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1. ピノキオ(1996)
ディズニー版もそうだったけど、ピノキオって原作は悪童物語の傑作なのに、映画化されるとかわいくなってしまうんだな。悪の誘惑に乗ってくる悪ガキに見えない。それだけのせいではないだろうが、ラストで人間になると幻滅感が場内に漂った。いや、これは大事な問題なのかも知れない。アニメ的なものと実写とで、見ているこちら側の心の位置が微妙に違っているのではないだろうか。実写は記録として客観的に見ているのに、アニメになるとやや主観に寄っている、ということはないか。その主観が引き剥がされる感じが幻滅感になっているのでは。アニメと実写の合成された映画を見ているときに感じる、どうも落ち着かない感じ、案外あんなところに映画の秘密が隠されているような気がする。子どもがロバに変身するとこなんか、ディズニー版のほうがはるかに怖かった。全編アニメだと、SFXが浮いてしまうという心配がないわけだ。こちらでは、ピノキオが一時間待って時計塔の前に立っていると犬が小便ひっかけにやってくる、ってとこにのみ映画を感じた。ラストのクジラも弱かったなあ。[映画館(字幕)] 6点(2009-05-16 12:07:49)
2. ヒトラーの贋札
「今日の銃殺より明日のガス」ってセリフは記憶に残るな。たとえそれが利敵行為と分かっていても、とりあえず今日の銃殺を避けようとするもんなあ。まして職人気質をくすぐられれば、歴史に残る贋札を作りたいと思っちゃう、そこらへんの「分かっちゃいるけどやめられない」の心理がナマナマしかった。『戦場にかける橋』で、つい捕虜たちが立派な橋を作りたくなった心理と同じだ。長期的な視点を持てないのではない、分かっちゃいるけど、現在の切迫がそちらの目を塞ぐのだ。歴史はこうしてクネクネと、理想へ直線的には動かないようにできてるのだな。ナチが悪役笑いするのには閉口。ナチの怖さは人格の卑しさから来るのではない。いたって有能な人物たちが、合理的思考に基づいてガス室の発明にまで至ったところにその怖さがある。この映画でだって、ユダヤ人の職工を使えば後始末が簡単、と合理的に考えるところが一番怖かった。よくナチと日本軍は同一視されるけど、どっちかって言うと対極にある。ナチは合理主義のバケモノ、日本は精神主義のバケモノだった。あっちは無駄を病的なまでに排斥する狂気、こっちは無駄が出れば出るほど気合いが入ると思い込んでいる狂気。[DVD(字幕)] 6点(2009-01-17 12:09:46)(良:2票)
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