みんなのシネマレビュー
せんべいさんのレビューページ[この方をお気に入り登録する

◆検索ウィンドウ◆

◆ログイン◆
メールアドレス
パスワード

◆ログイン登録関連◆
●ログインID登録画面
●パスワード変更画面

◆ヘルプ◆
●ヘルプ(FAQ)

◆通常ランキング◆
●平均点ベストランキング
●平均点ワーストランキング
●投稿数ランキング
●マニアックランキング

◆各種ページ◆
●TOPページ
●映画大辞典メニュー
●アカデミー賞メニュー
●新作レビュー一覧
●公開予定作品一覧
●新規 作品要望一覧照会
●変更 作品要望一覧照会
●人物要望一覧照会
●同一人物要望一覧照会
●関連作品要望一覧照会
●カスタマイズ画面
●レビュワー名簿
●お気に入り画面
Google

Web www.jtnews.jp

プロフィール
コメント数 115
性別 男性
自己紹介  2014年12月に投稿を始めてから8年が過ぎました。

 「映画評論家になれるのでは?!」と思える素晴らしい言葉を綴られる先輩レビュアーさん達に憧れつつも、私には、あのような文章を書けそうもありません。私の場合、少年時代に気に入り、DVDなどで観直しても好きであり続けている映画を中心に、まだピュアだった(?)少年時代の気持ちや、当時の状況を思い出しながら書きたいと思います。大人になってから観た映画も少しずつ追加しています。

 レビューの文面は長くなりがちですが…最後まで私の拙文を読んで下さる皆様に感謝申し上げます。

投稿関連 表示切替メニュー
レビュー表示レビュー表示(評価分)
その他レビュー表示作品用コメント関連表示人物用コメント関連表示あらすじ関連表示
コメントなし】/【コメント有り】
統計メニュー
製作国別レビュー統計年代別レビュー統計
要望関連 表示切替メニュー
作品新規登録 / 変更 要望表示人物新規登録 / 変更 要望表示
要望済関連 表示切替メニュー
作品新規登録 要望済表示人物新規登録 要望済表示
予約関連 表示切替メニュー
予約データ 表示

【製作国 : アメリカ 抽出】 >> 製作国別レビュー統計
評価順123
投稿日付順123
変更日付順123

41.  アイアン・ジャイアント 《ネタバレ》  最近、10月・11月に立て続けに投稿があり、私もつい刺激されたので、再見。皆さんのレビューも拝読した上で投稿しました。私の場合は【肯定派】であることを前提に【脱線話】をお伝えします。  劇場公開当時、話題になったものの、プライベートがせわしなかったので観に行けず、レンタル開始を機に、早速、鑑賞。【予備知識】なしで観たのですが…ディティールは異なるものの、私にとって①身長30メートルで、②本来、兵器として創られたロボットが、最初に少年と出会ったことで正義の存在となり、③少年達を救うために、自らの意志で宇宙へ飛び立ち、犠牲となって爆発する…という【3要素】のプロットが揃った物語は、TV特撮番組の【ジャイアントロボ(1967~1968年):以下、ロボと表記】です。そのため、当作品におけるハッピーエンドのラストシーンでも「アイアンと違って、ロボは帰って来なかったんだよな…」と切なく感じました。このように、子供の頃に観た【ロボ】への思いが変わっていないことに、自分自身、とても驚かされたものです。たかが【子供向け特撮番組の架空の存在】のはずなのに、です。  今回の再見でも、ミサイルへ向かうクライマックスでは「アイアンは、ホーガース少年との会話の末、互いの合意のもとで宇宙へ飛び立ったんだ」とあらためて認識。そして「ロボは、もともと自分の意志を持たず、大作少年の命令に“ンマッ!シ~…”と答えて従うだけで、会話もできないロボットだったんだよ。そんなロボが、大作少年や地球を救うために、初めて命令を聞かずに飛び立ったんだよ。結局、最後まで会話はできず、大作少年が必死で止めようとする言葉(もはや命令なんかじゃない!)を振り払って…」と思ってしまいました。【ロボ】を観て40数年経っているにもかかわらず、【ロボ】への思いは、風化するどころか、むしろ歳を重ねて強まっていたようです。ただ、この【ロボ】についてふれて下さっているレビュアーさんは、170近い膨大なレビューの中で↓【IKEKO】さんと【nizam】さんのみ。自分の年齢を感じないわけにはいきませんでした…。  なお、多くのレビュアーさん達から、【アイアン・ジャイアント】の物語は「王道/ありがち/ベタ」といった感想が寄せられており、私もそう思います。ただし、少なくとも【ロボ】の最終回に対して、当時の幼い私は「王道/ありがち/ベタ」とは全く思いませんでした。色々な資料を読んでみても当時の子供達(というか、私と同年代の人達)にとって、強烈なラストであって、けっして「よくあるパターンだ」ではなかったようです。おそらく、日本では【ロボ】にインスピレーションを得た作り手さん達、さらにその次の世代の作り手さん達が、長年、様々にアレンジしながら創ってきた無数の特撮・アニメ番組及び映画を通じて培われてきたものが「王道/ありがち/ベタ」として浸透し、現在に至っているのでは…と思われます。  一方、アメリカでも【アイアン・ジャイアント】のような「王道/ありがち/ベタ」の物語を形成し得た背景には「世界中に似たような昔話があるように、古今東西、人間の発想は同じようなもの」ということかな、と思われます…と言いたいところですが…アメリカでも、【ロボ】は【Johnny Sokko and His Flying Robot】の題名でTV放送されていた時期があったそうで…ひょっとすると「王道/ありがち/ベタ」に至る事情は、日本と似ているのかもしれません…。  このように思いっきり【ロボ】と重ねて鑑賞した私に対し、一緒に観た女房は「アイアンの精神年齢って幼児さんよね。いくら、自分がなりたいものになるんだ!と言ったって、母親だったら幼い我が子を、爆弾に突っ込ませるなんてことしないわ」と力説していました。確かにその通りだと思います。【架空の物語として郷愁たっぷりに味わう/リアルに命というものを感じとりながら現実的に考える】というこの違いは、↓の【3Mouth】さんや【カフカ】さんがおっしゃる通り、【男女差】なのかも…と思ったりしました。  さて、採点ですが…自分でも「くどすぎる」と感じるぐらい【ロボ】への思いが強くなってしまったので、ここは冷静に、当サイトの採点基準である【見た後、率直に面白かったぁ…って言える作品】ということで8点に留めておきます。  なお、若いレビュアーさんが【ロボ】を観たら、きっと、とてもチープに感じると思います。しかし【ロボ】が幼い私に与えてくれたものが、今でも私の心の中に生き続け、豊かにしてくれているのは確かです。【アイアン・ジャイアント】も多くの子供達の心に残り、いつか新たな「王道/ありがち/ベタ」な名作が生み出される…かもしれません。[DVD(字幕)] 8点(2018-12-08 09:51:16)(良:1票) 《改行有》

42.  ベン・ハー(2016) 《ネタバレ》  私は【ベン・ハー:1925年度版】のレビューで「スペクタクルシーンだけを挙げれば、1925年度版は1959年版を凌いでいると思う。一方、1959年版の製作にあたり、ウィリアム・ワイラー監督をはじめとする当時のスタッフの皆さんは『1925年版はドラマ性が弱かったので力を入れよう/宗教色が強い場面は控えめにしよう(注:1925年度版の宗教色はもっと強かったのです)』と考えながら脚色したのではないか」と書きました。ベン・ハーに限らず、リメイクやリブート版の製作にあたり、スタッフの皆さんの原動力になっているのは【前作に対する違和感】ではないか…と私は推察しています。  今回のリブート版の製作にあたり、スタッフの皆さんが抱いた【1959年度版に対する違和感】は、おそらく、↓の【ザ・チャンバラさん】が見事に言い当てておられるように思います。個人的に言えば、私は1959年度版で憎しみの塊のように亡くなったメッサラの場面を見るたびに「ベン・ハーとメッサラに、和解の道は残されていなかったのだろうか」と悲しくて仕方ありませんでした。その意味でリブート版は、私が願っていた【もう一つの可能性】を実現してくれたと思います。また、海戦シーンや戦車競走シーンも、最新の技術を使いCG臭さの無い(目の肥えた若い人達には、やはりCG臭い?)臨場感・迫力を表現していたと思います。  このように、脚色とアクションシーンは成功していると思いますが、映画・映像全体がスケールアップしているかというと…個人的にはこじんまりとしている印象受けました。BGMも然りです。極端な例えをすると、もし1959年版のBGMを2016年版の映像に被せたとしたら、BGMに映像が負けてしまうのでは…という気がするのです。  ご存知の方も多いかと思いますが、1959年版のBGMを担当したミクロス・ローザは、1950年代の映画音楽のスタイルに則りつつも、物語が展開した時代や現地の音楽を、時間をかけて調査・研究した上で作曲に臨んだそうです。私がローザの創作姿勢を知ったのは、1959年版を観た後でしたが、その【努力・情熱】は偽りではないと納得したものです。それに対して、2016年版のBGMは無難にまとまっているという印象が強く、ローザほどのエネルギーが十分に注がれているかというと、果たしてどうなんだろう?という気がしました。勿論、音楽を担当したマルコ・ベルトラミは、手を抜いたわけではなく、映像がこじんまりとしていたので、それに合わせて控えめにしたのかもしれませんが…。  このように、ティムール・べクマンベトフ監督やスタッフの皆さんには申し訳ないですが、作品のトータルなスケールは【良く出来たTVムービー】という印象を受けました。日本では劇場公開でなく、Blu-ray DiscとDVDによる鑑賞となりましたが、考えようによっては、この鑑賞環境こそ、当作品のスケールにはちょうど良く、今後、日本では高く評価され得るかもしれません。ただ当作品が評価されるに伴い、1959年版への否定的な評価が増えてしまうのなら、1959年版に10点を献上した者として複雑な思いがします…。今回のベン・ハーとメッサラが互いの立場を認め合って和解出来たように、1959年版と2016年版、そして1925年版も含め、それぞれの作品の立場(特徴)が評価され、映画史に輝いてくれたら…と思います。  さて、採点ですが…1959年版のリブートに果敢に挑戦したスタッフの皆さんには敬意を表しますし、脚色・アクションシーンだけを挙げれば10点です。しかしトータルでは良作・佳作レベルかな…と思います。さらに「世間の評価が辛口になって作り手の皆さんにとってもつらいものが残りがちなのではないか、という意味で、今後、あまりにも不朽の名作・傑作と言われている作品をリメイク・リブートするのは、控えたほうがいいのでは…」「或いは、思いきって例えば『メッサラ ~ベン・ハーのもう一つの物語~ 』といった題にして、メッサラを主人公に今回の脚色を一層、掘り下げて再構成した作品にしていれば、もっと歓迎されたのではないか…」という思いを差し引き、8点とさせていただきます。[DVD(字幕)] 8点(2017-07-01 20:21:53)(良:1票) 《改行有》

43.  SF巨大生物の島 《ネタバレ》  この映画との出会いは、私がまだ幼かった頃、親戚の人達が家に集まっているときにTV放映されているのを観たのが最初です。叔父達は「面白いよ」と言ってくれましたが、ウルトラ怪獣に熱中していた自分にとっては「本物のカニ・鳥・蜂を合成しているだけじゃな…スーパーヒーローも出ないし…」と引き込まれることはありませんでした。そして、とうとう【巨大蜂が、登場人物のいる巣穴にフタをしてしまう】という場面で、眠ってしまいました。  その後、ハリーハウゼン作品だとわかり「あれが人形のコマ撮りだったとは!」と驚き、いつか、もう一度、観たいと思い続けました。  大人になり、レンタルビデオでようやく再見しました。コマ撮りの素晴らしさは勿論ですが、バーナード・ハーマンの音楽にも感心しました。低音のきいた迫力あるテーマ曲に始まり、巨大カニの場面は力強く、巨大鳥の場面はコミカルに、巨大蜂の場面は弦で羽音を表現し…とバラエティーに富んでいると思いました。内容的にも、60年代から70年代に多く作られたこの手の【秘境冒険もの】としては、良く出来ているんじゃないかなと思いました。主要登場人物が誰も死なないことにも安心したのですが、それならいっそ、ネモ船長だって死なせなくても良かったのでは?と思ったりしました。そうした小さな不満は若干ありましたが、全体としては見応えがあり、幼い頃の記憶と気持ち良くつながって「観て良かった」と思いました。  さて、採点ですが…一般的には【男の子向けのファミリー冒険映画の佳作】であって、6~7点といったところでしょうか。ただ、私の場合、幼い頃に本物と思ったコマ撮り特撮のインパクトを加えて8点を献上させていただきます。[ビデオ(字幕)] 8点(2015-09-20 18:13:18)《改行有》

44.  スター・トレック5/新たなる未知へ 《ネタバレ》  この作品が公開されたとき、監督でもあったカーク艦長ことウィリアム・シャトナー氏は、「もともとTVシリーズは、シリアスものからコミカルなものまで様々なレパートリーがあった。だから、この映画は、アクションものにしたかった」という趣旨のことを述べていました。中盤は、そのコンセプトを実現していると思いましたが、【神】の正体へと近づいていく後半は、残念ながら息切れしてしまったような印象を受けました。  また【神】と共に、ストーリーの要として取り上げられていたものに【悩み】がありましたが、これについても、4作目のラストで父子として敬愛しあったサレック(父)とスポック(息子)の関係について、出生時にさかのぼり蒸し返すような場面があり、私は首をかしげてしまったものでした。  思いきって【神】や【悩み】を持ち出さずに純粋にアクション映画・ファン向けのアトラクション映画に徹したほうが、より伸び伸びと展開できたのではないか…と思われます。個人的には、1作目の序盤に流れていたクリンゴン戦艦のテーマ曲が、当作品ではアレンジされて全編にわたり活き活きと【活躍】していたことが、とても嬉しく感じましたが…。  さて、採点ですが、【残念な面】を差し引いて8点とさせていただきます。一般的な評価からすると、かなり甘めだとは思いますが…。[DVD(字幕)] 8点(2015-01-11 19:46:57)《改行有》

45.  シンドバッド虎の目大冒険 《ネタバレ》 この作品は、コマ撮りのキャラクター達との「戦い」よりも「人間との共演・交流・協力」を重視しているようです。ヒヒになったカシム王子と一角の原始人が、その象徴ではないかと思います。その意味で、かつての猿人ジョー・ヤング(1949年)に通じるものを感じました。それだけにミナトンは、魔女達との情緒的な交流が一切ないだけでなく、こき使われただけでお払い箱にされてしまい、皆さん同様「そりゃあ、ないんじゃないの?!」と寂しく思いました。このようなわけで「コマ撮りのキャラクター=人間の敵=戦い」という図式に飽きた人にはお勧めかもしれませんが…見る人をかなり限定してしまうことは否めないと思います。 なお、個人的には一角の原始人には生き残ってほしかったです。「もしも…」がありうるなら【カシム王子が無事に戴冠式を終えたちょうどその頃、原始人は、サーベルタイガーの毛皮で暖を取り、ミナトンの槍を使って上手に狩りをして、雪の大地でも無事に逞しく生きていきましたとさ。めでたし、めでたし…】とホノボノとしたエピローグを想像したりしています。 さて採点についてですが、ハリーハウゼンのシンバッドシリーズ三部作のうち「7回目の航海」を10点と考え、3番目の出来かな、と思うので8点にしましたが…一般的な評価から見るとかなり甘めであることをお伝えしておきます。[DVD(字幕)] 8点(2014-12-12 22:28:30)《改行有》

46.  新・猿の惑星 《ネタバレ》  当作品が、テレビ東京で10/12(木)の昼に放送されたのを機に投稿します。  「製作担当者は、映画会社(20世紀FOX)の意向で、渋々2作目を作ったが、もうこれ以上の続編が作れないように地球を消滅させた。それにもかかわらず、会社の意向で作らされた3作目」…私がこの製作エピソードを知ったのは、ずっと後のことでした。  しかし30年ほど前にテレビ放送で観たときに「無理やり作ったんだろうな」ということは、最初の10分ほどでわかりました。「そもそも1作目でテイラーと地図を見ながら語り合った話だけで、沈んでいたロケットを発見し地球を脱出したというだけで不自然。そもそもマイロ博士って何者?」が率直な印象でした。ただし、その後のコミカルな雰囲気からジワジワと悲劇の後半へ…と、前半と後半の展開が変わるタイプの作品が好きな私は、観ていて悪い気はしませんでした。そして1作目に対応するように「人間とキスするのは、これで2度目よ/僕は初めてだよ」と、ジーラとコーネリアスが、ルイス博士達とキスを交わして別れる場面は、【種族/支配・被支配/時の流れ】という垣根を超えて、確かな友情を結べたことを示唆する名場面だと思います。キスの後に二人と赤ん坊がが遠ざかっていく姿から、その後に待ち受ける悲劇を予感したのは私だけではないと思います。また「人間が他の動物に支配されるようになるのが神の御心なら、それでもいい」と言う善良なサーカス団長アルマンドを演じたリカルド・モンタルバンについても、【スタートレック2/カーンの逆襲:1982年】の復讐に燃える優性人間カーンよりも、こちらの役のほうが、私は好きです。  このように、無理やり作ったと直感した時点で、私は【番外編】と割り切っているのですが…今回、あらためてテレビ放送の録画を観て感じた不満は、以下の2つです。  一つ目は、初見からずっと違和感があるのですが【猿が台頭していく歴史を、コーネリアス達が説明する場面】についてです。むしろ「発掘現場を爆破されたので、台頭した理由は調べようがなかった。ザイアス議長によると、かつて楽園だった禁断の地を、人間が砂漠に変えてしまったということしかわからない…」と1作目の状況を述べるだけでも十分だったと思います。そしてハスレインに「そうか、わかったぞ…お前達が、未来からやって来たのが始まりなんだ。人類が核戦争で衰退するからといって、お前達の子孫に取って代わられるなんて許せない。今、私がお前達を葬り去ることで、忌まわしい未来を変える」と言わしめるほうが、良かったのでは…と思うのです。そうすれば観客は「未来を変えるなら、核戦争が起こらないように尽力するほうが大切では?」と、ハスレインの動機が差別・偏見による理不尽なものだと、より明確に伝わるでしょうし、アルマンド団長の上記の言葉も一層、活きてくると思います。  二つ目は「ゴリラは攻撃的/チンパンジーは平和主義/猿は猿を殺さない」という動物観についてです。ご存知の方も多いかと思いますが、現在の研究・調査で、猿は猿を殺すことが知られています。チンパンジーは他の群れを襲って相手を殺す攻撃性を持つことが報告されています。 一方、ゴリラは、胸を叩くドラミングなどを通じて、他の群れに自分達の存在を伝えながら距離をとり、できるだけ戦いを避けようとするそうです。現在、ゴリラは「気が優しくて力持ちの繊細な動物」としてアメリカでは自然保護の象徴的存在になっているようです。ただし、そのゴリラもチンパンジー同様、いわゆる【子殺し】が確認されているそうで…。もっとも、このようなことばかりを言ってしまったら、「猿は猿を殺さない」という当シリーズ(及び、2011年以降に製作されているリブート版)の根本を揺るがしかねないかもしれませんが…。  さて、採点ですが…私にとっては【番外編】として、こじんまりと手堅くまとまっているという意味で7点を献上します。  ところで、4作目・5作目は、この3作目で語られた【猿が台頭していく歴史】をベースにしています。上記の通り、私はこの【歴史】に不満なのでレビューは控えさせていただきます。しかし、リブート版を創るインスピレーションを産みだす基になっているようなので、映画史的な意義はあるのでしょう。ただ、私はふと思うのです。「もし、作り手の予定通り1作目で完結していたとしたら、リブートシリーズは、どのようになっていたのか?」…もし、あり得るなら、個人的には【人類の文明が滅んだ後に生き残った猿達が、過酷な環境で少しずつ進化を遂げ、人類の残した言葉や文化を受け継いで、地球を再生していく…】という地道な作品を望みます。[地上波(吹替)] 7点(2017-10-22 19:04:40)《改行有》

47.  原子怪獣現わる 《ネタバレ》  シン・ゴジラ(2016年)の公開を機に投稿いたします。  当作品を観たのは、エメリッヒ監督のGODZILLA(1998年)が公開されるずっと以前。ゴジラ1作目(1954年)とセットにしてビデオで観ました。私の中での感想は、①ゴジラ1作目を観る前、②ゴジラ1作目を観た後、③GODZILLA(1998年)を観た後…と3つの時期に大別されるので、以下、順々に述べていきます。  まず①について、ハリーハウゼンの特撮シーンは、リドサウルスの造形といい、実写との合成といい、当時の同時期の作品を知っている私としては、そのクオリティーの高さに感心しました。一方、リドサウルスを攻撃する場面や逃げ惑う群衆シーンは、映像がこじんまりとしており「噂には聞いていたけど低予算映画なんだな…」と痛感したものです。また、これはリドサウルスに限ったことではありませんが、海外の怪獣は、皆、銃の攻撃がそれなりに効くなど生物的な面が強調されており【軍隊の攻撃にもビクともしない日本の怪獣】に慣れていた私には、違和感がありました。  次に②については、↓のとかげ12号さんのおっしゃる通り『太古の巨獣が核実験で目覚める→都市で暴れる→新兵器で倒される…』という点は、ゴジラ1作目のストーリーラインもそっくりであり、実は、当作品こそ、ゴジラの1作目の元になっているんだろうな…と思いました。ただし、ゴジラの1作目は「反戦/核の脅威への警鐘」といった真摯なメッセージを組み込んで見事にオリジナリティーを獲得していると思いました。その点、当作品における核実験は【怪物が現れるきっかけ】にすぎず、日・米の温度差を感じざるを得ませんでした。  さらに③についてですが、真っ先に思ったのは「GODZILLA(1998年)は『ゴジラ』ではなく『原子怪獣現わる』のリメイクじゃないの?」ということでした。これは、公開当時の日本のマスコミでも話題になり、事実、後年になって、プロデューサーだったディーン・デヴリンが「もともと『原子怪獣現わる』のリメイクをつくりたかったが、資金集めが難しく、ゴジラのネームバリューを借りました」という趣旨の話をしていたとか…思わず納得したものです。  さて、採点ですが、ハリー・ハウゼンが特撮マンとして独り立ちしたデビュー作であり、アメリカで当時、放射能関係で出現するモンスター映画が作られるようになった先駆けであり、ゴジラの元ネタ映画であり…と記念碑な作品だとは思いますが、特撮場面は良いとして、劇映画として「これは面白い!」と万人受けするかというと…他のレビュアーさん達もおっしゃっている通り、あまりお勧めはできないですね…。歴史的な意義とハリーハウゼン氏への敬意から、大甘ですが7点を献上します。[ビデオ(字幕)] 7点(2016-08-06 15:09:44)《改行有》

48.  ジャイアント・ウーマン 《ネタバレ》  レンタルDVDで【妖怪巨大女:1958年‐以下、オリジナル版と表記します】を観た後、このリメイク版も取り寄せ可能と知り、引き続き鑑賞しました。  元々、オリジナル版の存在は、少年時代に読んだSF雑誌で知っていました。その解説文は「浮気した夫を、巨大化した妻が追いかけてくる…恐ろしいと言えば恐ろしいが…」という意味深なものでした。  そして、実際に観たオリジナル版は、ドラマ自体は真面目なものの、特殊撮影の“質”があまりにも低いために、作り手の皆さんが意図していないシーンで笑いを触発してしまう残念な仕上がりになっていました。  さて、当作品は…予想外に(失礼…)リメイクとしては良く出来ている印象を受けました。  まず【夫は、主人公の財産を我がものにしようとする/主人公はUFOとの接触を機に巨大化する】といった大筋や「女性を撃つのは抵抗が…」「ハリー(夫)は、やっとナンシー(主人公)のものに」といった台詞が継承されています。しかも、クライマックスにおいてドライブインシアターで上映されていたのは、オリジナル版であり、粋な計らいだと思いました。  登場人物も、主人公のナンシー・アーチャーを始め、概ね、同じ名前で登場します。違いは、①オリジナル版で主人公を守ろうと尽力する執事‐ジェスの代わりに、父親のコブが配されている、②精神科医のクッシングと保安官助手のチャーリーは女性、ということです。  ①により【自信が無い主人公の性格の背景には、強権的な父親の影響があること】を示唆していると私は感じました。また、②により【クッシング医師:専門家として独立して生活している/チャーリー:女の子らしく育ってほしいという親の願いとは裏腹に保安官をめざしている】というように、主人公とは異なる女性像を提示することで、このリメイク版ならではのテーマを強調しているようでした。  そのため、父親や夫へ初めて本音をぶつけた主人公が、気持ちの高ぶりと共に巨大化する場面(父親と夫はたじろぎ、クッシング医師は微笑む)に対し、私は痛快な気持ちに!しかもオリジナル版と異なりコミカルな演出を加味しているので、良い意味で笑うこともできました。この場面に限らず、オリジナル版を鑑み【真面目に演出しても笑われてしまう】のを予測し、敢えて笑えるようにしたかのような印象を受けるところが多々あり、その意味でも上手にリメイクしているな…と思いました。  特殊撮影もきちんとしています。オリジナル版のような【合成された人物に対し、背景が透けて見える】は皆無です。  また、巨大化してラストまで約40分ありますが、その大半は、主人公と関係者との会話にあてられています。そして同じフレーム内にしろ、交互にカット割りで表現するにしろ、会話する者どうし、互いに視線が合うよう配慮してあります。これは本編(ドラマ)班と特殊撮影班とが綿密に打ち合わせた賜物でしょう。  これらのことは“当たり前”かもしれませんが…オリジナル版では、それがやれていなかったわけで…ある種“当たり前”が如何に大事かを再認識できました。  もっとも、全面的に肯定できるわけでもありません。オリジナル版自体、SF作品としては非常にアバウトで、UFOが主人公に近づいた理由も、主人公が巨大化した理由も、説得力ある説明がなされているとは、到底、言えないものでした。リメイク版も同様であり「そういうところは継承しなくてもいいのに」と残念に思います。  勿論、製作にも携わったダリル・ハンナさんを始め、作り手の皆さんが伝えたかったのは【SFとしての緻密さ】ではなく【男の従属物ではない、自立した女性像や新たな女性の生き方】と思われるので、さほど重要ではなかったのかもしれません。   なお、当作品が発表されて今年で30年経つわけですが…作品に反映されている女性に対する世相が、現在はすっかり過去のものになったかというと…まだ、そうとは言えない印象を受けます。そのため当作品のテーマは、目新しさは無いものの、現在でも十分通じるのでは…と思われます。    さて、採点ですが…リメイク作品の佳作として、当サイトの採点基準である【見た後、率直に面白かったぁ…って言える作品=8点】に…いや、実のところ「あまりにも出来の悪い(失礼…)オリジナル版との比較で、好印象になっているだけでは…」という面は否めず1点減。また、楽しめるかどうかは【女性が巨大化する設定自体を、陳腐と感じてしまう気持ちを乗り越えられるか】にかかっていると思います。そのハードルは、巨大化した主人公の身長を遥かに超えるほど高く「誰にでもお勧めできるわけではないよなぁ…」という意味でも1点を減じ、6点とさせていただきます。それでも高得点すぎ?…[DVD(字幕)] 6点(2023-09-15 16:05:50)(良:1票) 《改行有》

49.  D.N.A. 《ネタバレ》  【ドクター・モロ―の島:1977年-以下、77年版と表記します】の投稿を機に、興味がわいたのでDVDをレンタルし初鑑賞。さて結果は…  まず、マーロン・ブランドさん扮するモロ―博士の白塗り&サングラス姿には、当初「科学者というより教祖様のよう…」と違和感がありました。ただ、宗教絡みの台詞もあったので、教祖という印象もあながち的外れではなさそう…と割りきりました。  次に、【獣人】達については、特殊メイクが【77年版】に比べ進歩したかどうか以上に、その人数に感心しました。メイクスタッフさん達は、かなりの大所帯だったろうと推察します。CG(モーション・キャプチャ)での表現が主流の現在の映画界では、これほど大規模な特殊メイクの実践は、もはやあり得ないだろう…と一抹の寂しさを感じました。  ただ、モロ―博士の亡き後、ハイエナ一派とアザゼロが権力を手中に収めんとするシーンは「長い…【77年版】には、こんな場面は無かったじゃないか」が本音でした。何故なら、銃を乱射し、破壊の限りを尽くし、ニヤニヤしながら相手の命を奪う…という一連の場面は、アメリカ映画における【犯罪者集団の典型的な描写】という印象を受けたからです。こうした描写が好きでない私には、大変、苦痛でした。  一応、ラストに「時折、暗たんたる思いになる。それは、世の人間の中に、あの獣人たちの影を見出す時だ」というエドワードのナレーションと共に、現実の記録映像が流れます。これも【77年版】には無かったものであり「なるほど。博士亡き後のシーンは、これを伝えるために必要だったんだ」とわかりました。しかし「現代社会に警鐘を鳴らすラストだ」と響くには至らず…何故なら、ナレーションとは逆に、私は上述の通り「ハイエナ一派やアザゼロという獣人たちに、人間の影(犯罪者集団と同様の邪悪な面)を見た」からです。もともと、博士が研究の目的について「人間の心に巣食う邪悪な遺伝子の要素を破壊し、完全なる無垢な(純粋で心が美しく争いを知らない)生物を創ること」という趣旨のことを述べているため、なおさら、そのように感じたのかもしれません。  勿論、ここで言う“影を見出す”とは、厳密には“片鱗を見る”という意味合いなのでしょうが、それでも獣人たち全員がハイエナ一派やアザゼロと同様だったわけではありません。「獣人たち」と一般化するなら、長老、アサシモン、マジャイ、ムリン、ヒロインのアイッサも、ハイエナ達のように振る舞わなければ、ナレーションとの整合性が取れないのでは…と思うのです。  鑑賞後、図書館で原作(橋本槇矩訳,1993年,岩波文庫)を借りて読んでみました。すると、訳語は異なっていましたが、ラストのナレーションの言葉は【物語の要】だとわかりました。同時に、上記の【無垢←→邪悪】を意識した研究の目的と、それに対応する【善良なアイッサ/邪悪なアザゼロ/博士亡き後のハイエナ一派の行動】は、この映画の脚色ということも確認しました。しかし繰返しになりますが、ナレーションが原作のままでは整合性が取れておらず【練り込み不足】という印象を否めません。  一方、【77年版】は“獣人たちの影”に関するものを削除するなど原作を大幅に脚色しているとわかりましたが、むしろ、そのことで「まとまりがあり、わかりやすくなっている」と再認識しました。脚色に関しては、↓の【鱗歌さん】がおっしゃる通り、当作品は「半端に原作を大事にすると大惨事になるという例」と言えるかもしれません。  別途、仕入れた情報では、マーロン・ブランドさんやヴァル・キルマーさんが、現場を相当、混乱させていたそうで…【練り込み不足】は、それが影響したからかも…と思ったりしました。  一方、【77年版】は、現場のチームワークがしっかりしていたのでは…と推察しています。そうでなければ【77年版】のオリジナルである【本物の猛獣と獣人達との生身のアクションシーン】は成功しなかったでしょう。逆に言えば、もし、同じ場面を当作品で実践したら…現場のギクシャクさが、一層の大惨事を招いていた…かもしれません。  さて、採点ですが…投稿の前は「色々と理屈を並べたけど、結局、少年時代から馴染みのある【77年版】のほうが好き、と述べているだけで、辛口の評価は申し訳ないかな…」と思ったのですが、他のレビュアーさん達も低評価が多いので安心しました(笑)。率直な印象だと4点ですが、混乱した現場を仕切らざるをえなかったであろうジョン・フランケンハイマー監督の気苦労に思いを馳せて+1点、スタン・ウィンストンさん率いるメイクスタッフさん達への敬意を表して+1点、計6点とさせていただきます。 *【ドクター・モロ―の島:1977年】は、別途、レビューを投稿しています[DVD(字幕)] 6点(2021-06-12 17:37:34)《改行有》

50.  続・猿の惑星 《ネタバレ》  新・猿の惑星(1971年)が、テレビ東京で10/12(木)の昼に放送されたのを機に投稿します。  「製作担当者も、主演のチャールストン・ヘストンも、猿の惑星(1968年)は【完成された作品】であって、続編を考えていなかったにもかかわらず、映画会社(20世紀FOX)の意向で、渋々作った2作目。そしてこれ以上の続編が作れないように、地球を消滅させたはずだった」…私がこの製作エピソードを知ったのは、ずっと後のことであり、実は、猿の惑星シリーズで私が初めて観たのが当作品です。  私が物心ついたとき、映画館では、猿の惑星・征服(1972年)や最後の猿の惑星(1973年)が公開され、街中に貼られたポスターを見るだけで怖くて仕方ありませんでした。猿の惑星シリーズに限らず、当時のアメリカ映画は、オカルトやパニックものなど、人が悲鳴を上げて死んでいくのを見せ場にする作品が流行っており、TVのCMを見るのも苦痛で「昔のスペクタクル映画やミュージカル映画と違い、今の洋画は怖い」というのが幼い私の認識でした。猿の惑星のTVシリーズも放映されましたが、恐怖感から観ませんでした。  幸い、小学校の高学年になった夏休みに、アニメ版の猿の惑星が放送され、勇気をもって観たところ「怖くないぞ…面白いぞ!」とすっかり安心しました。その後、間もなくゴールデンタイムでテレビ放送された当作品を観たのですが…私の安心感はもろくも打ち砕かれました。特にミュータントがテレパシーを使い【ブレントを操ってノヴァを水に沈める・首を絞める/ブレントとテイラーを殺し合わせる】という場面は、【アクション】ではなく【単なる暴力】にしか思えず、つらかったです。ミュータントが不気味な讃美歌と共に素顔をさらす場面も気持ち悪く感じました。そして、せっかく喋れたノヴァは死んでしまうし、ブレントも撃ち殺されて倒れ込む動きが生々しく「主人公なのに、こんなにむごたらしく死んでしまうなんて…」とショックでした。テイラーも胸を撃ち抜かれ、地球も消滅…「やっぱり今の洋画は怖い」という認識が強まってしまいました。  その後、高校生のときにテレビ放送で1作目を観ることでき「やはり、猿の惑星は、聞きしに勝る名作だ!」と気持ちを新たにできました。しかしこの2作目で植え付けられたトラウマ的な感情はどうしても残りました。その後も何度かテレビ放送で観ましたし、今回、レビューを書くためにDVDで再見しましたが、初見から約40年経つのに、感情的な印象は全く変わりません…。  さて、他のレビュアーさん達のご意見を拝見すると、評価が低いですね…。でも、冒頭に明記したように、作り手の皆さんも仕方なく作ったわけで、その負の感情が、私達・鑑賞する側にも伝わっての低評価なのかもしれません。ひょっとすると「我々が、嫌々つくったのがわかるでしょ。観客の皆さん、是非、低評価を下し、これ以上、続編を望まないでほしい」という切なるメッセージが込められているのかもしれません。それなのに3・4・5作と続編が作られてしまうとは…。映画会社の意向があったにせよ、その背景に【観客が映画館へ足を運んで、それなりに儲かった。そして続編への要望があった】という事実があってのことでしょうから、作り手の皆さんだけを責める気持ちにはなりません。  最後に採点ですが…私のトラウマ的な感情だけで評価すれば0点です。しかし作り手の皆さんの【製作当時の苦悩と、その後も意に反して続編が作られ続けたやるせなさ】に思いを馳せると、つい肩入れしたくなってしまい、大甘で6点とさせていただきます。【商業映画=収益を出す】という括りの中で「作り手が創りたい」だけでは済まされない事情が生み出した【迷作】ということになるのかな…と思います。[DVD(字幕)] 6点(2017-10-22 18:59:28)(良:1票) 《改行有》

51.  タイタンの戦い(2010) 《ネタバレ》  1981年版について「公開当時、自分は中学生。往年のハリーハウゼン作品を見続けてきた人達からの評判は良くなかったが、自分がギリシャ神話で一番好きなペルセウスの冒険の映画化であり…」と、当レビューで10点をつけた者として、この2010年版を観るのも義務だろうと思い、今更ながら鑑賞。以下、3つに項目立ててお伝えします。  まず一つ目。2009年頃に「タイタンの戦いのリメイクの製作が進行中」という話を知ったときのことです。私は「ああ、やっぱり…」と思いました。何故なら、上述の通り1981年版は公開当時の評判は必ずしも良くはなく「ハリーハウゼンも老いたり。かつてのハリーハウゼンなら、あのシーンはもっと○○だったろうに…」といった声があったからです。したがって「ハリーハウゼン作品でリメイクするなら、どの作品か」というリサーチをすれば、タイタンの戦いがトップだろうと思ったのです。そのため「アルゴ探検隊の大冒険(1963年)のリメイク企画が持ち上がったのが発端」という↓の【ザ・チャンバラさん】のお話は興味深かったです。でもハリーハウゼンの最高傑作として名高い【アルゴ…】をリメイクしなくて正解だったと思います。 大抵、最高傑作・不朽の名作と呼ばれる作品のリメイクは、往年のファンからの眼差しが厳しくなりがちですので…。  さて、二つ目は、鑑賞しての率直な感想です。「ルイ・レテリエ監督なりに1981年版を尊重しながら新たな脚色に情熱を注いでいるな…」と思いました。文面が膨大になるので怪物に絞って明記すると、その筆頭に挙げられるのは、やはりメデューサでしょう。1981年版と同様に下半身がヘビで弓矢を持った姿で登場しましたし「1981年版はおどろおどろしい演出で、一人しか石にしなかった。自分はお得意のスピーディーな演出で、もっとたくさんの兵士を石にするぞ!」といった監督の熱い思いが伝わってきました。1981年版のオリジナルキャラクター・カリボスの登場にも感心しましたが…それなら黄金の梟のブーボーも活躍させてほしかったですし、二つ首の番犬ディオスキロスも登場させてほしかったかな…と、少々不満はあります。しかしクラーケンでは、とてつもない巨大感と力強さ、そして苦しみながらジワジワと石化する過程が見事に表現されていたと思います。ただし、CGに慣れ親しんでいる若い人達には【普通】なんだろうな…とも思いました。  最後の三つ目は【ペルセウスの冒険の映画化】という観点からの違和感です。ただでさえ1981年版は“劇映画”の体裁に沿って神話を脚色・再構成していたのに、当作品はさらに脚色を重ねたため、一般に知られている【ギリシャ神話・星座物語】のペルセウスの冒険から、一層、かけ離れたと思います。もし私が中学時代に当作品を観たら「こんなのペルセウスの冒険ではない!」と激怒したでしょう。もっとも、ルイ・レテリエ監督はあくまで【映画のリメイク】をしたのでしょうから、違和感は的外れかもしれません。また1981年版のベースになった神話エピソード(メデューサは美女だったが、女神によって怪物に変えられた/ペルセウスはペガサスに乗ってアンドロメダ姫のもとを訪れ、メデューサの首で、化けクジラを石にした)は、原典に最も近いと言われている【アポロドーロス著のギリシア神話:岩波文庫】には記載されていません。つまり、これらのエピソードは【後世の脚色】だとわかります。その意味で当作品も【後世の脚色】になると思います。いずれ映画の脚色ということが忘れられ、当作品のストーリーが【ギリシャ神話・星座物語】の本に掲載される時代が来る…かもしれません。  さて採点ですが…CGのVFXがポピュラーな現在では、もはや【普通の映画】という印象はぬぐえず、まずは可もなく不可もなくの5点だと思います。一方、養父を演じたピート・ポスルスウェイト氏は、個人的に好きな俳優さんでした。惜しくも当作品公開の1年後・2011年に亡くなられており、哀悼の意を表してプラス1点=計6点とさせていただきます。なお、続編のタイタンの逆襲(2012年)は、ギリシャ神話のエッセンスは盛り込まれているのでしょうが、ペルセウスの冒険とは異なるオリジナルストーリーのようなので、鑑賞は控えさせていただきます。  平成29(2017)年9月18日(月)追記:当初の採点箇所の文面が、くどいと感じたので短く修正しました。ところで、当作品のペルセウスの心情を察すれば、生き返らせてほしかったのはイオだけだく、共に戦った仲間、そして何よりも、養父母と妹だったのではないか…と思います。そうしてくれていれば、もう少し高得点をつけていたかもしれません。[DVD(字幕)] 6点(2017-08-21 21:22:30)《改行有》

52.  ジュラシック・ワールド 《ネタバレ》  ジュラシックパーク(1993年)のリブート版とも言うべき当作品。CGが当たり前になった現在において、目の肥えた若いレビュアーさん達にとっては「他作品よりはお金をかけた映画」という程度かな…と思ったりしています。私にとっても正直、娯楽映画としては【普通】です(作り手の皆さん、ゴメンナサイ…)。このレビューでは、当作品に登場したモササウルスとプテラノドンに関する感想を述べたいと思います。    まず、モササウルスについては、当作品でクローズアップしてくれたことを嬉しく思います。  ご存知の方々もいらっしゃると思いますが、1970年代に、北海道で「日本で初めて、肉食恐竜の化石が発見された」という報道がありました。この化石はエ○ミ○サリュウと名付けられ、当時の地域おこしにも一役買いました。  しかし1980年代になり、モササウルス科の化石と判明。私は「古代の海の生態系の頂点に君臨したモササウルスの仲間ということか!。恐竜とは進化系統が異なる種とはいえ、中生代に繁栄した大型の肉食脊椎動物であることに変わりはない。これはこれで素晴らしい」と思ったのですが…現実は、俗称の【海トカゲ類】という言葉が独り歩きし、当時のマスコミでは「恐竜ではなくトカゲだった」という見出しで報道されました。某テレビ局では、現地の男の子に「恐竜なら格好いいけど、トカゲじゃ格好悪い」と言わしめる街頭インタビューを流して放送しました。「恐竜でなくてガッカリだね、残念でした」という否定的な価値観のフィルターにかけた情報であることは明白であり【中立的な情報伝達の難しさ】を痛感したものです。  もし、当作品の公開後だったら「あのジュラシックワールドのモササウルスが日本にも生息していた!」と肯定的な価値観の報道になっていたのでは…と思われます。  一方、プテラノドンをはじめとする翼竜の描写は感心しませんでした。少なくともプテラノドンは、現在の研究では「崖や木の上から上昇気流を活かして飛び立ち、クチバシで海面から魚をすくい取るように捉えて生活していた」と言われているようです。【現在の鳥類】と重ねるなら、ワシやタカなどの猛禽類ではなく、アホウドリ(この名称は、人間の驕りに満ちた視線を反映しているようで私は好きではありません)や、オオミズナギドリのような生態だったのではないでしょうか。もちろん、今後の研究で、さらに新しい説が現れるのでしょうけれど…  しかし、どうも映画では、キングコング(1933年)の昔から【後ろ足で人間を鷲掴みにし、空中高く持ち上げて食べようとする空飛ぶモンスター】として描きたいようです。私が10点を献上した恐竜グワンジ(1969年)の頃ならまだしも、2015年でも旧態依然としたままとは…。  当作品内の台詞を引用する(これが、一応、ネタバレになる?)なら「より恐ろしく、誰もがアッと驚くものを/リアリティーよりも見てくれを求める」という観客のニーズに応えた描写と言えるのかもしれませんが…。もっとも、そんなこと言ったら、ティラノサウルスをはじめとする他の生物群も、程度の差こそあれ、大仰な演出・描写がなされているのでしょうが…。  さて、採点ですが…冒頭の通り、私にとっては【普通=可もなく、不可もなく】であり、かつ、【モササウルスに関するプラスイメージ】と【プテラノドンの描写へのマイナスイメージ】を半々に、5点とさせていただきます。結局、個人的な恐竜論になっているだけで全然レビューになっていませんが、悪しからず… *令和2(2020)年7月28日(火)追記  投稿後、一番最後のほうにある【個人的な恐竜論になっている】という文面は、表現が間違っていると気づきました。モササウルスもプテラノドンも【恐竜とは進化系統が異なる種】なので【恐竜論】ではなく【古代生物論】という表現のほうがいいかな…と思われます。  因みに、私が子供の頃、恐竜とは【中生代の陸・海・空に繁栄し、怪獣のモデルにもなった大型爬虫類の総称】という意味合いのイメージが一般的でした。ただし、現在でもこのイメージは十分払拭されていないようです。「翼竜は恐竜ではない」といった解説が散見するのは、その現れでは…と思われます。もっとも、個人的には、“ではない”という否定的な表現は好きではありません。例えば、上記のように【進化系統が異なる種】や、或いは【恐竜とは別に、独自に進化して繁栄した種】というように、肯定的なニュアンスの表現が幾らでもあると思うんですけどね…。  結局、この追記も、レビューになりませんでした…。[地上波(吹替)] 5点(2020-07-26 17:49:00)《改行有》

53.  ドラゴンスレイヤー 《ネタバレ》 この作品は、ウォルト・ディズニー亡き後、どん底にあった当時のディズニープロダクションが、新機軸を見出そうと試行錯誤していた実験作の一つと言えるかもしれません。そうした映画の一つ・ブラックホール(1979年)が「大人向けの科学映画という体裁で宣伝しながら、実は子供向けのアドベンチャーもの」だったのに対し、当作品は「題材は家族向けのファンタジーでありながら、大人向けを志向した作品」と言えるかと思います。  「大人向け」としての脚本上の工夫は「定石(お約束)破り」だったようです。ザッと挙げると「定石では救われるはずのお姫様は、無残な死を遂げる」「定石ではドラゴンを倒すはずの特製の槍は、あえなく折れてしまう」「定石では英雄になるはずの少年は、ドラゴンを倒さない」「我が身を犠牲にしてドラゴンを倒した魔法使いは、定石では人々から感謝されるはずなのに、主人公とヒロイン以外からは誰からも存在を認められない」…とこんな感じです。  おそらく知的な面白さを好む人達からは評価されたでしょうが、少数派だったようです。同じ年に公開された、まさに定石通りに展開する「タイタンの戦い」に対して興行的に惨敗を喫し、結局、日本では未公開になりました。 ご存知の方もおいででしょうが、TVシリーズの水戸黄門は、かつて石坂浩二さんを主役にしたとき、定石の打破を試みました。一部の視聴者からは歓迎されたものの、結局は大半の声に応えて本来のお約束番組に戻りました。「展開や結末は薄々わかっているのに、否、わかっているからこそ安心して感情移入し、めでたし、めでたし…と精神の安定を得る」という面が人間にはあると思います。現在のディズニー映画の隆盛は、まさにこのツボを心得ているからこそだと思われます。 ドラゴン自体は、当時、ハリーハウゼンのストップ・モーションでは難しかった素早い動きを実現し、一見の価値があると思います。その技術は「ゴー・モーションシステム」と呼称されました。そしてアカデミー視覚効果賞にノミネートされ(受賞したのは、レイダース・失われたアーク)、ジュラシックパーク(1993年)のCGの恐竜が登場するまで使われました。 以上、娯楽映画の在り方を考える上での意義と、ゴー・モーションによるドラゴンの技術的な意義を鑑み、5点を献上します。音楽評価は、ベテランの作曲者アレックス・ノースに敬意を表し10点を献上します。[地上波(字幕)] 5点(2015-02-07 21:49:15)《改行有》

54.  ブラックホール(1979) 《ネタバレ》 この映画は、ロードショー公開当時、映画館で見ました。映画が始まるまでの間、周りの席からは「ブラックホールというのはね…」と一緒に来ていた相手に対し科学的な説明をしている声が聞こえていたものです。さて、上映が始まり、ジョン・バリーによるテーマ曲は素晴らしく、期待が膨らみましたが…ふたを開けてみると「大人向けの科学映画という体裁で宣伝しながら、実は子供向けのアドベンチャーもの」でした。中学生だった私は割り切って楽しめましたが、上記の科学的な説明をしていた観客からは口々に不平不満の声があがったのは言うまでもありません…。  後で知りましたが、この作品は、ウォルト・ディズニー亡き後、どん底にあった当時のディズニープロダクションが、新機軸を見出そうと試行錯誤していた頃の作品だったようです。現在のディズニー映画では考えられませんが、このような「生みの苦しみ」で喘いでいた時期を乗り越えての現在の隆盛があるのだという意味で、ディズニー映画史上、一見の価値があるかな?…と思われます。[映画館(字幕)] 5点(2015-02-07 21:38:23)《改行有》

55.  妖怪巨大女 《ネタバレ》  【未知空間の恐怖/光る眼:1960年】【続・光る眼/宇宙空間の恐怖:1963年】【光る眼:1995年】…と【光る眼シリーズ?三作品】の投稿をして以来、諸事情で1年強、経ってしまいました…このままでは、今年は未投稿になりそうだったので、頑張って投稿します。  実は、当作品は“昨年の7月=上記三作品とほぼ同時期”に観ていました。厳密に言うと、まず、某レンタル店で【妖怪…】が目に入ったのが最初です。そのとき、以前は取り寄せ不能だった【未知空間の恐怖/光る眼】と【続・光る眼/宇宙空間の恐怖】のことを思い出したのです。【光る眼】と【妖怪…】は公開年が近いと知っていたので、念のため調べ直したら、取り寄せが再開されていると判明。そこで1995年版も含めた【光る眼シリーズ三作品】をレンタル。一通り観て投稿してから、当作品を観たのでした。さて、結果は…    当作品の出来は、↓の【なにわ君】がおっしゃっている通りです。  ストーリー自体はいたって真面目です。本編(ドラマ)で笑える要素は、本来、コメディーリリーフとして登場している保安官助手‐チャーリーの言動だけのはずですが…特殊撮影の“質”があまりにも低いために、作り手の皆さんが意図していないシーンで笑いが触発されてしまう…そんな仕上がりになっているのです。  私が印象に残ったのは、巨大化した主人公(の手)を見て看護師さんが悲鳴をあげる場面です。迫真の演技ではあるのですが、否、真に迫っているからこそ、おそらく、現在、マニアの方々が集まる上映会では、この場面で大爆笑が巻き起こるんだろうなぁ…と想像しました。  以下、特殊撮影の“質”について、合成場面に絞り、私なりに真面目に解説してみます。  合成場面の大半はフィルムの2重露光のようです。着陸して動かないボール状の宇宙船では、背景の荒れ地に対して明るく合成することで、背景が透けるのをカバーしているとわかります。しかし巨大宇宙人や巨大化した主人公という“動く被写体”では、明るく合成しただけでは限界があり、どうしても背景が透けてしまっています。  透けるのを防ぐには【①:トラベリングマット(被写体と同じ輪郭を持ち、被写体とシンクロするように動くシルエット)を、背景に重ねて未露光状態にしたフィルム】に対し【②:人物の被写体だけの映像】を焼き付ける、といった必要がありますが、それをしていない。そもそもトラベリングマットを作るには【人物を、無地の背景のスタジオで別撮りし、光学処理をする】もしくは【一コマ一コマ手書きする:これはこれで大変です】といった方法があるのですが…そういった予算も時間も無かったのでしょう。なお“浮気した夫を握りしめたまま絶命している主人公に、町の人々が集まるラストシーン”では、主人公が動かないので、ステーショナリーマット(被写体と同じ輪郭を持っていて、かつ、動きのない固定されたシルエット)を使っているらしく、透けずに済んでいます。  …と、この合成の解説を読んで、果たして若いレビュアーさんはピンと来るでしょうか?。スッと頭に入るレビュアーさんは、おそらく相応に年配で、しかもフィルム合成に興味があった人達に限られることでしょう。因みに、上記の“無地の背景のスタジオ”で使う背景の色は、かつては青色(俗にいうブルーバック)が主流でしたが、現在の映画・TV・CMの舞台裏を紹介する映像を見ると緑色が多くなっているようですね。合成はトラベリングマットを作るまでもなく“デジタル処理”で済むようになっており、隔世の感があります。  見方を変えれば、一口に「合成」といっても、フィルムによる光学合成は、お気軽な技術ではなかったことが垣間見える貴重な作品と言える…かもしれません。  また、ネイザン・ジュラン監督を始めとするスタッフの皆さん達の「この予算と時間で作ること自体、無理があったんだ~」といった苦悩に満ちた声が聞こえてきそうな気もします。  それでも本国ではヒットし、現在でもカルト的な人気があり、日本でも字幕付きでDVDがレンタルされるくらいですから、ある意味、すごい作品と言えるかもしれません。これでスタッフの皆さんの苦労も報われた…のかなぁ?…  さて、採点ですが…お世辞にも良作とは言えませんが、長年の夢だった【未知空間の恐怖/光る眼】を観るきっかけをつくってくれた作品です。その感謝を込めて1点プラス。また、上記の“見方を変えれば”で述べたことも、一応、意義があると言えなくもないので、おまけとして1点プラス、計2点を献上します。 *ダリル・ハンナさん主演のリメイク「ジャイアント・ウーマン」も、取り寄せできたので、別途、鑑賞・投稿しています。 *【光る眼シリーズ三作品】も、別途、投稿しています。[DVD(字幕)] 2点(2023-09-15 15:57:29)《改行有》

56.  GODZILLA ゴジラ(1998) 《ネタバレ》  シン・ゴジラ(2016年)の公開を機に投稿いたします。*テレビ東京でも8/1(月)の昼に放送されました。他のレビュアーさん達のおっしゃることと内容が被る箇所もありますが「思いは同じ」ということでご勘弁を…。  当作品は、公開前から「ハリウッドがゴジラをつくる」「1作目を意識した作品を目指している」と話題になり、しかも、なかなか全身像を発表しないなど、じらした宣伝をして巷を賑わしたものでした。そして夏に公開…私は当時、冷房のないアパートで独り暮らしをしていた頃であり、避暑を兼ねて映画館に足を運びました(笑)。ただし、もともと当作品が話題になるずっと以前に、原子怪獣現わる(1953年)とゴジラの1作目(1954年)をビデオで観ていたので、比較してみようとは思いました。  さて、実際に観てみると…真っ先に思ったのは「これって『ゴジラの1作目』でなく『原子怪獣現わる』のリメイクじゃないの?」ということでした。これは私に限らず、公開当時のマスコミでも話題になりました。またゴジラ(1954年)のレビューにも明記していますが、当時のアメリカの人々が知っているゴジラの1作目は、怪獣王ゴジラ(1956年)という題名で日本でも公開された再編集版でした。これは【来日したアメリカ人記者が、ゴジラに遭遇する】というコンセプトでまとめたものであり、1作目の「反戦/核の脅威への警鐘」といったメッセージ性を削ぎ落とした作品でした。ある本で、この再編集版をオリジナル版だと思っている海外の書評を読む機会がありましたが…「都市の破壊シーンは迫力があるが『原子怪獣現わる』のように、何故、怪獣が現れたのかの説明がない。しょせんは二番煎じであり『原子怪獣現わる』には遠く及ばない」という趣旨の文面でした。そのためGODZILLAを観たとき「あの書評は、個人的な感想ではなく、当時のアメリカの人々一般の考えを代弁したものではないか。そのため、GODZILLAも“ゴジラの1作目よりも優れた本当の怪獣映画である『原子怪獣現わる』をリメイクしよう”という意識が、製作サイドに働いたのではないか」と思ったものです。  事実、後年になって、↓の【あばれて万歳さん】がおっしゃっている通り、プロデューサーだったディーン・デヴリンが「もともと『原子怪獣現わる』のリメイクをつくりたかったが、資金集めが難しく、ゴジラのネームバリューを借りました」という趣旨の話をしていたことを知りました。私の当時の直感は、当たらずとも遠からじのようでした…。  なお、公開当時を知る方々ならご存知だと思いますが、当作品の製作にあたり、アメリカ側は当初「ゴジラの製作権を全てアメリカ側が買い取り、以後、東宝には一切ゴジラを作らせない」という条件を出したそうです。上記のようにゴジラへの愛着が全くなく(読み直してみて、全くないと言いきるのはちょっときついかな…とも感じましたが、シン・ゴジラの製作陣に比べれば…と思ってしまいます)、ビジネスチャンスとしか考えていなかったこの条件に応じなくて、本当に良かったと思います。当時の東宝の皆様に敬意を表します。もし応じていたら、シン・ゴジラは存在しなかったわけですから…。  さて、採点ですが…製作サイドが『原子怪獣現わる』のリメイクをつくりたかったと言っているわけですから、ゴジラ映画としては0点です。もし将来『The Beast from 20000 Fathoms:原子怪獣現わるの原題』と改題し、登場する巨獣の名前をリドサウルスに吹き替えたなら、6~7点ぐらいはつけさせていただきます…否、あの巨獣はイグアナが放射能で突然変異したもの。イグアナは草食です。何故、魚を食べるのでしょう?…その安直さに、やっぱり4~5点かな…。[映画館(字幕)] 0点(2016-08-06 15:18:49)《改行有》

全部

Copyright(C) 1997-2024 JTNEWS