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61.  パッション(1982年/ジャン=リュック・ゴダール監督) 輪郭の融解ということでまとめてみようか。半ばあたりの喫茶店のシーンで、父と娘とが「何にでも輪郭はあるの?」というような会話を交わしていた。なにせ冒頭が飛行機雲だ。まっすぐに明晰に直線を引いていたのが、飛行機が黒雲にはいってしまうと、やがて直線もぼやけていってしまう。このシーンを、よく小説の冒頭に置かれる箴言のような役割りと思えば、作品のテーマとなる。ものみな輪郭は融け出す、という真理。ときあたかもポーランドでの変革が進行していた。労働運動なり革命なり、輪郭のはっきりしていた言葉もやがて融け出し、不確かなものに変質していってしまう。ならば古典美術はどうか。額縁という輪郭のはっきりし安定していた絵画を、現代はそれを取り払ってしまう。そこに古典絵画を越えるものを生み出せるのだろうか。モーツァルトをバックにハンナ・シグラが逆光で道を歩いていくシーンなど美しいはずなのだが、私たちはいつクラクションが鳴るのかとビクビクしているので、一つの場面としての情感を共感できない。輪郭を固められない。音楽と映像とは手を取り合いたくてうずうずしているのに、騒音の緊張が画面を不安定に流していってしまう。そういう時代。名画のモデルたちの間をカメラが自在に流れていくシーンは実に美しいのだが、輪郭を持てない現代の我々がここで美を感じてしまっていいのだろうか。[映画館(字幕)] 6点(2012-11-26 09:53:10)

62.  真実の瞬間(1991) こういう敢然と闘いましたって話より、転向した者の苦衷とか、波に乗って告発して回った者の内面を描くほうが意味があるのではないか、などとブツブツ思いながら観ていたが、でも公聴会のシーンでは興奮しちゃった。アメリカ映画は、やっぱりこういう切り口が一番合う。狂った流れを止めようとする者の勇気は、何度でも何度でも賞揚しなければならない。流されたものの分析よりまずその目の前の勇気を褒め称える、これがアメリカ映画。ここから勇気が広がっていくことに希望を持つ。楽天主義かもしれないが、なんらの説得をも含まない強制させるだけの言葉の冷たさがクッキリ描かれているから、この楽天主義の必死さも伝わってくる。アメリカの楽天主義が説得力を持つとき、その裏には必死さがある。狂った正義は怖いけど、それを止めるのも正義感しかない、ということを繰り返し学んでいるからだろう(繰り返しても身に付かないってことか)。[映画館(字幕)] 8点(2012-11-17 09:51:01)

63.  サラ・ムーンのミシシッピー・ワン 写真の世界では有名な人なんだそうで、そういえば日本でも浅井慎平さんが誘拐ものの映画『キッドナップ・ブルース』ってのを撮ってたけど、これも少女が心を病んだ人にさらわれちゃう話。カメラマンと被写体の関係に、そういうものに興味を惹かれる何かがあるのかとも思うが、まあ偶然でしょうな。自分の映像術に自信があるようで、そっちで見せていこうという映画らしく、あまりシナリオを練ったようには見えず、雨に森に水と、それぞれの場面は美しい。でもそれでは『シベールの日曜日』は生まれないわけで、いささか退屈だった。映画ってのは、カットとカットの間に生れてくるもんなんだなあ、とつくづく思った。ただこのころは本作も含めて「車に置いてきぼりにされかける人物」を続けて見ており(『愛を止めないで』『ピストルと少年』)、それにはなぜか映画ならではのスリルを感じるんだ。[映画館(字幕)] 6点(2012-11-05 09:36:56)

64.  我等の仲間 友情の崩壊ストーリーよりも、田園の美しさに見惚れた。田園っちゅうか、川沿いのあたり、川遊びとかね。白黒だと木々の色が出せなくて駄目だろうと思いがちだが、かえって光に敏感になるので美しい。冒頭から木々の並びを流す画面だった。堪能堪能。開かれた祝祭気分の仲間うちの世界、これが一人ずつ去っていくことになるんだが、完全に分解しないで、最後二人だけで友情よみがえって終わったとしても、ちっとも甘くないと思うよ。悪女にリアリティなくても、それに振り回される男のほうに説得力があるからいいのね。みんなで瓦を飛ばされないように屋根に寝たのが一番の思い出だぜ、なんてのがいい。この監督は、巨匠というより名匠という言葉が似合う。(ハッピーエンドの版もあるらしい)[映画館(字幕)] 7点(2012-11-02 10:04:56)

65.  草迷宮 おそらく寺山が一番自由にイメージを氾濫させた作品。一応構造みたいなものを取り出してみると、母の記憶の代表として“失われた手毬唄”があり、青年になって自由を得た代わりにそれを失った、ってなことか。でもこの映画の魅力はあくまでイメージの輝き。たとえば「毬」の球体が繰り返されていく。ときに囚人の重しとなり、ときにガラスの浮き(?)となり、子さずけ石、スイカのバケモノ、さらにはらんだ母の腹へとつながっていく。球体という「何かを包み込む・囲い込むもの」が反復される。最後の魔の跳梁は、スラプスティックぎりぎりで、若松武が刀を振り回したりするが、シラけないのはユーモアでフェイントを掛けてるから。女相撲の土俵入なんか絶品でしたなあ。あそこに母の首があるので、魔の勝どきのような凄味も加わり、その首が「いつまでもお母さんの子よ」とか言うんだよね。逃げても逃げてもお前をはらみ続けてやる、って感じか。鏡花のモチーフに寺山のテーマが被さっていく。「母・故郷・記憶」との闘争史であり「母・故郷・記憶」からの逃走詩。主人公を誘う少女の手毬の身振りが凄くエロチックで、右手で毬を突いてて(くっついてる)左手は後ろに跳ね上げるような仕種。ああいう細かな動きの正確さは、演劇人としての鍛錬のたまものだなあと思う。二人がかりでものを運ぶ、ってのも繰り返されてた。祭のような苦役のような。[映画館(邦画)] 9点(2012-11-01 12:39:24)

66.  大いなる幻影(1937) 職業軍人たちの誇りと焦りと諦め、というあたりがよく出ている。仏のほうはもう次の世代へ譲り渡そうとしている。独のほうは最後の礼儀正しさで、自分の階級をまっとうしようとしている。そしてその次の世代というのは、より残酷な世界大戦で闘うことになるわけだ(当時のルノワールが予想していたわけではなかったろうが)。各国語をそのまま使っている。ジャン・ギャバンが次の捕虜に地下の穴を伝えようとするが「ワタシフランス語ワカリマセ~ン」となる。あるいは逃走中のロマンス。互いに理解できぬ言葉で語り合う場面の哀切さ。あるいは独房でフランス語を喋りたい、と叫ぶ。戦争を言葉の面から描いたのが貴重。演芸会に至る部分はよかった。女装の男を見てみながシーンと静まり返ってしまう。あるいは窓辺での会話「子どもたちは兵隊ごっこ、兵隊は子どもの遊び」って。当時のヨーロッパの細かな情勢や文化に詳しいと、もっと面白そうな部分はある。国境も幻影だが、最後彼らが撃たれなかったのも、国境に守られたからな訳で、ここらへん皮肉なのか。そういう感じでもなかったな。[映画館(字幕)] 7点(2012-10-31 09:37:40)

67.  どん底(1936) 《ネタバレ》 普通なら理解し合えないはずの者たちが・理解し合えっこないはずと信じ込まされていた者たちが、コロッと意気投合してしまう。会った瞬間に友だちになれてしまう。なんという人生肯定。この作品で一番印象深いのは男爵だろう。「身を落とした」などという意識は微塵もない。草原に寝転がる自由を心の底から満喫し、自分の選択を全然後悔していない。理想主義的すぎるとも思えるけど、でもいい。フランス映画でよく感じる「のんき」の尊重。けっきょく今まで自分は衣装を替えていただけだ、という述懐もあった。自殺してしまう役者とペペルの対比もある。遠い夢の病院と、現実の地道な生活への一歩の違いということか。マドンナが役人に口説かれてしまいそうになるときの陽の光の美しさは、親父譲りだな。というわけで黒澤版の暗~い『どん底』とはずいぶん印象が違うが、本家ロシア人が見るとそれぞれどんな感想を持つのか、ちょっと興味がある。[映画館(字幕)] 7点(2012-10-26 10:04:26)

68.  デリカテッセン 《ネタバレ》 音が面白かった。ベッドのきしる音のギャグ、普通同じネタを二度やると駄目なんだけど、これは二度目も笑えた。ハワイアンでしたか、ベッドの修理のリズムとミュージカル的に合わせてた。亭主の奥さんと踊るのはチャチャチャ。この手の話には陽気なラテン音楽が似合う。それに対して水のイメージがある。カタツムリの部屋とか、ラストのタワーリングインフェルノ的洪水まで、そういう世界観。タイトル、ゴミの中から文字を順に拾っていくのがよろしい。裏返しの文字が鏡に映ってたりとか。個々の趣向は凝ってるんだけど、何か物足りないのは、話としてもっと住民とのカラミがあってもよかったんじゃないか。地底人は要らない。この建物のなかだけに絞ってくれてたほうが好みだ。この作者の狙いはカフカ的よりもルイス・キャロル的な、キジルシのお茶の会の世界だったのかな。だとするともっと無意味な具体物がほしかったところ。あのカタツムリのような。カフカとキャロルの間で、どっちつかずの宙ぶらりんに置かれてしまった感じもある。自殺願望マダムはあっさり事故死するかと思ったけど、それはナシ。[映画館(字幕)] 6点(2012-10-23 10:17:25)

69.  商船テナシチー なんか山本周五郎の世界よ。人間が描けている、ってこういうのを言うんだろう。お調子者だが現在をいとおしむ男と、いつも自分で決められない男、そしてドキッとするような恋する女の残酷。「彼女笑ってたか」って手紙を託された男に尋ねるんだよなあ。まだ踏ん切りがついてない、っていうか、風景に別れたくないっていうか、つまり後ろ髪を引かれる思い。夢と今いる場所と。人生は厳しい。すべてのエピソードが厳粛な出発につながっていく。それは友情の限界であり、本当の人生の始まりであり、故郷を捨てることであり、記憶の一つの段落であり…。デュヴィヴィエって、情感過剰気味でクレールやルノワールより一段低く見がちなところがあるけど、やはり名を残す人だけのことはありますな。キモのところで日本人の好みとうまく重なっているのか。[映画館(字幕)] 8点(2012-10-19 09:55:44)

70.  花咲ける騎士道(1952) 前半は、ヨーロッパの活劇はおっとりしてるなあ、ってな感想で、もっぱらG・フィリップの美男子ぶりを眺めていた。煙突をくぐっても汚れ一つつかない完璧なハンサムぶりで、こういう完璧さをめでるのも映画の重要な要素ではあったな、とは思うものの、ずっと美男を見続けてても何かむなしく、といってロロブリジーダ嬢にはもひとつ身を乗り出すほどの魅力が感じられず(その愛されずとも愛を貫く女伊達のキャラクターはいいのだが)、もっぱら屋根の上での活劇に昔テレビで見ていた「快傑ゾロ」などを思い出し懐かしんでいた。でも後半、絞首刑からの救出あたりからノラされて、やたら馬が疾走する終盤で満足。アドリーヌ救出という個人的な追跡が映画冒頭の戦争に絡んでいくあたりワクワクした。強引な地下通路の設定なんかも、全体の「おっとり」と通じ合って素直に笑え、王のメンツも守る大団円はヨーロッパ式だなあと思わせられ、アメリカの活劇とはまた違う味わいを楽しめた。それにしてもこの邦題はズレてないか。原題にある「チューリップ」って言葉は残してほしかったな。この映画のおっとりとぼけた明朗さをよく象徴している花である。[CS・衛星(字幕)] 6点(2012-10-14 10:04:28)

71.  にんじん(1932) 意外とシビアなホームドラマ。不幸な家庭というものは厳として存在し、ある子どもにとっては寄宿舎のほうが助かる場合もある、ってこと。母のにんじんに対する態度、特別原因がないだけに怖い(一応夫との間が冷えてから生まれた子どもってことか)。最も緊密な関係のはずの母と子においても「どうもウマが合わない」ということは生じ得るし、家庭は和気あいあいでという理想をあんまり高く掲げるのも、いかがなものか。原因がないんだから、母も改心のしようがなく、それぞれがそれぞれの不幸を守ったまま、父と子の間に光がほの見えるだけで閉じていく。その父と子が正常に相手を呼び合うラストが感動的。「フランソワ…」「お父さん…」。初めて母に反抗するシーンもいい。それまでの仕打ちにはビクともしなかったのに、盗みの疑いで少年の誇りを傷つけられるとこたえるわけ。全体子どもの捉え方が「けなげ」よりも「したたか」で、翌年の『操行ゼロ』やトリュフォーにつながっていくフランスの伝統なんだろう。牧歌調のシーンの美しさ、偽の結婚式後の行進、長く伸びた影、自殺しようとする池、どれも清澄さがあって素晴らしい。祝宴の中で取り残されていく惨めさが、それがあってクッキリする。にんじんがいざロープに首を突っ込んだときの震えの無惨さも見事。日本ではデュヴィヴィエは『望郷』に代表されるセンチメンタルな監督という評価があるが、それだけでもないんだ。[映画館(字幕)] 8点(2012-10-12 10:09:15)

72.  ダントン 映画はシナリオ文学ではないのだから、言葉にだけ感動してはいけないのだろうが、これは一つ一つのセリフに革命に対するワイダの思想の練り返しが感じられ、重い。人民の政府であるはずの共産国の作家が「人民の敵は政府だ」と叫ばねばならない悲痛さ。実質の主人公であるロベスピエールが「ダントンを裁いても裁かなくても革命は崩れ去る」という恐怖。人民に誠実であり続けるためにはダントン的人物が必要であり、しかしそういった人物が革命の輪郭を溶かしていったりもする。当時はダントン=ワレサとすぐに思わされたが、おそらくもっと普遍的なものとして捉えようとわざわざ過去に題材を採っていたのだろう。人民のための革命が専制独裁になっていくメカニズムが今までにも何度も繰り返されてきたのはなぜか。恐怖政治下の人々の描写がリアル。身分証明書を求められて怯える少女や、革命憲章をビクビク暗証させられている少年などがよく、これがラストのロベスピエールの恐怖と共鳴する仕掛けになっている。全体に青ざめた色調。[映画館(字幕)] 7点(2012-10-09 10:33:58)

73.  嘆きのテレーズ 《ネタバレ》 殺人ありユスリありの犯罪ドラマだが、極悪人がいない。みんなささやかなレベルアップを求めているだけで、ちょっとした自由や安定に手を伸ばし、破滅を引き寄せてしまう。印象深いのがユスリ、ネチネチした悪党の振る舞いはしていても、けっこう義理堅い奴で、自分が瀕死の状態でも密告手紙の心配をしてる。古自転車屋を営めたらたぶん更なるユスリはしなかっただろうと思われる。戦争で裏切りを含む幾多の苦難を渡ってきて、これからは穏やかに生きたいと思ってたんだろう。値切られた金額でも満足していた。その希望のささやかさが、この人物を立体的にしていた。テレーズの旦那はすごろく遊びで満足する、その母は息子さえ元気ならいい。主人公の二人は、ダンスホールで大っぴらにダンスできなくても、ひそやかに密会を続けていた。それだけで満足できなかったちょっとした夢、レベルアップの希望が、登場する全員を破滅に導く。ことさら宿命などと呼ばなくても、こういう「意のままにならない進行」で世の中は動いていくんだな、だからと言って死んだように生きてても仕方ないしなあ、などとしみじみ考えさせられる。その事実だけを淡々と記録する映画の静けさがいい。寡黙なテレーズ、病後の姑の目だけの無言、そして破滅を告げるラストのユスリ屋の永遠の沈黙。[CS・衛星(字幕)] 7点(2012-10-06 11:02:58)

74.  隣の女 感情のシーソーゲーム。どちらも相手に対して完全には優位に立てない。男は招待パーティから逃げてしまい、友だちとしてやっていく可能性を封じてしまう。夫の留守に逢引するのは乗ずるようでいやと言っていた女も、その禁を破ってしまう。ひとつひとつ障害となるべき葛藤を破りつつ越えて、破局へ歩んでいく、その道行きの味わい。ひそやかな不倫の緊張が、パーティの席で解き放たれるのは、破局でもあるが快感でもあった。偶然の出会いまでは、それぞれどうにかやっていたわけで、別に死んだような人生だったわけじゃないのに、もうダメ、こうなってから振り返ると、もう後戻りは不可能。この情熱の不合理、心の奥に潜んでいるものの不気味さ。こういう破局の快感でしか、解き放たれない魔があるんですなあ。「隣」と言う曖昧な関係の設定がいいんだな。友人のように深くは立ち入らないが、微妙に付き合っていかねばならない。赤の他人より、他人を意識する関係。そこに最も深く心が関わる人間が据えられてしまったことによる、ひずみ。ヒロインを神経衰弱にしたことは、トリュフォーの好みなんだろうが、ラストを弱めてはいなかったか。[映画館(字幕)] 7点(2012-09-23 10:05:21)

75.  プロスペローの本 ハイビジョンを駆使した、ってのが宣伝文句になってたが、その入れ子になってる画面にとうとう最後まで慣れなかった。本のイメージ、あるいは本の挿し絵のイメージなのか。それが横移動と拮抗するのかと思ってるとそうでもなく、けっきょく中の小さな画面を中心に見ることになって、あとはうるさく感じられた。技術がかえって世界を狭くしてしまう例。この人は本の映画よりも、絵巻物の映画を作るべき人だよね。横に長~いセットを作って。偉大なるシェイクスピアを扱っても、悪趣味志向が残っているのは嬉しい。小便の雨、本の上にドロッと落ちてくる何やら汚らしいもの、内臓好み。ミランダの結婚式のとこのミュージカルシーンは楽しめた。アフリカの結婚式から横移動で島になっちゃうとこなんかも嫌いじゃない。[映画館(字幕)] 6点(2012-09-12 09:47:39)

76.  沈黙の女/ロウフィールド館の惨劇 《ネタバレ》 かつて原作読んだときは、怖い話として傑作だと思ったものの、後半で登場する「もう一人の女」がちょっとつまんなかった。家政婦一人で、はっきりとした悪意がないのに惨劇に至る話しのほうがいいのに、と思った。しかし本作を観たら、その「もう一人の女」がいいんだな。もちろんI・ユペールの俳優としての凄味もあるんだけど、「二人になることで起こってしまう」事件として納得できる。一人ずつだったら、不機嫌は彼女らのうちで留まっていただろうに、二人になって、じゃれあう女学生のような「場」が出来たことで、その不機嫌が解放されていってしまう。上機嫌なイザベルってあんまり観たことなかったけど、これが怖いんだ。前半はまるで「普通の人」みたいに登場し、でもやっぱり途中からI・ユペールでしかない役柄になっていく。彼女もハッキリとした「悪」というわけではなく、世の中とうまく合わない感じが、次第に凝り固まって終盤に雪崩れ込んでいく。S・ボネールのほうは、最初から世の中と合わない障害を持っており、それを隠そうとするのが前半のスリルで、ここまでは観客は彼女の側に立ち、ロウフィールド館の人たちの親切に一緒になって怯えるわけ。こういう設定を考えつく原作R・レンデルは、本当にねじくれた天才だ。まったく特異な状況だけど、彼女の怯えには普遍性が感じられる。文字の帝国となった世間に対する文盲の怯え、なんて普遍性があるとは思えないのに、誰もが心の底で世間に対して構えている怯えと通じ合うのか、「もう一人の女」が現われれば、簡単に惨劇に至るのを納得できてしまう。彼女にとっては「口封じ」の皆殺しだったわけだ。これが家の者たちの親切に対する回答である。前半で彼女に寄り添って見ていた観客は、こんな理不尽な話はないと頭の片隅で抗議するんだけど、それを越えて、実話の再現のような整合され切れないザラザラした現実感と、明晰な悪夢のような手触りが同時に残り続け、ヒッチコックよりブニュエル気分での観賞がおすすめ。[DVD(字幕)] 8点(2012-08-26 09:28:54)(良:1票)

77.  ボヴァリー夫人(1991) 日常の退屈から逃げ続ける女の話。旦那の凡庸ぶりってのがよくできてる。優しいいい人なんです。第三者の目から見たら「文句言うな」って気になる旦那なんだけど、エマにとっての「たまらなさ」ってのもよく分かるんだな。連れ合いが突然色褪せて見える魔の時ってのが夫婦にはあるんでしょうな。ニコニコ笑って、昔なら心ときめいたはずの笑顔がウンザリとしか感じられない、軽蔑すら感じる。旦那は一生懸命妻の機嫌を取ろうとして、それが妻の日常からの逸脱をさらに手助けしていっちゃう。ここらへんの皮肉なおかしさ。日常から追い立てられ、彼女が夢見た物語の中のような波乱に逃げていってしまう。怖い話です。舞踏会のシーンの衣擦れの音とか、演出は丁寧なのかと思っていると、別れの手紙を受け取ったときにジャーンって音楽が鳴ったり、よく分からない監督。[映画館(字幕)] 6点(2012-08-11 10:12:07)

78.  アッシャー家の末裔 空間の広がりの薄ら寒さと言ったらない。友人が犬を呼ぶが逃げていくあたりの閑散とした感じ。カーテンのそよぎ、スローモーションで本棚から崩れ落ちてくる本。レースの死に装束が風で揺れだすあたり。時を告げる鐘が鳴るとホコリがさらさらと落ちていって。アッシャー氏がギターを爪弾くと外の荒涼とした風景と共感していく。ちょっと目まぐるしすぎるかな、ってとこもあるけど、映像の音楽性を極めている。ギターの弦がぶつんと切れるなんて、日本の怪談でもよく三味線であったけど、世界共通の怪奇趣向なのね。黒猫やら振り子やらも出てくる。次第に嵐になっていくとこのカッティング。音が重要な役割りをする原作を、サイレントで映像に翻訳したという意味で、無声映画のひとつの「結論」を提示したような作品になった。姫の登場の盛り上げ。世界がブレだしてくるの。開かれたドア、狂ったようにひらめき続けるカーテン、振り子の脇からのアップ。映像によって、凍りついた音楽に耳を傾ける、いや目を凝らすという映画芸術の達成。[映画館(字幕)] 9点(2012-07-30 09:20:55)

79.  イタリア麦の帽子 人のちょっとした傷を描くのがいい。靴が合わない、手袋の片一方がない。妻にしょっちゅうネクタイの緩みを注意される、なんてのが傑作で、もうビクビクしちゃって条件反射的に首元に手がいくようになっちゃうの。悪夢の世界ということではキートンと同じだけど、質が違う。キートンの悪夢は荒々しく襲いかかってくるが、こちらは直接暴力の被害は受けない。あちらは第三者の目から見れば、ああ大変なことになってるなあ、と同情される状態なのに対し、こちらは孤独。絶望的なのだが場を取り繕おうと懸命なわけ。キートンが「恐怖の悪夢」であるのに対して、クレールは「不安の悪夢」と言えるかもしれない。当人に何の落ち度もないのだから不条理の悪夢には違いないんだけど、「関係」の形で出てくるので、キートンの悪夢が比較的サッパリしているようには行かない。粘つく。これがクレールコメディの特徴だろう。フランス映画の粋はしっかりあり、最後はピタリと収まる。絶品である。[映画館(字幕)] 8点(2012-07-25 10:16:38)

80.  ふたりのベロニカ これは不思議な映画で、おそらく東と西とに同じ娘が生きてるという漠としたイメージが先行したんでしょうね。動乱のさなかポーランドという国のことをじっと考え詰めて息苦しくなってきたときに、その外の世界に住むもう一人の娘について考えが飛んだというか。ハリウッドだったら、あるいはヨーロッパの西の国だったら、もちっとメルヘンにしたりドラマチックにしたりするだろうが、ポーランドは渋い。渋くならざるを得ないところが、東欧の土壌なんだろう。西に分身がいるということ、東に分身がいたということ、それぞれ忘れないようにしよう、ってことか。政治的な動乱は極力点景として描かれる。撤去される銅像も、インターナショナルのメロディも、脚光を浴びない扱い。デモの学生とは反対方向に歩き、落ちて散らばるのは政治ビラではなく楽譜だ。『殺人に関する…』のときの、黄濁した光が満ちる。考え詰めた果てのとても切実なことが語られているようだけども、それが明晰に伝わってこないもどかしさが、この監督作品にはいつも感じられる。[映画館(字幕)] 6点(2012-07-22 10:04:43)

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