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【製作国 : 日本 抽出】 >> 製作国別レビュー統計
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1.  悪魔の手毬唄(1977) これが白石加代子の映画デビューだとずっと思い込んでたが、今確認したらこの前に「さそり」シリーズの一本で出てるのね。なんか「王女メディア」を連想させるような凄まじい役で、見てないけど彼女の狂気演技が想像できる。で本作だが、当時私は動いて演技をする彼女を見るのが初めてだったので、おそるおそる期待とともに観賞した記憶がある。雰囲気充満だけど、意外におとなしい印象。「白石加代子」を突出させず、崑さんの作り物の世界にピタリはめた、と感じた。日本的怨念をジワッと過剰に滲ませる人で、崑さんがもっぱら日本的な装置にバタ臭い女優(岸恵子とか草笛光子とか)を配置する趣味なのに、さらに逆の方向からアクセントを一つ加えてアンサンブルに厚みを出している。草笛光子はこのシリーズを通しての助演女優賞ものだと思っているのだが、おどろおどろしい日本的情念の世界に和服の草笛光子を配置すると、全体の「作り物」感が際立つ。そこにさらに背景であったおどろおどろしさいっぱいの白石加代子を置くと、調味料に砂糖と塩を混ぜて入れたようで、コクが出るんですな。[CS・衛星(邦画)] 8点(2014-03-01 09:20:08)

2.  あさき夢みし これは本当に美しい映画だった。スクリーンでなければ味わえないぎりぎりの暗さの美で、のちにDVDで再見したら全然違う映画のようになってたので、ここでは映画館で観たときの記録で書く。今様伝授の場。花ノ本寿と東野孝彦の烏帽子のシルエットのゆがみとか、ピン送りによる枝の撮影、膨らんだり縮んだりする感じ。外の宴の画面の上半分のにじみ。湖面のさざなみ。それを断ち切る舟の漕ぎ渡ったあと。こう書いていくと神経質っぽい映画と思われるかもしれないが、そういった神経質っぽい画像を塗り重ねることで、中世の宮廷の脱力感が出たように思う。勃興しつつある民衆の圧力への憧れもあるが、いまさら宮廷を飛び出す意志もない公家たち。その淀み切った気分が見事に美としてスクリーンに満ちた。志ん朝は定家のせがれをやっていた。偉大な父の跡取りの役。[映画館(邦画)] 8点(2013-12-19 09:17:45)

3.  ああ爆弾 《ネタバレ》 私はこれが喜八で一番好きな作品。どういう組み合わせだったのか安部公房/勅使河原宏の『おとし穴』との二本立てで名画座で見た(次の週には『下町の太陽』と『気違い部落』の二本立て見てる。名画座文化の良かったのは二本立て制度で、ついでに見たもう一本で世界がどんどん広がっていったことだ)。今思っても、喜八監督のリズム感が全開した名作ではないだろうか。ドンツク・ドンツク・ポッポーなんてたまらない。砂塚秀夫や中谷一郎など常連が生き生きしており、ミュージカル合戦にもなっていて、和ものとあちらものが対決する。とりわけ和ものの使い方が秀逸で(邦楽ミュージカルってあんまりないから)、勧進帳の「毒蛇の口を逃れたる」がバキュームカーのホースになぞらえられたりする。三百万三百万と心の声が呟いたり、ドンツク・ドンドン・ツクツクに合わせて体が起きてきたり、楽団員がみな眼帯してたり、私の趣味がカタヨッていったのに、大きく影響した作品だったなあ。[映画館(邦画)] 9点(2013-11-30 09:38:07)

4.  明日の記憶 やはり映画はどうしても三人称なのだ。それだって文章で読む一人称的な「当人」意識を映画で作ることは不可能だ。そこにキモがある原作を映画化するんだから、スターと時点で困難な計画だったのは分かってしまっていた。意外と良かったのは、及川光博の喋り方。患者が医者という測定者に抱く曖昧な畏れが感じられた。あとは渋谷で迷子になるあたりか。一人称の当事者感は出せなかったが、三人称の「彼」の話として身に迫った。退社でみんなが来るとこは(たしか原作にはなかった)、クサいなあと思いつつホロッとしてしまうのが悔しい。一人称でなくしたぶん、主婦の立場を加えられ、樋口可南子の泣き笑いっていいんだ。[DVD(邦画)] 6点(2013-10-17 09:26:19)

5.  あかね雲 水上文学の世界ってのは微妙でして、演歌的な愚痴の詠嘆にもなり得る危険性があるが、正確に社会批評の部分を突いて映画化されると、いい画になるものを含んでいる。自分を利用する男に感謝し続けるヒロイン、後半にいくにつれ脱走兵・小杉と出会ったのは幸せだったのではないか、とふと思わされ、そこに貧困の問題が大きく浮かび上がってくるの。世間の良識としての小川真由美が存在して、この苦労を積んだ上での批評が、こちらのカップルを刺激し続ける。それが男社会の批評にもなっている。これに対応するように小杉さんも疚しさを感じ続けるのだけど。夕焼けだけ朱になる趣向。親から十円借りるあたりホロッときた。山崎努が缶詰のシールを貼っている薄暗さに、脱走兵の不安が重なる。脱走兵と女の物語は、後にもう一度水上文学の映画化『はなれ瞽女おりん』で美しく繰り返される。[映画館(邦画)] 6点(2013-04-19 10:26:27)

6.  浅草の灯(1937) 人間模様もの。昭和初期が大正を回顧しているのを現在の私(昭和末期でしたが)が見るんだから、ちょっとややこしい。映画製作時の彼らが抱いた懐かしさと、映画製作時への私の興味が複合して。娯楽の中心が銀座へ移ってしまった時代に、大正の娯楽の中心だった浅草を描いてるの。もっと風俗が織り込まれてるかと思ったが、大震災で壊れた十二階の内部がセットで見られたぐらい。ちょっと乱歩っぽい。肺病男が、伝染るといけないからとひげをあたってもらうのを断わって皆に歌を歌ってくれと言うあたり、浅草の滅びそのものが重なっているのか。杉村春子が歌って踊ります。島津監督としてはほかの代表作より若干劣るかと見えたのは、単純に高峰三枝子がヒロインだったせいかもなあ。[映画館(邦画)] 6点(2013-03-16 10:08:33)

7.  あの夏、いちばん静かな海。 恋愛ものに特有の「気分の波立ち」は描かれない。言葉の必要のないカップルとして登場し、あとは恋愛の安定した幸福感を描き続け、しかし実は男は少しずつ海に吸い寄せられていっていた、ってな話。耳の聞こえない恋人同士ってのがよく、『非情城市』をちょっと思い出したが、さらに遠くサイレント映画時代の恋人同士にも通じていたか。Tシャツを畳むだけで幸せな恋人。人が通過した後の風景をしばらく押さえておく余韻の効果がよく、視線と対象との間の距離をちゃんとわきまえてますよ、という礼儀正しさを感じる。対象を追いすぎないで、ちょっと目をそらしたり伏せたりしてる感じ。サーフィン大会で男が呼び出しに応じられないところで、本作で唯一障害がクローズアップされ、それだけに効果満点。静かに仲間外れにされてしまう。そこには悪意さえもない。こういう角度から障害者の痛みを描けたのが発見。その後もこの監督はしばしば障害者を画面に登場させるが、本作が最初だろうか。[映画館(邦画)] 8点(2013-03-01 12:31:29)

8.  有りがたうさん おそらくこれを初めて見たときは誰も、登場人物の喋りにびっくりすると思う。ゆっくりした棒読み。なんだこれは! そういう喋り方をする土地なのか、とオロオロしていると、上原謙や桑野通子もそう喋る。トーキー初期の録音技術では普通に喋ると言葉が聞き取れなくなるのか、と気を回す。いや、これより古い『隣の八重ちゃん』は普通に会話してた。呆然としながら考えた末に結論はただ一つ、監督の指示としか考えられない。そしてそう判断したころは、このリズムにこちらが合ってしまって、大変心地よい境地になっている。お年寄りが昔話を語っているような、宮沢賢治の世界のような。トーキー初期はこんな思い切った演出冒険も出来たのだ。子どもらはバスの後ろに飛びつき、女歌舞伎のお披露目と遭遇したり、桃源郷を思わせる。ところが描かれる内容は厳しい不況下の世情なのだ。226の年で、青年将校らを決起させた地方の娘の身売りが、上原謙に「葬儀運転手の方がよっぽどいい」とぼやかせるまでに、車内を重くしている。映画の結末は飛躍のある展開で作品の傷かとも思えたが、あのゆっくりとした喋りで世界が変容されていると、峠を越えることで善意が勝つんだ、と素直に受け入れてしまえた。この前々年に満州国が誕生し、五族協和と「仲良し」が強制的に偽装される時代になったが、本作では朝鮮人の苦衷がキチンと語られていた。まだ厳しい検閲はなかったのか、もし検閲官が見逃していたのなら「ありがとー」だ。車窓風景の映像史料としての価値は計り知れない。[CS・衛星(邦画)] 9点(2013-01-04 09:53:22)

9.  アイアン・メイズ/ピッツバーグの幻想 《ネタバレ》 日本人がハリウッドで監督するってのに、わざわざまた「藪の中」を使うのは芸がないと思ってたんだけど、そう気にならなかった。もう「羅生門」型ってジャンルがあるってことか。これではみんなが誰かをかばって藪の中になっている。しかもアメリカ映画ですから結論が出ます。人によって見方は違う、ということを経て相互理解への道はある、って。滅んでいく町の人間の目に映る嫌味な金持ちの日本。このころは経済摩擦が問題化していて、コメディではよく扱われたが、この手のミステリー風のにまで登場したか、と思わされ、けっこう現地の雰囲気を出してたんじゃないか、よく知らないけど。彼が作ろうとしていた遊園地より、廃工場のほうが魅力的に見える。[映画館(字幕)] 6点(2012-12-14 09:45:06)

10.  暗室 黄色が美しい。ローソクの灯だったりラストの夕焼けだったり、ドローンとした感じで浦山的でない色だと思うんだけど、終わりで強引に木村理恵が「姉」になってしまうとこが、浦山だなあ。木村理恵は『青春の門』の大竹しのぶの、さらには『キューポラのある街』の吉永小百合の末裔だろう。けっきょくこの監督は、娘さんをああいう田園に置いて明るい光の中で「姉」にしたいんだ。この監督は日本では珍しく前向きの人を描いても嫌味にならないという特技があるんだけど、それが徹底的に後ろ向きの吉行文学をやるというところに興味があった。で結論としては合わずに失敗だったと思うが、部分的には面白い効果になっていた。自分に子どもができることの恐怖を吉行はあくまで主人公の男の側から描くけど、浦山は女の側からの視点も加える。原作ではまったくの他者であった女が、映画では適度に主観を傾けられ得る存在になっている。葬式のあとの海辺で自殺の話をしてると、突如妻が走り抜けていくシーン。自分は絶望してても自殺しないが、そういう生き方があたりに死を振り撒いてしまうという逆説か。松村禎三の音楽、どこか尺八に通じていくようなフルートの低音の野太い響きがいい。[映画館(邦画)] 5点(2012-11-28 10:21:01)

11.  愛怨峡 これは彼の演出法がいちいち納得できた作品ということで、私にとっては記念すべき一本。室内で俯瞰にするのは人物(おもに男)の弱さや卑小さを強調し、また運命といった視点も導入できる。いさかいなどのシーンは、一つ奥の部屋でしていることが多い。一部屋遠くから撮る。俯瞰と同じような効果もあるが、さらに表情を隠す効果もある。剥き出しの表情を消せる。表情が急変するところをドラマチックに見せたくないという慎み深さ、そういうところを近づいて捉えては失礼だという意識もあったか。あるいは逆に、その人物にとっては大事件でも世間には大して関係ないよ、といった客観視とも取れる。芸人たちの小屋へ貰い子に出していた赤ん坊が帰ってくるところ、ワーッと仲間たちが囲んで、母と子の姿をカメラから隠してしまう。次にカメラが脇から捉えるときは、最初の出会いの瞬間の剥き出しの喜びは消え、穏やかな慈愛の表情になっている。こういう礼儀正しさが彼の演出法にはあるんではないか。しかしインテリ男に対する作者の目の厳しさは隠さない。都会に出りゃ何とかなると出てきて、しかし何も出来ないで、女のほうがしっかりしてて、けっきょく家長に絶対服従の駄目男。男に対する厳しさは剥き出しで描いているな。[映画館(邦画)] 8点(2012-09-29 10:02:31)

12.  青い山脈(1949) そりゃ観てて気恥ずかしくなるところはありますよ。でもその恥ずかしさも込めて、日本と民主主義の蜜月の空気が伝わってくるじゃありませんか。理想を単に空中に掲げるだけでなく、それを実現させていこうという熱気がみなぎっている。以後の学園ものだと、多くの生徒が簡単に熱血教師側につくのじゃないか。しかし本作の愛校精神を叫びヒステリックに泣く生徒にリアリティがある。旧弊な社会の陰湿さやそれに対する無力感に実感がある(これが当時の多くのGHQお墨付きの民主主義啓蒙映画と比べて、優れているところ。ただ上から与えられたテーマを語っているのではなく、本当に当人たちが新しく始めようと願っている)。それがあって初めて、それを越えようとする理想が歌えるんだな。自転車に乗って。自転車ってのがまたなぜか希望にふさわしい乗り物なんだ。引っかかるところはたくさんありますよ。理事会に送り込んだニセモノがばれそうになるのが、先生のプライバシーをほのめかしてチョンになるのは、良い筋運びとは思えないし、直接ボスには手が届いていないのもサッパリしない。にもかかわらず全篇を覆う民主主義への渇望にすっかり胸熱くなってしまった。当時の心性のドキュメンタリーになっている。若山セツ子がかわいいが(この時代ならこんなにも健康でいられたんだ)、演技賞ものは校長だね。[映画館(邦画)] 8点(2012-06-05 10:25:18)

13.  愛と希望の街(1959) 《ネタバレ》 後半、観客を次第に苛立たせていくあたり、もう「大島」である。この苛立ちが社会に対する新しい発見なわけ。階級のどうしようもない差を、小さな犯罪を通して、またそれを巡る倫理観の違いを通して認識させてくれる。少年のほうも、鳩を逃がしたほうが悪いんだ、と自分に言い聞かせなけばならない疚しさを持っていた。渡辺文雄も疚しさを持っている。「親父の家でごろごろしているのが、今から考えるとおかしいんですが、何か罪悪のような気がしましてね」。この「今から考えると…」ってところが重要だろう。社会の構造に対する疑問は階級の差を越えて誰もが意識するときがある。がブルジョワに属しているものにとっては頭の中だけのことになりがちで、その構造の秩序に則った考えが「普段」になっていく。そしてわずかに残る疚しさが「今から考えると…」と言わせているのだ。どうして好意を素直に受け取れないのかしら、という少女の側の無邪気さも、けっして嫌味になっていない。それだからこそラストの鳩撃ちがいっそう悲痛なのだ。悪人らしき悪人が一人もいないのに、不幸や苦痛は充満しており、人々の間の相互理解は阻まれ続ける。お前はブルジョワじゃないのか、と問い返されて娘が「正義の味方月光仮面」と逃げて答えているのは、『少年』での宇宙人に対する願望を予告しているよう。ブルジョワの枠の中での正義は同情以上のものではありえない、そういう構造外の正義を、この月光仮面に期待しているのだろう。当時であれば、それは「革命」ってことで分かりやすい結論だったが、今現在はもっと深く問い詰めていかなければならないはずだ。[映画館(邦画)] 7点(2012-05-02 12:23:26)

14.  アンモナイトのささやきを聞いた イメージが広がらないの。わざと広げないその閉塞感が狙いなのかな。アンモナイト・螺旋・円運動といったものに、本当はもっと「機械」が拮抗する予定だったんじゃないか。観覧車・時計仕掛けのアンモナイト、あるいはプラネタリウム・幻灯機といった光源など。それらが絡み合って膨らんでくれて、初めて夢幻的な世界を構築していくんじゃないの。そういうふうに「展開」する映画じゃないみたい。だとすると70分は長すぎる。段落ごとにタイトルを入れておくかしてくれてればまだしも。ハッとするイメージをわざと入れない、そのまどろむ感覚を持続するのが狙いなのかな。海の上を逆に撫でていく風。妹的な話って本当は好きなはずなんだけど。[映画館(邦画)] 4点(2012-03-19 10:38:08)

15.  圧殺の森 高崎経済大学闘争の記録 息苦しいこの映画でフッと息が抜けるのは、金子君が山歩きの靴はいて尾瀬に行くと言って仲間たちに呆れられるところ。このとき監督の目は、金子君に共感してはいなかったか。小川が描き続けることになったのは、人々が分かれていく酷薄さだった。一緒に戦っていた者たちが離れ、互いに非難し糾弾し合う残酷さみたいなものだった。『三里塚』でも、空港建設側に行った元村仲間に土をかけるようなシーンがあった。そういうときのカメラは微妙なタッチになる。「強圧的な権力に反対」というテーマに即して言えば糾弾する側に加わるべきかも知れないが、どこかでためらっている気配が感じられる。この金子君のシーンでも、呆れつつ「でもいい奴じゃないか」って思いも感じられるのだ。この金子君ってお父さんに説得されてた学生だよね。映画が息苦しく狭いところへ入り込んでいたとこで、息が抜けた。と言うより映画が膨らんだ。この学生たちに共感するでも非難するでもない場所が見えかけてくる。小川は「そうじゃない」と言うだろう。そういうドキュメンタリーの中立主義に反発した監督で、あくまで非権力の側に付いているんだ、って。でもこの金子君による世界の思わぬ拡張を、ドキュメンタリストとして待ち伏せてたってところもあるんじゃないか。新聞会の学生を追い詰めるところや、警備のおじさんをホールから締め出すところなんかも、迫害されてたはずの人間の集団が、やはり人間の集団の業を持ってしまうみたいな視点が感じられた。金子君はその集団の業から軽く離れている。夏休みの校舎に演説してて噴水がフッと弱まるところ、襟の汚れを丹念に追うカメラ。夏の暑さの感触がフィルムに染み渡っていた。その暑さの中で彼らが追い詰められていく・あるいは自分で追い詰めていく悲壮さ。権力の作為に乗せられて、というよりも、権力の意志に関わりなく、抵抗者が必然的にそう動かされていってしまうような気配があり、かえってそこに、大学当局や公安のレベルを超えた「権力」というものの気味悪さが感じられてくるのだ。そのとき金子君的な個人の振る舞いを生かす第三の道はなかったのか。[映画館(邦画)] 8点(2012-03-07 09:52:19)

16.  愛染かつら 総集編 《ネタバレ》 看護婦たちのシーンに女学生を思ったが、考えてみればこの時代、都会における未婚女性の集団ってのは女学校と病院ぐらいか(あと百貨店の店員?)。住み込み女工は地方の紡績工場だし、あと娼妓もあるが、ターゲットだった女性観客が見たがるものではない。都会で未婚女性たちがワイワイやるには、女学校か病院しか舞台がなかったのだ。しぜん看護婦たちのワイワイは女学生の集団に似通っていく。映画は都市部の女性たちを好んで描いた。一方に桑野通子のような「令嬢」がいて、一方に働く看護婦たちがいた。そこに「母一人子一人」という条件の女性を放り込んでみたわけで、それが当時の社会では相当な負い目だったことが分かる。戦前のメロドラマは徹底して「耐えて忍んで」生きる姿を取り上げていった。今から見るとじれったいんだが(誤解を積極的の解こうとはしない)、そういう形で芯の強さを見せるしかメロドラマの作法がなかったのだろう(でも引っ張ったわりには、誤解の解け方がなんというか、あまりにも…)。繰り返されるすれ違い、しかも場所は東京(新橋駅)、京都、熱海と観光名所をつなげていく。熱海が出てきたとこで、病院での演芸の貫一・お宮が思い出され、その男が女を蹴飛ばした場所柄が、しぜん上原と田中に重ね合わされる。どうしても総集編ってことでストーリーだけが浮いてしまい、映画としての味わいは乏しくなってしまった。二枚目の男女が幸福(もしくは死別)へ向けてヤキモキを続けていれな観客は満足したわけで、筋は大事でない。子どもがひょっこり上原に診察を受けたりして、きわどく接近・離反を繰り返していればいい。このあとさらに続いた続編・完結編では、上原が大陸へ出征し、前線慰問の歌手として渡った田中と中国でもすれ違い続けたらしい。もちろん大団円は愛染かつらの木の下でだ。[CS・衛星(邦画)] 5点(2012-02-14 09:49:46)

17.  阿賀に生きる 遠藤さんの感覚麻痺による火傷、おそらくこんなにも「水俣病的」映像から離れた地点で水俣病を生々しく感じられる映像はないだろう。怒りも叫びもない、淡々とした描写。暮らしや技術を破壊した近代がパッと眼前に大きく感じられる。映画のテーマの一つは技術の伝承でしょう。舟作りとカギ漁という川の生活の基本が軸になっている。生活とは技術なんだ、という小川紳介の流れが感じられる(小川が死んだ年の映画)。その技術の伝承を破壊した水銀中毒としての新潟水俣病。その伝承の断絶と対比されるように、老夫婦のいる光景ってのは安定している。同じ暮らしが未来へ延びていきそうもないことと、同じ暮らしが繰り返されていること。餅つきの加藤さんのとこ、囲炉裏端から席を譲らぬお婆さん。長谷川さんのとこで、喋りながらトロトロと寝入っていくとこ。風に敏感でないと舟が危ない、という自然と暮らしの関係。若干ナレーションが語りすぎるような気がしたが、そのぶんカギ漁のシーンは対岸からのロングで慎ましい。加藤さん夫婦が冗談で、首を絞めようか、というあたりに厳しさがにじむ。遠藤さんが舟作りを断念した絶望の深さもある。でも新しい舟を一つこしらえたことの希望の大きさ、この振幅の中に阿賀で暮らすということがスッポリ納まっているのだろう。監督佐藤真。[映画館(邦画)] 7点(2012-02-07 10:08:41)

18.  兄とその妹(1939) 《ネタバレ》 日本映画は「坊っちゃん」パターンが本当に好き。主人公佐分利信は曲がったことが嫌いで、姦計を弄する赤シャツ的河村黎吉がいて、碁がたきの重役坂本武がさしずめタヌキ校長、友人の笠智衆が山嵐って感じ。「曲がったことが嫌い」な主人公も、国策としての曲がったことには鈍感になってしまうところに、同時代に生きる者の限界がある。取ってつけたようなラストはどこまで作者の責任なのか、当局に強いられたものなのか分からない。最後に不意に植民地が浮かび上がるのは『隣の八重ちゃん』もそうだった。国策への迎合と言うより、家庭劇の狭さから飛躍したいという作者の平衡感覚かもしれない。兄と妹との気の遣い合いがテーマだけど、家庭の描写の自然さが素晴らしい。会話もそうだが、沈黙が自然に描かれる。普通のドラマだと「気まずさ」を表現してしまう長い沈黙も、この監督のテンポだと自然。だいたい普通の家庭の中ってドラマほどしゃべり詰めじゃない。別に気まずくなくっても黙ってる時間がある。そういう時間を描くのが一番難しいんじゃないか。それに成功している。健康な娘ってのもいいんだ。「おいしい」ではなく「うまい」と言う。ハイキングは、もしかするとこれが三人での最後の外出になるかも知れない、という予感が微妙な切なさを醸していたが、それをあっさり健康な妹の兄想いが凌駕してしまう(現実の桑野通子はあと十年も生きられなかった)。観終わって冒頭シーンを思い返すと(夜の帰路での背後の靴音)、会社勤めをしている者のけっこうモダンな心理描写だったわけだ。当時の機材での暗い路上の移動撮影は大変そう。だいたい夜のシーンってのは昼間撮影してそれを夜っぽく処理するもんだけど、これは本当に夕方くらいの暗い中で撮影してたみたい。違うかな。かつてスクリーンで観たとき、上原謙のキザな写真が出てきたとこで場内が大笑いになった。戦後得意とした二枚目半役はすでにこの頃からやってたんだ(もうこの時は小桜葉子と結婚していて桑野とのロマンスは上原が振った形で終わっていた、本作での桑野が上原を振る設定に特段の意図はないんだろうな)。[CS・衛星(邦画)] 7点(2012-01-21 10:29:51)

19.  悪人 《ネタバレ》 『告白』もそうだったけど、最近「へらへら生きる者」と「本気の者」の対比の映画が多いな。「本気」に生きる難しさ、って言うか(この二作に岡田将生はどちらにもトホホな役で出演していて偉い)。デートの後で金を渡され傷ついた深津絵里が車で送られたとき、「本気やったと、ダサかやろ」と呟く。「呟き」だけれどほとんど「叫び」であり、つい観ながら「そんなことない、そんなことない」と呼びかけてしまう。そのあと妻夫木君も洋服店を訪れ「本気やった」と告げる。「そうそう、それでいい」とこちらもうなずく。岡田将生一人がへらへら役を任されててちょっと気の毒なんだけど(あと松尾スズキの催眠商法男も、社会にタカを括っている点でへらへらに分類されるか)、彼に関する柄本明の「大切な人はおるか」のモノローグが流れ、それぞれの大切な人が描かれていくあたりはキュンとした。言ってみれば道徳演説で普段なら抵抗を感じるところだが、前に「ダサかやろ」で深津絵里に釘を刺されているので、ダサく感じることを許されない。全体、いろいろ引っかかりかけるところで、あのおずおずとした「ダサかやろ」が蘇ってきて、観ててへらへら小馬鹿に出来ないのだ。ずるい。映画としていいなと思ったとこは、妻夫木君が食事中に母親から警察が来たことを知らされるあたりの演出。ビクッとしたりオドオドしたりがなく、黙々と食ってていきなり吐くのがいい。あと深津絵里の店員としての客への応対。日常の倦怠感をことさら出さず、熟練さを見せて長くこの仕事をやってきた心の裏を感じさせる。この事件に外側から巻き込まれていく深津と柄本の仕事場に、どちらも鏡という世界を裏返しに見返す装置があるのは偶然か。[DVD(邦画)] 6点(2011-12-14 10:26:29)(良:1票)

20.  安城家の舞踏会 《ネタバレ》 『暖流』のころからモダンな監督だったが、これはもう思いっきりバタ臭く作っている。原節子の背中からスタートして、タバコのわっかの煙から森雅之に移ったり、女中がズンとピアノの上に座り込むショックなんかも効いている。ラストのピストルが滑ってってビール瓶に当たるとこなんかも。きっと「やりすぎ」なんだろうが、その「やりすぎ」に、これからは日本映画はこういうタッチになっていくんだ、というような気負いが感じられ、それなりに時代の気分の記録として味わえる(ドラマとしては型通りで、その時代の中に今いるという切実感がもひとつ感じられなかった)。それぞれの思惑が進行していって、結果すべての人のもとに明るい朝日が差し込むの。神田隆だったか「あっしは働いて働いてかせいだんでがすよ」と言うあたりは、そうだねえ、と思った。[映画館(邦画)] 7点(2011-08-04 12:15:48)

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