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【製作国 : 日本 抽出】 >> 製作国別レビュー統計
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1.  座頭市兇状旅 ライバル役棚倉の北城寿太郎って昔の大映映画でしばしばお目にかかるが、とくにこのころか、なんか三船の雰囲気をそっくり真似していてオリジナリティが出せなかった気の毒な役者さん、という印象。本人の狙いなのか、会社にそうしろと言われていたのか。階段のすれ違いでの殺気。初めて剣を合わせ、市の手に傷がつく、刀を収めた棚倉さんの同じところにも血がついている。せっかく市の弱点である鉄砲が出てきたのに中途半端な扱いになってしまったのが惜しい。村瀬幸子のお婆さんが手堅く、必ず凶行を導く祭りの夜ってのも間違ってない。[DVD(邦画)] 6点(2013-12-09 09:37:00)

2.  座頭市喧嘩旅 大映映画はときに知らない人が多くて寂しいことがある。藤村志保と吉田義夫ぐらいだったかな。藤原礼子いう人が改心する悪女になる。道中ものというか、娘を連れての逃避行もの。「信用されてなかったのが情けない」と座頭市がいう。座頭市はけっこう心が傷つきやすく、身体障害者の心理をときどきグッと突きつけてくる。大ヒットしたシリーズなのに、なかなかテレビでは放映されなかったのは、悪役が「このドメクラがっ」などと悪態をつくからだったろう。「この目の不自由な人がっ」では日本語になってない。そういう差別の実態がなくては成り立たない作品のはずだ。「ドメクラ」という言葉に気をつかうのが面倒くさくて盲目のヒーローを放映しない「事なかれ主義」のほうが、よほど差別的だったろう。[DVD(邦画)] 6点(2013-11-23 10:05:03)

3.  THE 有頂天ホテル こうキチンと娯楽を提供する能力を評価したい。大団円に至る心地よさ。「やり直す・生まれ変わる」といった取敢えずの前向きなテーマがあって、人間の出入りという映画自体のモチーフを上滑りさせない。この「取敢えずのテーマ」ってのが、映画の後味ではけっこう大事で、映画の味わいは「純粋」に煮詰めないほうがいいところもあるようだ。映画が芸術でありつつ娯楽であってきた来歴があるわけで、純粋に煮詰める派がある一方、娯楽を提供する職人でもあり続けてきた。そこらへんが「映画」の足腰の強さになってるのではないか。その二派がきれいに分離できないところがいいんだ、映画って。盗んだスチュワーデスの制服着てロビーをうろつくか、といった素朴な疑問を持ってもいい、伊東四朗・西田敏行がちゃんと使い切れていない、という不満を持ってもいい。それでも最後にニンマリできたら監督の勝ち。[DVD(邦画)] 7点(2013-11-08 09:48:40)(良:2票)

4.  櫻の園(1990) 「最後の夏」もの、ってのはあるけど、「最後の春」は珍しい。夏の終わりはもうそれだけで「抒情」なんだけど、春の終わりなんてすぐ次に生命力あふれる夏が来るんで、ほんとなら味わいないんだよね。でもつまりそこなんだな、まどろみの季節の終わり、あわあわとした気分がここで終わるということ、の気分。卒業の櫻じゃなくて、最後の一年が始まるところの櫻なんで、このゆとりが「最後の夏」ものにはない透明感ある味になった。部長中島ひろ子が良かった。こういう子、確実にいるんだけど、今までの青春ドラマではライトが当てられることがなかった。しっかり者であんまり目立たなくて、でも突然パーマかけてきちゃう。大袈裟に言えば「生きよう」と決意した子なんです。部長が実に新鮮だった。映画の最後は誰もいない部室に、部長が開けた窓から櫻の花びらが…。[映画館(邦画)] 8点(2013-05-12 09:25:03)

5.  さらば箱舟 黄色の鮮やかさ。全体のくすんだ色調の中で、ハッと目を引く。黄色とは、そもそも「黄昏」とか「黄泉の国」とか、日本では時間の終わりや死のイメージを含んで、淀んだドローンとした雰囲気を帯びがちなのに、この作品での死=黄色い花びらは、実に鮮やかなんだ。死者が明確に存在するのと同じ。監督の当時の心境の表われか。逃げつつ戻ってしまうというのは彼の生涯のモチーフで、共同体への愛憎が感じられる。記憶喪失のエピソードが一番いい。忘れてしまうことへの恐れがあり、忘れられてしまうことへの恐れもあり、その不安の中でかぼそく睦みあっているのが、なんと愛なんだな。今まで北方志向だったのが南方に向き、装飾性も控え目で、神話的なメロドラマを強調し、異質の手触りとなった。病をおして撮った映画ということで、とかく「遺言」的な見方をされたものだったが、監督はさらなる新境地を目指していたのかも知れない。[映画館(邦画)] 7点(2013-04-10 10:02:35)

6.  里見八犬伝(1983) 敵の城に乗り込んでからは、けっこう楽しめた。巻きものがひゅるひゅる飛ぶのも良かった。ただ薬師丸ひろ子はミスキャストだな。彼女がいて作られる映画なんだろうから企画のミス。お姫様役者じゃないんだ。人気が出た若い娘だとすぐお姫様って、せいぜい60年代までの発想じゃないか。真剣に叫ぶシーンが向かないんだ。彼女は「一途な少女」がいいんだけど、それが内に秘められてる感じが魅力なんで、その点けっこう陰性なの。澄明な冷たさ。そういうところを生かす企画を立てるべきじゃないか(と当時の感想)。終わりのほうで真田君の周りで刀持ってうろうろしてたところなんか、滑稽というか可哀想というか。[映画館(邦画)] 6点(2013-02-10 09:44:10)

7.  三等重役 まだ「戦後映画」の雰囲気がある。「封建的なものから民主的なものへ」の当時の底流が感じられ、社長シリーズの源流はけっこう社会的な視点もあったんだ。「会社を舞台にしたコメディ」にやがてなっていくのだけど、本作では「こういう角度から社会を見る」という観点も感じられた。公職追放された前社長は見るからに社長だが、いつか追放解除になるであろうまでの中継ぎとして据えられた河村黎吉は、貫禄がない。終盤で前社長の娘婿になった青年が「貫禄が違いますわねえ」と人々に噂されるのと対照的。そこらへんの中継ぎの悲哀(というほど大袈裟ではないけど)が、河村にピタリ合っていた。身に合わぬ肩書きを手にしてそれなりに嬉しく、東京支店の抜き打ち視察など意外とやるべきことをやり、そして独身所長の縁を取り持つ人情味もあり、ボーナス支給では細君連とサラリーマン連の不満を調整し、それほど無能ではないのに、やっぱり貫禄がない。それを笑うというより、共感・同情しているところに、映画の時代が感じられる。映画は明らかに前社長よりこの社長の肩を持っている。やがて日本は森繁社長が似合う高度成長にはいっていく。そして後世の私たちがその恩恵を受けているのは重々承知しているが、日本が河村社長の下で「貫禄はなくても堅実な三等国家」でゆく歴史も有り得たんだなあ、などと本作を見ながら思ってしまうのだ。[CS・衛星(邦画)] 6点(2012-12-08 09:34:55)

8.  細雪(1983) 市川崑は「女たちの帝国」とでも呼ぶしかない世界を好んで描いてきた。それの大映時代の代表作を『ぼんち』とするなら、東宝時代がこの『細雪』だろう。大映時代には『黒い十人の女』もあるし、東宝時代の『犬神家の一族』もその系譜だけどね。じゃれあう姉妹たちで閉じられた世界、夫たちも足を踏み入れられない聖域。雪子が溺愛するのも甥ではなく姪であり、女の血の流れだけで守られた上品な淫蕩さが支配する結界だ。この宇宙が崩壊していく物語なんだけど(いや、散り散りになっても決して崩壊しないという物語なのか)、あからさまな腐臭はたたせない。啓ぼんでさえ、変な言い方だが実に趣味よくすさんでいく。雪子の見合いの相手はどんどん落ちていき、妙子の相手の質も悪くなっていくのだが、そのことが蒔岡姉妹を汚せない、雪子の高貴さを高めるばかり。こういう不可思議な帝国を観客に納得させるのは、女優たちの力で、佐久間良子の三枚目ぎりぎりの「愛すべき人物」ぶりなんかが実にいい。最初キャスティングが発表になったとき、吉永小百合の雪子は違うだろ、と思ったが(現実の女優が雪子を演じるということ自体無理な話なのではあるが)、観てみると、なんか納得できる出来になっている。下手に雪子らしさを強調するとオカルト娘っぽくなっちゃうし、何も演じなければただの愚図になってしまう、その程度が良い。鮎男との見合いのあとフェイドアウトになるときの曖昧な表情。たしかに軽蔑があって、それを隠してもいないのだけど、棘がないというか、相手に向かっていない。相手にマゾヒスティックな悦びを与えてあげているような表情。蒔岡姉妹とはつまりこういう表情を作れる人なんだ、と得心させられる。「細雪」という作品の本質が一瞬であらわになった場面だった。「女性映画」と並んで崑で優れているのが「無内容な純粋娯楽作品」だと思ってるんだけど、それの大映時代の代表作が『雪之丞変化』、東宝時代の代表作が「金田一もの」。そういう私にとって、本作で「本家」とか「分家」とかの活字を画面に目にすると、あのシリーズを思い出しホロッとしたものでした。[映画館(邦画)] 9点(2012-08-01 09:58:38)

9.  魚からダイオキシン!!  内田裕也の魅力ってのは、ツッパッてる男をどこか醒めて戯画化してたとこにあったと思うんだけど、これマジになっちゃってる。マジメ男がイビツな社会の中でイビツになっていくってのが『水のないプール』や『十階のモスキート』のモチーフだった。クルド人コンサートをやろうとするマジメ男を、日本の営利だけのプロモーションシステムの中で浮かび上がらせる滑稽さで勝負できた題材なのに、主人公と内田とを重ねすぎちゃったんだろうか、いつもの距離を置いた笑いが出てこない。単純な男が単純でない社会を照射する、といういつもの姿になれず、変にマジメなぶん、社会も単純になってしまった。それで「割り切れる映画」になってしまった。前半の選挙ルポも、内側から見た面白味ってのが出せなかったのか。[映画館(邦画)] 4点(2012-07-27 10:14:52)

10.  さらば愛しき大地 《ネタバレ》 一度ヤクをやめようと思ったとき、家族が来て再び手を出してしまうとこ。周囲のものが「ちゃんとしてほしい」と実に控え目に望んでいるのだが、その控え目な期待が重荷になってしまう。ダンプというシェルターから出たとたん剥き出しになってしまう。ダンプがあの稲穂や森のざわめきから守ってくれていたのかも知れない(カメラの田村正毅は小川紳介作品で稲穂に熟練)。さらにヤクに溺れていく原因を消去法で詰めていくところ。子どもの死ではない、妻はしっかり生きている。家庭が悪いわけではない、弟はちゃんとやっている。性格の弱さではない、友人は溺れなかった(蟹江敬三が「みんなやってんだべ」「たいしたことないっぺ」とビクビクしながら言うとこが絶品)。最終的な結論は得られないが、この丹念な作業が、じわじわとネジを巻いていくように怖い。秋吉久美子の「何いじけてんのよ」って言葉も、煽ってくる。すべて被害妄想という一言で片づけられるものかもしれないが、ヤクとダンプに保護されずに生きていくということは、その剥き出しに放り出されることなんだ。家族とはダンプのシェルターなしで付き合わなければならない。日蝕の色調が素晴らしかった。蟹江家のびっことどもりは「金閣寺」のパロディなのかな。[映画館(邦画)] 8点(2012-05-15 10:07:05)

11.  サム・サフィ 《ネタバレ》 フツーであろうとすることへの冒険、ってモチーフは面白い。金銭的に追い詰められていない状況で、金のための仕事をしてみたい、なんてのはおそらく歴史始まって以来、庶民階級が初めて経験する心性だろう。家政婦とか役所とか、「地味」に挑戦していく。ここらへんをもっと徹底して描くべきでしょうな。彼女ももっと本気で挑戦すれば、別の面白さが出たはず。この「マジメごっこ」というゲームを、もっと真剣に遊んでほしかった。ま、その遊びもグズグズと出来なくなってしまうところが、ぬるい現代の表現なのかもしれないが。ラスト、妊娠・出産に話を着地されると、「女性のやっているフツーのことが偉大な事業だった」というすわり心地のいい結論に落ち着いてしまい、がっかり。オーレ・アッティカ嬢はベアトリス・ダルから影を取ったような女優さん。ロジー・デ・パロマ嬢の顔も見慣れてくると、最初ほどインパクトない。海鳥が屋根へ降りる影が、壁をスーッと上るとこ。[映画館(字幕)] 6点(2012-03-02 09:53:38)

12.  秋刀魚の味(1962) 《ネタバレ》 佐田啓二のアパートをロングで捉えたカットで、手前を小編成の電車がトコトコと通過していく。サイレント時代の斎藤達雄の家の前にもこんな車両がやたら往還していたなあ、などと思っていたら、あとで佐田宅から帰る岩下志麻が立った駅が東急池上線の石川台であった。このいくつか先に終点蒲田駅がある。松竹のサイレント時代の故郷だ。なるほど「小市民が暮らすのは蒲田」という配置は30年を置いても変わらなかったわけだ。もっともこちらの小市民はゴルフをたしなむまでになったが。あと今回気がついたことでは、最後のトリスバーのシーン。軍艦マーチが流れ、客の須賀不二男らが旧海軍を揶揄すると、笠智衆はムッとする表情を一瞬浮かべた。小津の登場人物は私的な場ではしばしばクサるが、公の場でこの手の不快を見せるのは珍しいのではないか。つい映画を観ていると忘れてしまいがちになるが、平山は艦長という帝国海軍のエリートだったわけだ。この映画に満ちている侘しさは、おもに娘の結婚や男やもめの孤独など家庭面から来るものだが、もっと若い時代にまつわる失意・小津が体験しつつもずっと正面からは触れようとしなかった戦争の影も、考える必要があるかもしれない。このバーに座る男は、妻に先立たれ・娘の恋を成就させてやれなかっただけでなく、今はからかいの対象にしかならない軍隊に若い時代をうずめてきたその徒労感(と若干の愛惜の情)も背負っているんだ。私は小津の映画が、そのすべてを肯定したくなるくらい大好きなのだが、音楽だけはどうにも我慢ならない。晩年の「秋」の三作にはどこか荒涼とした気配が感じられ、とりわけ遺作となった本作など東野英治郎への残酷な視線に容赦がなく、あのノーテンキな音楽がないとむごたらしさが前面に出過ぎてしまうからか、などと出来るだけ好意的に考えようとも思ってみるのだけど、もし音楽抜きのバージョンが存在したら迷わずそっちを選ぶ。[CS・衛星(邦画)] 8点(2011-11-05 12:23:54)(良:1票)

13.  サザエさん(1956) 《ネタバレ》 江利チエミのオテンバぶりがやたら懐かしかった。オテンバやって何かしくじって、脚の片方を後ろに曲げて、頭をてのひらで叩いて舌を出す、というような感じ。「おきゃん」ほどではないが「おてんば」も死語になりつつあるなあ。「気立てのいい娘」とか「おてんば娘」とかは、近隣の噂話の中から生まれてくる評判で、そういう近所付き合いの枠組みがなくなってきたことで、それらの言葉もなくなりつつあるんだろう。これまだマスオさんと結婚する前なので、大家族というほどではないが、下宿人としてノリスケさん(仲代達矢だぜ!)がいたりして、現在の一般家庭よりは大人数。この昭和31年でこの構成員数が平均以上なのか以下なのかはっきりとは分からないが、核家族化へ向かう過渡期のころで、ある人たちにとっては自分たちの家族のように親しめ、また都会生活する若夫婦にとっては、失われた懐かしい家庭風景に見られたんだろう(サザエさんちは成城だった)。家族会議のシーンには、戦後十年たった民主主義に対する照れくささみたいなものを感じた。ビルの脇の自転車留めが懐かしかった。アチャコとのデパート内での不条理なオッカケ、金語楼の「耳が遠いのは家内です」いうギャグ、森川信の女装する探偵所長など、喜劇人がゲスト出演で賑やかにする。ラスト、ダークダックスの御用聞きも上がり込んできて、みんなが手をつないでジングルベルを歌いながらぐるぐる回りだしたときは、なんだかわからないけど、胸がいっぱいになっちゃった(ルネ・クレールかフェリーニか)。さてこれは、フィルムセンターの「亡き映画人をしのんで」の時、江利チエミ追悼で上映されたんだけど、最初に清川虹子が江利チエミのお父さんとちょっと挨拶があってシミジミした気分で観始めたの。で、映画が終わったとき場内で一緒に観賞していた清川虹子を見たら、もう号泣しちゃってて満足に歩けず、お父さんに支えられて出ていった。なんかコメディを観賞するにはすごくシミジミし過ぎる状況だった。[映画館(邦画)] 6点(2011-04-17 12:09:29)

14.  沙耶のいる透視図 《ネタバレ》 あの土屋君てのは、良くないんじゃないか。あれはもっと普通の人っぽいのを据えといたほうが効いてくるんじゃないか。名高君もあまり適役とは言えない。「ビョーキ」と「健全」で、きれいに分かれちゃってる。最初っから病気っぽい病気なんて、あんまり興味湧かない。ものを食べてるところを他人に見られると吐いちゃう、なんてとこは具体的でいいんだけど、その彼女が軽い分裂病だったなんてことになっちゃうと、急に話が狭くなる。夕方、加賀まりこの母親がドロッと融けたようになってるシーンなんかは、ちと良かった。ラストの屋上シーンの土屋君も、しゃべらずにただドロドロッととろけてるようなとこは良かったんだけど。落下シーンは、ギャグにならないかと心配したが、スローモーションでけっこうちゃんとなってたな。でも繰り返さないでも良かった。病んでるなあとは思うけど、だからどうなんだと言い返したくなる映画。沙耶嬢は激さないところはいい。[映画館(邦画)] 5点(2010-11-25 10:06:28)

15.  サマーウォーズ 《ネタバレ》 高校生と原発危機、高校野球長野予選とペンタゴン、が同列に扱われる世界を、受け入れられるか否かが分かれ目でしょうな。あるいはワビスケさんが製作者と分かったときに、つまずくかつまずかないか。こういうのに慣れてないもんで私は若干つまずいたが、話の設定としてこれからはそういうのもアリか、と古い世代の者としては最近寛大になっている。というか、その同列性こそがバーチャルな世界の特徴なんだろう。だからこれ、現実とバーチャルな世界との争いを描いてはいるけど、土俵はもう最初からあっち側にあるのだ。現実の側の描写では、夏の早朝の光の変化が丁寧に描かれ、仮想空間では、ノッペリした白色の中で小さな色たちが飛び交う。どちらもアニメならではの美しさ。ワルモンを城郭に閉じ込めたものの、しかし巨大化してそれを破って出てくるあたりが見どころ。なんか『ファンタジア』の「はげ山の一夜」を連想する姿だが、黒を構成する小さな部分がモゾモゾ動いているのがミソ。最先端の電脳戦争で、花札勝負になるってユーモア。ただ、せっかくあそこで世界の個人個人からの支援を受けたのに、最後は一族の結束(妾の子も含む)で締めるってのは後退じゃないか。「個人たちによる明るい連帯」に突き抜けられそうなところを、「デジタル-孤独-暗い」と「アナログ-家族-明朗」のステレオタイプな対比に戻ってしまったような感じ。[DVD(邦画)] 6点(2010-10-30 10:22:26)(良:1票)

16.  残菊物語(1939) 最初は溝口って、まだるっこしくって苦手だった。もっぱら画面の美しさや長回しの楽しさを見てた。黒澤や小津みたいにストレートには熱狂できなかった。でこれが転換点だったな。やってることは新派の男女悲劇なんだけど、その男女の関係が違って見えた。名古屋のシーン、簾越しに見守る友人、奈落で祈るお徳さん。陰影の凄味も効いてるんだけど、この舞台上の菊之助とそれを下で支える女の情念の関係、「一歩下がって陰で支える女の道」ってモロ新派的なところだが、男が地下の女に支配されているとも見えたんだ。芸術家と批評家の関係でもあったんだけど、それよりもケモノと調教師に思えた。そうしたら、今まで観てきた溝口作品の多くも、調教師とケモノの物語に思えてきて、突然溝口作品がスーッと心に沁み込んできた(まあ溝口の男はケモノってほど猛々しくはないんだけど)。世間とか社会に対する調教師とケモノコンビの意地の物語。古めかしい女と男の物語でありつつ、その二人が一緒に世間と戦ってる能動的な物語にも見えてくる。これが一体になっている。本作のラスト、男の出世のために身をひく、と同時に、もう調教師は必要なくなった、という厳しい自己認識が女にある。以前の下宿を再訪するシーンの美しさは、その厳しさもあってノスタルジーがより磨かれているんじゃないか。[映画館(邦画)] 8点(2010-05-21 10:16:49)

17.  三里塚・五月の空 里のかよい路 前作『辺田部落』で、農民の暮らしそのものの記録にたどり着き、生活と労働とが互いを削りあっている不幸な近代(その象徴としての飛行場)を発見した小川は、その後「技術としての農業」を追って山形県に移り住む。彼が知ろうとしたのは手触りとして感じ取ることのできる「農業の楽しさ」であり、それが日本の「農業の衰滅」と同時進行で記録されていったところに、小川の後期作品群の凄味がある。『牧野物語・養蚕編』は、静かに養蚕の技術を追った記録で、何のイデオロギーも叫ばれていず、どう手間を掛けるとどういう効果があってそれが作り手にはどう楽しいか、ということを丹念に描いていくだけなのだが、かつて国の柱ともてはやされ、やがて見捨てられていった産業としての養蚕の歴史に思いを馳せないわけには行かない。で、これ、三里塚シリーズ7作目にして最終作。夏と冬の印象が強かったシリーズの最後は初夏である。描かれている内容は爽やかでもないのだけれど、気分として、ここには同じ農業をしているもの同士が久しぶりに再会した爽やかさのようなものを感じてしまう。あの鉄塔が倒される。田植えを中断して眺める農民たち。無念な気持ちはあるだろうけど、どこか超然とした気持ちもあるのではないか。すごく不謹慎な連想だとは思うが、なんとなくこの初夏の空気にふさわしいピクニックの気分すら感じられるのだ。機動隊によるガス弾の水平撃ちによって犠牲者が出る事件も起こる。しかし小川が一番心配するのは、そのガスが農作物にどのような害を及ぼしているか、ということだ。あるいは低空飛行する報道のヘリコプターの風圧がいかにスイカを傷めているかだ(思えばこのシリーズの一番最初のシーンは、機動隊によって踏み割られたスイカだった)。彼の関心は農業者としての興味に絞られていく。農業者ほど季節に敏感でなければならない者もないだろう。シリーズの最後に、さわやかな新緑の季節が置かれたのは悪くない。農業のスタートの季節。次の発芽に向けられた希望を、厳しい状況のなかからもかすかに感じたいという願いが、観客の中にも生まれてきてしまっているからだ。[映画館(邦画)] 7点(2010-01-23 12:06:56)

18.  三里塚・岩山に鉄塔が出来た この第5作は、シリーズの要をなす二本の大作にはさまれた地味な作品だが、小川の作品群を並べてみたとき、一つの曲がり角になる貴重な映画になっていると思う。この映画は一種のネガだ。滑走路を使えなくさせるための鉄塔を建てる、その技能を感嘆しながら記録したドキュメントで、だから本作で意識されるのは、ポッカリと中心に空洞ができたかのように感じられる農業技術の不在なのだ。今まで土地に根差し下へ下へと向いていた反対闘争のエネルギーが、ここで上を向く。大地の上で戦えなくなった農民たちが空中に鉄塔を目指すとき、今まで蓄積してきた技術はほとんど役に立たない。支援の若い棟梁に任せるしかない。農民はワイヤーを固定する作業でしか土と接することができないのだ。最初のほうに集会の場面がある。航空法に違反する鉄塔建てるとかえって当局に手を出しやすくさせてしまうのではないか、という考えが出ての論議。そのなかで青年行動隊の一人が、そんなことになるんだったら俺は何で今まで危ない思いして鉄塔作り手伝ってたんだよ、と泣き出しながら怒り出す。さかんに、バカヤロー、と繰り返しながら、しかし憤懣をうまく表現し切れずに苛立つ。このシーンは印象深い。この鬱屈を包む仲間の農民たちも、重い沈黙でどこか彼の気分に共鳴しているところがあるのだ。鉄塔が最後の抵抗であることは分かるが、そういう手段に漠然と感じる違和感、自分たちの生活と異なる場に移ってしまった反対運動の手応えの不確かさ。しかしそれに替わるものが何も見当たらない…。この農民と対照的にカメラが生き生きと追うのは、鉄塔を建てているトビの若者たちだ。自分たちの技能をフルに生かして何かを作り上げることの充足感。小川はこの対比を的確に捉えた。小川の労働観が明確に見えた最初の作品として、本作は位置づけられよう。やがて、そのように働く喜びを奪われてしまった人々のルポとして『どっこい!人間節』(編集)が作られ、そのように働く喜びを理想的に生み出している記録として『クリーンセンター訪問記』が撮影されていく。それにしても本作、鉄塔からの撮影は大変だったのではないか。観ていて足がすくむ。こんなにも高く、こんなにも農地から離れたところまで来てしまったのか、という感慨があるからだろう。[映画館(邦画)] 8点(2010-01-22 12:18:22)

19.  三里塚・第二砦の人々 シリーズ4作目。前々作のラストは、農民が要塞を掘るその穴掘りシーンだった。彼らが土に帰っていく・土に沈んでいくといったちょっと現実を離れた寓話的イメージがあり、その掘り進めている土の壁に延びていた植物の根のアップが印象深い。で本作に至って根のモチーフは大きく膨らみ、農民が掘り進めていく抵抗の根としての地下壕のイメージにつながっていく。あくまで散文的な記録性を保持しながらイメージが豊かに広がっていく。おそらくスペクタクルとしての迫力はシリーズ屈指だろう。野外戦の興奮。権力の横暴といった理屈以前の、その場の高揚がフィルムを覆ってしまっている。農婦二人が自分たちを鎖で縛り合わせているところをじっくり写していたカメラがぐるりと振り返ると、タイヤを燃やす黒煙がもうもうと立ち込め、坂を下ってくる機動隊や、回り込んでいく学生たちが激しくうねっている。そこにかぶさってくるヘリコプターの騒音、拡声器の割れ声、耳をつんざく笛の響き、とにかく映画はその場を実感させ、体験させる。バリケードの隙間から火炎瓶を投げるタイミングをうかがっている学生など、へんに生々しい。またユーモラスなシーンも活きている。シリーズ常連の柳川のオバチャンが、自分の作戦を語るところ。「ベターッともうダメになったふりしててよ、あのジジイ(公団職員)が来たらよ、縛ったふりしてたこん鎖でもって殴ってやんだ」。緊張したところでふっと息を抜かせ、少し画面に近づき過ぎてしまっていた観客の気持ちを、微調整する働きがこういうシーンにはある。しかし本作の重要さは、農民が自分たちの手応えの分かる形で抵抗しようとしているところにあると思う。火炎瓶などといった今までの暮らしと無縁なものは学生にまかせ、自分を木に縛り付けたり、土に穴を掘ったり、彼らが一番手応えの分かっているもののそばに戻っていく。そのときに彼らが浮かべるちょっと晴れがましい表情。換気口つきの地下壕を作り上げた農民の照れくさそうな自慢げな笑顔。自分の技術を生かして何かを作り上げる楽しさ。三里塚で起こっていることは、単に土地を巡る争いなのではなく、農民から農業技術を生かして働く楽しみを奪うことなのだ。それはここ三里塚で密度濃く現われてはいるが、日本全国で緩慢に進行している農業の死という問題にほかならず、小川は以後に続く重要なテーマにたどり着いたわけである。[映画館(邦画)] 10点(2010-01-21 12:16:52)

20.  三里塚・第三次強制測量阻止斗争 シリーズ3作目。闘争の現場に徹した1時間に満たないニュースフィルムに近い作品だが、気を張っている顔が画面に溢れている点では、シリーズ中、一二を争うだろう。その気を張っているのも、自信でそうなっているのではなく、不安に追い立てられてなのだ。自分たちが農民でいられなくなるかも知れないという不安。そのとき彼らは、土のほうへ土のほうへと体を投げ出していく。地面に座り込み、測量のために打たれる杭に身を投じる。糞尿の入ったビニール袋を手にして。戸村委員長が機動隊が行なった横暴について演説するときの「おまんこ」と言う発音の滑らかさ、ごく自然に座り込みに加わる妊婦、そしてこの糞尿弾。この短い映画に次々と現われてくる素材が、「百姓」の生活がいかに生命の「第一義」的なものと密着しているかを示していく。彼らの不安は、その密着から引き剥がされるという生理的な次元にまで至っているのではないか。そういう生命の「第一義」的な面を隠蔽していくのが清潔な近代社会だった。それはそのまま第三次産業が第一次産業を埋め隠していく戦後史とパラレルである。この三里塚で反乱を見せたのは、その隠されていたものたちだったと言えるだろう。無理を重ねた近代がいつか剥き出しにしなければならなかった不安である。人がそのように不意に歴史と向かい合わされたとき、どのように気を張った顔を見せるのか、このフィルムはその記録であるとも言えるようだ。[映画館(邦画)] 7点(2010-01-20 12:07:58)

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