2.登場する人間たちの運命に対して同情はすれど、共感はできない。安直に共感できるほど、彼らがはらむ心情と境遇はシンプルではないし、他人が理解できるものではないと思う。
だからこそ彼らは、この世界の奥底でもがき苦しみ、孤独を孤独で埋めざるを得なかった。
その様は、劇中に登場する壊れやすく美しいアンティークのグラスのようで、彼らは、自分があるべき場所を求めて、ひたすらに廻り廻ってゆく。
「怒り」以来、6年ぶりの李相日監督の最新作は、この監督らしい悍ましさと、儚さ、一抹の輝きを孕んだ人間の生々しさが描き出されていた。
綺麗事では済まされないその人間模様は、愚かしく、痛々しく、とても悲しい。
それ故に、この映画の空気感は常に不穏さと居心地の悪さを放ち続け、観ていると思わず逃げ出したくなる。
きっと、登場人物たちの言動や生き様を受け入れられず、心の底から嫌悪する人も多いだろう。
僕自身、主人公の二人を含めて、行動や発言に理解と理性が追いつかずに、拒否感を覚えてしまった描写が多々あった。
あの日あの時、あのような行動をしなければ、あのような発言をしなければ、彼らはもっと楽に、幸せに生きられたのではないか。
悲しく辛い運命の螺旋に、ただただ無抵抗に呑み込まれ、そこから抜け出すことを放棄しているようにすら見えてくる。
そういった思いは終始尽きず、それが彼らに対する無共感に繋がっているようにも感じる。
ただ、だからといって、本人ではない他者が、手前勝手な主観で彼らを否定することなんてできない。
「更紗は更紗だけのものだ」
という台詞にも表れているように、不幸も幸福も、それを決めるのは本人たちだけだ。
そう誰が何と思おうとも、「私はかわいそうな子じゃない」のだ。
その主人公たちの思いを、狂おしいまでの愚直さで描きつけたこの映画世界は、決して一側面からは否定も肯定もできない人間の心情を浮かび上がせていた。
演者においては、松坂桃李、広瀬すずの両主演がやはり素晴らしい。
この数年で主人公から脇役まで、各作品で印象的な役どころを演じ続ける松坂桃李は、作品ごとに全く異なる人間性とそれに伴う表情、体躯を表現しており、俳優としての飛躍が著しい。本作でも、秘められた性愛と身体的苦悩との間で苦しみ抜く主人公を体現しきっていた。
一方、広瀬すず。彼女の女優としての天賦は、きらきらと光り輝く瞳と類稀な美貌の奥に広がる吸い込まれるような「闇」だ。李相日監督の前作「怒り」でもその「光」と「闇」を存分に引き出されていた彼女は、年数を重ねてさらなる深淵を見せつけていたと思う。(相変わらずこの監督は広瀬すずに容赦ない)
主人公二人の恋人役をそれぞれ演じる横浜流星、多部未華子も、キャリアにおける新境地と言える“汚れ役”を印象的に演じきっており、彼らの人生模様が重なることで、映画全体の重層感が増していた。
鑑賞後には一言では言い表せない「靄」が薄っすらと漂い続けるような感覚を覚える。一度観ただけでは、本作が表現する繊細な語り口のすべての汲み取りきれていないようにも思う。
そういう部分も含めて、“濃い”映画だったと思える。