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【製作国 : 日本 抽出】 >> 製作国別レビュー統計
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1.  どっちもどっち 松田聖子は喜劇やれる人じゃないんだ。とりわけはしゃぐシーンは、バラエティ番組のおふざけコントになってしまい無惨。沢口靖子は、お嬢さんでかまわない役どころだけど、やり直しが利くと思っていた若さで不意に死んじゃって、その恨みを多食で晴らすというやりがいのある設定なのに、惜しい。なら代わりに誰が出来るか、となると、ま難しいんですけど(当時の日記には、もう少し若ければ石田えりあたりでどうか、と記している)。各種スポーツ中継をめぐる趣向。飛んでるときの東京の夜景が美しい。沢口靖子がさんまの部屋で、でぶでぶと言うとこがおかしい。隣室の夫婦はただ目撃するだけじゃなくて、もっと積極的に関わってきてもよかったんじゃないか。[映画館(邦画)] 5点(2014-01-08 08:48:04)

2.  東京流れ者 小津映画の同窓会メンバーの常連、北龍二がやくざの親分だ。ただし気が弱い。そういえばあっちでも若い細君を気にしすぎてたりして、そんなキャラクターだった。異様に清潔なセット。原色で。この監督の、というか美術の木村威夫の好みを表わすのに、「ステージ性」って言葉はどうか。活劇のステージとしての簡潔な清潔さ。日本の家屋でも格子などが強調されていて、演歌の舞台背景のようになっている。佐世保のドンチャン騒ぎでも、どこかステージ性が意識されている。この人のセットの特徴として「ステージっぽさ」という言葉を当てはめてみた。本来記録するものだったフィルムに、舞台の不自然さを強引に持ち込んでみた、ということか。[DVD(邦画)] 7点(2014-01-05 09:52:49)

3.  東京オリンピック これはいろんなカメラマンが撮影したものを編集したそうだから、画づらに監督のタッチを見てもあんまり意味はないかもしれないが、聖火リレーのときの屋根瓦の構図はあれはどう見ても崑タッチだよね。800mをずっと回しながらワンカットで捉えたのもいい。とにかくスポーツ競技の結果への「興味のなさ」がよく、試合前の選手の表情や敗者の表情など、スポーツをする人間そのものへの興味に絞られているのが潔い。自転車競技の八王子あたりの牧歌的な風景、マラソンの甲州街道沿道も貴重な記録だろう。開会式はこのころはまだ簡素なものだった。これ以後テレビの時代になって記録映画というものも次第に意味をなさなくなり作られなくなったかわりに、式は次第にテレビ向きのウルサイものになっていってしまった。まだオリンピックが「スポーツの祭典」でしかなかった良き時代の記録にもなっているだろう。[DVD(邦画)] 8点(2013-10-12 09:21:59)(良:1票)

4.  道成寺(1976) これより前に『鬼』という作品があり、こちらの習作の感じ。繁みの中を歩いていくとき、太棹三味線に合わせたり、人形浄瑠璃のノリ。画面の手前に金粉散らしたりしてるのはガラス越しに撮ってるのか。同じように物狂いに至る女の話だが、まだ「日本的な美」に寄りかかったものを感じた。しかしこちら『道成寺』はそういう日本的なものを使いながらも、それを越えられたという気がする。たしかに絵巻物風の構図はあるが、清姫が日高川に飛び込んで波に炎がチラつき出すあたりのリズムは人形浄瑠璃ではなく「映画」だ。ベッタリとした平面で蛇が鐘へ向かう図も面白い。情熱を抑えに抑えている気配が生きてくる。おそらく監督ピークの作品。[映画館(邦画)] 8点(2013-05-17 09:42:42)

5.  どっこい生きてる 河原崎長十郎は映画俳優としてさしてうまい人じゃないと思うんだけど、その不器用さが主人公の不器用さと重なって面白い効果になっていた。ボーッとした表情。一番いいのは仲間のカンパを盗まれちゃって飯田蝶子にやりこめられるとこ。カンパシーンはややしらけたが、ちゃんと理想だけではない厚みを描いたのね。そして飯田蝶子の、優しさと厳しさを合わせ持つうまさ。「こんなことだろうと思ってた」と仲間に呟かれるつらさ。理想を謳うだけじゃなく、たえず現実とのギャップを提示している。だからといってどうすればいいという案はないのだが、声援を送る姿勢だけは続けようという決意を感じる。ラストの子を助けるシーンは、社会の問題をこういう形で結論づけてしまってはいけないだろうとは思いつつ、けっこう感動してしまった。ブランコをこぎまくる部分の怖さ・やりきれなさが出てるからいいんでしょうね。ロケシーンに時代の空気が匂い立っている。イタリアのネオリアリズムに触発されたのはアリアリだが、こなれているし、戦前からこういった路線は日本にも『綴方教室』などあったはずだ。[映画館(邦画)] 7点(2012-11-10 09:44:10)

6.  東京キッド サトウ・ハチローがゲテモノと評した子どものころの美空ひばりのゲテモノぶりが如実に味わえる。「おばちゃん、死んじゃいや」と泣きじゃくるあたりや、「さんちゃん、おじちゃん」と粘っこく川田晴久をを探し求めるあたり。だいたい「達者な子役」ってのは総じて気持ち悪いものだが、彼女の場合、それが煮詰まっている。このベトベトした気持ち悪さは「悲しい酒」のようなしみじみした歌や、「柔」や晩年の“人生の応援歌”ものなどの底にも生き続けていた気がする。だから彼女の歌で好きなのはそういうベトベトがない「お祭りマンボ」などのコミックソングだ(「車屋さん」も入れてもいいかもしれない、あと『七変化狸御殿』の中で歌ってた「日和下駄」ってのもいいの)。しかしちょっと前まで戦争協力の歌を量産していたサトウ・ハチローにどうこう言われたくない、という思いはひばり側にあっただろし、ゲテモノとして簡単に片づけてしまえる存在でもなかった。時代がゲテモノを要請していたのか、それとも日本文化の根っこにゲテモノ的なものが存在しているのか、そんなことを考えさせられる彼女の媚態ではあった(歌舞伎の子役ってのも、だいたいこういう哀れさ・けなげさを強調する役だが、あちらではわざとゆっくりとした棒読みをさせ、様式に閉じ込めてリアルにしない工夫がある)。終盤のアチャコが身の上を語る長ゼリフは、フレーム外の膝元のカンニングペーパーをしっかり読んでたな。[CS・衛星(邦画)] 5点(2012-10-03 10:01:11)

7.  東京裁判 ドキュメンタリーの興奮は感じられないが、ホンモノなんだなあ、と有名人たちを眺める感動はある。大川周明に頭叩かれた後の、東条さんの表情なんか良かった。広田弘毅が傍聴席を見上げるシーンは、ちょっとジーンとしてしまう。東条さんの「陛下の忠良な臣」としての発言が天皇の立場を危うくしていくあたりも、あの時代の愚かしさが凝縮して感じられる。しかし全体として茶番っぽい。戦場から遠く離れてしまってると言うか、抽象の出来事を抽象で処理している感じ。この戦争のタテマエ的な「あちら」の部分を「あちら」で裁いているだけで、現実の死が満ちていたアジアの諸地域や南の島や空襲下の日本など「こちら」の悲惨とはあまりにもかけ離れてしまっている、というシラけた感じ。ぜんぜん死臭が漂ってこない。裁判ってのはつまりこういうことなんだ、ということは納得できた。不完全な人間が不完全な人間を裁くことの無理。弁護側と検事側のゲームのような駆け引きに、いい気なものだと思わされる。国という単位を脱して、「こちら」連合が「あちら」連合を訴える裁判はできないものか、という夢を持ってもみるが、「こちら」だってそう罪がなかったわけではなく、「あちら」を弱腰だと煽ったりけしかけたりした歴史が厳として存在したわけで…。などとネチネチ考え込まされ、そういうものを導くのもドキュメンタリー映画の成果ではあろう。[映画館(邦画)] 7点(2012-08-28 10:11:59)

8.  時をかける少女(1983) 《ネタバレ》 けっきょく最初スキーを持ってなかったってのがヒントなのね。画面の中央に丸く色がついていく。ラベンダーの匂いをかいだときは、逆に中央だけ色が抜け落ちる設定。途中で色がサーッとひいていく切なさがいい。ラストはいろいろ解釈できる。深町君への思いが深いところに残っていて、吾朗ちゃんと結ばれずにいる、ってのか、あるいは再び深町君と結ばれる可能性を与えているのか(そうじゃないな)、深町君と吾朗ちゃんは理想と現実と思うべきか(一度何らかの純粋を志向する夢を持ってしまった者は現実とうまくやり合っていけなくなるってのか)。老いた上原謙と入江たか子のシーンが必要以上に長くインサートされているのも、ヒロインとの対比なのか。諦めた者と諦めない者と。それらをひっくるめて、青春の切なさなんです。演出としては、花壇の中からフラスコが倒れるとことか、深町君が原田知世の頬にマンガン(?)をなでつけるとこなんか、ハッとした。でも一番嬉しいのは、倒れていたのが起き上がって歌いだす驚き。いちいちのシーンのときに少しずつ撮りだめしてたんだろうな。[映画館(邦画)] 7点(2012-08-20 10:10:45)(良:1票)

9.  独立愚連隊 連隊仲間で酒を回し飲みしながら会話を進めるあたりなどに、岡本監督のリズム感がうかがえるが、もひとつ快調でないのは、彼の終生のテーマである「戦争」に初めて挑んだその距離感をどうすればいいのかという迷いがあったのだろうか。活劇映画としての戦争映画を作るのは簡単で、それにコミカルな味を加えるのもそれほど難しくはないだろう(『人間の条件』と同時代にやったのは立派)。しかしそれだけでは済ましたくないという思いが監督にはあって、そのモヤモヤがやがて『日本のいちばん長い日』や『肉弾』を生み出していくわけだけど、その始まりの一本として、どう手をつけていいのかという困惑のほうが感じられた。本当に「豪放」なのか、「豪放」というパロディを演じているのか、佐藤允の怪演の勢いに乗せて強引に押し切った作品という印象。戦場を描くには、こういった装いが必要なほど愚劣なところなんだ、という作者の困惑の果ての一手だったという気もする。岡本監督の常連中谷一郎がすでにいい味、これが初顔合わせなのかな。[CS・衛星(邦画)] 6点(2012-07-10 09:53:57)

10.  東京五人男 その後の復興なった歴史を知っている者から見ると、焼け跡の風景に爽やかな解放を感じられるが、当時まだ前途真暗だっただろうから、ここに描かれる未来への希望は必死なものだったんだろう。それをコメディとして提示したとこに、庶民の底力への信頼が感じられる。中心になっているのは、不正を憎む素朴な正義感ね。ちょっと前まで異常な正義の時代が続いていて、「正義」に対する拒否反応や疑心暗鬼があってもおかしくないのに、とても健全に「正義」を信じている。というか、あの狂った正義の時代を越えて、最後にこういう素朴な正義があらゆる倫理の基礎になるべきだ、という考えに至ったんでしょうなあ。満員と行列に代表される世相描写も、同時代ゆえの手応えがある。強欲農家のシーンなどシュールな味わい。部屋の間の壁がひっくり返るようなドタバタもある。私の場合、戦後のイメージはもっぱら黒澤映画のギラギラとした世界で形作られてきたが、こういう爽やかな戦後風景もいっぱいあったんだなあと、新鮮だった。[映画館(邦画)] 7点(2012-04-23 10:24:49)

11.  遠き落日 《ネタバレ》 差別用語とされる「てんぼう」という言葉をちゃんと使ってたことは褒めましょう。文久三年(1863)に尾羽嬢だったシカが明治元年(1868)にはもう三田佳子になってるのには驚いた。中盤のちゃっかりと手術費用を捻出するとこ、餞別をもらい回るとこ、山本圭のとこに強引に乗り込むあたりなどに「人間野口」が感じられかけるとこは若干あるんだけど、やっぱり偉人伝ものの枠からは抜け出せなかった。母の手紙が映画のキモで、このころはまだ有名ではなかったのではないかな。東西南北を読み込む中国の文章の伝統が、こういう僻村にまで及んでいることに驚かされる。母との再会のとき、左手の手袋は脱いでるの。ついにオッカアに「こんな手にしたのはおめえじゃねえか」と言ってしまった後の愁嘆場はモロ「日本映画」でしたなあ。牧瀬里穂の無理なフケメイクがなくてホッとした。[映画館(邦画)] 5点(2012-03-15 12:31:04)

12.  どっこい! 人間節-寿・自由労働者の街 《ネタバレ》 題名だけ見ると、なんか「貧しくてもオレたちゃ自由だ」ってな威勢のいい人間群像を予想してしまうが、違って冒頭から合同葬儀、全編死の影が覆っている。身近にナマナマしく死を意識しながら生きている人々。田中豊さんの回顧談から。靴磨きや盗んだ雨合羽を売ったりした話。「柴田と少年院にいたころ…、柴田だよ、巨人の…」なんて言ってた豊さんが脳出血で行き倒れになって冒頭の葬儀になったわけ。松葉杖を見つけてきてやった久保さんは「俺が殺したようなもんだ」と自責の念を募らせているし(この人ちょっと理屈屋)、隠居役みたいな人もいるし、いろいろ個性が出ている。寿町に筋ジストロフィーの人もいるのには驚いた。いつかいい世が来るだろうが、それを俺は見られないのが残念、とちょっと芝居がかっているが、そういう思いを支えにしてるんだろう。アル中と戦っている鈴木さん(平凡な名前が多いのは本名を変えているのかもしれない)が、ぼそっと「怖い」と呟く。その孤絶の凄味。カメラは窓の外の夕暮れの町を見回してからまた彼に戻ってくる。彼の孤独が町につながらないながらも、響いていくような不思議な感覚。彼がそれでも何とかアル中を治そうと思った力はどこから湧いてきたのか。なんとなく「町に逃げ込んできた人々」という印象を持っていたが、やっぱり追い詰められて仕方なく来たのかも知れない。「不思議と景気がよくなると寿町の人間も増えるんだ」という。やくざ関係っぽい黒須さんもいい。ちょっと緊張しててインタビューに答えるときはいちいちマイクを奪ってしゃべる。小川映画ではお得意の討論シーンがこれにもある(小川は編集を担当)。絶対非暴力の朝鮮人にジョーが食ってかかって久保さんが中に入ったり。この人たちを見ていると、市民社会では隠されていたものが露出している感じ。タテマエとホンネを使い分けるのが市民社会の文化だが、ここにはそれがない。ホンネだけだって言うんじゃなく、一緒くたになってる。噛みあってる感じ。タテマエはタテマエで突き進んでいつのまにかホンネに成り代わってると言うか。最後に、強盗に襲われて年末年始をここでしのいだ人が感激してお礼に指を詰めましょうって来たエピソード。けっして景気のいい映画ではないが、人間展覧会としての豊かさに希望を見たくなる。[映画館(邦画)] 8点(2012-02-25 10:05:06)

13.  富江 アンリミテッド 《ネタバレ》 シリーズ八作目・末広がりの今回は、ホームドラマで始まって学園ものに移行し、再び家庭に戻って最後は社会に出てオチを付ける、という波瀾万丈。まあいつもの「富江」パターンで、それぞれは閉じた世界の中で異常を異常とも感じさせず血みどろやってるだけなんだけど、なんか久しぶりだったせいもあるのかなあ、終盤の畳み込みはけっこう嬉しかった。放課後の校舎を首なし女生徒がバタバタと駆け回る賑わい、ムカデ人間と化した富江が壁や天井を這い回るゾワゾワ感(今回は本当に富江が増殖するの、ムカデになったり弁当箱の中で)。包丁でグサグサやるのは現実感なく平気だけど、ハサミで上唇切ろうとするのはコタえた。この監督はセーラー服出すとやはり生き生きしてくる、女性の口に何かが突っ込まれるシーンも昔から好きだし。あと風呂場での解体シーンはシリーズの旧作を思い出して懐かしかった。何より驚いたのは製作者が「富江とは何ぞや」というテーマのようなものを考えていることで、主人公月子(富江の妹)のコンプレックスってのがモチーフになっている。人に嫌われないよう地味に地味に生きてきた彼女が、終盤に先輩や友だちに「おまえなんかなんとも思ってなかったよ」とののしられ、常に憧れの対象だった姉富江に憑依されて世間へ出て行く。彼女は「誰かに必要とされる特別な存在」の富江としてエンディングを迎えることになる。うーん、「作者の言いたいこと」、テーマってヤツだよ、これは。「現代人の孤独」と言うか。コンプレックスと共に生きることが出来なかった月子の物語。たとえばアカデミー作品賞を獲った、コンプレックスと共に生きることを選んだ英国王の物語と対になるよ、これは![DVD(邦画)] 5点(2011-12-19 10:23:07)

14.  泥の河 一番ジーンとしたシーンは、姉弟が初めてうどん屋を訪れたとこ。大人は子どもたちを・姉は弟を・招いた者は招かれた者を・招かれた者は招いた者を、それぞれ見守っている。いたわっている。弱者同士が肩寄せ合って生きていく、っていうとクサくなってしまうのだが、そういう高揚した感じはなく、実に礼儀正しくいたわり合うのだ、まるで自明の作法があるように。決して水臭いというのではない。「カスのように生きてきた者」にとってのルールなのだろう。こちらからは傷つけないから、そちらも傷つけないでくれ、っていう。この帰り道、送っていくと橋の下を舟が通り抜けていく、ここらへんの正確さがたまらない。少年が初めて加賀まりこの部屋を訪れる場面もいい。ここにあるのも礼儀正しさだ。女の溢れるばかりの感謝の気持ちを、じっと静かに保たせている緊張がいい。「おばさんもおいでよ」「りこうな子やね」。礼儀正しさが頂点を極めるのはラストであり、子どもの呼びかけに絶対人影を見せない舟の姿である。我々はその舟の中でじっと一つの恥を中心に肩を寄せ合っている家族の姿を想像し、その腹立たしいまでの礼儀正しさに感銘を受けるのである。 /(蛇足)田村高広と池部良の俳優歴って似てる。デビューはズレるがどちらも戦後民主主義の時代を体現する若者として登場し、役柄は「まじめ」。が東京オリンピックに向けた経済成長期になると、そのまじめさが俳優としての幅を狭めてしまい、影が薄れた。ところがオリンピック後の1965年に、どちらもプログラムピクチャーの脇役を得る。田村は『兵隊やくざ』、池部は『昭和残侠伝』、勝新太郎と高倉健という戦後民主主義を「体現しない」主役との戦中戦前を背景にした作品で新境地を開き、その後の渋いバイプレイヤーの地位を確定する。なんかこの二人の俳優歴に、戦後史そのものが重なって見えてくるよう。だから田村のデビューごろの時代を描いた本作で、彼は自分の俳優生活の総括をしたようにも思われるんだ。(11年9.29)[映画館(邦画)] 8点(2011-09-29 10:10:44)(良:1票)

15.  東京物語 老夫婦が子どもに会うために東へ行き、子どもたちが親を送るために西へ行く、というシンプルな二つの移動の物語で、しかしその移動はほとんど描かれず、ただ西から東へ帰る紀子(原節子)の姿のみが最後に置かれる。描かれているのは人の世のむごさだが、しかしそのむごさは改めたり正したり出来る「あやまち」といった類いのものではなく、「そういうふうになってるもの」として提示されているがゆえにより沁みる。以前は、最後の京子(香川京子)の憤懣がちょっと剥き出しで、この繊細きわまる傑作の唯一のほころびかと思ったときもあったが、あれはただ本質を見つめられない「若さ」を客観的に描いていたのかもしれない。紀子によってフォローされているのだし。その紀子と京子が時計を介して照らし合わされ、移動する車中の紀子で閉じられていくことは、ここで初めて西と東が連続しようとしているようにも思われた。おそらく京子はここを通って東に行くだろう。しかし老父の葬儀までもうここを西に行く家族はいまい、という幕を引くための移動のようにも思われてくるのだ。[CS・衛星(邦画)] 9点(2011-04-15 09:43:53)

16.  隣りの八重ちゃん 《ネタバレ》 「気さくな近所付き合い」を理想化したような描写は、今でもテレビドラマで見られるが、そこに漂う「生あたたかい不潔な感じ」は本作にはない。映画の前半は、ほとんど「気さくな近所付き合い」の描写だけで進行し、それがとってもいいの。ガラス割っても、お隣で昼飯食べても、そこにはごく「ふだん」の時間が清澄に流れていて、それを丁寧に綴っていく。こういうのがドラマとして成り立つ、ってどうして分かったんだろう。「靴下をはかせろ」ってとこで、子どものようにはしゃいでいた八重ちゃんに「乙女心」が、さらに「女」がハッと現われてしまうあたり、たまらない。会社や大学はいっさい出てこない。家の中に入ってくる外部は、女学生友だち、これがデビューの初々しい高杉早苗だけで(やがて市川猿之助の母となり、つまり香川照之の祖母となる!)、この世界を動揺させる力は持っていない。後半になると岡田嘉子の姉が異質な外部を持ち込んでくる。芝居の質も、彼女だけ新派を演じているようでかなり浮いているが、それだけ外部性は強まった。ここでは「不潔」は、この外部の彼女が一手に引き受け、二軒の「清潔」をさらに強める。その姉はおそらくカフェの女給になって満州にでも流れていくのではないか。彼女の一家は朝鮮に転勤になる。敗戦時には「外部」に剥き出しで呑み込まれ、苦労するであろう未来を予告するようにラストには雷鳴が轟く。しかしこの時にそれが分かるわけがなく、あの雷鳴を入れたのは何の作用なんだろう。単にトーキーになった嬉しさで、夏の風物詩として入れただけなのか。あるいは二人の恋の火花がこれから散るだろうという明るいイメージなのか。もしかして映画には予知夢の能力があるのかも知れない、と不気味に思った。[映画館(邦画)] 8点(2010-11-21 09:50:02)

17.  時計 Adiue I 'Hiver こういう長い記録をドラマに織り込むって試みは、きっと多くの人が思いついても実際は面倒でやれなかったものだから、そのことだけでも褒めていいと思う。ただその5年間の少女の成長の記録をあまり生かせてなかった。お話が決まっていなくちゃ、そう無駄にも撮れないから、まあ通うとことか練習するとことか何にでも使えるカットになってしまう(現在なら廉価でハイビジョンビデオ使えて、いろいろな想定されるシーンをたっぷり撮っておけただろう)。だから本当にドラマが動き出すのは、現在に至った後半になってしまう。最初にかっちりシナリオを作って配役を拘束し5年撮影し続けるってのは大変だろうし、それではその5年の間に新たに発見するものを映画に加えていけない。そこらへんうまく働けば、映画ならではの記録性とドラマ性が融合した作品が生まれただろう。こういう試みがテレビ畑の人から出てきた、ってのが皮肉。刹那的なものを追っていたようなテレビのほうが、記録性ということに敏感になっていたのか。[映画館(邦画)] 6点(2010-11-17 09:57:23)

18.  トットチャンネル 《ネタバレ》 『雨に唄えば』のテレビ版というか。「初めの自由さ」がのびのびと描かれている。試行錯誤の時代、それと青春の試行錯誤が重なっている。買い物ブギの派手な振り付けと、その後ろを不気味そうにカバンを抱えて通り過ぎるトット。だって街中でああいう人を見掛けたらジロジロ見てしまうんではないですか、という理屈。いかにも白紙の状態で入ってきたという感じ。バタンと倒れてガヤガヤが入るとこも、ちゃんと本人には理屈があるのがいい。手錠も面白かった。あとは火鉢の灰か。いい度胸してると言われるまでになる。あれがないと、どうしてこう失敗ばかりしてて抜擢されるのか、ってなるんだけど、あれがあるのでつながる。で壁を支えるところで仕上げって感じかな。「ケーキ」のシーンは見なかったことにすれば、コメディとしてかなり楽しめた。もちろん植木等もいい。別荘での青春談義、医者と監督の間で揺れた大森君自身の言葉でもあるんだろうね。あれがラストのトットの決意につながっていく。恋愛のない青春ものとしても貴重。[映画館(邦画)] 7点(2010-06-02 12:08:01)

19.  東京の宿 《ネタバレ》 たぶん小津作品で一番貧窮した人たちの話。そのせいか屋外シーンの比率の高さでも、一番じゃないか。そして犯罪が描かれた最後の作品だろう。『東京暮色』で警察は出るけど。子どものシーンはやっぱりうまいなあ。帽子買っちゃうとこ。思わず買ってしまった帽子が重荷になっていく感じ。父のとこに戻るときは弟にかぶせてんの。「ちゃん怒るぞ」と言いながら兄弟が歩いていく感じ。ふっと振り返ったのをきっかけに、ワーッと走り出していく。あるいは風呂敷包みを互いの責任にして道に置き捨ててきちゃうとこ。意地の張り合い。あそこらへんの子どもの心理はなかなか描けないもんですよ。ぺこぺこしてる親に「あんな守衛殴っちゃえばいいんだよ」と子どもは言う。『生れてはみたけれど』の視線。岡田嘉子は突然画面を横切って登場するんだな。けっきょく喜八は人のいいおっちょこちょいなわけで、女に「落ちぶれてはいけない」と諭しつつ自分が盗みに行ってしまう(ほとんど寅だけど、寅は犯罪にまでは踏み切れない)。『出来ごころ』的な“いいかっこしい”の場面もあり、その裏には、かあやんへの甘えがある。ここらへんの関係の作り方がうまい。『自転車泥棒』より10年以上も前の作品なわけだ。[映画館(邦画)] 8点(2010-04-25 11:59:28)

20.  トイレの花子さん(1995) 《ネタバレ》 子どもらは緊張している。いじめもあるし、変質者もいる。いじめも、「だってこれは多数決よ」なんてあたりに現代の特徴があろう。じわじわくる。そういう緊張の凝り固まったものとしての恐怖の幽霊、ではなく、変質者から守る守護霊になっていくところが、古い伝統を残していてちょっと嬉しい。階段の踊り場という中途半端な場所の鏡が繰り返される。この中途半端さも利いているのだろう。理科室は定番、骸骨の標本を出さなかったのは偉い。そういえばこの映画には母的なものが不在だったな、しいてあげればケーキ屋のおばさん、あとは保健室の先生の土屋久美子だが、母的にしては色っぽい。そこらへんも、現在の子どもの緊張と関係があるのかも知れない。昔は学校に守衛さんてのがいたが、おらなくなったのか。[映画館(邦画)] 6点(2010-03-15 09:07:13)

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