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プロフィール
コメント数 2594
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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281.  市民ケーン 《ネタバレ》 世界のすべてを手に入れ、そしてそのすべてを失った男の一生。 でも、本当は、“そり”で遊んだあの雪の日から、彼は何も得ていなかった。 時と共に益々深まる喪失感を、ありとあらゆる欲望で埋め尽くそうとする日々を妄信的に過ごした男の悲しい生涯。 主人公が残した「薔薇のつぼみ」という謎めいた一言が持つ真意を、彼の人生を追想するようにこの映画は綴られるが、結局、そんな真意など意味は無いという結論で、物語は締められる(※真意が判明しないという意味ではない)。 その映画の結末も、あまりに冷ややかで、シビアだ。   パンフォーカスの活用方法、ストーリーテリングの“斬新さ”など、映画表現としての発明の数々は、この古い映画を違和感無く観られていることに気づいた時にこそハッとさせられる。 その革新的な映画表現を駆使した絶大なる監督力のみならず、類まれな主人公の生涯を自分自身で演じきってもいる若きオーソン・ウェルズの映画人としての「才気」は、チャールズ・フォスター・ケーンという映画上のキャラクターを超えて溢れ出ているようだった。   人間の普遍的な孤独を描ききった類まれなる映画作品であり、その映画史的な価値の高さを否定する余地は全くない。   ただ、ひたすらに眠かったけどね。[インターネット(字幕)] 7点(2019-09-10 22:00:31)《改行有》

282.  ミスター・ガラス 《ネタバレ》 「スプリット」のポストクレジットで突如示された怪作「アンブレイカブル」のその後。 まるで想像していなかった奇跡的な連なりと、「特異」そのものの3人のキャラクターたちの再登場に際し、両作推しのシャマラン映画ファンとしては、鑑賞前から高揚感は膨れ上がっていた。 無論、映画館で鑑賞したかったのだが、公開規模が大作映画としては小さく、地方では劇場公開されず落胆。どうやら、そもそも「アンブレイカブル」と「スプリット」とでは製作会社が異なっており、両作の続編である本作は異例の二社共同製作となっていたことが、日本国内でのは配給制限に影響したのではないかと想像する。 色々な意味で「異質」な映画であることは間違いなく、それがシャマラン映画として初めての“シリーズもの”となったわけだから、普通の映画に仕上がっているはずもない。 そして、「アンブレイカブル」から19年の長き月日を経て展開されたこの続編は、過去の二作両方に対しての見事なそして特異なアンサーとして成立していると思う。 この映画の特異な終着点は、「ミスター・ガラス(Glass)」というタイトルが掲げられた時点で、ある意味明確だったのかもしれない。 「アンブレイカブル」がそうであったように、このシャマラン流“アベンジャーズ”は、画一的な“ヒーロー”の活躍を描き出したいわけではない。 あまりに不遇な自らの人生を呪い、心からコミックに登場するスーパーヒーローに憧れ、その存在を渇望するあまりに、自分自身が最凶最悪なヴィランになるという狂気にたどり着き、それを成し得てみせたイライジャ・プライスというキャラクターの信念こそが、3作通じたこのシリーズの主題だったと言えよう。 「アンブレイカブル」のラストシーンにおいて、イライジャ・プライスは「ヴィランには皆あだ名がある。私はミスター・ガラス」と悲しく言い放ち、ようやく見つけ出したスーパーヒーロー(デヴィッド・ダン)を見送る。 彼はその直後逮捕され、ずっと収容施設に閉じ込められていたわけだが、その“ヴィラン”としての立ち位置と、信念が揺らぐことは微塵もなかったのだろう。 表現として矛盾するが、彼はひたすらにヴィラン即ち「悪」としての“純真”を保ち続け、只々機会を待ち続けた。 そしてついに、不遇を極めた自らの人生の「意味」を勝ち取ったのだ。最期の彼の瞳に宿っていたものは、正義と悪の混濁だった。 極めて「変」な映画シリーズである。ただし、このシリーズが伝える「価値観」は一貫している。 「正義」と「悪」を等しく対なものとして捉え続け、両者に共通する「異質」さを、“普通”とされるこの世界に問うている。 それは即ち、「正義」とか「悪」とか関係なく、普通と異なるものを、この世界は受け入れられるのかということ。 この映画の終着点の論理は極めて“屈折”していて、多くの普通の人間には理解し難いものかもしれない。 それでも、本作の主人公は、ひび割れたガラスの屈折した光を通して、ヒーローにも、ヴィランにも姿を変えて、その難問を問い続ける。[インターネット(字幕)] 8点(2019-09-08 22:43:27)(良:1票) 《改行有》

283.  新感染 ファイナル・エクスプレス 「ゾンビ映画」×「韓国映画」 この食い合わせはとてもよく合いそうだが、これまで著名な作品が殆ど生まれてこなかったことが意外である。 韓国映画のクオリティの高いアクション・バイオレンス描写や、特有のドライさを携えた客観性や批評性、トータルバランスに秀でた映画的娯楽性の高さは、ゾンビ映画との親和性がそもそも高いと思える。   ゾンビ映画というものが飽くことも無く世界中で作られる理由は、人間が最も恐れるものが「人間」そのものであることに尽きる。 その恐怖の象徴として、“ゾンビ”という人間の権化が生み出され、、それに襲われ食い尽くされる様は、常に社会問題に対する警鐘と共に、人間自らに対する自戒として描かれてきた。   そしてついに生み出された“韓国製ゾンビ映画”は、ゾンビ映画としても、韓国映画としても、しっかりと傑作だった(案の定)。 古今東西世界中で生み出し続けられているゾンビ映画というジャンルの根底にある本質をきっちりと捉えた上で、“特急列車パニック”というジャンル性をも見事に融合してみせた確固たる娯楽映画である。   本作のストーリーテリングは、極めてベタで王道的だ。過去の各国のゾンビ映画やパニック映画の定石を丁寧になぞるかのように、ストーリーは展開される。 ただし、不思議なのだが、映し出される映画世界に対して、使い古されたありきたりな印象は一切受けない。むしろとてもフレッシュにすら感じる。クソダサい駄洒落に思えたこの日本語タイトルも、鑑賞を終えてみるとあながち的外れでもないなと思える。   その最たる要因は、韓国映画の土壌の豊かさに他ならないだろう。 無論、ゾンビ映画としての土壌の新しさも映画的な新鮮さに繋がっているだろうが、やはり前述の通り、卓越したアクションシーンや躊躇のないバイオレンス描写、自らの国民性をドライに映し出した人間描写など、クオリティの高さとバランス感覚を兼ね備えたこの国の“映画力”が反映された結果だと思う。   クライマックスにおける展開と、物語の帰着も、極めて韓国映画らしく、映画表現としてのシビアさと感動に満ち溢れている。  “悪役”として位置づけられているキャラクターの言動は、心底胸糞悪くて、もっともっと残酷な“退場”を迎えて欲しかったけれど、果たして、この映画を観たどれだけの人間が、“あいつ”のことを完全に否定できるだろうか。 彼にだって帰るべき場所があり、家族があり、突如放り込まれたパニックの中で只々怖かっただけだろう。 非道い言動を繰り広げた悪役をただ「ざまあ」と殺さずに、最後の最後までひたすらに主人公らを脅かし続ける役割を与えていることこそが、この映画の最たる「苦味」だ。 つまりは、この“悪役”こそが、現実の社会における私たちそのものだと思う。 主人公の父親も、悪役の会社役員も、人間としての本質は大差ない。むしろ親しい人間性として描かれている。 それはこの社会に生きる誰しもが、英雄にも悪者にもなり得るということの証明だ。 「普通」に生きているつもりでも、いつ何時、健全な社会を食い尽くす“ゾンビ”になるか分からない。 このソウル発釜山行きのゾンビ映画は、ジャンル映画としての真っ当な警鐘と自戒を、マ・ドンソクの無骨な拳のようにドスンと重く豪快に叩きつけてくる。[インターネット(字幕)] 8点(2019-08-26 23:12:26)(良:3票) 《改行有》

284.  バーフバリ 王の凱旋 国内での初公開からまだ2年余りだが、もう既に、日本のボンクラ映画ファン界隈においてもマスターピースとして崇められている脅威のインド映画の完結編をようやく観ることができた。 前編(前作)の勢いそのままに、豪華絢爛ら超娯楽が縦横無尽に駆け巡る。 続編のため、基本的なキャラクター紹介が不要な分、序盤から古代インドの王国絵巻が、良くも悪くも躊躇無く豪胆に展開される。   出生が謎に包まれた主人公の成長譚と冒険譚の要素が強かった前編は、ストーリー的にはありきたりな展開ではあったが、それがまさに文字通りの「王道」そのものでもあり、インド映画ならではの絢爛で艶っぽい娯楽世界を純粋に堪能できた。 主人公が大滝を登っていく序盤のくだりや、ヒロインからの攻撃を華麗にかわしながら求愛をする様などは、エンターテイメントを超越して神々しくすらあったと思う。   続編である本作は、大河の奔流がさらに激しさを増すかのごとく、序盤から怒涛のエンターテイメントが繰り広げられる。無論、心底熱く、盛り上がることは請け合いである。 だがしかし、全編通して存在するある要素が、溢れ出ようとする高揚感を妨害し続けたことも否めない。   それは即ち、“王族たちの愚かさ”である。 特に、父バーフバリの母親である王妃シヴァガミの“惑い”と“脆さ”が目に余り、個人的には“雑音”としてすっきりしない印象を持ってしまった。 前編では、父バーフバリの一粒種である赤子を文字通り命がけで守りきり、回想シーンにおいても、慈愛と威厳に満ちた 名君主ぶりを見せてくれたシヴァガミだったが、本作では、対峙する悪しき王族たちの嫉妬と謀略にまんまと嵌り、愚かな決断を繰り返してしまう。   勿論、その王族間の陰謀と裏切りこそが本作の本筋ではあるので、そういうストーリーテリングがメインになること自体は致し方ないと思うが、前作通じてそもそもが短絡的な物語なので、謀略を巡らす側も、それに陥る側も、ただただ短絡的で浅はかに見えてしまい、愚か者というよりも、只の阿呆に映る。   結果的に、裏切りにより命を落とす父バーフバリ自身が、絶大な英雄像を誇ると同時に、能天気な馬鹿に見えてしまう。 ストーリー上、父バーフバリが絶命すること自体は避けられないだろうが、母王をはじめとする王族たちの愚かさと、裏切りをとうに認識していた上で、自ら死を受け入れる様を明確に描くべきだったと思う。   そして、本作のクライマックスでは、父バーフバリの死の残念な真相に怒り心頭の息子バーフバリが、ほぼ強引な力技で宿敵を打ち倒す。 それはそれで色々な意味で熱量たっぷりなアクションシーンだったけれど、息子バーフバリの主人公性を際立たすまでには至らず、物語の畳み方としても強引と思わざるを得なかった。   インド映画が世界に誇る圧倒的娯楽大作であることは無論否定しないし、存分に楽しい映画であることは間違いない。 おそらく、この一抹の“消化不良”は、前後編とも「完全版」を観れば、問答無用に呑み込まされるのだろう。[インターネット(字幕)] 7点(2019-08-26 22:52:07)《改行有》

285.  15時17分、パリ行き 何という豪胆で巧い「映画的話法」だろうか。 キャスティングにおける「特異性」は当然認識した上で鑑賞していたが、現実のフランス大統領本人から勲章を授与されるラストシーンを観ながら、思わず「うまく合成してんなー」と思ってしまった。 「あ、いやいや本人だ」と一寸遅れて思い直すくらいに、主人公らを演じたこの事件の“当事者”たちの演技には違和感がなかった。 2015年、実際にヨーロッパの高速鉄道タリス内で発生した銃乱射事件を描くにあたり、その現場に遭遇し、事件に立ち向かったアメリカ人の若者3人をはじめとする当事者(無論演技素人)たちを主演に起用するというあまりに常軌を逸した映画企画を立案し、成立させ、きっちりと良作を生み出してしまうクリント・イーストウッドという“映画人”は、本当に本当に映画に愛されているなと思う。 イーストウッド監督は、「アメリカン・スナイパー」、「ハドソン川の奇蹟」、そして本作と、この数年特に現実世界の中で実際に起こった社会的事件を精力的に映画化している。 題材の種類自体はバラバラだけれど、その根幹にある性質と、描き出そうとするテーマ性には揺るがないものを感じる。 それは即ち、現代社会における「アメリカ人」の在り方を問うということに尽きる。 それぞれの映画の主人公たちは、みな一つの「正義」や「信念」を背負って生きている。 ただし、彼らは一様に惑いと脆さを孕み、あらゆるしがらみや重圧に耐えながら苦闘する。 そこには、様々な側面でアンビバレントな理想と現実を抱える現代のアメリカ社会の中で生まれ、生きるアメリカ人の生き辛さのようなものが如実に映し出されているように感じる。 それはまさに、クリント・イーストウッド自身が今現在何よりも強く感じている、自国に対する憤りと悲しみなのだろう。 だからこそ、この御年89歳(2019年8月現在)の巨匠は、実際の事件発生から間髪を入れず、アメリカという国と、アメリカ人の「今現在」を映画として描き出すことに情熱を注ぎ続けているのだと思える。 そして、アメリカ映画史を代表するスター俳優でもあるクリント・イーストウッドは、観客に対して「娯楽」と「希望」を提示することを忘れない。 息が詰まりそうな世の中(アメリカ)だけれど、それでもこの国の人々は、何時だって誰だって“英雄(ヒーロー)”になれるんだ。ということを映画の主人公たちを通してひたすらに伝え続ける。 本作の主人公に演技経験がまるでない「素人(ただのアメリカ人)」を起用したのは、まさにそのメッセージの具現化に他ならない。[CS・衛星(字幕)] 8点(2019-08-26 22:51:29)(良:2票) 《改行有》

286.  トイ・ストーリー4 《ネタバレ》 ちょうど大いに散らかっていた子供部屋を子どもたちと共に片付けたばかりのタイミングで鑑賞した。 そういえば、自分自身に子どもが生まれてから初めて観る「トイ・ストーリー」だった。 傑作だった前作「3」において描かれた、ウッディたちが選び取った「選択」で、「トイ・ストーリー」という物語は見事な“終着”を見せたのだと思っていた。 たとえ更なる続編が製作されたとしても、それはきっと多くのファンを失望させてしまう“蛇足”になるだろうと思っていた。 だがしかし、9年の年月を経て生み出されたこの続編は、僕たちの想像を芳醇なイマジネーションで大胆にも超えてみせた。 それを成し得たのは、このアニメーションに登場するキャラクターに対するクリエイターたちのあまりにも深い愛だったと思える。 “おもちゃ”として生まれたウッディをはじめとするキャラクターたちの「運命」と「役割」。 前作「3」で描き出されたそのテーマは、キャラクターたち自身にとっての誇りであり、尊厳であった。 我々観客も、そういった「運命」を見出したキャラクターたちを称賛し、物語の終着として納得し、満足していた。 「トイ・ストーリー」の中のキャラクターたちでさえ納得していたはずのその結論めいたものに対して、誰よりも彼らを愛するクリエイターたちは「いや、待てよ」と思ったのだろう。 “おもちゃ”として生まれた以上、その相手(持ち主)が誰であれ、楽しませ続けることこそが本懐。 でも、だからといって、すべてのおもちゃたちを、一方的にその「運命」=「おもちゃ箱」にしまい続けていいのか。 この映画のクリエイターたちは、あらゆる意味で「役割」を果たしてくれた愛すべきキャラクターに、新しい選択肢と可能性、即ち「未来」を与えたかったのだと思う。 それは、本来“生無きもの”に生命を吹き込んだこのストーリー(世界)において、あまりに相応しい多層的な新しい着地点だった。 この着地によって、このストーリーは永遠に続くだろう。そうまさに「無限の彼方へ」。 片付けたばかりの子供部屋は、またすぐに散らかり始めている。 この機に乗じて、うちのおもちゃたちも少しずつ旅立っているのかもしれない。[映画館(吹替)] 8点(2019-08-26 22:50:09)《改行有》

287.  スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム 《ネタバレ》 ほとんど無意識レベルで感じていた“ニック・フューリー”まわりの「違和感」を、きっちりと収束してみせるお約束のポストクレジット・シーンを目の当たりにして、「ああ、MCUは終わらないんだな」と、感嘆と安堵を覚えた。 「エンドゲーム」の大団円から、文字通り間髪入れずに更なる“大風呂敷”を広げていこうというのか。 そしてその新展開を、新フェーズのリスタートに合わせるのではなく、「フェーズ3」のラストに据えて、大河の本流を紡いでくるあたりに、この類まれな映画シリーズの懐の深さを改めて感じる。 MCUファンとして初めは、もう少し「エンドゲーム」の余韻に浸らせてくれよとも思えたが、実際にこの「スパイダーマン」の新作を見終えた後では、成程、本作はあの“終焉”の直後を描くからこそ「意味」を持つものだと思える。 それは、“MCUに登場するスパイダーマン”の「意義」と直結する。 過去の単独ヒーロー映画であった「スパイダーマン」シリーズでは存在しなかった要素。即ち、トム・ホランド演じるスパイダーマンは、ヒーロー新世代の象徴であり、“アイアンマン”の意志を受け継ぐ者であるということだ。 MCUにおけるスパイダーマン=ピーター・パーカーは、無論他の誰でもなくトニー・スタークによって見出された“ルーキー”であった。 MCUの各映画において、トニー・スタークとピーター・パーカーは擬似親子のような関係性で描かれてきた。そして、この二人が人間として極めて似たもの同士であったことも明らかだ。 飄々とよく喋り、ジョークを連発し、相手を小馬鹿にしながら敵に打ち勝つ。そして持ち前のDIY精神でスーツも武器も作り上げる。ただその反面、極めて繊細で優しく、常に己と葛藤しながら戦い続ける。 この映画におけるピーター・パーカーのヒーローとしての存在感は、その精神的な未成熟性も含めてトニー・スタークそのものであり、まさにトニーが乗り移ったかのようだった。 トニー・スターク同様に、強敵との対戦を控えて自らスーツを作り上げていく様には、ハッピー同様に涙腺が緩んだ。 “アイアンマン=トニー・スターク”というMCUが生み出した最大最高のヒーローに対するリスペクトと愛情、そしてのその魂の継承。 本作が、「エンドゲーム」と連なるように公開された理由は、そういうことだ。 あと最後に。今年の「悪役賞」は“サノス”で押し通したかったが、いきなりの“対抗馬”出現とは。本作のヴィラン・ミステリオを演じたジェイク・ギレンホールに対しては「流石」の一言に尽きる。 捻じ曲がった悪意を心の底から真っ当と疑わない狂気性を演じさせたらこの俳優に右に出る者はいない。全然キャラクターは異なるが「ナイトクローラー」のアイツを髣髴とさせる。最低で最高。[映画館(字幕)] 9点(2019-07-31 23:53:58)《改行有》

288.  天気の子 梅雨明けした週末、それに合わせるように封切りされていた本作を観に行く。 正直なところ“期待”は半々といったところだった。 新海誠監督の前作「君の名は。」はちょっと異常なレベルの社会的大ヒットとなり、これを受けての次作は、否が応でも注目を集めることは必至で、それは「独善的」なこのアニメーション監督の作風にいい意味でも悪い意味でも影響を与えるだろうと思えた。 案の定、公開前からちょっと節操がないくらいの企業タイアップの乱れ打ちが目立ち、注目度と製作資金の潤沢さを感じる反面、あらゆるしがらみに覆われた相当に自由の利かない映画製作になったのではないかと危惧していた。 酷評も辞さない構えで鑑賞に至ったのだけれど、その危惧は全くの杞憂だった。 善し悪しはまず別としても、そこで繰り広げられたのは、前作以上、いや過去作のどれよりも“独善的”で“独りよがり”な新海誠監督の「セカイ観」全開の映画世界だった。 危惧された不自由さはむしろ皆無だったと言っていい。美しすぎる精巧なアニメーションは無論健在だが、その美しさと表裏一体の生々しくリアルな描写が観る者の心情をじわじわと抉ってくる。 現実の具体的な企業名や商品名が作中の至るところで映し出され、「現実感」を効果的に演出していた。そう、節操なく思われた企業タイアップだったが、監督と製作陣はそれを最大限に活かし、アニメ世界の重要なファクターとして表現してみせている。 タイトル「天気の子」が表すとおり、この国のあらゆる「天気」を表現したアニメーションはあまりにも美しく、それだけでこの映画の価値は揺るがないとすら思える。 しかし、この映画で表された美しさは、いびつで残酷だ。 主人公の少年少女たちは、この美しい世界の“底”で、文字通りに生命をすり減らしながら、喜びと希望を見出そうと奔走する。 それは決して安直な綺麗事ではなく、心身ともに追い詰めされた彼らがギリギリのところで保とうとした生きる「意味」だった。 この映画が描き出したストーリーテリング、そして主人公たちの帰着に対して、受け入れられない人は多いだろう。 彼らの「選択」は極めて破滅的な行為であることは間違いなく、想像よりもずっとカオスで狂気的な映画である。 セカイの“しくみ”も“理り”も関係ない。 彼らは、あまりにも無責任に、あまりにも独善的に、そして「確信」をもって、「大丈夫だ」と言い切る。 ならば、それがすべてだ。 世紀の“わがまま”を押し通す、若い生命の猛々しさと瑞々しさ、最高密度の「青臭さ」に、少なくとも僕は、涙が止まらなかった。 梅雨明けのタイミングで観に行って、なんと“梅雨明けしない”顛末には面食らったが、今、この国の夏に観なければ、あまりに勿体ない映画だ。[映画館(邦画)] 9点(2019-07-28 10:31:38)(良:2票) 《改行有》

289.  そして父になる 《ネタバレ》 2年前に娘が生まれた。とても幸福な瞬間だったけれど、同時に「父親になった」という事実に対しては、ふわふわとした実感の無さを感じたことを良く覚えている。 女性は、子を産んだ瞬間に「母親」になると思う。それは、我が子の生命を身籠り、出産するという幸福と苦闘に溢れたプロセスをしっかりと経ているからだと思う。 一方で、男性は、そういった実を伴ったプロセスを経ていないから、本当の意味で「父親」という存在になるまで「時間」が必要なのだと思える。 それが数日間の人もいるだろうし、数ヶ月間の人もいるだろうし、「6年間」かかる人もいる。 この映画のテーマを知ったとき、“親”の一人として、選択の余地はあるのか。と思えた。 傍らの我が子をふと見て、今まで共に生きてきた子を選ぶに決まっている。と、思った。 この映画を、「母親」の目線で描くことはある意味容易だったと思う。 この「事件」において、最も傷つき、最も感情的な対象になり得るのは、当然「母親」だからだ。 しかし、この映画はそういうストレートな感動には走っていない。 「母親」ではなく、「父親」を主人公に据えた意味。それこそが、この作品の価値だと思う。 「交換」という決断を迫られ、夫婦は苦悩する。 母親は、他の誰よりも傷つくが、その分シンプルに決断出来る“強さ”を持っていると思う。いざとなれば自ら育てた子と二人きりででも生きていくという「覚悟」がある。 しかし、そもそも「親」になったということそのものに自信が備わっていない父親は、「子」との距離感に対して大いに惑う。 そこには、「父親」というものの弱さと脆さが溢れていて、それがこの映画が描くドラマ性なのだと気付いた。 映画のテーマに対して「選択の余地はない」と“シーソー”の片方に思い切り重心をかけて映画を観始めた。 そしてこの映画のストーリーは、概ね自分のその意思に沿った着地を見せた。 それなのに、観終わった瞬間、僕は“シーソー”の真ん中に立っていた。 どちらが正しいということは言えず、どちらも間違っていないとしか言えなかった。 「選択」を迫るこの映画は、終始どちら側にも偏ってはいなかった。故に観客は、描かれる人々の言動のすべてに共感し、また拒否することが出来る。 この映画の素晴らしさは、その“立ち位置”によるバランス感覚そのものだ。[映画館(邦画)] 10点(2019-07-18 16:47:29)(良:4票) 《改行有》

290.  勝手にふるえてろ 「絶滅すべきでしょうか?」と歌い上げた後、主人公はアパートの小さな玄関で、独りうずくまり、嗚咽する。 胸が締め付けられてたまらなかった。性別は違うけれど、彼女は20代の頃の私だと思った。 「絶滅」という言葉は使わなかったけれど、当時の私も、彼女と同じように、孤独感と自己憐憫の狭間で藻掻き苦しみ、突っ伏して声にならない声を上げていた。今でこそ、「暗黒期」と自嘲的に振り返ることができるけれど、私の中では本当に絶望的な時期だった。 この映画の主人公ヨシカは、愛くるしく、痛々しく、トリッキーに見えるけれど、実のところ、この年頃の女性の普遍的なありのままの姿を表していると思えた。 誰だって、いつまでたっても「召喚」し続ける過剰に美化された思い出を持ち続けているだろうし、不遇な自分自身を憐れみ、達観していると思い込むことで、慰め、人生に折り合いをつけようとしているんじゃないか。 そのさまは、客観視すれば、愚かで滑稽に見えるかもしれないけれど、人間が社会の中で必死に生き続けるための“術”であり、本当は誰も嘲笑うことなんてできない。 この映画は、そういう今この社会に生きる、性別も年齢も関係ないすべての人が、実は孕んでいる“脆さ”とそれと同時に存在する“強かさ”を、あまりにもユニークな映画的表現と、あまりにも奇跡的な“松岡茉優”によって、描きつけている。 思わず逃げ出したくなるブサイクな“キス顔”のように、「無様」な映画である。 結局、主人公はダークなインサイドのドツボにハマったままで、具体的には何も解決はしてない。 人生は笑っちゃうくらいに面倒で、複雑なので、答えがいつも「1+1=2」になるとは限らない。「1+1=1」になることはままあるし、すべてが無くなって「0」になってしまうことだってあるだろう。 だけれども、怯えてばかりの自分自身に、「勝手にふるえてろ」と言い放ったヨシカは、きっと「1(イチ)」以上の何かを見つけるための一歩を踏み出せたのだと思う。 嗚呼、なんてパンクで、愛おしいのだろう。最高すぎて勝手にふるえるわ。[インターネット(邦画)] 10点(2019-07-18 09:55:14)(良:1票) 《改行有》

291.  スカイスクレイパー コレは非常に良い“タワーリング・インフェルノ+ドウェイン・ジョンソン”映画だ。想定外の大満足感に高揚した。 どうせ、例よって超高層ビルで大火災が起きて、我らがロック様が超人的に救出劇を繰り広げるのだろうと高を括っていた。そして、その通りの映画だった。 まったく想定通りのストーリーテリングだったにも関わらず、想定外の満足感を得られたことが凄いことだと思う。 言うなれば、この手の“ジャンル映画”を好んで観ようとする輩は、映画的に新鮮な驚きなど端から求めていない。 ただ、過去の映画遍歴を踏まえて、押さえておいてほしい“娯楽ポイント”が幾つかあって、そのポイントを幾つ稼がせてくれるか、興味はそこに尽きる。 もちろん、その娯楽ポイントは、人それぞれなのだが、個人的には、この手の娯楽映画に必要な要素を漏れなく網羅した「お手本」のような作品だったと思う。 監督のローソン・マーシャル・サーバーはきっと自他ともに認める“ボンクラ映画ファン”なのだろう。 随所に過去の数多の傑作映画から引用された要素が散りばめられていて、こちらも一ボンクラ映画ファンとしてニヤニヤしっぱなしだった。 香港を舞台にした「燃えよドラゴン」オマージュは言わずもがな、「ダイ・ハード」から「ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコル」に至るまで古今東西のあらゆるアクションエンターテイメント映画を彷彿とさせる数々のシーンは、決して安直な“パクリ”というわけではなく、愛情と尊敬をもって演出し表現されていたと思う。 だからこそ、ひたすらに楽しく、興奮することができた。 そして、やはりドウェイン・ジョンソンの圧倒的な存在感も無視できない。 何かのインタビューでも彼自身が語っていたが、ドウェイン・ジョンソンがドウェイン・ジョンソンであり続けることを貫き通したからこそ、このプロレスラー出身の俳優は、ハリウッドというバトルロワイヤルの中で勝ち残り、アクションスターの地位を確立したのだと思う。 様々な映画で全く違う人間を演じているのに、彼の左半身にはルーツであるサモアを象徴するタトゥーが刻み込まれている。普通に考えれば、それは鑑賞者にとって違和感であり、映画俳優にとってデメリットでしかない。 だが、世界中の多くの映画ファンはその象徴であるタトゥーも含めて、ドウェイン・ジョンソンという俳優を受け入れ、愛している。もはや、ドウェイン・ジョンソン主演映画であのタトゥーを見られなければ、逆に物足りなさすら感じてしまうと思う。 それこそが、彼が「自分」というアイデンティティを貫き通した証であろう。 そういったアクション俳優の存在感も含めて、このパニックアクション映画は「ザ・王道」だと思える。素晴らしい。 あ、そうだ、“粘着テープ”を買いに行かなくちゃ。[インターネット(字幕)] 8点(2019-07-02 21:40:47)《改行有》

292.  きみと、波にのれたら 「あらら」と、ちょっと呆気にとられるくらいにチープな映画だった。 1990年前後の“ホイチョイ・プロダクション”の映画を観ているような「軽薄感」が結局最後まで拭えなかった。 その前時代的な作品の空気感自体は、製作陣の狙い通りだったのだろうと思う。 若い男女が“都合よく”運命的な出会いをして、都合よく恋に落ちて、都合よく死別して、都合よく摩訶不思議な邂逅を果たすという浅はかな展開そのものを否定したいわけではない。 そのようにストーリーテリング的は稚拙だとしても、多くの人に愛されてやまない名作はたくさんある。 ただし、そういう映画に必要不可欠な要素は、ストーリーなんてどうでもよくなるくらいに魅力的な“キャラクター”だと思う。そして、彼らが織りなす刹那的で眩い悲喜劇に人は魅了されるものだろう。 だが、残念がら、この映画に登場するキャラクターたちには、そういった魅力が備わっていない。 人間的に嫌悪する余地すらなく、只々、“フツー”で“浅い”のだ。 都合のよいストーリー展開の中で、浅はかな若者たちが、特にエモーショナルなわでもなく感動めいたものを押し付けてくる印象を受け、終始“気持ち悪かった”。 その“気持ち悪さ”が極めて残念だった。 なぜなら、理屈ではなく、摩訶不思議で、自由闊達な、“気持ちよさ”こそが、湯浅政明というアニメーション監督の真骨頂だと思っているからだ。 「夜は短し歩けよ乙女」「夜明け告げるルーのうた」そして「DEVILMAN crybaby」と、立て続けに自由闊達なアニメーション表現で独自の世界観を構築し、圧倒的な立ち位置を確立した湯浅政明監督の最新作として大変期待したのだが、冗長なプロモーションムービーかのごとき稚拙な映画世界から最後まで脱却できなかったことは至極残念だ。[映画館(邦画)] 3点(2019-06-30 12:24:40)《改行有》

293.  ゴジラ キング・オブ・モンスターズ 《ネタバレ》 ゴジラ映画ファンとして先ず断言したいが、本作が映し出すビジュアルはとんでもなくエキサイティングであり、世界中総てのゴジラ映画ファン、怪獣映画ファンは、必ず映画館で見なければならない。 それが決して言い過ぎではないくらいに、映像的には本当に“どえらいもの”を見せてくれる。それは間違いない。 その妥協の無い映像的クオリティーは、この映画の製作陣が、日本が生んだ“ゴジラ映画”を心から敬愛し、尊敬してくれていることの紛れも無い証明であり、そのことについては、日本のゴジラ映画ファンとして心底嬉しく思う。 と、5年前の前作とほぼ同じ、いやそれ以上の「満足感」を得られたことは否定しない。 しかし、だ。その「満足感」と同時に、決して看過できず、拭い去れない「拒否感」を覚えたことも否めなかった。 前作鑑賞時と同様に、エンドロールを見送りながら、“神妙な面持ち”を崩すことができなかった。 「拒否感」の正体はもはや明確である。“核の取扱い”只々この一点に尽きる。 ストーリーテリングにおける“それ”についての「意識」の違いさえ無ければ、僕は前作も含め、この“ハリウッド版ゴジラ”を大絶賛することを惜しまなかっただろう。 だが、残念ながら、前作に続き本作においても、「核兵器」という人類が生み出した最凶最悪の脅威に対する“意識の違い”というよりも、むしろ明確な「無知」が、大きく分厚く障害として立ちはだかった。 その「無知」は、致し方ないものとも思える。 世界で唯一の被爆国として、この国の子どもたちは、核兵器の脅威とそれがもたらした悲劇に関する情報を、教育の中で蓄積し、潜在意識レベルで認識している。 いかなる場合であっても、核兵器は「否定」の対象であり、その象徴が、脅威としての「ゴジラ」なのだ。 一方、かの国の子どもたちにとって、「ゴジラ」とは“核が生み出したヒーロー”であり、その認識を変えることは極めて難しいことなのだろうということを、前作と本作を観て痛感した。 歴史も、文化も、価値観も違えば、それは当然のことだろうし、こと「核兵器」に関する経緯においては、日本とアメリカの立場は全く両極にあったわけだから、その「乖離」は殊更であろう。 ただ、そのように俯瞰して見れたとしても、本作における核兵器のあまりに軽薄な取り扱いは、この映画が「ゴジラ映画」だからこそ認めるわけにはいかない。 衰弱したゴジラに対し、核爆弾をあたかも“カンフル剤”のように爆発させ、復活する様を仰々しく映し出し、本作随一の名場面のように仕上げた様には、怒りを覚えるというよりも、唖然としてしまった。 我らが渡辺謙の熱い見せ場には申し訳ないが、日本のゴジラ映画ファンにとっては、あのシーンが最も「不適切」で「不要」だった。 でもね……。 これがアメリカ人が愛し、アメリカ人が観たい「ゴジラ映画」であれば、それがすべてであり、娯楽映画として本作の在り方を否定する余地は無い。と、本心から思う。(立ち位置が定まらないようで申し訳ないが) 実際、僕自身、前作同様にゴジラの巨躯に感動し、キングギドラが醸し出す絶望感に更に感動し、あの“新兵器”の登場や、“小美人”オマージュなど、一つ一つの要素に興奮した。そして、伊福部テーマ全開の劇伴には、高揚感と共に感謝が溢れた。 詰まるところ、僕はこの映画が大好きなのだ。だからこそ、“嫌い”な部分が我慢ならないのだと思う。[映画館(字幕)] 7点(2019-06-05 19:21:04)(良:2票) 《改行有》

294.  アベンジャーズ/エンドゲーム 《ネタバレ》 トニー・スタークがアイアンマンになって10余年。僕たちは、彼が幾つもの眠れぬ夜を過ごしてきたことを知っている。 そのトニーの姿を一番近くで見続けていたのは、他の誰でもなくペッパー・ポッツだったということ。 だからこそ、ポッツは、遂に“闘い終えた”トニー・スタークに対して、努めて穏やかに「眠って」と言葉を送ったのだ。 もうね、涙が止まらなかった。高揚感、喪失感、そして多幸感と感謝、涙の理由は多層的に渦巻き、正直なところ初回鑑賞時には感情の整理がつかなかった。 そして、マーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)が、「アイアンマン」からこの「エンドゲーム」に至るまで描き連ねてきたものは、“ヒーロー”という宿命を背負った者たちの自らの「運命」に対する抗いと享受の物語だったということを痛感した。 MCUのヒーローたちは、自らの運命を憂い、おびただしい傷を負いながら、藻掻き苦しむ。 時に混乱し、対立し、選択を見誤ることもあるけれど、決して彼らは諦めない。再び立ち上がり、強大な敵=運命に“Avenge(復讐)”する。 その姿に、僕たちは憧れ続ける。それは必ずしもスーパーヴィランに打ち勝つスーパーヒーローだからではない。 彼らは皆、ヒーローであると同時に一人の人間だ。その一人の人間としての弱さや脆さすらもひっくるめた強さに憧れるのだ。 この一つの「時代」を築き上げたヒーロー映画シリーズの最終局面である本作には、“市井の人々”は殆ど映し出されない。 必然的に、ヒーローたちが市民の危機を救うシーンは皆無だ。巷ではそのことに対して批判的な論評もあるようだが、僕は異を唱えたい。 本作に限っては、アベンジャーズが僕たち一般人を救い出すシーンなど必要ないと思う。 なぜなら、「彼らは、僕ら」だからだ。 スーパーヒーローの一人ひとりが、時に弱く脆い一人の人間であることと同時に、我々一人ひとりの人間が、時に強く勇敢なスーパーヒーローにもなり得るし、そうでなければならない。ということを、このエンドゲーム の“大合戦”はありありと映し出していた。 遂にスーツを纏い、夫と背中合わせで戦うペッパー・ポッツは勿論、テレパスのマンティスやシュリ(プラックパンサーの妹)など、非戦闘員のキャラクターたちが、名だたるヒーローたちの先陣を切るようにしてサノス軍に立ち向かっている。 クライマックスにおいて画面いっぱいに映し出されたこの異様な迫力に溢れた「構図」が表す意味は明らかだ。 もはやこの局面において、スーパーヒーローかそうでないかなど関係ない。強大な悪と理不尽な暴力によって大切なものを奪われた全ての者たちが、「正義」の名の下に復讐に挑む。 それは、溜めに溜めたキャップの「Avengers Assemble」の一声と共に、ヒーローたちのみならず我々人類全員が「アベンジャーズ」となった瞬間だった。 だから、この映画に限っては、ヒーロー映画であっても“救う”シーンは必要なく、全員で“戦う”シーンで占められているのだ。 と、まあ初鑑賞からかれこれ日数が経っても、熱くならずを得ず、また語り尽くせぬ。 10年以上に渡り、この類まれな映画体験を享受できたことを、只々幸福に思う。 70年遅刻のデートを果たしたスティーブ・ロジャースに祝福を。 “不完全燃焼”のソーには、まだ何千年も残っているであろう人生に敬意(と密かな期待)を。 そして、Thank you Tony. Thank you Avengers,3000.[映画館(字幕)] 10点(2019-06-02 07:48:53)(良:3票) 《改行有》

295.  ジュマンジ/ウェルカム・トゥ・ジャングル ロビン・ウィリアムズが存命ならば、たとえカメオ出演だったとしても、小気味良い存在感を放ってくれただろうなと、今は亡き名優を偲ばずにはいられなかった。 1995年の「ジュマンジ」は、劇場鑑賞以来、幾度も観返しているが、毎回色褪せぬエンターテイメントを与えてくれる傑作だ。 児童向けの絵本を原作としたファミリームービーには違いないが、映し出される魅力的なファンタジーとアドベンチャー、それらと共存するダークでビターなテイストが何とも味わい深く、忘れ難い余韻を生んでいる。 実世界と同じく、20余年後を舞台にしたこの続編も、今の時代に相応しい娯楽性を生み出しているとは思う。 恐ろしいゲーム世界を通じて、自分自身を見つめなおし成長していくという根底のテーマ性は前作から継承されているもので、それに加えて、時代を越えて顕著になった個人の多様性やそれを相互に理解しあうという追加要素はとても現代的だと思った。 そういうテーマ的な観点としては、現代社会に即した意義を持った良いリメイクだったと思うし、ドウェイン・ジョンソンやジャック・ブラックをキャスティングし、質の高いアクション・コメディに振り切った作品の方向性は全く間違っていないと思う。 ただし、オリジナル映画の大ファンとしては、大いに物足りなさを感じてしまったことも否定できない。 “ジュマンジ”の世界と現実世界を繋ぐ「媒体」が、ボードゲームからビデオゲームになったとはいえ、その中身は同じハズ。であれば、もう少し前作に登場したイベントやキャラクターを踏襲したゲーム世界を映し出して欲しかった。 かろうじて“サイの暴走”は出てきたけれど、巨大蚊や不良猿、人喰い植物、底なし沼など、娯楽性に溢れたあの漫画的な数々のイベントを、ロック様をはじめとする新しい登場人物たちが、ゲーム世界の中で目の当たりにする様を見てみたかったと思う。 そういう意味では、この続編で描き出されたゲーム世界はあまりに凡庸で、ゲームとしては“クソゲー”のレッテルを貼られても致し方ないだろう。 繰り返しになるが、ロビン・ウィリアムズが生きていれば、悪党ハンター・ヴァン・ペルト役で特別出演が実現したかもなあと、叶わぬ空想は膨らみ続ける。[CS・衛星(字幕)] 6点(2019-06-02 07:47:11)《改行有》

296.  スパイダーマン(2002) 巨大ビルディングの林を滑空するあの爽快感、それだけでこのエンターテイメント映画の価値は計り知れず、満足感というものはその瞬間に満たされる。躊躇のないアメコミの実写化に感服せずにはいられない。見事、サム・ライミ。[映画館(字幕)] 8点(2019-06-01 00:07:39)

297.  クレヨンしんちゃん 新婚旅行ハリケーン 失われたひろし 昨年に続き、クレヨンしんちゃん映画を我が子と、友人父子らと連れ立って鑑賞。 昨年の「爆盛!カンフーボーイズ〜拉麺大乱〜」は、想定を大いに超えた素晴らしい作品だった。 このアニメならではの“おバカ”コメディを全面に繰り広げつつも、しんちゃんをはじめとする子どもたちの目線を通じて「正義」という概念のこの世界でのあり方を問うという、物凄くクオリティーの高いストーリーテリングに感嘆した。 そんなわけで昨年よりも鑑賞前の期待値が上がった今作も、“クレしん映画”ならではの「時代」を映すテーマ性は盛り込まれていたと思う。 今作のテーマは、母親であり、妻であり、一人の女性である“みさえ”によるずばり「女性讃歌」だ。 数年遅れのハネムーンの地で、母親であることの苦闘、妻であることの葛藤、それらをひっくるめて一女性としての強さと弱さを等しく全面に押出しながら、アドベンチャーを繰り広げる“みさえ”の姿が眩しく、愛おしい。 今作においては、主人公であるしんのすけは、めずらしく子どもらしいポジションにおさまっており、みさえとひろしの父母の活躍に振り切った構成も中々潔い。 それはまさに、この映画を子を連れて鑑賞しているであろうすべての母親たちにスポットライトを当てるべく用意されたストーリー展開だった。 この映画の焦点とその意図はよく理解できる。ただし、“クレしん映画”としてちゃんと面白かったかというと、少々疑問は残る。 個人的には、「母親」や「女性」といったターゲットに対する焦点の当て方が、少しあざとすぎたんじゃないかと思える。 主人公・野原しんのすけの存在感が“大人しく”見えたことに顕著に表れているように、「子ども」の存在をもう少し意義深く描き出すべきだったのではないかと思う。 「クレヨンしんちゃん」の主人公は、当然ながらしのすけである。 今作でも彼はいつものようにおバカに暴れまわってくれてはいるが、どこかその言動にいつものような“熱さ”を感じなかった。 “クレしん映画”の過去作をいくつも観ているわけではないので、どうしても前年との比較になってしまうが、声優の交代も少なからず影響しているのではないかと思う。声色的に違和感はあまり無かったが、この国民的キャラクターが内包する根本的な「熱量」を、まだ新しい声優は表現し切れていないのかもしれない。 まあとはいえ、僕の横で子どもたちはちゃんと笑い、ちゃんと泣いていたようなので、変な言いがかりをつけるべきではないのかもしれないが。[映画館(邦画)] 5点(2019-05-31 23:32:47)《改行有》

298.  空母いぶき どこかの阿呆のように、どんな事でも、浅はかに「曲解」しようと思えばいくらでも出来るわけで。 今現在の、この世界の複雑さと、愚かさを伴った在り方は、いつだってその“危機”を孕んでいる。 「日本」は、そういう危機感に対して、時に老獪に、時に臆病に、結論を避け、蓋を閉め続けてきた。 それは決して、一方的に非難すべきことでも、賞賛すべきことでもなく、極めて難しい選択肢の中で、苦慮をし続けてきた結果なのだろう。 ただし、そういう危うさに対して、いつまでも避け続けるわけにもいかないし、もう蓋をしようにも閉め切れない時勢に至っていることも明らかだ。 この国は、何らかの形で、この「局面」を超えなければならない。この映画の主人公が発した「ハードル」とは、まさにそういうことだ。 ならばどうするのか。 無論、その答えは一つであろうはずもないし、何が正しいかなど実際分からない。 大切なことは、導き出した方向性に対して、誠実に「覚悟」を示せるかということ。 この映画の登場人物たちは、自衛隊員も、政治家も、官僚も、ジャーナリストも、みなそれぞれに強い意思を示し、「覚悟」を示す。 その彼らの有様と、この映画で描き出されることは、あくまでも一つの価値観に端を発する「理想」であり、「空想」に過ぎないかもしれないけれど、その“姿勢”の示し方自体は、とても有意義だったと思う。 演者の部分的な演技プランのみをピックアップして無責任な難癖をつける阿呆は論外だが、しっかりと鑑賞した上で、この映画で描き出されていることと、自分自身の価値観を鑑みて、「否定」することは大いに結構だと思う。 どこまで意図的かは分からないけれど、この映画は、鑑賞者の思想や意識によって如何様にも「見え方」が異なるように仕上がっている。 この映画を鑑賞することで、避けられない「局面」を迎えているこの国の国民として、今一度自分自身の立ち位置を見極める良い機会にになり得るのではないか。 映画作品として、「完成度の高い映画だ」とは正直言いがたい。 登場人物たちに青臭く語らせすぎだし、所々再現映像のようなチープ描写もあり、映画表現としては稚拙だと言わざる得ない部分も多い。 だがしかし、製作費が限られているであろう中で、何とか苦心して映し出された海上での戦闘シーンは、きちんと緊迫感を備えていたし、日本独自のミリタリー映画として成立していたと思える。 そして、その海上の緊迫感は、日本政府の苦悩ともリンクし、この国だからこそ表現し得たポリティカルサスペンスとしても見応えがあった。 最後に、中井貴一の呑気なコンビニ店長役に違和感を感じた人も多いかもしれないが、これは海上護衛艦を舞台にした2005年の映画「亡国のイージス」を鑑賞した映画ファンならば、なかなか感慨深いギャップを孕んだキャスティングのはずだ。 本作には、「亡国のイージス」原作者の福井晴敏が企画として名を連ねており、随所にかの映画を彷彿とさせるキャスティングや設定が見受けられる。 原作自体に関連性は無いので、ストーリー性が別物であることは当然だが、同じ日本の領海上を舞台にしたポリティカルサスペンスでありながら、十数年の時を経て、自衛官や政治家たちの立ち位置が微妙に変化していることも興味深い点だった。[映画館(邦画)] 8点(2019-05-31 23:31:15)(笑:1票) 《改行有》

299.  何者 「就職活動」というものをしたことがない。 今現在職に就いているわけだから、正確にはそれをしたことがないというのは間違いかもしれないが、この映画のメインストリームに描きつけられている、いわゆる“新卒採用”向けの活動をしなかったという意だ。 ただし、だからと言って、この映画が表現する鋭利で毒々しい「棘」が突き刺さらないわけがなかった。 観よう、観ようと思いつつ、長らく逃げ続けてきた映画だった。 もしも、もう少し若い頃にこの映画を観たならば、この作品から飛び出してくる棘は心の奥底まで突き刺さり、僕は、もっと分かりやすくボロボロになっていたことだろう。 今、このタイミングでこの映画を鑑賞し、あまりに辛辣な描写に痛みを覚えながらも、まだ平静を保っていられることは、幸か不幸かどちらだろうか。 少し、自分自身の話をしたい。 高校を卒業して、大学には行かず、東京の専門学校に進学した。「映画製作」の職に就きたいという夢を持ち、それを実現させるための進路だった。専門学校に2年間通い卒業したが、映画製作の現場には就職しなかった。業界の特性上、明確な就職活動的なプロセスは無かったし、映画製作の現場の猥雑で古臭い価値観は自分には合わないと思った。フリーターとニートで数年過ごし、その間に地元に帰り、今の会社に就職したのが13年前。 思い返せば、僕にとっての「20代」は、本当に地獄のような日々だった。 自分がやりたいことと、やったほうがいいことと、やらざるを得ないことが、バラバラで全く一致せず、体が動かず、結局「何も」行動することができなかった。 只々、朝が来る恐怖の中で眠り、その日一日を何とか自分の中で誤魔化して、生きてきた。 先に、「就職活動をしなかった」と記したが、既にここにも、自分自身に対する誤魔化しを孕んでいる。 就職活動をしなかったのではなく、“できなかった”のだ。映画業界に就職しなかったのではなく、“できなかった”のだ。 当時、SNSはまだ普及していなかったので、僕は、日々の自己満足と逃避の理由を、日記やブログに書き連ねていた。 愚かだったとは思う。でも、今となっても、その日々を否定することはできない。当時の僕にとっては、本当にそれが精一杯だったからだ。 そして、その上に、今の自分の人生が展開しているということも否定しようがないからだ。 この映画に登場する4人の若者(就活生)は、四者四様に痛々しく、愚かしい。正直、見ていられない。 でも、僕は、この4人の誰のことも、上からの目線で否定することなんてできない。間違いなく、彼らは僕自身だからだ。 こうすればいいのに、こう考えればいいのに、と今の僕が、当時の僕(=彼ら)に意見することは、まったくもって無意味だと思う。 「青春」という言葉で表現するには、あまりにビターで世知辛いが、かけがえのない若き煌きが存在するように、取り返しのつかない若さゆえの「闇」も確実に存在するということ。 そして、その闇にとりつかれ、押しつぶされることすらも、若者の特権なのだと思う。 登場人物の心情のみならず、鑑賞者の心情までも“丸裸”にする、とても危険な映画である。ただ、「就職活動」という経験の有無など関係なく、すべての“大人”に観てほしい映画でもあった。 たとえ地獄のような日々でも、それでも何とか生き続けてみれば、「悪くないな」と思える日がくる。そのことだけは、当時の自分自身に言ってやりたい。[インターネット(邦画)] 10点(2019-05-27 23:28:48)《改行有》

300.  ガーディアンズ 《ネタバレ》 ロシア版「アベンジャーズ」というよりは、「ファンタスティック・フォー」に近いだろうか。 所変われば、ヒーロー像も変わる。映画としての善し悪しはまず置いておいて、興味深い映画であったことは認める。 はっきりとチープな部分も多々あるが、ビジュアル的に美しい描写もあり、映画としてのルックは思っていたよりもちゃんとしていたという印象。 だがしかし、そういったフォローポイントを圧倒的に凌駕する稚拙なストーリー展開が、ストーリーが進むにつれ加速するように酷い。 まず、人体改造されたヒーローたちの出自と現在の立ち位置、宿敵との関係性が絶望的に分かりづらい。 そこから描き出されるストーリーも、思わず「下手くそか!」と声を上げたくなるくらいに話運びがぐだぐだで、合うべき焦点がまったくもって合っていない。 最初のうちは、お国柄ゆえの“ハズし”なのかと好意的に見ていたが、段々とすべての登場人物たちが「バカ」にしか見えなくなってくる。 ヒーローたちのキャラクター性自体がMARVELやDCをはじめとする数多の有名ヒーローたちのパクリであることは別にいい。 ただロシアで生まれたヒーローである以上、かの国だからこそ生じる葛藤や苦悩をキャラクターたちに反映して欲しかった。 MCUを表面的になぞって、ユニバースの拡大を狙ったラストのシークエンスをドヤ顔で見せられても、食指はピクリとも動かない。[CS・衛星(字幕)] 3点(2019-05-20 00:09:06)(良:1票) 《改行有》

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