みんなのシネマレビュー
なんのかんのさんのレビューページ[この方をお気に入り登録する

◆検索ウィンドウ◆

◆ログイン◆
メールアドレス
パスワード

◆ログイン登録関連◆
●ログインID登録画面
●パスワード変更画面

◆ヘルプ◆
●ヘルプ(FAQ)

◆通常ランキング◆
●平均点ベストランキング
●平均点ワーストランキング
●投稿数ランキング
●マニアックランキング

◆各種ページ◆
●TOPページ
●映画大辞典メニュー
●アカデミー賞メニュー
●新作レビュー一覧
●公開予定作品一覧
●新規 作品要望一覧照会
●変更 作品要望一覧照会
●人物要望一覧照会
●同一人物要望一覧照会
●関連作品要望一覧照会
●カスタマイズ画面
●レビュワー名簿
●お気に入り画面
Google

Web www.jtnews.jp

プロフィール
コメント数 2336
性別

投稿関連 表示切替メニュー
レビュー表示レビュー表示(評価分)
その他レビュー表示作品用コメント関連表示人物用コメント関連表示あらすじ関連表示
コメントなし】/【コメント有り】
統計メニュー
製作国別レビュー統計年代別レビュー統計
要望関連 表示切替メニュー
作品新規登録 / 変更 要望表示人物新規登録 / 変更 要望表示
要望済関連 表示切替メニュー
作品新規登録 要望済表示人物新規登録 要望済表示
予約関連 表示切替メニュー
予約データ 表示

【製作国 : 日本 抽出】 >> 製作国別レビュー統計
評価順1234567891011121314151617181920
2122232425262728293031323334353637383940
4142434445
投稿日付順1234567891011121314151617181920
2122232425262728293031323334353637383940
4142434445
変更日付順1234567891011121314151617181920
2122232425262728293031323334353637383940
4142434445

1.  大人の見る絵本 生れてはみたけれど 還暦の誕生日に亡くなった小津は、人生の見取り図を眺めやすい。『出来ごころ』までが前半生の30年、『母を恋はずや』からが後半生で4作目からトーキーになる。赤ん坊時代も含めた前半生だけで傑作を次々と発表しており、それだけでも映画史にゴシックで名を残したことだろう。とりわけ本作。前半のギャグの連発には、ただただ恐れ入るしかない。それも客観的に外部にある笑いではなく、自分たちの子ども時代を思い出させつつ生まれてくる笑いだ。だから後半の苦みが「取ってつけたよう」にはなってない。前半の笑いの当然の帰結として、苦くなってくる。そこに子どもであることの苦さ、子どもを持つことの苦さが浮き上がっている。笑わせたあとでペーソスも加える、ではなく、笑いがそのままペーソスに移行している。これが20代の男によって作られたことに驚かされるが、その若さだから・そしてついに家庭を持たなかった監督だから、と考えたほうがいいかもしれない。こんな映画を撮ってしまう男が、家庭を持てるわけがない。[映画館(邦画)] 10点(2013-01-12 09:50:07)

2.  三里塚・第二砦の人々 シリーズ4作目。前々作のラストは、農民が要塞を掘るその穴掘りシーンだった。彼らが土に帰っていく・土に沈んでいくといったちょっと現実を離れた寓話的イメージがあり、その掘り進めている土の壁に延びていた植物の根のアップが印象深い。で本作に至って根のモチーフは大きく膨らみ、農民が掘り進めていく抵抗の根としての地下壕のイメージにつながっていく。あくまで散文的な記録性を保持しながらイメージが豊かに広がっていく。おそらくスペクタクルとしての迫力はシリーズ屈指だろう。野外戦の興奮。権力の横暴といった理屈以前の、その場の高揚がフィルムを覆ってしまっている。農婦二人が自分たちを鎖で縛り合わせているところをじっくり写していたカメラがぐるりと振り返ると、タイヤを燃やす黒煙がもうもうと立ち込め、坂を下ってくる機動隊や、回り込んでいく学生たちが激しくうねっている。そこにかぶさってくるヘリコプターの騒音、拡声器の割れ声、耳をつんざく笛の響き、とにかく映画はその場を実感させ、体験させる。バリケードの隙間から火炎瓶を投げるタイミングをうかがっている学生など、へんに生々しい。またユーモラスなシーンも活きている。シリーズ常連の柳川のオバチャンが、自分の作戦を語るところ。「ベターッともうダメになったふりしててよ、あのジジイ(公団職員)が来たらよ、縛ったふりしてたこん鎖でもって殴ってやんだ」。緊張したところでふっと息を抜かせ、少し画面に近づき過ぎてしまっていた観客の気持ちを、微調整する働きがこういうシーンにはある。しかし本作の重要さは、農民が自分たちの手応えの分かる形で抵抗しようとしているところにあると思う。火炎瓶などといった今までの暮らしと無縁なものは学生にまかせ、自分を木に縛り付けたり、土に穴を掘ったり、彼らが一番手応えの分かっているもののそばに戻っていく。そのときに彼らが浮かべるちょっと晴れがましい表情。換気口つきの地下壕を作り上げた農民の照れくさそうな自慢げな笑顔。自分の技術を生かして何かを作り上げる楽しさ。三里塚で起こっていることは、単に土地を巡る争いなのではなく、農民から農業技術を生かして働く楽しみを奪うことなのだ。それはここ三里塚で密度濃く現われてはいるが、日本全国で緩慢に進行している農業の死という問題にほかならず、小川は以後に続く重要なテーマにたどり着いたわけである。[映画館(邦画)] 10点(2010-01-21 12:16:52)

3.  天国と地獄 この143分てのは『生きる』と同じ長さなんだ。どちらも同じ二段構えで。何かを描くのにちょうどいい長さというものが、作家には固有にあるらしい。でもこれは私には『赤ひげ』とセットになっていて、ヒューマニズムの人としての総まとめが『赤ひげ』なら、サスペンス作家としての総まとめが本作だと思っている。そしてあちらに善の医者、こちらに悪の医者、と対になっている。黒澤は多くの作品で医者を描いていて、生命に密着した職業ということを越え、魂の治癒者といった役割りを持たされている。その医者がこの映画では、魂を沈下させていく。高台の権藤邸に憎しみの目を向けつつ、黄金町の魔窟にまで沈んでいく。こういう世の裏側の感じは、『野良犬』の楽屋裏なんかにも通じて黒澤が好んだ形而上学的な世界構造だ。この世界には一つ奥の暗い場所が隠されている、って。医者はそこを往還する職業なんだ。善い医者は下から上へ、悪い医者は上から下へと、魂を運んでいく。そういった世界観が黒澤にはあるのだと思う。この映画のサスペンスのうまさを今さらいちいち挙げてもしょうがない。好きな女優さんをひとりだけ挙げさせて。これを見るたびに印象に残るのは、山崎努と踊りながらヤクを受け渡しする女のそれらしさ。今村昌平作品なら主人公になれるような顔で、生き物の臭いはプンプンさせていながら生活臭のない女。ストイックな黒澤さんはきっとこういうタイプが嫌いなんだろうけど、それだけに見事に存在感を示していて、私はあのシーンになると異様にドキドキしてしまうのだ。[映画館(邦画)] 10点(2008-12-24 12:23:52)

4.  男はつらいよ 寅次郎夢枕 《ネタバレ》 長期にわたったシリーズもののベストを判断するのは難しいが、それぞれの作品を観たときのトキメキの記憶で比べてみると、私は本作で一番ときめいた。寅の恋路がうまくいくってのの最初で、恋路でもないんだよな、ラッキョは緊張しないでいられる女性だったわけ、そして他人(米倉斉加年)の恋を優位に立ってクスクス笑いながら見ていた寅が、突然当事者になってしまいガクガクッとなってしまう。この転換に唸りましたな。パターンの引っくり返しでありながら、ただそれだけでなく、すごくキャラクターとして納得がいく。寅の悲劇の核がここにある。寅という人物がしっかり確立された一編であり、また八千草薫でなければならないマドンナだった。彼女のほうもすんなり納得できる。ラストのとらやで「あたしが振られたのよ」とか言って、まわりが冗談だと笑っていると「なんでおかしいの」と言うその語り口が(あくまで社交の範囲内の会話でありながら、本当にどうして理解されないのか、と思っているのが半分、理解されないことに対する苛立ちが半分)絶品だった。八千草さんてテレビの「岸辺のアルバム」では、スルッと不倫に走ってしまう貞淑な人妻をリアリティみっちりで・しかも不潔感皆無で奇跡のように演じたし、だいたい「ちょっと普通でない人」をやらせると凄いんです。[映画館(邦画)] 9点(2013-12-31 09:31:52)(良:1票)

5.  運命じゃない人 《ネタバレ》 Aはごく普通の青春ドラマの装いで始まる。Bの、泣き出して気味悪いですか、なんてのがいい。おごってもらって悪いからと自転車こぐのもかわいい。でもがぜん映画が動き出すのはCになってからだ。携帯電話ができてメロドラマのすれ違いが出来なくなったと後ろ向きに考えてはいけない。新しい道具もどんどん使いこなしていくように映画は舞台を提供してきていたし、これからもそうだろう。見えないところでとんでもないドラマが進行していた、という楽しみ。映画が始まったときは、ベッドの下に○○○が隠れていたりする種類の映画とは思っていなかった。表情に別の意味が与えられていく。時間ずれてドラマに裏打ちがなされていく。義憤にかられての怒りと思っていたものが、早くトンズラしたい焦りだったり、走って追いかけてくる者も、あとで読み直される。鞄を抱きかかえてた意味も。これが初見だった中村靖日、その後朝ドラの「ゲゲゲの女房」で見、今の朝ドラにも出てる。いいキャラクターなのに、便利な脇役として消費されないで欲しい。[DVD(邦画)] 9点(2013-12-05 09:23:51)

6.  ああ爆弾 《ネタバレ》 私はこれが喜八で一番好きな作品。どういう組み合わせだったのか安部公房/勅使河原宏の『おとし穴』との二本立てで名画座で見た(次の週には『下町の太陽』と『気違い部落』の二本立て見てる。名画座文化の良かったのは二本立て制度で、ついでに見たもう一本で世界がどんどん広がっていったことだ)。今思っても、喜八監督のリズム感が全開した名作ではないだろうか。ドンツク・ドンツク・ポッポーなんてたまらない。砂塚秀夫や中谷一郎など常連が生き生きしており、ミュージカル合戦にもなっていて、和ものとあちらものが対決する。とりわけ和ものの使い方が秀逸で(邦楽ミュージカルってあんまりないから)、勧進帳の「毒蛇の口を逃れたる」がバキュームカーのホースになぞらえられたりする。三百万三百万と心の声が呟いたり、ドンツク・ドンドン・ツクツクに合わせて体が起きてきたり、楽団員がみな眼帯してたり、私の趣味がカタヨッていったのに、大きく影響した作品だったなあ。[映画館(邦画)] 9点(2013-11-30 09:38:07)

7.  有りがたうさん おそらくこれを初めて見たときは誰も、登場人物の喋りにびっくりすると思う。ゆっくりした棒読み。なんだこれは! そういう喋り方をする土地なのか、とオロオロしていると、上原謙や桑野通子もそう喋る。トーキー初期の録音技術では普通に喋ると言葉が聞き取れなくなるのか、と気を回す。いや、これより古い『隣の八重ちゃん』は普通に会話してた。呆然としながら考えた末に結論はただ一つ、監督の指示としか考えられない。そしてそう判断したころは、このリズムにこちらが合ってしまって、大変心地よい境地になっている。お年寄りが昔話を語っているような、宮沢賢治の世界のような。トーキー初期はこんな思い切った演出冒険も出来たのだ。子どもらはバスの後ろに飛びつき、女歌舞伎のお披露目と遭遇したり、桃源郷を思わせる。ところが描かれる内容は厳しい不況下の世情なのだ。226の年で、青年将校らを決起させた地方の娘の身売りが、上原謙に「葬儀運転手の方がよっぽどいい」とぼやかせるまでに、車内を重くしている。映画の結末は飛躍のある展開で作品の傷かとも思えたが、あのゆっくりとした喋りで世界が変容されていると、峠を越えることで善意が勝つんだ、と素直に受け入れてしまえた。この前々年に満州国が誕生し、五族協和と「仲良し」が強制的に偽装される時代になったが、本作では朝鮮人の苦衷がキチンと語られていた。まだ厳しい検閲はなかったのか、もし検閲官が見逃していたのなら「ありがとー」だ。車窓風景の映像史料としての価値は計り知れない。[CS・衛星(邦画)] 9点(2013-01-04 09:53:22)

8.  廃市 蛍、昼の月、水藻などのアワアワした世界が広がっている。作中の言葉を使えば「道楽」の世界。「本来の仕事を忘れてそれ以外のことにふけり楽しむ」ときの心のゆとりというか、合いの手を入れるオルゴールの音や花火の音が、それこそ「道楽」の雰囲気でした。ハッと気を取り直すようで、またそこに没入していってしまう。自分は愛されていないと思いたがっている人たちの物語で、愛されるのが怖いというか、他人の心をおもんぱかることの傲慢さを自ら封じてしまってるというか、みんなの思いがそれぞれ孤立して、流れ出さず淀んでいる町。頽廃への傾倒、意志のなさ、行為に対する不信、というより面倒くささか。舟で見る歌舞伎の遠景のシーンの、古い記憶のような懐かしさ。全体のトーンからすると、ちょっとクサいところはあって、根岸季衣が顔をピクピクしたり、ラストの三郎君の叫びとかありますけど、それらが目立つほど全体のトーンはいいの。ラストの「列車の窓から」を除いて風景が広がらないのもいい。もう二度とこの夏を繰り返すことができない取り返しのつかなさが、大林監督のモチーフだな。[映画館(邦画)] 9点(2012-12-17 09:58:16)(良:1票)

9.  蜘蛛巣城 おそらく映像美としては黒澤最高作だろうが、これ音もいいんだよ。旗さしもののパタパタいうのから、矢の突き立たる音まで、なんというか、中世の渋い音が満ちている。一番はマクベス夫人の衣擦れの音ね。主人殺しの槍を持ってくるとことか、ほんとに音だけで怖い。浪花千栄子の魔女の声もある。『羅生門』の巫女でも男声を使ってたが、ああいう効果がある。演出としては、モノノケの家がワンカットの間に取り除けられる、なんてのをやってた。マクベス夫人の視線の演出も凄い。話し相手には向けられない。いつもどこか虚の一点を見詰めている。旦那の目を見てものを言うのは「酒を見張りの者たちにつかわそう」と、言外の意を含んでいるとき。真意を眼で告げているわけで、「企む女」の演出がここにキマる。謀反の瞬間は、夫人の所作のみで見せていた。ほとんど舞いである。黒澤の能好きが一番生かされたフィルムで、異なる芸術分野がひとつの作品に理想的に結晶した稀有な例であろう。[映画館(邦画)] 9点(2012-11-06 09:59:00)(良:1票)

10.  草迷宮 おそらく寺山が一番自由にイメージを氾濫させた作品。一応構造みたいなものを取り出してみると、母の記憶の代表として“失われた手毬唄”があり、青年になって自由を得た代わりにそれを失った、ってなことか。でもこの映画の魅力はあくまでイメージの輝き。たとえば「毬」の球体が繰り返されていく。ときに囚人の重しとなり、ときにガラスの浮き(?)となり、子さずけ石、スイカのバケモノ、さらにはらんだ母の腹へとつながっていく。球体という「何かを包み込む・囲い込むもの」が反復される。最後の魔の跳梁は、スラプスティックぎりぎりで、若松武が刀を振り回したりするが、シラけないのはユーモアでフェイントを掛けてるから。女相撲の土俵入なんか絶品でしたなあ。あそこに母の首があるので、魔の勝どきのような凄味も加わり、その首が「いつまでもお母さんの子よ」とか言うんだよね。逃げても逃げてもお前をはらみ続けてやる、って感じか。鏡花のモチーフに寺山のテーマが被さっていく。「母・故郷・記憶」との闘争史であり「母・故郷・記憶」からの逃走詩。主人公を誘う少女の手毬の身振りが凄くエロチックで、右手で毬を突いてて(くっついてる)左手は後ろに跳ね上げるような仕種。ああいう細かな動きの正確さは、演劇人としての鍛錬のたまものだなあと思う。二人がかりでものを運ぶ、ってのも繰り返されてた。祭のような苦役のような。[映画館(邦画)] 9点(2012-11-01 12:39:24)

11.  お早よう これはトーキー以後の小津で、蒲田サイレント時代のリズムが一番感じられ大好きな作品。子どものハンストが『生れてはみたけれど』の反復という直接的な関係もあるが、どちらかと言うと、おでこをツンとする仕種が『生れては…』のまじないを思い出させ、タンマの仕種も絶妙に使われている。給食費請求のゼスチャー、「書いて示せばいいのに」と思ってしまう我々は、トーキー以後の映画を見て育ってしまった人間の無言観で、ここは「字幕」に頼らず沈黙の身振り・仕種で伝えようとしなければ、サイレント時代から映画を作ってきた矜持が許さないのだろう。久我美子のトンチンカンな解答が笑わせてくれる。若夫婦がジャズを口ずさみながら横断するカットは、チンドン屋好きの成瀬ならまだしも小津のトーキーで見るとかなり異様に映るが、サイレント期の、学生の応援団(『落第はしたけれど』)や肩を組んで歩む不良グループ(『朗らかに歩め』)の再来なのではないか。ところで、四つの家の配置がいつもよく分からなくなるので(住んでる東野英治郎でさえ間違うくらい)今回は図を描いてみた。草の土手がある側に杉村春子と高橋とよ、ブロックの斜面がある側に長岡輝子と三宅邦子が並んでいるよう。異常なのは奥と手前両方を土手状の斜面で視界を塞いでいることで、こんな住宅地現実にあるだろうか。庭の眺望が必ず隣家によって遮られる小津の嗜好が、拡大されたのであろう。つまりこの住宅地が一つの家のようで、小津映画でおなじみの部屋から部屋への出入りを、隣近所に広げてみたわけ。移動する四人の主婦が小津常連の名手ばかりで、最良の弦楽四重奏のようなアンサンブルを楽しませてくれる。全編天上の音楽を聴くような傑作で、トーキーになってもこういう純粋なコメディをもう2、3本作っておいてくれてても良かったのに、と思うけれど、一本でもあるだけ嬉しい。登場する駅は、蒲田の川向こうの八丁畷であった。[CS・衛星(邦画)] 9点(2012-10-07 09:35:47)(良:1票)

12.  豚と軍艦 《ネタバレ》 長門裕之、ちょっと演技過剰だけど「滅びゆく豚の代理人」としてその愚かさを否定的でなく描いている。ヤマ場で豚に向かって「逃げろ」と叫ぶのは、初めて恋人吉村実子への真摯な語りかけだったんだろう。アメリカに寄生する豚のような人間たちを豚が押し潰していく60年安保直後の夢の爆発、アメリカに色目を使うネオンサインを機関銃で破壊していく爽快な夢。でも本人は便器に顔を突っ込んで死んでいくわけで、夢でない現実は吉村実子のこれからに託されるわけだ。ラストの超望遠で口紅を拭き取るシーン、以後も今村でよく目にする望遠の効果の代表例となる(その対極のように豚とそれに潰されていくやくざの顔が画面にミッチリ詰め込まれたカットもあった)。基地に寄生するという形で現実を生きていく女たちも、批判的ながらイキイキ描かれていた(70年安保のときにもう一度横須賀をドキュメンタリーで描いた『にっぽん戦後史』で、そういうマダムを対象にする)。でも本作が記憶に残るのは日本では珍しかったブラックユーモアの連発で、癌ノイローゼのやくざという造形が傑作。自殺できない気の弱さから殺し屋に「知らない間の射殺」を依頼するも、その後勘違いが分かって逃げ回るという滑稽。それ以上に記憶に刻みつけられるのが加藤武で、ニコニコ笑いながら「へへへ、シルが出たよ~」と死体処理の汚れを人につけて楽しんでいる。「豚から入れ歯」のシーンも、彼のニコニコ笑いがあるのでさらに弾ける。小沢昭一のエッセイにはよく加藤の話が登場し、生粋の江戸っ子なのね、彼。本作のニコニコ笑いを見てからずっとファンです。[CS・衛星(邦画)] 9点(2012-09-27 09:49:15)

13.  銀河鉄道の夜(1985) 猫にしたのが当時は賛否両論だった。子ども向けに迎合してる、って意見があったけど、猫にしたことによって無表情が自然になってる、と私は断然「賛」だった。人間だと無表情は中間的表情というより陰気なイメージになってしまうが、猫だとほんとにニュートラルな表情となり、それが少年の純な心にピッタリする。そして賢治の世界にふさわしい。原作のイメージが素晴らしいんだけど、映画もそれを膨らませている。丘へ上る道が銀河につながっていくところ。静かに繰り返されるレールのガタンガタンのリズム。冒頭を初め、全編を通して振り子のイメージが貫いている。待合い所のメトロノーム、新世界交響楽の駅にも大振り子。ときどき流れ過ぎる輝く正四面体がちょっとつまらないのと、リンゴの皮を剥くとどんどん蒸発していく原作のイメージがなかったのは残念。ジョバンニが自分だけ違う切符を持っているあたりから忍び寄ってくる不安、「どこまでも一緒だよね」と何度も確認するあたりから、もう泣けてしまう。ジョバンニには妹を失った賢治がいるし、カムパネルラには、貧しい農民になれない地主の息子の後ろめたさを抱いている賢治がいる。そういったもろもろを静かな暗さの中で反芻していた賢治は、本当にいいなとあらためて思う。永訣の夜としての銀河鉄道。[CS・衛星(邦画)] 9点(2012-08-22 10:04:56)(良:1票)

14.  細雪(1983) 市川崑は「女たちの帝国」とでも呼ぶしかない世界を好んで描いてきた。それの大映時代の代表作を『ぼんち』とするなら、東宝時代がこの『細雪』だろう。大映時代には『黒い十人の女』もあるし、東宝時代の『犬神家の一族』もその系譜だけどね。じゃれあう姉妹たちで閉じられた世界、夫たちも足を踏み入れられない聖域。雪子が溺愛するのも甥ではなく姪であり、女の血の流れだけで守られた上品な淫蕩さが支配する結界だ。この宇宙が崩壊していく物語なんだけど(いや、散り散りになっても決して崩壊しないという物語なのか)、あからさまな腐臭はたたせない。啓ぼんでさえ、変な言い方だが実に趣味よくすさんでいく。雪子の見合いの相手はどんどん落ちていき、妙子の相手の質も悪くなっていくのだが、そのことが蒔岡姉妹を汚せない、雪子の高貴さを高めるばかり。こういう不可思議な帝国を観客に納得させるのは、女優たちの力で、佐久間良子の三枚目ぎりぎりの「愛すべき人物」ぶりなんかが実にいい。最初キャスティングが発表になったとき、吉永小百合の雪子は違うだろ、と思ったが(現実の女優が雪子を演じるということ自体無理な話なのではあるが)、観てみると、なんか納得できる出来になっている。下手に雪子らしさを強調するとオカルト娘っぽくなっちゃうし、何も演じなければただの愚図になってしまう、その程度が良い。鮎男との見合いのあとフェイドアウトになるときの曖昧な表情。たしかに軽蔑があって、それを隠してもいないのだけど、棘がないというか、相手に向かっていない。相手にマゾヒスティックな悦びを与えてあげているような表情。蒔岡姉妹とはつまりこういう表情を作れる人なんだ、と得心させられる。「細雪」という作品の本質が一瞬であらわになった場面だった。「女性映画」と並んで崑で優れているのが「無内容な純粋娯楽作品」だと思ってるんだけど、それの大映時代の代表作が『雪之丞変化』、東宝時代の代表作が「金田一もの」。そういう私にとって、本作で「本家」とか「分家」とかの活字を画面に目にすると、あのシリーズを思い出しホロッとしたものでした。[映画館(邦画)] 9点(2012-08-01 09:58:38)

15.  水俣 患者さんとその世界 胎児性の患者さんがこちらを振り向くところからラストまでは、とりわけ凄い。私たちはいままで水俣病を知っているつもりになっていたけど、それはたとえば支援団体の膜越しだったりした。その膜を破って、じかに水俣病に触れ得たという実感がある。このドキュメンタリーだって「支援団体」とさして違わないはずなのに、距離感が違うのだろうか。患者にこちらの眼=カメラをいじるに任せているカット、やっと患者と触れ得たという感動がたしかにあった。漁民の生活を丹念に描いたことも大きい。味噌とバターでの餌づくり、蛸採りの美しい水中撮影。自然と一体となった生活があったのだ。それをずっと続けていけたと言うのは理想論すぎるけど、そういった生活への懐かしさや憧れは、やはり暮らしの方向を考える上で大事なのではないか。あるいは患者のためにオルガンやステレオなど家に似合わないハイカラな物が置かれている光景もジーンとさせる。親の贖罪の気持ちがそこに凝縮している。水銀を食べさせたのは親の責任ではないのに、その申し訳なさはこういう形でしか表せないのだ。スピーカーの振動を手で感じている耳の聞こえない弟。けっきょく優れたドキュメンタリーとは、当事者との距離を正確に知っているということだろう。患者とその家族との苦痛に触れられないということで、観客もチッソと同じ側についている。その認識が安易な同情や哀れみを禁じていて、知らず知らず観客はより積極的に患者の側に身を乗り出さざるを得なくなる。限りなく近づこうと想像力を使役させなければならなくなる。だからたとえば総会で支援団体の人が壇上に上がってきた行為などは浮わついて見えてきてしまうのだ。患者たちの御詠歌の迫力には、薄っぺらな行為は吹き飛んでしまう。伝染病かもしれないと思われて子どもを引き離されたエピソードや、町の発展を妨げるものとして排斥された動きなど、これまでに描かれてきた細かい棘の数々がここで裏返され、あの御詠歌になってごうごうと唸り立てているのだ。[映画館(邦画)] 9点(2012-01-28 12:40:09)(良:1票)

16.  関の彌太ッぺ(1963) 《ネタバレ》 長谷川伸の名作のうち本作は、時を置いて主人公が「すさむ」パターンが「一本刀土俵入」と共通しており、その「すさみ」のために思い出してもらえないほど人相が変わっているという話のツボも一緒。長谷川伸の一番お得意の展開なのだろう。本映画の場合、ちょうど錦ちゃん自身が、前期の明朗な役柄から後期のニヒルな役柄に移る時期と重なったことで、すさむ前とすさむ後と、どちらも無理なく演じられた。基調にあるのは、どうせヤクザもの、という「かたぎ」に対する疚しさ。それは甘えの裏返しかもしれないが、その「すさみ」のなかに「真情」を光らせる。彼の目に映るかたぎのなごやかな家庭は、いつも額縁に入ったように垣根の向こうに見えてくる。曇天の墓参りの場や暮れ六つの鐘が鳴り渡るラストシーンなどロケも美しい(あれ七つ鳴っているのを今回発見した、最後のひとつは弔鐘なのか)。あるいは妹について知らされている岩崎加根子との場で、ゆっくりゆっくり近寄っていくカメラ。それと本作で大事なのは木村功で、気のいい小悪党の悲しみを演じて非の打ちどころがない。前半の屈託のなさが、後半の自分の恋情に突き動かされる弱さに自然につながっている。結婚してかたぎになろうとしている。そのために亭主には頭を下げ、ならぬとなれば一度は引き下がろうと旅支度までしている。やくざものとかたぎとの敷居の高さに阻まれた絶望が荒れさせたのだ(この作品で敷居を越境できたのは、けっきょく悪党の娘からかたぎの娘となったお小夜だけで、弥太郎は、悪の川にさらわれてそのまま苦海へと越境できずに流れ去った妹の代理として、自ら川から救い上げたお小夜の越境だけはなんとしても守ろうとしたのだ)。木村功の最期は「いっそ尊敬するアニイにどうにかしてほしい」と願ったゆえのものなのか。かたぎでない者はみな自死のように、それぞれの死に場所へ向かっていく。この「すさむ」ことの美意識は現実世界では危険なものでもあるが、それをスクリーンという額縁の中でぎりぎりまで磨き尽くした本作の成果には、ただただうっとりさせられる。[CS・衛星(邦画)] 9点(2011-05-21 09:58:15)(良:3票)

17.  東京物語 老夫婦が子どもに会うために東へ行き、子どもたちが親を送るために西へ行く、というシンプルな二つの移動の物語で、しかしその移動はほとんど描かれず、ただ西から東へ帰る紀子(原節子)の姿のみが最後に置かれる。描かれているのは人の世のむごさだが、しかしそのむごさは改めたり正したり出来る「あやまち」といった類いのものではなく、「そういうふうになってるもの」として提示されているがゆえにより沁みる。以前は、最後の京子(香川京子)の憤懣がちょっと剥き出しで、この繊細きわまる傑作の唯一のほころびかと思ったときもあったが、あれはただ本質を見つめられない「若さ」を客観的に描いていたのかもしれない。紀子によってフォローされているのだし。その紀子と京子が時計を介して照らし合わされ、移動する車中の紀子で閉じられていくことは、ここで初めて西と東が連続しようとしているようにも思われた。おそらく京子はここを通って東に行くだろう。しかし老父の葬儀までもうここを西に行く家族はいまい、という幕を引くための移動のようにも思われてくるのだ。[CS・衛星(邦画)] 9点(2011-04-15 09:43:53)

18.  天空の城ラピュタ 《ネタバレ》 巨大な樹木がラピュタの崩壊をとどめる、というところに宮崎のモチーフの統合が感じられた。宮崎には大きく二つのモチーフがあり、ひとつは大地に根を張るどっしりとした不動性、もうひとつはそれとは逆の飛翔願望。しばしば別々に描かれるこの二つのモチーフが、本作ではラストでひとつになっている。根を張ることで飛び続けられるというイメージ、これを発見したとき宮崎は嬉しかっただろう。あと、姫と悪漢が冷たいメカニックな内部に踏み込んでいくと、有機的な根や雑草が増えていくイメージ。冷たい絶対権力として君臨していたラピュタの中心部を植物が浄化していった、というイメージなのか。いや、そういった理屈を超えた本質的な感動、室内に外界が入り込むことの驚きを伴った興奮がここにはある。なにかタルコフスキーに通じるものを感じた。今でも、室内で大麻栽培してて逮捕された、ってニュース映像見ると、ラピュタを思い出しホノボノとする。善と悪の対決後、崩壊、樹木によって楽園=廃墟のみが生き残る。文明は崩れても文化は残る、ってことか。本作はまだまだ豊かなイメージにあふれていて、海賊のママと姫を「おさげ」でつないでいること、ロボットのアンバランスな顔の効果、海賊船が布製であること、水の中の廃都…。これらは、それ以前それ以後の作品に関連がありそうなものもあり、宮崎世界のイメージ索引のような映画にもなっている。[映画館(邦画)] 9点(2010-10-07 10:12:52)(良:1票)

19.  出来ごころ 《ネタバレ》 昔の労働者はいかに始業時間を知ったのか、ってのが気になってた。工場でサイレンを鳴らしただろうが、しだいに居住区が広がっていくと、この映画のように労働者が各自時計を持つようになったのだろう。富坊の部屋に時計があるのは子どもは早起きってことなのか、それとも喜八は文字盤を読めないってことなのか。昔の映画って、細部までいろいろ考えさせてくれるから嬉しい。で喜八と次郎と春江の三人の心模様が進行していく。恩の義理と心情と。「隣の大将をコケにさせるような真似はよしてくれ」なんてあたりに、かえって次郎の心情を暗示させている。ヤマ場は盆栽をめぐる場。喜八がぶつたびに富坊はそこを掻く。別に痛くもないやあ、という不貞腐れの表現。そして逆襲、「新聞も読めないで」。喜八ぶつ、富坊掻く、ののち、富坊が喜八をぶつ。やがてされるままになる喜八。子どもにぶたれるにまかせる親、ってのはしばしば小津作品に現われるモチーフだが、ここらへんの侘しさは一級品ですなあ。自分は字が読めない、この子は勉強できる、春江に惚れるのがカアヤンに笑われるほどの歳になっている、自分が惨めに見えてきて、でもその自分を父とする子どもが目の前にいて…。そういったあれこれが凝り固まった場。で「贖罪」で与えた五十銭玉で、富坊の病気を導く。病院代の工面、「こんなときでもなきゃ、あたしなんか御恩返しができませんもの」と春江。喜八は「そう言ってくれるだけでも、ガキぐれえ殺したって」、でも春江が一番言いたかったのは次郎に対する「どうせあたしなんか構わないんじゃないの」。こんなシーンは映画史上いっぱいあったと思うんだけど、段取りよく次郎と春江の愛の確認につなげていくうまさゆえか、泣けちゃう。盆栽からここまでの流れの自然さ、昔のシナリオ術ってのはこういうところが眼目だったんだろう。で北海道行き、かつて子どもに殴られるにまかせていた喜八は、次郎を殴る。しかし喜八をかっこよくし過ぎないようにと、ズボンをシワシワにして脱いでいた描写を、反復させる場を用意する。小津の喜劇の才と、侘しさを描く才とが、不可分に絡み合っている傑作。[映画館(邦画)] 9点(2010-06-22 09:58:38)

20.  一人息子 《ネタバレ》 小津の作品で「過去」が描かれた部分があるのは珍しい。大正末の信州シーンから始まる。ランプ。そこで人物を設定しておいてから、現代の東京に母が上京してくる。嫁は下宿の近所の娘だったそうで、なにやら小津の学園ものコメディを思い出す。あの青春を謳歌していた学生たちのその後。しかし現在の夜学の生徒たちはかつての学園ものと違って、坊主刈りだし生気がない。家ではずっと近所の工場の音が続いているのが、初トーキー作品ならでは。それで支那ソバのシーンでしたか。ちょいと隣の家によって「ひょっくり出てきちゃって弱ってますよ」なんてところ。これを夫婦で語ると深刻になってしまう。隣りのおばさんに軽く言って「まあ(そんなこと言っちゃバチがあたりますよ)」ってな調子で受けてもらいたいという主人公の側の期待も含まれている。つまり愚痴。こういうとこがうまい。そして埋立地のシュールな、後のアントニオーニめいた茫漠とした風景。ひばりの空との対比。夜の不満の爆発。母の性根論もむなしく響くぐらい、風景のうつろさが家族を取り囲んでいる。富坊が馬に蹴られるエピソードがあって、これで母が「お前もお大尽にならないでよかった」と結論づけようとする哀れさ。小津の主要なモチーフとして「不如意」があるが、これをすぐ「諦念」に結びつけるのは危険だと思う。どうして挫折するのか、どうして家族は一緒にいられないのか、どちらかというと小津は諦めるというより苛立ってたんじゃないか。これを「人生の味わい」なんて片づけさせないぞ、ってな意気込みを感じる、少なくとも戦前の作品では。私は基本的には明るい小津が好きなのだが、しかし本作の侘しさはコメディのネガとしてズッシリと記憶に残された。[映画館(邦画)] 9点(2010-06-18 12:03:27)

全部

Copyright(C) 1997-2024 JTNEWS