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【製作国 : フランス 抽出】 >> 製作国別レビュー統計
評価順12
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1.  自由を我等に 社長が友情に負けて、ワルガキのように晩餐会をコケにしていくあたり。あの晴れ晴れとした感じは、この時代のフランス映画で特に見られるものではないか。ラストの式典での風も素晴らしい。まだサイレントのココロが残っているのだろう。リアルである必要のなさ。リアルであらねばならないという強迫観念がなかった時代。蓄音機工場ってのが、いかにもトーキーに入った時代を示している。つい後世の我々が思ってしまうように、トーキーになったことにそう戸惑っていた訳ではなく、その時代に作れる映画をただ作ってみたらこうなった、という汽水域ならではの豊かさと見たほうが当たってそうだ。[地上波(字幕)] 8点(2013-10-16 09:33:54)

2.  シラノ・ド・ベルジュラック(1990) すべての映画が映画史を切り拓くものである必要はないが、映画ならではの楽しみというものも欲しいところ。だからもっぱら原作についての感想になるんだけど、誠実さを見せるためには技巧が必要なのだな。フランスだけの話でもない。日本の平安時代だったら和歌が詠めないとダメで、誠実さがただそれだけで尊重される社会のほうが、歴史的には珍しいのかもしれない。技巧ってのはただの飾りではなく、ある程度本質と不可分になってるんだ。17世紀のフランスでは、ジュテームとしか言えないのは、和歌を読めない平安貴族と同じで、ただの馬鹿だったのだ。これ「他人の顔(安部公房)」の話でもあるな。美男子の仮面を得て始めて朗々と恋を語れるシラノの切なさ。顔はやはり他人との通路なのか。シラノの涙とクリスチャンの血による二人三脚物語。あちらの古典戯曲には、しゃべりまくる爽快さってのがある。[映画館(字幕)] 6点(2013-10-13 10:10:40)

3.  新学期 操行ゼロ 俯瞰で撮るとドキュメント的になる。対象と同一平面だとドラマとして共感できる点を探しながら見ているが、上からの視線だと観察的になる。だからこそ非ドキュメントのスローモーションで羽毛が舞う場になると、その効果が絶大になるのだろう。いかにも「普段」ではない。そもそも映画という表現の軸にある対立は「記録」と「幻想」だと思っているもので、本作の俯瞰とスローモーションの対立には「まったくそうだ」と思わずうなずいた。それとフランス映画にある「自由万歳」の精神、それが硬直した・スローガン的なものでなく、「だらしなさ万歳」や「のんき万歳」にもしばしば通じているのが、いいと思う。[映画館(字幕)] 8点(2013-10-08 09:37:51)

4.  宿命(1956) 他人の不幸に対する責任、という問題。連帯とは何ぞや、ということ。大手労組が中小企業の労組との団結を簡単に言うことの欺瞞性みたいなことをチラと思った。現実問題として「連帯」って凄く難しいことなんだ。加害と被害の区別があやふやになっていく。この村の財産を守ろうと被害者の立場に立ったとたん、彼らは荒野で飢えた人々に対する加害者になっていく。「彼らはコレラだ、コレラからは村を守らねば」。あの村は「選ばれて」しまったわけで(主人公が受難劇のキリスト役に選ばれたように)、それが「宿命」なのか。話の骨格は、援助を求めてきた難民をどう扱うべきか、という問題で、それに村での受難劇が重なる仕組み。彼らは選ばれた責任を引き受けていく。各個人の財産に関するエゴを突つき出しながら。圧政下の平和か、自由の戦争か、って問題でもある。臆病な私は、連帯ということの厳しさをオロオロ噛み締めるばかり。赤狩りを逃れてフランスに渡った監督は、本作でM・メルクーリと出会った。[映画館(字幕)] 7点(2013-06-25 09:58:21)

5.  獅子座 獅子座の運勢は30代はぶらぶらしてて40代になると幸運か不幸かハッキリするんだって。幸福になるってんじゃなく、いいか悪いかハッキリするってところがミソ。曲がりなりにも社会人だった主人公がルンペンになっていくのを、関数のグラフを眺めるように描いていく。このテンポの堂々としたとこ(人が不潔になっていく関数でもある)。金銭が正確に表示される。友人に渡さなかった6フランで9フランのパンを買ったり、推理小説の古本10冊で400フランとか、彼の金銭出納簿がキチンと観客の頭に書き込まれていく。とりあえず目的ありげな通行人になって社会人を装うんですな。鞄はまだ持っている。でも衣服の汚れなどで、だんだん街中で浮いていってしまう。それを糊塗しようとするんだが、それも面倒くさくなって、服のしみを取るより、そのしみの側に転がり込んでしまう。恵んでもらう経験が、社会人としての誇りを放棄した瞬間か。ここらへん実に実感迫ります。セーヌの遊覧船から落ちた菓子袋を石を投げてこっちに寄せようとしたり。イタリア映画だったら重いネオリアリズモの題材が、フランスはエスプリの笑いに仕上げている。苦笑いだけど。ゴダールがベートーベンの弦楽四重奏曲15番の第2楽章中間部を繰り返し聴く場があり、のちの『カルメンという名の女』(全編にベートーベンの弦楽四重奏が流れた)を思い合わせると、これはゴダール本人の好みのスケッチなんだろう。[映画館(字幕)] 8点(2013-06-10 09:38:59)

6.  真実の瞬間(1991) こういう敢然と闘いましたって話より、転向した者の苦衷とか、波に乗って告発して回った者の内面を描くほうが意味があるのではないか、などとブツブツ思いながら観ていたが、でも公聴会のシーンでは興奮しちゃった。アメリカ映画は、やっぱりこういう切り口が一番合う。狂った流れを止めようとする者の勇気は、何度でも何度でも賞揚しなければならない。流されたものの分析よりまずその目の前の勇気を褒め称える、これがアメリカ映画。ここから勇気が広がっていくことに希望を持つ。楽天主義かもしれないが、なんらの説得をも含まない強制させるだけの言葉の冷たさがクッキリ描かれているから、この楽天主義の必死さも伝わってくる。アメリカの楽天主義が説得力を持つとき、その裏には必死さがある。狂った正義は怖いけど、それを止めるのも正義感しかない、ということを繰り返し学んでいるからだろう(繰り返しても身に付かないってことか)。[映画館(字幕)] 8点(2012-11-17 09:51:01)

7.  商船テナシチー なんか山本周五郎の世界よ。人間が描けている、ってこういうのを言うんだろう。お調子者だが現在をいとおしむ男と、いつも自分で決められない男、そしてドキッとするような恋する女の残酷。「彼女笑ってたか」って手紙を託された男に尋ねるんだよなあ。まだ踏ん切りがついてない、っていうか、風景に別れたくないっていうか、つまり後ろ髪を引かれる思い。夢と今いる場所と。人生は厳しい。すべてのエピソードが厳粛な出発につながっていく。それは友情の限界であり、本当の人生の始まりであり、故郷を捨てることであり、記憶の一つの段落であり…。デュヴィヴィエって、情感過剰気味でクレールやルノワールより一段低く見がちなところがあるけど、やはり名を残す人だけのことはありますな。キモのところで日本人の好みとうまく重なっているのか。[映画館(字幕)] 8点(2012-10-19 09:55:44)

8.  終電車 設定は絶妙。舞台の下に隠れる演出家、舞台の上での「恋を自覚していない者同士の恋」にいち早く気づき、自分を含めたドラマを演出していかざるを得なくなっていく、というか手に負えなくなっていく。この「恋を自覚しない者たちによって綴られるメロドラマ」という趣向がメイン。意識が、反感や無関心を装って表れるところが味わい。それが実に抑えて抑えてやってるんだよね。こちらがそれに見合うだけのデリカシーがあれば堪能できたのかもしれないが、もうちょっとワクワクさせてくれてもいいんじゃないの。設定だけに寄りかからない態度は立派でも、せっかくの設定が十分に生かされてたのかなあ。趣向が直接映画の楽しみに結びついていかないようで、なんかじれったい。とは言えこの設定は評価。[映画館(字幕)] 6点(2012-05-18 09:53:32)

9.  死刑台のエレベーター(1958) 《ネタバレ》 あの場所であの時間にロープで上がるのは無謀だよな。本当はもっと暗くなっているのを映画の約束事として明るく見せた、っていうんじゃなくて、だって後でもっと黄昏てからロープをしまい残しているのを外から発見するんだもん。そんなものを見ても通報しないだろう都会の無関心を考慮に入れてた、ってほどキモが太い男じゃなく、電話が鳴ってりゃ慌ててロープしまい忘れて部屋に戻るし、それを発見すりゃ車置きっ放しで駆けつけ盗まれてしまう。ここはどうしたって引っかかる。さらに言えばそのロープは、後で女の子が路上で拾うだけでおしまいってのも説明不足。あの金属性の爪の重みで自然落下してたのです、とこっちのほうで脚注をつけておきました。というわけでスリラーとしてはかなり文句がつくが、フランス人は心理ドラマのほうに重点を置いているのだろう。密閉された男と、夜の街をさすらう女の対比がたぶん監督が一番描きたかったところと見た。M・デイヴィスのジャズの効果も大きいが、この夜の描写の質感が素晴らしい。J・モローの心中の動揺を想像させつつ、冷えた夜が無表情の彼女を包み込んでいく。まるでエレベーター坑の空洞を静かに落下していく火のついた紙のよう。そしてラストのモロー。出獄時の自分の年を計算していくその愛の妄執の凄味、こういうとこになるとフランス映画の独壇場だ。[CS・衛星(字幕)] 7点(2012-05-13 09:35:48)(良:3票)

10.  シルビアのいる街で 《ネタバレ》 現在サイレント映画という手段に頼らなくても、サイレント映画の精神は生かせる、という見本。旅人にとって旅先の世界はほとんどサイレント映画だ。聞こえるものより、見えるものの情報のほうが俄然重要になっている。カフェの店先から女性たちの顔を眺め続けるシーンが楽しい。しだいに誰か特定の顔を求めていることが分かってくる。手前の人物に隠されていた顔がずれて見えてきたり、後ろ向いていた頭がゆっくり横顔を見せたり、やがて彼は席を移ったりし、誰か特定の人物を探していることがはっきりしてきたとこで、ガラス窓の反射の多くの顔が重複している中から、一つの顔が固定されていく。ここまででもけっこうサスペンスなのだが、このあと追跡のサスペンスが続く。腰ぐらいの高さのカメラ視線で、ストーカーのように追尾が始まる。すっくと立った男の高さよりは低く、身をかがめて密かにつけているような感じ(と思ったのはこちらの品性の問題か)。映画における「角を曲がる追跡」は、どうしてこうも興奮させるのだろう。そして路面電車での語りかけ。本作で数少ない字幕を読むシーンだが、ヒロインの肌を輝かせたり翳らせたりしている陽光のただ事でなさのほうにドキドキさせられた。人違いの別人になったり、嘘をついているシルビア本人になったりしているよう。ここまでが素晴らしいので、失意の彼の酒場シーンはちょっと物足りない。あるいはあの奇跡のような陽光がないと、世界は味気なくなってしまうという表現なのかな。この映画いったいどうやって終わらせるんだろう、とここらで心配になってきたら、なるほど、ガラスの反射の中から浮き上がってきた「シルビア」はまた、ガラスの反射の中に消えていくという趣向で来たか。最後まで映像に語らせた映画だ。[DVD(字幕)] 7点(2012-04-18 10:02:32)

11.  シティ・オブ・ジョイ 国際規模に拡大された『赤ひげ』って感じ。インドから見れば「いい気なもんだ」ってなとこもありましょうが、「逃げ出すか、傍観するか、飛び込むか」という「とにかく行動せよ」いう姿勢、「そのことが悪いはずはない」という確信の強さ、には一目置きます。そういった信念が歴史上多くの悲惨も生んでいるんだけど、歴史を動かしてもいるわけで、たとえ人の職を奪うようなことになっても正義を貫く、根本的に悪に立ち向かおうとする、という一途さをヨシとするのが、西洋の原理なんでしょう。青臭い青年と二人で分担させたっていうのも手ですな。でもやっぱときどき小声で「いい気なもんだ」とは思っちゃうんですが、こちらもアジア人なもので。マックス君の心の傷がちょっと弱いんじゃないか。説明が少女を死なせたってだけでは。だから施療院手伝わないとこなんか、ただのダダッコに見えちゃう。ま実際そうなのか。人力車は「リキシャ」って言うんだよね。馬のようにいななけ、なんて言うの。モリコーネの音楽、ラストに合唱が入るのは『ミッション』のタッチ。こういう弱者が圧制者に立ち上がるって話に弱いもんで、点は甘くなる。[映画館(字幕)] 7点(2012-03-31 09:44:36)

12.  白いリボン 《ネタバレ》 たぶん、村を覆う不穏の気配を描いた映画なのだろう。それは圧倒的で、白黒の美しい田園風景が周りを囲んでいるだけ、さらに不穏である。誰が犯人か、というミステリーの興味にしちゃ余計なものが多すぎるし、厳格さは子どもをダメにする、というテーマにしちゃ集中感がない。子どもに収斂されていく不穏な気配(やがて世界大戦に移ろっていく)を味わう映画なんだ、と納得しようと思ったが、なんかそれにしても集中感に欠けるなあ。語り手のロマンスは村の厳格な風土との対比で入れてるのだろうか。そのほか意味ありげなエピソードがあったり中途半端なエピソードがあったり、すべて「気配」を醸成してはくれても「テーマ」に集中してはくれない。トーンとしてはベルイマン的で、だいたいあの厳格な牧師の顔がグンナール・ビョルンストランドを思い出させる。ドクターが助産婦に毒づくあたりの容赦のなさもベルイマンタッチ、でもあちらにはもっと集中感があった。2時間半も使って「気配」を描こうとはしなかった。キーになる子どもたちが、へんにニタニタ笑ったりしないのはいいんだけど。ここらへんの時代を描くとなるとパリやウィーン、ベルリンなど都会が多く、田舎の20世紀初頭ってのは珍しかった気がする。最初のうちは18世紀末かと思って観ていたら、シューベルトがどうのこうのと言うんで19世紀かと思い直したところ、セルビアで暗殺事件が起こったという報が入って驚いた。もっぱら都市で語られる世界史と地方史ではズレがあるんだな。あそこらへんのヨーロッパの北側、第一次大戦前後の田舎の風物としては、北隣デンマークの『奇跡』(30年ごろが背景)が思い出される。神の罰が重くのしかかっている風土ではある。「神さまに僕を殺す機会を与えたんだ」。[DVD(字幕)] 6点(2011-12-29 10:11:22)

13.  ジョニー・スエード 《ネタバレ》 『ストレンジャー・ザン・パラダイス』の撮影やった人の監督作だそうで期待したけど、ノレないまま終わった。突っ立ってた髪の毛が、普通に寝込むまでの話。天から降ってきた靴、それによって人生のステージを一つ進み、その靴の片一方を失うことで、そのステージから出て行くまで、とも言えるか。一昔前のサウンドに固執している。伝説の待望。登場人物たちがやたらと詩を語る。家賃の払いを迫る大家までが韻を踏む。女の子のときはバックでギターが分散和音を奏でている。人には騙されるし、不器用で純なヤツなんだ。でもそういうのを描こうとすると、50・60年代を振り返るポーズをとらないと描けないってことか。そして現代にジェームス・ディーンを持ってこようとすれば、おのずとコメディの気配が漂ってしまう。そういう時代のうつろいの哀しさを描こうとしたのかもしれないけど。しかしあの時代にはあった怒りがここにはない。[映画館(字幕)] 5点(2011-12-24 10:17:47)

14.  ジャック・サマースビー 《ネタバレ》 南北戦争後の南部が舞台。ミステリーふう。戦争から帰ってきた夫は本当に夫か、ってな。彼と彼女の間のヘンな雰囲気を丁寧に描写していく。ひげを剃るときの緊張。J・フォスターがキスを誘うのにR・ギアが気づかぬ振りして避ける。など、日常の細かい振舞いに潜んだ緊張を楽しめる。靴のサイズ。貴金属拠出のとき「妻のあたしが言うのもなんですが」って言ってブローチを出すあたりがニクイわけ。彼はここでサマースビーとして生きようとする。黒人や子どもの期待、期待をされることのしっかりとした手応え。ゴロツキにさっと右手でナイフを構えるジャックを、ロングで見てしまうローレル。でまあ、KKKもあって、裁判になる。アメリカ映画は本当に裁判が好きだ。南軍負けてもうすぐに黒人の判事が来てたのか。裁判の過程で愛の物語が明らかになってくるの。それまでのローレルの結婚生活の惨めさ、ジャックの改心、などなど。粋な判決を下すのかと思ってたら、愛の伝説になりました、って終わらせ方だった。あれなら裁判の後、あまりじらさないですぐ墓場にしたほうがサッパリしたのに。[映画館(字幕)] 6点(2011-10-31 10:11:18)

15.  人生は琴の弦のように これはまず「地形」の映画である。盲目の主人公が見ることの出来ない遠景から、足もとの斜面に至るまで、作者の慎重な選択が感じられる。監督はかつてテレビのインタビューで、パゾリーニが好きだと言っていたが、その影響もあるかもしれない。しかし黄河のほとりのうどん屋シーンの不思議な緊張感はオリジナルなものだ。怒涛渦巻く背景を生かした地形の中で、セリフの少ないドラマが演じられる。地形が観客に与えるインパクトは強烈で、非日常の世界に・それも東洋的な光沢を持った神話の世界に一気に連れ去ってしまう。シートウが恋人の顔を地形になぞらえて手で探っていくシーンがある。盲人が視線の代わりに手でもって恋人の顔の上を放浪し、触覚が視線になって未知に向かい合ったわけだ。またこれは「音楽」を巡る映画である。『黄色い大地』からすでに、彼の映画では音楽が重要な役割りを演じてきたが、本作で前面に押し出された。人々に和をもたらす彼の琴、最後は自分のために弾き切ろうとする。が、主人公は芸術に裏切られる。人のためでも自分のためでもなく、芸術はそれ自身のために存在するという無慈悲さが剥き出しになる。芸術に魅せられるとはどういうことなのか。それでも音を掻き鳴らさないではいられない人間の可憐さのようなものが感じられても来るのだ。さらにこれは「放浪と定着」の映画でもある。村人は二人の盲人を神として歓迎するが、定着は許さない。おそらく定住したらただの乞食になってしまうのだろう。民俗学的なテーマでもあろうが、芸術=非日常のありように関する問題でもある。大きな争乱を一気に鎮めてしまう力は偉大であると同時に恐ろしくもある。そのようなものには居座ってもらっては困る、時々訪れて去っていくのが一番いい。芸術とはそういうきわどい存在なのだろう。謎のようなうどん屋の女将の歌に「誰だって自分の家にはいたくない」というリフレインがあった。女=妻というものがそもそも定住の象徴なのに、その女が放浪へ導く歌を暗示している。彼女はけっこう重要な存在で、芸術に関わってしまった人間の皮肉な運命そのものを操っているミューズなのだろうか。ああ、なんかとても多層的に観られる映画であった。[映画館(字幕)] 8点(2011-04-20 12:27:19)

16.  新ドイツ零年 『パッション』以降の作品に言えるんだけど、メランコリーの度が強くなってるんだよね。それまで諧謔で隠されていたものが、剥き出しになってきたというか。室内撮影はもちろんそうなんだけど、風景の寒々しさといったら。ヨーロッパのメランコリーの源流はドイツにあるのだろうか。フランス・イタリアといったいわばヨーロッパ文化の中軸的なものに対して、ドイツ的なものを置くとヨーロッパに奥行きが見えてくる。たとえば音楽はイタリアやフランスで花開いたのに、いつのまにかメランコリックなドイツに中軸が移っていった。光に対する影のようなドイツの存在。そういえばこの映画では(というよりこの人の映画では常に)音楽・音に対して鋭敏にさせられるな。ピアノの打撃音まで。スピードを操作されてビデオで再現される過去の映画、その中の人物はすべて悲劇的に見えてくる。なにかすべてが憂愁へと向かっていく。憂い顔の騎士は、自らそのイメージの陳腐さに追い立てられるように、掘削機へ向かっていく。[映画館(字幕)] 6点(2011-03-25 12:14:20)

17.  シャネル&ストラヴィンスキー アール・デコって都会的なんだけど、ここでは田舎の中にデコの家がある。黒い縁が美しい部屋。外に広がる「田舎」に、近代女性であるシャネルが必死で抵抗しているような室内装飾だ。外の田舎は、イーゴルの妻の方がふさわしい。とんがっているシャネルと、病弱ながら周囲に広がって包み込んでいるような妻、との緊張。シャネルはイーゴルに刺激されて、洋服屋から香りの芸術家になろうと試みる。妻は夫の譜の清書を淡々とこなし、この生活から感じる腐敗の匂いに耐えていく。これ面白くなれそうなんだけど、どっかで見たような三角関係話どまりになってしまった。ピアノの響きによる嫉妬のうずき、クリムトの絵画のようなベッドシーン、などはちょっと面白い。でも一番思ったのは、ついにストラヴィンスキーも映画になったか、という感慨。楽聖映画ってジャンルがあり、シューベルトなどの名作がある(シューベルトは全裸にならなかった)。私の知ってる範囲では、ケン・ラッセルの『マーラー』が一番最近の作曲家だったが、とうとう第一次世界大戦を越えて、20年代のストラヴィンスキーが、シャネルとの二枚看板ながら映画の主役になった。これは当初最前衛だったストラヴィンスキーの音楽が、一般的なポピュラリティを獲得したって事なんだろう。次に映画化されるのは誰か。ウェーベルンなんて、ナチの支配に耐えながら米兵に誤射されて命を落とすドラマチックな生涯なんだけど、音楽の極北のようなデリケートな十二音の世界が、いつかシューベルト並みのポピュラリティを獲得する日が来るかどうか。「スターリン&ショスタコーヴィチ」なんて方がありそうだな。[DVD(字幕)] 6点(2010-12-22 10:09:35)(良:2票)

18.  審判(1963) 《ネタバレ》 やたら広い空間と狭い通路の対比。空間と言うより空虚ですか。会社のオフィスが圧巻。仕事が終わり、みなが帰っていくシーン。ここは天井が高く、Kの部屋は反対にやたら低い。それに法廷のシーンの人々、あれ上の方まで全部本物だったんだろうな。そしてそれらをつなぐ無数の迷路や階段。子どもたちのざわめきの中を追われるように逃げていく。ま具体的な映像世界ということで仕方ないんだけど、もっと「手応えのなさ」みたいなものが、カフカでは欲しい。「世間」はハッキリと逃走を誘うように迫害してくるのではなく、柔らかく微笑みながら次第に身動きできなくしてくるものなのではないか。ラストをダイナマイトにしたのは、現代では直接ナイフで刺してもくれない原爆の時代だということなのかな。煙がちょっとそんな感じだった。ロミー・シュナイダーが鏡とガラスが交互になっている向こう側を駆け抜ける。ここらへんの顔のアップでのセリフのやりとりは緊迫。全体にあおるカメラ、だから天井がいつも抑圧してくる。[映画館(字幕)] 7点(2010-11-07 10:55:19)

19.  ジャンヌ/薔薇の十字架 《ネタバレ》 戴冠式があって、政治的な汚れが彼女に迫ってくるわけ。ふとヴィシー政権下のパルチザンを連想した。男装の罪というのが、なにやら深い。女装すると牢番に嫌がらせを受けたなんてこともあり、まあそれだけのことかも知れないが、一度女装に戻ってから、また自分の意志で男装となり、死を選ぶ、ってなにか意味深そう。彼女のパラノイアの重要な部分に「男装」があったのではないか。ヨーロッパ中世における女性の位置についての考察が必要だろうが、国の解放と女装からの解放が、彼女のなかではパラレルだった。火あぶりを怖れ、ラスト炎のなかで「イエス様!」と叫んで映画は終わるのだけど。人々が中世の薄暗さのなかにいる感じは随所で出ていたが、どうもサンドリーヌ・ボネールは最後まで非中世的で(またあえてその効果を狙ったようにも見えず)、しっくりこなかった。[映画館(字幕)] 6点(2010-05-25 11:56:52)

20.  ジャンヌ/愛と自由の天使 この監督がなぜジャンヌを映像化しようとしたのかは分からないが、戦闘シーンの覇気のなさなどはいかにもヌーベルバーグである。自分から志願するところから始まって、パラノイアとしてのジャンヌを描きたかったのか。ふと天草四郎を思い、日本のヌーベルバーグと言われた大島作品とつながった。信仰家というのはどこかパラノイア的な頑固さがなければならないものなのだろう。周囲も、最初のうちは信仰による尊重もあるのだろうが、やがて彼女のパラノイア的純粋さの魅力に帰依していく経過。橋の攻略、最初は失敗し、次の攻略の前に樹下で祈るシーンになぜかグッときてしまった。やっぱりスペクタクルよりこういう場の方がいい。ええと、これ二本通しで観てノートはまとめて書いてあるので、一本目はここらへんまでか。[映画館(字幕)] 6点(2010-05-24 11:59:00)

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