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【製作国 : フランス 抽出】 >> 製作国別レビュー統計
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121.  そして船は行く 《ネタバレ》 一番良かったのは、カマタキのとこで歌手たちが歌声を競い合うくだり。顔顔顔。フェリーニ健在なり。狙いは面白いがあんまり成功してなかったのは、食堂での鶏催眠術。もっと盛り上がってもいいのは、ジプシーたちの踊りシーン。一瞬の美しさで言えば、心霊術に登場する歌手。上流人士の世界に下の世界が土足で踏み込んでくる、いうタッチは、どちらかというとヴィスコンティのお得意なのだが。ああそうなの、本作はヴィスコンティ的「滅び」が前面に出てくる。フェリーニは「衰え」は好んで描いたが、こういう「滅び」とはいつもちょっと軸をずらしていたように思う。ま、どちらも「懐かしさ」という陰翳を引きずってはいるんだけど。合唱とともに沈んでいくあたりはやはり圧巻。滑り出すピアノやテーブル、廊下に漂い出すトランクになぜか蝶が二匹。最後の映写をしている心酔者、あれは余計だったんじゃないか。すぐボートで大西洋を漂うサイにつなけてよ良かったんじゃないかな。[映画館(字幕)] 7点(2011-03-17 10:17:44)

122.  ファンタスティック・プラネット はっきり人間の視点から見た世界と支配者から見た世界とに、分かれるの。その支配者側から見た人間の群衆の動きなんか丁寧だった。まとまって動いたりなんかしない。大量殺戮シーンで球が人をくっつけていっちゃうのが怖かった。踏み潰すシーンとか。映画を見てるほうはその時々でどっちの側にも感情移入しちゃってる。ペット時代なんかはどっちかって言うと飼う側から見てたな。この設定、植民地の比喩と見ることも出来るけど、いろんなイメージに溺れる楽しみがこのアニメの核。だんだん引いていく議場の広さ。瞑想で体がマゼコゼになってしまうとこ。ホースがくねってるような大地で、雨が降ると各所が持ち上がるとこ。夜の発光。ネバネバのしずくを垂らす植物。そしてラストの像のダンス。まあよくいろいろ思いついたもんです。締めが物足りないって気もするけど。[映画館(字幕)] 7点(2011-02-23 10:57:55)(良:1票)

123.  夜と霧 本物の凄みと言うか、スゴイスゴイと繰り返すしかないですな。ブルドーザーで押していくときの、カタマリのグニグニとした動き。柔軟な物体集合の完全に物理的な動き。桶に集められた首の山、毛髪の丘。きれいに畳まれた皮膚。「なんで」こういうことが起こったのか、という考察より(そういうのは映像より文字のほうが得意だろう)、「なにが」起こったのかを検証する姿勢。フィルムは、なにより「記録」で強い。出来れば、当時のナチの気持ちでこの映像を見る気分の体験にまで行ければ良かったんだけど、それは見てるこっち側の課題だろう。この際立った残虐という「特殊」が、そこだけで閉じてしまわずに、誰もがやれたかも知れない、という「普遍」にまで持って行かなければいけないんだろう。ニコニコ笑ってる看護婦。こういうことに関わらずに一生を終えたい、と思うが、現在だって似たようなことやってるかもしれない収容所と化した国や地域はあるわけで、無関心でいいのかという思いも、柄にもなくうずく。とにかく『広島・長崎の記録』とかこの映画などは、写されただけですでに人類の重い財産となっているフィルムで、本来採点という行為になじまない。[映画館(字幕)] 7点(2010-12-28 12:23:50)

124.  世界の全ての記憶 『マリエンバート』へ向けた練習のような習作。ひたすら移動し続けるカメラ、記憶の詰まっている迷宮として図書館を捉える。後半は、新刊が棚に置かれるまで、という文化映画的なのだが、台車の移動、エレベーターの上昇、係りの人がボーっと立ってたりして、かなり意図的な演出がなされていると見た。無表情の人々。移動し続けるってことは、立ち止まって対象を一点に絞らない意志の表明であり、観察ではなく観賞ってことなのか。これから何かを発見していこうとしている気分、というか。図書館好きにとっては、裏側が見えて文化映画としても面白かった。思えばこの手の記録は映画の初期からドキュメンタリーの基本で、たとえば英国の『夜行郵便列車』なんてのは、手紙が私たちの手に届くまでの夜の旅を見せてくれたし、普段の生活を支えている(しかし滅多に目にすることの出来ない特殊な)仕事場を、覗かせてくれる興味ってのが、ドキュメントの基本中の基本なんだな。[映画館(字幕)] 7点(2010-12-26 19:35:23)

125.  地下室のメロディー 《ネタバレ》 初老のギャングは、最後に一発当てたいと思っている。青年は、現在の惨めな境遇から抜け出したいと思っている。それぞれに鬱屈があって、しかし一人では現金強奪はできない。冒険には若さが必要よ、と妻にたしなめられている。若さのある青年には、計画がない。補い合って立てられた計画。それが危うくなっていくのは、青年の方が豪奢な世界に浮き足立ってしまうから。義兄が自分のこととして心配していた事後の不安が、計画の最中に浮かんできてしまう。シャルルにとっては金に目的が集中していたが、フランシスにとっては、こういう暮らしをしてみたい、だもんだから、真剣味が弱かったんだろうなあ。フランス映画は、途中いささかモッサリしてたり「よく考えるとヘン」があっても、ラストをピタリと決めてくるので印象に残るのが多い、これなんかその典型。刑事たちの話し声とゆっくり歩き回る足だけで、キリキリと縛り上げるように緊張を高めていく。犯罪映画のラストなのに、主人公たちは走らない・どならない・しゃべりさえしない・もちろん銃も撃たない。ボーイの驚きの声が聞こえてくるだけ。二人は、あと鞄を渡すだけの距離であったプールをはさんで向かい合い、自分が手にできなかった大金をただ見守っている。ゆっくりと花が開くような札束の動きのなまめかしさ。手の届かない高慢な女のような花が次々と開き、二人の間の隔たりを花畑に変えていく。[CS・衛星(字幕)] 7点(2010-12-20 10:25:25)

126.  戦場でワルツを アニメ技術のことはよく分からないんだけど、不思議な動きをする。東南アジアの影絵のような、関節だけ留めてある人体パーツを動かしているような、でも滑らかという動き。口の動きも変にリアルで、全体新鮮な世界だった。その影絵的な感じが、記憶を探るストーリーとうまくマッチしている。話としては、ベトナム後のアメリカ映画のあのトーン。生き残ったものの後ろめたさと、心の傷。戦車の中にいるときの万能感と外に出たときの無力感、とか、カメラ越しでなくなったときの戦場の生々しさ、など兵士の証言が痛々しい。悪い映画ではなく、こういう兵士個人の心の記録が積み重なって大きな証言になればいいと、心から思う。でもかつてのアメリカもあれだけ「心の傷映画」が作られながら、ひとたび同時テロが起こると「やっつけろ」の大合唱に呑み込まれていった。個人の「私」の証言は、ひとたび「われわれ」の怒号が起こると、あっという間に掻き消されてしまう。正直、あんまり希望は持てなくなっている。もひとつこの作品が弱いのは、虐殺の本体をファランヘ党という極右組織だけに押しつけている感じがあって、もちろん黙認したイスラエル軍も非難はしているが、ちょっと逃げ腰。でも常時戦時下のあの国でこれだけ言うのも、大変だったろうとは思う。ワルシャワ・ゲットーの記憶を、イスラエルの免罪符としてでなく持ち出したのだから、そこからもひとつ、人間集団が狂う普遍的な分析にまでいってほしかった。[DVD(吹替)] 7点(2010-12-10 10:42:31)(良:1票)

127.  木と市長と文化会館/または七つの偶然 《ネタバレ》 とにかくいつものように人々が喋りあう。対立してはいるんだが非難には至らず、グツグツ煮込んでいるような楽しさに転じていくところが、この監督の人柄か、けっきょく庭を開放してのルノワール的パーティーでのミュージカルになってしまう。こうくるとは思わなかった。ドキュメンタリー的なインタビューシーンの対極のよう。それぞれが自分の主張を歌い、何も本当の解決にはなっていないんだけど、人の世の楽しさを遠望するような位置に監督は退いていく。これ少しズルいなあって気もしたが、少女によって導かれた夢として見るべきなんだろう。ぜんぜんカドがない世界。登場人物のすべての出会いが実になごやかなんだ。市長と教師の娘との出会いに至るまで。どこでも市長ってものは文化施設を造りたがるのか。もっとも建設業界からのリベートのために建ててるんではないらしいところは違う。[映画館(字幕)] 7点(2010-11-27 09:59:28)

128.  審判(1963) 《ネタバレ》 やたら広い空間と狭い通路の対比。空間と言うより空虚ですか。会社のオフィスが圧巻。仕事が終わり、みなが帰っていくシーン。ここは天井が高く、Kの部屋は反対にやたら低い。それに法廷のシーンの人々、あれ上の方まで全部本物だったんだろうな。そしてそれらをつなぐ無数の迷路や階段。子どもたちのざわめきの中を追われるように逃げていく。ま具体的な映像世界ということで仕方ないんだけど、もっと「手応えのなさ」みたいなものが、カフカでは欲しい。「世間」はハッキリと逃走を誘うように迫害してくるのではなく、柔らかく微笑みながら次第に身動きできなくしてくるものなのではないか。ラストをダイナマイトにしたのは、現代では直接ナイフで刺してもくれない原爆の時代だということなのかな。煙がちょっとそんな感じだった。ロミー・シュナイダーが鏡とガラスが交互になっている向こう側を駆け抜ける。ここらへんの顔のアップでのセリフのやりとりは緊迫。全体にあおるカメラ、だから天井がいつも抑圧してくる。[映画館(字幕)] 7点(2010-11-07 10:55:19)

129.  ファニーとアレクサンデル この人は、だいたい90分くらいのカッチリした世界を構成してくれるところが好きだったんで、この長さにはいささか戸惑った。そしてカッチリしてない。なんかその長さの中にひたる喜びを味わえたが、もひとつ作品のツボを私が捉え切れなかったんじゃないか、という気分も残った。でもなかなか再見する気力が湧かないまま現在に至っている、長いから。画面は洗練されているけど、話はなんかゴツゴツしており、いえ、それがいいんです。これがベルイマンとして提示できる人生肯定の形なんだろう。カールの悩みも主教の孤独も、ツルツルになるまで溶かしてはいない、こういったそれぞれの苦しみをそれぞれが受け持ちながら、でもそういう溶けきれないものがゴツゴツ浮かんだり沈んだりしているからこそ人の世界を肯定できる、って感じ。そういうゴツゴツしたものを必要以上にオーバーに拡大させない、けれど無視してしまうのもいけない、ということ。今までの作品でこれに一番近いのは案外『魔笛』かもしれない。自分のシナリオでないあのオペラにあった「ゆとりのようなもの」は、ベルイマンを考える上で大事なものらしい。この映画観たときの想い出では、3部と4部の間の休憩でトイレに走ったところ、便器が二つしかなくて長~い行列ができていたこと。[映画館(字幕)] 7点(2010-11-01 09:55:37)

130.  青いパパイヤの香り 前半が素晴らしい。漂い続けるカメラは、家の霊というか地の霊の視点というか。したたるパパイヤの汁、したたるロウ。なんらの恨みがましさも叱責の声もない家。熟し終わった家庭の匂いが、画面に立ち込めている。静かに静かにしゃべる。悪い時代の前の静けさ、いやこのころだってインドシナはちっとも平穏じゃなかったはずで、でもそのなかで家の静けさを維持し続ける緊張のようなものが、空気を濃密にしている。フランスでセット組んで撮ったって言うんだけど、細部のアップもあり大変だったろう。まあ20世紀末のベトナムで撮っても、同じ苦労があったかもしれないが。前半に比べると後半は、少女の初恋が成就されるということで黙劇的な緊張はあるんだけど、話が狭くなった感じ。けっきょく、女は弱しされど女は強し、っていうような話に落ち着く。みな影のように生きている独特の感じ。[映画館(字幕)] 7点(2010-10-06 09:54:08)

131.  白夜(1957) ささいなことだが、エキストラの動きがとっても自然で印象的だったことをまず記しておく。で、内容。主人公の優しさの異様な膨らみ、ヒロインの残酷さのあどけなさ。美談を裏から見たような話で、やはりドストエフスキーの匂いがする。女たらしマストロヤンニが、コロッと純情青年もやれちゃうってのがすごい。ハッとさせるのは、暗い閉じたセットの焚火から昼のじゅうたんの部屋にパンしていくとこ。冒頭の迷い犬がラストのマストロヤンニにまつわりついてくるなどのポーズのつけ方のうまさ。ダンスホールのシーンの解放されていく感じ。ここで、ああ同時代の話になってるんだな、と納得していると、橋の下の乞食なんかとっても19世紀的で(主人公の下宿部屋も)、不思議に時代がゆらゆら揺れている感じがあった。典型的な「良くできた文芸映画」であって、しかしそれ以上のものではない。『ベニスに死す』は文芸映画であって、しかもどこを切っても映画で充満していた。[映画館(字幕)] 7点(2010-09-28 09:51:09)

132.  白夜(1971) なんて言うんだろう、針金だけでできているような映画。人物に厚みがない(これ普通はけなすときに使うんだけど、そうじゃないんだ)。現実を慎重に薄~く切った結果なのか。憑かれているものの薄さとも言える。抽象画の友人の忠告に対して、こちらは古城のロマネスクに徹してる。女性を追いかけるのも、なにかに憑かれている感じ。だから全体から見ると消極的な生き方なのだが、その「一筋」に関しては豊かこの上ないわけ。実にぶっきらぼうな唐突性のなかに、あのボサノバの船がゆったりと流れていく豊かさと照合できますか。この人の映画は、針金の鋭さで描き切るのが多いけど、本作ではその針金を通して、豊かでロマネスクなものが匂い立っている。こういう世界も隠し持っていたのか。ドアの開閉のリズムなんかに抑えに抑えた美しさがあって。テープに「マルト」と吹き込んで、バスの中でかけたりして、ほんとなら突き放したくなっちゃう主人公なんだけど、ブレッソンの文脈の中だと、憑かれた崇高さが出てくるから不思議。[映画館(字幕)] 7点(2010-09-26 10:11:16)

133.  トリコロール/赤の愛 これは三部作の中ではまだ分かりやすいほう。趣向がはっきりしているので。時代を超えた触れ合いというか、ちょっと怪異譚めいた世界。若きトランティニャンである青年とヒロインが出会うまで、ということか。老いたトランティニャンは夢の中で50代のイレーヌ・ジャコブを見る。犬も老若の橋渡しをする。国際電話の距離と隣人の盗聴の距離の対比、などなど。室内の照明はいつもながら美しい。一番思ったのは、キエシロフスキ、イレーヌ・ジャコブが好きなんだなあ、ってこと。クールにクールに作ってるけど、年若い娘を恋してしまった初老男のいびつな恋情が脈々と感じられる。偉大な男性監督は常に女優に恋していなくてはならないのかも知れない。思えばかつて『ある党員の履歴書』なんて非常に公的な硬い手触りの秀作を作っていた人が、最後にこうグッと私的な世界に凝縮していったのも、東欧開放の一つの流れなんだろう。でも「裁判所=裁くこと」が、よく出てくるのは体制の新旧で変わらない。[映画館(字幕)] 7点(2010-09-06 09:59:36)(良:1票)

134.  ボーン・アルティメイタム 《ネタバレ》 巨大な組織と個人の対比を見せるためにこのシリーズがしばしば採用するのは、監視網の中で逃げ切る主人公。同じような趣向の繰り返しではあり、CIAがマヌケに見える ギリギリの線なのだが、サスペンスとしては楽しい。本作では、ウォータールー駅のシーン。携帯で指示を出しながら、ボーンと記者が動き回る。へたなアクションよりも、映画の楽しみが満ちていた。そこでしゃがんで靴の紐を結び直せ、とか。周囲に配置されたカメラの目と、個人とのかくれんぼ。敵が潜んでいるかも知れない群衆だが、そこに隠れることもできる群衆の海。終盤、アメリカに帰還してからは、CIAのオフィスががら空きとか無理が目立つが、その「いよいよアメリカに帰ってきた」という舞台設定自体が、「大詰め近し」のワクワク感を盛り上げてくれているので、許そう。シリーズ全体としては、マリー、ニッキー、パメラと、主要女性キャスティングにハリウッド的美人をいっさい排除した姿勢がよろしい(M・デイモンに合わせたのか)。どれも「美人」としてでなく「顔」としてインパクトがある。ラストのニッキーの笑顔なんて、アン・ハサウェイだったらちっとも効果なかったでしょ。[DVD(吹替)] 7点(2010-08-05 09:42:07)(良:1票) 《改行有》

135.  ラウンド・ミッドナイト 《ネタバレ》 親切とか友情とかいうよりも、もうこれは献身ですな。身を滅ぼして創造していく芸術家、それにインスピレーションを受ける生活人。この男がイラストレイターってのが、うまい設定。芸術家と生活人の境界にいる。彼の親たちのような「調和のある暮らし」をしてるわけじゃないし、また奏者のように確固とした自分の芸術世界を持っているわけでもない。その両者の間で宙ぶらりんになってるんだけど、ひたすら献身と保護で、芸術家と調和のある関係を生み出してしまう。彼が献身する主人公のサックス奏者のオッサンがいいんだ。デクスター・ゴードン。ボーッと立っててゆっくりゆっくり歩くの。表情はほとんど変化なしで、でもその分、酒をやめると決意するあたりはジーンとしてしまう。あと誕生会のとことか。ただボウゼンと座ってるだけなんだけど、味わいがある(演技の素人を使って味のある芝居を引き出すってのは、イタリアのネオ・リアリズムやら、清水宏やら、ブレッソンやら、映画史で繰り返されてるんだけど、これは映画ってものが「演劇」の発展したものでなく、あくまで「記録」の精神から出発してることと関係があるんだろうな)。日が射す海辺を少女と遊ぶ場面以外は、ほとんど夜か曇天の世界で空気がこもってる感じ。人と人が理想的な組み合わせで出会う、ってのにしみじみ感動させられてしまうのは、そういうことが現実には滅多にないからなんだろう。後を追いかけていったらオレンジジュースを注文していてほっとするところ、などジンワリ。[映画館(字幕)] 7点(2010-07-24 10:06:12)

136.  ひとりで生きる 《ネタバレ》 むごい目にあう動物たちが遍在している。前作でも子猫が殺されてたが、本作では豚、犬、ネズミ、鳩など。少年は、人間ではなく動物の側の存在なんだろう。少女が顔をジーッと見つめてくればキスするかとロマンチックな気分が満ちてくるが、つばをかける。そういう恋人のような友だちのような微妙なお年ごろ。船の上での縄跳び、水たまりに倒れている男。やがて鳩が飛ぶ船室、赤ん坊を抱く裸の女、と幻想味が増してくる。火だるまのネズミ。棺の中のワルカ。陸橋の火花。裸の男女がレーニン像を這い回る。前作でもそうだったな、気が狂うということよりも、裸になるということのほうが重要なのかも知れない。裸のみじめさが聖なる裸に転化していく。時間の定かでない夕刻のような薄明かりが印象深い。汽車の荷物から女が出てくるときのや、ラスト近くのネズミのとこみたいな。いかにもロシアの光。そういえば少年の顔もたとえばタルコフスキーの『ストーカー』の系譜で、いかにもロシアの表情なんだ。かってにこちらがそう思ってるだけかもしれないけど。[映画館(字幕)] 7点(2010-06-26 11:57:02)

137.  サクリファイス 《ネタバレ》 『ソラリス』から『ノスタルジア』まではもう完全に酔いしれたもんだけど、これは違和感が残ったなあ。いままでの作品と比べてセリフの比率が多かった気がする。いままでの復習的な面もちゃんとあって、唖の少年は『鏡』の冒頭の吃音を思い出させ、自転車ってのは『ノスタルジア』で重要だった。ドアがギィーッと開くってのも。揺れてガラスが鳴り出すってのは『ストーカー』、空中浮遊は『ソラリス』に『鏡』と、なんか過去のモチーフを総ざらいしている感じがあった。遺作となると意識していたのか。そういう意味では、もちろんタルコフスキーの世界以外のなにものでもない(でも犬がいなかったなあ。途中で鳴き声が入ってきた気もするが)。素材はそうなんだけど、なんか本作はそれに浸り切ってない感じがある。それが衰えから来るものなのか、作者の切迫から来るものなのか。話の骨組みは黒澤の『生きものの記録』と似てて、でもまったく別種の道を通り、まったく異なる質感の世界を提示した、って感じ。でもまだ黒澤のほうが論理的だった、こちらはもう完全に「祈り」だもんね。あの「日本」をどう考えていいかが分からない。未来都市をわざわざ日本で撮った監督が、あの老教授と同じ考えだとは思えない。案外単純にヒロシマの国ってことかなあ、その場合非キリスト教国ってことはどうなるのだろう。[映画館(字幕)] 7点(2010-06-16 12:06:40)

138.  告発 この監督、長回しが好きみたい。あるいはカメラマンの趣味か。最初の弁護士事務所へ駆けつけるとこ、階段上って上司と会うまでを一気にいく。さらに面白いのは、牢のまわりをぐるぐる回り、ときに中に入り込んだり出たりする(スタッフが牢の一面をあわてて外したりはめたりしてるんだろうね、『ロープ』みたいに)。法廷でもくねくねカメラが歩き回った。まあ画面として退屈になりそうなとこだから、動き回ったってだけのことかも知れないが、楽しいことは楽しい。典型的なアメリカの「正義を行なう勇気」ものなんだけど、飽きずに感動してしまうのは、こういう風土が日本にはないからなんだろう。どんな国家にも地下牢は生まれてしまうのであり、問題はそれを暴く勇気の有無なんだよなあ。こういう話で弱いのは、ワルモン役の演技パターンが決まってしまうこと。G・オールドマンいい役者なんだけど、やっぱ「ナチ型」になってしまう。本当に怖いのは、「どうして私の言うことが分かってくれない」と泣きながら、心の底から真人間に立ち直らせようとしてする善意の拷問なのではないか。[映画館(字幕)] 7点(2010-04-29 11:57:47)(良:1票)

139.  音のない世界で 聾者の、耳が聞こえないってことに、健常者は鈍感すぎてもならないが過敏すぎてもならないってこと。差異は認めて差別はするな、ってことか。手話の身振り手振りこそ、まさに映画が誕生したときにあったコミュニケーションだったわけで、彼らは「観る」ことのスペシャリスト、「身振り手振り」の専門家である。細かなエピソードが、聾者を身近なものにしてくれる。親族のほとんどが耳が聞こえない中で、どこそこの子だけは、かわいそうに耳が聞こえてる、と言っている青年。身近に子どもの聾者しかいなかったので、大人になる前にみんな死んでしまうんだと思い込んでいた子が、初めて大人の聾者を見たときの喜び。家族がどっと笑っても何で笑ったのか分からない孤独。健常者と聾者、どんなに同じだと言っても、音楽を楽しむことだけは違うだろう、と思っていたが、冒頭の四部合唱(!)、一種のパフォーマンスかも知れないが、確かに音楽に近い何かだった。欠損は欠損には違いないが、それを補う力が人間には強いってこと、また欠損があることによって豊かさに敏感になれるということ。聾唖者こそ、サイレント映画の監督にふさわしいのではないか。というか、映画監督に必要なのは、聾唖への想像力だ。[映画館(字幕)] 7点(2010-04-17 11:58:06)(良:1票)

140.  太陽に灼かれて チェーホフ的なものを現代史に応用してみました、って感じ。チェーホフの世界って「崩壊の予兆の上に立つ特権階級の不安」ってなもので、それはいつの時代にもある。うっすらと退屈に浸かったようなおしゃべりの中から、キラリキラリと緊張が見え隠れし出す。コップを持つ手首の傷、川辺にきらめくガラスのかけら。三角関係の緊張が高まったところで、政治が顔を出す。感情の過剰の世界から、感情の欠損の世界への一気の揺り戻し。表情はガスマスクで隠される。この監督は川が好きで、『機械じかけ…』では川に飛び込み、『ウルガ』ではトラックを落とした。今回は昔の恋人たちが落ちる。どれもこれもすべて楽園の最後の一日のメランコリー。ラストで火の玉はクレムリンへ消えていったのか、火の玉の代わりに浮かぶのはスターリン気球。こんな時代を描いても、チェーホフ的なるものは普遍性を持って生きるのだ。[映画館(字幕)] 7点(2010-03-21 11:53:37)

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