17.《ネタバレ》 ゴジラ映画ファンとして先ず断言したいが、本作が映し出すビジュアルはとんでもなくエキサイティングであり、世界中総てのゴジラ映画ファン、怪獣映画ファンは、必ず映画館で見なければならない。
それが決して言い過ぎではないくらいに、映像的には本当に“どえらいもの”を見せてくれる。それは間違いない。
その妥協の無い映像的クオリティーは、この映画の製作陣が、日本が生んだ“ゴジラ映画”を心から敬愛し、尊敬してくれていることの紛れも無い証明であり、そのことについては、日本のゴジラ映画ファンとして心底嬉しく思う。
と、5年前の前作とほぼ同じ、いやそれ以上の「満足感」を得られたことは否定しない。
しかし、だ。その「満足感」と同時に、決して看過できず、拭い去れない「拒否感」を覚えたことも否めなかった。
前作鑑賞時と同様に、エンドロールを見送りながら、“神妙な面持ち”を崩すことができなかった。
「拒否感」の正体はもはや明確である。“核の取扱い”只々この一点に尽きる。
ストーリーテリングにおける“それ”についての「意識」の違いさえ無ければ、僕は前作も含め、この“ハリウッド版ゴジラ”を大絶賛することを惜しまなかっただろう。
だが、残念ながら、前作に続き本作においても、「核兵器」という人類が生み出した最凶最悪の脅威に対する“意識の違い”というよりも、むしろ明確な「無知」が、大きく分厚く障害として立ちはだかった。
その「無知」は、致し方ないものとも思える。
世界で唯一の被爆国として、この国の子どもたちは、核兵器の脅威とそれがもたらした悲劇に関する情報を、教育の中で蓄積し、潜在意識レベルで認識している。
いかなる場合であっても、核兵器は「否定」の対象であり、その象徴が、脅威としての「ゴジラ」なのだ。
一方、かの国の子どもたちにとって、「ゴジラ」とは“核が生み出したヒーロー”であり、その認識を変えることは極めて難しいことなのだろうということを、前作と本作を観て痛感した。
歴史も、文化も、価値観も違えば、それは当然のことだろうし、こと「核兵器」に関する経緯においては、日本とアメリカの立場は全く両極にあったわけだから、その「乖離」は殊更であろう。
ただ、そのように俯瞰して見れたとしても、本作における核兵器のあまりに軽薄な取り扱いは、この映画が「ゴジラ映画」だからこそ認めるわけにはいかない。
衰弱したゴジラに対し、核爆弾をあたかも“カンフル剤”のように爆発させ、復活する様を仰々しく映し出し、本作随一の名場面のように仕上げた様には、怒りを覚えるというよりも、唖然としてしまった。
我らが渡辺謙の熱い見せ場には申し訳ないが、日本のゴジラ映画ファンにとっては、あのシーンが最も「不適切」で「不要」だった。
でもね……。
これがアメリカ人が愛し、アメリカ人が観たい「ゴジラ映画」であれば、それがすべてであり、娯楽映画として本作の在り方を否定する余地は無い。と、本心から思う。(立ち位置が定まらないようで申し訳ないが)
実際、僕自身、前作同様にゴジラの巨躯に感動し、キングギドラが醸し出す絶望感に更に感動し、あの“新兵器”の登場や、“小美人”オマージュなど、一つ一つの要素に興奮した。そして、伊福部テーマ全開の劇伴には、高揚感と共に感謝が溢れた。
詰まるところ、僕はこの映画が大好きなのだ。だからこそ、“嫌い”な部分が我慢ならないのだと思う。