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ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破~その1~最後のブログを投稿してから、ずいぶん長い時間が経ってしまいました。誰よりもまずシネマレビュー管理人様にお詫びを申し上げたいと思います。
さて、最近になって『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』のブルーレイディスクを購入したのですが、最後に劇場でこの作品を見た時と同じくらいの感動を、変わらずに感じることができました。 『みんなのシネマレビュー』のサイトでは、「ネタバレ」表示機能があるのは承知しているものの万が一ということもあるかもしれないと思い、極力内容(の核心)に関わる言及は避けたつもりでしたが、上記のとおり久しぶりにこの作品を見たということもあり、備忘録という意味合いも込めてまとまった文章を書いてみたいと思った次第です。 <以下、主に新劇場版に関して壮大にネタバレをします。万が一新劇場版未見の方がいらっしゃった場合、すみませんが読むのを控えてください。また旧作についても少なからず言及しています。旧エヴァに関してもまっさらな気持ちでこれから鑑賞したいという方がいらっしゃった場合、できれば読むのを控えてください> 新劇場版全体に対して思うこととして、「登場人物たちのバックグラウンドがずいぶん変わった」という点があります。そしてその「バックグラウンドの変化」と言う点は、例えば登場人物たちのセリフの声色などからもうかがうことができると思います。 例えばミサトの場合、『序』でシンジ君を自分のアパートの部屋に初めて迎え入れるあの印象的な場面においての、「シンジ君、ここは、あなたのうちなのよ」というセリフです。 表面的には旧TV版に基づく場面が大半を占めている『序』であり、このミサトのセリフについても、旧TV版に全く同一の場面が存在します。しかし個人的には、旧TV版と『序』とでは、そのセリフの発せられる「声色」から受け取る印象は、ずいぶん(と言うか個人的には180度と言いたいくらいですが)違うと思います。 旧TV版および『序』におけるこのセリフ(の声色)の印象を、僕なりに翻訳するなら以下の通りになります。 (旧TV版の場合)「あなた、せっかくあたしが自分の部屋に迎え入れようとしているのに、そんな他人行儀な態度を取って良いと思ってるの?もう少し素直になったらどう?それに好むと好まざるとに関わらず、これからはここがあなたの住むところになるんだから、その事実を受け入れなさい」 (『序』の場合)「シンジ君、私に対しては何の遠慮もいらないのよ。気がねせずに自分の家だというつもりでくつろいでちょうだい」 あくまで僕自身の聴きとり方の問題であり、これをスタンダードとして他の方に強要するつもりは毛頭ありません。しかし「僕自身がどう捉えたか」という点に問題を絞った場合、僕としては上記のように表現するほかありません。具体的に言うなら、旧作エヴァは「ある一面における人間の真実」といったものを、セリフにおける声色に至るまで正確に突いていると感じます。それはある時には「孤独」であったり「思惑」であったり、ある時には「追い詰められた状況」であったり、「呪縛」であったり、あるいは「エゴ」であったりすると思いますが、そういう心理表現に尖鋭的な面白さを感じる瞬間ももちろんあります。しかし僕自身の感想を言うと、そういう意味での「真実」を旧作エヴァが描くとき、僕はその背後に否応なく「登場人物たちが自分たちの弱さに耽溺してしまっている」という印象を覚えるのです。 僕自身がたいへん弱い人物であるので、こういう上から物を言うような書き方をするのは何ともおこがましいことだと思うのですが、ただ一言するなら、僕自身はそういう自分の弱い部分を、嫌と言うほど自覚している(せざるを得ない)ために、この旧作エヴァにおける、僕自身の中にも存在する同質的な「弱さ」に警戒心を感じてしまう、という側面があります(要するに自分も作品につられてその「弱さ」に耽溺してしまうのではないか、という警戒心が働いてしまいます)。 さらに突っ込んで書かせてもらうと、上記のような人間の弱い部分に根差した「ギスギスした真実」を見たからと言って、それで見た者が(あるいは作った者が)どこか前に進んでいけるのかと考えた場合、僕としてはとてもそんな風には思えないのです。むしろそのギスギスした真実の中で、見る者も作る者も「自身の弱さの自家中毒」に陥るだけではないのか、という風に思ってしまいます。その意味において、僕自身はどれだけ旧作エヴァにカミソリみたいな鋭さが(映像演出や心理表現において)備わっていたとしても、またどれだけそれが人間のある真実を突いているのだとしても、最終的にはそれらに対してもろ手を挙げて賛成はしません。というか、旧作エヴァにおける(上記演出といった)周縁的な面白さや革新性については認めるものの、その作品が描こうとしている(と言うより見せつけようとしている)「核心部分」については、僕は受け入れる気持にはなれませんでしたし、これからも恐らくそうでしょう。 ・・・いや、こんな物の言い方はやはりフェアでは無いかもしれません。と言うのも、結果的に新劇場版の登場によって僕の中でより強く印象付けられたことなのですが、旧作エヴァで描かれているのもまた(この文章中で既に何度か書いたことですが)、良くも悪くも「真実」であり、旧作エヴァはそのギスギスした真実と真正面から格闘し、ある意味そこから決して逃げなかったという風にも受け取れるからです。決して耽溺したままで終わろうとしていたのではない。現時点でさえ自分自身の弱さとろくに向き合えていない僕自身から見て、その向き合うことの「辛さ」は並大抵で無かったであろうということを、今更ながらにひしひしと感じます。結果的に提出された「核心」については、僕は最終的に受け入れる気にはなれませんが、しかしその「真剣さ」に対しては、無条件に敬意を表したいと思います。 これに対して「新劇場版」においては、全体的にそういう「ギスギスした真実に絡め取られる状況」から一歩進んだステージを表現していると感じています。そして僕自身は、過去にどの作品よりもその暗い深みでもがき続けた他ならぬ「エヴァ」という作品が、そういう前進を果たしたという事実を前にして、大きな感慨を覚えます。言ってみれば、新劇場版の登場人物たちは、過去に経験したそういう「ギスギスした真実」を乗り越え、それでもなお他人を受け入れる強さと優しさを失っていないと感じるからです。 そしてそういう「より暖かい方向」に作品全体がシフトしているという感触は、その流れの上に立って製作されている『破』においても、当然強く感じられます。そして『破』においてその「方向性の変化」を、誰よりも強く体現していると僕が思っているのが、新劇場版においてはこの作品で初登場となるアスカです。 旧作エヴァのうちTVシリーズに関してはあくまで「一通りおさらいをした」という程度しか触れていませんので不正確な部分もあるかもしれませんが、それを了解してもらったうえで書かせてもらうと、僕自身はこのアスカという人物こそが、旧作から一番根本的に変化している人物ではないかと思います。この新劇場版からアスカの苗字が「惣流」から「式波」に変わりましたが、もちろん実際の事情は関係者ではないので僕にはわからないものの、以下に記す諸点を考え合わせると、個人的には「確かにこの新劇場版のアスカはあの「惣流アスカ」では無いかもしれない」と納得してしまいます。 たとえば旧作と新作との両方において、このアスカと言う人物はたいへんプライドが高いです。おなじみのあのセリフも飛び出します。しかし僕自身は、この「プライドの高さ」の「性質」そのものが、旧作と新作とで大きく異なっていると感じるのです。 その「違い」を僕なりに表現するなら、旧作のアスカにおいてはその「プライド」に否応なく「鼻持ちならなさ」や「見下した感じ」が付いて回ったのに対し、新作のアスカにおける「プライド」に関しては、そこに「プロ意識」に根差した「自負」といったものを感じるのです。もっと言うなら、旧作のアスカにおける「プライド」には、その存在の前提条件として「自分より劣った人物を認識する、あるいは他人を自分と対抗するものとして捉える」という点があると感じられるのです。そして旧TV版においては、これらの前提条件の原因として、母親によって与えられたトラウマを置いています。そしてこの前提条件がある限り、旧作のアスカは絶対他人を受け入れる事ができないように見えるのです。 一方新作のアスカにおいては、上記旧作のようなトラウマ描写を省略している(あるいは意図的に描こうとしていない)事も相まって、その「プライド」の源泉にあくまで自分自身のプロ意識のみがあるように見えるのであり、必ずしも旧作アスカのような「他人の存在が逆説的に必要である」という条件は存在しないように思われます。従って新作のアスカが他人を批判する時は、あくまで自分自身の「自負」という基準に照らして相手が批判されるに値すると判断した時であり、はなから相手を「対抗相手」や「自分より劣ったもの」として認識しているわけではありません。その結果、何かの加減で相手の実力を否応なく意識できれば、あるいは他人との対話により相手の人間性というものがアスカにきちんと伝われば、新作のアスカは不機嫌な顔をしつつも最終的に他人をそのまま受け入れるのです。旧作エヴァにおけるアスカからの、これは大きな変化だと思います。 あるいはもしかしたら新作のアスカのバックグラウンドにも、何か劇中でまだ描かれていないトラウマめいた事件があったのかもしれません。しかし僕自身の感じ方では、仮にそういう過去のトラウマがあったとしても、新作のアスカにおいてはそれを例えば(旧作のアスカのように)「<誰か>に認めてもらうために他人に秀でなくてはならない」という、外部から追い立てられるかのような強迫的な方向にではなく、「これでは自分がダメになってしまう、そうならないために自分はもっとしっかりしなくては」という、より自立した方向に受け止めているのではないか、という気が強くするのです。そして僕自身は『破』のアスカの心の中に生まれているであろう、それまで過去から持ち続けていた「プライド」と、他人との交流により芽生えた新しい感情との葛藤と、最終的にその葛藤の果てに他人を受け入れることを選びとるアスカの姿に、強い魅力を感じます。 そんなアスカが、新劇場版ではエヴァ3号機に乗り使徒に侵食されるという、外見上は悲劇的な運命をたどったと言うことは、何とも象徴的というか、非常に重い意味を持ってくることだと思います。 この点に関して思い当たるのは、旧TVシリーズにおいても、やはりアスカは使徒による「汚染」を被っている、という点です。うろ覚えで申し訳ないのですが、僕自身の印象では、この時アスカは(自分が自分に対して)ひた隠しに隠していた自分の弱い部分を、否応なく再び自分自身に突き付けられたために「汚された」と感じたように見えます。そしてこの時、使徒は大気圏の遥か上方から、光のようなものを投げかけるだけで簡単にアスカを汚染したのです。言ってみればこの時アスカは、自分のプライドを支えるうえで絶対自分自身に意識させてはいけない「自分の弱さ」を、改めて意識してしまったのです。そして「プライド」に固執するアスカは、この時結局そのプライドが挫かれたことによって自分自身の心も折れてしまうのです。そこには当然、他人を受け入れる余地はありません。 それに対し新劇場版では、使徒は物理的によりアスカに接近し(エントリープラグに侵入し)、直接アスカ自身を侵食しようとしています。そして「今日の日はさようなら」によってアスカの復帰が暗示されていることや、予告におけるアスカ自身(と言っていいでしょう)の表情に自信がみなぎっていることから判断して、新劇場版においては使徒はアスカを「汚す」ことはできなかったと見ていいと思います。言ってみれば、その直前までにアスカは「プライド」と「他人の承認」との葛藤を経験したうえで「プライド」を捨て、他人を受け入れる強さを獲得しています。他人を受け入れること・・・いや正確に言うなら「自分が『誰か』を求め、また『その誰か』の気持ちを理解していること」を受け入れ、その気持ちを、臆さず真っ直ぐに『その人』にぶつけることができるアスカのしなやかさと強さが、僕にはたいへん印象的でした。 そして他人を受け入れることの・・・と言うより「『誰か』を求め、そしてそれが報われること」(=『その人』もアスカの気持ちに応えてアスカを受け入れること)の「心地よさ」を知り、自然に笑顔を漏らすことのできるアスカに、もはや「プライド」をへし折る事による攻撃は無意味です。そして個人的には、こうした「強さ」を獲得したアスカが、今後『Q』以降においてどういう「復帰」を遂げるのかというその見せ方次第では、劇中あれだけ成長を見せたシンジやレイをも食ってしまいかねないほどの印象を視聴者に与える可能性もあると思って(と言うか期待して)います。(とは言えこの「期待」はあくまで僕自身の「期待」でしかないのであり、最終的には僕自身は、製作者側の自然な心の動きようによって出来上がった「Q」以降の作品の姿を、そのまま受け入れたいと思ってはいます。「個人的な期待」は最後まで「個人的な期待」でしかありません)。 言ってみれば、旧作においては直接接触しなくても汚染できるほどにたやすい相手だったアスカが、新作においてはより接近して汚染を試みようとしてもそれが不可能なほどに手ごわい人物になっていた、ということではないかと思います。そしてこの点が、僕にとっては新旧エヴァを対比する際にたいへん象徴的というか、興味深く感じられるのです。 ゲド戦記(2006年・日本)<ネタバレ>
ほぼ新「ヱヴァ」のためだけにこのブログを始めたような書き方を前にしましたが、今現在レビューみたいなものを書いてみたいと思っているのは、実はこの作品だったりします。 個人的には、劇場公開当時にしっかり2度観に行ったくらいのお気に入りの作品なのですが、レビューを書くのはル=グウィンによる原作(のうち、もとになっていると思われる「テハヌー」までの章)を読み終わってから、と思っていました。ただし、現時点で読了できているのはその「ゲド戦記」のうち第3作「さいはての島」までであり、上記第4作を読み終えるのがいつになるのかわからないので、とりあえずこの場で現時点で思うところを書いてみたいと思います。ちなみにあえて点数化するなら、この作品の個人的評価は「8.5~6点」といったところです。 まず「原作付き」という条件を全く除外した、映画単独としての僕の評価を言うと、これはとにかく「気に入った」というものです。冒頭から「父殺し」を犯す(あるいは犯しかける)アレンという何とも象徴的な場面が登場するものの、それにもかかわらず僕自身は、その「世界観」には、かつての宮崎作品(つまり吾朗監督の父親によるもの)を彷彿とさせる、ある種の「異世界感」のようなものがあると感じました(具体的には『ナウシカ』や『ラピュタ』の頃の宮崎作品に顕著に存在したような)。この点に関しては、後で原作を読んでみて、当然のことながらその原作の雰囲気というものが強く影響していることを感じました。またその点以外にも、他ならぬ宮崎駿監督による『シュナの旅』(これはル=グウィンの原作を読む前から大好きな作品でした)が世界観構築の参考になっているという点も、当然ながら大きいでしょう。具体的には、ゲドとアレンが序盤でたどり着く港町ホートタウンの描写や、中盤辺りの奴隷馬車のシーンなどについては、この『シュナ』の中に酷似するシーンがあります。 以上のことを踏まえるなら、この作品からかつての宮崎作品と同じ匂いが感じられるのも、当然と言えば当然のことでしょう。そして僕は、吾朗監督がそれら様々な原作(あるいは引用元)を、単純につぎはぎにしているのではなく、自身の感性と世界観というフィルターを通して自分なりに再構築(あるいは再創造)をしているという感触が得られた事が、僕自身の高評価につながっているのだと感じています(例えば上記ホートタウンの情景の場合、一つの街としての「描写の肉付け」といったものがなされている点などは、これは偏に監督の手腕によるのではないかと思います)。そしてそのようにして構築された映像としての世界観を、僕は極めて魅力的に感じました。 僕としては(実は映画の冒頭から)その世界観に一定の説得力を感じた時点でほぼ満足してしまったというのが、この作品を気に入った大きな理由かもしれません。それだけに、映画の中のそこかしこにちりばめられる、(ほとんどの場合説明を欠いた)「原作中の出来事」の数々についても、「その世界ではありうることなのだろう」と勝手に納得して見ていたような気がします。 そして何より僕自身は、作品で扱われる、「生と死」に対する真摯な問いといったものに、率直にある感動を覚えました。それをあえて言葉にするなら「生と死は表裏一体である」ということなのですが、こうして言葉にすると薄っぺらくなってしまう(あるいはその一言だけでは一体何の事だかわからない)テーマを、上記監督のフィルターを通して表現している点に対して、その世界観と同様に説得力を感じたのです。表現されていることのスケールや深みに関してはこじんまりとしているかもしれないが、少なくともそれは作者(つまりこの場合は吾朗監督)の中での嘘ではない、という点が、非常に印象的でした。 実はこの「生と死」に関する問いというのは、原作の『ゲド戦記』にも存在する非常に重要なテーマでもあるのですが、その原作者であるル=グウィンは、この映画化作品に対して、全体的に非常に批判的な文章を発表しています。例えば(うろ覚えで申し訳ないのですが)彼女は、「私が自分の作品で描いた問題は、映画の中で魔法の剣を振るうだけで解決するようなものではない」という主旨のことを言っているのですが、僕はこの点(つまり映画化作品に対して持っている、ル=グウィンの認識)に関しては、それは違うと思います。魔法の剣を抜いたから問題は解決しあの映画のクライマックスを迎えたのではなく、魔法の剣を抜く前からアレンは既にどこかで変化しており、その「変化」が結果的に、魔法の剣の抜刀を含むあのクライマックスにつながったように僕には見えたからです。剣を抜く前から、既にブレイクスルーはアレンの中で見出されていたのです。そして上記原作者自身の批判にもかかわらず、アレンが映画の中で(魔法の剣を抜く前に)見出している「生と死」の認識に関しては、原作の内容とそう大きく相違していないと、僕自身は感じています。 もちろん、この「魔法の剣」に頼る(そしていかにも悪役然とした悪役にクライマックスを置く)展開が安易だ、という批判は十分あり得るでしょう。「御都合主義的」と言われても仕方がないかもしれません。しかし僕自身は、手法や手つきに仮に安易な部分があったとしても、それまでの「過程」における描写の数々に関しては、僕の基準では十分に説得力のある真実味が備わっていると感じることができた時点で、十分に満足でした。 この『ゲド戦記』を語るに当たっては、僕自身はあの「偉大な父」の事に必要以上に言及したくはないのですが、それでも僕はこの映画について、ある点ではこの「父」と、そして原作者ル=グウィンという象徴的な(そしてこれまた偉大な)「母」の存在に、どうしても思いが行きます。つまりこの「父」も「母」も、「息子」に対して極めて批判的であるという点です。そしてその「両親」の批判にもかかわらず、「息子」自身の感じている自分なりの「真実」といったものを示して見せたというその点に、僕は吾朗監督の強さといったものを感じたりします。 僕自身は、どれだけ先人が偉大なものを持っていたとしても、その先人たちの業績を消化する主体と言うのは、ほかでもない「手持ちの自分自身」でしかあり得ず、その「自分自身」を通さずに無理に先人たちの業績に近づこうとしたところで、それは自分の血肉となっていない(あるいはそもそも自分にとっての「血肉」にする必然性の無い)「背伸び」に過ぎないと、常々思っています。そして僕は、吾朗監督がその「手持ちの自分自身」だけで勝負をかけてきたその度胸と真摯さに対して、率直に敬意を表したくなります。と言うのも僕自身は吾朗監督が、背伸びをして中身の無い綺麗ごとを並べる(つまり変に「父」や「母」の原作から上っ面だけを拝借する)のではなく、泥臭く這いまわってでも自分自身でそれら原作から「何か」をつかみ取り、そうやって自分の力で得た「何か」だけを盛り込もうとしているということが、作品を見ていて感じられたからです。 そしてこの「真摯さ」に関しては、背伸びや嘘を交えずに「手持ちの自分自身」だけで勝負するという吾朗監督の姿勢がはっきりしているだけに、「父」からも「母」からも批判される筋合いはない(と言うより、批判するのはもちろん自由でしょうが、吾朗監督自身はそれらを一切気にする必要もない)と思っています。またその吾朗監督が提出した肝心の「手持ちの真実」を僕は支持すると同時に、一定の説得力を備えているとも思っています。 仄聞するところによると、ジブリの次回作は十年ぶりの高畑作品であり、その次に吾朗監督の作品が控えているという噂も聞きます。僕としてはこの『ゲド戦記』という作品でも十分に監督のオリジナリティを感じられたのですが、次回作ではできれば、その世界観における監督自身の「手持ちのもの」が、より色濃く、そして発展的に現れていることを、密かに期待しています。 初めまして。
みんなのシネマレビュー様で、たまに気に入った作品にレビューを書かせてもらっているものです。
今後このブログについては、主に新劇場版「ヱヴァ」に関する、シネマレビュー様に投稿したレビューよりもさらに突っ込んだ内容の文章を、思いついた時に少しずつ書いていこうと考えています。 また「ヱヴァ」以外の話題に関しても、極力取り上げて行くつもりです。たとえば最近読んだ本の感想を書いていくとか・・・もっともこの点に関しては、最近読書量が極端に減ってしまっており、こういう場を設けて自分自身の尻を叩く良い機会としたいという、ごくごく個人的な動機が働いているのですが(^^: 以上のような次第なので、マイペースでぼちぼち更新していくという形になっていくと思います。気長にやっていこうと思っています(また同じく、気長にお付き合いいただければ幸いです)。 どうぞよろしくお願いします。 2009-11-10 07:37:11 | | コメント(0) | トラックバック(0) |
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