35.レイトショーの映画館を出て、真冬の凍てつく空気に包み込まれた。ふと夜空を見上げると、澄んだ空気の遥か先に満月と星が光っていた。
広大な宇宙の中で、自分自身がひとりぽつんと存在している感覚を覚え、孤独感と大いなる宇宙意思を同時に感じ高揚感が溢れた。
普段の何気ない景色が一変していたようだった。これこそがSF。これこそが映画だと思えた。
数多の大傑作がそうであるように、今作もとてもじゃないが言葉では表現しきれない。
特にこのSF映画が描き出す世界観の多層性と文字通りの深淵さは、言葉で説明すべきものではないだろう。
「圧巻」とひと言で言ってしまえばそれまでだろうし、それで充分だとも思える。
とても複雑な宇宙理論が繰り広げられる語り口は、一見難解に見える。しかも監督はクリストファー・ノーランである。一筋縄ではいかないことは必至。
しかし、実際に観終えてみれば、この映画は決して難解なのではなく、難解な要素に彩られた普遍的な人間ドラマであったことに気づく。
複雑に入り組んでいるのは、宇宙理論ではなく、むしろ多様な人間の在り方とそれに伴う濃密なドラマ性だった。
“親子愛”をはじめとする人間のドラマを根底に敷き、未知の領域に踏み出した人類は、「人類」そのものの限界とその先を追い求めていく。
中盤、“マン博士”という人物が登場する。その名前の通り、彼こそが今現在の人間の本質を表したキャラクターであろう。
一つの“限界”に辿り着いてしまった人類、進化か滅亡か、このキャラクターはその分岐点の象徴と言える。(このキャラをほぼノンクレジットで演じているスター俳優はエラい)
主人公が、“マン博士”と真正面から対峙し、それを越えようとする様こそが、人類の進化の瀬戸際だったのだと思える。
高度な科学的空想の先に辿り着く人間の真の姿と可能性。僕はそれこそが、人間が生み出した「Science Fiction」の本質であり、醍醐味だろうと思う。
そういうことが満ち溢れんばかりに繰り広げられるこの映画を、愛さないわけがない。
ただし、この映画を語り切るには、まだまだ膨大な時間が必要だ。
それは、これがとても幸福な映画体験であったことの証明だろう。