11.“ハッピーエンド”のその先へ。
生まれ持った「資質」にまつわる“重責”や“鬱積”、そして“真価”を本当の意味で「解放」する物語。
持つ者と、持たざる者、それを象徴する愛すべき姉妹の素晴らしい到達点。
なんてアメージングな映画だろうか。
前作「アナと雪の女王」はもちろん良い映画だったと思う。
ちょうど愛娘が物心ついた時期だったこともあり、わりと何度も繰り返し鑑賞してきた。
ディズニープリンセスの系譜の中で、そのクラシック性をベースに敷きつつも、テーマ的には殆どそれを「否定」するレベルでの新しい時代の新しい価値観を、主人公の“お姫様姉妹”に表現させてみせたことは、アニメーション映画としてとてもチャレンジングであった。
社会現象まで引き起こす世界的なヒット作になったことも含めて、映画史上における価値も無論否定しない。
ただしその一方で、個人的な心情としては、何か一抹の“モヤモヤ感”が心のどこかに存在していて、そのことが世間の過剰な盛り上がりに対して、一歩引かせてしまっていたことも事実だった。
この続編を観てようやく明確になったことだが、そのモヤモヤの正体は、女王エルサの深層心理についてだった。分かりやすく言い換えれば、彼女の「本音」と言ってしまってもいいかもしれない。
魔法の力を生まれ持ったエルサは、妹を傷つけてしまったことや、両親の死に対して、自身の能力を呪い、それを隠すように長年に渡って引き篭もった。
そのひた隠してきた能力が、妹アナをはじめとする周囲の人間にあらわになってしまったことをきっかけに、彼女は鬱積してきた思いをぶちまけ、その資質を解放する。
そう、その様を描いたシーンこそが、前作最大のハイライトである「Let It Go」の歌唱シーンである。
逆に言うと、前作には、「Let It Go」のシーン以上にエモーショナルな場面が無い。
それはつまり、結局エルサは、「Let It Go」の前はもちろん、その後のシーンでも、更には“ハッピーエンド”のその後(短編2作含め)に至るまで、妹のアナにすら「本音」をぶちまけられていないことに他ならないのではないか。
エルサが「本音」を吐露したのは、“ありのまま”の自分を初めて自分自身で認め、高らかに歌い上げたあの最高の歌唱シーンのみだった(最後のちょっと“悪い顔”も最高)。
その彼女の“モヤモヤ”が、前作鑑賞時の僕自身の“モヤモヤ”と無意識レベルで直結していたのだと思う。
今作の冒頭でエルサ自身が認めているように、前作のハッピーエンド以降、彼女は「幸福」に包まれて王国の女王として生きることができている。
アナをはじめ、すべての国民たちは、女王である彼女を心から敬愛し、慈愛を向けている。
だがしかし、「果たしてそれが本当に彼女(エルサ)らしい生き方なのか?」ということ。この続編のテーマはそれに尽きる。
そもそもなぜエルサには魔法の力が与えられているのか。
国王である両親たちはなぜ幼い姉妹と国民を置いて危険な船旅に出掛けたのか。
そして、アナにはなぜ特別な力が備わっていないのか。
前作では、スペシャルな楽曲の数々によって巧妙に覆い隠されていたそれらストーリー上の欠落ポイントが、今作では壮大な物語性とストーリーテリングによって、補われ、きっちりと埋められていく。
そしてエルサは、「女王」としてではなく、一人の「人間」として、生まれ持った資質を解放させ、自らの存在意義と辿るべき“生き方”を見出していく。
彼女のその様は、喜びと尊厳に満ち溢れており、前作の「Let It Go」以上にエモーショナルなシーンの連続だった。
更には、すべてを決着させるための「決断」と「行動」をアナに担わせることで、この物語は素晴らしい到達点を見せる。
それは、この姉妹が「対」として存在し、「共に生きること」の“本当の意義”の表明だ。
必要だったのは、自然の猛々しい流れを強引に堰き止める巨大なダムなどではなく、姉と妹の二人をそれぞれの“袂”とした「橋」だったということ。
ぴったりと寄り添うことばかりが「共に生きる」ということではなく、互いの意志と資質を尊重し、たとえ離れていたとしても気持ちを行き交わすことも、間違いなく「共に生きる」ということであるという帰着。
“二人の女王”が、それぞれの場所で、互いを思うラストシーンには感嘆せずにはいられなかった。
前作の奇跡的な存在感を放つ楽曲群と比較すると、確かに“聴き劣り”はするけれど、それを補って余りある圧倒的なビジュアル表現とスペクタクルシーンの連続は、「圧巻」の一言だったし、連作を通じて物語全体の価値を高める素晴らしい続編だったと思う。