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461.  しあわせのパン いくら寓話とはいえ、この度を越してメルヘンチックで空虚で生活実感のない 主人公夫婦のキャラクターの空々しいあり方は何なのか。 いくら絵空事とはいえ、この度を越して退屈で幼稚で深みのない 妄想エピソードの漫然とした並べ方は何だろう。 生計であるとか労働であるとかは、ことごとくオママゴト以下の描写でしかなく、 山や湖は単に観光向けの小奇麗な風景でしかない。 そしてカップに注がれるコーヒーを、皿に盛りつけられる野菜スープを 単に真上から撮って良しとする安直なショットからは、 食の魅力というものがまるで伝わらない。 そもそも肝心のパンが大して美味しそうにみえないという、 褒めどころのない映画である。 [映画館(邦画)] 2点(2012-09-11 00:06:06)《改行有》

462.  プロメテウス 美術畑出身のリドリー・スコットは俳優以上に背景・セットを重視するあまり、 『ブレードランナー』を主演のハリソン・フォードが嫌っているというのは有名な話。 この作品もまた、主演俳優はひたすら無様に走り廻り、活躍らしい活躍もなく、 極めて魅力が薄い。 「デザインも映画の脚本」の弁のとおり、、 監督にとって主役は異世界のランドスケープと云っても良さそうだ。 従来からスコットは濃いバックライトとインセンス・スモークの活用、 そして奥行きのある構図取りによって三次元的な効果を創り出してきた。 ここで主にそれを担うのは山間の雲であり、巨大な砂嵐であり、 宇宙船の上昇と落下に伴う砂塵である。 ただ既出のデザインも多い上、3Dによる3Dホログラム映像といった趣向など、 そのままデジタル加工に拠っている部分もあり、 光と霧と建築物そのものを駆使して演出した『エイリアン』や 『ブレードランナー』の立体感の味わいにはどうしても欠ける。 即物的な迫力だけを狙った立体感ではつまらない。 [映画館(字幕)] 5点(2012-09-02 23:22:49)《改行有》

463.  アベンジャーズ(2012) 《ネタバレ》 それぞれの超人達が対立する前半は、 身体あるいはエネルギーを一直線的にぶつけ合うアクションが中心であるが、 彼らが結束してゆく後半はアクションのスタイルも微妙に様変わりしてゆく。 洗脳されたジェレミー・レナーが航空母艦の巨大プロペラの破壊を企てるのに対し、 ロバート・ダウニーJr.らはまずその旋回運動を復活させる。 そして超人たちはビルの乱立する市街地を舞台に、 身体の捻りや回転を利用した縦横無尽の殺陣を見せる。 (ボウガンを放つJ・レナーのしなやかなアクションが素晴らしい。) 直線的な核弾頭の進路を逸らし、屈曲させ、 最後は垂直落下してくるアイアンマンの進路を曲げることで激突から回避させる。 対立から結束へ。そのイメージ化としての、直線から円環へ。 その主題を最も象徴する映画的見せ場の一つが、 市街地に降り立った6人が外向きに円陣を組んで空を臨む勇姿を捉える 周回のキャメラワークだろう。 エンディングロール後のラストショットのとぼけた大団円も、 そのクライマックスとは対称的な円形のバランスとニュアンスに味がある。 ただ、最も感動的なアクションを挙げるなら、 それはスクールバスに乗った子供たちを救助する1シーンだ。 具体的なアクションとして一般人を救ったのは、このシーンくらいではなかったか。 ラストのニュース映像で、ヒーローを擁護するのはこの子供達のほうがふさわしい。 [映画館(字幕)] 6点(2012-08-28 07:14:21)《改行有》

464.  桐島、部活やめるってよ 気になる相手、想いを寄せる相手、その周囲の人間に気づかれまいと気遣いながらも、 つい瞬間的に目を注いでしまう窃視の視線。 目を背けつつも、全神経を相手に集中させ、意識し続ける身体。 そうした、乱れる内心を見せまいとするナイーヴな表情や振る舞いや言い回しが キャラクターに初々しくリアルな感覚を与えている。 見る者と見られる者・話す者と聴く者の姿が視点の変化の中で 反復によって映し込まれていくことで、 その登場人物の視線やファインダー越しの映像に倣って 彼らの想いが強く鮮明に伝わる。その仕掛けが卓越だ。 またBGMをほぼ皆無とし、環境音を効果的にドラマに活かすことで さらにこの映画なりのリアリズムが追求されている。 校舎裏のシーン、大後寿々花の背後でざわめく木々の音や、 彼女の独奏する管楽器の音色や息吹が彼女の心情を浮かび上がらせて秀逸だ。 バスケットボールの弾むリズミカルな音と、バレーボール特訓のハードな音響の対比。 クライマックスを盛り上げる、現実音としての吹奏楽の演奏。 そしてラストに遠く響いてくる野球部員の掛け声と、音が良く活きている。 群像劇としては、焦点が浅くピント送りが多々あるのがやや安易か。 そこはパンフォーカスだろうと思うショットがいくつかあった。 [映画館(邦画)] 8点(2012-08-26 08:41:41)《改行有》

465.  アナザー Another(2011) 《ネタバレ》 「そこにいないのに、そこに見える」死者と、 「そこにいるのに、そこに見えない」生者。 その実像と虚像が、硝子の反射と水の透明性のモチーフによって視覚化されていく。 巻頭の病室におかれた硝子コップ。窓ガラス。鏡。校庭の池の水面。義眼の碧い瞳。 それらの反射面に浮かび上がる不鮮明で半透明な人物の像が示すのは 彼らのあいまいなアイデンティティだ。 印象的なその碧い瞳の超クロースアップは、 見る主体と見られる対象を同時に画面に乗せ、 橋本愛の冷やかな印象を強調するとともに 観る側の視線を引き付ける求心的な効果がある。 切り返しを排し、見る主体を不明瞭にしたままの歪な一方向的主観ショットと編集が、 ラストシーンの別れでは切り返しによる視線の交換へと変わり、 橋本愛と山崎賢人の淡い交流を際立たせる。 その表情は画面からは判然としないが、 さわやかな水色の衣装で大きく手を振って車を見送る橋本愛が小さくなっていく、 山崎賢人の見た目のショットがいい。 二人が携帯電話の番号を交わす合宿所の夜、 二人の座るテーブルに置かれた白いカップはもはや硝子製ではない。 [映画館(邦画)] 6点(2012-08-14 08:03:11)《改行有》

466.  アンノウン(2011) 《ネタバレ》 リーアム・ニーソンがパスポートの入ったバッグを空港に置き忘れるのは、ホテルのカウンターでジャニュアリー・ジョーンズだけがチェックインするのを監視カメラが捉える状況を作り出すというあくまで単純な作劇上の必要性から逆算した設定であり、その彼女が爆弾を止めようとして失敗するのも、届かない手のサスペンス(前半の鋏と照応)と爆破のスペクタクルを構成するというシンプルな映画的要請からくるものである。 フィクションに囚われ「<らしさ>とか<首尾一貫性>とか<心理>とかにばかりこだわる観客」(ヒッチコック&トリュフォー「映画術」)にとっては、単にキャラクターの愚かな行動という見え方でしかなくなるのだが、ジャウマ・コレット=セラ監督はそうした<らしさ>にも<首尾一貫性>にも<心理>にも拘ることなく、ひたすら状況設定とサスペンス感覚を核として映画を見せていく。 画面の意匠のみならず、そうした作法自体が「映画術」の忠実な踏襲として芯が通っている。 曰く、「マクガフィンには何の意味も無いほうがいい。」(ヒッチコック) 曰く、「映画作家は何かを言うのではなく、見せるだけだ。」(トリュフォー) 鏡面を使った看護師瞬殺シーンの絶妙な構図。アフリカ系タクシー運転手の亡骸に当たる照明。 その状況の秀逸な見せ方ゆえに、ブルーノ・ガンツ、フランク・ランジェラらは勿論、僅かな登場シーンしかない端役キャストに至るまで個性があり、そのいずれもが印象強い。 鏡面に映る二人の虚像を破砕するリーアム・ニーソン。その破片を握りしめる右手と、立ちすくむダイアン・クルーガ―の構図。 爆発による停電でモノトーンとなった画面に漲る一瞬の緊張と、交感する二人の表情がいい。 [DVD(字幕)] 8点(2012-08-10 21:07:33)《改行有》

467.  ダークナイト ライジング 《ネタバレ》 寓話はあくまで架空の都市のイメージの中で語って欲しい。 ノーラン版のシリーズとして一貫してはいるが、 そのままストレートに現実を意識させるロケーションや歌唱や、 テーマ語りはやはり安易で浅はかな印象しか与えない。 主要キャラクターそれぞれに見せ場を配分するのもわかるが、 かえってその場面転換がテンポを殺しているのもいただけない。 特に肝心な後半、緊張が高まるべきカウントダウンに向かいながら 4者のパラレルアクションが映画を寸断させ、間延びさせてしまっている。 画面も深度が浅く、表情芝居に頼った人物の対話場面などは 切り返しも配置もフォーカスもことごとく単調だ。 アクションの構図もアングルも貧しく、決死のジャンプシーンにも 絶望的な高低と距離の感覚が出せているとは云えず、 物語を絵解きするのに手一杯にみえる。 巻頭の航空機墜落をはじめ、地盤の崩落、橋梁の倒壊、幽閉溝の登攀、 背骨折り、氷上での処刑とノーランが拘るのは執拗な垂直落下のイメージであり、 その中でタイトルの主題系が立ち上がって来る仕掛けではあろう。 一方で、水平の空間移動をあえて省略してみせるあたりは潔いのだが。 『ダーティ・ハリー』の投げ捨てられる警察バッヂ、『M』の人民裁判、 『機動警察パトレーバー2』の雪降る水路・橋梁爆破の空撮ショットなど、 映画の参照ぶりは相変わらず多彩だ。 [映画館(字幕)] 5点(2012-08-09 21:16:54)《改行有》

468.  戦火の馬 《ネタバレ》 グリフィス的「再会」に、フォード的「父母」に、ホークス的「動物との共演」等々。 古典アメリカ映画を律儀に参照・再現しつつ、その上で自身の視覚的記号(差し出される手、隠される眼など)をしかるべくドラマ各所に活かし自身のフィルムとするしたたかさ。 それでいて馬の側の物語から人間側の物語である塹壕戦の描写に移行した途端、その画面に漲る意気込みが物語の統御を失いそうになる微妙なアンバランス感覚もスピルバーグ作品の魅力ともいえる。 馬を追い詰める威圧的な突撃戦車といった趣味全開の細部に執心しつつ、ギリギリで全体の統覚を保ち大団円にまとめあげるあたりは貫禄である。 黒澤明が嫉妬しそうなほどの「馬の映画」であると共に、第一次世界大戦の塹壕戦を視覚化することもまたやはり戦争の世紀を網羅しつつあるアメリカ時代劇作家としての隠れた主題なのだろう。 ヒューマンドラマを語る一方で、馬軍の突撃と共にサーベルが鋭利に人間を貫いていく殺傷の音響や、塹壕の至近距離への着弾の振動や、砲車を高台へと引き上げる行軍といった容赦無い暴力描写には、スピルバーグ流の分裂的特徴が明快に現れている。 であるからこそ一方でフィクション性をあえて際だたせ、フィルムを現実から隔てようとする。 本作に限らず、スピルバーグ作品の登場人物が一貫して「英語を話す」のは、云うまでもなくかつてのハリウッド映画のコードに忠実であり、それ以上に虚構としての「映画」に自覚的であるからに他ならない。 [映画館(字幕)] 8点(2012-08-08 02:24:32)《改行有》

469.  スノーホワイト(2012) すのー口づけの奇跡の根拠として観客を納得させるショット、 つまりクリス・ヘムズワースのクリステン・スチュワートに対する想い・ あるいは二人の関係性の変化を決定的に示す描写がないというのは如何なものか。 会釈する大鹿に向き合う彼女を見つめる視線がそれだとしても、あまりに弱い。 そのために、彼女が目覚める感動や驚きが観る側に届いてこない。 焼き討ちに遭う村の火を見て、クリス・ヘムズワースが翻意するシーン。 サム・クラフリンとの再会シーン。クライマックスの城門突破シーン。 基本的に盛り上がってしかるべき場面のエモーションがことごとく欠落しており、 淡白すぎて拍子抜けしてしまう。 スカートの丈をつめたり白装束や甲冑を纏ったりといったせっかくの衣装替えの趣向も、 コスチュームをドラマ的に活かす工夫が欠落していてさしたる面白みもなければ華もない。 よって甲冑を着けたヒロインのアクション自体も 『アリス・イン・ワンダーランド』のミア・ワシコウスカと代わり映えせず、 活劇的にも物足りない。 [映画館(字幕)] 4点(2012-07-05 00:10:37)《改行有》

470.  愛と誠(2012) ミュージカルシーンに映画を感じたのは、 大野いとの『夢は夜ひらく』と、安藤サクラの『また逢う日まで』。 動きのとれないトイレ個室内での歩調と、 大野の決して上手くない歌がシュールでいい。 雨に濡れた夜の歩道を走る安藤の躍動と笑顔、そしてそれを追う横移動のカメラがいい。 武井咲も斎藤工も、 一青窈・市村正親コンビの達者な身のこなしなどと比較してしまうと可哀相だが、 シンプルな振付と頻繁なカットつなぎにも助けられて健闘している。 そのミュージカルの少し硬い感じが逆に味となって後半のドラマに活きており、 特にこの二人がそれぞれ違うシチュエーションで土下座をして 必死に懇願するシーンではその熱演と表情が一気に輝き出して素晴らしい。 ただ、妻夫木聡のワイドショー番組的な安っぽい突っ込み台詞の数々は もう少し工夫が欲しかったところ。 [映画館(邦画)] 7点(2012-07-02 20:26:44)《改行有》

471.  幸せへのキセキ 人間と人間。動物と人間。 それぞれが物云わず見つめ合う交感シーンでの繊細な眼の表情が、 最後のシークエンスに至るまでことごとく素晴らしい。 虎やグリズリーなどの動物たちだけでなく、不動産のセールスマンや検査官や レジの女性など、端役一人一人に至るまでの目配せも実に丁寧だ。 また、巧みなのは印象的な台詞の反復だけではない。 窓ガラス越しに出会うこと。相手に眼差しを返すこと。陽の光を浴びること。 そうした視覚的主題の反復もまた重なり合って、 マット・デイモンとスカーレット・ヨハンソンの表情の切り返し、 エル・ファニングとコリン・フォードの表情の切り返しをより美しいものにしている。 キャメロン・クロウの選曲自体も相変わらず良いのだが、 夜の動物や虫たちの声を静かな背景音として聴かすべき三箇所で 音楽を被せてしまっているのが残念なところ。 引越し前の賑やかな夜との対比は利かせて欲しかった。 [映画館(字幕)] 9点(2012-06-11 22:12:09)《改行有》

472.  ボックス!(2010) 寄り・引き、スローを巧みに織り混ぜたケレン味に溢れるファイトシーンの編集リズムからは、作り手の気合が充分に伝わる。 とりわけ決勝戦2ラウンド目の攻防を延々と捉える、クレーンを使った迫真の長廻しは圧巻だ。 市原隼人と諏訪雅志の優れた運動神経とアクションはもちろん、両者の動きのスピード感と重量感を余さず伝える撮影と、荒い呼吸音と呻きを交えた録音も効果抜群である。 高良・市原のトレーニングのモンタージュや上達過程の描写も、基本的なコンビネーションやディフェンスまで丁寧すぎるほど丁寧に描写を重ねており、説得力がある。 それを体現する二人の頑張りも良い。 また、街の情景を取り入れたロードワーク風景では道行くエキストラや犬とも何らかの形で主人公と絡ませるなど細かな拘りがみられ、『どついたるねん』のようにローカルの匂いをしっかり感じさせ素晴らしい。 なるほど、監督は大阪府出身だった。 ただ部内関係の半端なエピソードや子供時代の回想もくどく、この内容で2時間6分は少々長いが、ラストは爽快だ。[映画館(邦画)] 8点(2012-06-08 01:15:09)《改行有》

473.  テルマエ・ロマエ シネマスコープを効果的に使った、1960年前後の史劇大作風のオープニングでケレンを 利かすかと思えば、一方では矢口史靖的な人形を使ったチープなギャグも軽妙に演出してみせる。 コメディとロマンスも程よく織り交ぜ、スペクタクル・ご当地性・スター性と 雑多ジャンルを混成したシネコン映画的な要請にも器用に沿いながら、 寄り引き巧みな視点や構図、的確なカッティング・イン・アクションといった 安定した技術を土台に、ウェルメイドを達成する。 そしてその上で、独自の演出による細部細部を立ち上げ、自分の作品としている。 そのしたたかさこそ素晴らしい。 湯けむりや炎、水面の光の反射、群衆など、不定形素材の動的細部が映画的であるのは云うまでもないが、 とりわけ浴場の松明、蝋燭の灯り、焚火、窓から入る黄昏の太陽光など、特に夜の場面の炎がことごとく見事だ。 その「燃える炎」は、阿部寛が決死の直訴をする際の秀逸な音の演出として、 そして別離のシーンでの、瞳への照り返しの演出として、 物語の進行に伴い次第に意味を帯びるものとしていくのは作家の手際だ。 雨の降る中、悄然と階段に腰掛ける阿部寛の向こうにソフトフォーカスで捉えられた上 戸彩。手前に歩み寄ってくる彼女に凡庸にピントを合わせてしまうかと思いきや、 それを自制したショットの嬉しい裏切り。 この時点では一方向的な二人の関係性を示す事に専心する、そのまっとうな矜持が光る。 [映画館(邦画)] 9点(2012-06-08 00:54:15)《改行有》

474.  ダーク・シャドウ(2012) 《ネタバレ》 アバンタイトルからベラ・ヒースコートが屋敷内に案内されるまでの流れは、あたかも彼女が主人公であるかのように思わせる展開だが、それは屋敷内の様子と登場人物を効率的に観客に紹介していくためのものであった事がわかる。 中盤からクライマックスにかけて彼女の影が薄くなるため、三角関係のドラマとしては些かバランスが悪くなってしまうのだが、そうした破綻とアンバランスさがバートン本来の病理的であやうい魅力と云えなくもない。 スタジオのしがらみが顕著な前作は、程よくユニークでウェルメイドで小器用で教訓的で無害でしかないが、本作の不健康ぶり・インモラルぶりこそ彼の本領に近い。 愛情と憎悪、煩悩と理性、異質な他者と一般人、その間で分裂するそれぞれのキャラクター。(エヴァ・グリーンの最期の表情の素晴らしさ。) 屋敷内や崖のシークエンスで印象的な、焦点深度の深い映像。(遠近を惑わすヒ―スコートと彼女の肖像画のパンフォーカスこそ、ラストの予告だ。) 伏線や整合性や現実的倫理といった小細工を取り払っているゆえに、作り手の特異な症候とその治癒への試みとでもいうべきものがバートン流「再構築」映画の中で際立つ。 [映画館(字幕)] 7点(2012-06-06 07:51:32)《改行有》

475.  毎日かあさん 《ネタバレ》 ダイニングとリビングの二間、玄関の内と外、小泉今日子の仕事部屋のデスクと奥のドア、透明なテラスの上と下、子供たちが乗るメリーゴーラウンドと手前のベンチ等々。 二つの空間を1フレーム内に取り入れた縦の構図によって奥行きのある立体的な空間を達成している。 その奥と手前それぞれに的確に配置された小泉今日子・永瀬正敏・小西舞優・矢部光祐の4人はロングショットと長回しによって群像としての家族を全身で生きている。 手を繋ぐ、じゃれ合う、抓る、叩く、抱く、と映画的な接触のコミュニケーションも愛情表現として大変豊かだ。 公園でのままごと、ひな祭りの写真撮影など、4人が固定フレームの中で絡む芝居はまさに演技を超えた仲睦まじい家族そのもののドキュメンタリ―の感すらある。 単純な切り返しの会話がなく、複数の人物を極力1つのショットに収め、パンフォーカスによって深い被写界の中で彼らを絡ませることで、個々人の身体はフレームに寸断されることなく、その関係性がより強固に炙り出されるという具合だ。 父のいる海へ行こうと、小さな水色のビニールプールで光る川を下る兄妹の姿の美しさといったらない。 車中での離婚届けへの捺印を挟んで、それまでツーショットで映っていた小泉と永瀬が個々の単独ショットに切り替わるなどといった演出も細やかである。 あるいは、店名の一部である「子」の字の映る飲み屋街のガラス戸。そこに映った永瀬の顔にフラッシュバックの返り血が浴びせられるインパクト。 フェリーニのような人工の川面。 親子が釣りに興じるシーンの少々賑やかな『父ありき』。 藍色の海の豊かな色彩とアニメーション。 工夫を凝らした奔放な発想が随所に挿入され、まったく飽きさせない。 そして、エンディングの「家族の肖像」がまたダメ押し的に素晴らしい。 問われるべきは、原作に忠実か、モデルと相似しているかといった事ではなく、 小林聖太郎独自の映画となっているかどうかだ。 [DVD(邦画)] 9点(2012-05-31 09:22:29)《改行有》

476.  ハンナ シアーシャ・ローナンと、彼女が道中で知り合う少女がテントの中で横になりながら語り合うシーンは、二人が向き合っているはずでありながらカメラに対して二人が同一方向に身体を傾けているという、一般的にはあり得ない切り返しで撮られている。 同じく、走るキャンピングカー内でオリヴィア・ウィリアムズと対話する際もそれぞれ左右の窓際席の切り返しとなるが、 何故かどちらの窓外にも太陽光が輝いているという具合だ。 共に光の加減が見事な画面であり、自己との対話といったニュアンスを仄めかしたのか、ともあれ、整合性を無視した繋ぎをあえて選択している事は間違いない。 前半のICA施設のダクト、中盤のコンテナ置き場、後半の遊園地内といった舞台設定や、随所に現れる円形や回転のモチーフも含めて、映画に夢幻的な迷路感覚を呼び込むよう施された演出の一環だろうか。 縦横無尽の移動を絡めたバスターミナルから地下通路までの超ロングテイクや、太陽光の人物への当て方・屋内人工照明の印象的な用法といったジョー・ライト印の技巧も、その意味では効果を挙げている。 シア―シャ・ローナンの俊敏な疾走と、徒手格闘。そして、ケイト・ブランシェットの凄みは流石だ。 [DVD(字幕)] 7点(2012-05-27 07:24:14)《改行有》

477.  ファミリー・ツリー 《ネタバレ》 意識の戻らない母を逝かせる事が次女(アマラ・ミラー)に伝えられる。カメラは彼女の目に光る涙を見逃さない。幼さを残しながらも、気丈にその言葉を受け入れる彼女の表情。その一連のショットを繋ぐ寡黙で繊細で優しいディゾルブ処理が素晴らしい。 通俗に陥りそうな、親族会議でのスピーチを巧みに省略するのも、親子3人と少年の小さなシルエットがカウアイ島の渚を歩くロングショットの重なりが豊かな情感を醸成するのも、この適切なディゾルブ編集による。 単なるハワイの絵葉書的美観の羅列に陥らせずに、風や波の音と共に自然光を活かしながら、パンフォーカスやロングショットによって人物・自然・ポートレートを同化させる構図もシークエンスと主題を際立たせている。 その極めつけが、父ジョージ・クルーニー、長女シャイリーン・ウッドリー、次女アマラ・ミラーの親子がソファで寛ぐラストショットの一体感だろう。 母の形見の膝かけに包まる三人の真直ぐな視線。その背後にあるランプシェードの灯。額縁の絵。開放的な奥の空間。流れ続ける『皇帝ペンギン』のナレーション。 静かな時間の感覚が父娘の絆を炙り出すようで、秀逸だ。 [映画館(字幕)] 8点(2012-05-24 22:30:44)《改行有》

478.  タイタンの逆襲(2012) 《ネタバレ》 白熱する槍の衝撃などは、ハリーハウゼンのダイナメーションならばそれを持つ人間のリアクションをフルショットで撮って絶妙に表現したことだろう。 単に透過光処理に頼るだけの超常パワー表現にはまるで魅力がない。 『南の島に雪が降る』のニューギニア戦線の兵士たちが、紙製の偽物の雪に感動したのはそれが本物そっくりであったからではなく、あくまで理想イメージとしての雪とダブらせ、尚且つ人間が心を込めて手作りした触覚的な感覚を受け取ったからこそだろう。 前作および本作のCGIクリ―チャ―がいかにリアリスティックでも、1981年版『タイタンの戦い』のダイナメーションのもつ文化的感動に及ばないのも恐らくそれに近い。 キメラやミノタウロスの目まぐるしく「本当らしい」動きと慌ただしいカメラワークは結局のところ魅力的なキャラクターとして、あるいは印象的なショットとしては残ることはない。 アレスとペルセウス一騎討ちの単調な肉弾戦も同様だ。 3Dも含めたテクノロジーの飛躍は刺激と錯覚にのみ向かっている。 CGIが精巧かつ迫真であるほどに当然ながら失われてしまう人工的輝き。 そうしたパラドックスがここにも見られる。 [映画館(字幕)] 4点(2012-05-11 02:02:37)《改行有》

479.  BLACK & WHITE/ブラック&ホワイト(2012) 計算された予定調和的な長回しほど撮影の裏舞台を想像させてしまい、説話にとっては妨げとなりがちである。 『ターミネーター4』でもそれが気取りにも見えかねない逆効果を生んでいたが、本作中盤でリース・ウィザースプーンが自室で音楽に合わせて踊り動き回る中、彼女の視界の外で部屋を物色するトム・ハーディ&クリス・パインの動きを組み入れた縦横無尽の移動長回しなどは、あえて作り手の段取り臭さを誇張したようなユーモアがある。 「荒唐無稽を真剣にやる」というドラマ内容と撮影スタイルが合致した相乗効果もあるだろう。 スタッフ・キャストの息の合った仕事ぶりを見せつけて心地いい。 そうした作り手の熱意を露呈させる長回しも、レンタルDVD店のシーンを始めとする様々な映画ネタも、一種のご愛敬。 それらの無邪気な作為性は明らかにシリアスパートの緊張感まで削いでいるのだが、それも狙いなのだろうから、アクションシーンの雑なカット割りに耐えつつひたすら予定調和を楽しむしかない。 対話劇のテンポ、特にヒロインの親友役:チェルシー・ハンドラーの話術は傑作である。 [映画館(字幕)] 7点(2012-05-05 01:13:32)《改行有》

480.  エッセンシャル・キリング 《ネタバレ》 映画は映画であれば良い。読書ではないのだから。メッセージ(「いいたいこと」)やテーマを伝えたければ論文を書けば良いだけのこと。 文科省の読書感想文による主題論教育に従順に馴らされてきた者は一般的に映画においても画面を味わうことを知らず、まずテーマを読みたがり、そしてそれが自分の理解の範囲を超えたとたん、「芸術」を逃げ口上に使う。よって純粋な活劇はなかなか理解されることがない。 雪の白に擬態し、罠に嵌った犬を囮に使い、木の枝や蟻を齧り、崖から滑落する。 『ランボー』のサバイバルアクションを髣髴させつつ、その『ランボー』がラストにおいて嵌った饒舌な内面心理や社会性といったものも見事に削ぎ落としている。 言語も記憶も時制もことごとく排除され、生物の一次欲求だけが活劇を駆動していく。 代わりにその静寂のラストに訪れるのは『バルタザールどこへ行く』を連想させるような冷厳さだ。 右肩部分に血痕の付いた寡黙な白馬は、主人公(ヴィンセント・ギャロ)が野生へと転生した姿か。 回想シーンの幻聴や様々な状況音(ヘリの爆音、チェーンソー、犬の咆哮など)そして台詞の代わりに主人公の口から漏れる呻き、吐息、咀嚼音といった要素に意識を向けさせられるのもブレッソン的だ。 馬・鹿・犬たちの佇まいと躍動が素晴らしい。特に、ギャロの周囲に群がる犬の集団アクションは圧倒的なスペクタクルである。 [映画館(字幕)] 9点(2012-04-30 22:15:55)《改行有》

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