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コメント数 914
性別 女性
ホームページ http://ameblo.jp/cluttered-talk/
自己紹介 After shutting down my former blog, I'm writing some boring stories at new site. Anyone who's interested in, come along if you'd like to.

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61.  クラッシュ(2004) 「25時」でも出てきた「アメリカにおける人種」の問題。 これは白人監督による場所を替えての(LA)お話だ。スケールも韓国人からペルシャ人までと大きい。 この映画では人々は「人種間の憎悪」を解決するためにすーぐ銃を用いることを考える。 「怖い気に入らない憎たらしい」→「じゃ銃だな」。 「銃」を用意しないサンドラ・ブロックのような人は恐怖と不安でノイローゼになるしかない。 アメリカは白人がネイティブアメリカンを追い出して(殺して)住み着いた国であるのに、そこに自分達より後に別の人種が入ってくると、「俺たちよりいい思いをしなければお前らがここに居ることに目をつぶろう」というレベルから基本的に少しも進歩しないのだ。 これはよその国の自分に関係ない出来事ではない。 留学生を装って日本に出稼ぎにくる中国人、ダンサーだと言って売春する東南アジア人、薬物を売買するイラン人、日本語も話せずブラジルから出稼ぎに来て2~3年で帰ってしまう日系3世。日本の安全を守りにきたはずなのに、現金も持たず(超低収入)街に出てきてナンパをしたり悪さをする基地の米兵。 もちろん普通の無害な外人もいるだろう。しかし、「無害かどうか判断のしにくい」外人に対して、「どうぞ私の家のとなりに家を建ててください。」とか、「私の店のとなりに店を出してください」とか「私の所有するマンションを借りてください」とか「どうぞ私よりたくさん稼いでください」と言える人が何人いますか。 上記の白人と同じでしょう。「俺たちよりいい思いをしなければ目をつぶっていてやるよ。」 これが「人間」の真実の姿だと私は思う。普通の人間はもともとそんなに立派ではないんだ。 この作品を見る限りポール・ハギスの考えもおそらく同じだと思う。 「立派じゃないので、避けないでぶつかれ。触れ合え。避けるともっともっと相手が怖くなるだけだ。」と彼は言いいたいらしい。 「日本ではここまでひどいことは起こらないわ。銃が無いから。」?それでは、福岡の4人殺しとか、ペルー人の女児殺しとか、世田谷一家殺人事件はなぜ起きたのか? それでも、ポール・ハギスの言うように、「怖がって避けてばかりいないで触れ合え」ますか? 脅かしているようだが普通の日本人もあの検事の妻のように、不安とイライラに苛まれる日は近い。たぶん「銃のあるよその国の出来事」として見るのでは甘い。 [DVD(字幕)] 7点(2006-09-24 14:34:48)(良:2票) 《改行有》

62.  カポーティ 《ネタバレ》 原作のことはほとんど忘れてしまいました。 ホフマンの演技に沿うならば、カポーティというのはスノッブで軽薄なヤッピーを「演じている」成り上がりのゲイだった、ということになる。 彼は作品のためなら他人を平気で利用し、嘘をつき、必要なら賄賂も使い、出版社からも抜かりなく金を引き出す。作家としてプロとして完璧だ。 そんなカポは一家4人殺人犯という「極悪人」を「同じ家で育って裏口から出て行ったやつ」というふうに認識して会いに行くわけです 彼は「最悪の冷血」のなんたるかが知りたい。正体が見たい。そして、彼の目的は「スミスに事件の詳細と動機をしゃべらせること」となり、ひたすらその「お宝」に焦点をあててカポの人生は集束していくのです。 何年もの努力や嘘の甲斐あって、ついにスミスは語ります。「動機は金」「殺したのは相手も殺されると思って怯えていたから」。…。 この時点でカポの頭は点になってしまったでしょう。殺したのは、「すでに仲間と強盗に入ってしまった」という事実と「相手が怖がっている」「自分は凶器を手にしている」という「お膳立て」が揃っていたから、だというのです。何年も待ち望んだ答えが、「ゼロ回答」だったのだ。 というか、スミスという男は「悪魔」というほど立派なものでは全然なく、ヒコックもそうで、カポにとっては「お宝を求めて飛び込んだら、中心部は空洞だった」というようなもの。 「悪魔のような所業」が「ぜんぜんしょぼいチンピラ」によって「成り行き」で行われたという。それはどういうことなのか。4人も惨殺した犯人がそうでなかったのなら、ではカポの求めてきた「ホンモノの悪」「最悪の冷血」はいったいどこにいるというのか…。 そして「悪魔の正体」が見たくて今までカポがしてきた二枚舌外交はなんのためだったのか。それに騙されて「アミーゴ」と呼んで死んで行くスミスに対し、どんな落とし前がつけられるというのか。「僕の見込み違いだったよ。求めていたのはキミじゃなかった。」などと今さら言えない、死刑の前に。 目の前には、死刑を前にしてカポを気遣う「成り行きで死刑囚になったしょぼいチンピラ2名」、そうして、カポは情けなくてむなしくて泣くしかない…。 カポは最期まで嘘をつき、スミスたちは感謝したまま死ぬ。やつらこそ「冷血」のはずなのに、まるでこれではカポが糾弾されているように見える。…。[DVD(字幕)] 8点(2008-12-03 20:13:22)(良:2票) 《改行有》

63.  ティム・バートンのコープスブライド 《ネタバレ》 バートンの実写映画にうんざりしていたので意外な気がした。 この人は実写はやめたほうがいいのではないでしょうか。 映像は文句なしで完璧だと思います。死者を扱ううえでの様々なアイディアも、なかなか面白いです。 しかしいつものように、私にとっては主題が面白くはないです。 これは結婚を扱った話で、結婚に始まって結婚に終わる結婚のことを言っている話だと思う。 それはいいのだが、つまるところは「結婚はふさわしい相手でないと成立しない」というのが結論なので、そうするとこれは「人魚姫」の変形バージョンでしかなく、ようするに「結婚」は「身分」だと言っているということだ。 身分が違うと結婚できないのです。 人魚姫の別バージョンなんですから、相手は死体でなくて地底人でもマウンテンゴリラのメスでも(清原なつののマンガにそんなのがあるけど)いいので、そこで示されているのは「身分違いだからムリ」ということで、どういう形をとってもつまりは人間社会の身分のことを遠まわしに言っているのです。 だからこそそれを見たり読んだりした人は身に詰まされる。 そしてこの話は定石どおりに終わる。エミリーが魔法の力で蘇ってヴィクターと結婚したりはしない。 最初から、生きているものどうしはヴィクターとヴィクトリアなどという同じような名前になっていて、「同種」「身分」を露骨にあらわしている。 この作品は、何にも増して「お子様の視聴に支障がないこと」をファーストプライオリティーにつくられているし、実際そうなっているのだが、作り手には「徹底的に結婚の価値を貶め嗤うこと」という隠れた目的があったように思えてならない。ここでは、結婚という装置は限りなく意味がなく哀れなものとして扱われていて、それは旧世代の夫婦たちだけでなく、ヴィクターにしろヴィクトリアにしろエミリーにしろ、大した理由もなく結婚に向かっていくのである。 そういう意図は確かに感じられるけれど、そもそもが「お子様」に合わせて作られているところが私は気に入らないし、そのくせスケベ心を出して小細工を仕込むというのは…潔くないと思います。これからは、堂々と「大人むけ」と表明したうえで、ちゃんとしたものを(実写をやめて)つくってもらいたいです。とにかく実写よりはマシでした。[CS・衛星(字幕)] 5点(2009-02-28 15:52:52)(良:2票) 《改行有》

64.  輪廻(2005) 《ネタバレ》 これがあの「呪怨」と同じ監督さんの作品? 個人的には期待はずれと言っていい出来だった。私は「呪怨」には感心していたんだ…。 何が決定的に違うかといったら、強いていえば「語りすぎ」であろうか。 「サービス過剰」が顔を出して来た。 この映画の中で、観客の想像力で「その先」「その裏」を読ませる場面がどれだけあっただろうか。 「見せすぎ」である。 パン兄弟といい、ホラーでメジャーになった後の作品というのは、「見せすぎ」に流れがちなのか。 ともかく、「呪怨」の監督さんの作品としては、がっかりする作品であった。 キャストでは、意外にも出番もセリフも少ない椎名が存在感あり。この人はセリフが少ないほうが目立つようだ。あんまりしゃべらせないで、置いておくだけで「目力」を発揮するという、おもしろい俳優さんだ。 さて、問題の優香であるが、清水監督が本作に優香を使ったというその意味を考えてみたい。 事務所力とか業界政治とかいうものがもし無かったとしたなら、優香を主役に据える意味はひとつしかない。「鈍重」である。「鈍重」の効果は、「主人公の感情が観客に容易に伝わらない」である。私はずばり監督はこれを狙って優香を配したと思う。 演技巧者でない、という特色はもちろんであるが、優香という人の「鈍重」さは、なにより皮膚の厚みにある。 どんなに撮影用の特殊なメークをしていても、主役を張るような女優さんの肌というのは、普通はもっと薄く、興奮すれば容易に顔が赤くなるのが普通だ。優香はそうではない。 優香の皮膚は、厚い。興奮しても、決して顔や首に血管が浮き出たり透けて見えたりしないくらいに厚い。よって普通は主役を張る女優さんではない。 が、本作で優香を使ったことにより、清水監督は、一個しかないオチへ観客をミスリードするためのある程度の効果は上げた。あくまでも「ある程度」。次作に期待。[DVD(邦画)] 5点(2007-06-22 12:42:18)(良:2票) 《改行有》

65.  鬼畜 《ネタバレ》 映画「鬼畜」は様々な視点から観ることができる作品であろうが、個人的には実話という場合は、何よりも「実行者の心理」に興味を持つ。妻の言いなりになって我が子を次々に捨てるという、信じがたい行為に及んだその心理に興味を狩られる。どうすればそうなるのか。彼自身は積極的に子供を疎んじているようには見えないし、「本当は殺したり捨てたりしたくない」し、何より「子供が彼を慕っている」=「何らかの愛情を感じ取っている」ように思う。「何でも他人の言いなりになって、抵抗できない」→その理由「自分はおよそすべての他人より劣っている」=「自分より優れた人間に常に従うほかはない」という固定された構図が、この男の頭の中にあったのではないかと推測する。これは、成長過程における「成功体験の欠如」が原因としか考えられない。この映画に見る彼は、知的障害者でもないし、精神を病んでいたわけでもないからである。このように考えるに至ったのは、身近にモデルとなる男性(同僚)がたまたま居たためである。「誉められたことがない」「常にバカ、グズと言われ続ける」このように育って「自分だって人並みに頭が良い」と思うことができるであろうか。このような「成功体験を欠く」人たちの中には、私の同僚のように常に他人の言うことが正しいと思い、自ら考えたり要求したり交渉したり闘ったりすることができない大人が存在する。そして「鬼畜」の主人公の行動を可能足らしめたものはこのような心理ではないかと思うのである。よって、愛人によって初めて「誉められる」を与えられた彼が、簡単に彼女の懐に落ちたであろうことは当然である。映画版は、この構図を納得のいくよう描いていたと思う。この推測に添って考えると、ビートたけしのTV版の主人公は、「違う」ように思われるのである。「それなら捨てないで済むでしょう」と思えてくる。ともあれ姪っ子を見るにつけ、まことに「子供は誉めなければならない」と思うのであった。[ビデオ(吹替)] 8点(2006-01-22 19:08:03)(良:2票)

66.  WHO AM I? 《ネタバレ》 最後までしっかり鑑賞するつもりで見始めたら、嫌になってやめてしまう映画というのがある。こないだスカパーでやっていた「ライアー」がそれだった。あんなに魅力的なキャストだというのに、30分も見ないうちに、どうにもこうにも辛抱ならず。 さて逆に、最後まで見る気などないのに、やめられなくなって、しっかりエンディングを迎えてしまう映画というのもある。本作がそうだった。 「興味はないがたまにはジャッキー・チェンの顔を3分くらい見てみるか」というノリで見始めて、エンディングロールまで見てしまった。恐るべしジャッキー・チェン。 これは脚本・監督もジャッキーが参加しているから、ジャッキーの本音が色濃く出ていると思っていいのだろう。それで、私はジャッキー・チェンという人がいかに「言葉」に重きを置かないか、ということについて改めて気付いたのだった。 ジャッキーは英語なんぞで大事な言葉を語ったりしない。や、べつに山本未来より英語が下手だとか、そういうことはジャッキーにとっては重要ではなくて、ジャッキーにとって英語はやっぱり自分の言葉ではないんだ。 ジャッキーは執拗に、英語を否定する状況を生み出し続ける。英語の通じないアフリカ原住民、せっかく英語の達者な山本未来と巡りあえても、薬草を噛んだせいでずっとしゃべれない。 アフリカ原住民のセリフに字幕をつけなかったことは、明らかにジャッキーの意図であろう。彼はこう言いたい。「言葉以外の要素で、この映画を味わってくれ」。 私はこの映画には「英語、それがナンボのもんじゃ」というジャッキーの反骨心を強く感じる。もちろん、小谷野敦の言うような、英語を母国語とする人々の「英語万能主義」を前提としての。 0.2秒しか映らなかったけど本人は嬉しかったであろうケイン・コスギには笑ったし、山本未来の英語はネイティブに近いと感心したし、ジャッキーのアクションも「スタント有り得ず」という「安心感」をもって堪能できる。 ジャッキー・チェンは言葉によって人間の真実を伝えようとする方法を否定し、どんな窮地に陥ってもシリアスに突入することを拒否し、この映画を撮った。自ら演じた。大したもんだ、と言っとく。 *アフリカの砂漠に突如「三菱石油」、「ふそう陸送」が大写し。シュールだなあ。CM料もらっているだろうな。ま、許す。[CS・衛星(字幕)] 8点(2007-08-29 12:31:11)(良:2票) 《改行有》

67.  魔界転生(1981) 《ネタバレ》 映画館で2回続けて見た昔の自分。最近DVDでまた見た。 邦画では一番好きかもしれない。原作も読んだし。リメイクのお粗末さにくらべてこの充実感。当時は技術も進んでなくて、効果とか大変だったろうに。やっぱり映画は技術は「1番目」じゃないんだよね。20年前のほうが、役者さんもうすっぺらくない。みんな「何かありそう」な顔をしている。リメイク悲しかったなあ。個人的記念碑的作品。 追・↑ぶらきさんそのとおりです。切れてます。[映画館(吹替)] 9点(2005-11-09 21:48:44)(良:2票) 《改行有》

68.  バイバイ、ママ 《ネタバレ》 まず大拍手をします! ベーコン家総出演のこの作品。並みの俳優ならつまらん自己満足で終わるところ。 ところがところが、このクォリティの高さ。本物です。 回想シーンというものは、単なる説明に終わってはいけないということが良く分かります。(「ホワイトライズ」がいかに芸が無かったか納得)また、単なる説明でない回想シーンであれば、数回入れても映画の雰囲気が損なわれるどころか、完成度を増すということですね。 2回目に見ると、両親を嫌いながら、愛する人と心中するという同じ方向に生きてしまうエミリー、子供時代と同じ失敗をするエミリーにはっとします。それとハーカー夫人はすごいね。10歳の子に、この世で女の子が最も知らねばならぬ秘密を教えるんだから。私なんかこの事に気がついたのは30もかなり過ぎてからだわ。(誰も教えてくれん!) なんといってもこの豪華キャスト陣を惜しみなく無駄遣いする贅沢さよ。 サンドラにしても、マット・ディロンにしても、10分と映っていないでしょう。ものすごくおいしそうな料理をちらっと垣間見せるだけのような心憎い見せ方です。こんな贅沢も、ケビン君の内輪力なくては有り得ない。俳優さんが監督に乗り出した作品には、こういう内輪ならではのごちそうが期待できるところがよいです。これで作品の出来も良ければ言うことなし。 ケビン君の演じたお父さんは一目見て大爆笑。はずしにはずしてこのファンキーなスタイル、突き抜けている。大変よいです。そしてサンドラの妖しさよ。やっぱり美人だ。ケビン君の奥さんキラと比べるとさらにそう思う。 キラ・セジウィック。魔女顔である。私の嫌いなタイプの顔だ。目が寄っているうえに激しい奥目、ワシ鼻、そして歯が短いので口の中が空洞に見えるところが怖い。サイコ女をやったら右に出る者がいないグレン・クローズの継承者といえましょう。 それから娘のソシエちゃん。この子ただものじゃないわー。そんなに可愛くもないのにこの存在感。いつもブスくれた顔しているのに、なぜかその心中が伝わってくるという、役者の条件を満たした逸材と思います。先が楽しみだ。 ケビン君たら「エコーズ」でせっせと穴を掘りながらこんなプランを練っていたとは。俳優さんの余芸ではビル・パクストンの「フレイルティ」にも感心したが、個人的には笑いのセンスがあるところが私の好みに激しく合っている。次作も楽しみです[DVD(字幕)] 9点(2006-09-17 00:49:33)(良:2票) 《改行有》

69.  エリザベスタウン 《ネタバレ》 ダメだ不細工だ。 こういう顔で主役が張れる時代とはいったいなんなのか。容姿における階級革命価格破壊か。キャメロン・ディアスがいい女呼ばわりされたころから「おかしいなー」と危機感を覚えていたが。 そのうえ白人にしては足も短くスタイルもよくない。こういう子がいいというのは一部のマニアな男性だけでしょ。誰がこういう女の子になりたいと思って映画を見ますか。スーザン・サランドンとかダイアン・キートンクラスの強烈な個性があるならともかくさあ。 オーランドはカイル・マクラクラン似だがご本家ほどの哀愁はなく、あまりにもツルッとしたその顔にややホモくささあり。アレック・ボールドウィンのデブ化には驚いた。すでに色気のかけらもなく、やはり美人の妻に捨てられたことは大打撃だったのだろう。 それにしても、かったるいこの話。「癒されたいんだ僕」ですか。絶望して死のうかというときに、不思議な女の子が現れて自分に好意を寄せたうえ、進むべき道を示して救ってくれるだとー!なんつう他力本願なふぬけた根性の男だ。なんかこう、ヘタレな男の子の隠れた願望爆発て感じで辟易だ。これが男性ウケがいいとはなあ。意外に女性に救われたいと思っている依存心まんまんの男の子っているんだな。 固有の登場人物間のエピソードを極力省いたり、長電話とか、ラストのドライブといい、「映画をご覧のヘタレな男性の皆さん、どうぞオーランドになったつもりで疑似体験なさってくださいませ」て感じだな。まっ私には無縁の世界。…映画を見ていて眠くなることはあまりない私のはずなのに。どこをどう楽しんだらいいの。キャメロン・クロウとも相性は良くないみたいだ。 [DVD(字幕)] 4点(2006-10-08 23:41:01)(笑:1票) (良:1票) 《改行有》

70.  この子の七つのお祝いに 《ネタバレ》 角川映画で一番記憶に残る作品。日本人でなければわからないであろう。大陸からの引き上げとかさ。外人が見ても「だから?」だよね。何が怖いかって、「ここまで悲惨でなくてもこれと似たような話はいっぱいあったであろう」と多くの年配の日本人が知っていること。そういう無茶苦茶や混沌が「あった」ということを「知って」いること、それを極端に膨らませて悲惨きわまりない話に仕立てているけれど、けっして別世界の話ではないこと。だから怖いんです。松本清張的な感じもしますね。[地上波(吹替)] 8点(2005-12-23 18:53:10)(良:2票)

71.  28週後... 《ネタバレ》 言いたいことは3つくらいあって。 ゾンビ発生後の人類としての対処をグローバルに、ということは金使って、結構ちゃんと作ってあるところは感心する。ゾンビが出る映画は低予算ものやハンパなのが多いから、一応の満足感は、ある。 しかしー、もうひとつ言うならゾンビが全速力で走るということは、ゾンビ映画の醍醐味のひとつを失い、面白さを下げているのではないかと、やっぱり思ってしまった。 ゾンビ映画の醍醐味のひとつとは、「ゾンビがトロい」ことによってもたらされる効果である。思い出してもらいたい。スーパーの中で、さまようゾンビたちをなぎ倒すバイクの群れを。そしてまた、「トロいのに強い」というのは恐怖を増幅させませんか。あんなトロいのに、囲まれてひと噛みでもされたらもうオシマイ。 思い出してもらいたい。トロいからこそ、捕まえて実験してみたりするが、ちょっとでも油断すると逆にやられてしまったりする。 トロいから、「もしかしたら突っ切るなり逃げることが可能かも」という「希望」が生まれ、そこから名シーンが生まれる。 本作の登場で、定着にトドメを刺したかに見える「ゾンビ全速力」だが、私はあくまで反対だ。業界は考え直してもらいたいものだ。 最後に、「選別」の問題について。私はもう、「トゥモローワールド」を思い出してげんなりしてしまいましたさ。 「あなたや私の命よりはるかに重要」な少年の命、であってそのために自己犠牲が連発、どうでもいいメンバーはいつ死んだかわからないうちに居なくなってる、というお約束の展開だ。 これはもう映画の世界ではイデオロギーとして確立されたといってもいいのじゃないだろうか。「特別な命」と、「特別じゃない命」があって、後者は「譲る」べきである、というのがさあ。 それが必ず、「その個体が生まれながらに獲得している特性」を担保にしているところが、私はイヤなのだ。後天的に努力して獲得したものでは無いのです。私は医者や看護士や消防士や警察官や科学者に譲るのは仕方がないと思っている。 そういう「解消しようがない、どうしようもない差異」を理由にして複数の他人が進んで犠牲になるのが当然である、という展開に…とても違和感を覚えるし、やめてもらいたいのだ。こういうものは無力感を増幅させる以外にどんな意味があるというのか。それがあたかも人類の常識であるかのように、当然のように描かないでもらいたい。[DVD(字幕)] 7点(2008-12-04 22:32:58)(良:2票) 《改行有》

72.  運命の女(2002) 《ネタバレ》 この作品でオリヴィエを発見。なんなのこの人って。驚異のフェロモン全開男。 その後他の作品でも見たけど、やっぱり全開だった。私生活大変だろうなあ。しかし、よくこんなのをキャスティングしたものだ。さすがエイドリアン。しかし、ギアもかなりのものなのに、オリヴィエと並ぶと、フェロモン度には横綱と幕下くらいの差を感じる。見ているだけで妊娠しそうですね。下品ですいません。ダイアンの老けぶりにおどろくが、女の共感を呼ぶタイプへ老けていた。[DVD(字幕)] 8点(2005-11-02 23:16:58)(笑:2票) 《改行有》

73.  善き人のためのソナタ 《ネタバレ》 ヴィースラー大尉はおそるべき無私生活者で、家族もなく、その住み家も生活感のないホテルのような部屋だった。唯一の趣味は仕事、規律に従うことを何より重んじ、曲がったことが許せない。そんな彼の生きがいは他人の嘘を暴くこと。嘘を暴き、秘密を告白させることすなわち他人に勝利する瞬間である。そうしてヴィースラーは他人に勝ち続けているので、私生活が無くても精神の均衡を保てた。 けれどドライマンの盗聴という、他人との直接対決無しでの秘密の収集作業は、ヴィースラーの精神状態をおびやかした。盗聴によって秘密を知りえても、彼には勝利の味も達成感も他人を組み敷いた優越感も感じられなかった。彼は尋問によって喜びを得る人間として成立していたため、盗聴向きの人間ではなかった。 子供とボール遊びをし、美人女優を恋人にし、誕生日にはパーティーに人が集まり、友人たちの心配をし、気が向けばピアノを弾く。そんなドライマンの生活と、暗い屋根裏で盗聴機器に囲まれ何時間も過ごしたうえ、誰も居ない無機質な部屋に帰りデブな売春婦(しかもショートタイム)しか相手にしてくれないヴィースラーの対比が見事である。二人は陰と陽。光と影。 私の解釈では、ヴィースラーは政治的に共感したというよりはドライマンたちを家族のように感じ、彼らの一部として関わってみたくなったのである。 その序章として、バーに入ってきたクリスタに話しかけてしまう。ドライマンの代わりに忠告してしまう。あげくは彼らの代わりにタイプライターを隠すところまでエスカレートする。 私はヴィースラーのとった行動を、レジスタンスを助けたというようないわゆる「いい話」レベルには考えたくない。これはもっと、純粋に個人的な問題なのだ。 ドライマンがヴィースラーを問い質したとて、彼は決して真実を語らなかったと思う。だからあのようなやり方で謝意を示したことは、リアリティにこだわる意味でも映画のしめくくりとしても最良であった。 ひとつ残念なのは女性の扱いで、女性はクリスタしか出てこないというのに彼女は薬物依存で他の男とも寝るうえ、最後は秘密を暴露して恋人を窮地に陥れるという、甚だ情けない人物としてしかも死んでしまうというところ。それならばー、せめてもう一人、頼りになるマトモな女性を出して比較させるべき。「だから女は信用できない」死んで償え、で終わるのは納得いかない気がするぞ。[DVD(字幕)] 8点(2008-07-28 19:23:38)(良:2票) 《改行有》

74.  イカとクジラ 《ネタバレ》 まっフツーの国の人が見れば、問題点は明らかなので、この「メストアップ」な状態はアメリカ人のセックスに対する優先順位が高すぎるから起こる。 それは女の数が足りない期間が長く続いたという不幸な歴史をしょっているためだが、それにしても、もういいかげん自分らで気がついたらどうなのか。 人生にセックスというオプションはあるが、酸素や食料と違って、なくても死ぬということは、ないんだ。けど、あそこの国の人たちは「セックスの相手の確保」と「恒常的にセックスで満足を得る」ことが、呼吸や食事と同じかそれ以上に必要なものと思い込んでいる。…それで、しなくてもいい苦労をしたり、余計なトラブルがいっぱい起きてる。 大人の価値観が子供に伝わって、子供たちも、セックスが一大事だと思いこむ。 セックスは、してもしなくてもいい。オプションだから。 この作品の中で、最終的に長男がそのことに気がついて、「この国の大人たちはなんかおかしい」と表現してくれれば、わざわざこういう作品を作った意味もあると思うんだ。 でも、そういうふうにはならなくて、なんだか「不安の正体」を直視しに博物館へ行く、もう「不安」から逃げないぞ、みたいな「少年の成長系」締め方になる。 違うんだって。その不安は、大人たちがヘンだからあーたたちが巻き込まれて発生したんであって、あーたの親だけじゃなくて国全体がヘンなんだって。確かに、父が学歴だけが自慢の貧乏で嫌味なインテリだったり、母が淫乱だったりという、その家庭ならではの特殊事情はあるにしても、「国がしょってる問題」のほうが大きいんだって。 こういう終わり方をしては、根本的な原因がまたうやむやになるだけだ。 フツーの国では、やたらと子供にセックスの話なんかしないし、上の子が高校生になってまで、両親がセックスの相手を必死に求めていたり、自分の親と親友の親がデキてたりなんてことは、たま~にはあってもそんなにはないんだって。 結婚=キングベッドで夫婦が一緒に寝る、という鉄則なんか、そもそも無い国だっていっぱいあるんだよ。40過ぎても週に数回セックスしないと愛が無いなんて、誰が決めたんだ?だいたい、「愛」がなくなったら離婚しなきゃって、誰が決めたんだ? アメリカ人は、優先順位を考え直す時期をとっくに過ぎているんだけどなあ。 でも、べつに啓蒙する気がないならなんでこんな映画をつくるかな。[CS・衛星(字幕)] 7点(2010-10-19 20:32:34)(笑:1票) (良:1票) 《改行有》

75.  美しい人(2005) 《ネタバレ》 常連の俳優を多く使った、いつものガルシア節である。 本作では、それぞれ「何か」に囚われている女性、「何か」を飼い馴らすことに手を焼いている女性ばかりが登場する。私の解釈では、それは登場順に「怒り」「過去」「父親(幼児の性的虐待)」「ダメな男」「未来(ありあまる可能性)」「己の性的魅力(名器)」「老い」「病気」「愛する人との死別」となる。 それぞれの話には、ガルシア節特有の語られない行間があり、観客は登場人物の会話を注意深く聞くことによって、それを感じ取っていく。そういった見せ方には相変わらずのうまさは感じる。 特に、性的なセリフが一切無いにもかかわらず、「性的虐待を受けた過去」を演じきったホリー役の女優さんの熱演が光る。 個人的には、全体として、「彼女を見ればわかること」ほどのインパクトが感じられなかった。 何が違うのかといったら、「彼女」でのメッセージとして存在していた「明日を信じること」「人間性への信頼」あとは、「芸術性」において、本作は「手詰まり感」を示すのみで、「みんなそれぞれ苦戦しているんだね」以上のものを観客に示していないということだ。「彼女」を見終わった時、知らずに胸に湧いてきた、「もしかして、この先何かいいことがあるかもしれない。」「もう少し、前向きに生きてみてもいいかもしれない」という気持ちが、全く浮かんでこない。 「彼女」を改めて評価したい気持ちと同時に、やはり本作への失望を感じた。 何がいけないのだろうか。イニャリトウは排除したほうがいいのではないか?優秀な女性スタッフが足りないのではないか? あと、サマンサの項は完全に趣味に走っていて、男性の作り手の勝手さに腹が立つ。あのブリブリした胸の谷間をこれでもかとアップで撮り続ける品の無さはどうしたものか。やっぱり女性スタッフの力が生かされていないと感じる。同じ豊満ボディを撮るにしたって、女性スタッフに発言権があるならば、こんなことにはならないはず。あれは女性の観客には不快感しか与えない。 ガルシアよ、「オレは女性を描かせたら世界一」などと慢心して男ばっかでつるむのはやめよ。ロクなものはできんぞ。 なんたってあんた自身は〝男〟でしかないんだから。女の目はごまかせないぞ。[DVD(字幕)] 6点(2007-06-14 14:57:14)(良:2票) 《改行有》

76.  バックマン家の人々 《ネタバレ》 あー、なんですな、コレを語るには下世話な言葉の連発になってしまいますので、嫌いな方はパスしてください。 一応見終わって何を思ったかといいますと、「子供をもつのは素晴らしいことなので、無計画にどんどん作ろう!」ちゅーことですね。 原題は「親業」ですが、その前に、「作る」ちゅー過程がなければならんでしょうが。 そこのとこはどうなっているかというと、老いも若きもとにかく避妊はしない。 この作品世界では、子供というのは「ハプニング」でできることになっています。 計画出産をしようとしている唯一のカップルはおかしなことに、妻のペッサリーに頼っていることになっていて、夫のほうが妊娠させたくない側ですから、ペッサリーの穴に怒るより、あんたがコンドームをすればいいだけの話でしょうが(怒)。ペッサリーとコンドームと、どれだけ装着の手間が違うと思っているねん。こんなヘンな話はないので、妻がわざと穴を開けたことにしたいためのご都合エピソードでして、バカバカしくて見てられない。 そしてまた、この唯一の計画出産カップルは、「計画出産」というポリシーを不自然なものと「気付いて」「転向」することになっています。…あのなあ。 私は「ビューティフルマインド」とか「アポロ13」とかけっこう面白いと思ったんだよなあ。 冒頭だけ無意味にウッディ・アレンの真似を入れてみたりしてもコレは全くダメ。 そらあーた(ロン・ハワード)やアメリカ人(の大部分)がハプニング出産礼賛者で、若い頃にワンワンニャンニャンやって無計画に子供を作っているから少子化とは無縁なことはよくわかったが、そんなものを「ねっ素晴らしいでしょう」と押し付けるのはやめてもらいたい。 「神さまにお任せする」ということで無計画に子供を作っても、まともに育児をしてもらえない子供が増えるんじゃないのかい?それも神のご意思だからOKなのか。 そして声を大にして言いたいけれど、「なんでそんなにコンドームが嫌いなんだよ」。 使えよ、コンドーム。[CS・衛星(字幕)] 4点(2010-03-26 17:40:07)(笑:1票) (良:1票) 《改行有》

77.  恋愛上手になるために 《ネタバレ》 グウィネスの弟が監督して姉も出演した、妙に豪華キャストだけど埋もれた映画。邦題もひどいです。 豪華キャストなんだけどなぜか知名度が低い作品…主演のカレ、問題はこのヒトかも。知らない、こんな男優さん。 と思ったら、イギリス人なのか。どうりで…この系統のイギリス俳優はケネス・ブラナーの後継者ってところですね。 〝ケネス・ブラナー的なるもの〟とはなにかというと、顔が十人並みで多少童顔傾向、身長はけっこう低く、手足が短くぽっちゃり系(非マッチョ)…というような特徴をもち「男は中味で勝負」というおよそ俳優に向かないタイプを指します。私が勝手に決めました。 で、ケネス・ブラナーはイギリスで活動して「中味(知性)で勝負」ということで成功したのですが、ゲリー役のマーティン・フリーマンも同じような感じで勝負してきたんだけどいきなりアメリカ市場に主役で殴りこんでもそれはムリというものなのだった。 …アウェイなんです。アメリカの女優・男優・スタッフの真ん中にケネス・ブラナー的なるものを放り込んでも。ケネス・ブラナー本人ではないわけだから、「キミ誰?」ということで来ているわけだし。 見た目が特に優れず知性で勝負といったら、アメリカには堂々のウッディ・アレンがいるわけですが、それは「面白い(笑える)」から生き残ったわけで、ケネス・ブラナー的な俳優にはそういうものは少しはあるけど強烈には存在しない。「無名のケネス・ブラナー」は「そんなに笑えないウッディ・アレン」と同じようなことなので、マーティン・フリーマンを主役にしたのは大ミスなのだった。 正直、この人をずっと見ているのはキツかったです。「なんでこのヒトが主役なのか?」「なんでこの顔をずっと見ていないといけないのか?」「身長が足りない」「手足が短すぎ」…。 でまあ、内容はまあまあなんですけど、作品の途中では「どこからどこまでが夢なのか」というよくある謎解きはしなくていいように私は思いました。ラストでベッドサイドに佇むドーラのシーンは「絶対に事実」なので、そうするとアンナ登場シーン以外は事実と考えてよいはずです。 なにか結局、ゲリーは常に親友ポールの持ちものを欲しがっている…という解釈もアリなのか? ドーラはポールの元カノだし、アンナはポールの妻と同系統。そのへん、深読みしすぎでしょうか。ラストは気が効いてました。[地上波(字幕)] 6点(2010-09-03 21:15:55)(笑:2票) 《改行有》

78.  サルバドールの朝 《ネタバレ》 これはとてもバランスの悪い作品ですね。 冒頭のクレジットに「圧制と闘った青年の実話」という決意表明がされているし、ラストのクレジットでも同様に「サルバはフランコ独裁政権下の犠牲者」という扱いになっています。作り手はサルバドールをヒーロー扱いしているはずなのです。 ところが、本編に入ると、サルバのやっていることは武装した銀行強盗ですね。銃で人を脅かしてお金を奪い取るという普通の犯罪だ。これは普通の青年である彼らには銃が無ければ絶対に不可能な行動ですが、銃を手に入れたことによって、いきなり不可能が可能になってしまう。そのことによって、彼らに無意味な全能感が生じていく様子がシビアに描かれている。 フランコがひどいので闘って倒そう→闘うには武器と軍資金が必要→フランコを倒すためなら強盗してもかまわない→俺たちの銀行強盗は犯罪ではなくレジスタンス、という、当時日本にもよくあったような論理でサルバ青年たちは行動していました。 サルバは死亡した警官について、最後まで何のコメントもしません。5~6発当たった中に、自分の撃った2発が入っていたかどうか、それが致命傷になったかどうか、全く気にしない。「ただ逃げたかったから撃っただけさ」というサラっとした言葉しか、彼の中には存在しない。その警官に家族が居たのかどうか、聞きもしない。 サルバは無実の罪で死刑になると思っている。…そうなんでしょうか。 無実というのは冤罪のことをいうのではないのか?それともサルバの銃弾が当たっていない場合のことを無実というのか?なんだか私にはこの映画の作り手のポリシーも、サルバや家族たちのポリシーも、はっきりいって理解できない。 サルバに罪の意識はゼロ、自分の家族の心配ばかりして、死亡した警官のことは無視、刑務所での態度は一貫して生意気。いつも人を見下した態度でいる。自分に同情してくれた刑務官にさえ、同等以上の態度を取り続ける。…私には単なる生意気なお坊ちゃんにしか見えないのだが。レジスタンスのヒーローとは思えないのだが。 フランコ独裁下のスペインを経験した人なら、サルバがヒーローに見えるのだろうか。私にはわからないが、前後のクレジットを見る限りでは、作り手はそのつもりで公開したんだろうなあ。極東日本で見るぶんにはドジった銀行強盗にしか見えないが。[DVD(字幕)] 5点(2008-07-23 11:34:11)(良:2票) 《改行有》

79.  ランボー 《ネタバレ》 これはなんかー、シルベ自身のもつ不憫さ大爆発、です。順風満帆とは程遠い人生を歩んできたシルベの、「演技してるわけじゃないけど」だれもが感じてしまう「ああほんとに不憫な子じゃのう」的あり方。このごろ思いますけども、見てる人(赤の他人であるところの観客)って、俳優さんが巧みに演じるその「技」よりも、そこに現れる俳優さんの「人としてのありかた(見栄えも含み)」のほうからはからずも発せられる何らかのもの、のほうが深く残るもんじゃないかしら。例えて言えば私なら3:7割くらいでさ。だから私は映画においては「演技」だの「技」だのあんまり重きをおかないの。「名優」デニーロだって、簡単にいうと「いつもうさんくさー」くらいにしか思わないし。北野武だって、「そんなのあんまり写んないよ」ってさらーっと言ってた。「映画」だから。そんなわけでシルベはがんばってもがんばっても暗い男なのであった。[ビデオ(字幕)] 8点(2005-12-10 01:08:41)(良:2票)

80.  クジラの島の少女 《ネタバレ》 おそらく作り手が己のルーツに敬意を捧げた作品であるとともに、フェミニズムの映画なのですね。 「フェ」と言っただけでそっぽを向かれそうですが、どう見てもそういうメッセージが込められた作品なんだから仕方ない。 マオリの族長の家系というシチュエーションを借りたうえでの、「男の子じゃなかった」という理由でいろいろな不便や面倒を感じながら成長してきたすべての女の子へのメッセージ、癒し、でもあるのだと思う。 マオリの人々の祖先は、約1千年前にニュージーランドに移住して住み着いた。何百年か経つと、そこへヨーロッパ人がどんどん入ってきて、数においてマオリのほうがマイナーになってしまった。 けれど、パイケアの祖父コロのように、「高貴な血」をもつ長たちは、文化と伝統の灯を絶やすまいとそのことのためだけに生きている。個人は100年もすればどうせ死ぬ。個人が死んだ後に引き継ぐことができるものは文化だけだ。文化が引き継がれなければ、人はただ生まれて死ぬだけの存在になる…族長コロを見ていると、その信念が痛いほど伝わってくる。 パイの父は優しいが弱い男であったため、妻の死に耐えられず育児も教育も後継者としての義務もなにもかも放棄してヨーロッパへ逃げた。そして何年かしたら、考え方もふるまいもヨーロッパ人になっていて、金髪碧眼の女と勝手にくっついていた。彼は族長の重責を担うには優しすぎたのだ。 後継者探しにやっきとなった祖父のもとで「男の子じゃない」というだけで、隠れて棒術の練習をしなければならないパイ。自分より劣る男子たちが祖父から教わっている内容を、物陰からじっと観察するパイ。…このへんではもう完全にウルウルしてしまっていけない。 世界中の女の子たちは、みな多かれ少なかれパイケアと同じ経験をしてきている。 心の中で、何度「パイケアのような優秀な子が男子だったら」と思ったかしれない祖父が、「女子でも後継者」と認めるまでには、クジラの座礁という不思議な現象とパイ本人の命をかけることが必要だった。「優秀」というだけではダメなので、本当に女子の行く先には難題山積である。 ラストで不肖の父が戻ってきているあたりは、やりすぎハッピーエンドの感があるし突っ込みたくなるところだが、とりあえずは祖父とパイケア両人の健気さにやられました。泣きます。[CS・衛星(字幕)] 9点(2008-07-16 20:06:09)(良:2票) 《改行有》


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