みんなのシネマレビュー
なんのかんのさんのレビューページ[この方をお気に入り登録する

◆検索ウィンドウ◆

◆ログイン◆
メールアドレス
パスワード

◆ログイン登録関連◆
●ログインID登録画面
●パスワード変更画面

◆ヘルプ◆
●ヘルプ(FAQ)

◆通常ランキング◆
●平均点ベストランキング
●平均点ワーストランキング
●投稿数ランキング
●マニアックランキング

◆各種ページ◆
●TOPページ
●映画大辞典メニュー
●アカデミー賞メニュー
●新作レビュー一覧
●公開予定作品一覧
●新規 作品要望一覧照会
●変更 作品要望一覧照会
●人物要望一覧照会
●同一人物要望一覧照会
●関連作品要望一覧照会
●カスタマイズ画面
●レビュワー名簿
●お気に入り画面
Google

Web www.jtnews.jp

プロフィール
コメント数 2336
性別

投稿関連 表示切替メニュー
レビュー表示レビュー表示(評価分)
その他レビュー表示作品用コメント関連表示人物用コメント関連表示あらすじ関連表示
コメントなし】/【コメント有り】
統計メニュー
製作国別レビュー統計年代別レビュー統計
要望関連 表示切替メニュー
作品新規登録 / 変更 要望表示人物新規登録 / 変更 要望表示
要望済関連 表示切替メニュー
作品新規登録 要望済表示人物新規登録 要望済表示
予約関連 表示切替メニュー
予約データ 表示

【製作国 : イタリア 抽出】 >> 製作国別レビュー統計
評価順1234567
投稿日付順1234567
変更日付順1234567

1.  ボイス・オブ・ムーン 喧騒と静寂の対比は変わらない。性欲の強い妻とか、いつもと似たようなことやってるんだけど、夜の静けさのほうが地になって、お得意の馬鹿騒ぎはディスコとか広場とかで要所を締めるという程度。この「月」は女性の謎そのもののようでもあり、さらに神秘的な彼岸的なものの象徴のようにも感じた。井戸の声、洗濯機の声、など綺譚の色合いが濃くなっていた。画の女とのワルツとか。オーボエの「声」で異変が起こるエピソードもあった。「生きてるより思い出すほうが好き」ってフェリーニについて考えるとき、重要なポイントになりそう。ほとんどが夜のシーンです(昼になると日本人観光客がうるさい)。大きなセットが動くのが最後まで好きな監督だった。狂人の世界を心を込めて描くとこうなったのだろうか。この人にとっての「彼岸」は、ひとつは「幼年期の記憶」だろうが、もうひとつ「狂の世界」ってのもあったんだ。『道』がそうだったし。憧れるんだな、彼岸の女として。[映画館(字幕)] 6点(2014-03-06 10:56:25)

2.  ひまわり(1970) 駅での別れが3回あったのか。出征、ロシアでの再会(ソフィアが探して、ソフィアが汽車に乗る)、イタリアでの再会(マルチェロが探して、マルチェロが汽車に乗る)。この映画、タイトル曲が有名なんだけど、ソフィアが異国の地を探し回るときの、6拍子のテーマもいいんだ。ロシア民謡のような引きずるようなメロディ。「岸壁の母」より心に沁みる。メインテーマもいいけど(おびただしい死者がイメージの中で重なる画面いっぱいのひまわり!)、思い出そうとすると、ビリーバンバンの「さよならをするために」が混ざってきちゃうんだ。[地上波(吹替)] 8点(2014-03-04 09:41:10)

3.  あんなに愛しあったのに 飛び込み台の上で男が止まっている間に、すべてが語られる物語。止まって動かなくなると、何も聞こえなくなる趣向、ってのがあるの。そして登場する人たちがローマから出たがらない、ってのもある。だから戦後ローマ史でもある。あとブーフーウーみたいな童話の「3兄弟ものパターン」もあって、長男次男は金持ちであったりインテリであったりするけど家庭を失い、プロレタリアートの実直な末っ子は幸福な家庭を持ちましたとさ、って。そういったブーフーウーのパターンに寄りかかり過ぎたのが、若干弱点にも思える。「落伍者は物知り顔になる」なんてすごいセリフもあった。イタリア女性であるヒロインの25年後はもっと太ってるんじゃないか。まあイタリアお得意の微苦笑の世界です。4分写真で泣き顔になっていくとこ。お肉を吊るすギャグ。ブルジョワ家庭のガレージから車がどんどん出てくるとこ。などが印象的。[映画館(字幕)] 7点(2014-02-05 09:43:32)

4.  太陽は夜も輝く 冒頭から寓話精神で始まる。樹の下の少年がおいでと呼びかけると、花びらが手のひらに舞い降りてくるの。有名俳優をけっこう使って、ミュージカル性も添えた。音への配慮がいつもどおり素晴らしく、衣擦れの音と雨の音が競い合ったり、羊の鳴き声の使い方とかいい。広い池は出たが海は出なかったな、この監督フェリーニと同じで海好きかと思っていたけど。これ主人公の三人の女性遍歴ものと見ることも出来そう。彼にとって真っ当な夫婦こそが、最大の憧れの対象だったのでは。他人に利用されることに極端に敏感に反発を感じてしまう主人公だったのが、修道士になっても心の平安が得られず、つまり自尊心が強すぎるという罪の保持者なんだろう。それが村人たちに善意の手助けをする生活で救済されていく、って話なのか。神様って、人に使われるのがヤな人が代わりに必要とするものなのかもしれない。この主人公、そういうことでずっと疲れている印象がある。この監督は俗人たちの話のほうが合ってると思う。「標高」の高い映画で、空気は澄んでいるけど、低地の俗人たちの俗な世界のほうが懐かしくなる。[映画館(字幕)] 7点(2014-01-25 09:41:45)

5.  黄金の馬車 『河』に続いてヨーロッパを離れた世界。いかにもヨーロッパ映画的な人の出入りがあるけど、舞台は南米。この人は特別人間を鋭く描く、ってタイプじゃなくて、人間関係のおかしみを丸ごとふわっと包み込むような世界で、これをしみじみ楽しむには私は上品さが欠けていたか。舞台と舞台裏を同時に収めたりするカットはいい。会議のところもいい。一方で大団円がまとまり、その一方で女優の寂しさを一筆添えるなんて、う~ん、まったく上品です。文句を言う箇所が一つもなく、ただ私にはこの手の上品さが、ときに物足りなくなるときがあり、ちょうどそのときに当たってしまったか。うっとりとまではいけなかった。テクニカルカラーの色調は、上品でなくてよろしい。[映画館(字幕)] 7点(2014-01-20 09:29:24)

6.  みんな元気(1990) まだ若い監督(当時)が分かったような人生論を口にするな、って気もするんだけど、でもとにかく楽しんで作っているの分かってそれが楽しい。子ども五人も必要だったかな、とも思えるが、イタリアを回るにはこれぐらいがいいのかもしれない。『東京物語』を大袈裟にしたような話で、場末の医院ぐらいの幻滅がちょうどいいと日本人なら思える、多血質のイタリア人だともっと大仰な幻滅をしたくなるんだろう。私のノートには良かったカットがこまごま書いてあるが、一つだけあげると、娘が走ってきて階段のとこで(カメラは上にあるので上り始めのところで一度視界から消える)少女時代に代わるの。娘のスピード感がそのままで、実に鮮やかだった。イタリア映画は、フェリーニとかタヴィアーニとか話がどうのこうのより、良かったカットを記憶したくなるものだった、そういう監督のの最後がトルナトーレだったか。[映画館(字幕)] 8点(2014-01-18 09:47:24)

7.  デカメロン 若いころ名画座ではイタリア映画が元気溌剌で、フェリーニの『サテリコン』『ローマ』『アマルコルド』あたりが繰り返し上映され、ヴィスコンティは配給権が当時あったのはそれだけだったのか『地獄に堕ちた勇者ども』と『ベニスに死す』の二本だけが繰り返され、若手監督ではベルトルッチの『暗殺の森』と『ラストタンゴ・イン・パリ』(私がサントラレコードを買った唯一の作品)、ヒネたのではフェレーリの『最後の晩餐』も好きだった(これのフィリップ・サルドの音楽に陶酔させられ、『ソドムの市』のモリコーネと合わせて「えげつないニ大名画の二大陶酔曲」として脳に刻印された)。そしてそのパゾリーニにも溺れ続けた。最近の人は分からないかもしれないが、ビデオやDVDのなかった昔は外国映画は配給権てのに縛られてて、配給会社が権利を買ってる間だけ上映できたの(たぶん今でもフィルムはそうなんだろう)。それが切れるとフィルムを返さなくちゃならないので、気に入った映画はとにかく日本で見られるうちに脳に焼き付けるまで繰り返し見ねば、という気持ちになってたわけ(あのころの観賞の気合いは、もう今では出来ない)。そんなころの思い出映画が『デカメロン』『カンタベリー物語』『アラビアンナイト』の三部作で、フランコ・チッティ、ニネット・ダボリなんて役者の名前を聞くともうそれだけでワクワクしちゃう。そして無名の役者さんたち。歯並びの悪い男、ニタニタ笑っている男、変に無理してるような・卑屈なような・不敵なような男たちの笑い顔。ひとつひとつの艶笑譚も楽しいんだけど、とにかく彼らに逢えるのが嬉しかった、それで見続けた。なんかほかの映画と違う広々した世界だった。[映画館(字幕)] 9点(2014-01-15 10:12:04)

8.  ニキータ フランス映画で「リアリティがない」って悪口はあんまり意味ないのかもしれない。どうもあの国のリアリティは、たとえばアメリカとは閾値に違いがあるようで、自由に出来る部分が広いみたい。ニキータ自身が大使になって大使館に入っちゃえるぐらい警備が手薄でもアリになるらしい。ベニスでの狙撃なんかも、ちょっと無理が感じられるんだけど、あの国ではかなりの程度まで嘘っぽさが許されるのね。そう頭ではフランスの伝統を入れていても、私がノレたのは最初の料理店の銃のプレゼントのあたり。ふんわかした気分が一転して三分以内の仕事の緊張にすりかわり、トイレの窓はふさがってて厨房での銃撃戦になっていく。あの程度のリアリティと嘘の配分が私にはいい。で恋人が絡んでくるのがまたフランス映画で、もたれるの。[映画館(字幕)] 6点(2013-12-20 09:42:13)

9.  ドイツ零年 廃墟のベルリンをそのままセットで使うって、考えてみればずいぶん贅沢な映画です。露出の不安定さが変にリアル。ニュースみたいだからだろうか。突然カッと光があふれるショック。狭い室内ではカメラが人物を追いまわし、目まぐるしく往復する。父殺し以降の充実感がすごい。社会派ドキュメンタリーだったものに、不意に神話的な風が吹き込んできて、罪と救済のテーマが躍り出てくる。さらに子どもの孤独の描写、これは敗戦国に限らないかもしれない。いままでの登場人物たちに少年を拒絶させていくの。突如鳴り響くオルガン、ヘンデルのラルゴ。町並みにたたずむ人々。前半のヒットラーの演説と対照させる。しかし教会も救済してくれない。このラストの少年への密着がすごくて、淡々と戦後風景のルポやってたのが、グッと奔流に飲み込まれる。社会が悪いんだ、とは言えるが、なぜその報いがこの少年に集中するのか? そのシステムの由来は? なんてことを考えてると、神の問題に近づいてしまうのだった。[映画館(字幕)] 8点(2013-12-18 12:33:14)

10.  神の道化師、フランチェスコ 説教もあってセリフの多い映画なんだけど、サイレント映画見てるような気になる。画面の感じがそうなのか。水の音や、ライ病患者(ハンセン氏病ってよぶと歴史的な厚みが感じられず、ここではこっちを使わせて)のカランカランとたてる音など、トーキーならではの効果が随所にあるんだけど、サイレンとタッチなんだな。画面の組み立てのせいなのか。対象だけを素直に捉えて、凝ったことをしないと決めているよう。単純者ジョバンニ老人が出てくるとさらにいい。彼とジネプロとの、純朴を画に描いたような中世コンビ。宗教が権威を持ってくると、原点へ・単純へ戻りたがる傾向を持つんだけど、フランチェスコってそうなんでしょう。その体現がこの二人。単純はまた独善に傾きたがり、種が乱れ飛ぶ中で完全なる喜びについて実験する話も他人に迷惑を掛けるわけで、単純と独善は紙一重なの。その延長には魔女狩りもあるわけだが、この映画は単純が単純として輝くギリギリのところを捕まえている。修道女が訪れるシーンの野の晴れ具合・広さの感じなんかいいですな。迎えに行くほうをずっと見せてて、切り替えして向こうに木が一本立ってる緩やかな斜面をやってくる四人の修道女になるの。一番張りつめるのは、ライ病患者に会うシーン。カランカランという音がなにやら幽玄と言うか。疎外者であり異端者であり、しかしキリスト教をキリスト教たらしめている核になっている素材、と納得させられるシークエンスであったが、能の世界と通じ合ってもいるような。でラストぐるぐる回って倒れた方角へ、布教にそれぞれ歩いていく。この教団について何か説明しようという感じではなく、いい連中だ、と作者が思っているその気持ちが、観客として見ててやはりいい気持ちになる。すがすがしさ。この複雑になった世界で単純さを求めることは、ある意味必死であり、かつそれを成せればすがすがしい。青空の中の雲、雲、雲。[映画館(字幕)] 9点(2013-12-13 10:14:24)

11.  殺人カメラ 《ネタバレ》 ロッセリーニもコメディを撮る。悪魔が悪い奴を殺す方法を教える。宗教的に見れば「人に人を罰する権限はあるのか」となって、ロッセリーニのテーマとしてつながってはいる。高利貸しの老婆も遺言の中では善行を見せ、あんなに愛し合ったロミオとジュリエットも、跡継ぎとなればいさかいをする。この世、善人と悪人に分けてレッテル貼れるものじゃなく、みんなすまして写真撮ってるときのような滑稽な生きものではないか、いう話。階段の多い土地、いつもそこを歩かされるアメリカ人。偽の聖アンドレアの片足のコツコツいう音や、水の流れる音。ラストで生き返ったってのが、声で分かる仕掛け。ロバもね。なかなかユーモアのセンスのある人だったんだ。挙手のままの棺とか。主人公、世の中はこうあるべきだという考えを漠然と持っている庶民なの。いい顔してる。[映画館(字幕)] 7点(2013-12-08 09:26:40)

12.  明りを灯す人 ほのぼのした映画の線かと思っていた。たしかにおおむねそうなのだが、政治の混乱期のドラマなのだった。アカーエフ独裁政権が崩壊したあとのキルギス。当時一応日本でも報じられていた記憶はあるが、「独裁者」の風貌がモロに日本人だなあといった感想しか持たなかった。イラクは独裁者が消えたあと、混乱に突入した。こちらは都市部ではワイワイやってるようだが本作の舞台となった村ではのどか。電気のメーターを操作した罪で捕らえられていた主人公が、政権崩壊で釈放されたくらい。と思ってると、底のほうでは動いていた。やり手の男が村を牛耳りだし、親戚のおとなしい男(妻は赤旗なびかせたトラックに乗って出奔してしまう)を次の村長に押したて、中国の土地開発団を呼んだりしている。そういった動きの気配に合わないものを感じていく主人公の困惑、といった話で「ほのぼの」では終わらない。そしてこういう「転換か否か」という話は、変革期の国では(日本の幕末維新期もそうだったが)どこでも起こってきた。主人公は子どもがみな娘で息子がいないのを気に病んでいる昔風の男、でも電気技術者である彼を尊敬しているらしい男の子がいつもそばをチョロチョロしている。電信柱に乗っているときマッチを投げ上げてくれと頼むと、中に小石を入れて風に飛ばないように工夫してくれる賢い子。後にこの子が(だと思うんだけど、顔をよく識別できない)木に上って降りられなくなり主人公が助けにいく。山の向こうを見たかったと言う少年。この地方の希望がじんわい感じられるいいシーンだった。[CS・衛星(字幕)] 6点(2013-11-29 09:04:55)

13.  5時から7時までのクレオ 不吉な占いのとこのみがカラーで、あとは白黒。病気の検査結果を待つ女性新人歌手の2時間の物語。最初のうちは何でそんな辛気臭いのに付き合わなくちゃいけないんだ、と思ってたんだけど、この不安感が人生の凝縮された状態なんでしょうな。普通の町並みや普通に暮らしている他人たちが、とてもよそよそしく見えてきてしまう。これがロメールの『緑の光線』のように、ある男との出会いによって一つ脱皮できるまでのドラマ。不安が解消されるわけではなく、こうやって生きていくという決意に至るわけ。決意と言うとちょっと大袈裟になってしまうんだけど。それがドキュメントタッチで実物大と言うか、実感そのままみたいに伝わってくるのが、手法の勝利。夏至のパリって陽が長く、全然夕方の感じがない。少し露出過度気味のカメラが不安を通して見た街ってことなのか。あれで日本的な夕方だったら、情緒が出すぎてしまったところ。いちいち細かく時間経過が画面の下に表示される。[映画館(字幕)] 7点(2013-11-16 09:57:11)(良:1票)

14.  シェルタリング・スカイ 10年目の夫婦の物語であり、戦争の熱狂のあとの物語でもある。もう一度ヒリヒリする時間を持ちたい。いつも空に覆われて、保護されてて、何かと剥き出しで対峙したい。そんな前提で、精神的な疲れから肉体的な病気に至る夫婦の旅になる。彼らには、何らかのリフレッシュか決定的な破局かを期待する旅だった。で旦那は腸チフスという決定的な破局以上のものを手に入れてしまうんだけど、それは同時に愛の再確認の場でもあった、って。字幕のない放浪が続き、砂漠ってのは紫禁城と違い歴史のまったくない場所。でもやはり同じ場所に帰ってくるの。ここを撮りたかったのだろうな、と思わせる。夫婦互いのじらし合いが、ずるずると拡大し大袈裟になっていって、浮気になり、別行動になり、そして…、というドラマ。彼らの空虚感を共有できるかどうかが、感動の分かれ目でしょう。[映画館(字幕)] 7点(2013-10-23 09:52:42)

15.  無防備都市 悪口を先に言っちゃうと、ファシストの描写。作られた時が時だからある程度仕方なく、この時代はこういう悪役像しか作りようがなかった、という1945年の記録になってるわけでもあるんだけど、やっぱり後世の目で見ると薄っぺらい。いかにも悪女めいた表情してたり。しかし個性を持った人物が出ないシーンになると、がぜん光ってくる。あわてて逃げている男の背後で明けていく朝の空。あるいは兵士が到着し、オートバイが回り込んで止まり、家の周りを包囲していくその臨場感。処刑のシーンのまぶしい白い光。これつまり1945年の錦絵・瓦版みたいなもので、これこれこういうことがあったと多くの人に告げ知らせたいという意識が濃いんじゃないかな。劇映画も否応なくその時代の記録映画となってしまう、ということを確認できた作品。[映画館(字幕)] 7点(2013-10-01 09:27:33)

16.  戦火のかなた ほとんどのエピソードについて言えることだが、言語の複数性、各国語が交わされ通じにくい状況が描かれる。米兵とシチリア娘のほそぼそとコミュニケートが取れていた状況に、不意の銃弾のショックが来る。さらにジョーのために銃を取った娘が独軍に殺され、しかも米兵にはジョーを殺したと思われてしまう。すべての理解から遮断されて、崖下に落とされている一個の死体の孤絶。戦争の残酷さをこれからこういう切り口で見せていくぞ、という姿勢を第一話から明らかにする。少年と黒人兵、社会の弱者同士がかろうじて話し合うが、連帯のような深いつながりには至れない。英会話教本を読む娘も同じ。映像が張り詰めているのは、フィレンツェの市街戦。影がくっきりと浮かび、煙もなく人影もほとんど見えない世界で、ロープに引かれた台車だけが、街角と街角を細くつなげている。修道院で泊まることになった従軍司祭のなかに、ユダヤ教やプロテスタントがいることを知っておろおろするユーモア。ロッセリーニの後の世界につながっていくテーマだ。ここでは缶詰の文化と500年の修道院とがコミュニケートする。そしてラストで、穏やかな川の流れに残酷な死を畳み込んでいく。これまでいくつかのコミュニケーションの可能性の情景を綴っていったラストに、戦争とはつまりコミュニケーションの可能性の放棄なんだ、ということを文鎮のようにドンと重く置く。[映画館(字幕)] 8点(2013-09-28 09:35:02)

17.  イタリア旅行 ロッセリーニとバーグマンには申し訳ないが、これ、とうとう引っ掛かってくれませんでした。ただこうエピソードを並べるのが好きな監督だってのは、しみじみ納得した。歴史の地、古代の彫刻、遺跡の発掘、といったエピソードがブツブツと投げ出されていて、それらが化合してくれない、って言うか。フェリーニの映画もブツブツで進むが、彼の場合はかえって寄席の演目が並んでるみたいで、エピソード主義が効果を上げている。フェリーニのトーンとうまく合って、映画とはもともと寄席の芸だったんだ、てなことにまで貫いて納得してしまう。ロッセリーニだと、そこんとこ、変にシンネリしてしまう。ただ、性格を持たない第三者が映るシーンはいいの。バーグマンが一人で車を走らせている街の光景、娼婦なのか太った女が立っているあたりの不安な感じなぞ、やけに迫ってきた。きっとあそこらへんに取っ掛かりがありそうなんだが、申し訳ない、取っ掛かりどまり。[映画館(字幕)] 5点(2013-09-26 09:22:56)

18.  ジプシーのとき シュールリアリズムって、欧米の「正統」文化史観からだと「こういうのもありました」と傍系的に見られるけど、もっと広く捉えるとスペインあり南米ありこの東欧ありと、もしかしてそっちのほうが主流なんじゃないか。ごく自然に超能力が描かれる。空缶移動、壁を這い回るスプーン、七面鳥。あの七面鳥が死んでこの一家に不幸がやってくる。主人公も悪の道に入って行っちゃう。盗みに入った家で思わずピアノを弾いてしまうエピソード。空中浮遊もよく出てきたが、あれいい。雨の野を駆け出していくお父さん、合唱が入るところで“まいった”と思いました。民族の力、いうか。ジプシーってなんか遠く離れた東洋の我々にはロマンチックな雰囲気があるが、ヨーロッパ人にとっては、魔法を使う犯罪者のイメージがあるよう。古い推理小説ではよくそんな扱われ方をしてたし、だいたい差別用語になっちゃって、今はロマって言わないといけないんでしょ。ジプシーの扱われた歴史は、たぶんユダヤ人とともにヨーロッパを考えるとき大事なんだろう。主人公の顔が良く、ちょっと頼りなげで、組織の中にいればひょうきんな人気者だけど、外に出るとグレちゃいそうな弱さがある。そこらへんに実感があった。/このころユーゴの映画がよく公開されてて『アーティフィシャル・パラダイス/カルポ・ゴディナ監督』ってのもあった。フリッツ・ラングの東欧での青春時代を描くの。20世紀初頭の演劇や詩やカメラに漬かっていたある階級の雰囲気と、その崩壊の予感が味わい。ラング作品のネタ探し的楽しみもあった。[映画館(字幕)] 8点(2013-09-17 10:06:19)

19.  スプレンドール 閉館まぎわの映画館、その臨終のときに見る意識の流れのような映画。「すいません、帽子をとってくれませんか」と頼むと長頭で…、なんてエピソードを挟んで、そういう細かいところは悪くないんだけど、どうしてイタリア映画はこう懐古的、愚痴っぽく、内閉的になってしまったんだ、と思っちゃう。不健康。ぐずぐずと滅んでいく己れにどこかうっとりしてしまっている。なぜ映画はすたれてしまったのか、っていうことに反省しないで、テレビのせいにばっかりする。ま、そんな反省をわざわざスクリーンで観たいとは思わないけど。映画が映画を描くときの一番良くないパターンにはまってしまった気がする。人の名作を延々と見せて、チョロチョロとつまみ食いで時間を構成するって、それこそ一番テレビ的じゃないか。ラストは開閉式の天井から雪が降りそそぎ、取り払われようとしている座席に客が座り込み、まさに臨終の床で見る世界のよう(自己陶酔でありつつ至福でもある)。フェリーニ的。イタリア映画はフェリーニとマストロヤンニの影響から抜けられず、どんどん弱っていった。[映画館(字幕)] 6点(2013-07-28 09:36:43)

20.  小間使の日記(1963) ほとんどが悪党ばかりの中で、あの少女だけが純粋な「被害者」なわけ。ヒロインが徹底的に彼女にこだわる。偽の証拠まで体はってこさえて、捕まえさせるんだけど、ここらへんの異常さが「ブニュエルだなあ」と納得してしまう。でも「ブニュエル」って心構えを外してみると、よく説明できない心理。あのあと隣家の人と結婚するのは堕落ととるのか。そうじゃないわな。彼女だってどちらかというと悪党の側の人間なんだから。その彼女が一瞬、少女の無惨な死に対して(かたつむり)共鳴した、ってところに希望を感じていいんでしょうか。分からない。脚本は以後も続くカリエールと組んだ最初のもの。「ブニュエル的」って言うとなんか分かった気になれるが、ホントはちっとも分かってない。なのに「ブニュエル的」と言うしかない現象が確実にあるんだよな、この世には。変態の変態ぶりだけはよ~く分かった。変にニタニタしてないのがホンモノっぽい。靴のシーンよりも、自分のハンカチで少女に洟をかませるほうが、変態度を強く感じた。日本でも、何かの検査だと言って小学校帰りの少女の唾液をせっせと集めてたのがいて、変態度の高さに「ブニュエル的だ」と感心させられたものだ。日本文化を嫌ってたブニュエルにも、ちゃんとこういう変態が活躍してる風土だと知らせておきたかった。[映画館(字幕)] 7点(2013-07-19 10:19:02)

全部

Copyright(C) 1997-2024 JTNEWS