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性別 女性
ホームページ http://ameblo.jp/cluttered-talk/
自己紹介 After shutting down my former blog, I'm writing some boring stories at new site. Anyone who's interested in, come along if you'd like to.

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141.  実録ブルース・リー/ドラゴンと呼ばれた男 《ネタバレ》 どうせブルース・リー礼賛の幇間映画であろうとタカをくくっていたが、そうでもなかった。 これは、ブルース・リーの「アメリカの友人」たちが、彼を偲んで作ったというところで、不名誉な事実でも排除しないというドキュメンタリー的視点が盛り込まれているのであろう。 というか、ブルース・リーはアメリカにしか友人は居なかったようだが。彼がいかにして「アメリカにしか友人が居ない」人生を歩むに至ったのかが、幼少期から丁寧に説明されていて、私にすら「人間ブルース・リー」の実像が見えてくる。 彼は、注意欠陥多動障害(ADHD)であったのだと、私は確信した。そのため、幼少期から問題が絶えず、ついには家名の恥になるからと10代後半でアメリカへ追い出されたのである。ADHDを持つ人は、打ち込むと尋常でない集中力を発揮するから、長じて芸術面で功績を残したり、俳優で成功することも多々あって、トム・クルーズもそうだ。トム・クルーズは識字障害まであった。 実家ではお坊ちゃん生活をしていたブルース・リーは、170センチしかなくて中国人であるためアメリカで散々つらい思いをする。比較的若いうちにアメリカの文化に取り込まれた彼は、「アメリカのタフガイ」を真似て生意気な態度・言動が身についてくる。これは死ぬまで変わらなかった。 もともとは自分の悪い素質が原因で故郷から拒絶されて出てきたわけだから、彼はアメリカで定着しようとカンフー教室を始めたりTVドラマに出たりする。 そして、自分の子供は少しでも「背が高くて彫りが深くて白人風」に生まれるように、「金髪碧眼」の白人女を嫁にする。 アメリカで役がつかない彼はコバーンの助言で香港に戻り、映画に出てスターになったあとは、トントン拍子の人生なのだが、ここで「すっかりアメリカ人になったかのようなブルース・リー」の負の面がはっきり出てくる。妻公認で別の女を作る。これは一夫多妻ということなので、所詮彼は東洋人であることを証明しているようなものだ。近親憎悪により中国人を軽蔑し、気に入らなければ脅す。 ブルース・リーは、若くしてアメリカへ放り出されたために、「アメリカ人(とくに白人)になりたかった中国人」として生き、死んでいったのだ。 運命は皮肉で、「白人風」に生まれた息子は28歳で事故で死に、「白人になりたい」という彼の夢は完全に消されたのだった(正確には娘はいるらしいが)。[CS・衛星(字幕)] 8点(2008-12-05 11:07:59)《改行有》

142.  ミスト 《ネタバレ》 あんな陳腐な怪獣を出しておきながら、「トホホなB級パニック」にならずそこそこ見ごたえのある人間ドラマに仕上げたというダラボンの手腕はさすが。 主役のトーマス・ジェーンという変な名前のスティーブン・セガール似のタフガイは、パトリシア・アークエットのダンナだそうだが、この起用にはとても疑問がある。…その理由はおいおい以下に。 煽動や群衆心理の恐ろしさとか運の問題とかいろいろあるが、私は隠されたテーマがあると思っているのでそれだけ書きたい。 息子のビリーの描き方は、ちょっとヘンじゃないか。7歳か8歳の男児にしてはまるで無力なペットのごときで「?」と思わざるを得ない。いくらなんでも、「意図的」なものを感じるわけです。 ドレイトンはNYなどで認められた芸術家のインテリで、ブルーカラーの地元民(たとえばジム)からはイヤミに思われている。選挙では必ず民主党に入れるようなリベラルな人物として描かれているわけです。その息子のビリーは親から「伝統的なマチズム」を求められていないし、そのように育てられていない。ドレイトンが息子に求めるのは「のびのびと」とか「個性」とかいうものだったでしょう。ですから、ドレイトンはセガール似のタフガイではイカんのです。 その教育の結果、有事にビリーは怯えることしかできない。この姿は、従来アメリカ人の男の子に求められてきた姿とはかけ離れているわけです。 そして、ラストの心中は、この「腰抜けのビリー少年」が引き起こしたものなのです。 ドレイトンは同乗者は行きがかり上殺したまでで、「決して怪物に僕を殺させないで」という息子との約束を守るために、「寝ている息子を」撃ち殺した、なのですから。 さて、「フツー程度にマッチョなアメリカ人の親父」に育てられた男の子なら、こんなふうにパパに頼んだでしょうか?そして、この有事に、恐怖のあまり寝てばかりいるでしょうか? もしもビリーがこれまでに怪物と闘うパパを励ましたり、「僕も手伝うよ」とか「必ず助かるよ」とか「まだ希望はあるよ」とか「ご飯が食べたい」とか、一言でも言っていたとしたら、ドレイトンは息子を撃ち殺したでしょうか? 私はそうは思わない。原作はどうなっているのか知らないが、息子を「腰抜け」に育てたのはドレイトン本人であり、リベラルが裏目に出た結果である、という皮肉な構造になっているのだと思います。[DVD(字幕)] 8点(2008-12-04 18:05:51)(良:4票) 《改行有》

143.  カポーティ 《ネタバレ》 原作のことはほとんど忘れてしまいました。 ホフマンの演技に沿うならば、カポーティというのはスノッブで軽薄なヤッピーを「演じている」成り上がりのゲイだった、ということになる。 彼は作品のためなら他人を平気で利用し、嘘をつき、必要なら賄賂も使い、出版社からも抜かりなく金を引き出す。作家としてプロとして完璧だ。 そんなカポは一家4人殺人犯という「極悪人」を「同じ家で育って裏口から出て行ったやつ」というふうに認識して会いに行くわけです 彼は「最悪の冷血」のなんたるかが知りたい。正体が見たい。そして、彼の目的は「スミスに事件の詳細と動機をしゃべらせること」となり、ひたすらその「お宝」に焦点をあててカポの人生は集束していくのです。 何年もの努力や嘘の甲斐あって、ついにスミスは語ります。「動機は金」「殺したのは相手も殺されると思って怯えていたから」。…。 この時点でカポの頭は点になってしまったでしょう。殺したのは、「すでに仲間と強盗に入ってしまった」という事実と「相手が怖がっている」「自分は凶器を手にしている」という「お膳立て」が揃っていたから、だというのです。何年も待ち望んだ答えが、「ゼロ回答」だったのだ。 というか、スミスという男は「悪魔」というほど立派なものでは全然なく、ヒコックもそうで、カポにとっては「お宝を求めて飛び込んだら、中心部は空洞だった」というようなもの。 「悪魔のような所業」が「ぜんぜんしょぼいチンピラ」によって「成り行き」で行われたという。それはどういうことなのか。4人も惨殺した犯人がそうでなかったのなら、ではカポの求めてきた「ホンモノの悪」「最悪の冷血」はいったいどこにいるというのか…。 そして「悪魔の正体」が見たくて今までカポがしてきた二枚舌外交はなんのためだったのか。それに騙されて「アミーゴ」と呼んで死んで行くスミスに対し、どんな落とし前がつけられるというのか。「僕の見込み違いだったよ。求めていたのはキミじゃなかった。」などと今さら言えない、死刑の前に。 目の前には、死刑を前にしてカポを気遣う「成り行きで死刑囚になったしょぼいチンピラ2名」、そうして、カポは情けなくてむなしくて泣くしかない…。 カポは最期まで嘘をつき、スミスたちは感謝したまま死ぬ。やつらこそ「冷血」のはずなのに、まるでこれではカポが糾弾されているように見える。…。[DVD(字幕)] 8点(2008-12-03 20:13:22)(良:2票) 《改行有》

144.  ノーカントリー 《ネタバレ》 最近急に陽が当たってきたジョシュ・ブローリンです。その昔「ナイトウォッチ」というユアン・マクレガー主演のサスペンスがありましてー、ニック・ノルティのブキミさが光る隠れた名作ですが、ジョシュは「遊び人で女たらしの大学生」という(本当です!)脇役で出演。私はこの役のジョシュに惚れてしまったのです…。 その後鳴かず飛ばず。バホ作「インビジブル」で再会したときにはすでにオヤジ化が進んでおり、かつての面影もなく…。 そんなジョシュにツキが回ってきたらしい!ジョシュよかったね! で、モスの義母の墓標によるとこれは1980年の話です。なぜ80年なのでしょう。 「己の能力を過信する男」モスのその「過信」の根拠は「戦争経験」であるということで、妻は「なんでも自分ひとりで出来る人なの」と言っています。 それではこの目を覆うような暴力の数々の原因はすべてベトナム戦争だと言っているかというとそうではなくて、たとえばシガーは「20年間コインで人生を決めてきた」のだから、違うでしょう。また、1909年にベルの叔父を玄関先で撃ち殺したのは「インディアン」です。…そう、遡ればその国の成り立ちからして「もともと暴力じゃん」なのです。 さてシガーというのは「オーガの体を持ったターミネーター」のように意図的に描かれていますが、それはホテルの部屋で自らの治療をする場面などで明らかです。 彼は邪魔な人間は殺し、特に邪魔じゃない人間は殺すかどうかコインで決めます。感情がないので殺すかどうか決められないからです。 が、一人だけ彼に有無を言わせなかった人間がいますね。トレイラーパークの管理人のオバさんです。シガーに対して全く恐れを感じておらず、自分自身についてなんの迷いもない、オバさんなのです。ということは逆の場合は危険なのです。 ベルが死刑にした「感情のない殺人者」の生き延びた姿がシガーであり、1980年に「暴力から抜け出せないこの国のありよう」を嘆いていた「オールドマン」たちは、2008年の今、みな死んでいる、それが「1980年」ということです(たぶん)。…そしてもう嘆く人たちはいなくなった、のです。 冗長に感じるほどの淡々とした描写と、ギリギリまで省略したテンポのよい場面のアンバランスに少々難を感じます。が、コーエン兄弟の実力を感じさせる一作。[DVD(字幕)] 8点(2008-11-29 16:16:51)(良:1票) 《改行有》

145.  真実の瞬間(1991) 《ネタバレ》 メリルという架空の人物(たぶん)を通して、マッカーシズムが人権を無視して人々の幸福を侵害したという事実の再確認と記録を行うとともに、圧倒的な国家の暴力に対して個人がどのような姿勢で生きるべきかという普遍的な課題を二人の子持ち男性を対比させることで描いている。 第二次大戦後、特定の思想信条を仮想敵と見立てた大規模な弾圧は中国(文革)でも日本(レッドパージ)でもあったことだし、マッカーシズムについてアメリカという国の特性が生んだ暴力という決め付け方は私はできない。告発された人の中に実際にスパイが含まれていたらしいので、マッカーシズムの功績はゼロとはいえないのであろう。 しかし、映画「マジェスティック」やこの映画で描かれているメリルや周辺の人々の味わった苦難は明らかに行きすぎ、暴力であるのだがこの時点では誰も止めることができなかった。 それで「個人」対「圧倒的な国家の暴力」の問題にもどるわけだが、メリルとラリーという二人の父は「優先順位」を決めなければならぬという究極の選択を迫られ、正反対の行動を取った。 メリルはもともと仕事優先でそのために離婚までしている。「映画バカ」という言葉がぴったりの男で、我が子に淋しい思いをさせるのは辛いが、仕事を犠牲にすることだけはできない。 が、そんな彼にも仕事より大事なものがあることがこの事態で判明してしまった。友人や知り合いの名を売ることがどうしてもできなかった。 干されたメリルが、仕事恋しさに苦しむシーンをデニーロが熱演している。一日だけの身代わり監督であっても、現場に立った彼が水を得た魚のように生気を取り戻す姿は見事。 いっぽう、メリルを売ったラリーは妻を失い息子から母親を永遠に奪ってしまった。ラリーの選択は「子供と仕事」であった。 この後メリルは短期間刑務所に入り、その後10年以上仕事が出来なかったであろうから、メリル一家の生活は嫁頼みで細々と営まれることになる。 ラリーは罪の意識に苦しめられながら、いずれ再婚でもして映画界で生き残り、時折非難されても耐えて生きる。 そんな二人の息子たちが、どんな大人になったのか、父が息子に与えたものはそれぞれ何だったのか、冒頭かラストで息子たちの邂逅シーンがあってもよかったのではと思う。 海外脱出役でのスコセッシ出演がご愛嬌。[CS・衛星(字幕)] 8点(2008-08-01 13:52:28)(良:1票) 《改行有》

146.  善き人のためのソナタ 《ネタバレ》 ヴィースラー大尉はおそるべき無私生活者で、家族もなく、その住み家も生活感のないホテルのような部屋だった。唯一の趣味は仕事、規律に従うことを何より重んじ、曲がったことが許せない。そんな彼の生きがいは他人の嘘を暴くこと。嘘を暴き、秘密を告白させることすなわち他人に勝利する瞬間である。そうしてヴィースラーは他人に勝ち続けているので、私生活が無くても精神の均衡を保てた。 けれどドライマンの盗聴という、他人との直接対決無しでの秘密の収集作業は、ヴィースラーの精神状態をおびやかした。盗聴によって秘密を知りえても、彼には勝利の味も達成感も他人を組み敷いた優越感も感じられなかった。彼は尋問によって喜びを得る人間として成立していたため、盗聴向きの人間ではなかった。 子供とボール遊びをし、美人女優を恋人にし、誕生日にはパーティーに人が集まり、友人たちの心配をし、気が向けばピアノを弾く。そんなドライマンの生活と、暗い屋根裏で盗聴機器に囲まれ何時間も過ごしたうえ、誰も居ない無機質な部屋に帰りデブな売春婦(しかもショートタイム)しか相手にしてくれないヴィースラーの対比が見事である。二人は陰と陽。光と影。 私の解釈では、ヴィースラーは政治的に共感したというよりはドライマンたちを家族のように感じ、彼らの一部として関わってみたくなったのである。 その序章として、バーに入ってきたクリスタに話しかけてしまう。ドライマンの代わりに忠告してしまう。あげくは彼らの代わりにタイプライターを隠すところまでエスカレートする。 私はヴィースラーのとった行動を、レジスタンスを助けたというようないわゆる「いい話」レベルには考えたくない。これはもっと、純粋に個人的な問題なのだ。 ドライマンがヴィースラーを問い質したとて、彼は決して真実を語らなかったと思う。だからあのようなやり方で謝意を示したことは、リアリティにこだわる意味でも映画のしめくくりとしても最良であった。 ひとつ残念なのは女性の扱いで、女性はクリスタしか出てこないというのに彼女は薬物依存で他の男とも寝るうえ、最後は秘密を暴露して恋人を窮地に陥れるという、甚だ情けない人物としてしかも死んでしまうというところ。それならばー、せめてもう一人、頼りになるマトモな女性を出して比較させるべき。「だから女は信用できない」死んで償え、で終わるのは納得いかない気がするぞ。[DVD(字幕)] 8点(2008-07-28 19:23:38)(良:2票) 《改行有》

147.  おわらない物語 アビバの場合 《ネタバレ》 別々の役者が同じ人物を入れ替わり立ち代り演じる、という場合には、誰が演じてもそれは間違いなく「アビバ」である、というくらいに脚本中で「アビバ」が人物として成立していることが必要です。この場合は「無垢である(モラルをもたない)」というのが共通項となっているようです。 原題が「回文」なのですが、アビバの名前はもともと回文だから「行って戻る」、ですが、変態小児性愛者兼ヒットマンのアールは死の直前に「本名はボブ」と言います。これも回文ですから、この時点で「先に進んでいると思ってるようだけど、実は折り返し(この先同じ)だよ」という意味だと思います。ラストで、ユダがなぜだかオットーに改名しますが自分で言っているようにこれも回文なので、「最初に戻った」なのだと思う。 アビバの堕胎児は女の子でしたが、なぜ性別をはっきりさせているのかというと、アールに誤射されて死ぬのもフライシャー医師の娘だからですたぶん。「回文」なのだから、アビバの堕胎児とフライシャーの娘が対比関係にあるのです。そして、フライシャー狙撃についてのアビバの態度は、事前も事後も全く罪悪感がなく、ないどころか「やれ!やれ!」「アールは何も悪くない」というものですから、殺人に加担しています。ということは、対比関係から考えると、堕胎で殺された女の子についても、アビバは殺人に加担しているということを示しているのだと思う。 家出したアビバはきれいな場所も汚い場所も通って、水のように流されます。けれど、流れ着いたところは元の場所。「母になる」という計画も全然進まないまま。 そしてパーティーでマークが運命論を語るのですが、この、マークとの会話をする女優がなぜジェニファー・ジェイソン・リーであるのか、これは偶然ではないと思います。 「アニバーサリーの夜に」で、母親になるのが怖くて夫に隠れて堕胎したのは誰でしたっけ?ソロンズは、ラストに来て「生殖能力の有無を別にしても、アビバは本当は母親になる気が無いのだ」ということをジェニファー・ジェイソン・リーを使うことでほのめかしているとしか思えない。実際にアビバは殺人に加担していることになっているし。 それでも「希望」という問答無用の言葉を頼りにオットーとの不発なセックスに励み、満面の笑顔で「いつかきっとママになるわ」のラスト。果たしてアビバの言葉は「欺瞞」といえるものなのでしょうか。[CS・衛星(字幕)] 8点(2008-07-07 15:00:40)(良:1票) 《改行有》

148.  パンズ・ラビリンス 《ネタバレ》 悪の化身のように描かれている大尉側の事情でちょっと考えて見ますと、「立派な父」は死ぬ際に時計に時間を留め、息子にこれを遺した。これはどういうことかというと、「オレと同じようにおまえもいつか必ず死ぬぞ」という呪いをかけたということですたぶん。 「いつか死んでしまう」ことに激しい恐怖を抱きながら残りの人生を生きろ、というのが父の呪いだったのですね。だから、他人に時計の事を聞かれた大尉は「時計なんて知らない」とウソをつきます。 「いつか死ぬ」ということに対して、知らないフリをしていたい、という意味です。 呪いをかけた父は、「悪い父」です。では、「良い父」はどこにいるかというと、地上にはすでに居なくて、命を失ってからでないと行けない地下の王国に居る。 一方で、「母」なるものはどうなっているかというと、「弱い母」は原始的な生き方をする母です。 美しさで男性を引き寄せ、セックスをさせて妊娠することによって、恒常的な男性の庇護を得ようとする、それが原始的な生き方です。実は大尉はそんなことわかっていて、罠にはまったふりをしていますが、目的である息子を得るまでは騙されたふりをしているのです。そして、「弱い母」の罠をとても憎んでいます。これが「女性嫌悪」です。本当は女の股などから生まれたくないが仕方ない、ということです。大尉が子供のオフェリアをためらいもなく射殺する場面では、これが強くあらわれています。 「弱い母」だけが登場するかというと、そうではなくて「強い母」メルセデスがいます。彼女は「意思を持った母」で、「悪い父」と戦います。正確に言うと、悪い父に呪われた男とです。 オフェリアは父なるものの庇護を受けられず、かといって「弱い母」に教えられた生き方もしたくない。「強い母」と一緒に戦う道を選ぼうとしますが、〝この時点では(内戦の時代)〟それは適わず最終的には「良い父」の待つ王国へ行く。 「呪われた男」大尉が最期にしなければならなかったのは、自分の息子にも呪いをかけて、「呪いのチェーン」をつないでいくことだった。けれどそれは「強い母」によって、阻止されます。 女性を嫌悪する男が意思を持った女に敗北した瞬間です。 スペインにはこの後も「良い父」が存在しない時代が続いたようですが、デルトロは「強い母」の存在を強調していますからスペインというのはそれで「もっている」国なのかもしれません。[DVD(字幕)] 8点(2008-07-01 16:50:08)(良:3票) 《改行有》

149.  阿弥陀堂だより 《ネタバレ》 映画が料理だとすると、ここに使われた食材はすべてもともとが「生」「死」「癒し」なのである。「他のものが一切入っていない料理」という、ある意味珍品といえるかも、のメニュー。例えば、「憎しみ」「妬み」「嘘」「偽善」「怠慢」などはこの映画のどこを探しても出てこないでしょう。 ということで「いい人しか出てこない」というより、「3つの要素だけで作ってある」なのだ。 「仕事」というのは「他人の要求に応えることである」と言ったのは橋本治。そして、「他人の要求に応えすぎる」と、人は「消耗」する。たとえ他人の死を見取りすぎたという特殊な職業下でなくたって、「他人の要求に応えすぎる」のは不健康なことで、職業としてであっても「消耗」は避けられない。私はそれが身にしみてわかる。美智子先生の置かれた状況がよーーくわかる。 村に着いても、最初は発作も起こして「これで診察できるのかいな」という頼りなげだった美智子先生が、次第にキャリアウーマンぶりを取り戻してバリバリになっていくのがおもしろい。比べてダンナのほうは一貫して同じペース。いいかげん寺尾は見飽きたけれど、孝夫役は彼でなければならなかったというのはうなずける。 さてこの村の人々がいたずらに死を恐れず穏やかに生きているのは、梅さんの存在ゆえである。 死んだ経験のある人は誰もいないので皆「死」が怖いのだけれど、「限りなく死に近いところに生きる梅さん」の存在によって、人々の「死の恐怖」は緩和されることになる。昔の船旅に不可触の人柱を乗せたように、梅さんは「不吉なもの(死穢)を全部引き受けてくれる」身代わりのような存在だ。 よくできたシステムだと思うが、このような存在は昔は賤しまれていたのではないかと考えるのが妥当だ。最も卑なる聖=アンタッチャブル=有形無形に疎外(隔離)する、というのが日本の文化だ。 映画ではそんなことはみじんも描かれないが、私は「梅さん=アンタッチャブル」という意識で見たほうがいいと思う。それで初めて「なぜ一人であんな便所もないところに住んでいるのか」「なぜ家族の訪問が無いのか」「人が死んだ時しか村人が訪れないのはなぜ」などの疑問が解ける。 偉すぎるニョーボの亭主であるというのも実は努力と技術が居るのでバカにしたもんではなく、どんな男でもなれるというものではありませんね。たまにはこんな珍品も、の一作。[CS・衛星(邦画)] 8点(2008-06-30 13:48:28)(良:1票) 《改行有》

150.  推定無罪 《ネタバレ》 シドニー・ポラックの追悼放送。 しかしオチ割れの状況で見直してみると、妻の態度がソラ恐ろしいこの作品。法廷ものとしては、個人ベスト10に入れていい。 私はキャロラインを単なる悪女として切り捨てることができない。キャロラインはもしかすると究極のフェミニストといえるかもしれないと思う。 その理由を説明すると、まずキャロラインはおそらく20代後半~30前半の年齢。その若さですでに6年半前に卵管結索手術を受けている。 避妊手術を受けた理由は間違いなく、望まない妊娠により中絶手術を余儀なくされ、完全な自衛手段に打って出たということ。未婚の女性が避妊手術を受けるということは、「私は結婚していませんが、セックスはしますから」と宣言したに等しい。キャロラインの場合は「目的」のためにセックスを濫用するつもりでいたからこそ、合理的に考えて手術に踏み切った。なんたる思い切った女性だろう。とても真似はできぬ。 さてその「目的」は、多くの男性と同じように「ポストを伴った権力」のゲットであった。キャロラインの権力に対する執着ぶりはちょっと異常なほどに強い。私は冗談抜きに彼女の最終目標は女性大統領だったのではないかと思っている。 彼女の方法は「正攻法では得られぬポストの奪取のために権力を持った男と寝る」で、次に「まわりの男がポストを得たことに嫉妬して足を引っ張るので、黙らせるためにその男とも適当に寝ておく」というちょっとすごいことになり「適当に寝ておいたまわりの男の中から、次の権力者になりそうな有望株が居たらそいつをプッシュして自分も引き上げてもらう」というものだった。罵られても差し支えないような小物は無視して寝ていない。 キャロラインの計画では、これで問題はないはずだった。 キャロラインは道徳観念がゼロなのではなく、「利用していいのは権力をもった男性と犯罪者だけ」という内なるルールを守っていた。 けれど、「グロウ アップ」していなかったラスティのせいで、前途洋々たるキャロラインの人生は突然終わった。一撃必死の矢は予想外の方向から飛んできた。皮肉なことに、「女の足は女が引っ張る」ことに。 ただ、グレタ・スカッキは微妙に違うかなあ、と思う。キャロラインはセクシーなだけではなかったという気がする。私の嫌いなハリソン・フォードが、色ボケストーカー中年を好演(キモいという意味で)。[CS・衛星(字幕)] 8点(2008-06-15 16:02:09)《改行有》

151.  メルシィ!人生 《ネタバレ》 邦題がひどいがこれはけっこうすごい大人むけのコメディー。 私はアメリカ製のコメディよりも、イギリス製のコメディの方が好きだったけどさらにフランス製の方が好きかもしれない。 なんというか笑わせ方の違い。ドタバタや大声を極力省いて笑わせるそのテクニック。…かなりすごいかもしれない。洗練、という言葉が浮かぶ。 からかわれている対象が見ていないところですかさずスマイル、というのが一つのパターンで、とても「愉快」な感じがする。この感じは、一部の日本の少女漫画にもあった気がする。 ピニョンも含め、登場人物たちが笑う時は、目は笑わず口元を両方釣り上げる。これがなんとも愉快。 ドパルデューのサンティニが、簡単に暗示にかかっていくのもとっても愉快。3人の意地悪な同僚たちが、入れ替わり立ち替わりすれ違いざまに笑っているのがなんともおかしい。がこれも、悪意に満ちたからかいでないところがいい。 考えてみると、落ち込んでいるときのピニョンとあまり変わらない状況の私が、何度も大声で笑ってしまった、そんなコメディ。ラストのエロシーンは余計だったが、ただそこに居るだけでおかしいオートゥイユに免じてあげよう。[CS・衛星(字幕)] 8点(2008-04-14 17:36:25)《改行有》

152.  わが街(1991) 《ネタバレ》 スルメのような味わい深い映画だ。 冒頭では暴力の匂いが充満し、ひたすら暗い画面で危機感をつのらせる。通り魔に撃たれるフィルムメーカー、捨て子を拾ってうっとりしている危ない雰囲気の主婦。ほほう、これはきっとハギスの「クラッシュ」みたいな、人種間の亀裂をえげつなくバイオレンスタッチに描いた作品であろう。 と、思っていると、後半45分くらいの部分に、作り手の主張したいことが次々に現れる。 たぶんこうだ。暴力は憎しみから生まれる。憎しみは、持たざる者が持てる者に対して抱く。これをどう攻略すれば良いのであろう。 カスダンは、「人生を投げ打つような捨て身の福祉活動」とか普通の人に実現不可能なことではなく、身の回りで行う「見返りを全く期待しないふとした親切」こそ、それぞれの人が取り得る最良の方法、と言いたいようだ。 たとえばマックはジェインをサイモンに紹介するが、これはふとした偶然の思いつきで、後日サイモンに「感謝」されてしまうマックは意外に思うのだ。 マック夫婦が捨て子を引き取る事にも、見返りは何もない。 「広げよう親切の輪」それも無意識にね、という感じ。 私は特にサイモンとジェイン(若き日のアルフレ・ウッダード!)のラブストーリーが気に入っている。 英語には「(男女が)つきあっている」という意味の言葉がなく普通は「ゴー アウト」とか「デイティング」とかいう。まさに、「連れ出って外に出る」のが男女交際なんだなあ。確立されたデート文化である。 その形式は厳格に決まっていて、男性が女性の家の「玄関まで」迎えに行って、連れ出す。帰りは、「玄関まで」送り届ける。これが紳士的なデートの手順であって、「どっかで待ち合わす」ということばかりされたらそれは女性がバカにされている、お手軽に扱われているということになる。 わがサイモンも、手順どおりにジェインを迎えに行く。そして…あちらの男性にとって「デート文化」がいかに大切な存在であるかは、サイモンに見るとおり。 バツ一で大学生の娘がいて40超えであろうと、初デートでは高校生のように緊張する。 もしも、デートがうまく行って、帰りがけに彼女がキスのひとつでもしてくれればもう、天にものぼる気持ち…。 サイモンのデレデレ顔を見ていると、「デート文化」ってなかなかいいものだなあ、と思うのだった(日本には存在しない)。[CS・衛星(字幕)] 8点(2008-04-11 18:16:06)《改行有》

153.  やかまし村の春・夏・秋・冬 《ネタバレ》 前作では、ほとんどが子供中心の描写で、極力大人を描かないように意識して撮られたように思った。 続編では、けっこう大人が出てきたりセリフも少しある。あくまでも、「子供の耳に聞こえた大人の話し声」としてではあるけれど。 私はリサのお父さんが大好きなのです。あのもったりした口ヒゲの。 なんというか、大人の男性が備えていなくてはならない美質をちゃんと持っている、という感じがする。 吹雪の帰り道、リサたちが偏屈な靴屋の家に避難していたとき、お父さんがソリで現れる。 子供たちは火のそばにも勧められず、温かい飲み物も提供されず、ただ、屋根の下を借りていただけの状況で、扉の開け閉めにも靴屋に怒鳴られていた。…現れたお父さんは、一瞬のうちにそんな状況を察していただろう。 けれど、「子供に対してひどいじゃないか」とか「もっと手厚くしてもバチは当たらん」とか「あんたは冷たい」とか一切文句を垂れずに、お父さんはただこう言うのだ。「グドー、グドー(こんにちわ)」と。 これは、優しくない靴屋に対して「あなたは、共同体のメンバーとして最低限の事はしてくれた。子供たちに軒を貸してくれただけでも、じゅうぶん感謝していますよ。ありがとう。」という意味である。そして、相手が非礼だからといって、己も非礼を真似することは潔しとしない、という子供たちへの教育にもなっている。なおかつ、「あなたが優しくなくても、私はこうしてあなたに対して礼を尽くしますよ。それに対してあなたの態度は恥ずかしくありませんか?」という相手への一撃でもある。…そして、グドー、グドーと言われた靴屋は、それ以上何も言えなくなってしまう、というワケだ。 ああお父さん、あなたはすばらしい。すべての大人の男性のみなさんよ、お父さんを真似ましょう。そして平和な世の中が…やかまし村にしか存在しませんね、やっぱり。 「やかまし村」は、ハルストレムがフィルムに焼き付けた人類の理想郷だった。もしかして監督は、「宇宙へのメッセージ~私たちの地球ではこんな暮らしをしています」といって、無人ロケットに搭載するような気持ちでこれを作ったのではないかしら。あながちマチガイではないと思う。[CS・衛星(字幕)] 8点(2007-12-13 20:14:45)《改行有》

154.  やかまし村の子どもたち 《ネタバレ》 われわれが普段よく見ている映像世界では、「平穏無事な風景」というのは、その後の異変の前ふりであるのが常である。よって、平和な風景を見ながら、「来るぞ来るぞ」という予感に捕らわれているのがいつもの状況だ。 「やかまし村」のような作品を作ったということは、そういう「緊張感ある映像」に対するハルストレムからの「異議申し立て」という意味があると思う。曰く「幸せや平和が続いてもいいじゃないか」。 緑あふれるスウェーデンの風景の美しさ、そこに住む人間の性質の良さ、ひたすら癒される。癒されるのだが、「やかまし村」を見る際に、無視できないことがある。「己との落差」である。 世界中の観客が「やかまし村」を見るだろうが、見たときに感じる思いは、国や地域によってかなり違うのではないかと思う。 「やかまし村」は、あまりにも平和で幸福で美しいために、見る者は「やかまし村と自分の間の距離」を意識せざるを得ない。よって観客自らの「幸福からの距離」を確認するための最適なツールとなる。たとえばマイケル・ジャクソンなら、まさにこのような幼年時代を送りたかったと嫉妬にかられることだろう。犯罪者に見せたなら、このような幼年時代を送れていれば、犯罪者には育たなかったのに、と思うだろう。北朝鮮で飢えている人民に見せたなら、同じ地球上の出来事とは思われず、よその星のこととしか思えないだろう。アメリカで家庭に銃を備えている人々に見せたなら、「やかまし村」の無防備さに不安を感じるだろう。 映画「やかまし村のこどもたち」とは、見る人の幼年時代や社会状況が「やかまし村にどのくらい近いか」を測ることにより、「案外自分の幼年時代も悪くなかった」なり「自分はこんなに不幸だったのか」と気づかせたりする作用がある。おそらく地球上に、「やかまし村」以上に幸福な幼年期を送れる場所はないからだ。…罪な映画である。 「将来もこの村で暮らしたいから、村の男の子と結婚するの」…すごいことを言わせる。これこそが、共同体における究極の理想だ。 犬を貰い受けるエピソードが印象的。お父さんは、どうやって偏屈な靴屋と話をつけたのかが非常に気になる。「やかまし村」では、「金や物」で話をつけるはずはない、と思うからだ。[CS・衛星(字幕)] 8点(2007-12-02 18:37:22)(良:1票) 《改行有》

155.  グロリア(1980) 《ネタバレ》 クールでかっこいい。子供を出している映画なのに、とことん甘さを排しているところがいい。 一家惨殺までの場面をダラダラ説明せず、観客に最小限の情報を与えてテンポよく見せる。うまい。あえて惨殺場面を見せず、マンションのガラスが内側から吹き飛ぶ場面だけで語る。うまい。 特に感心したのは、グロリアとフィルのママの関係性について、ものの5秒くらいしか説明していないというのに、その後のグロリアの行動で充分想像させてしまうことだろう。 「コーヒー飲ませて」とフラッと訪れることのできるご近所さんなんて、そんなにいるだろうか。グロリアは、「彼女が在宅なら必ずコーヒーを飲ませてくれる」という確信を持っている。相手が不在なら、別に構わない。もし居るならば、彼女の顔を見て、おしゃべりをしながら、コーヒーをごちそうになれば、この世の「憂さ」も少し晴れるような気がするわ。…と、外出帰りのグロリアはインターホンを押す。 きっと、こういう関係になるまでには、フィルのママとグロリアの間にはそれなりの「歴史」があったに違いない。共通点は「一匹狼」で冒険を恐れないところだろう。 普通なら、普通の監督なら、まずは「日頃の関係」をある程度見せてから一家惨殺を見せると思うのだ。「惨殺」の悲劇的な効果をより狙うならそうだろう。 フィルのママとグロリアの浅からぬ関係は、その後のグロリアの行動にとって非常に重要なものなのだが、この映画では事件前の「日頃の関係」を全く見せることなく、それをなんと「コーヒー飲ませて」と、「私の親友なのよ」というママの言葉だけで充分語ってしまう。ほんとうにクールだ。 この映画は「激動の昼間」と、「静寂と暗闇の夜」の繰り返しになっている。「朝起きて、昼逃げて、夜寝る」の繰り返しだ。そして、繰り返すことによる効果を充分上げている。なんというか、「連続ドラマ」を何回分か見ているような気持ち。実際には何日も経っていないというのに、冒頭の事件から、どんどんどんどん遠いところへ連れてこられたような気持ち。上記のママとグロリアの件といい、非常に巧みな脚本だと思う。 最初は憎たらしかったフィル小僧が、途中から可愛く見えてくるのも、この映画ならではの醍醐味だ。大傑作。でも子供はもう少しお行儀よくね。[CS・衛星(字幕)] 8点(2007-11-16 19:06:12)《改行有》

156.  グッドフェローズ 《ネタバレ》 このくらいテンポよく軽妙に見せてくれれば文句はない。 スコセッシは、話を面白くする要素をいくつも盛り込んでいる。まず、ジミーとヘンリーがアイリッシュであること、そのため裏社会で生きるに「第2市民」のごとき位置から一生抜け出せないであろうこと、それなのに仲間内で最も異常な人物であるトミーを「生粋のイタリア人」にしたこと。 トミーがマザコンで、ママは変な犬の絵を描くことや、ヘンリーが文字通り〝女難〟で破滅していくこと。 これらのどこまでが実話なのか知らないが、なんとも面白い話に仕立てたものだ。 ヘンリー自身はギャングとしては大した人物ではないのだが、こいつは何しろ実力者へのゴマすりがうまいということを武器に、コバンザメ式に成り上がる。そして最後には、俗な言い方をすると「命根性が汚い」ために裏切って司法取引する。法廷で突然観客に向かって語り出すというけったいなシーンは、法治主義である現代社会を鋭くついている。「法律なんてものは空洞だ。すべての他人はアメとムチでどうにでもなる。」でも、もうやめたんだ、〝殺されたくないから〟。 〝順番を待たないですむ〟ことや、〝より良い席を用意してもらえる〟ことって、それ自体は大したことじゃないように見えるけど、己にその「価値」がないのにそれを望んでしまったら、その〝代償〟はとても大きい。大きいんだ。普通の人は「アメ」か「ムチ」がなければ、他人にサービスなどしないんだから。 そして、ヘンリーに群がった女(妻を含め)たちというのは、とても頭が悪いか、そうでなければ自分に対して誠実でない。なぜなら彼女たちは、ヘンリーにくっついていることで〝おこぼれ〟を享受しながら、〝順番を待たないですむ〟〝より良い席を用意してもらえる〟の担保を見極めようとしなかったか、見ないふりをしたか、どちらかであるからだ。 これは古今東西の女性に共通する重要課題であり、軽視してはいけないと思う。あなたはどうですか?「なぜこんなに良い待遇が受けられるのか?」と冷静に判断できますか?それとも見ないふりをしますか? なんてことを考えてしまいました。ヘンリーと女たちについて。「グッドフェローズ」は面白いです。[CS・衛星(字幕)] 8点(2007-11-07 18:11:05)《改行有》

157.  きょうのできごと a day on the planet 《ネタバレ》 最初のほうを見ていたらあまりにつまらなくて〝努力忍耐〟とひたすら念じながら先へ進む。すると、途中から面白くなってきた。3人が帰って、西山が暴れだすあたりから…。「おっこれは」と思っていると、正道は何気に当て逃げされるし、スキマ男はどんどん悲惨になるし、かわち君は性格面白いし、話の展開がやっとわかってきて、〝この映画〟の面白さ、もやっとわかった気がした。 確かに、この話の人間関係が全く把握できていない状態で、時間をシャッフルしたうえ、けいとがクダをまいている(卵の話は本当につまらない)ところとか、真紀が酔って他人の髪の毛を切っているところを見ても全然面白くないのに、そこらへんを長く見せすぎる…。2回目に見ればわかるけど、やっぱり女2人が酔っ払っているところは何度見てもあんまり面白くない。監督は、女どうしのシーンで笑いを取るのが下手だと思う。(男ばかりでモメているシーンは大変よいのに。) 小説の原作ものということだが、私はそれを知らずに見ていてまず「これはまさに少女漫画の間の取り方だ」と感じた。吉田秋生あたりが一番近いと思う。もしもこの映画を吉田に漫画化してもらったら、すごく自然な感じになると思う。正道のキャラなど、見た目も言動も本当に吉田秋生の漫画から抜け出してきたようだ。 で、この話は出てくる人間がほとんど「モラトリアムな奴」なのだ。自分で稼いでいる人間はチョイ役でしかない。働いているやつは、スキマ男だけだ。北村のサーファーだって、どうもマトモな勤め人らしくない。 そういう男も女もモラトリアムなやつらが、ある日集まって勝手気ままに騒ぐ。過ごす。それをダラダラとコミカルにさんざん見せたうえ、クジラが帰った海辺で終わる。クジラとは、何の意味だろう。 クジラと同じように身動きが取れなくなって、己の命を他人まかせにしなくてはならなかったのは誰か。違法な賭博喫茶で働くスキマ男だ。クジラはスキマ男だ。スキマ男は、中沢たちと違ってモラトリアムに生きていない。 世の中に出て、自分で食い扶持を稼いでいくということは、座礁した瀕死のクジラのようなもの…そんな大変なこと、できるだろうか。できればこのままいつまでも、京都の古民家という通好みのおしゃれスポットで、ダラダラとモラトリアムに仲間とじゃれていたい…。そういう気分を描写したのが本作だと思うなあ。やっぱり昔の吉田秋生の気分。[CS・衛星(邦画)] 8点(2007-10-23 19:47:36)《改行有》

158.  美しい夜、残酷な朝 《ネタバレ》 以前「THREE」というオムニバスを見た。韓国、香港、タイのホラー監督が競作していて、香港版はピーター・チャン監督で、香港版にはエラく感心した。しかし、3作品とも、それなりのクオリティを感じたし、どれがいいかは好みの問題と言えなくもない。 …しかし、この「美しい夜、残酷な朝」は…いかにも真ん中が低い印象がぬぐえないではないかあ。 私は三池という人はカタカナの「ゲージュツ」家だと思う。「ゲージュツ」の人は、自分にだけ分かればいいと思っている。「IZO」でもひどい目にあったし、もうこの人の作ったものは無視することにする。 で、やっぱり「餃子」です。これはよくまとまっているし、説明が少なく見せ方も凝っている割には、ストーリーが分かりやすい。またしても、競演で香港作品に軍配を挙げてしまうのだが、そう思ってしまうのだから仕方ない。 私は、香港映画で見る建物とかインテリアがけっこう好き。天井が高くて、洋風のハコモノに東西文化がセンスよくミックスされていて、かっこいいと思う。今回も、怪しい餃子女の部屋のインテリアなど、とても面白い。黒いオーガンジー風のカーテンを窓にかけるとか、日本だったらまずしない。 そしてこれはグロい。このグロさというのは、韓国映画「四人の食卓」を見た時と同じグロさである。 なんていうか…胎児経由カニバリズム系のグロさ…というのだろうか。 「美の追求」が「カニバリズム」に発展し、「近親相姦」をも踏み台にする…という、よくこれだけ濃いものを集めてまとめたというような陰惨な話だ。しかし、不思議に視聴後感はそんなに悪くない。 小物の使い方がうまいからだ。セピア色の写真立て、エキゾチックなインテリア、金満趣味の人妻の隙のないメイクとファッション、金満インテリアにぶちまけられたバラのポプリ。 これらの小道具と、例の「餃子」を違和感無く組み合わせ、観客を飽きさせず見せる。うまい。しかし、食前に見てはいけないのは言うまでもない。 「CUT」については、私には良さがよくわからない…「餃子」とは別のグロさで、SM系のグロとでもいうのか。下手の横好きながらピアノを弾くので、こういうシーンはあんまり見たくない。舞台チックな感じも好きじゃない。どっちかというと…(映画)関係者ウケを狙ったという気がしないでもない。やはり「餃子」である。8点は「餃子」のみの点数です。[CS・衛星(字幕)] 8点(2007-09-05 16:14:46)《改行有》

159.  WHO AM I? 《ネタバレ》 最後までしっかり鑑賞するつもりで見始めたら、嫌になってやめてしまう映画というのがある。こないだスカパーでやっていた「ライアー」がそれだった。あんなに魅力的なキャストだというのに、30分も見ないうちに、どうにもこうにも辛抱ならず。 さて逆に、最後まで見る気などないのに、やめられなくなって、しっかりエンディングを迎えてしまう映画というのもある。本作がそうだった。 「興味はないがたまにはジャッキー・チェンの顔を3分くらい見てみるか」というノリで見始めて、エンディングロールまで見てしまった。恐るべしジャッキー・チェン。 これは脚本・監督もジャッキーが参加しているから、ジャッキーの本音が色濃く出ていると思っていいのだろう。それで、私はジャッキー・チェンという人がいかに「言葉」に重きを置かないか、ということについて改めて気付いたのだった。 ジャッキーは英語なんぞで大事な言葉を語ったりしない。や、べつに山本未来より英語が下手だとか、そういうことはジャッキーにとっては重要ではなくて、ジャッキーにとって英語はやっぱり自分の言葉ではないんだ。 ジャッキーは執拗に、英語を否定する状況を生み出し続ける。英語の通じないアフリカ原住民、せっかく英語の達者な山本未来と巡りあえても、薬草を噛んだせいでずっとしゃべれない。 アフリカ原住民のセリフに字幕をつけなかったことは、明らかにジャッキーの意図であろう。彼はこう言いたい。「言葉以外の要素で、この映画を味わってくれ」。 私はこの映画には「英語、それがナンボのもんじゃ」というジャッキーの反骨心を強く感じる。もちろん、小谷野敦の言うような、英語を母国語とする人々の「英語万能主義」を前提としての。 0.2秒しか映らなかったけど本人は嬉しかったであろうケイン・コスギには笑ったし、山本未来の英語はネイティブに近いと感心したし、ジャッキーのアクションも「スタント有り得ず」という「安心感」をもって堪能できる。 ジャッキー・チェンは言葉によって人間の真実を伝えようとする方法を否定し、どんな窮地に陥ってもシリアスに突入することを拒否し、この映画を撮った。自ら演じた。大したもんだ、と言っとく。 *アフリカの砂漠に突如「三菱石油」、「ふそう陸送」が大写し。シュールだなあ。CM料もらっているだろうな。ま、許す。[CS・衛星(字幕)] 8点(2007-08-29 12:31:11)(良:2票) 《改行有》

160.  ゆれる 《ネタバレ》 あまり期待せず見たのだが、なかなかどうして、見ごたえがあった。 この脚本・監督の西川さんという女性は、とても才能ある方だと思う。 この映画に説得力を持たせているのは、何よりも、稔と猛兄弟のそれぞれのキャラの描き方である。…非常にリアリティがある。「いるいる、こういう人」である。私はそこに、はっきりと「女性の視点」を感じた。 稔については、「キモい」を念頭に、女性から見て「どういう人がキモいか」を余すところ無く表現。そうそう、この髪型、その白い靴下、正座して洗濯物を畳む丸い背中、ぺこぺこ謝るその角度、どことなく女っぽいしゃべり方…キモい。 そして女たらしの猛。そうそう、この危ない感じ、ハンサムがわざと汚なづくりしている感じ、土足で女性の心にズカズカ入りこむこのずうずうしい感じ…いるよねー、こういう遊び人。女性の目から見て、「つい寝てしまう」ような男である。 しかし、これはオダギリジョーだからそう見えるのであって、そこらの男性が真似をすると容易に化けの皮がはがれて笑われる対象になるだけです。だから、真似してはいけない。 真木よう子とのラブシーンにも、すごくリアリティがありましたね。本当はそのつもりだったくせに、「私はそんなつもりじゃ…」とかいう顔をずっとしているところね。そのくせしっかり料理を食べさせてこっちのものにしようなんて、そうそう、こういう女っているよね。当然遊び人の猛はそんなこと読めてるから、食わずにヤリ逃げするわけだが。こういう女は女受けしないんだよな。 そしてまた、監督は智恵子を使って、非情なまでの女性の残酷さを描く。つまり、「好きな男」と「嫌いな男」に対するこの態度の違い、です。男性の皆さんは、身に詰まされて辛いかもしれない。 しかし、これが真実なんです。好きな男なら、避妊もしないで突然のHもOK、ヤリ逃げされても恨むどころか追いすがる、片や、嫌いな男には、指一本触られたくない。…本当に勝手なもんです、女って。 という、女性ならではの視点が、余すところ無く人物描写に生かされている。ある意味、男性にも女性にも勉強になる映画だ。 キモさを演じきった香川照之は、「地」という言葉すら浮かぶ。もし香川がどっちかというと「猛」的な男性だったとしたら、その演技力は大したものだ。 ラストの場面は、この兄弟の邂逅と見るべきと思う。希望を示して終わるラストは良い。[DVD(邦画)] 8点(2007-06-17 19:58:41)(良:5票) 《改行有》

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