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61.  次郎長三国志 第八部 海道一の暴れん坊 《ネタバレ》 豚松の母親の嘆きなど、「カタギ」と「馬鹿」が対比される。やくざというのは、つまり「馬鹿」の開き直りってことなのか。馬鹿の石松は吃らなくなり、死ぬときには左目が開く。死んで治る馬鹿もあるのだ。嵐の祭りの夜、お面が乱れ走るあたりが映画として美しいところ。今まで命を粗末にしてきた馬鹿が、恋をして、俺は今死ねねえんだよう、と言いながら死んでいくところが哀切のポイントで、こういうのは後の仁侠映画の脇筋でもしばしば使われることになるわけだ。ラストは、石松の死、身請けされて晴れ晴れと道中の夕顔、青空、そして怒りに燃えて海辺を走っていく次郎長一家の面々、というシーンをバッバッと並べただけでバタンと終える切迫。シリーズ全部を通して言えるんだけど、仇役に対して映画はほとんど興味を見せない。仇が現われたとき、この身内がどんな反応をするかってことのほうが眼目になる。視点は一家の外でなく、内にある。唐突だけど、これはかつての日本の国策戦争映画の特徴とも重なっている。そういう余分なことを考えちゃうと、石松の死を、ただ哀切として味わっていいんだろうか、という気分にもなるんだ。[映画館(邦画)] 7点(2010-02-19 11:59:30)

62.  次郎長三国志 第七部 初祝い清水港 《ネタバレ》 正月映画らしい道具立てで、忠臣蔵の七段目をベースにしたような一編。もっとも大石はリコウがバカの振りをして浮かれていたのに対し、俺たちゃバカがバカやって、とぼやいたりはする。お蝶の百ヶ日までは我慢して、その後で千葉信男との対決という寸法。「バカ」というのは「企てる」のが下手、ってことだろう。だとするとフグ中毒を偽装するのはあんまり合ってないことになるのだが、バカがバカなりに企てて、という面白さと思えばいいのか。バカは間が持たない、とも言う。佐太郎が小料理屋を開く、大政の妻がやってくる(武家言葉とのちぐはぐさで笑わせる落語的要素)、など「周囲のその後」で話の隙間を埋める。千葉信男の手下たちが夜の街を巡礼の鈴を鳴らして走り回る妖しさ。やはり久慈・越路の姐さんたちが決まっていて良い。最後、尻もちをついている久六に対してイットーサンたちが割りゼリフで決めるのも、歌舞伎的で正月映画らしい。[映画館(邦画)] 7点(2010-02-18 12:00:42)

63.  次郎長三国志 第六部 旅がらす次郎長一家 《ネタバレ》 御詠歌を流す巡礼で始まり、一転渋い一編となる。逃げ回り野に伏す日々。石松が思わず吃らずに嘆いてしまったりする。男泣きの場が多い。「こらえる」ってところがポイントのようで、これにさらに磨きを掛けたのが後の仁侠映画になるのだろう。流れ流れて貧しい小松の七五郎のところに身を寄せる。雰囲気としては二作目の佐太郎の場に似通っているが、意外と女房役の越路吹雪のきっぷの良さがいい。考えてみれば久慈あさみも結構そうだが、非時代劇的なバタくさい顔は、人情濃い女に仕立てやすいのかも知れない。金の工面のために身を売ろうとする話を、彼女のキャラクターが救っている。鬼吉がカタギの両親を泣かせて金を融通する、大政がもとの女房と会う、など過去との接触もあるのが本編の特徴。ヤクザはカタギに迷惑かけちゃあいけねえんだ。若山セツ子のお蝶の死が訪れる。いかにも「幸薄い」キャラクターで、これを観たのが彼女の自殺の後だったためか、より薄幸さが迫ったものだった。次郎長も、しかたなくいやいや人を斬ったことを、おびえてうなされたりする。やはり暗い。[映画館(邦画)] 7点(2010-02-17 11:08:47)

64.  次郎長三国志 第五部 殴込み甲州路 《ネタバレ》 まず祭り。陽気な爆発。路地の中にゆっくりと踊りながら入り込んでくるおせんちゃんのカット。お囃子が聞こえ続ける中の、お蝶の馴れ初めを語るおのろけ、ぼんやりと手を踊らせながら語る。こういうおのろけは不吉な予感でもあるわけだ。で、そのはしゃぎの中に悪い知らせが来て緊張になる。お仲を救うために殴り込みにいく。三度笠に合羽の男どもが道を行く風景はそれだけで美しく、しかも罠と知っても行く「男いき」の心情によって増幅される。振り分けの荷を捨てる。目潰しの粉は、木洩れ日をより美しく見せるためだろう。なんら複雑なものはない。ここでは仇すらあってなきが如きもので、ただただ次郎長親分とそれを信じてついていく子分の関係のみが重要らしい。豚松は死に際に「親分が好きだ」と繰り返す。この「馬鹿」ぶりは現実世界では批判されなければならないと思うんだけど、それを美しいと見る文化が厳として存在し、それに洗練も加わっているので、私なども「嫌だなあ」と思う気持ちと、ホロッとしてしまう心情とが、入り混じった状態になる。カラッと陽気な世界は本作までで、以降しだいに湿り気を帯びていく。[映画館(邦画)] 7点(2010-02-16 12:10:04)

65.  次郎長三国志 第三部 次郎長と石松 追分三五郎の小泉博と石松の森繁とのロードムービー的要素あり。こういうコンビは「さぶ」とか「ハツカネズミと人間」とか、「計画するリコーと純情のバカ」といった普遍的な安定したコンビであって、しかも女が絡む。女はバカを肯定するが、しかし好きにはなれない。で、男同士はやっぱりいいなあ、となるわけ。次郎長のほうも男だらけで、牢屋の中でもワッショイワッショイで勢いつけて牢名主に対する。このワッショイの陽気さ志向こそ、このシリーズの眼目で、好き嫌いは別にして男の集団の一つの原型ではある。彼らがそれぞれに黒駒の勝蔵と向かい合っていくことになる展開。壷ふり女の美しさってのがとりわけ映画で際立つのは、壷を置くまでの素早い「動」から「静」の緊張に至り、上目づかいで見据える顔が実にキマるところにあるんだろう。田舎の湯治場の狭い道を、お仲が歩いていくシーンなんかなぜか懐かしい。[映画館(邦画)] 7点(2010-02-14 10:45:56)(良:1票)

66.  次郎長三国志 第二部 次郎長初旅 《ネタバレ》 小堀明男の笑いって、いわゆる親分的な不敵な笑いのなかにちょっと「はにかみ」のようなものも感じられ、未来の裕次郎を予告していないか。つまり日本における理想的な「不良」の型。権威に対する軽蔑、イキがっても興奮を抑える。堺左千夫の一家の歓待が主。少しの酒で酔った振りをし、佐太郎のほうもそれを了解している、そういう一見まわりくどい「分かり合い」の儀礼。とても日本的。博打で大勝ちを続けているところだけを見せて、それだけでスッちゃうとこを暗示させ、あとは身ぐるみ剥がされて寒い朝ヒョコヒョコ帰ってくるロングカットになる。河原のケンカも囲まれるところで、チャンチャンバラバラは見せないで、ちゃっきり節唄いながらの陽気な道中になってしまうのだ。この省略の味わい。ラストで森繁の石松が顔を出す。吃音を十分溜めたあとで立て板に水の口上を述べ、最後にまた吃って締める。実に鮮やかな登場ぶり。つまりこの一家、江戸言葉、尾張言葉、大阪弁などの地方言葉にさらに吃音まで加わって、多言語世界を構築するんだ。[映画館(邦画)] 7点(2010-02-13 12:10:24)

67.  次郎長三国志 第一部 次郎長売出す 「馬鹿」な男たち、ってのも“男”の一つの原型で、のちの任侠もののストイックとは違い、無邪気にジャレあっているような連中。侍の大政が、武士社会の窮屈さから逃げ出して飛び込んでいきたくなるようなところ。大変だ大変だ、と両手をブンブン振り回して走っていき、ワッショイワッショイと川を往復し、なんて言うのかなあ、とにかくなんにも「企てていない」人間たち。冒頭の親分が尻ッパショリしながら後ろ向きに家を抜け出していくような、ああいう姿勢のイキさ。いろんな個性を持った連中が次々に集まってくる楽しさ(『七人の侍』の二年前か)。でも、棺桶を担いでケンカの口上に走る田崎潤のように、どこか死が近くにあるんだな。次郎長とまだ侍の大政が真剣で稽古を始めてみたり。陽気さやはしゃぎの背景に死が控えている。とりあえず仲裁という死を回避させる行為で名を挙げるまでなのだが。ラストで田中春男が予告編的に登場。[映画館(邦画)] 7点(2010-02-12 12:04:54)

68.  支那事変後方記録 上海 戦争の日常とはこのようなものであろうか。兵士の顔の表情など実に新鮮である。つまりごく普通の表情をしている(ドラマの戦争の役者の気合いが入り過ぎている表情との違い)。だからその普通の顔との対比で、いくつかの場面がさらにショッキングになる。川下りで延々と廃墟を見せる場面、市街戦のあと。無神経に万歳を叫びつつ行軍する日本兵士を見つめる無言の顔の列。なるほど、これが戦争なんだな、と納得がいく。これ、亀井文夫は編集だけのようで、そこで彼のモンタージュの代表作ってことになってるらしいんだけど、撮影・三木茂の視点も素晴らしいんじゃないか。抗日運動に対する態度も非常にクールで、よく軍が許したなと時に思うほど公平な立場だった。[映画館(邦画)] 7点(2010-01-18 09:30:40)

69.  信濃風土記より 小林一茶 イランでは、児童映画というジャンルを使って自由な表現の場所が開拓されていってたが、そういうことは、いつの時代どこでも起こっていたことで、たとえば昭和16年日本のこれ。長野県の観光文化映画というジャンルだが、小林一茶を触媒にして、厳しい農民の世界のルポにじわじわと近づいていく。月、仏、そば、といった穏やかな観光的題材から順繰りに、農村の荒廃に導いていくあたりがスリリング。そばから土地の利用法の話へ、さらには桑畑を襲う霜害へと本腰が入っていく。なにも最初から一茶をダシに使ってやろうと思ったのでもないだろう。亀井は戦後には企業のPR映画でも誠実に作っていった人だ。長野県の注文に添って誠実に製作しながら、彼の中の別の誠実さがジャンルを超えた表現を求め出したのではないか。そこらへんの微妙さが、今観ると、あの時代の表現者の記録としてとても面白い。いや、面白いなんて言ってはいけないな、彼はこの直後治安維持法違反で検挙されるのだった。[映画館(邦画)] 7点(2010-01-11 12:05:20)

70.  真空地帯 たしかに軍隊生活はやりきれないし、軍隊批判そのものは正しく、とくに昨今、まるで軍隊が平等な世界だったとか、戦争指導者も戦争の被害者だったなんて言説が出てくるのは我慢ならないんだけど、それとは別に、戦後の軍隊批判の型にインテリの傲慢が見えてくるのも、また引っかかる。「インテリ=左翼=反戦」と「小学校出=古年兵=のべつ威張り暴力三昧」という図式。これをやや露悪的に言えば「小学校出が柄にもなく人の上に立つと無茶を言う、だから人の上に立つのは我々のような理性的なインテリでなければ」ってな意識がうかがえる。非人間的な軍隊システムを作り上げたのは、帝大出のインテリどもの方だったのに。もちろんこの映画の価値は十分に認めた上で言うんだけど、見ていてだんだんと真の悪の代理にされている古年兵の方にも同情がいって、状況への詠嘆ばかりが募ってしまう、ってところがあるんだ。これは日本の反戦映画や反戦文学の一番弱い部分だと思う。『拝啓天皇陛下様』が、このパターンの硬直を微妙に突いてはいたが。[映画館(邦画)] 7点(2009-10-01 12:04:33)

71.  白い風船 あくまでおつかいに出た少女の心理に寄り添いつつ話を進めていき、ラストでパッと三人称になる手際。ある意味では残酷だが、しかし少女の世界がパッと開けて、仕立て屋の徒弟やら兵士やら風船売りやら都会で独りぼっちで暮らしていた周囲の星々が輝き出す、という感じ。もしかすると彼らの対極にあるのは、家で怒鳴っている父親(とうとう姿を見せない)なのかもしれない。第三世界の映画というと「家族の愛」とか「地域の親和」とかのテーマを読み取りがちだが、「都会の孤独」だってやっぱりテーマになるのだ。大人の社会に触れる子ども。おばさんには愛想よかった仕立て屋が、子どもだけになると無視する。大人は大人の客とのケンカで頭がいっぱい。そして変なオジサンっぽい相手には用心しなくちゃいけないし。そういう緊張があって初めて、子どもたちがガムをくちゃくちゃやり、目を見かわし、なんとなく笑ってしまう、なんてスケッチが生きてくるわけだ。[映画館(字幕)] 7点(2009-08-11 11:56:23)(良:1票)

72.  純喫茶磯辺 《ネタバレ》 人々の心模様が描かれるという点では、伝統的な日本映画。チャランポランのお父さん、イマドキの娘、ちょっと離れて別れたお母さん、といるとこに、風来坊的な美人のモッコさんが、掻き回しに登場してくるという段取り。彼女のキャラクターが、サッパリと現代的なようでいて(配ってくれと頼まれたビラをあっさり捨てたり)、古風な愛想尽かしの場を演じてみせたりして、屈折を持たせている。飲み屋での愛想尽かしの場は、けっこうジーンときた。その前に、元カレに「おまえはどこで何やったってダメだ」と決めつけられ、いや自分にはあの喫茶店という居場所がある、と心のよりどころに出来たその直後、娘に当たられて、「お客とやっちゃいました」って、愛想尽かしをさせる言葉を笑いながら言う。歌舞伎では「愛想尽かしもの」ってジャンルがあるくらいで、義理のためにわざと惚れた男に愛想尽かしをさせる場、ってのが日本人は好きなの、そういう古風な型が現代風俗の中でもまだ有効であることを見せてくれた。娘があとで、モッコさんに謝らなくちゃと思い、走る彼女を父さんの自転車が追い越していく、なんてとこがきれいに決まっている。店の客では、いつもマスターと間違われる寡黙なミッキー・カーチスもいいが、「あんた九州出身?」の斉藤洋介が好き。ロケは東京の和泉多摩川商店街らしく、東の荒川などでロケした映画だと、すぐ土手を使って画面にアクセントをつけたがるが、西のこれではそういうことしてない。下町じゃないんだ、どこにでもある郊外住宅地なんだ、って感じなのか。[DVD(邦画)] 7点(2009-05-23 12:08:42)(良:4票)

73.  実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 《ネタバレ》 初めのうちは事柄の絵解きのような画面が延々と続き、それに安っぽい音楽も付いて、こりゃ大変なものを見始めちゃったかな、と心配してたのが、山に入ると引き込まれ、その映画としての「洗練されなさ」が異様な力を持ち、グイグイと終わりまでいってしまった。不思議な映画体験だった。不必要なところで英語のバラードが流れたりして、どうしてそういうことするの、と頭の片一方で怒るんだけど、そういう粗っぽさを全部肯定したい気持ちのほうが先に来る。粛清の嵐のとこが一番のめり込む。彼らは少なくとも唯物論の共産主義を信奉してたはずなのに、その彼らが、かつての精神主義で固まった帝国軍隊のミニチュアに見えてくるあたりの滑稽と戦慄。訓練のとき、バーンと言う発射の声が小さい、と怒鳴る。銃に傷を付けたのが重大な失態になる。“神聖な”党を汚した、と自己批判を迫る。「総括」という輪郭のはっきりしない言葉が、万能の力を得てしまう。かつての「天皇」を「革命」に替えただけの精神構造。これはいったい何なんだろう。日本人固有の体質的傾斜なのか、それとも人間の閉じた集団があるところ、どこにでも起こりうる病いなのか。犠牲者を生み出すことだけで維持される組織。その構造が発生するメカニズムの分析までは映画では出来なかったが、しかしそれを観察する体験だけでも貴重だった。映画『光の雨』では、現代の若者との落差といった話で逃げてしまったところを、今回はじっくり見せてくれた。あさま山荘の中でもまだ、クッキー食べたことで自己批判を迫ったりしてたんだなあ。[DVD(邦画)] 7点(2009-05-17 12:10:01)

74.  12人の怒れる男(2007) リメイクではあるけれど、本歌取りというか、その塑型を利用した変奏であって、こういう試みはもっとあっていい。優れた原作は、映画の宝として積極的に再利用すべきだ。三谷幸喜の「12人の優しい日本人」が、この型を利用して優れた日本人論になったように、本作では現在のロシアが検証されていく。旧共産党系の鬱憤、残るユダヤ人への偏見、成り上がり社長の脆弱さ、などなどが、討論の中であぶり出されてくる。それぞれのドラマのほうが討論対象の事件より濃密なのがバランス上どうかと思うところもあったけど、俳優が語った「みんなまじめになるのが怖いんだ」という発言なんか、ロシアを越えて今の日本にも当てはまりそう。体育館に閉じ込められた小鳥が、討論の合い間に飛び回っているのもいい(オリジナルの狭い暑苦しさとこちらの広い寒々しさの対比に米露の違い。女性を含まないところは50年代のアメリカと現代のロシアとで共通)。終盤に、まさに現在の社会の厳しさを反映したひとひねりがあって、それによって12人にさらに現実と摩擦を起こさせている。ロシアの現実を大量に流し込んだため、オリジナルの、「民主主義はどうあるべきか」というテーマに集中していく姿勢は薄れたかに見えたが、このひねりが21世紀の映画として、「第三者の責任」という別方向からの民主主義の問題を突きつけてきた。[DVD(吹替)] 7点(2009-04-25 12:18:21)

75.  ジャンケン娘 チエミ・ひばりが高三の修学旅行ってところからして、感動的である。そこに芸者のタマゴのいづみが絡むことで、日本調とポップス調の対比という幅ができる。“人身売買”に憤然とする、ってのも時代なら、チエミのお父さんが、娘たちは世間知らずだからなあ、と微笑みながら見ているのも時代。日劇でそれぞれ夢を見るスターシーンがミュージカル的見せ場になっていて、ラストでさらに爆発するかと思っていたら、窮屈なジェットコースターの座席で、一人ずつ歌うだけってのは物足りなかった。つまりこの時代は、ショーよりもジェットコースターのほうが新鮮な魅力だったのだろう。この三人それぞれにかわいく(本当です)、昭和も30年代になって、何やら新しい時代へ入っていくんだ、という気分が感じられる。ギトギトしたカラーの発色も懐かしい。けっきょくいづみの貞操が救われるのも、大企業の息子の思いつきってところが、これ以後の日本を見通してもいたような。提供明治製菓。[映画館(邦画)] 7点(2009-03-03 12:20:41)

76.  シーズ・ソー・ラヴリー お父さんのジョン・カサヴェテスのシナリオ。ひとことで言えば、愛は厄介だ、という話で、お父さんの映画と同じく、心にガラスの破片が刺さっているような人々が右往左往する。ヒロインの演技がちょっとオーバーで、若きジーナ・ローランズで見たかったな、と思うも、隣人のジェイムズ・ゲンドルフィーニが絶品だから、まあいいか。後半の10年後の部分が、私はいいと思う。さらりと、あなたも好きだけど、エディを愛してるの、と言う。そりゃ、トラヴォルタも怒るわな、でも受け入れる。子どもとビールをのみかわす。エディは、子どもと結婚したんじゃない、と子どもの前で叫び、二番目の友だちになろう、と言う。愛は周囲のみか、己れをも傷つけ走り去ってしまう、ってことだ。[映画館(字幕)] 7点(2009-02-21 11:58:47)

77.  白い馬の季節 温暖化で草地が減ったせいもあるんだろうけど、それよりも時代の変化、遊牧だけで暮らしていけなくなった現代の遊牧民の家族。近くをトラックが頻繁に走るほど、都市化も進んできている。アメリカ映画のカウボーイものと似ている。あれも遊牧が農業に追われていくことの挽歌みたいなものだった。定住するものが流浪するものを駆逐する。その自分たちを追い立てるトラックにヨーグルトを売って、かろうじて生計を立てていく。追い立てるトラックは赤く、追い立てられる遊牧民を象徴するのは白い馬に白いヨーグルト。この白を守ろうとして、夫はドン・キホーテを思わせる活躍をするのだけど、ついにドン・キホーテのような衣装に包まれて敗北する。話の枠はけっこう大味な配置(ディスコとの対比とか)、しかし一つ一つの画面にそれを越えて訴える力があった。馬のいるカットすべてに、それだけでもう遊牧生活への思いが、流浪への憧れが詰まっていた。追い立てる赤に、中国共産党を見るのは考え過ぎだろうな。[DVD(字幕)] 7点(2009-02-19 12:16:17)

78.  ジャッキー・ブラウン 《ネタバレ》 主人公を演じるパム・グリアーの、開き直った安っぽさに痛快味があり、でも実質上の主役はロバート・フォスターでしょうな。しがない中年男の味。サミュエル・L・ジャクソンが悪い人、イキがってる馬鹿だが、それだけに危険というところ。周囲の人間みんなが馬鹿にしているのに気づかない。デ・ニーロはあっさり殺される効果として適役。マイケル・キートンは、ま誰でもいい役。ヒーロー、ヒロインともに“しがなさ”を生きてる共通項があって、そこに互いに惹かれていく。ドラマが動き出すのは中盤からで、なにやら裏切りいうか、騙し合いの匂いが立ち込めてきてワクワクさせる。一番の見どころは試着室の場、三者の経過を繰り返して見せる。キューブリックもやってたけど、照らし合わせの妙味、主観と客観の交錯、映画ならではの面白味でした。ジャッキーの好きという曲をカーステレオで聴く中年マックスがいじらしい。[映画館(字幕)] 7点(2009-02-17 12:12:00)(良:1票)

79.  白い馬(1952) 《ネタバレ》 いやあ、けっこう現実否定的な厭世観だなあ。なんかいくつかのスペイン映画思い出すし、こういうのってカトリックの世界観と関係あるのか。またこれ、仏教の浄土信仰も思い合わされる。言ってみればフダラク渡海でしょ、このラスト。この世を改革するよりは、あの世で幸せになりましょう、って感じ。負け犬となった負け馬が、孤独な少年と浄土に渡っていく、ってけっこう抹香臭い話だよね。ちょっとそこが引っかかるも、馬が走るとそれだけで興奮してしまう者なので、許せた。少年を引きずっていくとこなど、西部劇のノリ、このガッツで馬が少年を認めるって展開もいい。水辺という地理条件も映像に生かしている。馬と鉄道と車が存在しなかったら、映画はずいぶんつまらないものになっていただろうが、車よりは鉄道、鉄道よりは馬が、よりドキドキさせてくれる。[DVD(字幕)] 7点(2009-02-04 12:19:18)

80.  シン・レッド・ライン この監督はやっぱり草の映画を撮る。緑あふれる戦場。兵士がふとオジギソウに触れ、葉が閉じる、草にとっては相手が殺気にはやった兵士だろうと遊んでいる子どもだろうと同じ反応をするわけだ。細い葉に一瞬散る赤い血の線。風のように・なめるように移動するカメラ。草の視点から見た戦争映画ということか。この地に殺し合うために呼び寄せられた兵士たち、それをこの地にもともと生えている草たちが観察している。この草の迷宮感が素晴らしく、兵士たちを雑草になぞらえるという単純な比喩を越えて、もっと多義的な思いが次々と湧き上がり、「人と自然」といった軸の周りをめぐり出す。ストーリーはそれほど珍しいものではない(無茶を言う上官と下卒思いの司令官との対比とか)、この映画の眼目は、ガダルカナルを日本軍と米軍が向かい合っている島としてでなく、兵士たちと草が向かい合っている島として描いたことだ。[映画館(字幕)] 7点(2009-01-12 12:19:17)

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