1. ホーリー・モーターズ
《ネタバレ》 最高に笑えるのだし、最高に泣ける。 終幕間際、リムジンが倉庫に続々と集まってくる。 そしてエディット・スコブは車を降りる前に仮面を被るのだ。 『顔のない眼』だ。なんというまさかのオマージュ。 そして彼女すらもスクリーンから消え去った後、彼らが遂に話始める。 「もう誰もモーターを望んでいない、行為を望んでいない」 自らをもうじき廃車になるのだと嘆いている。 そう、聖なる機械が、嘆いているのだ。 HOLY MOTORSとは、そういうことだったのではないかと思う。 日本では、舞台などでもそうだが、上手・下手と言うわけだが、 フィルムカメラは下手側にファインダー上手側にモーターがあって、 海外はファインダーとかモーターなどと言って方向の統一をするわけで、 モーターが駆動するように、この映画も駆動して人物の身体的躍動を撮らえるわけで・・ まぁ、そういうことは、本当にどうでもいいのだけども、 そういうことだと思えて仕方なく、ただ泣けてくるのだ。 冒頭の映画を観ている観客たちは果たして本当に映画を観ているのだろうか。 ただ眺めている、あるいは眠っている。 ミシェル・ピコリが言うだろう「観るひとがいなくなったら?」・・ ・・などと、そんな面倒くさいことなど考えることすらも放棄したい。 人物が動き、人物が喋り、カメラが動き、音が響き、 スクリーンに今まで見たこともない事実が投影され続ける。 そう、ゴジラの旋律に笑って、カイリー・ミノーグの歌声に涙する、 もうそれで充分過ぎるほどの映画だ。 [映画館(字幕)] 10点(2013-04-29 00:48:42)(良:1票) |
2. 危険なメソッド
《ネタバレ》 水面すれすれを微速に進むカメラと、引画の中に本当に小さく、 でも凛として立っているキーラ・ナイトレイに泣きそうになる。 どのショットにしても、とても厳格で美しい構図とライティングと 天候環境で撮れているという贅沢さに満ち溢れているだろう。 そして役者の顔と彼らが発する台詞、その芝居を、 最も理想的であると思われるフレームで切り取り、 それを繋げることで物語を作り出すという 単純な作業だけで映画を成り立たせている。 最後の背を向けあって座っての 越しのカットバックの素晴らしさよ。 クローネンバーグは会話劇を巧みな役者を集めて、 緊張感あるフレーミングで描くのに長けている。 キーラ・ナイトレイが最後に動く何か乗って泣くだろう という予測は、もう冒頭から出来るわけだ。 それというのは、隔離からの解放は絶対に描かれるからで、 ただ馬車から自動車へ変わるという時代の移ろいも含め、 すべてを丁寧に描くクローネンバーグに感動した。 [映画館(字幕)] 9点(2012-11-30 15:07:33) |
3. 倫敦から来た男
《ネタバレ》 冒頭の長回され続けるあのショットの途中、船上で男ふたりが何やら会話をする。記憶が既に朧げだが「2分経ったら・・」とか「Be Careful・・」といった会話をするが、このときの台詞がオンでいいのか疑問だ。少なくとも硝子越しに撮られているのだし、これがオンだとあの密談が主役の男、マロワンに聞こえていたということになる。勿論、その後の大声での騒動などは、大声であり、マロワンの目撃のショットであるからオンで正しい。しかし、あの密談はオフでなければならないはずだ。 長回しというのは断絶されない時間の証明だ。それは映像だけでなく音にも同じ意味になる。であるからこそ、ひとつのショットの中で定まらぬ音の演出がされているということ、これは明らかに間違っていると断言できるものだ。 そんな冒頭の緩慢な長回しを見ているだけで疲労感覚えた。シンメトリーにフレーミングされた船の先端を途轍もない遅さでクレーンアップしていくのに何の意味があるのか。何の意味もない。あまりにも緩慢なカメラの動きと人物の動きは物語やサスペンス性を宙吊りにし、ただ、ハイコントラストなモノクロームの世界を演出するだけだ。しかしそれはそれで正しいのだ。これがタル・ベーラのスタイルだからだ。 タル・ベーラと言えば450分の「サタンタンゴ」や鯨が出てくる「ヴェルクマイスター・ハーモニー」といった映画が有名であるがいずれもモノクロである。彼は自分のスタイルというものに忠実である。1.66:1、モノクロ、長回し、長尺。いずれも時代性としては後退的なものだと言っても過言でない。自分の世界にのみ生きる閉ざされた映画作家であると見られることも恐れず、スタイルを忠実に貫く。映画はこういった作家を受け入れるが、個人的にはそこに何も感じないわけで、一刀両断にしてしまえば、アンゲロプロスのほうが巧く、より感動的であるということだ。 [映画館(字幕)] 6点(2009-12-22 01:02:03)(良:1票) |
4. イングロリアス・バスターズ
《ネタバレ》 大傑作。 スクリーンに映し出される多量の空薬莢とその前に積み上げられたナイトレイト・フィルム。 フィルムが発火し、スクリーンが燃え上がり、観客は撃ち殺され、映画館は爆破される。 映画そのものが燃えて、すべてが灰と化していくのだ。 映画への冒涜、あるいは尊崇。 崩壊していく館内、ショシャナの高笑いだけがサウンドトラックを通して響き渡る。 しかし映画は決して死なない。 やがてスクリーンがあった場所にかつては映画であった残骸たちが白煙となり舞い上がる。 そして蒼白な光が投影される。 そのショシャナの顔は幽霊そのものであるが、またそれと同時に優麗でもある。 これは彼女の復讐劇であり、映画の復讐劇でもある。 糞ったれた史実を、バット一本で完膚なきに滅多打ち、血生臭いフィクションをその上に張り付ける。 生と死の上に積み上げられた、新たなる歴史という名のフィルムは正に映画である。 間違いなくこれが彼の最高傑作。 [映画館(字幕)] 10点(2009-12-01 19:15:49)(良:4票) |
5. ターミネーター4
《ネタバレ》 やたらマーカス・ライトの心臓であーだこーだやるなと思っていた。川辺では鼓動も聞いた。半分マシーン半分人間ということの強調かと思った。ところがジョン・コナーの胸部にT-800が金属片を突き立てた瞬間に移植という展開が一気に露呈した。 そして終盤、スクリーンに映し出されるすべてを疑った。この戦争の指導者は死ぬわけにはいかないから心臓を移植しましたでは、マシーンと人間との差異を描いてきたこのシリーズの根底を覆すことになるだろ。マシーンのパーツ交換じゃねーんだよ。「2」では修理すれば生きれたシュワちゃんだって自ら死を選んでんだぞ。シリーズを通しての物語の整合性など興味はないが、本質的に何を描くのかを見失っているのではないか。 そして「1」「2」の不安感は一体どこへ行ったのか。「1」「2」には、日常世界に見た目は人間だが中身がマシーンの殺戮兵器が未来から来て、反撃しようともくたばらず、執拗なまでに寡黙に追い掛けてくるという、底知れぬ恐怖とサスペンスが滲み出ていた。審判の日を経たため日常世界は消滅したのだから、同じことを求めるのは阿呆な話だが、あまりにも無意味で能天気なアクションシーンに緊迫感や不安感はなく、何よりもターミネーターに対する恐怖感が皆無だ。サラ・コナーが半狂乱になってまで恐れた終末世界ってこんなもんなのか。 これは戦争映画だ。それは正しい。マシーンは離脱や融合を繰り返し人々を襲う。これも正しい。しかし恐怖はない。ただの迫力のあるシーンだ。でかいマシーンはスピルバーグの「宇宙戦争」のトライポッドと同じ音を発し、これもまたトライポッドと同じ行動だが、人々を掴み籠へと入れるが、「宇宙戦争」にはあった不安感がここにはない。ジョンがカイルを救出するために端末をいじりながら侵入するが「ミッション:インポッシブル」のイーサン・ハントかと思う。モトターミネーターの目を使うところなどは「マイノリティ・リポート」じゃん。ジョンをトム・クルーズがやったらとんでもなかったろうに。 T-800とのバトルで、高低差のある工場内のような場所をわざわざ選んだのは「2」のバトルシーンへのオマージュだが、ここでの緊迫感はジェームズ・キャメロンのあのシーンには到底及んでいない。 悪いところばかりではないが、「ターミネーター」はシュワちゃんと、だっだっ、だっ、だだん!があればいいわけではない。 [映画館(字幕)] 4点(2009-06-15 23:58:11)(笑:1票) (良:4票) |
6. ワルキューレ
《ネタバレ》 恐らく誰もが言うだろうが、ゲッペルスが青酸カリらしきものを口に含むシーンや、トム・クルーズ演じるシュタウフェンベルクが失われた左手を高々と挙げて「ハイルヒトラー」と叫ぶシーンであるとか、そして電信所の女たちが総統の死の知らせを知り「ハイルヒトラー」という様に手を挙げる様などが素晴らしい。 この映画の簡潔さ、例えばシュタウフェンベルクの家族に対する愛情というのを鬱陶しく描かないことからもわかる通り、個々の内面、ひととひととのぶつかり合いや葛藤などという今更という陳腐なことを描くナチス映画ではないことを雄弁しているだろう。こんなにも簡潔な映画の中でひととひととのぶつかり合いなどという面倒被ることを延々と描いてもつまらないだけだ。この登場人物たちは互いを理解し合って決起するのではなく、軍事クーデターを行うということに感染して集うだけの駒だ。シュタウフェンベルクが暗殺を行い戻ってきてから、皆が同士である印のカードを次々と取り出すシーンなどは正に感染でしかない。軍事クーデターを行うことが重要であって、理解を深めることは問題ではないのだ。だから極端な話をすれば、この映画は「ワルキューレ」なのだから、ワルキューレ作戦が描かれていればいい。シュタウフェンベルクでさえもこの映画においてはワルキューレ作戦に感染した駒のひとつだ。彼は現実、今や英雄かもしれないが、この映画での彼の最期は国を愛する正義というよりは、ワルキューレ作戦という軍事クーデターに雄叫びをあげて殉じた狂信者としか映らない。ただそれでいい。「ハイルヒトラー」と叫んで死ぬか、「ドイツ万歳」と叫んで死ぬか、このふたつは簡単に入れ代わりが可能なほどの差異なのだ。 ただ、この事実を忘れてはならないということ、それを終幕直前のふたつのショットがそう言っている。 ひとつめはシュタウフェンベルクが処刑され、地面に倒れた時のクロースアップ。彼の目は閉ざされることなく、こちらをじっと見つめている。 ふたつめは一度登場したショットの続きとなるラストショット、シュタウフェンベルクのアイパッチをした左側頭部を入れ込んだ、彼の妻との別れのときのショットだ。 このふたつのショットは明確に示している。刮目せよ(忘却するな、という意も込められているだろう)、あなたたちはわたしの左目となって事実を目撃したのだから。 それでこの映画は充分だ。 [映画館(字幕)] 8点(2009-04-15 00:57:36)(良:2票) |
7. ザ・バンク -堕ちた巨像-
《ネタバレ》 美術館へ辿り着くまでの尾行、そして美術館での銃撃戦は見事としか言いようがない。真っ白で螺旋状の内壁に次々と撃ち込まれる弾痕。クライヴ・オーウェン演じるサリンジャーと殺し屋のやりとり。建物の形状を完璧なまでに駆使したカット割り。素晴らしい。 それ以前に、サリンジャーが殺し屋を追い掛けるシーン、キャメラは必死に走るサリンジャーを横移動で追っかけ、それと平行モンタージュで逃げる殺し屋の車を見せ、サリンジャーが大通りに出ると、キャメラは横位置から一気にクレーンアップして俯瞰構図となり、犯人の車が赤信号で停止している車の大群に混ざっているという一連及び最後のクレーンショットがまた素晴らしい。 人物の会話の殆どが人入れ込みの切り返しショットで処理されているのが少し物足りないというか、逆にしつこいかと感じる。サリンジャーが氷水の中に顔を突っ込み殺し屋らしき人影を思い出すインサートカットや、屋上での殺し屋はこうしていただろうという推論の回想映像は必要なのだろうか。殆どを無闇矢鱈に説明せずに見事なまでに簡潔に展開しているのに、この2点だけ過剰に説明していると思える。無くても理解できるから余計無駄だと感じる。 しかしながらこの映画は見事だ。ナオミ・ワッツ演じる検事とさよならしてからこの映画は急に晴れ晴れとした青空の中に舞台が移される。それは中から外へ出るという機能が働いたからだ。システムの中=法に司られた社会の中にいては解決できないのだが、システムの外=法を無視した世界に出て行けども決して辿り着けないという「どこかにある答えが見つかりそうで、どこにも答えがない」という<世界>にやはり着地してしまう。そこに至るまでを逮捕権のないインターポール職員とニューヨークの検事局員が追うことで、「答えが出そうで、出ない」という柵が更に主人公たちに絡み付くからいい。 ファーストショットのサリンジャーのクロースアップ(この次のショットは駅でなく、本当は車であるべきだったと思うが)はどこかにある答えを見据えていたが、ラストショットのサリンジャーのクロースアップはどこにも答えがないと盲目的になっている。それは幾らでも置換可能な現実=この近代社会のシステムを目の当たりにしてしまったという嘆きの表情だった。 [映画館(字幕)] 8点(2009-04-12 20:55:12)(良:1票) |
8. 石の微笑
《ネタバレ》 クロード・シャブロルはここ数年も撮り続けているはずだが、全く日本に入ってこない。困ったものだ。この映画を見ればクロード・シャブロルが枯れ果てた爺様になってなどいない、むしろ年を重ねますます映画が冴えてきているとさえ思えるだろう。こんなにも無駄を排した濃密な映画はなかなかない。 終盤、警察署内の扉が幾度となく開閉され、それを性急なまでに移動し、細かくモンタージュしていく。この辺りからこの映画の終幕へ向けての極度の緊迫感は高まっていく。 「もうしばらく会うのはよそう」とブノワ・マジメル演じるフィリップは、ローラ・スメット演じるセンタ(決して美人とは言えずとも、この怪しげな色香は一体何事か・・)に電話を通して言う(ここでも単純ながらも秀逸なカットバック)。しかしフィリップの衝動は抑えきれない。キャメラは浮遊感たっぷりにセンタの家へと入っていく。自然と玄関の扉は開き、半開きとなっていた地下への扉をくぐり抜け、左へ穏やかにカーブした階段を下りると裸電球がぶら下がっている。この緊迫感に唸りをあげない人などいないだろう。しかしセンタは地下の部屋にはいない。フィリップは階段を上り、義理の母とその恋人がタンゴを踊っている2階を通過し、悪臭が漂う3階へと足を踏み入れる。そしてまたひとつ扉を開けると、そこには椅子に腰掛け、前屈みになり煙草をふかすセンタがいる。この時の戦慄、もはや説明するまでもあるまい。そしてまたひとつ扉を開けると、そこには腐ったネズミではない、あの誘拐されていた少女の死体があるのだ。 この終幕までの10分から15分足らずで、幾度とない扉が開け放たれ、そこにはフィリップが虚構の世界に止めておきたかったものが現実となって広がっていく。勿論、このラストだけではない。この映画は常に扉が開かれること(あるいは閉ざすことで)、そしてその中を、その空間を移動することで物語が展開し、極度の緊迫感を醸し出している。この扉を開ける、閉めるで映画は作られ続けてきた。この扉というたった一枚の板に蝶番がついた装置が、ここまで機能してしまう。映画って凄いな、素晴らしいな、と感じる濃密なサスペンス。 [映画館(字幕)] 9点(2008-10-31 02:26:03)(良:1票) |
9. 007/カジノ・ロワイヤル(2006)
《ネタバレ》 やはり人が本気走っているのは見ていて凄く気持がいい。だから007シリーズで走っている様を映そうとする気がある場合は本当にかっこいい。とにかくピアース・ブロスナンの走る様というのは半端がないほどにカッコイイ。それをダニエル・クレイグがどう受け継いでいるかというのが一番気になるところだった。いや、いいですね。いい走りをしている。そしていい体をしている。ショーン・コネリーもなかなかの胸板をしていたが、ダニエル・クレイグも負けてはいない。 それにしてもこの映画のアクションシーン、つまり始まって間もなくの爆弾魔の追跡や、空港や、車の派手な横転、これらはこの物語とほとんど関係がない。唐突だ。いや、関係がないわけではないが、本筋ではなく、そこから派生し、枝分かれしたところで起こっている出来事、副産物でしかない。とりあえず枝の先のほうをアクションで描いてしっかり本筋に戻るという繰返しだ。だから正直このアクションシーンを記憶に留めて置くことは難しくなるだろう。あったという事実だけで、無くても良かったという苦笑と吊り合ってしまうのだ。だがそれが良い。つまりこの映画はあくまで007になるまでのボンドの純愛映画であり、そしてそれをも冷酷な顔で撃ち抜いてしまうボンドの冷酷映画なのだから。つまりピアース・ブロスナンがやり続けたただのアクション映画ではないのだから。だからそれでいい。だからこそ本来かかるべきところでかからずに、溜めに溜めて、最後の最後に劇場内に響き渡る、007のテーマのメロディーの流麗さに心が躍るのだ。ああここからダニエル・クレイグのジェームズ・ボンド、007が始まるのだと。 [映画館(字幕)] 6点(2007-09-14 15:48:36)(良:1票) |
10. M:i:III
《ネタバレ》 もはやスパイ映画ではないのでは・・という最大の疑問は無視するとして、これは限りなく充分に楽しめるアクション大作だ。 トム・クルーズってこんなに凄いんだ・・というよりこの人どうなっていきたいんだろうとか思ってしまう。この映画はスバラしくトム様マンセーの映画なのだけど、そのために次々と積み上げられていくアクションシーンだが、何だか微妙にズレてることに気がつく。最初の救出作戦、そっか一人一人やっつけてたら限が無いし、時間ももったいないもんね。そうだよ機関銃三つ一気にぶっ放せばいいじゃん、とトム様の活躍はほぼ記憶から薄れるくらいの暴れん坊。更にバチカンでは作戦云々より、フィリップ・シーモアホフマン・マスクの制作過程から変装、あれが凄い。今まであのマスクを外すシーンはちょくちょく出てきてたけど、あれをセットするのをじっくり見せたのはこの映画が初だろう。そして更にはラビットフットとやらを盗むときに関して言えば「盗んだ」という台詞ひとつで片付けてしまうという潔さが気持いい。そして最後なんかは妻にやっつけさせちゃう。なんだかこの映画は微妙にズレてる。しかしそこが面白いんだ。 そして何といっても、ただ横一直線に猛ダッシュをするだけのトム・クルーズをキャメラはただ横一直線に追い続けるところ、ここはやられた。いま、これだけ人間の肉体を克明に映し出した映画はそうは見ることはできない。ただ走って走って走りまくって妻の元へと走る様はスパイアクションとかそういった概念を飛び越えた、正に人がある一定のものに傾ける激しい情熱そのものだった。これは敵を倒すためではなくて、ただ愛する人の元へと急ぐという一種の青春活劇にもなりかけた瞬間だった。つまりアクションシーンのズレも全てここでの愛ってところに辿り着きたかったわけだ。 で、ラストだ。妻が言うわけだ「何で私たち今中国にいるの?」って。でも映画はこの後もダラダラ続く。ローレンス・フィッシュバーンがいい奴だったとか、一生会えないかもと言っていた友人、いやあえて言うなら戦友の妻に会えてテンションが上がる黒人とか、別に見たくないわけ、そんなの。何故あの妻の問いに「中国がハネムーンってのも悪くないだろ?」の一言で幕を下ろせないのかというところに今のアメリカ映画の勇気のなさを見た感じがする。今のトム・クルーズならこの台詞言えるはずなんだけどなぁ。 [映画館(字幕)] 6点(2006-07-14 02:03:41) |