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【製作国 : イタリア 抽出】 >> 製作国別レビュー統計
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21.  シテール島への船出 花売りの老人が幻影であれは実際の父親なんだという見方と、花売りの老人を主人公にして作った映画だという見方と、二通り出来て、そのどちらにも収まりきらない曖昧さに、慎重に宙吊りにされている映画。冒頭のプラネタリウムからして、嘘の宇宙と捉えるか、本物の宇宙を縮小したものと捉えるかで分かれちゃうわけだし。老人の32年後の挫折を、こんなに美しく歌っていいのだろうか、もっとトツトツと語るべきなんじゃないか、という気もし、それはこの映画の構造を「逃げ」ととるか「絶妙な仕掛け」ととるかという判断にもよる。難しいところだなあ。この構造によって、後半旧港のシーンが浮わつかなかったというメリットはあった。映画としての緊張度は断然前半のほうが優れていたが、港の不思議な寓話性は、そのままリアリズムの話で続けられたらちょっとシラけただろう。最初からオハナシかもしれない、という用意がしてあることでスンナリ入れたけれど、これは考えようによってはズルイと言えなくもないわけで、うーん、難しいなあ。けっきょく現実からも理想からも裏切られ、彼が得たのはあの長方形の国だった、という厳しい突き放しを、こんなに美しく描いてしまう監督って。[映画館(字幕)] 8点(2011-04-13 09:59:28)(良:1票)

22.  フィオリーレ/花月の伝説 《ネタバレ》 ナポレオンの時代から現代まで続く、金と恋に翻弄される愚行の歴史の総括、と言うか。ある一族の物語を、現代を織り込みながら、寓話的に展開していく。紫の花の咲き乱れる中を、犯人を絶対見つけてと狂い走る娘、おまえを幸せにするから、言う兄ともつれつつ進んでいくと舗装道路に出て現代に戻り、次の19世紀の物語に続いていく、といったような趣向の展開。復讐が縦糸になっている。次は、墓場から戦争の時代(『サン・ロレンツォ』の時代ね)へ移る。試験官にちびちびと祖先のことでいびられたりして、縦の歴史の確認。レジスタンスへの共鳴はあっても、手をあらためられると、ばれてしまう。本人は黙秘してレジスタンスと連帯したつもりになっても、手が・自分の身体が裏切ってしまう。俺が助けたことを忘れるなよ。けっきょく金の力で「誇りある死」を奪われてしまったわけで、一族の影の歴史の宿命というか。そして最後に現代の少年と娘。老人の述懐を聴いて、笑い出す息子と涙する娘、というふうに分離がしだいに表われてきてラストに至る。悪と善の流れはまだ受け継がれている、いう結末。こういう寓話的な世界を描くと、この兄弟の語り口はとても良かったんだけど、今どうしてるの。[映画館(字幕)] 8点(2011-02-11 10:12:09)

23.  若者のすべて 《ネタバレ》 3章の「ロッコ」から、それまでのネオリアリズモのタッチと、神話のような世界とが重なってきて交響し、圧倒的。長男は小家庭に籠もり外界には無関心、四男は都市でやっていこうと決心して、その信念に沿って勉強してる。長男の消極的都市生活に対して、積極的都市生活。五男は未来への希望であり、故郷へ帰れる者、さらには故郷を富ませるであろう者として存在する。重要なのはもちろん、次男のシモーネと三男のロッコの対立で、この二人の自分の役割に執着するその過剰さが、神話の雰囲気をかもす。獣性と聖性の対立という二元論で片づけてもいいんだけど、さらにこの二人がどちらも都会に不適応であるところが厚み。クライマックスでロッコがシモーネのことを、「家のいけにえ」と言ってたけど(公開時の字幕では、私のノートを信ずるなら「家族の土台となる者」)、あれは自分も含めてなんだよね。クリーニング屋での女たちにからかわれながらの働き、ジムで見込まれたときの歯まで調べられる扱われよう、酔いどれて酒場で友だちに馬鹿にされる痛ましさ。それは彼ら兄弟が地上に堕ちた神々の気配を漂わせているからこそ増幅される惨めさなんだろう。シモーネが金をたかるシーンでテレビがずっと古典画を映し続けていたのなんか、これは古典悲劇なんだよ、と監督が確認してるみたい。四男はロッコのことを「許してはけないものまで許してしまった」と言ってたけど、その過剰さが彼を神々の高さにまで引き上げ、また社会との不適応を招いている。ナディア陵辱シーンの、この兄弟の惨めさの極みがそのまま神性に通じていくようなあたり、ゾクゾクする。みなで雪掻きに出かけていくシーンは、後で振り返って悲しむために仕込まれた失楽園用情景だな。父が故郷にいるあいだずっと辛抱し、憧れ続けていた北部都市にやっと出てきたという母も悲しい。南部の暮らしのつらさを描いた場面はワンカットもないのだけれど(それならもう『揺れる大地』でミッチリ描いた)、それがずっと映画の通奏低音になっている。[CS・衛星(字幕)] 8点(2011-01-27 10:27:10)(良:1票)

24.  ジンジャーとフレッド 前作で、あれ、この監督も「枯淡の境地」に入っちゃうのか、とちょっと心配させられたが、また馬鹿騒ぎの世界に帰ってきた。そりゃ『サテリコン』や『ローマ』みたいにはいきませんけど、グツグツ煮立ってる鍋みたいな感じは、やっぱり独自のもの。そして喧騒と静寂の対比がやはりポイントなの。静かなホテルの前に音楽が流れ出し、オカマが腰振って、向こうのビルのネオンが点滅しだし、『青春群像』って感じの若者たちが体を揺すって歩いてゆき、ネオンが水溜りに映り、オートバイが走ってきて…、なんてあたり。テレビ局の廊下、変なのばっかし歩いていてごった返している。とふと改修工事中のトイレみたいなところに入って、ガラーンとした白、二人っきりになると急によそよそしいような…、このシーンなんか実にいい。あるいは衆人環視のステージの上で、不意にプライベートな空間が生まれてしまう皮肉。雑駁な喧騒の中に、急に親密な静寂がポコッと生まれる。と観てるこっちもその静寂の側に加担して、永遠に停電が続けばいい、と思っちゃう。テレビ批判としては別に鋭くないのも、監督本人がこういうゴチャゴチャの世界が嫌いじゃないからだろう。芸人の哀感もの、ってことでは、初期の作品に戻ってみた感じもある。けっこう残酷な話なのに優しさを感じさせ、静寂の中に静かに閉じていく。[映画館(字幕)] 8点(2010-10-26 10:02:50)

25.  世にも怪奇な物語 中世ヨーロッパを一番感じさせない女優に演じさせることで、ハンバーガーの香りのする奇妙な味を狙った、という訳でもなさそうで、こりゃ単に監督の個人映画と思えばいい1作目。馬小屋が焼け崩れた向こうに夕日が見えるなんてのはちょっと美しかった。2作目になると、ひどい奴をやらせるとアラン・ドロンの冷たい目つきは良く、勝ってたバルドーがフッと表情を強ばらす瞬間など、ヨーロッパの俳優のほうがポーはいい。つまりポーのころはアメリカ文学も実質ヨーロッパ文学だったってことか。でもこのオムニバスの価値は3作目。フェリーニの世界が凝縮されている。といっても本道をいく作品ではなく、異色作ではある。いつもの猥雑な幻想は人肌の温度を持っていたが、これは冷たい(後年『ジンジャーとフレッド』でもテレビの世界を扱ったが、あれは陽性だった)。それと製作費の関係だろうが、美術=セットにそれほど金を掛けてるようでなく、ロケの比率が高い。しかしその分、人物の顔のフェリーニ的カットがじっくり楽しめ、監督のやりたいことの手つきが認めやすい。人間はマネキンのようになり、疾走する車の道には人間のようなマネキンが立つ。疲れきった主人公。人々の喧騒から逃れるためには、車の爆音に包まれなければならない。休息を求める人々ってのが、フェリーニが一貫して描いたモチーフ。爆走の合い間に静寂が入るのが効いている。変な酔っ払いの表情も不気味なんだけど、ああいう表情が不気味になるって、どうやって発見したんだろう。橋の向こう側に少女を見て、ヒステリックな笑いが決断の表情に変わっていくとこがポイント。安息としての悪魔。テレンス・スタンプって『コレクター』と『テオレマ』とこれの強烈3本で、“こういう人”専門と頭に叩き込まれたもので、後年『プリシラ』でオカマ役を観たとき、へー、普通の人の役もやるんだ、と思ったものだった。[映画館(字幕)] 8点(2010-07-21 10:02:01)

26.  こうのとり、たちずさんで 《ネタバレ》 硬質な、ドキュメンタリー的な画面の中で、登場人物が不意に詩を語り出す。国境に立つ兵士が点呼の中で川の流れについて語り、議会で政治家が雨音の背後から聞こえる音楽について語り出す。政治に追いつめられた人々が魂の中から語り出す言葉は、詩にならざるを得ないのか。ところがこの映画の重要な場面になってくると、その詩さえ消え失せてしまう。レポーターが娘に出会うバーでは、視線だけが交わされる。川越しの結婚式の場面では、向かい合う視線と伸ばされる手だけ。この作者はもう会話を信じていないのだ。詩の言葉はあっても会話は失われている。言葉の代わりにコミュニケーションの役割を担わされた視線と手は、しかし両者の距離を強調していく。マストロヤンニとモローが市場の橋の上で向かい合うとき、二人の間には見えない国境線が引かれているようだ。人々はなぜ引き離されたのか。一方が逃げ、一方がとどまったからだ。マストロヤンニは逃げ、モローはとどまった。花嫁は逃げ、花婿はとどまった。しかし逃げた者が自由になったわけではない。逃げ出した場所にはまた別の牢獄が待っている。永遠に繰り返されるだろう脱出の後に、無数の国境線が引き直され、出会えなくなる人々の沈黙だけが堆積していく。そして詩となった言葉はさらに沈黙へ傾斜し、映画はリアリズムから伝説に入っていく。「アレクサンダー大王」は群衆の中に消滅し、「シテール島」の老夫婦は漂い消え、本作の政治家も、幾人もの目撃者たちの中に分裂しながら、伝説の人物になっていく。ならばこの映画は敗北主義に浸されたフィルムなのだろうか。いや、タコの話を聞かされた少年に託されたかすかな希望がある。そして「黄色い人」がいる。アンゲロプロスの沈んだ世界に登場する原色の黄色は、前作でも目を引いたが、この作品でとうとう重要な役を割り振られた。危険な仕事に従事する移民労働者、戸籍も国籍もなく、アイデンティティからも追放されたような人々、顔さえ定かでない究極の自由へ漂い出した人々。言葉だけでなく視線も手も封じられ、しかしそういう彼らがどこかとどこかの間に電線を繫げようとしている。ぎりぎりのメランコリーの果てに監督がたどり着いた希望。国家というものが無効になった先へ張られていく電線。その背後の空には、おそらくこの映画で初めてだろう、厚い雲を割ってかすかではあるが青空が見えかけている。[映画館(字幕)] 8点(2010-07-01 12:14:46)(良:1票)

27.  ミラノの奇蹟 《ネタバレ》 大風が吹くあたりまでは文句のつけようがない。日向ぼっこのシーンなんかはイタリア映画の真骨頂。『終着駅』もそうだが、この監督は大勢の人を細かくスケッチしていくのがうまい。占いでヨボヨボのおじいさんに、あんたは将来大物になれると約束したり、風船売りが飛ばされそうになると仲間があわててパンを食べさせてやるとか。ネオ・リアリズムから寓話へと踏み出している。面白いのはイタリアの映画監督って、リアリズムから出発して、みなリアリズム離れのそれぞれの個性に踏み出していっちゃうこと。デ・シーカはメロドラマ作家として洗練し、まだリアリズムの精神を残しているほうだが、フェリーニはああなっちゃうし、ロッセリーニは神がかる、ヴィスコンティはかえって後で初期の作品を観て「この人ネオ・リアリズムやってたんだ」と驚かされたくち。で本作だが、後半は鳩の魔法のいろいろ。ラストを寓話として逃げたと取るか、現実に対する壮烈な批判と見るのか。カトリックの国であることも関係しているのか。ネオ・リアリズムだけでは映画として狭くなっていってしまうという気持ちもあったかも知れない。この飛躍はイタリア映画史にとっても重要なものだっただろう。[映画館(字幕)] 8点(2010-05-18 11:59:01)

28.  奇跡の丘 「キリストもの映画」ってのは、あちらの「忠臣蔵」なんだな。観客は話をすっかり知ってて、それをどう料理するかが見せどころ。あの役は今度は誰が演じるんだろう、といったキャスティングの楽しみとか。だから量産されても、キリスト教徒用という枠が感じられて、異教徒にはちょっと疎外感があった。そういった中で、キリスト教と無縁の私でも楽しめたのが、『ジーザス・クライスト・スーパースター』と、これだった。ドキュメント・タッチで、素人の顔の力が画面にみなぎっている。サロメはいたいけな少女で、マグダラのマリアはおばさん。そして民衆の顔、顔、顔。当時を再現したって感じでもなく、髪形なんかは現代のまま。それがキリスト物語の普遍性を打ち出した。説法して回っているときの、通行人の薄ら笑いなどに、ゾクッとするほどのリアリティがある。無名の教団に対する「変な人たちね」という視線。こういう視点がハリウッド製のキリストものには欠けていた。処刑前に刑吏たちがたむろして食事してるあたりもリアル。人間キリストを出すより、彼の言葉に集中する。こんなにも説法に時間を割いたキリスト映画はなかった。イタリア語圏でない者は字幕を次々読まねばならないのでつらいところだが、新約聖書を改めて点検してる感じ。ユダもなんの解釈もせずに、おそらく聖書どおりにそのまま描いているのだろう。この監督の映画には、斜面がよく出てくる気がするのだが、とりわけ本作と『デカメロン』三部作で印象が強い。崖や斜面を民衆が上下し、それがタペストリーのようにも見えてくる。音楽はバッハあり、黒人霊歌の「時には母のない子のように」ありで、あとアフリカの民族音楽が生きる。とりわけ復活の場。[映画館(字幕)] 8点(2010-05-08 12:01:52)(良:1票)

29.  グッドモーニング・バビロン! 《ネタバレ》 タヴィアーニにしてはちょっとノリが悪いか、と思っていたが、森の中のシンバルあたりからか、ぐんぐんのめり込んでいき、前半のいちいちが生きてくる。船の中で一つの皿を食べ合っていたのが、ラストで一つのカメラで写し合うシーンになるように。大きくイタリアとアメリカの対比があり、共同体の微温的宇宙のなかにいられたイタリアと、個人主義の厳しいアメリカが、常に両極にあって兄弟を操作している(アメリカの摩天楼が少年時代のクリスマスツリーに重なるの、その時はちょっとダサいなあと思ったが、この対比こそが本作の核心だったのだ)。そしてそれぞれの誇り、映画という現代の聖堂を築き上げたグリフィスの誇り、かたやレオナルドの末裔としてのオメロ・アントヌッティの誇り、ステッキのシーンなんか、いい。『イントレランス』のどんなスペクタクルシーンよりも、炎上する象のほうがスペクタクルだったのではないか。そして映画が「写して記録するものである」ということが、ここで生き、さらにラストの伏線になっている。本作がいいのは「映画史」に閉じてしまわず、世界史に向かって開かれていること。[映画館(字幕)] 8点(2010-04-13 11:58:39)

30.  夜ごとの美女 《ネタバレ》 戦前の下町人情ものコメディのトーンを堂々と残しているだけでなく、さらにサイレント期のシュールリアリストとしての味もあって、クレールの映画人生を縦断したような眺め。夢の中でのオペラの序曲演奏、オーケストラの中に真面目な顔して近所の連中が加わり、削岩機やら掃除機やらそれぞれの騒音をかき鳴らしている、学校の悪ガキたちも入っている。あるいは夢と現実の関係、約束した時間に寝遅れると、夢の中でも美女を待たせてしまう。処刑の夢が待っているので、寝ないで頑張ろうとしたりする。こういった夢が変に律儀なところに、シュールの精神が感じられる。そしてラスト近く、夢の中の過去が時代を無視して混交しだし、それらを貫いて原始時代から現代へと車が疾駆する楽しさ。クレールのサインのように、異なる時代の人々が手をつないで輪舞する。また「ジェラール・フィリップ七変化」といったスター映画にもちゃんとなっていて、まことに至れり尽くせり、やりたいことやってサービスも満点と職人仕事のカガミです。[地上波(字幕)] 8点(2010-03-20 11:56:30)

31.  ロルナの祈り 《ネタバレ》 2度驚かされる。「ああ、そういう話か」と映画の輪郭が大体つかめた気になった中盤でうっちゃられ、一回り大きな話になり、それで安心しているともう一度うっちゃられ、さらに話が深まる。見事。まずヤク中の男、部屋に閉じ込めてくれと自分で哀願する痛ましさ、しかし痛ましさと同時に、何の価値もない男だな、という冷たい目で我々も見てしまう。「人間やめますか」というコピーがかつてあったが、もうホントそういう感じ。しかしだんだん、そのどうしようもない男の、「やがてヤクで死んでいくだろう」というところに価値を見ている組織があらわになってくる。究極の貧困ビジネスというか、すさまじい。すると彼のどうしても女を殴れない気の弱さや、必要なお金しか取らない律儀さがしみてくる。いい奴じゃないか。対するヒロインの心の変化も、仏頂面を変えないところがいい。そこで予想されたロマンチックな展開を唐突にくつがえして、後半。ヒロインにも、組織にとっては男と同じ「道具としての価値」以上のものはなく、苛酷な展開になっていく。そこで彼女は「母という価値」にすがるわけだ。それも一ひねりされていて、彼女のすがる切なさがよりしみてくる。狭いほうへ狭いほうへと逃げていく彼女、解放と呼ぶにはあまりに痛ましい解放。暗い結末ではあるが、彼女の行動自体がかすかな希望となっていた。いつもと違い、あまりカメラを振り回さないでくれたのが何より嬉しい。[DVD(字幕)] 8点(2010-03-05 12:08:14)(良:1票)

32.  ベリッシマ イタリア語が氾濫すると、もう恍惚となってしまう。喧騒がカタルシスを呼ぶ言語なんてほかにあんまりないんじゃないか。内臓まで陽を浴びているような健康的な雰囲気。母親が娘にはいい暮らしをさせたい、という熱情に動かされているところがやはりネオ・リアリズムなんだろう。ただ母の娘への溺愛という一般化されるドラマの前に、社会というものが絡んでくる。映画会社の男(蟻を数えてらっしゃい)が母の期待の重荷を語るところ、あるいはスターだったのが今は編集にまわっているところ、などで広がりを感じさせる。このネオ・リアリズム監督だったころからもうバート・ランカスターに興味を持っていたことが分かって、それも興味深い、上流階級を扱うようになってから見いだしたわけではなかったのだ。でもともかく本作は、イタリアのお母さんを凝縮したようなアンナ・マニャーニの張きりぶりを眺めているだけで、もう十分に満足。[映画館(字幕)] 8点(2009-12-15 11:58:51)

33.  父/パードレ・パドローネ 良かったところを書きあげていくときりがない。フェリーニ風の戯画的誇張とリアリズムが同居していて、イタリア映画ならではの世界を作り上げている。好きなシーンを一つだけ挙げると、手に入れたアコーディオンを持て余して困っているところ、初めて父を離れた意志を持った疚しさがあり、また家から足を一歩踏み出した瞬間の戸惑いでもあるわけ。全体として音への感度が良く、木のそよぎや小川のせせらぎ、子どもや町の人たちのささやきなどが効果を挙げている。そしてシュトラウス。ウィンナワルツってのは、『2001年』もそうだし、『ベニスに死す』では「メリー・ウィドウ」とか、けっこう大事なポイントで効果を挙げる音楽、馬鹿にできない音楽だ。寅さんでも初期のころ「春の声」を効果的に使ってたなあ。音楽として表現されるのは単純な華やかさなんだけど、それが映像と重ねられると途端に味わいを深めてしまう。で、この話、大筋だけみると、素朴な世代交代ものなわけだけど、安易な感情シーンを入れず、最後まで父に拳を握らせるとこなど、いい。退かねばならぬことを知ってはいるのだが、退く姿勢を見せてはいけないということも知っている。最後まで「父」の役割りをまっとうしようとするとこが、この人物の魅力なのだ。[映画館(字幕)] 8点(2009-10-16 12:03:55)

34.  ユリシーズの瞳 前作のラストでは黄色い服を着た作業員たちが、絶望の中の希望を示唆していたけど、今回は黄色の補色の青に浸されていて、ラストは希望の中の絶望に見える。でもそれが希望であったのか絶望であったのかは、どこかに到着して初めてわかるので、いつもアンゲロプロスが描いているのは、途上で途方に暮れて立ちすくんでいる人々なんだ。路上で、あるいは岸辺で、帰還の途上ということだけがわかっていて、それがどこへの帰路なのかは分からない。20世紀史と映画史が重ねられた旅の途上、第一次世界大戦のサラエボから世紀末のサラエボ紛争への百年の旅の途上。映像としての緊張度は前半のほうが高かったけど、後半に込められた気迫のようなものの感動も、映画の感動として除外したくはない。歴史が凝縮されるお得意の手で、1944年の大晦日から1950年の新年までをワンカットで見せる踊りのシーンなど、やはりたまらない。[映画館(字幕)] 8点(2009-09-27 12:06:11)

35.  黒いオルフェ 真の愛とは一種の災難である、って話だ。だからここでは死神も愛の一部分なの。オルフェは災難のようにユリディウスに出会ってしまう。それがなければ彼も婚約者とそこそこの幸福な家庭を築いたはず。でも真の愛に出会ってしまう。最初観たときは死神を“宿命”って感じで捉えてみたが、ユリディウスとセットになってるんだよな。愛の二面性の片割れと捉えたほうがいい。サンバという音楽にそもそも二面性が感じられる。溢れかえる生命力があるのだが、そのなかにやがてボサノバへと変質していくなにかヒヤッとする神経細胞のようなものも潜んでいる。ユリディウスを探す死神が身を乗り出すところのヒヤッとした感じね。もちろん仮面をはずしながらむこうを向くシーンが最高。役所の建物が地獄堕ちのイメージに重なっていた。南米文化ってのがもともと日常と神話が隣り合わせになってる文化だから、全然展開に無理が感じられない。ラスト、少女のユリディウスが踊り出すときは涙ぐんでしまう。[映画館(字幕)] 8点(2009-09-23 11:58:43)

36.  魂のジュリエッタ ジュリエッタ・マシーナって、俳優としてはそれほどうまい人じゃないと思う。“嫉妬”なら“嫉妬”とそれだけをデジタル的に表現して、あんまり膨らみがない。ジェルソミーナが良かったのは、その単純さが効果を出したからだろう。ただこの作品での彼女は、ひとつひとつの演技はそういった型通りの表現なんだけど、演技以前の「オスマシしている女の子がそのまま大人になった」感じとか、「ビクビクしているのを覚られまいとしてる女の子がそのまま大人になった」感じ、といった、おそらく彼女の地なんだろうが、少女時代をそのまま引きずってるようなとこが生きていて、いいの。亭主の監督が知り尽くしていて、それを生かすドラマに仕立てたからだろう。まだこれは『サテリコン』『ローマ』といった完全なフェリーニレビューではなく、レビューのような幻想と“普段”とが拮抗した世界にとどまっている。でもそのために幻想性の効果は高まった。祖父のサーカス、火刑芝居、隣家のパーティ、庭での心理劇…。ストーリーの軸にあるのは“相談”。降霊術とか、宗教家とか、探偵とか、彼女は相談して回る。相談することで記憶や夢や妄想といった幻想の世界から普段の世界へ戻りたいのに、ますます幻想に捕えられ、ついにラス、室内に幻想が雪崩れ込む場を迎えるわけだ。そして最後のカットは退場したはずの幻影の呼び声でさまよい出すヒロイン、これ以後のフェリーニ映画は何か吹っ切れたように、幻想を何の遠慮もなく展開していくことになる。そういうきっかけの映画として、やはり忘れ難い作品だ。[映画館(字幕)] 8点(2009-06-30 12:08:59)

37.  永遠と一日 《ネタバレ》 この監督が紹介され出したころの作品は、叙事詩と抒情詩が拮抗しているようなところに魅力があったんだけど、どうもこのころから抒情詩のほうへ傾斜していっていて、なんかもう一つ固い芯がほしいところ。叙事詩的な部分の映像のほうがいい。横一列の車、横一列の警官。十名ほどの人がぞろぞろ歩くってのは、もうこの人のサインみたいなシーン。結婚式の場面などは、またかと思うがやっぱりいい(この人はミュージカル監督なんだと思ってる)。そして水辺ということ、海、川、港、ここらへんは抒情詩的な題材だけど。国境の金網にぶら下がる人々、死体置き場の階上から見下ろす人々、つまりどれも“人々”の映像がいいんだ。そもそも“無言の無名の人々”っていうのが、叙事詩的なんだろうな。いつも一縷の希望を託すようなラストだったのだが、今回の朽ちたテラスでの幻影のダンスってのは、この人にしては退嬰的な気がした。[映画館(字幕)] 8点(2008-12-10 12:13:05)

38.  マイ・ネーム・イズ・ジョー 《ネタバレ》 前半、若くもない男女が次第に親密になっていくあたりの丁寧な進行。壁紙、70年代ポップスの歌手あてゲーム、セーラの仕事場に行ったとき「ああ、ジョー?」と受付の女性にももう知られていることが分かる、なんて。で、ボーリングを経て、恋人を殴った過去を告白するまでに。いっぽう甥リアム周辺に不吉の影が立ち込め出し、ここらへんからドラマが動き出す。運び屋の仕事を引き受けてしまい、それがばれたときのセーラのせりふ「あたしを殴るの」がむごい。どこかエモーションは、仁侠映画に近いのではないか。主人公の回りをうろちょろするリアムみたいのって仁侠映画にもいるでしょ、殺され役。そして主人公の情感の爆発。ジョーがボスを殴るのは、健さんがドスを抜いたようなもんだ。リアムはジョーの分身でもあり、家庭を持てたジョーでもある。だからリアムが死んでジョーが再生し、ジョーの家庭がおそらく生まれるであろうラストになるわけ。主人公が殺されたり牢屋に入ったりしてこの社会から降りるという安易なラストにならない。地獄でも極楽でもないこの世界に踏みとどまる。いや、極楽ではないが地獄でもない、という順番かな。[映画館(字幕)] 8点(2008-11-09 12:15:30)

39.  カサノバ(1976) 《ネタバレ》 おそらくフェリーニで一番ペシミスティックな作品。醜女が次から次へと現われてくる前半はいささかうんざり気味だが、昆虫みたいな衣裳を着けた貴族の屋内オペラあたりからか。思わず「待ってました!」とかけ声を掛けたくなるフェリーに顔の男で、クネクネしたその気味悪さが実に気持ちいい。ローマでの精力競争の馬鹿騒ぎぶり、芝居が終わった後の劇場の空漠、ドイツでのオルガンの狂い演奏(ここはニーノ・ロータの独壇場)と、名場面はいろいろあるが、どこか悲痛な気配が常に漂っている。カサノバは女性の人格を、口では尊重していた。おそらく貴族的に崇拝はしているのだろうが、しかしコトに至ると、女性嫌悪・女性恐怖としか思えない相貌に女は変わって見えてくる。そして精力競争で相手の女が浮かべた哀れな表情は、目にしていない。彼は人格としての理想の女性を求めすぎて遍歴を続け、最後にたどり着いた相手は、心を持たないものだった。乱痴気騒ぎの連続の果てに訪れた孤独の平穏、凍りついたベネチアでのラストダンスで悲痛は極まった。[映画館(字幕)] 8点(2008-10-10 12:13:20)

40.  ゴスフォード・パーク ダーッと登場人物があふれる。これ小説だったらそうとう混乱しただろうけど、映画だと、とにかくその中に身を置いてあたりを観察しているうちに、しだいに整理されてくるから大したものだ。上の階と下の階、別々の階級の世界を描き分けていたのが、だんだんと絡まってくる面白さ。マギー・スミスは召使を使って情報を集めるし、上の客であるアメリカ青年は下に潜り込む。マギー・スミスの上流階級の酷薄さは、そのままイギリスが(しょせん芸人風情の)アメリカを見る眼の残酷さでもあろう。監督はそう見られるアメリカを笑い、そう見るイギリスも笑っている。[映画館(字幕)] 8点(2008-06-02 12:14:29)

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