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【製作国 : 日本 抽出】 >> 製作国別レビュー統計
評価順123
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1.  廃市 蛍、昼の月、水藻などのアワアワした世界が広がっている。作中の言葉を使えば「道楽」の世界。「本来の仕事を忘れてそれ以外のことにふけり楽しむ」ときの心のゆとりというか、合いの手を入れるオルゴールの音や花火の音が、それこそ「道楽」の雰囲気でした。ハッと気を取り直すようで、またそこに没入していってしまう。自分は愛されていないと思いたがっている人たちの物語で、愛されるのが怖いというか、他人の心をおもんぱかることの傲慢さを自ら封じてしまってるというか、みんなの思いがそれぞれ孤立して、流れ出さず淀んでいる町。頽廃への傾倒、意志のなさ、行為に対する不信、というより面倒くささか。舟で見る歌舞伎の遠景のシーンの、古い記憶のような懐かしさ。全体のトーンからすると、ちょっとクサいところはあって、根岸季衣が顔をピクピクしたり、ラストの三郎君の叫びとかありますけど、それらが目立つほど全体のトーンはいいの。ラストの「列車の窓から」を除いて風景が広がらないのもいい。もう二度とこの夏を繰り返すことができない取り返しのつかなさが、大林監督のモチーフだな。[映画館(邦画)] 9点(2012-12-17 09:58:16)(良:1票)

2.  遥かなる山の呼び声 《ネタバレ》 山田洋次の陰影のあるメロドラマとして異色。でも心理の細やかさが間違いなく山田さんのもの。たとえばハナ肇に襲われかけたシーン、「どうして助けてくれなかったの?」「…親しい方かと思ったもので」なんてあたりで、「外部の人」として振舞わなければならない高倉健の位置を確認している。それが「もう他人と思ってないわ」に至るまでの細かい揺れが、メロドラマの醍醐味でしょう。最後の晩に健さんがドアを叩き、開けた倍賞のやっと時が来たという表情、ところが女心の分からぬ健さんに「牛の様子がおかしいんです」と言われて若干の自嘲と諦めを浮かべ、そして酪農家の顔になって作業着に着替えるあたり、ここらへん味わいの頂点です。男にとっての逃げ場所が、女が根付こうとしている場所だった、そのズレが最後まで重ならなかったというメロドラマ。二人とも二年前に連れあいを亡くしているという共通点も遠くから響いている。ハナ肇の使い方がすごく丁寧。まず「悪役」として登場させ、しかしそれだけでは退場させず、かつての馬鹿シリーズを思わせる「気のいい男」になり、そしてラストでは「取り持ち」として現われるなど、おいしい役どころだった。メロドラマとしての希望を描いたラストで、酪農業のほうは廃屋になっており、現実の厳しさを一つ打ち込んでいる。女手一つでは難しいと言う以前に、もう日本の小規模酪農業自体が困難になっていた。健さんはかつても「時代遅れ」の任侠一家をしばしば背負っていたが、ここでも時代遅れの滅んでいく側に加担したわけだ。一人で酪農を続けていた倍賞は、仁侠映画に出てくるイイモンの一家の老親分をほうふつとさせる。時代に乗っていたのは、たとえば健さんの妻を死に追い込んだ金貸し。裁判で出たその名前は「松野八郎」。当時はすぐにロッキード事件がらみの松野頼三、海部八郎の名前を思い浮かべられたものだった。[映画館(邦画)] 8点(2012-04-08 10:04:37)

3.  パルチザン前史 これが公開されたときは、上映が終わった公会堂の出口で公安が観客の顔を一人一人写してた、って話を聞いてたので、私が観たのはもう全共闘運動などとっくに終わった時期だったにもかかわらず、いささか緊張した。場所も「不動産会館」という聞いたこともない建物の地下の狭い一室で、なにか非合法の集会に参加しているようなトキメキを覚えた(「ぴあ」の自主上映の欄に堂々と載ってたのを見て来たんだけど)。そういう環境で火炎瓶の作り方なんか見てると、ちょっと「それらしい」気分になってくる。ナレーションはなく、必要最小限の字幕ですます。質問しそれに答えるという形式のインタビューがなく、自由に仲間うちの会話と同じ調子でしゃべらせる。あらたまらせない。演説はよく聞き取れないし、仲間うちの会話も聞き取れないことが多く、言葉はこの映画ではいっさい無視していいだろう。言葉の内容よりも、その語り口を映画は記録していく。ヘリコプターの音や、夜に聞こえてくるパイプの中を流れる水の音、機動隊の楯のカチャカチャいう音などと同列の、声も音としての記録素材。言葉の勢いに逆に振り回されているようなその空回りぶり、あるいはしゃべっては中断しを繰り返すその逡巡ぶり。路上での解放区設営が一つのヤマ場で、野次馬的興奮に駆られるが、中立に撮ろうとしている報道陣をも撮ってしまう視線がいい。ドラム缶相手の武闘訓練のときの、照れ笑いしている顔も撮っている。当時は極左映画というレッテルで観られた作品だが、おそらく現在でも記録としての価値はかなり高いだろうし、映像の緊張は素晴らしい。描かれる対象である京大全共闘の滝田修は、やたら「明確な」という言葉を繰り返し、軽薄なものをこれ観たときも感じたものだが、小熊英二の「1968」によると、当時「ガスを爆発させたら普通の人も死にます、しゃーないやないかそんなもん」などと無責任に威勢のいい発言をしていたが、のちに出版した「滝田修解体」では「過激な言辞でエエカッコしたかった」と簡単に自己批判している情けない男なのであった。フィルムはその軽薄さまでキッチリ記録していたわけだ。(と、あの時代の主役の一人永田洋子死亡のニュースの直後に本レビューを記すのも感慨無量である。)[映画館(邦画)] 8点(2011-02-08 09:21:10)

4.  果しなき欲望 《ネタバレ》 上と下の緊張。二階の渡辺美佐子と下の階で二階を気にしている男ども。あるいは画面そのものが上と下を同時に捉え、上で近所づきあいのやりとりしてて、下で西村晃や小沢昭一が穴開いたガス管で苦しんでるカット。あるいは上を行くトラックと、下で穴の崩れを支えている連中。表面の日常のなにごともなさと、下での汗水たらした欲望の渦巻き。今村の世界を象徴するような二分割カットが秀逸。川縁での長門裕之のデートと、下に潜む男たちってのもあった。独特のコッテリしたユーモアになっている。加藤武の脚や小沢昭一の手なども、グロテスクな笑いを誘う。独立志向の中原早苗は今村ヒロインの原型のようで、やがて『豚と軍艦』の吉村実子につながるキャラクター(もっとも体型的には『赤い殺意』の春川ますみにつながり、原作は同じ藤原審爾だ。ついでに言っとくと、この藤原さんて、あと『秋津温泉』とか『泥だらけの純情』とか『馬鹿まるだし』とか『ある殺し屋』とか、60年代を代表するユニークな映画に原作を提供していて、気になる作家。藤真利子のお父さん)。欲望渦巻くさまを喜劇として捉え、渡辺美佐子の描きかたなど、非難せず、どちらかというとそのバイタリティにただただ感嘆しているよう。緊迫した瞬間に入る門づけのチリーンの音が、絶妙。[映画館(邦画)] 8点(2010-04-28 12:05:35)(良:1票)

5.  ハワーズ・エンド 大雑把に言うと英国の上・中・下の階級が繰り広げていくドラマ。「下」というとちょっと極端な表現になってしまい、銀行に勤めている普通の勤労者階級だが、一応このドラマの中では「下」の位置に置かせてもらう。そこで面白いのは、普通だとこの「上」と「下」が対立するでしょ、滅びゆく上流階級と勃興する労働者階級って感じで。ところがここでは対立しない。「下」が、「上」を引っ繰り返すような力をまるで持っていないデリケートな弱々しい青年で現われてくる。労働歌を歌うより、花畑の中を散策しながら詩を口ずさむ手合いなの。この世ならぬものへの憧れに生きている彼は、上流階級のヴァネッサ・レッドグレイヴと対になっているような存在。本来なら対立すべき「上」と「下」が現実に背を向ける地点で寄り添い出してしまい、ドラマの軸を統制するのは「中」の役割りになる。夢見る「上」と「下」に挟まれて、「中」は現実を生きていく。しかしこれが「生きざま」などという語感からは程遠い「いい感じ」のもので、この映画はそのいい感じの味わいに尽きると言ってもいい。「上」と「下」との仕切り役に自分の役割りを定め、控え目にも過ぎず出しゃばりもせず、天真爛漫でありながら周囲に気配りも十分という、おそらくイギリスの長い社交の伝統が培ってきた中流階級の美点が、エマ・トンプソンに結実している。上流階級の洗練も英国の自慢だろうが、こういう愛すべき人物を育てた中流階級も自慢させてほしい、という感じ。ここには対立のドラマのダイナミズムはないが、そのかわり一点から緩く渦を巻き、そしてそれぞれの居どころへ静かに落ち着いていく上品な舞踏のような味わいがある。[映画館(字幕)] 8点(2009-12-10 12:09:48)(良:2票)

6.  春の夢(1960) 《ネタバレ》 ちょっとまず物語の設定を聞いてください。「焼き芋屋の笠智衆が豪邸でイモ買ってもらったかわりに、女中の十朱幸代にソファを動かす手伝いをさせられ、そこで脳溢血で倒れる。応接間の真ん中で一週間絶対安静と医者の佐野周二は言う。おりしもこの宅の主、小沢栄太郎の毛はえ薬会社はストに突入し慌ただしく、禿げ頭の重役やガードマンのやくざが出入りし、外ではデモのシュプレヒコールが渦巻いている。一方、金を腹巻きに溜め込んでいるという噂の笠の看病をしようと彼の隣人の貧乏人たちが大挙押しかけ、家の娘岡田茉莉子は貧乏画家との駆け落ちの準備中、息子川津祐介は哲学青年でたえずブツブツ呟きながら半ズボンで家の中を徘徊している…」。どうです、面白そうでしょ。ほんと、この人のコメディはいいなあ。これだけ豪華なキャストで正月映画用の軽いコメディを製作できた黄金時代がうらやましい。久我美子にオールドミスの三枚目をやらせるなんて。舞台は豪邸内に限ってるけど、金持ちばかりを笑うのではなく、倒れたじいさんにたかる貧乏人も笑ってる。東山千栄子の部屋で笠智衆が倒れるなんて『東京物語』をひっくり返したパロディみたいだけど、たぶん話の骨格に「桜の園」を意識したので、東山の起用となったのでしょう。喜劇作家木下を代表できる一本だと思う。部屋の隅にポッとピンクや緑のライトが入るのは、次の『笛吹川』につながっていく試みか。[映画館(邦画)] 8点(2008-09-06 12:20:09)

7.  白昼の通り魔 《ネタバレ》 コミューンが崩壊し、インテリは自殺し男は死刑になり、女シノだけが生き残り続ける構図。「見殺しにすること」というモチーフが次の『日本春歌考』につながっていったか。理想が空回りする小山明子、ニヒリズムに落ち、村会議員になって自殺する戸浦六宏。本作から『儀式』まで、60年代後半から70年代頭への大島が一番元気がいい時代の始まりであり、常連たちが大島ワールドとしか呼べないものの構成単位となって自在に演じだす。村と東京の対比があり、それは「村から東京」というベクトルかもしれない。60年代後半は学生運動の沸騰した時代だが、『日本の夜と霧』で熱くなった気負いはこれらの作品からは感じられない。そのひとつ冷めた自省が黄金期たらしめたのだろう。コミューンが崩壊した60年代と来たる70年安保闘争を、新幹線が繋ごうとしたようでいて、その繋げない距離の存在を予告したようでもある(いまだからそう思うのかもしれないが)。[映画館(邦画)] 7点(2013-12-03 09:44:03)

8.  母と子(1938) 後半になって俄然イキイキしてきた。積極的な悪役がいるわけではないのに、男の振舞いのなかに悪が出てきてしまう世界。不人情を、男社会に原因を求めているようで、溝口を初め、こういう視点は当時ずいぶんモダンだったんじゃないか。そういうモダンな視点にさらされるのが、吉川満子のおっとり妾。この描かれ方がうまいんだ。そろそろ邪魔になってきたので追い出されるのを、わざわざ別荘買ってもらってと喜んでいる。それに苛つくのが娘の田中絹代なわけ。女二人が新旧二つのタイプを演じるのは、二年前に『祇園の姉妹』あり、翌年に『暖流』ありで、このころの流行りだったよう。とりわけ『暖流』とは役者がだいぶ重なっている。佐分利信、水戸光子、徳大寺伸。本作のほうが視線が冷たいと感じるのは、監督が渋谷実と思って見ているからか。佐分利はただ野心家というだけでなく、母的なものに憧れてるってしたので、厚みが出た。「オールドブラックジョー」のメロディは二年前の『一人息子』でも使われてたが、昭和初期には何か特殊な意味があったのかな。人物が外に出たのは田中絹代が海岸を散歩しただけという実に内に籠もった作品でした。[映画館(邦画)] 7点(2013-01-14 10:36:19)

9.  ハワイ・マレー沖海戦 前半の訓練風景が圧巻。繰り返される精神主義と気合い。体操の秩序正しさ、清らかな白い歯。おそらくそこに蔓延していただろう陰湿な面をきれいに拭い去って、純粋な結晶体を見せてくれる。その時代の理想が目の前に現われてくる。これはもう優れた「記録映画」と見ていいでしょう。もちろん映画がその時代の狂気を形作っていった罪は断罪されなければならないが、同時に後世にその精神風土を正確に(狂ったまま)記録した作業も評価したい。動じない国の母、弱気になったときに力を吹き込んでくれる先輩、厳しいが面倒見のよい諸先生。すべてそのなかでは「善し」とされるものが、集まり寄って一つの大きな狂気を形成していった。なぜアメリカと戦わねばならないのか、についての具体的な説得がまったくなく、そんなことを考えること自体気合いが入っていない証明になってしまい、この「麗しい共同体」から弾き出されてしまう恐怖があったんだろう。[映画館(邦画)] 7点(2012-06-10 10:00:25)(良:2票)

10.  はじけ鳳仙花 わが筑豊わが朝鮮 登場する女性画家、朝鮮人の代わりに発言するんだ、という気負いが強く感じられ、これって一種の思い上がりじゃないか、と最初のうちは引き気味に観てた。でも画家を離れてくると、画の力に引きずられて、のめりこんでいく。朝鮮人坑夫を怒鳴る日本人の顔のシーンで、突然また画家が現われる。加害者としての日本人の顔がどうしても描けない、と悩むんだな、ここが面白い。どうしても決まりきったデフォルメになってしまい満足できない、デフォルメを抑えると今度は「人のいい日本人」の顔になってしまう。自分の顔を鏡で見ながらいろいろ口を歪めたりしてみるのだが、納得の顔が出てこない。「加害者」の顔は地の顔と連続していない、という発見。環境が与えてしまうものなのだ、というギリギリの性善説が見えてくる。ふだんは加害者の顔になれない人間が、立場によって加害者の顔にされてしまっている。否定的な告発の絵の底に見えてきた性善なる人間。おそらくこの画家は曼荼羅図のようなエロスの世界や、空の星を吐き続ける竜の絵など、肯定的な画のほうに真骨頂があるのだろう。というか、世の中を肯定的に捉えることと否定的に捉えることとは反対の方向へ延びていくものではなく、縄を綯うように一方向へ延びていくものなのだ。その星の画を見せてて、ふっと画家の手が伸びてきて星を描き加えるとこなどハッとさせる。冒頭では骨の画を描いていたその手なのだ。過去帳に書かれた「某鮮人」というのに、生々しい残酷を感じた。ラストの指紋のスライドが重なる美しさ、社会を離れて指紋をそれだけ眺めれば、それはただの模様なのだ。[映画館(邦画)] 7点(2011-09-28 10:03:12)

11.  博奕打ち いのち札 やくざの弱さを鶴田浩二が口にしてしまう。女が一緒に逃げましょうと言うのに「俺には、この岩井一家しかない」と言う。やくざというものが、けっきょく家を飛び出して自立できぬ者たちの共同体=偽家であることがよく分かるが、鶴田浩二には女にそんな弱音を吐いてほしくはなかった。それを覚悟して受けとめるから荘重な悲劇になるのであって、『総長賭博』も、家を守ろうとして出す手出す手が次々と家の崩壊を導いていくところに感動があったのだ。でも本作も最終的には運命悲劇の線は守られていて、任侠映画史の到達点シリーズとしての価値はある。海辺を女がフラフラ歩いたりして、ちょっと流れてしまうところもあるが、全体としていい。若山富三郎の役どころが重要で、家の代表でもあり、また世間の噂の代表ということで内在する外界でもある。ラストの血の海の花道は、私はあまり買わない。あくまでリアルな情景で様式美を追求したのが仁侠映画だったはずだ、まあそれだけ仁侠映画がもう熟し切ってそれ以外の表現を必要とするまでになってしまった、ということでもあるのだが。それにしても当時の東映映画俳優陣の厚みは素晴らしいものだった。これ以後彼らは実録路線に合ったもの(文太やピラニア軍団)と合わなかったもの(高倉健や鶴田浩二)にと分離し、他ジャンル映画でも活躍の場を広げていくが、仁侠映画における自在な輝きはもひとつ感じられない。[映画館(邦画)] 7点(2009-11-13 12:08:29)

12.  (ハル)(1996) インターネットの匿名世界は、トイレの落書き化したり誹謗中傷が渦巻きスラム化する、ってところに興味があったんだけど、これは本人同士が出会うまでの恋愛もの。映画の大半は字幕を読むことになるわけだが、サイレント映画とは違って、字の部分と映像の部分が拮抗してるわけ。心の部分と社会の部分と。どちらかというと写真や図表入りの小説の裏返しに近い。相手の姿かたちがないということの気安さが、しだいに手応えをほしくなる・見たくなる、って経過。そして『天国と地獄』的シーンを経て、抽象的だった会話の相手が「現実に存在してるんだ」という不思議な気分を味わうことになる。電光掲示の文字もしばしば挿入され、文字情報がしだいに表情を持つことの面白さを映像で見せようとした作品でもある。ラストで白黒になったのは、これから文字だけではすまない生身のヤヤコシイ世界に入っていかなければならないんだよ、ってことを言っているのだろうか。…と、これはまだ私がパソコンに触れてもいないころに観た映画の、当時の感想。こうして自分自身が匿名広場に参加することになるとは思ってもいなかった。[映画館(邦画)] 7点(2009-10-28 11:59:48)(良:1票)

13.  パイナップル・ツアーズ 沖縄がのんびりしていることの全面的な肯定、ゆるんでいることの謳歌である。のんびりしていることがただ怠惰で非効率とされる本土に対して、これはこれで一つの文化なんだと歌ってみせた。たとえば第2話。居着いてしまった本土の青年がずるずると土地の娘の婿に仕立てられていく話。60年代前半なら『砂の女』のような鋭角的な手触りの作品になったモチーフ、60年代後半なら『神々の深き欲望』のようなコッテリとした味の大作になったモチーフ、それを90年代あたまの沖縄人がサラリと風土に合ったトーンで描き直している(もっとも中江監督は実は京都生まれで、後天的ウチナンチューと自称しているそうだ、そういう来歴がストーリーに生かされたかも)。今村の視線は、やはりヤマトの側から南の風土に吸い込まれていくヤマト人を眺めるものだった。その豊穣な風土への畏敬の念が、どこかおぞましさとつながって感じられてくるところに、今村の正直な感性があったと思う。南でしだいにゆるんでくるヤマト人の変貌は、既知のものが未知の中に引きずり込まれていく、魔に魅入られていくといった印象があって、しかし本作にはそれがない。今村の描いた壮麗な神々の風土を「過大評価です」と笑っているような人間臭い世界がある。映画は主人公ヒデヨシ君にちょっと同情しながらも、途方に暮れる彼を祝福し歓迎していく。那覇へ逃げ出そうとするところを連れ戻される望遠鏡のカットの穏やかなユーモアなど楽しい。ヒデヨシ君個人に密着して考えれば、老人たちの無邪気さは共同体の不気味さと裏表のものであって、『砂の女』のテーマは現在でも有効なはずだ。しかしそれらのことを考えても、ついついヒデヨシ君を祝福してしまうのは、その底に作者ののんびりゆるんだ自分たちの暮らしへのはっきりとした自信があるからに違いない。それが爽やかさになっている。[映画館(邦画)] 7点(2009-10-06 12:11:13)

14.  橋のない川(1992) 《ネタバレ》 これでいいのは「ヤーイヤーイ」と囃し立てる式の分かりやすい差別ではなく、制度に組み込まれている「微笑のなかの差別」が描かれていること。たとえば地主の稲刈りの手伝いをしたとき、部落の者だけは駄賃を裏にまわって渡される、それがさも自然なことのように微笑のなかで進行していく。誰もそれがおかしいことだとは思わないその静かな微笑の怖さ。あるいは駅頭のシーン。友人が自殺し動揺している部落の少年たちが、駅で小学校の時の女先生に会う。ものわかりの良かった先生だ。その出来事を心の深いところで理解してもらおうと語りかけるのだが、その先生はあくまで親切な語り口で「そんな自殺の仕方するなんてやっぱり普通の子やないんね」と感想を述べただけで、入ってきた汽車に乗って去ってしまう。悪気で言っているのでないだけに「やっぱり普通でない」という言葉の残酷さが際立ってくる。女先生の親切げな微笑がかえって壁の厚さを意識させる。微笑というものが、もともと排除の機能を持っているらしいのだ。異質のものに出会ってそれに深く関わりたくないとき、あいまいな微笑を浮かべてやり過ごそうとする。人間集団の機能として、微笑と偏見は表裏一体らしい。あと頬をぶたれる少女のエピソードも好き。部落の少年が学校の集会のとき、隣の女の子からそっと手を握られる。悪い気はしない。でもそれが「部落の人間は手が冷たいそうだ」という噂を確かめてみたものだと人づてに知らされ、その女の子の頬をぶってしまう。ここまで部落の子の側から描いてきたエピソードが、ここで一転し、少女が何かをじっと考えながら川の水で頬を冷やしている場面になる。おそらくこの少女が考え込んでいる表情は、大人たちの微笑の対極にあるものだろう。深いところで希望を感じられるいいシーンだった。差別が被差別者だけでなく、すべての人の心を傷つけてしまうことが、文字に書かれた教訓でなく実感として伝わってくる。そして岩波映画出の記録作家としての経歴が、農作業風景で生きている。部落の人々の自信を支えるものとしての、背景以上の意味を持っていた。こういう生真面目な映画は「笑い」ほどシャープには問題点の切り口を捉えづらい。でもこういう生真面目な映画をきちんと作り上げられる才能は、「笑い」をゆたかに笑う技能とどこかで通じあっているような気もする。[映画館(邦画)] 7点(2009-08-02 12:14:09)

15.  花つみ日記 この時代の、夢見る少女の世界がたっぷり展開しているのに価値がある。吉屋信子調全開。舞台は大阪の花街で、東京から転校してきたミチルと花街の娘栄ちゃん(高峰秀子)の友情物語に、先生芦原邦子への憧れが絡む。ペギー葉山の「学生時代」のなかの“清い死を夢見た~”なんて、こんな感じなんだろうなあと思った。二人のイニシャルを織り込んだ刺繍もすれば、絶交よ、なんていじらしい喧嘩もする。外の世界で嵐が吹きかけている時代に、ひたすら乙女心の世界に閉じ籠もって、なにかしらか細いものを懸命に紡いでいる。世の中が、国とか民族とか大きなものを大声で叫びだした中で、吉屋信子は、ささやかなものに固執した。一応ミチルの兄さんの出征を入れることで、時局に対応してみせてはいる。意外とミュージカル的な演出があり、芸妓となった栄子とハイキングのミチルとが、こもごも同じ歌を歌いながら別々に描かれつつ出会うあたり、葦原の歌が窓の外の生徒らの合唱に受け継がれるあたり、冒頭の竹ぼうきで校庭を掃除しているあたりなど、石田民三ってこういうのもやるのか、と思った。ミチルを演じた清水美佐子って知らない俳優だったが、その影の薄さがこの作品に似合っててちょっと記憶に残ってたのだけど、後に中村メイ子の自伝を読んでいたら、メイ子の家に住み込むほど終生親しかった女性だった、と出ていた。[映画館(邦画)] 7点(2009-04-03 12:08:44)

16.  初春狸御殿 人間役は、出演の中で一番人間ばなれしている左卜全だけであった。ミュージカルといっても見どころはレビューショーで、別に映画であることを活用してはいないが、日本各地の民謡を狸うたにして巡ったり、チョーチンがいっぱい出てきて、ステージ階段があって、っていうあのレビュー的晴れやかさがたまらない。理屈抜きでシアワセになれる。後のほうでマヒナスターズが出てきて、なにやら脇で妖艶な女狸が大うちわをヒラヒラさせてるとこは慄えた。この題材の自在さ、セットの作り物の楽しみ、が今の映画には欠けていると思った。清順がちょっと復活してくれたけど。[映画館(邦画)] 7点(2008-10-29 12:11:03)

17.  はたらく一家 プロレタリア文学の原作を成瀬が撮る、なんて珍品の予感のある映画だったが、これがちゃんと成瀬の映画になっている。時代の変化と世代の交替との微妙なズレの中で生まれてしまう摩擦、それがときにぶつかり合いはするけれど、でも何となくズルズルして、回避できれば回避したいというニュアンスが滲むところが、いかにも成瀬。社会の貧困には直接の関心は向けないで、貧困によって困惑する庶民への共感の方が前面に出てくる。相談に乗ってはくれないが、愚痴は聞いてくれる、って感じ。成瀬の映画ってだいたいそうでしょ。徳川夢声が同僚に「これがグレてるんなら意見のしようもあるんだが」って愚痴るあたりなどいいし、子どもたちがかたまって歩いているのを、親が後ろから見るシーンもいい。原作は知らないが、自分の得意な世界にうまく脚色していったのだろう。ラストのでんぐり返しは、あれは若い力の発露と見るべきなのか、それとも屈折と見るべきなのか。[映画館(邦画)] 7点(2008-03-19 12:19:59)

18.  ハナ子さん 《ネタバレ》 戦時下のミュージカル。ひたすら明るい。ムキになって明るい。5年後に「酔いどれ天使」でニヒルなやくざを演じることになる山本礼三郎すら明るい。歌われるのは「隣組」やら「おつかいは自転車に乗って」やら、ほとんど軽快な長調の曲ばかり。東宝舞踊団はボールを持って皇帝円舞曲を踊るし、出てくる兵士はおもちゃの兵隊だ。賞与が国債でもニコニコだし、応召されても朗らか。灰田勝彦・轟夕起子の新婚夫婦がかくれんぼしてて、そこに灰田の妹高峰秀子がからみ、赤ちゃんまだ? まーだだよー、なんてコントもやってる。プロパガンダの要請を、なんとか娯楽に還元しようという職人技が随所に感じられるが、全編を覆う過剰な明るさがかえって痛々しい。[映画館(邦画)] 7点(2007-12-11 12:27:07)(良:1票)

19.  博士の愛した数式 素数好きなもので、この原作は大好きだったんだが、映画には向いてなかった。でも映画で生きそうなところもあったのに使ってない。制限時間が80分ってのなんかすごく映画的に使える気がするが、あまり興味を示さない。2日目の訪問をナレーションで済ませてしまうもったいなさ。終盤の次第に時間が短くなっていくサスペンスも省かれた。周囲を牧歌的な風景にして、「癒し」の話にしてしまった。この監督は素数にドキドキした経験がないのではないか(たとえば最近ではおととし2011年が素数年だった、次は2017年だ、2040年から2052年までは素数の暗黒時代だが、2080年代には4回素数がめぐる、というようなことにドキドキするかしないか、ってこと。素数とは違うが今世紀最大のドキドキは2の11乗の2048年)。タイガースの試合を観にいくのを、周囲の牧歌的風景に合わせてリトルリーグに変更したのは、手間を省いたってことでもあるんだろう。それでも「友だちとしてきたんです」のところではホロッとしてしまった。[DVD(邦画)] 6点(2013-11-04 09:25:57)

20.  パッチギ! オックスの失神騒動で始まって、ひょうひょうと変身していくオダギリジョーなど、当時の風俗回顧的楽しみがあった。「かわいそうな被害者」としてマイノリティを描くまい、という意志が感じられ、彼らは“なんじゃこらっ”と踏ん張っている。しかしこれも別の「型」になってしまってはいなかったか。キムラ緑子の、特別な見せ場を与えられていない存在感のほうが印象深かった。鴨川がイムジン河となり、争う二派がなにやら祭りをやっているようなニギワイを見せる乱闘の場。看護婦・真木よう子の跳び蹴りがよい。あとギャグとして好きなのは、ラジオ局でディレクターが上司をつまみ出し、血を流しながら戻ってきて「話はついた」とニコニコ笑ってるとこ。[DVD(邦画)] 6点(2013-09-23 09:51:03)

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