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141.  オリヴィエ オリヴィエ この題名、本当は前半が手書き、後半が活字なの。家の内側と外側、あるいはプライベートなものと公なもの。弟が不意にいなくなり、不意に現われる、その家族のありよう。男二人女二人の関係が多彩に組み合わされ、すべての男と女の間にはエロス的な線が引かれる。成人後のオリヴィエの気味悪さはなかなかなものである。この気味悪さって、欧米の映画に出てくる東洋人の薄ら笑いに近い。正体不明。なに考えてるのか。家庭を憩いの場としてでなく、緊張の場として見ている。姉の超能力が何か唐突に思えたんだけど、彼女は自分の能力が弟を消してしまったのではないかと思って取り乱し己れを罰したのか(タバコの火)。この事件をなにかの一点に集約させていくって言うより、それぞれの反応を見たかった、って映画らしい。見終わって、だから何なんだ、って気にもなる。エロス的に他人を取り込んでいく「家族」の気味悪さ、とか、「家」の脆さよりもしたたかさ、とか。[映画館(字幕)] 7点(2011-05-26 09:47:51)

142.  オルランド ややこしい。男から女に変身するオルランドを女性が演じ、エリザベス一世を男が演じている。原作・監督ともに女性。キートンのような憂い顔の主人公、「男の人は先のことを考えすぎるのよ」とロシア少女に言われる。彼のメランコリーは何なのか。選ぶスリルのない生活、老いない、恋をしない、詩は読むばかりで作れない、戦さにも加わらない。ならば選ばない人生の女に変身しよう、ってことか。選ばれる人生、でもそれも拒む。ただ子どもを産み落とす。選びもせず、選ばれもせず、昏睡になっても心臓の鼓動は聞こえてくる、それでも生き続けること。話のツボがよく分からないんだけど、変身するってのが適応しようとすることなら、つまりどちらの性も、それ以上でも以下でもなかったって話なのか? 画づくりにはグリーナウェイの影響ありと見た。音楽のあるシーンのほうが勢いがある、ってところも似てる。[映画館(字幕)] 6点(2011-05-23 10:14:58)

143.  アメリカ 横顔の映画。体全部が真横を向いている(おもに左)。顔の半分が見えていないことによる膨らみと言うか、かえって内面への興味をそそられる。また視線の方向は分かるが、相手との距離感が分からない(見えてる目玉が一個なので)。そして原則として相手は同一画面に収まらない。だもんで人物間の距離感覚がひどく曖昧になってしまう。あのように真横だと永遠に平行線が引き伸ばされていく感じで、「相手」が漠然と霧散していくような取りとめのなさが満ちてくる。この原作はそもそも「本人がまったく望まないのに人間関係のごたごたを招き寄せてしまう喜劇」という一面がある。映画ではその他人たちが曖昧になっていくところに、この監督なりの解釈があるのだろう。エレベーターボーイのエピソードが一番面白かったか、だんだん抜き差しならなくなっていく感じ。警官もタクシーの運ちゃんもポスターもすべてドイツ語のアメリカ。ラストは延々と湖の脇を走る抜けていく車窓シーン、汽笛とともにクレジットタイトルが入ってくる。[映画館(字幕)] 7点(2011-05-14 09:43:38)(良:1票)

144.  銀河 《ネタバレ》 とにかく西洋社会・とりわけカトリックの国でのキリスト教の大きさを感じさせる。こう何世紀にも渡って宗教と格闘し続けてきたんだなあ、と。そういう経歴を持たないことを日本は喜ぶべきなのか恥じるべきなのか。主人公の二人組の感じがある懐かしさを持ってて、いかにも旅って感じなの。ヤジキタとか、万国共通の二人旅のパターン。もっとも周囲ではキリスト教を巡る論争がひしめく。路上での予言。病院から逃げてきた神父。キリストは笑うか。森のなかの異端者たち。レストランで食事の支度前の論争(あのおかしさは独特のもので、あれで客が食事できなくなったら『ブルジョワジーの…』だ)。無垢な少女たちが声をそろえて「異端に呪いあれ」ってのもあった。男は法王銃殺を空想する。自らを十字架にかける狂信者を巡る決闘。この最中も論争を続ける。ごった返す論争の歴史。そのごった返しの迫力。異教徒にはしんどい映画だが、これらの歴史を背負って生きているカトリックの人々もかなりしんどいだろうなあ、という実感は得られた。我々には「異端」という言葉ひとつにしても、そのニュアンスに含まれている恐ろしさを本当のところは分かってないんだろうなあ、ということをつくづく分かった。[映画館(字幕)] 8点(2011-05-12 09:46:23)

145.  パッション・ダモーレ 《ネタバレ》 うーん、物語ですなあ。こういうのはいいなあ。決闘の後で、主人公がヒロインの発作を伝染されるところは、感動した。これアメリカだったら、二枚目の災難に絞った徹底した喜劇にするだろうし、日本だったら「オカメでも心は素直」という人情噺にするだろうし、フランスだったら心の機微をシャレて描くだろう。そもそも良識ある普通の国ではブスの映画で本物のブスは登場させず、ホッペタにそばかすを散らせばブスと思って見て下さいという映画上の約束事に則って描いていくものだ。でもここはイタリア、残酷なる凝視の国、ブスをリアリズムで描く。醜いだけでなく、そのひがみ根性というのか、優しい言葉をかけられるのを期待して自己批判したりするヤな女を、白日のもとに描いていく。男も、同情や憐れみから愛になったってんじゃなく、ほんと嫌ってたんだけど、運命というのか、心のこだわりの感情もある程度まで進むと結局「愛」と違いがなくなってしまうってことなのか。嫌な女だなあ、と観客に思わせといて、そして実際そうなのだけど、でもそんな彼女にも30年の孤独があったわけで、それを思えば、男一人の一生を台無しにしたけど幸せな最期だったのかも知れず、そしてそういう巡り合わせは、もう幸せ・不幸せという基準以外のとこで主人公の男にも何らかの納得を与えていたんだろう。人生ってこんなもんかも知れんなあ。おーこわ。[映画館(字幕)] 8点(2011-05-05 12:18:57)

146.  ベイビー・オブ・マコン 《ネタバレ》 赤と金と黒による厳粛なる悪趣味の世界。光が絞られたときの金が美しい。芝居仕立てにしたことの意義が、もひとつピンと来なかったが、舞台という制約を置いたほうが、この監督のイメージは自在になるのだろう。舞台装置の人工的な感じ。収穫の衰えた世界に奇跡の子を捏造していく話。捏造でもないか、実際に「母」の純潔を守るために誘惑者を牛の角にかけて殺したりするの。パタンと馬小屋の壁が倒れて観客席が姿を現わしたり。この監督にしては悪趣味が抑え目だなあと思っていたら、ラストでちゃんと死体をバラバラにしていた。『コックと泥棒…』のカニバリズムに通じていく、とにかく死体趣味なの。典雅なふるまいと悪趣味が通じているところが、味わいと言うかなんと言うか。[映画館(字幕)] 7点(2011-05-02 09:56:16)

147.  ロシュフォールの恋人たち 冒頭、狭い車から出てきた若者たちが、ウーンと手をのばして伸びをする。最初はバラバラだったのが何となく揃ってきて、モダンダンスめいてくる。これこれ、ミュージカル映画の醍醐味はこれである。ところがこれが作られたのは1966年、アメリカではこういう型のミュージカルは没落していた時期だ。50年代前半に黄金期を迎え、65年はもう『サウンド・オブ・ミュージック』のような「音楽付き物語」に移っていて、ジーン・ケリー型のラブ・コメディは完全に時代遅れという感じだっただろう。その時代遅れのジーン・ケリーをフランスにまで呼んで本作は作られた。ハリウッド型ミュージカルの最期を、このフランスで看取ってやろうという愛惜を込めた衝動から生まれたのだろうか。もちろん完全なハリウッドのコピーではない。あちらは緊張が高まった場面で歌になり踊りになるが、こちらは簡単に歌いだす。オペラの伝統か。いくつかの見せ場に集中していく種類の波打つ時間ではなく、ミュージカル的な気分が瀰漫した時間なのである。踊りもそう。多くのナンバーが街の通りや広場で踊られる。屋外のダンスシーンてのは、普通どうも気分が拡散してあんまりノレないことが多いんだけど、面白い味が出ているとこもある。広場で溌剌とダンスを見せるシーンとは別に、この映画で印象に残るのは、カメラのピントから外れたところで踊っている連中の存在だ。こちら側でリアルな演技が進行しているとき、その道の奥のほうで若者たちが踊っているのがボンヤリと見えたりしている。これが実に面白い効果で、この街全体がミュージカル的気分に息づいている弾んだ楽しさがある。ハリウッド・ミュージカルでは、日常の世界が不意に特殊なハレの場に転換するところにサスペンスがあったのだが、この映画では、歌ったり踊ったりするのは何も特殊なことである必要はなく、日常そのものがそうであっても構わないじゃないか、と開き直っている。幕がパッと切り落とされるようなスリルがない代わりに、日常と非日常が馴染みあってしまっている蒸気のようなものが立ち込めている。ミュージカルに殉じようとしたドゥミ監督はそういう理想郷を夢見ていたらしい。[映画館(字幕)] 9点(2011-04-25 12:21:06)

148.  人生は琴の弦のように これはまず「地形」の映画である。盲目の主人公が見ることの出来ない遠景から、足もとの斜面に至るまで、作者の慎重な選択が感じられる。監督はかつてテレビのインタビューで、パゾリーニが好きだと言っていたが、その影響もあるかもしれない。しかし黄河のほとりのうどん屋シーンの不思議な緊張感はオリジナルなものだ。怒涛渦巻く背景を生かした地形の中で、セリフの少ないドラマが演じられる。地形が観客に与えるインパクトは強烈で、非日常の世界に・それも東洋的な光沢を持った神話の世界に一気に連れ去ってしまう。シートウが恋人の顔を地形になぞらえて手で探っていくシーンがある。盲人が視線の代わりに手でもって恋人の顔の上を放浪し、触覚が視線になって未知に向かい合ったわけだ。またこれは「音楽」を巡る映画である。『黄色い大地』からすでに、彼の映画では音楽が重要な役割りを演じてきたが、本作で前面に押し出された。人々に和をもたらす彼の琴、最後は自分のために弾き切ろうとする。が、主人公は芸術に裏切られる。人のためでも自分のためでもなく、芸術はそれ自身のために存在するという無慈悲さが剥き出しになる。芸術に魅せられるとはどういうことなのか。それでも音を掻き鳴らさないではいられない人間の可憐さのようなものが感じられても来るのだ。さらにこれは「放浪と定着」の映画でもある。村人は二人の盲人を神として歓迎するが、定着は許さない。おそらく定住したらただの乞食になってしまうのだろう。民俗学的なテーマでもあろうが、芸術=非日常のありように関する問題でもある。大きな争乱を一気に鎮めてしまう力は偉大であると同時に恐ろしくもある。そのようなものには居座ってもらっては困る、時々訪れて去っていくのが一番いい。芸術とはそういうきわどい存在なのだろう。謎のようなうどん屋の女将の歌に「誰だって自分の家にはいたくない」というリフレインがあった。女=妻というものがそもそも定住の象徴なのに、その女が放浪へ導く歌を暗示している。彼女はけっこう重要な存在で、芸術に関わってしまった人間の皮肉な運命そのものを操っているミューズなのだろうか。ああ、なんかとても多層的に観られる映画であった。[映画館(字幕)] 8点(2011-04-20 12:27:19)

149.  ル・バル いかにもフランス映画だ、シャレてる、と思ったらイタリアだった。戦前部分の色調が美しい。ジャン・ギャバン登場は愛嬌。あの恋のもつれの物語いうのがそもそも戦前映画の雰囲気なのよね。ファシズムの台頭を暗示し、ダ・ダ・ダいう足踏みの音。空襲、占領、解放(鐘の響き)で、三人の女が喜んで回っているのがそのまま群舞になる。あの時期はどこでも「イン・ザ・ムード」で表現できるんだな。片足の帰還、およびダンスでホロッとさせる。ティーン・エイジャーの乱入。ジャン・ギャバンはちゃんと戦後のかっこで登場。ロックンロールの時代から五月革命の学生運動、「ミッシェル」でディスコへと。この後半はただ風俗をなぞっただけになってしまった。踊るということの解放感、回転することの永続性、それだけに退場シーンはシミジミする。けっきょく趣向頼りの映画ではあったが、それで通したってことだけでも立派。[映画館(字幕)] 7点(2011-04-06 09:48:23)

150.  タンデム 狂王と従僕もの、というか、ドンキホーテ的な流れ芸人ものというか。とにかく、男の心にしか興味のない監督ではある。男の純情。とりわけ運転手リプト君において。局からの番組打ち切りの通知をロシュフォールに届けさせないように逃げ回っている旅。胃もぼろぼろ。赤い犬、放り落とされる自転車など、不安のイメージがまといついてきて滅びの予感が漂う。車の故障で道端の人で済ませてしまう中継(打ち切りになるラジオのクイズ番組の老司会者の話なの)。男の友情の話というより、どこか傷口をナメあっているような感じがあり、対象と監督の視線との間に冷たい距離が微妙にある。もっぱらラストを洒落て決めるフランス映画にしては、終盤ちょっとズルズルしたか。[映画館(字幕)] 7点(2011-03-28 09:54:19)

151.  新ドイツ零年 『パッション』以降の作品に言えるんだけど、メランコリーの度が強くなってるんだよね。それまで諧謔で隠されていたものが、剥き出しになってきたというか。室内撮影はもちろんそうなんだけど、風景の寒々しさといったら。ヨーロッパのメランコリーの源流はドイツにあるのだろうか。フランス・イタリアといったいわばヨーロッパ文化の中軸的なものに対して、ドイツ的なものを置くとヨーロッパに奥行きが見えてくる。たとえば音楽はイタリアやフランスで花開いたのに、いつのまにかメランコリックなドイツに中軸が移っていった。光に対する影のようなドイツの存在。そういえばこの映画では(というよりこの人の映画では常に)音楽・音に対して鋭敏にさせられるな。ピアノの打撃音まで。スピードを操作されてビデオで再現される過去の映画、その中の人物はすべて悲劇的に見えてくる。なにかすべてが憂愁へと向かっていく。憂い顔の騎士は、自らそのイメージの陳腐さに追い立てられるように、掘削機へ向かっていく。[映画館(字幕)] 6点(2011-03-25 12:14:20)

152.  ロビン・フッド/キング・オブ・タイツ クスグリばかりの弛緩した笑いの世界であったなあ。ギャグのほとんどが中世に現代を入れ込むパターンで、それに笑えないと悲惨。城の宴会でのどんちゃん騒ぎでこそ、映画ならではの笑いを引き出せるはずなのに不発。シャンデリアのロープを切ると、自分の上に落ちてきちゃうとか(メル・ブルックスでロープと言うと『サイレント・ムービー』が懐かしく思い出され)。ぐるっと360度回転のドミノ倒しはまあまあ。ミュージカルに入るあたりも、もっと何か出来そうなのに、ただの「ミュージカル・パロディ」の枠内に留まってしまう。[映画館(字幕)] 5点(2011-03-18 09:49:28)

153.  そして船は行く 《ネタバレ》 一番良かったのは、カマタキのとこで歌手たちが歌声を競い合うくだり。顔顔顔。フェリーニ健在なり。狙いは面白いがあんまり成功してなかったのは、食堂での鶏催眠術。もっと盛り上がってもいいのは、ジプシーたちの踊りシーン。一瞬の美しさで言えば、心霊術に登場する歌手。上流人士の世界に下の世界が土足で踏み込んでくる、いうタッチは、どちらかというとヴィスコンティのお得意なのだが。ああそうなの、本作はヴィスコンティ的「滅び」が前面に出てくる。フェリーニは「衰え」は好んで描いたが、こういう「滅び」とはいつもちょっと軸をずらしていたように思う。ま、どちらも「懐かしさ」という陰翳を引きずってはいるんだけど。合唱とともに沈んでいくあたりはやはり圧巻。滑り出すピアノやテーブル、廊下に漂い出すトランクになぜか蝶が二匹。最後の映写をしている心酔者、あれは余計だったんじゃないか。すぐボートで大西洋を漂うサイにつなけてよ良かったんじゃないかな。[映画館(字幕)] 7点(2011-03-17 10:17:44)

154.  ベルエポック(1992) 《ネタバレ》 おとぎ話的な構図。上の三姉妹にもてあそばれた後に、末娘と結婚し幸せに暮らしましたとさ、って。生き生きする女性どもと、憂い顔の男どもの対比。ふらりと姉妹に惹かれて汽車から戻ったものの、姉妹のペットになっていくような。女性陣の勝利が決定的になるのは母親の帰還シーン、一番いいとこ。庭からの歌声、窓が開く姉妹、屋根裏の主人公も。ベルエポックって、どこか幼年期志向と重なるとこがあるかもしれんね。母性的なるものってことか。王政派も共和制派もけっこうなごやかに暮らしているスモールヴィレッジの雰囲気。二人の警察隊員の死と、神父の死の間に挟まっているベルエポック。二つの男の自殺に挟まれた女の時代、と言ったほうがいいか。軍服の次女に怪しい魅力。あちら本場の人の「タバコ」という発音のアクセント、たいして日本人と違わなかった。[映画館(字幕)] 6点(2011-03-11 12:20:38)

155.  ピアノ・レッスン 《ネタバレ》 ピアノは決して解放じゃないのよね。人の世と別の世界への解放であって、閉じた場所での安息ってことか。ピアノは言葉の代わりにはならない。ベインズがエイダにとってピアノが重要であることを直感で知るのは、彼が文字を読めないことと関係があるんだろう。ピアノは彼女の安息の閉じた箱なのに、それを取り戻すレッスンのために彼女が開かれていってしまうあたりが話の中心。音楽は鍵盤を指が触れて生まれるもの、その鍵盤がまず取り外され現実の愛へとかわり、その代償に指も取り外されるわけ。とにかく海辺のピアノという情景が優れており、ジャングルの濃密な空気はあまり感じられなかった。浜辺で娘が踊るとこがいい。あの娘は単なる通訳じゃなく、同志のようでもあり、また批判者にもなり。[映画館(字幕)] 6点(2011-03-08 12:21:06)(良:1票)

156.  ファンタスティック・プラネット はっきり人間の視点から見た世界と支配者から見た世界とに、分かれるの。その支配者側から見た人間の群衆の動きなんか丁寧だった。まとまって動いたりなんかしない。大量殺戮シーンで球が人をくっつけていっちゃうのが怖かった。踏み潰すシーンとか。映画を見てるほうはその時々でどっちの側にも感情移入しちゃってる。ペット時代なんかはどっちかって言うと飼う側から見てたな。この設定、植民地の比喩と見ることも出来るけど、いろんなイメージに溺れる楽しみがこのアニメの核。だんだん引いていく議場の広さ。瞑想で体がマゼコゼになってしまうとこ。ホースがくねってるような大地で、雨が降ると各所が持ち上がるとこ。夜の発光。ネバネバのしずくを垂らす植物。そしてラストの像のダンス。まあよくいろいろ思いついたもんです。締めが物足りないって気もするけど。[映画館(字幕)] 7点(2011-02-23 10:57:55)(良:1票)

157.  天と地 人は時代を選べないということを感じましたな。「悪い時代」そのものと戦うということ。政府軍の拷問の後で、ベトコンからも裏切り者と言われるあたり、ほとんど不条理の世界。娼婦になる瞬間、ふっと外界の音が遠のいていく効果。たくましいアメリカと武器を売るアメリカが、やがて分裂していく。このアメリカ篇が映画としては未編集的で、ナレーションでつないだり、全然リズムがない。結局物足りないのは、ヒロインがどこか底のほうできれいごとを語っているからではないか。この大変さが嘘だと言ってるのではないが、もっとドロリとしたもの、たとえば「アメリカ兵を利用してやれ」なんて気分をチラとでも出せたら、映画は生き生きしただろう。反対側からも眺めよう、という姿勢はいいんだけど、アメリカ側から眺めることに徹した『プラトーン』の手応えは失せて、やはり「他者」に遠慮してしまうための類型化が増した。アメリカにとってもベトナムにとっても「悪い時代」を経験した、という共通点で理解し合えないか、という基本姿勢は、個人のレベルでは間違っていない。[映画館(字幕)] 5点(2011-02-17 09:54:35)

158.  フィオリーレ/花月の伝説 《ネタバレ》 ナポレオンの時代から現代まで続く、金と恋に翻弄される愚行の歴史の総括、と言うか。ある一族の物語を、現代を織り込みながら、寓話的に展開していく。紫の花の咲き乱れる中を、犯人を絶対見つけてと狂い走る娘、おまえを幸せにするから、言う兄ともつれつつ進んでいくと舗装道路に出て現代に戻り、次の19世紀の物語に続いていく、といったような趣向の展開。復讐が縦糸になっている。次は、墓場から戦争の時代(『サン・ロレンツォ』の時代ね)へ移る。試験官にちびちびと祖先のことでいびられたりして、縦の歴史の確認。レジスタンスへの共鳴はあっても、手をあらためられると、ばれてしまう。本人は黙秘してレジスタンスと連帯したつもりになっても、手が・自分の身体が裏切ってしまう。俺が助けたことを忘れるなよ。けっきょく金の力で「誇りある死」を奪われてしまったわけで、一族の影の歴史の宿命というか。そして最後に現代の少年と娘。老人の述懐を聴いて、笑い出す息子と涙する娘、というふうに分離がしだいに表われてきてラストに至る。悪と善の流れはまだ受け継がれている、いう結末。こういう寓話的な世界を描くと、この兄弟の語り口はとても良かったんだけど、今どうしてるの。[映画館(字幕)] 8点(2011-02-11 10:12:09)

159.  倫敦から来た男 ワンカットの中で、しばしば「近いアップ映像」と「遠いロング映像」が入れ替わる。とりわけ浮き輪を投げて始まる、刑事が来たときのカットが面白かった。その舞台の広さが実感として伝わる。そういう何事かが展開している長回しもあるんだけど、ただカット尻を引き伸ばしただけのようなのもあって(娘の食事とか、妻の嘆きとか)、映画全体のリズムとして、ラルゴの曲の調べを聴いているような味わいの統一は出るものの、よくわかんない(『ヴェルクマイスター・ハーモニー』でも、延々と暴徒の行進を何分間かただ映してたとこがあったけど、それはちゃんと圧迫感として迫ってきてた)。それを補うためか、ときに音楽が鳴り続け、これはちょっとうるさい。同じ曲想を延々と繰り返してるんだから、まあ時間の停滞感は画面とフィットしてるんだけど。(たぶん)そういう音楽のように時間を味わう映画なのであって、物語を理解させるのには不向きな手法。はっきり言って、理屈で展開すべき推理系ドラマとしては無理がある。こちらは漠然と、そういう話なんだろうと、理解したつもりになっただけ。いかにもシムノン的なすがれた感じは満ちているし、白黒の画面は美しい。ラストのブラウンの妻は、監督の指示か本人の体質か知らないけど、長いアップで一度もまたたきしなかったんじゃないか。『サイコ』のジャネット・リーより大変そう。[DVD(字幕)] 6点(2011-02-06 09:45:05)

160.  若者のすべて 《ネタバレ》 3章の「ロッコ」から、それまでのネオリアリズモのタッチと、神話のような世界とが重なってきて交響し、圧倒的。長男は小家庭に籠もり外界には無関心、四男は都市でやっていこうと決心して、その信念に沿って勉強してる。長男の消極的都市生活に対して、積極的都市生活。五男は未来への希望であり、故郷へ帰れる者、さらには故郷を富ませるであろう者として存在する。重要なのはもちろん、次男のシモーネと三男のロッコの対立で、この二人の自分の役割に執着するその過剰さが、神話の雰囲気をかもす。獣性と聖性の対立という二元論で片づけてもいいんだけど、さらにこの二人がどちらも都会に不適応であるところが厚み。クライマックスでロッコがシモーネのことを、「家のいけにえ」と言ってたけど(公開時の字幕では、私のノートを信ずるなら「家族の土台となる者」)、あれは自分も含めてなんだよね。クリーニング屋での女たちにからかわれながらの働き、ジムで見込まれたときの歯まで調べられる扱われよう、酔いどれて酒場で友だちに馬鹿にされる痛ましさ。それは彼ら兄弟が地上に堕ちた神々の気配を漂わせているからこそ増幅される惨めさなんだろう。シモーネが金をたかるシーンでテレビがずっと古典画を映し続けていたのなんか、これは古典悲劇なんだよ、と監督が確認してるみたい。四男はロッコのことを「許してはけないものまで許してしまった」と言ってたけど、その過剰さが彼を神々の高さにまで引き上げ、また社会との不適応を招いている。ナディア陵辱シーンの、この兄弟の惨めさの極みがそのまま神性に通じていくようなあたり、ゾクゾクする。みなで雪掻きに出かけていくシーンは、後で振り返って悲しむために仕込まれた失楽園用情景だな。父が故郷にいるあいだずっと辛抱し、憧れ続けていた北部都市にやっと出てきたという母も悲しい。南部の暮らしのつらさを描いた場面はワンカットもないのだけれど(それならもう『揺れる大地』でミッチリ描いた)、それがずっと映画の通奏低音になっている。[CS・衛星(字幕)] 8点(2011-01-27 10:27:10)(良:1票)

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