] 7点(2021-02-14 17:51:37)
10.  女囚701号 さそり
「梶芽衣子全曲集」というアルバムを持っている。 クエンティン・タランティーノの「キル・ビル」公開当時に、劇中とエンディングで使用された「修羅の花」と「怨み節」に聞き惚れて即刻入手したものだ。 「修羅の花」が主題歌の梶芽衣子主演映画「修羅雪姫(1973)」は、「キル・ビル」公開直後に観ていたのだけれど、「怨み節」が主題歌の今作は今まで観られていなかった。 “オリジナル”映画での「怨み節」をようやく聴けて、そのことが先ず感慨深い。  「修羅雪姫」を観た時の衝撃も物凄いものだったが、ほとばしる女の情念そのものにおいては、今作もまたとんでもない。 殆ど主演女優「梶芽衣子」の眼力だけで押し通す見紛うことなきトンデモ映画ぶりに呆然とするしかない。 徹頭徹尾ためらいも遠慮もなければモラルも何もあったもんじゃない。コレが人気映画としてシリーズ化されるわけだから、当時の“ニッポン”はどうかしている。 改めて、クエンティン・タランティーノが惚れ込むわけだと思い知った。  あらゆる意味で、このカルト映画の「再現」は不可能だろう。 その理由は、現代社会のモラルや常識が今作のあらゆる表現を許容しないこともあるが、それよりも何よりも、この時代の「梶芽衣子」という存在が唯一無二だからということに他ならない。
[インターネット(邦画)] 6点(2018-01-09 23:41:37)
11.  黒の奔流
鑑賞後に原作が松本清張であることを知った。 「清張っぽくないな」などというと、いかにも文学通のようだが、恥ずかしながら実際に松本清張の小説を読んだことは一度もない。 映画やドラマの映像化作品の印象に過ぎないが、松本清張の原作にしては、物語としての独特の“重さ”のようなものは感じなかった。  ただし、それが即ち映画として面白くなかったというわけではなく、いたずらに重々しくない軽薄さみたいなものが映画全体を包み込んでいて、それが伝える“危うさ”こそがこの映画の味わいだと思えた。  愛憎渦巻く法廷劇として展開するのかと思いきや、もっとダイレクトで明確な「愛憎劇」へと展開していくストーリーテリングに面食らう。 しかしそこには、主演の山崎努と岡田茉莉子の艶めかしい男と女の「艶」がほとばしる。 ストーリーラインとしてはとても混濁していて、上手ではない。“決め画”を多用し、ある種強引に各シーンを締める。でも、それをまかり通す演者たちの力技が凄い。 やはり、この時代の日本映画の俳優たちは半端ない。   夏休み、家族と訪れた旅先の宿にて、妻子が寝静まった後、安いワインを飲みながら一人Netflixで鑑賞。 45年前の古い映画を、どこに居たって思いつきで観られる時代だ。 旅先の高揚感も手伝って、映画自体の善し悪しは別にして酒が進んだ。
[インターネット(邦画)] 6点(2017-11-09 21:45:12)
12.  仁義なき戦い 頂上作戦
ドン底からの暴力による抗いを描きつけるシリーズ第4弾。 東京五輪を間近に控え、時代が生んだアウトローたちの一寸のカタルシスは、権力と時代の激流により徐々に確実に淘汰されていく。 暴力のカリスマ二人が、極寒の留置所で諦観じみた掛け合いをする様が哀愁に満ち溢れる。 菅原文太、そして小林旭、稀代の映画スターの存在そのものが、今作における圧倒的娯楽である。  いつの時代であれ、暴力団という存在を肯定するつもりは一切ないけれど、敗戦に伴う喪失と屈辱、国全体の貧困と飢えが、彼らを暴力に駆り立てたこともまた事実だろう。 言うなれば、この稀代の暴力映画シリーズの根底にあるものは、この国の覆い隠された生身の姿なのだろうと思う。  だからこそ、ひたすらに繰り広げられるバイオレンス描写と愚かしいヤクザ世界の人間模様に、一抹の滑稽さと多大な娯楽性と共に、どこか拭い去れない侘しさを感じてしまうのだ。  クエンティン・タランティーノをはじめ、世界の映画ファンからも愛される日本のヤクザ映画だが、日本人にとってのヤクザ映画には、時代を越えた特別な感慨がじっとりと染み付いている。 それは、ヤクザ稼業の人種に関わらず、この国のすべての人達がかつて味わった「侘しさ」を思い起こすからだろう。  この「仁義なき戦い」シリーズをはじめ、この国のヤクザ映画が老若男女に愛された理由は、そういうところにあるのではないかと思える。
[インターネット(邦画)] 8点(2017-11-08 19:56:41)
13.  ゴジラ対メカゴジラ
「駄作」だらけの、昭和“プロレス”時代のゴジラ映画の中では、なかなかどうして“楽しさ”だけは随一と言える作品だったのではないかと思う。(無論、この時代の他のゴジラ映画もつぶさに観てきて、ハードルを下げきった上での鑑賞だったからだろうけれど……)  まず何と言っても、シリーズ初登場となる“メカゴジラ”の娯楽性溢れる存在が良い。 ブラックホール第3惑星人という荒唐無稽な宇宙人が操るこの機械仕掛けの大怪獣の存在性は、良い意味で東宝特撮映画ならではの馬鹿馬鹿しさに溢れている。 文字通り全身から放たれる兵器によって、対するゴジラを苦しめ、一旦は瀕死の状態まで追い込んだ戦績は、長きゴジラ映画シリーズにおいても賞賛に値するのではないかと思える。  あくまで「兵器」であるメカゴジラの特性上、ストーリー的な主軸が人間たちの攻防にある点も好ましかった。 馬鹿らしくて子供だましではあるけれど、滑稽な宇宙人たちとの攻防に、インターポールまで介入し、SFとスパイものが合わさったようなアクション映画的な展開は、この時代の娯楽映画の在り方として正しかったと思う。  また今作では、沖縄がメインの舞台として描かれ、キングシーサーなる土着怪獣まで登場するわけだが、この映画の公開当時、沖縄は2年前に返還されたばかりであり、それ故の風俗描写の微妙な違和感もまた興味深い。 文化面や精神面の描写で垣間見える理解度の低さが、当時の本土と沖縄との“距離感”を表しているように思えた。 沖縄が舞台にも関わらず、自衛隊も米軍もまったく登場しない展開にも、世情に対する製作者たちの思惑が垣間見える。  というわけで、今作においては、肝心の“ゴジラ”の印象は極めて薄いが、それを補うだけの娯楽性と、様々な側面での見応えはあるゴジラ映画だったとは思う。
[CS・衛星(邦画)] 6点(2016-08-02 21:45:43)(良:1票)
14.  激動の昭和史 沖縄決戦
“沖縄軍の戦死者10万” “沖縄県民の死者15万”  太平洋戦争末期、「沖縄」という地で失われた命の数がラストのシークエンスで大写しにされる。 その膨大な数が表す通り、この映画は最初から最後まで延々と、愚かさと絶望の中で続いた「死」を容赦なく映し出し続ける。 「地獄絵図」という比喩表現そのものの光景に対して、憤りを通り越した虚無感に襲われ、ただただ涙が溢れ、逃げ場を見失う。  ただ、「これが現実」という絶望的な悲劇の中で、同時に強く印象に残ったことは、それでも残った命の存在とその意味だった。 「死」の中で残った数少ない「生」の描写こそ、このあまりにも絶望的な映画において、監督が手繰った希望だったのではないか。  敗色濃厚というよりも敗戦が必然の中で葛藤し続けた高級参謀然り、息子を亡くしそれでも表向きにはひょうきんに従軍し続けた散髪屋然り、最後は強引に生き残ることを命じられたひめゆり学徒隊の少女たち然り、息絶えた母親の背で泣き続ける赤ん坊然り、そしておびただしい数の屍の中を歩き続けた孤児の少女然り。 あの時、彼の地で生き延び、後の時代に継いだ命の価値と、命を継がれた者たちの“声”を真摯に受け止め続けることの意味をこの累々とした死を描きつけた映画は物語っているのだと思う。  彼らの死と、継がれた命が語る「事実」を、総ての人々は今一度知らなければならない。   この重く、辛く、だからこそ誰しも一度は観なければならない映画を描きぬいたのは、岡本喜八監督。 この映画はドキュメント要素が強く、普通ならばただただ淡々と暗く悲しい事実に対して、一方的に耐え忍ぶように観なければならない映画に仕上がっていたことだろう。  しかし、娯楽映画に秀でた大巨匠だからこそのあまりに巧い演出力が光る。 悲壮と絶望が渦巻く戦禍において、敢えてユーモラスなキャラクターやシニカルな台詞回しを適所に配し、的確な可笑しみを効果的に加味している。それにより映画的な抑揚が生まれると共に、現実の悲劇性はより深まっている。 その演出方法は、岡本喜八という大巨匠の映画監督としての意地と誇りの表れのように思えた。   繰り返しになるが、重く、辛い映画であることは間違いない。 でも、この映画は決して説教臭くもなければ、何かしらの思想を強要するものでもなく、娯楽文化としての「映画」という表現の中で、しっかりとその意味と価値を表している。 そのことが、本当に素晴らしいと思う。
[CS・衛星(邦画)] 10点(2015-08-15 20:49:40)(良:1票)
15.  マッドマックス
何というアタマの悪い映画だろうか。 登場するキャラクターも、製作チームも、この映画を愛する観客たちも、揃いも揃って「なんてアタマが悪いんだ!」と思わざるをえない。良い意味でも悪い意味でも。  バイオレンスアクションの金字塔としてあまりにも有名な映画だと思うが、世代的な要因もありこれまで未見。今夏の最新作“怒りのデスロード”を観てから初めての鑑賞に至った。 全世界においてカルト的な人気を誇るこの映画を初めて観た率直な印象を先ず一言で述べたい。  「クソ映画」だなと思った。  はっきり言って、支離滅裂でいたたまれない愚鈍な映画世界に対して、居心地の悪さしか感じなかった。 何と言っても我慢ならなかったのは、傍若無人・極悪非道の悪党どもよりも誰よりも、主人公とその妻の著しく生存本能に欠けた馬鹿さ加減に辟易してしまい、冷めてしまった。  満を持して観た映画史上に残る傑作に、全くハマることが出来なかったことは、至極残念に思う。 ただ、それは映画を観るという行為において致し方ないことだとも思うし、だからと言って、この映画が世界中から愛され続けていることに対して疑問を感じることはない。 自分なりに長らく映画を観てきて思うことは、「カルト映画」と「クソ映画」の差は紙一重というか、むしろ同義だと言ってしまっていいのだろうということ。  公開された1979年において、全く新しく、暴力的で破天荒な映画世界に世界中の映画ファンが心酔したこともよく理解できる。 同時に、当時においてもこの映画を全否定した映画ファンも決して少なくなかったことだろう。 是と非がせめぎ合うほど、映画のカルト性は深まり、伝説化していくものだ。  すべての映画を楽しむことが出来たならばそれに越したことはないのかもしれないが、やはりそれでは映画を観るという行為の価値が薄れてしまうようにも思う。 一つの作品に対して、「面白い」か「つまらない」か、それぞれの反応が等しく存在することが許されることこそが、映画というものの醍醐味だろう。  とまあ、「クソ映画だ!」と断言しつつも、無意識的に各シーンを思い返もしている。 まったくもって変な映画である。 アタマの悪い映画ファンに愛されるわけだ。と、口角が上がる。
[DVD(字幕)] 5点(2015-07-04 00:30:24)
16.  トラック野郎 御意見無用
物凄くとっ散らかっていて雑で下品な映画である。 しかし、主演俳優のほとばしる「熱量」のみで、無双の娯楽映画に仕上がっている。 諸々の表現やストーリー展開も含めて、決して褒められた映画でないことは明らかだろう。 でも、この映画に当時の多くの観衆が魅了されエネルギーを貰っただろうことも明らかだ。  何をおいても語るべきは、「菅原文太」だろう。 “一番星”という役名の通り、菅原文太という俳優の“映画スター”としてのパワーが凝縮された映画だった。 どんな障壁も、どんな失意も、トラック一つで突っ切って豪快に笑い飛ばす。 その姿はまさに反逆のカリスマであり、役柄を超えて菅原文太という人間そのものの生き様に繋がっているように思えた。  2014年11月、そんな大巨星が墜ちた。世代を超えたすべての映画ファンにとってあまりに悲しい出来事だった。 ただ、僕のような若輩者は、今作もしかりまだまだ観られていない菅原文太映画は数多い。それは映画ファンとして幸福なことだと思うし、死してなお銀幕の世界で生き続けられることこそが、映画スターの価値だとも思う。  この稀代の映画スターは、この先もずっと「一番星」として輝き続けることだろう。
[CS・衛星(邦画)] 7点(2014-12-21 00:35:17)
17.  スター・トレック(1979) 《ネタバレ》 
クライマックス、宇宙の果てで邂逅した機械生命体と人間が眩い光の中で「結合」する。  比喩でも揶揄でもなく、それは機械と人間との“セックス”だ。 字面だけを捉えれば、とても突飛でぶっとんだ表現だけれども、これこそがこのSF映画史に残るエンターテイメントシリーズの揺るぎない真髄であろうと思える。 必ずしも見栄えのいい娯楽性には流れず、宇宙そのものの姿と、その神秘を追い求める人間の姿を描き出していったからこそ、このシリーズは世界中のファンに深く愛され続けているのだろう。  J・J・エイブラムスによるリブート版で初めて「スター・トレック」の世界観に触れ、熱狂し、今回ようやく1979年の劇場版を観ることができた。 1966年〜1969年のテレビシリーズを経てからの劇場版なので、本当はそのテレビシリーズも観ることがベストなのだろうけれど、さすがに3シーズン79話もの映像作品を観る余裕はなかった。 主要キャラクター同士の関係性など、テレビシリーズを観ていればもっと楽しめたのだろうけれど……。  そういった世界観への馴染み難さも手伝って、特に序盤は非常にかったるい。 全体的にテンポも悪く、ストーリーテリングも上手いとは言い難いので、正直なところ映画の8割方はかったるいと言わざるを得なかった。  明確な徒労感を感じつつ映画は終盤に差し掛かる。 「退屈」の一言での酷評を心に決めかけたラスト20分、映画は突如として宇宙の神秘性に突き進む。 その展開自体はあまりに唐突で、やはり上手い映画だとは言い難いが、ラストの顛末はSFならではの衝撃性に溢れていて、それだけで印象的だった。  “創造主”の追求という宗教的な哲学性も加味しつつ、新しい進化の誕生を描いた顛末そのものは、SF映画史に残り得るものだったと思う。  この後の映画シリーズ、そして前段のテレビシリーズもやっぱり観たくなる。
[CS・衛星(吹替)] 7点(2014-12-11 17:06:29)(良:1票)
18.  幸福の黄色いハンカチ
よくよく考えてみれば、この映画のタイトルも宣伝ポスターもすごい。 何せ思いっきり“結末”を晒しているわけだから。その上で燦然たる名作なのだから。  2014年11月末日の日曜日の夜、他界した大巨星を偲んで再びこの映画を観た。 これでこの名作の鑑賞は、通算4度目になるだろうか。はっきりと、この映画が自分の映画遍歴におけるマスターピースになったことを認識した。  もはやあれこれと論ずることすらあまり意味を持たないように思える。 子供の頃に初めて観た時は、面白みを理解しきれなかったけれど、その後観るほどに魅力が倍増した。 きっとこの先も、自分自身が歳を重ねるほどこの映画の魅力は膨らみ続けることだろう。  映画も古くなれば当然、色は褪せる。  ただし、色褪せるほどに魅力的になる映画こそが、本当の意味での「名作」なのだと思える。  もうこの世に高倉健はいないけれど、僕はこの映画を観る度に「おかえりなさい」と心の中で呟くに違いない。
[CS・衛星(邦画)] 10点(2014-12-01 00:27:29)(良:1票)
19.  ザ・ヤクザ(1974)
2014年11月10日。日本映画史上最高の大巨星墜つ。 映画俳優高倉健の死に対し、喪失感は大きすぎる。ただ、彼が遺した205本の映画の殆どを、僕はまだ観られていない。 まだまだ高倉健の映画を観られることを、映画ファンとして幸福に思いたい。  高倉健のアメリカ映画出演作といえば、リドリー・スコット監督の「ブラック・レイン」の印象が強くその筆頭となりがちだが、それよりも15年も前に出演した今作のインパクトも中々のものだった。 「ザ・ヤクザ」というタイトルから、米国人が日本のヤクザ世界をモチーフに適当に作った“トンデモ映画”なんだろうと高を括っていたが、その認識は全くの間違いだったと言っていい。  確かに、日本人として少々呆気にとられる描写は多々ある。しかし、それらは製作者陣が決して適当に作っているものではなかったと思う。 日本の文化、その中でも取り分け“任侠映画”という文化に対しての多大な“憧れ”と“尊敬”の念が、全編に渡って匂い立つように強く伝わってくる。(待田京介の起用とか、分かりすぎている!)  結果的に映し出されていたものは、紛れも無い米国産の「仁侠映画」だった。  ラスト、高倉健演じる時代遅れの侠客が、仁義を貫くために“陰腹”を切ろうとする描写に驚いた。まさかアメリカ映画でそんな描写が観られるとは。 他にも“指詰め”に対する執拗な掘り下げなど、日本人でも少々引いてしまうある種マニアックな描写が続く。 それらを指して、リアリティがない等と言うことは、あまりにお門違いだ。 実際にそれが妄想であっても、ファンタジーであっても、それが欧米人が憧れ追求してくれた「仁侠映画」であれば、尊重されるべきだ。  描写が多少おかしかろうが、「仁侠映画」と「高倉健」、かつて日本中が愛した文化を、同様に愛しリスペクトしてくれているこの作品を、この国の映画ファンとして否定できるはずがない。   米国映画だろうとなんだろうと、あくまで「高倉健」のままで存在する俳優の立ち振舞に惚れ惚れする。 今でこそ、世界で活躍する日本人俳優は多いけれど、スター俳優としての存在感そのままで通用した俳優は、やはりこの人しかいない。 高倉健という俳優が、この国に存在したということを、改めて誇りに思う。
[DVD(字幕)] 7点(2014-11-27 23:03:35)
20.  フェイズIV/戦慄!昆虫パニック 《ネタバレ》 
聞きしに勝るカルト的なSF映画だった。 ただし、決して奇をてらった“とんでも映画”というわけではなく、気が遠くなりそうに緻密な演出と撮影、そして揺るがない美意識に支えられた極めてアーティスティックな映画だった。  とある宇宙線の影響により、砂漠地帯の“蟻”に劇的な「進化」がもたらされる。 高度な知性を得た蟻とうい種が、徐々に周囲の環境を支配し、ついに人類と敵対する。 というのがこの映画の導入部。即ち“PHASE I”である。  その進化にいち早く気づいた科学者二人と蟻との攻防が描かれるわけだ。 この映画が、邦題「戦慄!昆虫パニック」というテイストの通りだったならば、良くも悪くもB級モンスター映画に仕上がっていたことだろう。 しかし、この映画の邦題は大いに見当違いであり、そんな生半可な仕上がりを許すものではなかった。  この特異な映画が描き出すものは、この世界の支配者とされる人類とそれを脅かすものとの攻防などではなく、現状の支配者が新たな支配者によって確実に速やかに取って代わられる様そのものだ。  蟻の脅威的な進化に対して、人間は必死に抵抗を試み、攻防を演じているように見える。 だが、実際はそうではない。 観察者であった筈の人間が、実際は蟻によって観察されていたことを知った瞬間、そもそもそこに攻防などという関係性は無かったのだと気づく。  この映画に映し出されていたものは、その“資格”を持った新しい支配者が世界を支配するという、あまりに自然的で、だからこそ残酷な生物の「理」だったのだと思い知った。  ついに支配を受け入れた人間の雄と雌が、禍々しく赤く灼けた太陽を臨むシーンでエンディングを迎える。 一寸それは夕陽に見え、世界の終末を感じさせる。 しかし、すぐにそれは昇る朝日だと分かる。“終末”ではなく、新しい世界の“はじまり”だったのだ。  そして「PHASE IV」というタイトルバック。参った。
[DVD(字幕)] 9点(2014-10-21 23:05:21)(良:1票)
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