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自己紹介 After shutting down my former blog, I'm writing some boring stories at new site. Anyone who's interested in, come along if you'd like to.

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221.  ターミネーター3 《ネタバレ》 今回TV放送でしみじみ見直してみたら、なんだ…とんでもなくよくできているじゃないか! やはりモストウ、あなどれない。 なにしろ、これは50%コメディだったのだ…しかも、「ドハハ」笑いを一切用いない(というか、1と2からの流れで使えなかったのだろう)中での、この笑いのセンス…すごい。 ローケンが瓦礫をはねのけてすっくと立ち上がるその無表情、これだけで、もう笑いがとれているじゃあないか。生まれたてのようなベビーフェイスに鋼鉄の肉体。ひとたび何かにぶつかれば、その効果音は「ゴン!」…みごとなコントである。とにかくローケン部分はほとんど笑えるのだ。 そして、シュワちゃん部分は、明らかに笑いをとる事を狙ったシーンではなく、ジョンやケイトとの会話部分に、見事なコントが盛り込まれている。その際のジョンのリアクションが難しかったことだろうと思う。だって、「ターミネーター」3部作であるからには、あからさまに「コント」だと分かってはいけないんだもの。 そして、「サルだサルだ」とバカにしていたジョン役のニック・スタールも、よく見ればそんなに悪くないではないか。 そりゃあ、オーランド・ブルームのようなホモくさい美形ではないにせよ、ジョン・コナーというキャラの程よくスレた感じがその目元あたりにちゃんと出ている。「放浪」してきた感じを出しつつ、なおかつコントと分からないようにコントをこなすということで、なかなかがんばっていると思う。 そしてシュワちゃん。やっぱりあの鋼鉄ボディはCGくさいよなあ、とか、スタント多用したんだろうなあ、とかいうことも、もう、どうでもいいんだどうでも。 だって、ターミネーターはシュワちゃんでなくてはならないのだもの。 もはや「3」においては、シュワちゃんはその老体にムチ打って、画面に映っているというだけで、許されるのだ。今回も、語り草となるようなキメのシーンもモストウはちゃんと用意してあったのだけど…銃弾を口からプッと吹いて「二度とするな」ってとこね。やっぱりモノマネはされないのかなあ。ちょっと残念。 3回くらい見ると、あまりの面白さにやめられなくなります。メチャメチャ笑えます![DVD(字幕)] 9点(2007-06-30 22:47:46)(良:1票) 《改行有》

222.  ブロークン・フラワーズ 《ネタバレ》 これは「男性の人生における義務との関係」について描いたものだと思うなあ。 ドンはバカではないのに無気力。朝からTVの前に座って、ジャージ姿でボー。 なぜならドンというのは「しなければいけないことがない」男なのである。 ジャームッシュの認識では、「男性は義務がないと何もしなくなってしまう動物」であるのだと思う。 そのために、「しなければいけないことだらけ」で「義務が山積み」の隣人ウィンストンを登場させるのだ。ドンと同じような隠居老人とか、親のスネをかじっている生意気ティーンエイジャーとかではなしに。 「しなければならないことがない」ので、伸びきったゴムのようになっているドン。これぞ、普通の男性の姿、とジャームッシュは思っている(らしい)。 ネタばれるけれど、最初のピンクの手紙を書いたのは、ウィンストンであり、その理由は、煮え切らないドンにプロポーズをさせたいシェリーの相談に乗って、作戦を立てたからである。 そして、ドンが旅から戻った頃に都合よく届いたシェリーの手紙は「やっぱり愛してる」だから、これも作戦どおりなのである。そこでウィンストンは、「さあ、シェリーにプロポーズしろよ」と一気に盛り上げるつもりだった。しかし…それはドンに見抜かれてしまった。 姑息な策に頼って人を騙したりしても、やはりいい結果は生まないのだ。人生ってそんなもんだ。 さて、一連の出来事を通過したドンに、「しなければいけないこと」は発生したのだろうか…と、ジャームッシュは問いかけて終わるわけだ。やはり、「男と義務」についての話だと思う。しかし、全体としてはパンチ不足でぬるい感じは否めない。 ウィンストンの奥さんがよかったですね。あれはまさしく、女の幸せを全うしている人の微笑みである。 シャロン・ストーンの魅惑の微笑は健在で安心した。とって喰われそうだ。 ティルダ・スウィントンの別人ぶりには驚いた。だって、エンドロールを見るまで、どこに彼女が出ていたか分からなかったのだもの![DVD(字幕)] 5点(2007-06-29 15:34:27)《改行有》

223.  硫黄島からの手紙 《ネタバレ》 …ひとことでいうなら、「ハリウッド映画ですね」だ。 だってさ、作り手に日本人が一人も入っていないじゃないの。脚本は2世だか3世だか、どうせ味噌汁の味も知らないようなアメリカ人でしょ。で、ハギスだスピルバーグだ。 やはり、よその国の兵隊のことを勝手に描く、ということで、かなり遠慮しいな内容となっているのは仕方ない。「ラストサムライ」よりはなんぼかマシという程度であって、これはれっきとしたメイドインアメリカ。なじみの日本人俳優が出ているからといって、ごまかされてはいけない。 まずもって、二宮演じる西郷の、その振る舞いおよびメンタリティーの有り得なさ。下っ端の日本兵が、こんな生意気なワケがない。これは、まんまアメリカの兄ちゃんの感覚を「若いやつはどこでもだいたいこんなもんやろ」と持って来ただけ。 ケン・ワタナベ。これはもう、見事なまでにハリウッド受けすることだけを考えたそのまんま。大正もしくは明治生まれの日本人将校が、こんなハタから見てわかりやすいかっこよさを発散するワケないじゃないか。ダメ。映画「東京裁判」でも見て、「本物」の振る舞いをちょっとでも勉強してみたのか、ケン・ワタナベよ。それとも国内受けなんてことは、もはや関係なしか。 本物に見えたのは最後まで付き従った「藤田」のみだった。 で、ひとつだけ、イーストウッドが「勝負」に出たな、と驚いたシーンは捕虜虐殺。これを入れるというのは、アメリカ国内の逆風を計算に入れているということだから。 さて、太平洋戦争末期、北方領土のどこかの島で、似たような実話があったという。それは、陸軍中野学校(スパイ養成所として有名)卒業生の士官が指揮をとった最後の戦いで、弾薬も兵力も乏しい中、中野学校得意のゲリラ戦法を駆使して、ソ連軍に対し驚異の粘りを見せた。そして、無駄死にを防ぎ、決して玉砕を許さなかった、という。 私は、「硫黄島」を見ながら、その実話を思い出さずにいられなかった。その防衛戦のことを思うと、栗林の指導者としての優秀さが全く伝わってこないような、盛り上がらない脚本にはがっかりだ。(かといって、〝有終の美〟を追求する所までいってるワケでもなし) …クリントはさあ、「硫黄島」は日本の製作サイドで作ってもらって、対抗作で「星条旗」を当てる、というふうに、なんでできなかったのだろ。クロサワが死んでいるせい? ↓花守湖さん、同感です。[DVD(字幕)] 4点(2007-06-29 01:07:59)(良:3票) 《改行有》

224.  サイレントノイズ 《ネタバレ》 中盤までは、そんなに悪くはなかったと思う。 映像も綺麗だし、役者さんも悪くない。キートンのシワの微妙さは味わい深いし、お疲れ顔のデボラ・カーラ・アンガーもキャストとしては合っている。演出も編集も、それなりに洗練されている感じがして、そんなに悪くない。 …が、ちょっと脚本がイケてないんでは。ジョナサンがビルに単身乗り込んだ後の展開が決定的にイカんかった。悪霊をビジュアルで見せたうえ、直接襲ってきたりしたら、なんのために今まで小出し小出しにしていたんだか、まるで意味がないじゃないかー。 なんか、非常に惜しい一品だ。[DVD(字幕)] 6点(2007-06-27 22:34:18)《改行有》

225.  インビジブル2 《ネタバレ》 これはバーホーベンの名前だけ飾って、つられた客を騙して見せようとしただけの低予算の駄作映画なのだった。監督も脚本も凡才以下である。 スレーターはここのとこ本当にB級のチョイ役ばかりやっているがどうしたのか。カレの今後の俳優人生がちょっと心配。[DVD(字幕)] 2点(2007-06-24 13:25:41)《改行有》

226.  ブラック・ダリア 《ネタバレ》 デパルマというのは、ムラのある監督さんだ。 「カリートの道」の完成度を思うと、同じ監督さんの作品とは、にわかに信じ難いものがある。 しかし、「カリート」という金字塔(あくまで私の中での)があるデパルマだが、多くの失敗作も同時に有する。…ファジー(これ死語かな)な人だデパルマって。 で、「ブラックダリア」を見ていると、次のような言葉がずっと頭にこびりついて離れない。「…何か、だまされてる?何か、ごまかしてる?」 なんだかわからないが、「何かを意図的に省略してる」の感じがつきまとった。何だかわからないが。 でまあ、簡単にいうと「みんなウソをついてる」映画で、「特に女のウソは二重三重ですごいよね」であり、しかし、正義漢ぶっているブライカートだって、八百長試合をしているのだから、同じ穴のむじななのであった。 リンスコット家の異常さが印象に残る。一歩踏み込むと、そこは遊園地の「びっくりハウス」状態であり、完全に「常識が通用しない」その空気、相当に息苦しい。それをデパルマは速いテンポでサラッと見せる。うまい。 ヒラリー・スワンクがエロく見えないのは当然だが、不思議なことに、ウッディ・アレンの「マッチポイント」では、あれほどエロかったスカーレット・ヨハンセンが、全くエロく見えなかった。…やっぱり、料理して家で待ってたりすると、エロさが失われるのではないだろうか。ヨハンセンに料理。有り得ない。 ヒラリー・スワンクのマデリンというのが、登場した瞬間から「年増のスキモノ女」としか思われないのであるが、なんだなんだ、お嬢なうえ美女だったのか?言われないとわからないが、そんなでいいのかな。相当無理している感じはあるが、妙な妖気は感じた。 どうにかしてほしいのは、アーロン・エッカートだ。…なんか、本人はデニーロさんが入ってると勘違いしているのじゃないか?確かに遠目に見れば、見えないこともないが…私はこの俳優さんはダメだ。これぽっちも興味を持てない。なんか、「薄い」んだよなあ。 最後に、ジョシュ・ハートネットだ。「尻」だ。いやー、よく披露したよなあ、後姿の思いっきり無防備な尻を。ジョシュ・ハートネットの尻解禁が、最も収穫だったかもしれぬ。[DVD(字幕)] 6点(2007-06-15 13:18:08)(笑:1票) 《改行有》

227.  美しい人(2005) 《ネタバレ》 常連の俳優を多く使った、いつものガルシア節である。 本作では、それぞれ「何か」に囚われている女性、「何か」を飼い馴らすことに手を焼いている女性ばかりが登場する。私の解釈では、それは登場順に「怒り」「過去」「父親(幼児の性的虐待)」「ダメな男」「未来(ありあまる可能性)」「己の性的魅力(名器)」「老い」「病気」「愛する人との死別」となる。 それぞれの話には、ガルシア節特有の語られない行間があり、観客は登場人物の会話を注意深く聞くことによって、それを感じ取っていく。そういった見せ方には相変わらずのうまさは感じる。 特に、性的なセリフが一切無いにもかかわらず、「性的虐待を受けた過去」を演じきったホリー役の女優さんの熱演が光る。 個人的には、全体として、「彼女を見ればわかること」ほどのインパクトが感じられなかった。 何が違うのかといったら、「彼女」でのメッセージとして存在していた「明日を信じること」「人間性への信頼」あとは、「芸術性」において、本作は「手詰まり感」を示すのみで、「みんなそれぞれ苦戦しているんだね」以上のものを観客に示していないということだ。「彼女」を見終わった時、知らずに胸に湧いてきた、「もしかして、この先何かいいことがあるかもしれない。」「もう少し、前向きに生きてみてもいいかもしれない」という気持ちが、全く浮かんでこない。 「彼女」を改めて評価したい気持ちと同時に、やはり本作への失望を感じた。 何がいけないのだろうか。イニャリトウは排除したほうがいいのではないか?優秀な女性スタッフが足りないのではないか? あと、サマンサの項は完全に趣味に走っていて、男性の作り手の勝手さに腹が立つ。あのブリブリした胸の谷間をこれでもかとアップで撮り続ける品の無さはどうしたものか。やっぱり女性スタッフの力が生かされていないと感じる。同じ豊満ボディを撮るにしたって、女性スタッフに発言権があるならば、こんなことにはならないはず。あれは女性の観客には不快感しか与えない。 ガルシアよ、「オレは女性を描かせたら世界一」などと慢心して男ばっかでつるむのはやめよ。ロクなものはできんぞ。 なんたってあんた自身は〝男〟でしかないんだから。女の目はごまかせないぞ。[DVD(字幕)] 6点(2007-06-14 15:06:59)(良:2票) 《改行有》

228.  ソウ3 《ネタバレ》 「2」鑑賞後にバウズマンはセンスが足らんと書いたのだったが、「3」鑑賞後、それをさらに確信した。 「3」は非常に残念な仕上がりだったと思う。なぜなら、「1」のワンが脚本に参加しており、脚本そのものは悪くなかったからだ。やはりワンの才能はあなどれないと思う。 冒頭に、デンロン医師と「男性」の不仲シーンを見せることによって、あたかも夫であるかのように思わせる手法などは、あざといが、きちっと常道をおさえている。また、ジョンがことあるごとに「ルールを守れ」とアマンダに諭すことも、後になって効いてくる。繰り返されるアマンダの暴走ぶりも、ラストになって、ジョンがゲームを仕掛けた動機となってちゃんと効いてくる。 また、ジョンとアマンダの異常な師弟関係についても、二人の間には切っても切れない葛藤を含む結びつきがあったことを、脚本はちゃんとセリフを通して伝えようとしている。 そうなのだ、もしもこれをバウズマン以外のセンスある監督が撮って編集したなら、高校生を興奮させるだけでなく、大人の鑑賞にも耐えうる格調高いサスペンスになったかもしれない。 バウズマンのセンスの無さがいったいなんなのか、それは「3」によりはっきりした。 それは「観客の想像力に対する想像力の不足」だと思う。よって、その作品は「すべてをはっきり見せきる」というサービス過剰な状態となる。 「観客の想像力」だけで充分おなかいっぱいになる場面までも、ちゃんと見せないと気がすまないのだなあ。サービス過剰なのか、律儀というのか。どっちにしたって、センスはない。 だいたい、緊迫の場面がずーっと続いている話だというのに、「さあ、ここはもっと緊迫だよ!」とばかりに激しい音楽、手ブレ映像、フラッシュバックをお約束のように毎度毎度出してくる。だから、緊迫してるのはもう分かったって。 こういうのを「芸がない」というのだ。 バウズマンの作品というのは、高校生レベルの観客を興奮させるのがせいいっぱいである。 「1」のことを思うととても残念だが、バウズマンのおかげで「SAW」というのは「グロい」の代名詞になってしまうだろう。「SAWすごかったよなー」という会話が交わされるのは、男子高校生かオタク青年の間だけで、その意は「グロいという意味において」の「すごい」、でしかない。 私は「グロ」においても「格」や「品」は存在する、と思っている。[DVD(字幕)] 4点(2007-06-14 11:05:27)(良:2票) 《改行有》

229.  記憶の棘 《ネタバレ》 これはおもしろい。 スタッフプロフィールを見ると、驚くべき錚々たる顔ぶれである。どうりで、電気音を排したクラシカルな音楽もすばらしいし、脚本も垢抜けているわけだ。 キャストもすばらしい。ローレン・バコールを引っ張り出したのもすごいし、問題のキャメロン〝出すぎ〟ブライトはともかく、キッドマンを主役に据え、アン・ヘッシュやピーター・ストーメア(この人はコンスタンティンの悪魔!)デブラ・ウィンガーの夫など脇も重量感のある俳優が揃っている。 未知数の新人グレイザーのために、よくもこれだけのお膳立てができたものだと思う。 キッドマンは完全にアン・ヘッシュに食われている。出番の少なさとは反対に、クララのヤバさは最も印象に残る(眉毛無いし)…アン・ヘッシュって、こんなすごい女優だったか? 種類としては、骨太の脚本を軸に、あくまでも脚本を引き立て、その雰囲気を壊さぬように作っていく作品だ。脚本が立っている映画である。 で、その脚本には仕掛けがあり、これが分からないとその後の展開に「?」がつきっぱなしになってしまう。 ジョセフの大暴れの前に、アナの入浴中にショーンが乱入(?)するシーンがある。アナが「出て行って」というところで、カットが変わってしまうのだが…ここを、姉ローラのセリフ「それは違法行為よ(イッツ イリーガル)」につなげてみると、どうなるか?なぜアナはうなだれたまま顔も上げられない? そして、ここからアナは〝ショーン〟を確信し、一気にアブない方向へ進む。これは何か。 映像として表現することはできないが、例の入浴中に、性交渉があったと見るべきなのだ。死んだ夫しか知らない性愛表現があったから、アナは確信したということだ。そうとしか考えられない。 脚本では、入浴シーン以前のパフェを食べながらの会話や、入浴シーン後のアナの態度の変化を描くことによって、観客に「想像してください」と言っている。…ここらへん、フランス人らしいいやらしさを感じる。 謎を残したままのラスト。クララを思い出せなかったから、ショーンでなかったと言えるのか?…人間は、生まれ変わっても都合のいいことしか覚えていないのではないか、そしてショーンというのはもともと二面性のある男だったのでは、というのが私の意見だ。ショーンの死から〝誕生〟シーンへ繋がる冒頭のシーンで、答えはすでに示されていると思う。[DVD(字幕)] 8点(2007-06-02 18:22:06)《改行有》

230.  トゥモロー・ワールド 《ネタバレ》 夢を壊すようで悪いけどコレについては、「男であることの限界」と言い切ってしまうぞ。 「個を捨てよ。種に生きよ。」なのだ。映画が進むにつれ、この言葉が画面いっぱいに書いてあるような気すらしてくる。 たった一人の赤ん坊のために、関わり合った人々が進んで命を投げ出す。 「新しい命」のために、「比較的新しくない命」が捨て石になるのが当然、というのがヒューマニズムなのか。そう言い切っていいのか。それとも「死んだら天国」の宗教的背景か。 これが「個を捨てよ。種に生きよ。」でないなら、いったいなんだというのか。 そして、キーは「誰だか覚えていない」ような相手の子供を喜んで産むことになっている、というこの無理。 産んだ瞬間から母性愛に目覚め、母親然としているという、この無理。 はっきり言うがこういうところが男であることの限界なんだわさ。 女に生まれた人にとって、産む性であるということは、そーんなおとぎ話のようなものではないのさ。 じゃなんなのかというと、それは、ローティーンからはじまり50歳代までえんえん続くうっとうしい月経であり、妊娠の恐怖であり、子宮筋腫をはじめとする婦人病の恐怖との闘い、出産のプレッシャーとの闘い…の連続である。 今回のクライブ・オーウェンには別に文句はないし、臨場感あふれる戦場シーンや、狭いところをぐるぐる撮ってる映像テクなどもきっと素晴らしいのであろう。 しかし「難民排除」の問題を持ってくるとか、キーが黒人でありその子供も当然黒人、という設定に「しょせん僕らは同じ〝種〟ではないか」「肌の色とか関係ないよね」(題名もまさにそんなことだし)という作り手の声があまりにもはっきりと聞こえてきて、かえってあざとく感じる。 それに、赤ん坊を抱えた母親の前では、どんな兵士も銃を背ける、なんて、あまりにもイージーなヒューマニズムじゃないか?旧日本軍が大陸でそんなことをしたか?ナチスはどうだったか?もっともっと人類の歴史をさかのぼればどうなのか?人間って、そんなものだったか? もうひとつ、「せっかく機能があるなら、使えよ」という声も聞こえてきて、うんざり。負け犬などは、「捨て石」程度にしか利用価値が無いということだな。 もしかすると、この映画はすごく危険な思想を孕んでいるかもしれないと思う。「産む機械」とか言っているどっかの大臣と、あまり変わらない考え方じゃあないのか。[DVD(字幕)] 5点(2007-05-27 00:41:42)(笑:1票) (良:4票) 《改行有》

231.  16ブロック 《ネタバレ》 ブルースはかなり役作りに励んだと見た。減量+老けメイクで左肩を上げて足を引き摺る。いつものマッチョなイメージを吹き飛ばした。しかし。 ブルースの役作りには感心するが、ひとつ、大きな違和感というか、疑問がある。黒人をバカにしているのか? 脚本を書いたのは白人男性である。エディの強烈なナマりは、いったいどういうつもりか。モスの勝手な役作りというものなのか? ものすごくおおざっぱに言ってしまうと、これは「過去の罪を懺悔して、善人に戻った〝良い白人〟が、〝悪い白人〟と戦って、黒人にお情けを施す」というストーリーではないかあ。 だから、バカにしているのか? 黒人は、〝お情け〟にすがって生きるのを喜ばなければならないような、「第二の人種」だと思っているのか?じゃ、エディが日本人だったとしたら、みなさん、こんな映画見て屈辱を感じませんか? ここのところの思想には、ものすごく無神経な差別を感じる。もち、モーズリー役が有色人種の刑事だったら、そういうことにはならないのだが。もしくは、エディには裏があって、モーズリーがまんまとダマされる、とか。 それを置いといていうと、バスジャックの場面やマンションの部屋番号のくだりなど、モーズリーが知恵者であることをあらわす場面はそれなりに面白い。しかし、モースの悪役ぶりが、あまりにも類型的でなあ。あと、ラスト裁判所の場面はかなり情けないものがあるが(有り得ない…)、バースデーケーキの場面で多少救われた感がある。[DVD(字幕)] 5点(2007-05-05 20:05:56)(良:1票) 《改行有》

232.  トランスアメリカ 《ネタバレ》 私は「プリシラ」を思い出しちゃった。 映画としてどちらが印象に残るかというと、「プリシラ」なんだなあ。やっぱり映画は「ショー」なんだ。あのテレンス・スタンプの下手くそなダンスや、70年代サウンドはやっぱり楽しい。 「トランスアメリカ」のどこがいけないというわけではない。 たまたま「知らない間に自分の子供が生まれていた」というテーマが、最近の映画界で重複しすぎているというのもある。 しかし、見どころはハフマンの淑女ぶりくらいしかない、ように思う。 そして、ハフマンの「淑女」はもちろん見ごたえがあるのだが、もうひとつ印象に残らない。 これなら「ヘドウィグ」のほうが、印象には残るなあ。 なんか、芸術性が足りないような気もする。確かにハフマンはすごいが、それしか誉めようもない。[DVD(字幕)] 6点(2007-05-05 19:58:40)《改行有》

233.  サムサッカー 《ネタバレ》 ティーンエイジャーをとてもマジメに描いた作品だ。 10代の少年の抱える「不安」を、通俗的な回答を用意することなく、また、安易な「家族万歳」に流れることなく、終始誠実なトーンで描く。こういうの、ありそうでなかなかない家族ドラマだ。 リタリンそれは、ADHDには効くが、そうでない人が飲むとなんでもないかハイになるだけ。 この映画のジャスティンは、とてもADHDに見えない。よって、ADHD特有の悩みなど持っていない。こんな簡単にADHDと診断されてリタリンを処方されるものかなあ、と思うとちょっとこわい。 それでまあ、指吸いに象徴される「不安」というのは具体性が無いものほど深く厄介であり、ジャスティンはそれをどう扱えばいいのかわからず、リタリンによって「更なる覚醒」へ行ってみたが、自分には合わないとマリファナによる「憂き世からの逃走=酩酊」へと振り子のように真逆(この言葉は下品だが)に走る。果たして「覚醒」と「酩酊」のどちらがジャスティンに合っていたのかというと…たぶんどちらでもないのだろう。 この映画は、ひとりの「不安」を抱える少年と、その風変わりな家族、そして先生や歯医者や俳優(こいつはゲイだろう)という数人の大人の男たちの現実を切り取っていて、「不安」と「依存」にも迫る。果たして自分は、「不安」をどんな「依存」で解消しようとしているだろうか? ティルダ・スウィントンはあんなに腹が出ていただろうか。「セル」で変態犯罪者を演じたドノフリオはここでは非常に良い味を出している。不器用で口下手なお父さん。 特筆すべきはキアヌだった。常々キアヌをバカにしているわけではないが、「演技派」とはいえないと思っていた。今もそれは変わらないが、ここでも、嫌そうにタバコを吸うキアヌ…ああ、あなたってほんとに演技が×なのだけれど…なんか、この変人歯医者役がミョーにはまっていたのだ。目がマジというか。キアヌって、けっこう変な人なんじゃないかしら。 弟ジョエルとジャスティンのやりとりもクスっと笑えてよい感じだ。親や教師には常に挑戦的なジャスティン君が、弟に対しては、何気ない愛情がにじみでている感じ。兄弟っていいよね。[DVD(字幕)] 7点(2007-05-05 19:21:44)《改行有》

234.  アダム -神の使い 悪魔の子- 《ネタバレ》 デニーロさんはけっこう安い映画に出ているのである。アンジェラ・バセットがスチュワーデスでデニーロの彼女だったやつとか。もう題名も忘れたが。 で、グレッグ・キニアが主役を張るなどそんな…と思ったとおり、変な映画。 グレッグ・キニアは脇役でよく出てくる俳優さんで、「ユーガットメール」のメグ・ライアンのボーイフレンドが記憶に残る。もちろん主役感はゼロである。 そこになぜデニーロさんが。もはやデニーロといえば、即座にどうよのテルとかリチャードホールとかを思い浮かべてしまう、かわいそうな(日本では)デニーロさん。 そんでまた、ここにもキャメロン・ブライトが。ここんとこ立て続けにこの子が出るんだよなあ。いいかげん見飽きた。 最後の教会の場面で、デニーロとキニアが言い争うシーン、かなり情けない気がした。もう、演技がぜんぜん噛み合ってないように思う。質と格が違いすぎる。 この「尻切れとんぼ」風な終わり方は、間違っても続編の事を考えているのではなく、単なる「風変わりなエンディング」を目指したと思われる。あざとい。[DVD(字幕)] 5点(2007-05-03 20:58:56)《改行有》

235.  ザ・センチネル/陰謀の星条旗 《ネタバレ》 …なんとも感想を述べにくい作品だった。 マイケル・ダグラスが大統領夫人とデキてしまうという時点で、そらー、ムリだなあ。 いくら「愛しているんだ」と言われても、午後1時台のドラマ程度のウソっぽさしか感じられぬ。商品に手を出してるクセに、「この仕事に命をかけてる!」と言われても。 私はとっさにレッドフォードの「スパイゲーム」を思い出してしまいましたね。 老いたりといえども、女好きとして鳴らした遊び人の敏腕エージェント。それが、仲間の裏をかきながら、ご老体にムチ打って、大活躍。昔取ったキネヅカ。どうでしょう、似ていませんか。 しかしなあ、もちろん、軍配は高らかに「スパイゲーム」に挙がるのであーる。 突然のロケット弾でヘリ大爆発、とか、ショッピングモールで銃弾戦、とか、緊迫感は無理にでもあるのである。そう、無理にでも。しかし。もうFOXはいいかな、という気にさせられる。 また、「アメリカ人て、やっぱり(クソ)マジメな人たちよね~」という感慨も浮かぶ。この場合の「マジメ」は、「易々と、手段が目的と化してしまう」人々、です。いかにシークレットサービスを持ち上げられても、「セキュリティ」をここまで突化してしまうと、不自然だあ。洒落でもないのに~。「大統領という王将を守るためなら、どんな手段でも」で、持ち駒を惜しまず切りまくる下手な将棋にしか思えぬ。 これは頭を使わず何かを忘れたい時に見るには最適でしょう~。[DVD(字幕)] 5点(2007-05-03 20:44:45)《改行有》

236.  マッチポイント 《ネタバレ》 この作品を見ると、西洋人にとって非常に重要な事柄が意図的に省かれている(描かれていない)ことに気づく。 舞台はイギリスであり、ヒューイット一家はプロテスタントのはずで、クリスはアイルランド人だからカトリックに違いない。なのに、2回の結婚式以外に、宗教に関する事柄が一切出てこない。その結婚式ですら、神の前で誓いのセリフを言う場面すらカットされている。これはおかしい。きっと、もののわかる西洋人がこの映画を見れば、たちどころに理解できるようになっているに違いない。 で、これは監督の意図を示しているのだ。それは、冒頭でクリスがドストエフスキーを読む場面をわざとらしく映すことでも明らかだ。 クリスは「すべては運である」という世界観を持っていて、それはテニスプロとして多くの試合を経験した結果であった。「いつも固い試合を心がけていた自分が、大成できなかったのは運のせい」そして、「運」に左右される人生に嫌気がさして、ツアープロをやめてコーチになった。 で、「運」であるが、井沢元彦が言うには、偶然の幸運に対して「これはきっと死んだお父さん(とか先祖とか)のおかげ」と思うのは「アニミズム」で、「オレってものすげーツイてる!きっとそういう時期なんだ。」とか思うのは「マナイズム」なのだそうだ。 クリスは、当然後者である。そして、前述のように「神様はいない」と知っている(つもり)。 すると、悪事を働いたとて、いつもどこかであなたを見張っている神様は存在せず、地獄に落ちることもなく、仏教でもないから「因果応報」で凶事が降りかかってくることもない。 いかに追いつめられたとて、クリスが愛人殺しをするには、こうした背景が必要だった。(これがなければただの火曜サスペンスになってしまう。) …が、クリスは試したところもあると思う。「神様の力が働いて、自分の悪事がバレるかどうか」「やっぱり神様がいて、死んだら地獄に行くのかどうか」「神様が自分を懲らしめるために、罰を与えるのではないか」もともとカトリックで育った彼なら、そう思うのが当然である。 しかしこの映画では、そのどれも起こらず、不安気なクリスのアップで終わる。 「果たして、神様はいるのか?」「本当に人生は運だけで回るのか?」そう問いかけたまま意味深に終わるのである。これはウッディ版「神様のいない(?)世界の危険な情事」、前作よりはパンチは効いていた。[DVD(字幕)] 7点(2007-04-29 00:32:16)(良:3票) 《改行有》

237.  アマデウス ディレクターズカット 《ネタバレ》 評判どおりの、よくできた映画だった。 サリエリは老けメイクが変だったが、回想場面ではキリッとした紳士面で「嫌らしさ」「人間くささ」を見事に演じ切り、爽快。モーツァルトは他の役者でも良かったように思うが、オペラを指揮している時は、可愛くて好きだ。コンスタンツェは美化しすぎ。 さて世の中は、「天才」と「天才ではないが天才を見抜く能力を持つ者」と「そのどちらでもない者」に分かれる。その割合はきっと、1:10:10000(変?)くらいなのだろうが、どこに入る人が一番苦しい人生を送るかというと、真ん中の人だ。 誰もが「サリエリ」かというと、全然そうではなくて、「サリエリ」になるのも大変なのである。「自分はサリエリだ」と思うのは、概ね勘違いだ。 私は、映画「アマデウス」において、サリエリ本人が思うほど、サリエリは劣っていなかったのではないか、と思っている(音楽的根拠はない)。 というのは、サリエリは、田舎者から成り上がって、皇帝のお気に入りの宮廷作曲家にまでなった男。よろしく立ち回るのが得意だったとはいえ、無能の人間にできることではない。 サリエリは、モーツァルトと出会ってその才能に打ちのめされ、「必要以上に己の才能を卑下」してしまったのだと思う。「自滅」である。あくまで映画の中のサリエリについての解釈だ。 「憎しみ」と「愛情」は近距離にあり、「愛情」の反対は「無関心」だ。サリエリは、モーツァルトを無視することすらできない。スパイを投入するほど、彼に関心があって仕方ない。これが「愛」でなくてなんであろう。滑稽である。そして悲しい。 「報酬には代償が必要である」とは、サリエリが経験から学んだ(と思っていた)玉条だったが、「代償」に対し「報酬」を期待するのは、相手が神様である場合に限っては、間違いなのである。 そしてサリエリの意地悪が無かったとしても、生きているうちにモーツァルトが認められることは無かったと思う。天才によくあるように、社会人としては行動が破綻しているからだ。モーツァルトが野たれ死ぬのは、自然の流れだった。でも、意地悪をしたサリエリには、「罪」の意識が残った。…本当は神様への一打にすらなってなく、すべてはサリエリの一人芝居、空回りであったようにも思う。 もうひとつ、人間性と、その人が作ったアートとの間には、関係がないことも、この映画は良く教える。[DVD(字幕)] 9点(2007-04-21 21:48:02)(良:3票) 《改行有》

238.  イルマーレ(2006) 《ネタバレ》 こういうのはいい。 常日頃俗塵にまみれて身過ぎ世過ぎに汲々とし、厭世観にとらわれつつあるそこのあなた、おすすめですよ。 「ユーガットメール」と同系統の、大人の童話である。まだ巡り合えぬ二人が、文章を通して惹かれあう。そして、有り得ないことだが、最後はハッピーエンド。 ラブストーリーには障害が不可欠だが、「距離」でも「言葉」でも「性別」でもなく「時間」を持ってきた、というところが新鮮だ。韓国でそんなような作品があったみたいだが、そちらは未見。…悪いけど、「大人の童話」として楽しむには、現実離れした容姿の登場人物や、風景が必要だ。アジアに生きる私にとっては、アジア人が演じるラブストーリーには親近感こそ感じても、空想の世界に浸ることはできぬ。というのが本音だ。 それで、あっさりさっぱりと、余計なものを極力省いたこの作品、そのシンプルな芸風は良いと思う。 「大人の童話」として消費されるためには、「ストレス」を極力排除しなければならない。しかし、ドラマ性は持たせなければならない。よって、微妙なバランスを必要とする。あっさりと仕上げなければならない割には難度が高くなる。この作品は、成功したほうだと思う。 で、キャストである。大好きなサンドラ。もはやダイエットもせず、ボサボサ頭で撮影に臨むという、作っているのかいないのかよくわからないその手抜きぶりも、サンドラだから許す。往時のデブラ・ウィンガー並みの胴太ボディは、衣装の工夫などでは隠しきれず、後姿など「おばさん」全開であるのだが、顔は相変わらずの可愛さだ。「28DAYS」の頃の完璧ボディを思い出すと、悲しくなるが、許す。 そして、キアヌ。なんだなんだ、最初の頃のアゴのたるみっぷりは。こちらもダイエットとは無縁に撮影に臨む。いくらスターとはいえ、すごいなあ。 それでまあ、キアヌにこの手の情感を求めるのは最初から無理があるのであり、だからこそ余計な情感が邪魔であるマトリックスとかコンスタンティンに抜擢されるのだが、今回は、私としては初めてキアヌに寄り添うことができた。サンドラ効果であろう。悪くなかったと思う。 他のレビュワーさんも言っているが、アメリカではラブストーリーに建築家はもってこいなのか?その理由がよくわからんが、確かに多い。 太めの二人が、気楽に臨んだこの作品、私は結構好きです。選曲もよし。[DVD(字幕)] 8点(2007-04-18 23:00:34)《改行有》

239.  X-MEN:ファイナル ディシジョン 《ネタバレ》 かなり楽しめた。ような気がする。 しかし、エンドロールの後のシーンは何? ブレット・ラトナー、彼の特徴はドラマ性、それも「メロ」にかなり近いドラマを持ってくること。 よって、登場人物の造形はあまり複雑なものとはならず、10人中9人がシンパシーを覚えるようなドラマを盛り込むのがラトナーの常である。私はこういうの嫌いじゃないけど。 しかし、映画に「娯楽」以上の何か、たとえば「ブンガク性」を求める場合は、ラトナーのような芸風は「俗」の一言で切り捨てられるのだろうなあ。エスねこさんがおっしゃっていたように、私も「映画は祭り性のもの」という意識があるので、「ブンガク」している日本人監督の一群からは逃げ回っている。それはどうでもいいが。 楽しい「3」に対し、いつものようにキャスト面での突っ込み開始。 ファムケ・ヤンセンだ。「3」は「ジーン」に始まり「ジーン」に終わる。「ジーン」とは、複数の男たちに求められ(色んな意味で)、追いかけられるすべての中心となる存在。なんでこいつばかりがそんなにモテる。それが、老けているうえこんなオカマのようなルックスの女優でいいのか。 ヤンセンはデカいだけでなく、ドイツ女だけに、ゴツい。そして、この老け方というのは、無理なダイエットで撮影のために急激に体重を落とした時の状態(キャリー・アン・モスと同じ)。イタい。 どっから見ても女装のオカマ(ニューハーフのミュータント以上にゴツい)であるのに、ありもしない色気を発散し、各方面から追いかけられるジーン。この場合は、アンジェリーナ・ジョリーでもなければ無理というものだろう。 そして、アイスマンのボビーだ。どういうわけか、この子も複数の異性から思いを寄せられる。 …が、いかに好意的に解釈しようが、ショーン・アシュモアにアンナ・パキンの人生を変えるほどのモテ男ぶりを見出すことはできない。どうしたらいいのだ。この顔が、ハイスクールに居たとしたら、そんなにモテるか? そして、なんだなんだ「キュア」の子というのは。「ウルトラヴァイオレット」と同じじゃないかあ。 別の映画で同じ子を同じような役で起用。…確かにこの子はピュアな感じが印象的だが。それにしても(使いすぎ)。[DVD(字幕)] 8点(2007-04-18 14:40:51)(笑:1票) (良:2票) 《改行有》

240.  さよならゲーム 《ネタバレ》 年下の男を調教するイケている年増女役が十八番となってしまった(もう無理をしているような気もする)サランドンが、後の夫ティム・ロビンスと共演する。 スーザン・サランドンにそういうものばかりを求める映画界というものに対しても、男性側の隠れた欲望を感じてしまい多少げんなりしてくるというものだ。 アニーというのは、「トップガン」の女性教官の跳んでるバージョンでしかなく、サランドンがやっているからそう見えにくいというだけで、ようするに「都合のいい女」でしかない。 サランドン以外の女優がアニーをやったとしたら、どう考えたって、そうとしか見えないだろう。 疲れた男が癒しを求めて訪れる場所。身過ぎ世過ぎを忘れたい時に思い出す女。それがアニー。 中野翠がひいきの映画だといっていたので一応見てみたが…なんにしても、ティム・ロビンスとケビン・コスナーがどうしても野球選手に見えない。野球選手どころか、どんなスポーツ選手にすら見えない体型である。ダメである。 だいたい野球なら尻がデカくなくてはダメだろう。コスナーの悲惨なほどの下半身の貧弱さ。肩幅の狭さ。私のような素人だって、「俳優さんが野球の演技していますね」以外には思いつかないというものだ。ダメだ。 さらに、クールで知的な野球選手を演じるコスナーというのが…あんまりにもキザに過ぎると思うのだなあ。いくらハンサムだといってもなあ、ここまでキザだと、ほとんどの日本人女性は「寒い」としか思えないだろう。あちらでは、こんな男でもフツーにモテてしまうのだろうか。 そういうわけで、ほとんど見どころというべきものはなく、ぬるーい映画である。 単に、サランドンかコスナーかロビンスのファンなら楽しめるのでは、という程度のお寒い出来であった。[DVD(吹替)] 4点(2007-03-24 19:28:03)《改行有》

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