3.なんて醜いんだろう。なんて悍ましいんだろう。なんて妖しいんだろう。
そして、なんて美しいんだろう。
ファーストカットからラストカットに至るまで、すべてのシーンにおいて、あらゆる形容が感嘆と共に押し寄せてくる。終始一貫して、ギレルモ・デル・トロ監督の「偏執的」な愛と狂気が渦巻いている。
いわゆる「怪獣映画」を好んで、古今東西の色々な作品を観てきたけれど、あらゆる怪獣映画の魂を引き継ぎ、それでいてそのどれとも異なる類まれな作品と成っていることは間違いない。
その創成期より、怪獣映画にはそれを生み出す「人間」のあらゆる“業苦”と、社会の“歪”が込められてきた。
「怪獣」たちの姿は、苦しみ、怒る我々人間たち自身の権化と象徴だった。
だからこそ、僕たちは、作り物の怪獣が織りなす恐怖や悲哀に、恐れおののき、心を揺さぶられてきたのだと思う。
この醜く、美しい相反する形容が同時に存在する映画が素晴らしいのは、そういった怪獣映画の真髄を真正面から組み込みつつ、時代と社会を超えた映画世界の中で、現代社会の怒りと悲しみを訴えているからだ。
この現実世界に「強者」は存在しない。
大国を動かす権力者も、長者番付のトップに君臨する金持ちも、絶対王者の格闘家も、只一人で完全無欠に生きられる人間など居ない。
この映画の人間描写はそのことを如実に物語る。
声を持たないヒロインも、ゲイの隣人も、黒人掃除婦の友人も、権力者に使い捨てられる敵役も、そして“異形の君”も、この映画に登場する誰もが「弱者」であり、何かに寄り添って、必死に生きようとしている。
“ゆで卵”一個の悦びに生きる価値を見出し、耐え難い苦しみから抜け出す勇気を得るのだ。
彼らのその姿は、とても脆くて儚いけれど、あまりにも愛おしい。
社会が勝手に貼り付け、押し付けたレッテルと価値観を超えて、ただ「存在」し続けることの勇気と愛を堂々と示したこの生命の讃歌を愛さずにはいられない。