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461.  一人息子 《ネタバレ》 小津の作品で「過去」が描かれた部分があるのは珍しい。大正末の信州シーンから始まる。ランプ。そこで人物を設定しておいてから、現代の東京に母が上京してくる。嫁は下宿の近所の娘だったそうで、なにやら小津の学園ものコメディを思い出す。あの青春を謳歌していた学生たちのその後。しかし現在の夜学の生徒たちはかつての学園ものと違って、坊主刈りだし生気がない。家ではずっと近所の工場の音が続いているのが、初トーキー作品ならでは。それで支那ソバのシーンでしたか。ちょいと隣の家によって「ひょっくり出てきちゃって弱ってますよ」なんてところ。これを夫婦で語ると深刻になってしまう。隣りのおばさんに軽く言って「まあ(そんなこと言っちゃバチがあたりますよ)」ってな調子で受けてもらいたいという主人公の側の期待も含まれている。つまり愚痴。こういうとこがうまい。そして埋立地のシュールな、後のアントニオーニめいた茫漠とした風景。ひばりの空との対比。夜の不満の爆発。母の性根論もむなしく響くぐらい、風景のうつろさが家族を取り囲んでいる。富坊が馬に蹴られるエピソードがあって、これで母が「お前もお大尽にならないでよかった」と結論づけようとする哀れさ。小津の主要なモチーフとして「不如意」があるが、これをすぐ「諦念」に結びつけるのは危険だと思う。どうして挫折するのか、どうして家族は一緒にいられないのか、どちらかというと小津は諦めるというより苛立ってたんじゃないか。これを「人生の味わい」なんて片づけさせないぞ、ってな意気込みを感じる、少なくとも戦前の作品では。私は基本的には明るい小津が好きなのだが、しかし本作の侘しさはコメディのネガとしてズッシリと記憶に残された。[映画館(邦画)] 9点(2010-06-18 12:03:27)

462.  絞死刑 前半の面白さだけだったら、ためらわず大島最高作と断定してしまうんだけど、後半抽象論になって浮いてしまうのが不満。外に出ての妄想シーンまではいいと思うんだけど、「姉」が見える見えない以後の展開は、映画よりも剥き出しのシナリオ文学って感じで。いかにも60年代末という時代を反映はしている。これ音の効果もいいんだ。ぶるぶる震えるときの手錠のカチャカチャやら、生きているということの鼓動、朝鮮人部落の声、など。あの姉の演説にRが、どうもしっくりこない、と不同意を示すとこに誠実さがある。ドアの外の国家がまぶしく輝いているところは、やはり迫力がある。特定の代表者があるわけでなく、国家とは一つの状況だということか、けっきょくRも妄想の世界へ消えてしまったという意味なのか、あるいはこちら側がひとつの妄想の体系だと言っているのか。など理屈をいろいろこねる楽しみはあるが、前半のブラックユーモアで押し通してもらいたかったなあ。[映画館(邦画)] 7点(2010-06-15 11:58:42)

463.  生さぬ仲(1932) 《ネタバレ》 まあ悪い意味で少女小説的な話で、メロドラマと言っても監督が後に得意としたそれとは大分違う。かっぱらいの街角のシーンから始まり、順に岡田嘉子(産みの母)に近づいていく。次いで子どものほうを描く。両者を並行して描いていって、子どもを強引に連れていっちゃう展開。デパートに勤める母(育ての)とこの子どもが会ってしまいそうになる三越のシーンのあたりに、晩年のサスペンス作家をほうふつとさせるものがなくもない。母があわてて追いかけると、エレベーターの戸が閉まって下降を始めるあたり。階段とエレベーターの追いかけ。車の後部座席から子どもが母を見かけるが、すぐ目隠しをされてしまうとか。豪邸の子どもと、借家の母との共感シーンなんかもいい。何かを感じ合うみたいなところ。この後で子どもは外に忍び出て酒屋の自転車にぶつかってしまう。後年自動車事故を好んだ監督は、この頃は自転車で我慢した。この酒屋が私のノートによると三井弘次(当時なら秀男)。いまざっと調べた範囲では確認できなかったが、前年から与太者トリオのシリーズが始まって人気が出ており、トリオの一人安部正三郎が本作に出てるのは確認できたから、三井が出てても自然。いま残ってるフィルムのうちでもかなり初期の三井ではないか。で話のほうは満洲浪人の髭面男が出てきて善玉として仕切る(たぶんこれ岡譲二って、小津の『非常線の女』の人)。当時のヒーロー像ってのが分かる。監督これが長編三作目だそうだが、岡田嘉子を使えるほど期待されていたわけだ。[映画館(邦画)] 6点(2010-06-14 12:19:05)

464.  ウルトラミラクルラブストーリー 《ネタバレ》 DVDだったんで、津軽弁の洪水につい字幕付きで観てしまったが、あれはそのまま分かるとこだけを聞く態度で、ドキュメント的に受け取るべきだったかも知れない。発声練習の無意味な言葉とつながって響き合うように。全体ドキュメントタッチとミラクルストーリーが渾然としていて、ミラクルであるものがミラクルらしからぬ態度でひょいと現われてくるとこが面白い。そこが方言の力。唯一方言をしゃべらぬ町子さんて考えてみれば魔性の女で、周囲にいる男の頭を次々カラにしていくわけだ。人類は脳を発達させてしまったので、知力によって新たな危難を避けるようになり、これ以上身体の進化は起こらないだろう、という説があるが、脳をカラにしてしまえば、新たな奇跡が未来に開けてくる可能性もある、ってことか。進化は必然なのかミラクルなのか、ってテーマ? 長回しが多用され、自転車で二人帰る夕方のシーンなんかは楽しかった。サドルでメモしていると自転車が回ってしまうような動きが入り、アクセントになる。逆方向にいく夜のシーンでは、あれもっと花火が映える予定だったんじゃないかな、今ひとつであった。農薬倉庫での長回しは、さして趣向がなく面白くなかった。長回しをもたせるってのは難しいのだ。ラストの脳での子どもの遊びシーンはドキュメント調なので、自然に眺めていて熊につなげられた(前作でもそうだったが子どもをドキュメント的に捉えるのが好きみたい)。それにしても変な話を考えるなあ。[DVD(字幕)] 6点(2010-06-13 12:11:09)

465.  ゴジラVSスペースゴジラ どうも製作者サイドがこちらの希望を分かってくれてないという、身をよじるようなじれったさを感じた。まずいろいろ出しすぎ。タイトルの二頭に(“頭”でいいのか)、こちらにロボットモゲラ、それにベビーゴジラとミニモスラ。怪獣が多ければ多いほどサービスと思われているようなのが悔しい。出すぎると集中性に欠ける。さらによくわかんない悪漢も混ぜて、しかし庶民がいない。自衛隊的なものはあくまで脇に回るべきなんじゃないか。怪獣と庶民とが向き合わない。それに怪獣はあくまで庶民が暮らす街で仕事をしてもらいたい。宇宙空間なんて誰も望んでいない(それにしてもずいぶん密な宇宙だった)。スケールを広げて宇宙、ってのがサービスだと思われているのが悔しい。あの結晶が福岡の街に生えるイメージなんか、新しいものに膨らませられそうな芽を感じたものだが、そういう新ネタを膨らますだけの余裕がもうこの頃にはなくなっていたんだなあ。そういえば宇宙怪獣ドゴラも北九州だった、福岡県てのは宇宙となにかフィルムコミッションの協定でも結んでいるのか。怪獣が街を破壊する態度が、いかにも破壊だけが目的となっている。『モスラ』はちゃんと独自の目的があって東京タワーを倒した。とにかくビルを壊しとけばいいんだろ、と思われているようで悔しい。たとえば建物を慎重によけて進む律儀な怪獣ってのだっていてもいいのに。まあ、つまんないだろうけどね。[映画館(邦画)] 5点(2010-06-12 11:58:12)

466.  しんぼる 《ネタバレ》 たぶん、これはどういう意味があるんだろう、と考えること自体無意味な映画なんだろうが、観ているあいだ何も考えないことも難しいので、まあいろいろ考えてしまう。この白い部屋とメキシコとどう絡んでくるんだろう、というのが一番の興味になるわけ。この監禁は天使のいたずらなのか、あちらにはカトリックで、ここらへんでつながるのか、とか。あの覆面をとると何かなんだ、とか。白い部屋は日本の象徴か、とか。ある種の閉塞感。自分が望んだものでなければモノは手に入る。醤油なしでなら寿司も食える。出口の暗い部屋に閉じ込められたとき、パジャマ男は白い部屋で監禁されたままの暮らしでも良かったんだ、という夢を見た。あそこらへん、今の日本の精神状況と言えなくもない。脱出への試行錯誤では、番地表示板で押さえてガムテープで止めて伸ばしていくと、ツーッと剥がれていくとこが好き。で、メキシコとの切り返しで切迫を高めていって、その頂点でああなる。このハジけた感じは、私はけっこう嬉しかった。そして無意味な奇跡が続く。パジャマ男は閉じた部屋から闇を抜けて世界に作用を及ぼせるようになったわけだが、その作用の無価値さ。なんかこの馬鹿馬鹿しさは、宗教的なるものへの批評として、いいとこをついているような気もした。この先を「教祖の妄想」と大笑いしていいものなんだか、へんにマジメぶっているので、真意はつかめません。[DVD(邦画)] 6点(2010-06-11 12:24:18)

467.  儀式 《ネタバレ》 美しさの点では大島作品でも一二を争う。どこかヒンヤリしてるのが、いかにも儀式の美しさ。テルミチは滅びることによって佐藤慶の桜田家に抵抗したわけ。でもそんな「大敵」なのだろうか。たとえ大敵であっても、大敵として扱うことによって、さらにこちらの無力感を増幅させてるってことはなかったのか。「大敵」として扱うよりは、無視する・それができなければ見ないふりする、って手のほうが有効で、実は抵抗している者も深層では桜田家的なものが好きで、だから大物の敵として見たがっているんじゃないか。敗北の歌をこう美しく歌っていいのかなあ、という思いが残った。もちろんそれをこそ描いた映画なのだ、と大島さん言うだろうけど、ちょっと河原崎君ウジウジしすぎる。映画表現としても、否定すべき儀式をかくまで壮麗に描いてしまう心性と、どこか通じ合ってしまっている気がし、またこの陶酔的敗北主義って、戦後の反体制運動にずっと流れていたような気もし、そういったあれこれが点検できた作品として、私には大変面白かった。地中の弟の声を聞き取ることによってだけかろうじてアイデンティティが確保できるまで、「儀式」に追い詰められている。あの図柄はいいね、土俵ぎわで儀式と対抗している姿勢。耳を澄ますって行為自体が美しい(『ラスト・エンペラー』にもあったなあ)。あとは無人のお色直しのシーンの滑稽な悲痛さ。「ロシア兵は親切だっただろ」とさかんに聞く小松方正の共産党員。そして歌合戦。大島的なものが詰まっている。[映画館(邦画)] 8点(2010-06-09 12:06:41)(良:1票)

468.  コミック雑誌なんかいらない! 《ネタバレ》 とにかく内田裕也が芸能レポーターやってるってだけでおかしい。内田裕也一人でもおかしい、芸能レポーターってものもそもそもおかしい、そのおかしさは異質のものだったんだけど、それが重なるとまた第三のおかしさが生まれてくる。「深く静かに愛が潜行しているものと思われます」なんてレポートのおかしさが、内田が言ってることでさらにおかしくなる。後半、御巣鷹山で啓示を受けて、まともなジャーナリストへと目を開いてしまうんだけど、これどうかなあ。面白さは減じてしまったが、同時進行製作としてこうなってしまったって感じで納得できもする。マジメな人だから。三浦和義のシークエンスが一番いい。逮捕シーンも収められたことで、さらにこの三浦さんて人のホントかウソか分からない・いかにもテレビ的なところが、ナマナマしく記録できた。一和会のとこに行ったときは、裕也さんちょっとビビッてたんじゃないの。「カメラちゃんと撮ってるか」も良かった。あらゆる劇映画は時代の記録映画である、という真理を、最初から中に組み込んだ作品。[映画館(邦画)] 7点(2010-06-04 12:02:15)

469.  トットチャンネル 《ネタバレ》 『雨に唄えば』のテレビ版というか。「初めの自由さ」がのびのびと描かれている。試行錯誤の時代、それと青春の試行錯誤が重なっている。買い物ブギの派手な振り付けと、その後ろを不気味そうにカバンを抱えて通り過ぎるトット。だって街中でああいう人を見掛けたらジロジロ見てしまうんではないですか、という理屈。いかにも白紙の状態で入ってきたという感じ。バタンと倒れてガヤガヤが入るとこも、ちゃんと本人には理屈があるのがいい。手錠も面白かった。あとは火鉢の灰か。いい度胸してると言われるまでになる。あれがないと、どうしてこう失敗ばかりしてて抜擢されるのか、ってなるんだけど、あれがあるのでつながる。で壁を支えるところで仕上げって感じかな。「ケーキ」のシーンは見なかったことにすれば、コメディとしてかなり楽しめた。もちろん植木等もいい。別荘での青春談義、医者と監督の間で揺れた大森君自身の言葉でもあるんだろうね。あれがラストのトットの決意につながっていく。恋愛のない青春ものとしても貴重。[映画館(邦画)] 7点(2010-06-02 12:08:01)

470.  落第はしたけれど 《ネタバレ》 これはギャグの豊富さでは、現存する小津作品の中でも一二を争う。試験場のカンニングをめぐる連発の密度の高さといったらない。四番を教えて、の合図が飛び交う感じ。教授の背中のカンニングペーパーを取り損なって、腕時計に耳を当てるリズム。あるいは下宿の仲間たちのワイワイやってる内輪の雰囲気。それらを通して「腐る」感情と「意気揚々」とした感情が交錯する(泣いてた突貫小僧がサンドイッチもらうと手をピンと伸ばして意気揚々と退出なんてのもあった)。小津のサイレント期のシナリオを読むと、失われた作品も含めて「腐る」というトガキがやたら目に付く(しばしば斎藤達雄の役どころで)。そうなのだ、小津作品とは「主人公が腐る」ドラマなのだ。意気揚々としたい学生生活・サラリーマン生活が、なんらかの障害に遭い、腐らざるを得なくなる。不機嫌を抱えたまま誰かに甘えかかって解消しようとし、活動が停滞する。それをスラプスティックな笑いに持っていってしまうところが小津の天才。止められた大きな動きは、小さな無意識の動作となって現われてくる。本作では、机にのせた足のリズム、角砂糖を放り上げて口でキャッチする遊び、などなどに。そして卒業したほうが「腐り」、落第したほうが「意気揚々」とすることになる。それだって問題が解消されたわけでなく、単なる延期ってところが苦い。純粋にコメディとしても傑作だが、時代の記録としても優れた作品。[映画館(邦画)] 9点(2010-05-31 12:04:32)

471.  フランケンシュタイン(1994) 《ネタバレ》 ケネス・ブラナーって、舞台は知らないが、映画では役者としても演出者としても、あんまり才を感じないなあ。一人浮いてた。トム・ハルスやロバート・デ・ニーロはちゃんと映画の俳優だなあと思った。音楽を延々と垂れ流すのも困ったもので、なにかしばらく間違って予告編を見せられてるんじゃないかと思ったもん。カットとカットのつながりがそんな感じなんだ、尻が座ってないってのか。まあ18世紀末の実験室はこんなものかという面白味はありましたが。原作尊重ということで、主人公が博士なのか怪物なのか揺れてたみたい。やはりこの話の面白さは、怪物が怪物にされていく過程にあるわけで、博士の科学論などは脇に回してもよかったんじゃないか。つまりフランケンシュタイン博士が出しゃばりすぎた。「フレンド」を求める孤独こそ中心に来るべきだった。と、ここらへんはこちらの好みに引き寄せた愚痴だが、セットの大階段をあまり生かせなかったのは明らかに監督の罪。醜くなったものが自殺しちゃうってのは、一般人にとって都合が良すぎる展開だなあ。改めて思ったのは、怪物に名前がないのは大事なポイント。まだ名付けられない新しいものってのは、すべて怪物視される可能性があるんだ。[映画館(字幕)] 6点(2010-05-29 11:56:16)

472.  女が階段を上る時 《ネタバレ》 高峰秀子は、木下作品で明るくしっかり、成瀬作品で暗く不貞腐れ、と松竹と東宝で昼と夜を繰り返してたって印象があるが、今度「自薦十三作」で何を選んだか興味があった。そしたら断然「夜」の成瀬の勝ち。木下作品で選ばれたのは『二十四の瞳』一本だけで、ほかの作品のコメントでも、『喜びも悲しみも幾年月』は「演ってて面白くなかった、優等生すぎて」とか『永遠の人』は「脚本があんまり陳腐なんで」など、まるで成瀬映画の登場人物のようにグダグダ言ってる。もちろんこのコメントは演技者としての評価なわけだけど、高峰が木下作品の役にあまり満足していなかったのが分かって面白い(一観客としては木下の高峰も好きよ)。で成瀬作品で選ばれたのが三本、つねづね思い入れをエッセイなどで語っている『放浪記』と、公的な最良作『浮雲』の二編と本作。ちょっと意外な気もしたが、これでは彼女が“衣装”でスタッフに名を連ねており、そんな点でも思い入れが深いのかも知れない。いかにも成瀬的な、すがれ気味のバーの雇われマダムの話だが、脚本が黒澤映画の菊島隆三で(たぶんこれ一回きりだと思うが)どうもいつもと違うゴワゴワした手触りになっている。そのせいかどうか、高峰を含む女優陣よりまわりの男優たちの適材適所ぶりが光った。常連客の関西の実業家中村鴈治郎、銀行の支店長森雅之、こういったいかにも銀座のバーに出没しそうな男に混じって、加東大介が場違いの客として誠実そうにニコニコしている。また彼女の実家が佃島で、銀座の近くでありながらひなびた感じが漂い、そこにうだつの上がらない兄の織田政雄がピタリとはまる。ヒロインが病んだとき佃島に見舞いに来るのは、森ではなくその風景にピタリとはまる加東の方。加東はさらにひなびた、上流の千住のお化けエントツの近くに住んでいることもあとで分かる。子どもの三輪車がうるさく回るそのお化けエントツの見える荒涼としたシーンは、シュールな美しさが漂った。こう男優たちが東京の地理にふさわしく配置されているのが面白く、そういった非銀座的な男が絡むシーンが光るので、単なる風俗映画に閉じてしまっていない。[DVD(邦画)] 7点(2010-05-28 12:14:23)(良:1票)

473.  男はつらいよ 拝啓車寅次郎様 《ネタバレ》 出来の悪いときでも、やっぱりいいなあと思わせる一瞬がこのシリーズには必ずあり、それで許せてしまう。長浜での祭りの最中、満男が牧瀬里穂に「付き合ってるのいるの?」などとウジウジしてると、人込みの中からフラリと寅が現われて「いたっていいじゃねえか、そいつと勝負するんだ」と言って、また人込みの中に消えていくところ。このシリーズのカンドコロを押さえている。満男が社会人になっていて、さくらの結婚で始まったこのシリーズが一世代経過する時が近づいていたわけだ。寅が満男の会社に挨拶に行こうとした顛末を電話語りにしたことで哀愁が出た。ここで叱られたせいで、あんまり甥の恋愛に積極的に関わるまいと自制しているのか、寅はもっぱら説教専門、牧瀬とはあまり絡まない。かたせ梨乃の旦那が来たとき、神戸浩は「じ、じけんです」と言って寅のもとに走った。アタマとオシリの小林幸子は不要。[映画館(邦画)] 7点(2010-05-26 12:03:07)

474.  残菊物語(1939) 最初は溝口って、まだるっこしくって苦手だった。もっぱら画面の美しさや長回しの楽しさを見てた。黒澤や小津みたいにストレートには熱狂できなかった。でこれが転換点だったな。やってることは新派の男女悲劇なんだけど、その男女の関係が違って見えた。名古屋のシーン、簾越しに見守る友人、奈落で祈るお徳さん。陰影の凄味も効いてるんだけど、この舞台上の菊之助とそれを下で支える女の情念の関係、「一歩下がって陰で支える女の道」ってモロ新派的なところだが、男が地下の女に支配されているとも見えたんだ。芸術家と批評家の関係でもあったんだけど、それよりもケモノと調教師に思えた。そうしたら、今まで観てきた溝口作品の多くも、調教師とケモノの物語に思えてきて、突然溝口作品がスーッと心に沁み込んできた(まあ溝口の男はケモノってほど猛々しくはないんだけど)。世間とか社会に対する調教師とケモノコンビの意地の物語。古めかしい女と男の物語でありつつ、その二人が一緒に世間と戦ってる能動的な物語にも見えてくる。これが一体になっている。本作のラスト、男の出世のために身をひく、と同時に、もう調教師は必要なくなった、という厳しい自己認識が女にある。以前の下宿を再訪するシーンの美しさは、その厳しさもあってノスタルジーがより磨かれているんじゃないか。[映画館(邦画)] 8点(2010-05-21 10:16:49)

475.  白い馬 ЦАГААН МОРЬ(1995) 観光映画よりは踏み込んでいるけど、内側からモンゴルを観察したというほどのドキュメンタリー精神はなく、まあ「留学映画」とでも呼んでみましょうか。モンゴル人の心に直接触れてるという気にはなれないが、短期旅行者の傍観よりはいい、ってとこで。雄大な風景と対比させるような、病気の子どもの目に映る狭い青空。町の図書館のシーン。あるいはロングで、バイクのラマ僧と移動百貨店トラックが道でよけあうとこ、などいくつか印象に残るシーンがある。それらがこじんまりと納まってしまうところが物足りないが、それがこの作家の資質なのだろう、新しい歌を歌おうとせず・新しいものを発見しようとせず、しかしそういうものが好きならそれでいいではないか、という大らかな気にはさせる。観ているほうにもモンゴル的大らかさが伝染していて。ラストのナーダムは、揺れる画像の合い間にロングの揺れない画像を入れてほしいところ。[映画館(邦画)] 6点(2010-05-20 11:57:43)

476.  象を喰った連中 《ネタバレ》 戦後のすぐのころの日本の「公式な名作」って、ちょっと民主主義啓蒙臭が強く、それはそれで時代の高揚感の記録にもなっているのだが、やや固い。そこいくとベストテンに入ってないような映画は自然体というか、『東京五人男』とか『銀座カンカン娘』とか、作品自体で自由な時代の喜びを歌ってて、捨て難い。本作なんか、民主主義啓蒙とは関係なく、教訓を得ようとするなら「得体の知れない肉を食べるときは必ず火を通そう」ってぐらいで、この年の吉村の代表作としては『安城家の舞踏会』を押す方が正しいとは思うけど、こっちの肩に力が入ってない感じも好きなんだなあ。日守新一がズルッと鼻水を垂らして一同が緊張するとこ、原保美が田舎に帰って母親とモーツァルトの子守歌をデュエットするとこなんか、かなり当時として新しい笑いの取り方だっただろう。安部徹が奥さんと気を紛らそうと観に行った劇場で踊り子の歌が象にかわるとこ、神田隆のピクニックの最中「象なんか食べるのは大馬鹿ですよ」と奥さんに言われたり。当時一番喜ばれたのはこの軽い笑いなんじゃないか。人々は民主主義の旗を振り回されるより、この軽くなった自在感を楽しみたかったんじゃないか。そして後世の者にとっては、みなが「得体の知れない肉」を食べていた時代の空気を体感できる。[映画館(邦画)] 7点(2010-05-17 12:02:41)

477.  のんちゃんのり弁 《ネタバレ》 岸部一徳に「あんた見てるとタダで弁当配りそうだ」と心配させる小西真奈美のキャラクターがピタリ合ってる。真剣になるとおかしくてかわいい。弟子入り志願のとことか、夫とのケンカのとことか、絶対演技過剰なんだけど、なんか彼女だと許せてしまう。そうそう、あとホテルの駐車場で息を確認するとことか。料理の才があったというのは、つまり彼女が家庭の人だったということで、問題は自分の才能が金銭に換算され得るという可能性に気がつかなかったこと、あるいは金銭を請求する交渉から逃げていたということ。ああそうか、昔の時代劇ではよく深窓の姫君が身をやつして町に入りシモジモの暮らしを体験するってのがあったが、あれとどこかでつながってるな、この話。ヒロインの「子どものような手」は姫君の手でもある。それは金銭を請求する手にならなければならない。旦那に慰謝料を請求せず、岸部一徳にはタダで働かせてください、と叫んだり、下町江戸っ子のきっぷのよさ、ってのは、どこか「まだ子ども」ってところがある。最初の保育園で配った弁当代は向うからやってきた、岸部に労働代の封筒を提示されてから「お金下さい」と言った、自分はお姫様のままだった(言っただけでも進歩)。だからラストは本当なら、「お弁当、おいくら」と尋ねられて、値段をはっきり言うセリフでカットってのが正解だっただろう。彼女の将来、前途洋々には見えないが、一緒にハラハラしてやろう、というぐらいの気にはさせる。最初、町に帰ってきたヒロインをおばさんたちが騒々しく取り囲む場で、うるさい下町人情ものなのかと心配したが、そうではなくあれは下町の鬱陶しさを描いていたのだった。本当の「下町の人情」ってのは、岸部がハラハラしながらも見守るところに出ている。写真館がやっていけなくなる今現在の下町の厳しさもちゃんと描かれていた。今までサバのミソ煮はスーパーで調理されてるやつをもっぱら買ってたが、これを見たらつい自分でやってみたくなり、やってしまった。切断面から煮崩れした。それと小骨は前もって取っておかなくちゃいけないんだな、きっと。[DVD(邦画)] 7点(2010-05-16 12:08:41)(良:2票)

478.  南極料理人 《ネタバレ》 ちょっと『刑務所の中』を思った。ルポルタージュ的作りもそうだが、「拘束された男たちのかすかな自由を求めての退屈消化の日々」といった内容も似ている。エピソードの並列になるので、一本の物語としての印象は弱まってしまうが、面白いエピソードは面白い。南極に行くことになった経過をササッと描いた部分、強引な「おめでとう」に対して「家族と、相談させてください」と反復する場は笑った。中盤はダレ気味で、このままいくと低評価になるかというとこで、屋根の上に上げるべき娘の歯を地球の奥深くに落としてしまうエピソードがいい。家庭的なものが非家庭的・極地的な穴に吸い込まれ、ベトベトのカラアゲという着地点にきれいに決まり、ノスタルジーがやるせなく立ちのぼってくる。ラーメンの話もいい。家族と離れ、男だけで暮らしている若干切なさの混じった滑稽。画面の中の体操の、女性のかすかな背中におおーっとどよめきが起こる。逆に自分たちも画面の中に納まり、ぎごちなく家族に姿を見せる。日常から遠く離れた極地での日常的な調理という視点が、遠く離れた二つの世界を暖かくつないでいる。観終わって伊勢海老のフライは食べたくならないが、ラーメンは食べたくなった。[DVD(邦画)] 7点(2010-05-13 12:01:26)(良:1票)

479.  くちづけ(1957) 《ネタバレ》 なんで川口浩と野添ひとみのカップルに感動してしまうのだろう。今観てもみずみずしい。オートバイすっ飛ばして江の島へ走るとことか、ローラースケートとか、水着の撮影会のスケッチとか、当時みずみずしかったってより、そういったものをちょっとおかしがって捉えてるってこと自体がみずみずしいんじゃないか。カッコよく爽やかなはずの青春が、選挙違反とか公金横領とかつまんない犯罪者を家族の中に持ってることで屈折を持つのが本作のユニークなとこで、ユーモアにもなっている。メソメソしかけてもそれをユーモアに捩じ伏せてしまう。「また小菅で会おうぜ」がいいやね。哀れみを受けるのだけはヤだ、という女の子の強さがこれからの監督の一貫したモチーフになっていく。ヒロインの惨めな気分を描くときはとても優しい。ナプキンの住所を電話帳に挟んだままにしといて観客をヤキモキさせるあたり憎い。住所探しがどんどん真剣になっていくところが見せ場。工事現場が美しい。簡単なトロッコ用の斜面が奥へ続いていて、ザラザラしたコンクリートの感触。こういうみずみずしさの発見も新鮮だったのだ。[映画館(邦画)] 8点(2010-05-06 11:58:07)

480.  刺青(1966) 《ネタバレ》 照明が近いので影が大きくなる。また横向きの場合コントラストが強く、正面の場合ノッペリとする。それでなにか非常に「狭い」感じが出てくる。人物も凝縮していく感じ。あんまり大らかな人物は登場しない話だし。「伝奇もの」でもないんだよなあ。女郎蜘蛛を彫られてから女が変化していく、ってんでもなく、その前からそういう感じで演出してた。だからいくら若尾文子が「だました男に復讐してやるんだ」って言っても、口実みたいになっちゃう。それでいいんだろうね。口実なんだよ。魔性の女には違いないけど、それは彫りもののせいなんかじゃなく、女の本質なんだろう。それを映画は怖がってるだけじゃなく、突き放して笑って見ているところがある、もちろんまわりの男たちも含めて。女がそそのかし、男が「またやってしまった…」と青ざめる繰り返しに、何か、夫婦漫才みたいな感じがチョロッとある。[映画館(邦画)] 7点(2010-05-05 11:57:23)

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