7.《ネタバレ》 男がようやくたどり着いた“檜舞台”の直接的な描写を、この映画は一旦すっ飛ばす。
「え、ここを見せないのか」と一寸大いに不満に思ってしまったが、それも含めて巨匠と名優の手腕に踊らされていたようだ。
常軌を逸した行動を繰り広げる男が、コメディアンとして本当に成し遂げたかったことは何だったのか。
“ブラウン管”を通じてようやく映し出されたスタンダップコメディを目の当たりにして、彼の悲哀に溢れた「過去」と「真意」が見え隠れする。
想像の範疇を出ないけれど、何らかの「性質」を抱えて生まれた主人公は、早々に親からの教育を放棄され、学校では苛め抜かれ、それでも必死に自分自身の精神を守って生き抜いてきたのだろう。
そんな中で、唯一彼に優しく接してくれたのが、ヒロインの女性だったのかもしれない。
主人公のそういうあまりにもヘビーな青春時代の風景が、ラストのスタンダップコメディによって、映画の観客のみに投影される。そして、劇中の観客たちの「爆笑」が、その悲哀を更に深く、深く、増幅させる。
主人公の言動は終始一貫決して肯定できるものではない。“痛々しい”をとっくに通り越して、明確な犯罪行為の連続であるし、主人公も含め、あらゆる登場人物が「悲劇」を迎えていても何らおかしくない。
ただ、彼の必死さは火を見るよりも明らかに伝わってくる。そして、それが単なる虚栄心や功名心によるものではないことも。
果たして主人公は、このクソみたいな社会において、「自分」の存在が唯一“認識”される手段を強行し、成し遂げる。
そうして迎えたのは、個人的にはあまりにも想定外だったハッピーエンド。
しかし、ラストカットの彼の表情はどこか晴れない。そして、劇中でもっとも冷ややかで諦観的な視線を観客に向けている。
傍若無人のサクセスストリーの果てに、遂に“キング”と成った男は、何を得て、何を失ったのか。
マーティン・スコセッシと、ロバート・デ・ニーロは、「時代」を超えて、難しい問いを大衆に投げつける。脱帽。