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1. 人生万歳!
《ネタバレ》 ウディ・アレン、久しぶりのアメリカ舞台の作品。アメリカを出て撮った数作のちょっとしたシリアス路線など無かったかのようないつものアレン映画。皮肉とジョークと良き音楽で魅せるアレンらしい映画だ。主演をラリー・デヴィッドに任せるも、あれはアレンの化身の他の何者でもない。
今回も「それでも恋するバルセロナ」の時に書いた様に、ある一点のみについて書いておこうと思う。それは尺取虫の母親が初めて写真を見せるシーンで写真のインサートを一切入れないのがアレンであるということだ。どんな写真なのかは必要な情報ではなく、その写真から始まる物語が重要であり、それはふたりと、ふたりがいる風景があればそれでいいのだということ。もし写真のインサートが入ると、その内容、尺取虫の娘のミスコンの情報が現れ、その物語が立ち上がってしまう。そうなると、あのふたりのこれからの物語に移行するのに遠回りになる。だから入れない。それで絶対的に正しいと思うのだ。
本作で監督作品40本目、そういった巧さを心得ているアレン、まだまだ枯れるはずなどない。[映画館(字幕)] 7点(2011-01-14 18:59:21)(良:1票) 《改行有》
2. シャッター アイランド
この映画の本来の姿というのは、謎解きではなく、消えた女とつきまとう女に苦悩していく男を描く事が正しいんじゃないかって思うのだ。デニス・ルヘインは「ミスティック・リバー」の原作者でもあるわけだが、イーストウッドが聡明なのはミステリーではなく男たちの苦悩を描ききったところが素晴らしかったわけで、スコセッシの技量ではそんなところには到達できない。彼は何やらこの映画を難解にしたいのか、それとも技巧派を狙いたいのか、それとも今更アーティスティック気取りなのか、変にこねくり回すからつまらない。意味深な台詞や、極彩色に彩られた過剰なまでの妄想のシーンなど、何の意味があるのか。意味深にする必要もないし、灰とか降らす必要もないし、普通にやればいい。そのせいもあって無駄に間延びして150分近くあるから許せない。殆ど内容がすかすかなことに気付かず間延びさせて長尺になるいつもの状態だ。無駄は削る。必要な事象だけを描く。映画はそれでいいはずだ。それが下手糞だから、いつまでたってもスコセッシはなぁと思う。
そしてミステリー、つまり謎というのは、結末を指した言葉であるはずがないのだから、その謎というもの自体の話しであって、結末というのは二の次なのだと思わなければならない。なのだから結末が衝撃的であるというのは、結末に至るまでの過程がどんなもんであるかで決まるもので、過程の段階で結末ばかりを見据えた展開というのは、結末有りきなものとなって、展開の面白さを疎かなものにしちゃう。
それは決して幕開け数十分で結末が読めるから詰まらないとか、宣伝に煽られただけで落胆とかそんな文句とは別で、その読める結末に着地するまでの展開を楽しみ、そして結末を読めていようが、納得して結末を迎えられるかというところを考えるべきである。だからこそこの映画はミステリー云々以前に、ディカプリオの苦悩を描ききらなければならなかったのではないか。ならばこそ余計に、過剰なまでのあれらの映像が果たして効果的であったのかと疑問が残ってしまうってもんだ。
そして「騙されないでください」云々という本編とまったく関係のない冒頭の件だが、そもそも映画自体が嘘の塊であって、寧ろ映画など騙されてなんぼなもんで、余計なお世話だと言いたい。根本的に間違っている。
音楽は多少過剰かとも思えるが、素晴らしい。[映画館(字幕)] 4点(2010-04-11 02:49:00)《改行有》
3. 重力ピエロ
《ネタバレ》 感染する癖なども含め、真の家族とは遺伝子的な繋がりではない、と充分なほどにこの映画は家族の絆の強さを描いているのかもしれない。ただ問題は家族の絆ではなく、家族の社会における位置だ。
この秩序ある社会でひとを殺した時、どんな理由があろうとも罪となり罰を受ける。それを社会が正当化することはあり得ない。もし正当化出来るとすれば、唯一それはひとそれぞれの思考の中でだ。それはエゴイズムとも呼べるだろう。
個人的な感情からすれば、主人公たちの殺人を許せるだろうし、罰を受ける必要性も疑うだろう。しかし倫理観に基づく社会の秩序は決してそれを許さない。感情論だけで最も正しい道徳を歪めることなど許されないのだ。ひとはひとを殺してはいけない、これが事実だ。
この映画はそういった秩序に対してエゴイズムで押し切ることに抵抗を感じている。だから社会の秩序を逆なでしないよう泉水がすべてを台詞で説明した上で春の自首を否定する。しかしこれは大きな無駄だ。何故なら、これは新聞やテレビなどでしか事件の側面を知らない現実ではなく、映画であり観客はすべてを見て知っているのだから、春と泉水の行動や感情を知っているし、彼らの感情論のエゴイズムをも理解しうるだろうからだ(勿論理解出来ない人もいる。そしてそれが正しい社会の秩序だ)。だからこれは明らかに社会の秩序に対して予防線を敷いた上での生温い結末なのだ。
母親を強姦した男(この男が殺されるべきだと徹底された悪として具象化され過ぎだ)を殺したことを開き直れということではない。ひとを殺したという事実を背負った重力を感じずに生きることなど不可能であるということの表象が見たいのだ。重力を無視した清々しい結末などいらない。家族の絆としての重力でこの物語の幕を閉じていいのだろうか。(この地上で生活している限り=この社会の中で)ひとは重力に逆らって生きることなど不可能だ。その重力を無視することはこの社会や秩序から逸脱して生きることを意味する。
彼らは「最強の家族」ではなく、この社会から最も「孤立した家族」となった。もしそいう結末ならば、それすらも恐れず生きていくのだという強さが必要となるだろう。しかしそういう映画にもなっていない。結果、生温い家族の絆の映画となった。
また、映画は時にエゴイズムで社会の秩序を押し潰せるのだと思う。[映画館(邦画)] 5点(2009-06-14 00:34:04)《改行有》
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