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【製作年 : 2000年代 抽出】 >> 製作年レビュー統計
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41.  NINE(2009) 《ネタバレ》 冒頭の暗いスタジオ内、パパラッチの追跡を撒いた後の噴水の場面、マリオン・コティヤールの眠る寝室の場面など、ナイトシーンの落ち着いたブルーの画調などは見栄えするが、肝心のミュージカルシーンの細切れ編集はあまりに反射運動的で欲求不満が溜まる。編集効果に寄りかかったまやかしの躍動感はその場限りで、ダンスの画面としては印象に残らない。また構成的にも、中盤の「シネマ・イタリアーノ」などは妻との不和のシーンに前後を挟まれるなど興奮が持続しない。ラストのスタジオ内セットも、舞台的な横位置の構図で奥行きを欠く。縦構図のスペクタクルであった『8 1/2』とは大違いだ。時間表現も不満。寄せる波で二年の空白を表現するが、ダニエル・デイ=ルイスは絶えず画面に映りっぱなしのため、キャラクターの変化が効果的に見えてこない。多少なりとも成長や変化を描くドラマをみせる場合、不在の時間をつくるのが鉄則だと思うが。このため、ドラマはメリハリがなく、映画はエンディングナンバーに到ってようやく高揚する。ラストの掛け声(『ホワイトハンター ブラックハート』だね。)と共にスタートする二度目の「シネマ・イタリアーノ」。劇中では神妙で悲しげな表情ばかりだった女優たちのリハーサルのショットがインサートされ、その本番外の魅力的な笑顔と音楽の融合にようやくほっと出来る。[映画館(字幕)] 5点(2010-04-30 21:45:50)

42.  第9地区 《ネタバレ》 インタビューや実況報道画面、ビルや店舗の監視映像の多用は、メディアが歪める個人の実相といったような何らかの主題に絡むのかとか、後半の追跡劇の中に包囲網などとして活かされるのかと思いきや、単に実録風を強調する為だけの機能らしい。ビルへの突入までを大胆に省略した手際などは良しと思うが、ビルから第9地区までの逃走経緯は活劇の映画として本来アイデアとアクションの見せ場のはず。最も工夫を凝らすべき肝心な危機脱出場面をあっさり流すので拍子抜けさせられてしまう。全体を覆ういわゆる社会派風知性主義がことごとくアクションの邪魔をしているのではないか。後半の戦闘場面になると、今度は実録風としてはあり得ない心理主義的ショット(装甲スーツ内の主人公のアップ等)が連発しバランスの悪さを露呈する。密閉された内部の表情などみせる必要全くなし。片膝をつき、よろけながらも奮闘する外面的動作だけで十分感情は伝わるのだから。ミサイルキャッチのロングショットだけはそれゆえ感動的なアクションといえる。最後はオマージュ的に当然「Watch The Sky」であり、シャルト・コプリーは良い表情で空を見上げているが、豆粒のようなCG群衆が空を見上げている俯瞰ショットと報道ナレーションは今一つ気に入らない。 [映画館(字幕)] 5点(2010-04-19 21:15:08)《改行有》

43.  息もできない 《ネタバレ》 対峙する人物達のすぐ後方あるいは真横に密着する手持ちカメラは同化の効果と圧迫感を生み、勝手口で諍う姉弟の場面の生々しさなど一部では非常に効果を挙げている。が、開巻から延々と繰り返されるカメラの不自然な揺れはあまりに煩わしい。海外市場志向の韓国映画のひとつの傾向というべき主流ハリウッド大作スタイルに対する浅薄な模倣が明白だ。キャメラをぶん回してうわべの迫真とスペクタクルを捏造する撮影にはうんざりする。もっとも、暴力的手ぶれショットがほぼ全編にわたるゆえに、娘と主人公が何度か並び座り、膝枕するシーンでの静かな叙情が逆に活きてくるのも事実だが。フィックスで暴力を冷然と凝視し、絶命の過程を大幅に割愛する小津作品の省略の凄みと過激さ。または北野作品のそれと比較するのは酷か。[映画館(字幕)] 6点(2010-04-10 23:13:21)

44.  牛の鈴音 「農薬を使えばよいのに。」「機械を使えばよいのに。」夫婦間ではとうに了解済みのはずの矜持を、愚痴の形で観客に説明することを強いられる夫婦に同情する。キャメラという権力による暗黙の強要。可哀想なことに、逆説的な自慢に聞こえてしまう。企画段階から当然目論見通りというべき結部も、案の定、安易で破廉恥な品性を露呈させている。穿った見方で恐縮だが、余命一年のはずが予想外に寿命の延びた牛に予算不足のスタッフは何を思ったことか、実に興味深い。三年目にして、臨終が近いと連絡を受けたスタッフ達は「久方ぶりに」「勇躍」、現場に駆けつけたという(解説書参照)。町中で、デモの群衆の前に夫婦の牛車を思惑通りに配置させるいやらしい構図。市場で牛が売れないことをあらかじめ見越した上で、ぬかりなく用いられる感傷的な高速度撮影。埋葬場面に立ち入り、墓穴まで覗き込むキャメラの無節操、さらには媚びと阿(おもね)りそのものというべきBGMの挿入。いずれにもスタッフの醜い打算と邪心を感じずにはいられない。[映画館(字幕)] 2点(2010-04-08 20:36:37)

45.  COACH 40歳のフィギュアスケーター シンプルなドラマなら誠実に正攻法で描けば良いものを、このやたら奇を衒った目まぐるしい編集は何なのだろう。シークエンスを細かく寸断しまくり、無闇やたらにフラッシュバックしまくりで観客に無駄な混乱を与える意義がまるでわからない。このような細切れ編集がスタイリッシュとでも勘違いしているのだろう。人物相関も不明瞭な上、主人公を美しく撮る意気が見えないので当然、キャラクターへの思い入れなども起きようがない。主人公と少女が再会する会場内の位置関係の不明に見られるように、空間把握も不満足。試合場面は、延々と解説者の解説音声を垂れ流すという極めて安易なテレビ的発想に寄りかかる貧困ぶり。悪趣味の極めつけは、彼女を応援する観客たちに、足を踏み鳴らして採点に抗議させるというクライマックスの信じ難い見苦しさだ。やる気のない仕事どころか、積極的な悪意を感じた。[映画館(邦画)] 2点(2010-03-10 19:42:16)

46.  インビクタス/負けざる者たち フランソワ(マット・デイモン)との初対面の場面で、マンデラ(モーガン・フリーマン)が「逆光は苦手だ」と白い窓外を背にするが、作品自体もバックライトは控えめで、全般的に柔らかい順光主体の照明設計が窺える。スプリングボクス否定派が占めるスポーツ評議会の会場玄関に大統領が登場するショットも、一瞬『ダーティ・ハリー4』でのシルエットのような外連味を期待してしまうのだが、そこでもマンデラには順光を当てる配慮が為され、その姿に暗い陰影が落とされることはない。従来の、特徴的な光と闇のきついコントラストはスタジアム会場通路や夜明け前の散歩場面で印象的に用いられる以外、できる限り抑制されている風に見えるのは、モデルへの賞賛と作品がもつ「融和」というポジティブな主題から来るものと理解した。陽性のカメラは、チームが黒人地区で子供たちにPR活動を行う場面では彼らと共に楽しげに動き回りもする。その連帯感に満ちた軽快なカメラワークも素敵だ。視覚効果の技術・用法も相変わらず素晴らしい。エンドロールに載る多数のCGスタッフが最も注力しただろうクライマックスのスタジアムの大群衆などは実景そのもので、まるで違和感がない。適材適所の効果的なCGあってこそ伸びやかなカメラワークが活き、極上のスペクタクルになっている。 [映画館(字幕)] 8点(2010-03-07 17:34:13)《改行有》

47.  カティンの森 《ネタバレ》 パースを活かした縦構図が多用されるが、その突き当たりは移送列車の壁であったり、刑場と思しき地下へと続く階段の暗い闇であったり、濃い夜霧であったりと、見通しは悪く閉塞した空間が充満している。ファーストシーンの橋における右往左往の混乱状況もまたポーランド情勢そのものの縮図であるかのように遠景は展望を欠く。 そんな中、青年と娘が見晴らしの良い屋根の上に登る場面で一時の開放感が訪れる。1ショット挟まれる街の見晴らしが切ない。二人が交わす映画の約束とキスに、『灰とダイヤモンド』の青春像がよぎる。彼が既に前段で「記念写真」を撮るシーンをもつこともまたその後に待つ運命を予感させ、より切実で印象深い場面となっている。その他、日記が途切れ白紙となったページを風が繰るその虚無感。墓地に差す夕陽の淡い光線なども印象的だ。 映画のラスト。犠牲者の手に握られたロザリオと共に、パワーショベルの土に埋もれ、暗溶する画面にレクイエムが被る。地中の暗黒の視点と無音には、飽くまで「埋められる側」に立つアンジェイ・ワイダの矜持と同時に、語るべきことを語った、というような情念がある。 [映画館(字幕)] 7点(2010-02-19 19:40:26)《改行有》

48.  once ダブリンの街角で 《ネタバレ》 路上ライブを捉えるファーストシーンの手持ちカメラの揺れがいかにも即興風を装うのだけれど、次に窃盗男を追いかける場面では付近の店内に飛び込んでいく二人を捉えたかと思うと、次の瞬間にはカメラは二人が飛び出してくるであろう隣の出入り口の方を早くも向いてしまっている。案の定、手筈通りに二人が飛び出して来るのでその予定調和ぶりに一気に興ざめしてしまう。また、楽器店で男女が初めてデュエットする場面も受け容れ難い。カメラは不必要に動き回り、まるで二人の演奏の邪魔でもするかのように二人の直近まで寄りと引きを過剰に繰り返す。この無配慮に振り回されるカメラが煩わしい。といった具合に序盤は撮影面で不満が多いのだが、後半は次第に持ち直してくる。小品の趣ながら、中盤以降はクレーンを使ったショットも計3箇所あり、特にそれらが感情を伴った動きでいい味を出す。いずれも場所はヒロインのアパート前。まず、夜中に乾電池を買って戻る場面では、彼女の孤独感を表すかのようにカメラは上昇し、暗闇の中で彼女の小ささが強調されていく。そして歌っていた歌詞のように、カメラは上昇しながら行き場を失くす。対するラストシーンのクレーンは、ドアから出てくる笑顔のヒロインに俯瞰から真っ直ぐ躍動的に寄せていく。(さらにピアノへ)男の思いの軌跡のように。そして最後のショットは、思いを受け取った彼女のいる窓辺から外の世界への開放的な移動。二人の感応が、それぞれ三様のカメラの軌跡として表現されている。これらのクレーンの運動は美的だ。[映画館(字幕)] 7点(2010-02-15 22:16:17)

49.  海角七号/君想う、国境の南 まず魏監督の来歴から楊德昌のスタイルをつい期待していると、肩透かしを食う。 冒頭のバイクの疾走などはまず『百年恋歌』現代篇を想起させ、風情ある地方部が主舞台となり、日本統治時代の回想が入るなど、どちらかといえば楊德昌というよりも80年代の侯孝賢的なルックを持つ。 序盤の垢抜けないコメディ・パートといい、詰め放題・拡散し放題の生温いドラマ展開といい、劇中でのなかなか結束しないバンドと同様にどうなることやらと最後まで心配になってしまうが、逆にその雑然・混迷ぶりがクライマックスのコンサートの集約感を一気に高め、高揚させる。 それまでの丁寧な人間関係描写あってこそ個々のメンバーの合奏が魅力を持つものになっている。 複数の世代、国籍、生活言語が共存する齟齬が生み出すドラマの実感、夕日に染まる漁港を始めとする美観にバイクの運動を組み合わせた情景ショットの見事さなど、徹底してローカルに拘ったゆえのヒットは肯ける。[映画館(字幕)] 6点(2010-02-11 20:44:27)《改行有》

50.  戦場でワルツを 「曖昧な記憶をたどる」ドラマと、「くっきりはっきり」細部まで鮮明なタッチのアニメーションは違和感、大である。主題と形式が噛み合っているように見えない。シンプルに黒くつぶした人物の影が記憶の暗部を仄めかすのは了解するが、描画の細密さが逆にイメージの広がりも損なっているように思う。輪郭をぼかしたノルシュテイン風のタッチこそこの映画にはふさわしいのではないだろうか。動画が抑制的である上、技法的必然性が感じられないこともあって、総じてアニメーションとしての印象度は薄い。結果的に実写のインパクトを強調するための便宜的な引き立て役として機能してしまうのだから、尚更だ。 [映画館(字幕)] 5点(2010-02-08 19:32:33)《改行有》

51.  パブリック・エネミーズ 捜査本部内を歩くジョニー・デップの表情とその主観を捉えたスローモーションの何ともいえない浮遊感覚、彼の顔を白く照らし出す日差しの感覚が、どことなく『ヒート』でトンネルに入った車中のロバート・デ・ニーロを包みこんだ悲劇的な光を思い起こさせる。(無論、映画館内で彼を照らすスクリーンからの照り返しも。)ロッジでの銃撃戦や、マリオン・コティヤールと向かい合う砂丘の場面などで強烈な印象を放つ夜間の特異なライティングも、光源が不明ゆえにどこか超現実的な感覚を画面にもたらす。そのコントラストによってさらに深さが引き立つ漆黒の闇。銃撃戦の中、冷え込んだ林の中にたち登る夜霧の峻厳かつ夢幻的なショットはとりわけ素晴らしい。一方で、日中場面はネイサン・クロウリーによるセット・デザインと実景の迫真性が活きる。20年代を扱った『チェンジリング』にもCG処理による街並みのショットがさりげなく用いられたようだが、この作品はほとんど二次加工なしではないだろうか。脱獄時の暗く狭い通路、銀行前の通り、ところどころ残雪のある隠れ家、映画館前などの臨場感が見事である。[映画館(字幕)] 8点(2009-12-23 18:08:52)

52.  宇宙戦艦ヤマト 復活篇 ロクに動かない、ほぼ一枚絵(「非アニメーション」)で表現された覚束ない野生動物の動き。要するに、観察力も作画力もなく、チェックシステムも機能していない。CG主体のメカニックアクションや、爆発描写には嬉々として拘る一方で、人間・動物のアクションはまるでダメという、アンバランス極まりない主流現代型日本アニメーションである。人物の動作は最小限、ほとんどがバストショットあるいは正面と横顔のアップで、単純な目パチ・口パク・頷きで間を持たすバリエーション。いかにもメッセージ・テーマを最優先させる典型的省エネ作品だ。個々のショットの豊かな活劇性を重視する宮崎監督型の対極。(手書きのタッチに拘った最新作とも好対照だ。)例えば、主人公の艦長が娘を残骸の下から助け出す作画の貧弱さ。宮崎監督ならば、腰をかがめ梃子を押し上げる渾身の動作をより力感をもって演出し父娘の感情表現に結びつけるだろうし、生存者を探す動作も忘れまい。何よりも上述した動物のアニメーションに対して絶対に手抜きしないだろう。この映画が一応掲げているらしい「地球賛歌・生命賛歌」の主題を提示する、本来なら最も重要な場面のはずなのだから。正に画面は正直で、この映画の謳うテーマが心にも無い取ってつけたようなものだから、肝心の場面で心のこもらぬ「動かない動物」の絵と成り下がる。[映画館(邦画)] 2点(2009-12-22 23:01:43)

53.  2012(2009) 従来より、監督としてよりもプロデュースの才の際立つエメリッヒ作品。広く浅く、最大多数の国際市場に配慮した人種・世代・階級・業種の多様な配置は鉄則通り。出資出演協力の政・産・軍への律儀な配慮もぬかりない。よってドラマパートはひたすら無難かつ平板ながらも、米軍自体が街を破壊しまくる『GODZILLA』のような毒も随所で垣間見せてくれて面白い。あるいは、登場人物に感情移入させかけたところで即物的な死を与えてしまう意地悪い資質。地割れ・噴煙・津波との追っかけ(水平運動)と、ビル崩落・火山弾・絶壁・舷側のサスペンス(垂直運動)を組み合わせた縦横の活劇のひたすらな連打は、2001年に起きた「映画のような」事件(9.11)の映像とそれ以降の表現自粛に対する「映画」の挑戦でもあるかのようだ。『デイ・アフター・トゥモロー』(2004)の時点では「倒壊」を自主規制せざるを得なかったエメリッヒの本領発揮といえる。[映画館(字幕)] 7点(2009-12-16 19:15:03)

54.  倫敦から来た男 映画冒頭の、雨に濡れて反射する波止場の路地の美しさが印象深い。『ヴェルクマイスターハーモニー』でも俯瞰位置から下降して奥への縦移動であったり、長い横移動から被写体への回り込みであったりと、そのショットの長さ以上に複数の移動を組み合わせた時空間提示の冷徹かつ複雑精妙な様が映画に不穏で不気味な印象を与えていたが、そのテクニックは本作のノワール・スタイルにも見事に合致している。ここでは強風の叩きつける岸壁の道を歩く三人を前進移動で追い復路を後退移動で捉えるという、前作での凸凹石畳以上に難易度の高いロケーションでの移動撮影も展開され圧巻である。また制御室の窓の内外を縦横無尽に行き来するトリッキーなカメラ転換や、BGMと思われた音楽が画面内での演奏であることを判明させるカメラ移動などは、観客の意表を衝く演出でもあり全く飽きさせない。船の両岸を交互に移動し人物を正確無比な構図とタイミングで捉える長廻しなどは、前作同様に予定調和の印象を持たせなくもないが、女優の涙までコントロールしてしまう技量はやはり驚異だ。[映画館(字幕)] 8点(2009-12-14 21:37:41)

55.  イングロリアス・バスターズ テーブル上の一点を浮き上がらせる不自然なスポットライト(第一章の屋内場面や第四章の地下酒場の場面)、背後からのライトで俳優の輪郭線をまばゆく浮き上がらせるアクセントの利いた画面(第五章のメラニー・ロランの化粧場面など)は、撮影ロバート・リチャードソンの真骨頂。真上からの俯瞰を組み合わせたドラマティックな移動撮影や、しかるべき見せ場において抜群の効果を発揮するクロースアップの仰角ショットなど、変化に富んだアングルと構図も映画のエモーションを増幅する。映画館の踊り場、梯子、床下、地下酒場、映画内映画の鐘楼など、垂直構造を活かした舞台設計の巧さゆえである。各ショット自体の素晴らしさもさることながら、主に4箇所で用いられるスローモーションの効果、地下酒場における銃撃戦の細かいカット割りといった編集の緩急も見事だ。 役者でいうなら、やはりクリストフ・ヴァルツが圧巻である。限定空間かつ椅子に座っての演技が主ながら、表情と手の所作のみで優れて活劇的な画面を作り出している。演劇における転調のタイミング・音楽的なエロキューションがとても素晴らしい。[映画館(字幕)] 9点(2009-12-13 13:02:54)《改行有》

56.  スペル ヒロインが通勤する車の中で「round」「around」の発声練習をする登場場面は、農家出身でキャリア志向である真面目な彼女のさりげない人物描写でもあり、この後「開いた口」に執拗に襲い掛かる災いのささやかな予兆ともなり、さらにコイン・ボタン・ケーキ・円卓などの円形や様々な形で登場する「hole」、周回するキャメラといったモチーフにも遠く連関しているといえる。そうした何気ないながら一貫した細部もまた、メリハリのあるストーリーテリングに寄与している重要な要素だ。風やノイズ音、影やミラーを程よく用いた恐怖演出、等身大の女性像を造形するエピソード群とクロースアップ挿入の効果が生む彼女への感情同化作用のねらいも非常に手堅く、巧い。随所のコミカルな味付けも絶妙だ。(個人的に最も可笑しかったのは、あのスケープゴート(山羊)のとぼけた表情。)また、この映画でも列車の往来が世界を分断しているのが興味深い。 [映画館(字幕)] 7点(2009-11-21 22:37:52)《改行有》

57.  10話 デビュー作『パンと裏通り』から一貫して登場する曲がりくねった路地の情景。フロントガラス部に固定されたカメラが捉える運転席・助手席の人物の何気ない所作や表情が素晴らしいのだが、その人物の背景を目まぐるしく、あるいは緩やかに流れていく車窓外の変化に富んだ光景もまた、本作を「映画」たらしめる重要な要素といえるだろう。固定カメラゆえに、観る者は二重フレーム(カメラと車窓)外の空間的広がりと奥行きを常に意識せざるを得ない。また、時間や進路の変化によって様々に推移していく陽光・夜の繁華街のネオン光など、予期不能な美しい光が座席の人物に投げかけられ、奇跡的とも呼べる一瞬間ごとの表情の素晴らしさが画面上に掬い取られている。一見、極めてシンプルな構成でありながら、画面上の豊かで複雑な移動感覚と、スリリングな対話の活劇性とサスペンス性によって終始画面から目が離せない。[CS・衛星(字幕)] 10点(2009-11-08 19:36:27)

58.  パンドラの匣 不整呼吸の固パン(ふかわりょう)を安静させる夜の場面、停電した道場の場面全般、看護婦長・竹さん(川上未映子)が床磨きをする薄明の場面など、薄暗い場面が単に薄暗く不明瞭なだけでことごとく見栄えしない。特に固パンを安静させた竹さんが小さく欠伸する横顔のショットなどは、主人公ひばり(染谷将太)が彼女に惚れ直す場面であり、何度も回想されるショットだけに尚のこと照明術を駆使して彼女の魅力を引き立てるべきだと思う。日中の窓外を青白く飛ばす趣向も、無意味に人物を逆光で潰す結果にしかなっていない。マア坊(仲里依紗)との布団部屋の場面に見られる特異なアフレコ効果や、独特の言い回しを用いたリズミカルな会話劇など、音声面での技巧への拘りは窺える一方、画面の、特に照明効果に関する無頓着が惜しまれる。エンディング・ロールの集団スローモーションはとても素晴らしい。[映画館(邦画)] 5点(2009-11-03 21:01:37)

59.  ヴィヨンの妻 ~桜桃とタンポポ~ 戦中戦後の時代を背景として夫婦間の機微を描いたドラマは必然的に成瀬作品との親近性も感じさせ、それらは美術セットの再現力や、役者の存在感のみならず、並び歩き、振り返り、借金額、風・雨といったさりげない成瀬的なモチーフにも微かにうかがえる。面会室で遠くに響く汽笛の音、高架下の列車通過音、弁護士事務所の時計音、浅野忠信と広末涼子が心中を図る山中の水音など、静寂を意識させる微妙な環境音の演出が、単調になりがちな固定ショットにリズムを与え、松たか子の働く居酒屋や、列車車両の場面などに差し挟まれるガラス窓越しのショットが愛憎ドラマに客観的なバランスを取らせている。狭い台所・居間・客席の構造が面白い呑み屋(椿屋)のセットや、侘しさ満点の夜間照明、節度あるCGの利用法なども良い。 [映画館(邦画)] 7点(2009-11-01 13:37:16)《改行有》

60.  サブウェイ123 激突 《ネタバレ》 『エネミー・オブ・アメリカ』においても、通過する列車の向こう側に渡る事でジーン・ハックマンとウィル・スミスが追手を撒く一場面がある。列車の車線を越えたとたん、二人は暢気に口論を始める。列車の流線が遮断する事で全くの別空間が現出する感覚。この映画でも、列車の車線を越える事が大きな意味を持つ。一旦、犯人グループと直接対峙したデンゼル・ワシントンは車線を越える事で彼らから逃れ、マンハッタン橋で再び車線の向こう側へ越える事でジョン・トラボルタと再び相見える。(中盤で一旦は出会う二人だが、同一列車内の二人は構図上、二つの窓枠(フレーム)で分離されている。また、終盤で車線を越えない警官たちは全く空間を異にし、彼ら二人に近づく事が出来ない。)その境界となる地下鉄列車は、トニー・スコット作品に特徴的なフレーム内メディア(各種パネルディスプレイや暗視スコープ、監視映像など)と通底しており、地下内の暗闇に浮かび上がる列車の明るい車窓はまさに重層的なスクリーン内スクリーン(映画)である。このメタファーは、エンディングロール後まで含め、列車の疾走がフィルム映写を模した形で頻繁に映し出されることで容易に仮定できるだろう。スクリーンという断面を越えることで始めて、実体と相見えるという『デジャブ』的主題がここでも反復されている。[映画館(字幕)] 6点(2009-10-07 21:07:31)

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