68.《ネタバレ》 いやあ、久しぶりに黒澤映画を観て、根幹的な映画づくりの巧さに冒頭から感嘆した。
オープニング、本作の登場人物が一堂に会する結婚披露宴のシーンが先ず白眉だ。
贈収賄が疑われる土地開発公団組織内の人間関係やパワーバランス、主要登場人物一人ひとりのキャラクター性が、披露宴が進行する中で実に分かりやすく映し出される。それと同時に、過去の事件のあらましや、渦中の人間たちの不安や焦燥感も如実に表されており、実にすんなりと映画世界内の“状況”を理解できる。
そこには当然ながら、世界の巨匠・黒澤明の卓越した映画術が張り巡らされていて、俳優一人ひとりへの演出、ドラマチックかつ効率よく映し出される画面構図など、素人目にも「ああ、上手い」と感じ取れる映画表現が見事だった。
1960年公開の作品であることをあまり意識せず観始めたので、キャスティングされている錚々たる名優たちが、これまでの鑑賞作のイメージと比べて随分若かったことも新鮮だった。
西村晃、志村喬、笠智衆ら、“老優”の印象が強い俳優たちが、まだそれぞれ若々しくエネルギッシュな演技を見せてくれる。
中でも印象的だったのはやはり西村晃の怪演だろう。晩年こそ水戸黄門役などで好好爺のイメージも強いが、若い頃の西村晃はクセの強い悪役が多く、本作でも次第に精神を病んでいく気の弱い中間管理職の男をあの独特な顔つきで演じきっていた。
また志村喬が悪役を演じている映画も初めて観たのでとてもフレッシュだった。
そしてもちろん、主演の三船敏郎のスター俳優としての存在感も言わずもがな。
恨みを秘め、復讐劇を果たそうとする主人公を熱演している。冷徹な復讐者の仮面を被りつつも、元来の人間性が顔を出し苦悩するさまが印象的だった。
60年以上前の古い映画でありながら、150分間興味をそぐことなく観客を引き込むサスペンスフルな娯楽性が凄い。
ストーリーの顛末に対する情報をまったく知らなかったので、ラストの展開には驚いたし、釈然としない思いも一寸生じたけれど、この映画においてあれ以上に相応しいラストも無いと思える。
森雅之演じる公団副総裁は、物語の佳境で自分の娘すらも騙して保身のための悪意と悪行を貫く。そしてその自分自身の様が映る鏡を見て、思わず目を伏せ、脂汗を拭う。
本作は勧善懲悪の分かりやすいカタルシスを与えてくれずに、痛烈なバッドエンドをもたらす。
現実社会の陰謀や巨悪がそうであるように、本当の悪人に対しては裁きも無ければ、贖罪や処罰の機会すら与えられない。
只々、罪を抱えて孤独に生き続け、そして一人眠るのだ。
まさに、“悪い奴ほどよく眠る”を雄弁に物語るラストシーンの皮肉が痛烈。
60年の歳月を経ても、その社会の仕組みに大差はない。
どの時代も、悪意は、よく眠り、よく育つ。