1. 呉清源 極みの棋譜
呉清源演じる張震が碁盤を見つめる時、上半身を前に屈めて顔面を碁盤へ近づけるのだが、黒と白の碁石・張震の頭・メガネといった円形と、碁盤や障子といった四角形による美しい交錯に息を呑んだ。前作「春の惑い」でも見られた、水面上の張り詰めた静寂と水面下の激情が、この映画ではより審美的に強調されているのだが、その殆どが例えば田壮壮と同世代の張芸謀のように自己陶酔には落ち込まず、つまりその映像美自体が映画の目的とならずにあくまで語りの一要素となっている点は見事、というか良く耐えたと思う。それぐらいに、戦中・戦後の日本として出てくる風景が美しい。ただしこの風景は、日本人の手によってこの類の映画が作られたならば確実に出てきそうな、日本の原風景的な画とは異なった、別の日本という感じがする。またそれに拍車をかけるような演出方法―説明や心理を一切省き、呉清源の足跡(それも非常に数奇な)だけを辿る―の徹底が、この映画をかなり歪なものにしていると思われる。それでいて最初に述べたような様式美へのこだわりを有しており・・・これってトニー・スコットの「ドミノ」にも通じてないだろうか?如何にして実話、実在の人物をフィクションとして仕立て上げるか(面白いのは、両作ともに本人が登場する事。そして本人の登場が歪み(ノイズ)をさらに増幅させる(てしまう)事)。うーん、纏まりのないレビューになってしまった。 [映画館(邦画)] 8点(2007-12-18 23:17:52) |
2. 青の稲妻
退屈、の一言。 [DVD(字幕)] 10点(2007-06-11 18:55:21)(良:1票) |
3. 10ミニッツ・オールダー 人生のメビウス
ラーメン博物館という所がある。そこには人気のラーメン屋がずらり並んでいるらしいのだが、それにもかかわらず行列には差ができるらしい。うまいものでも優劣を付けたくなるのが人間、同じようにこのオムニバス形式の映画も差ができるだろう。どの「ラーメン」が「並ぶ」か。イデアの森の方も参加させてみた。一番待ち時間が長そうなのはジャームッシュとベルトルッチだろう。さっぱりしてるのにダシの効いた親しみやすい味わい。カウリスマキ、ヴェンダースは一品勝負。この店にこの味あり、といったところ。常連客多し。変り種ならシュレンドルフとチェン・カイコー、マイク・フィギス。客層に色が出そうだ。クレームもよく出るだろう。正統派なラドフォード、サボー。冒険するのが面倒なら打率の高いものを、って人に。スパイスの効いたスパイク・リーとクレール・ドゥニ、スパイスの効いたラーメンて何だよ。イジー・メンツェルは深い味わい。まあ濃い味ってこと。ゴダールはそれらを全部つぶして新しい味を作り出そうとしている。その意気買って並ぶもよし。ただハマったら抜け出せなくなるので注意。そしてエリセは、別格。俺がここの博物館のオーナーだったら誰にも食わせない。でもそんなことをしてるから彼は新しいラーメンをなかなか作ってくれないのだ。やべっ、ヘルツォーク入れ忘れた。彼のラーメンは、茹でない。ベビースターラーメンみたいな感じ。 [映画館(字幕)] 7点(2005-05-21 02:14:07)(笑:4票) (良:2票) |
4. プラットホーム
「私たちはいつも何かを期待し、何かを探し求め、そしてどこかに落ち着き先を見つけるのです(ジャ・ジャンクー)」この映画をずっと共有できたら、と思った。しかし160分という短い時間の共有はスクリーンの向こうでは10年以上の時間だった。別に彼らは「映画のような」生き方をしたわけではない。中国の広大な国土と大自然は悠久の時の流れを思わせるが、人間の世の中はむしろ加速を続けていて、時代の大きな転換点のなかをタンポポの綿毛のように浮遊している彼らはそれでも確かにそこにいて・・・観た後に感じる茫漠とした圧倒的な感動でしばらく動けなかった。意識的に非生産的でいられる時期なんて若い時ぐらいしかなく、その間にも加速していく時間の中である者はそれにしがみつき、ある者は腰を落ち着ける。こういうことはどの時代でも起きていたのかもしれないが、この監督はその舞台を中国がどんどんと自由な国に向かおうとしている時代を選んだ。それが一番印象として現れてくるのは時が進むと共に変わっていく音楽だろう。題名の「プラットホーム」とは80年代を通して中国で大ヒットしたロック音楽で、こういった新しい音楽が古い音楽では伝えきれなくなった彼らの感情を、代弁者になり爆発させる。この映画は結構クサい場面が多い。かなり露骨に狙っている。でもそれがいい。さらに言えばこれが中国大陸をまたいだ青春映画でありそのスケールが素晴らしい。 [映画館(字幕)] 10点(2005-05-18 00:53:15) |
5. 初恋のきた道
「アジアンビューティー」ことチャン・ツィイーです。ヨーロッパが嫉妬する黒髪です。その彼女を世界に知らしめた出世作がこれ。チャン・イーモウがまるで彼女を「発見」したかのように、カメラは彼女を追っていきます。多少のバランスの崩れは無視。ファインダーに捉えられた未来のアジアンビューティーは完全無欠の田舎娘を演じきり、目がくらむほどの極彩色の風景に溶け込んでました。俗っぽい審美眼は置いとくとして、純愛映画に欠かせない、古き良き時代の設計は完璧だったと思います。ただ、映画としてはつまらんですね。まったく映画に無駄がないから。チャン・ツィイーの魅力もノスタルジックな田舎も全部計算されてる感じがします。だから想像のつく魅力でしかないんです。ゴダールの映画におけるアンナ・カリーナを見るとドキッとする瞬間が何度もありますが、これは計算できるものではないと思います。最近観たものだと「子猫をお願い」のペ・ドゥナにもそういう瞬間がありました。この映画はチャン・ツィイーを愛玩化することで、カメラの先にある意外性を排除している気がします。ただ一ヶ所だけ、料理を作っているシーンではチャン・イーモウの愛玩から解放されているように思いました。「紅いコーリャン」のコン・リーも、やっぱり料理を作るシーンがいいんです。蒸したギョーザを手で触るシーンがこの映画の白眉ですね。 [CS・衛星(字幕)] 6点(2005-04-21 07:45:12) |
6. 春の惑い
二大巨頭のチェン・カイコーとチャン・イーモウが中心となって作り上げた「『黄色い大地』な映画」は最近では影を潜め、二人は現在エンタメ路線に転向(?)し、映画が業界として向かうべき欲求(=金儲け)に正直であろうとしている中、同じ第5世代の監督が珠玉の作品を現代中国の映画作家に向けて作った。とにかく静かな映画だ。音だけでない。人が、自然が、暗闇が、戦後の傷跡が全て静かなのだ。そしてこの静かさは今にも消えてしまいそうな危うさでもある。例えばチャイナドレス。主人公である女性はまさにチャイナドレスを着るために生まれたんではないかというぐらい、よく似合う。ところが、チャイナドレスというのはあの形から考えてもエロスの欲動が潜んでいると自分で勝手に思ってるのだが(だって・・・エロいよね?)、この人が着ると、それはタナトスへの指向となってしまう。そうさせているのはこの女性の演技はもちろんのこと、この映画の最も重要な要素である光の力だろう。指す光、漏れる光、揺らめく光・・・光ってこんなに沢山の種類があったのかと思わせる。その張本人は夜だ。この映画では夜に物語が動く。相当に広い屋敷の中でわずかな光がこぼれている。この光の強弱が感情の振幅になって観る者を惑わせる。物語は非常に単純だ。しかし古城の春の訪れをこんな形で伝えてくれた監督の力量は凄い。また中盤、大河に浮く小船の上で登場人物たちが「美しき青きドナウ」の中国版を合唱するシーンが個人的には大好き。リーピンビンの映像に酔うしかない。 [映画館(字幕)] 9点(2005-02-14 13:28:09) |