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341.  おとうと(1960) 《ネタバレ》 
崑てモダンなんだけど、日本の家の暗さを描くと一流なんだ。日本の家屋の古さにモダンを見ている。描かれていることは陰湿と言ってもいいのに、観ている印象から言うと、湿り気が感じられない。田中絹代の母が、一家のあまりの「背教的態度」に、ああーと絶望の声を上げるとこなんか、陰湿さであるはずのものが客観的な笑いを生んでいる。この距離感が、崑のモダンたるところ。暗い話を、監督は一緒に閉じ籠もって暗く見てはいなく、外から見ている。田中・岸田がひっそりと話し合ってるあたりに漂うユーモア。弟の内面をほのめかすシーン、死なせた馬が可哀想と繰り返したり、アイスクリームで人に伝染させちゃいけないと言う場面などでは、常に姉を立ちあわせている。姉の目を通した弟にしている。そんなに悪い子じゃないのよ、って。姉にだけにはそう見せたい弟の甘えでもあるのか。そういうとこに、この二人だけの親密さが漂う。あるいは鍋焼きうどんで姉を試そうとするあたりも。外の人間に向かわない自分たち姉弟だけで閉じている親密さを、これじゃつまんないな、と弟が病床で述懐するところが切ない(これがけっきょく彼の最期の言葉になったのか)。日本映画では、ラストをピタッと決めるのがうまく出来ないのが多いんだけど、崑はうまいね。パッと断ち切る鮮やかさ。俳優では暗い田中絹代が素晴らしく、彼女の長い俳優歴のなかでも異色の代表作と言っていいだろう。
[CS・衛星(邦画)] 7点(2011-06-30 12:15:48)
342.  REX 恐竜物語
ファンタジーでこそ、作者は自分の世界をしっかり持ってなくちゃいけないもののはずなんだけど、日本ではそれがいい加減になってグズグズにされてしまう。とりわけ目立つのが不思議な公私混同。よくあるんだ。これなんか、恐竜生育という行ないと、ピーマンを食べさせる教育とが、ベタッと当事者が奇妙がりもせずにくっついている。この科学実験世界の貧相さ。せっかくペットを恐竜にしたのなら、もっと成長することの悲しみなり、怖さなりが必要なのではないか。後半家出してからのいい加減さは、もっと意識的にやればナンセンスのきらめきに至れたのかも知れないのに、ただの「いい加減」にとどまってしまう。無理にいいとこを思い出そうとすれば、ラストの雲によるREXがちょっときれいだったこと。
[映画館(邦画)] 4点(2011-06-22 11:04:19)
343.  お姉さんといっしょ
うわっ、半世紀以上も前の西武新宿線中井駅だ(ローカルな感動で申し訳ありません)。やがて山手通りとして混雑する線路を跨いだ道もあるし、弟が迷子になって帰ってくるとこは妙正寺川ぞいのあたりではないか。ロケもそこらへんとは限らないわけだが、坂が多いのはあそこらへんの特徴(学校は高山小学校と読めたが三鷹にあるやつだろうか)。古い映画で銀座や上野はよく見られるが、こういう山の手の住宅地は珍しかった。別に中井に住んだことがあるわけではないが、知ってる場所の昔が出ると嬉しい。廃墟の空き地ってのがまだあり、崩れ残ったレンガ塀の上を子どもたちが歩いて遊ぶとこでは感涙した。家にテレビはなくラジオもたまにつけるだけ、商店街での和服に割烹着姿の買い物客の比率の高さ、などなどに、いちいち反応させられた。こういうのが劇映画鑑賞の態度として正しいのかどうかは分からないが、じっくりと見させてもらった。つくづくあらゆる映像は記録だと思う。お姉さんをやった伊吹友木子って、すました奥様なんかをよくやってた女優さんの少女時代じゃないかと思い、ネットで検索して中年の顔を見ようと思ったら、最近の写真らしいお婆さんの顔しか出てこなかったので確認できず。えーと話は、お父さんが出張、お母さんが病気で田舎に療養、留守を預かるお姉さんと小学低学年・未就学の兄弟、三人暮らしのあれこれ。田舎のお祖母さんが来たり、りんご売りに気を取られて迷子になったり、といったエピソードで50分をつなぐ。もっと「けなげな留守家族」を売り物にするのかと思ってたら、普通に「わんぱく」で良かった。
[CS・衛星(邦画)] 6点(2011-06-21 12:22:56)
344.  たそがれの東京タワー 《ネタバレ》 
昔1時間ぐらいの中篇映画が大量に作られてて(大島や今村の初期にもあり)、ああいうのがあんまり映画史の本には出てこないんだけど、なんだろう、助監督の昇進試験とか、新人俳優のテストとかを兼ねてたのか。たぶん時代の映像記録の宝庫ではないかと思うんだけど、ちゃんと保存されているのだろうか。でたまたま観られた大映のこれについて、ちょっと語る。主演女優が仁木多鶴子って人で、ロングで出てきたときは若尾文子に見えたがアップになったら財善直見だった(ないと思ってたらこのサイトに人名登録されてた。大したものだ。『猫は知っていた』でヒロインをやってる。そこから採った芸名だな。未見だがメロドラマのヒロインより少女探偵役のほうが合ってただろう)。主演男優のほうは川地民夫似の小林勝彦って人(こっちも登録されてた。おもに時代劇の脇役と声優で活躍)。この無名の二人によるメロドラマ(知ってる顔は三宅邦子と市田ひろみだけだった)。洋裁店のお針子が孤独のあまり夜な夜な店の服を着て都会に出没し、男と出会う。いいとこの娘と嘘をついてしまう。男は車関係の職工だと言う。募る恋心と今さら本当のことを言えない後悔にさいなまれて、苦悩煩悶。しかし実は男は大きな車の会社の社長のせがれで、最後はうまくいき、東京タワーの展望台で愛を誓うのだった、って話が1時間ほどの間に展開する。あまり映像記録としては得るものがなかったが、それでも当時の映画が観客にどういう夢を提供しようとしていたのかが分かる。ヒロインは孤児という設定で、時代的におそらく戦災孤児だろう。そこらへんの世代が就職していた時期だった。そしてモータリゼーションの波がやってきつつあった時代で、まさか世界中を日本の車が走ることになるとは思ってなかっただろうが、最先端の企業として車があった。身分を上にごまかしたのと下にごまかしたのとが、うまくいくという設定に、たぶん当時の時代の夢が織り込まれている。最先端のものが底辺のものを引き上げていってくれるだろうって。そんなとこでも、昔の映画はその時代の記録としての価値があるんだ。」
[CS・衛星(邦画)] 5点(2011-06-14 10:04:50)
345.  元禄忠臣蔵 後編
これは原作の真山青果のせいなんだろうけど、まったく大石中心の話なわけね。群像ものではないし、吉良のほうもほとんど描かれない。第一討ち入りシーンがないんだもん。原作がそうなんだけど、これって当時の国策映画が兵隊さんの苦労話だけ描いて、敵が出てこない、ってことと似ている。大石のやったことがいかに善か、ということより、彼の内心の苦衷に共感しようとするほうが大事なんだ。だからあえて悪玉を描く必要がない。あえて中国侵略を正当化するアジテーションを必要としなかったこととパラレル。そういう意味では間違いなく本作もあの時代の国策映画であったわけだ。美しいとこと言ったら、まず冒頭、能舞台の裏手からクレーンで下降してきて大セットを収めていき、そのまま殿様のほうに寄っていく大移動。屋敷の中で吉良を見かけた翫右衛門が、すがりつく妹を引きずりながら奥へ向っていくシーン。長回しで廊下を回り歩いた果てにこれがくるのでいっそう効果があった。ただラストの高峰三枝子のエピソードは退屈だったな。もう疲れてたし。
[映画館(邦画)] 7点(2011-06-09 10:22:56)
346.  元禄忠臣蔵 前篇
2カット目で刃傷になる空前絶後の松の廊下。まずセットのすごさを見せて、ついで柱越しに捉えてゆるゆる移動するカメラ、吉良が浅野の悪口を言ってて、こちらに歩いてくるとその後ろのほうで座ってた内匠頭が立ち上がってこちらに走ってきて切り付ける。この緊迫感、文句ないですなあ。知らせを受ける浅野家での部屋を越えていく横移動、あるいは裁きへの不服を訴えるナントカのあとを追いかけていくカメラ、いずれも新鮮。構図美では屏風囲いの中での内匠頭を俯瞰で捉えたカット、障子ごとに座っている侍たちがアクセントになって実に美しい。切腹シーンは俯瞰で始まりゆるゆると下降していきながら、内匠頭が何かにハッとしてカメラが地上に降り立ったときに、家来が画面に入ってくる。内匠頭が中に入ると同時にまたカメラが上昇して、中の儀式と外の家来の嗚咽を同時に収める寸法。あるいは城受け渡しのときや、山科閑居の母と娘が去っていくときの駕篭を追うカメラ、など移動撮影の美の極致を見せてくれる。構図がどんどん変化していくことのサスペンス。俯瞰は権力志向だと言われるけど、クレーンで下降してくると、観客の視線が登場人物の高さに下りてくる、って感じもある。本作は溝口の映像テクニックを堪能するだけのためなら、一番ふさわしい映画。
[映画館(邦画)] 8点(2011-06-08 12:16:01)
347.  必死剣 鳥刺し 《ネタバレ》 
世間の噂話だけを根拠に、自分の死に花を咲かせるための暴力を行使する、って昭和にもたくさんいた愚かなテロリストの典型みたいな冒頭の事件。あんまりこんな奴に付き合いたくないな、と思いながら観続けていると、疑念を持ちながらもボスの言いなりに用心棒としての殺人を行なう。自分というものを消して、道具に徹する。使役され、善悪の判断を外部に置くスッキリした生き方ではあるが、やはり愚か。しかしそこで使役されていた意味が分かり、初めて自分の判断で「敵」を捉え乱闘から必死剣に至る。「必死」によって初めて、自分自身だけの「生」にたどり着けた男の物語、ってことか。観ながらモヤモヤしていたものが、岸部一徳の下知で「そういう話か」とスッキリする瞬間がこの映画の勘どころ。その瞬間のドキドキに比べると後の乱闘はいささか大味だった(ご別家との一対一の静かな緊張は悪くない)。使役されることの悲しみは漂った。「侍もの」では女性の描き方ってのが難しいんだな。噂話というベールは掛かっているけど、側室は分かりやす過ぎる型通りの悪女で、主人公の妻や姪は、これまた型通りの貞女。寂しく微笑むだけの存在。時代劇でも市井ものでは魅力的な女性をたくさん描けるんだけど、武家ものになるとなかなか型を破れない。それだけ女性が生きづらい環境だったってことなんだろうが。
[DVD(邦画)] 7点(2011-06-07 12:22:57)
348.  路上の霊魂
演技法はやはり映画黎明期特有の大振りで、顔を手で覆って回顧したりする。本作は「低俗娯楽でない芸術映画を創るんだ」という意気込みで製作されたフィルムだから、とりわけ新劇臭が濃いのかもしれない(クリスマスのシーンなんかがある)。しかし姪にバイオリンを聞かせている樹に寄りかかっているカットの美しさ、なぞは普遍的な映画の「美しさ」に至っている。運命の分かれ道のカット、八木節の兄妹が去っていこうとしている道、伝明ら親子の帰郷の丘の上から見た道など、画面の奥に伸びていくカットに映画ならではの新鮮さが感じられる。あのお爺さんが小山内薫だそうで、太郎がこの監督の村田実、じいやの役がシナリオを担当した牛原虚彦とのこと。関係者一同がスタッフキャストを兼ねワイワイやっている自主制作的な手作り感に時代の息吹が感じられ、現在の我々には歴史的人物を動画で見られる興奮がある。オバサンでしか知らない英百合子が令嬢役。テーマは寛容と非寛容の対比で『イントレランス』の線。大正10年とはそういう時代だったんだろう。関東大震災より前だ。令嬢の想いが駅の太郎のとこに現われ、父のとこに息子(?)が、また落ちぶれた主人公のとこに若き主人公がバイオリン持って現われ、なんてトリック映像が当時の観客にはびっくりだったんだろうね。いやそうでもないか、目玉の松っちゃんの忍術映画など、彼らが目の仇にした「低俗娯楽映画」でもうその手の映像はさんざん見て、観客の目は新劇人より肥えていたはずだ。
[映画館(邦画)] 6点(2011-06-06 09:57:30)
349.  鑓の権三
三宅邦子はキートンに似ているという発見はあったが、それはさておき。一つ一つのカットはたしかに美しく、日本美の写真集といった趣はある。ただそれがリズムになってくれないのよね。そこが崑との違い。でも前半はけっこう良かった。権三がヒョロッと結婚の約束をしてしまったあたりから、逃げていく朝にかけてのあたり。あっという間に自ら悲劇に飛び込んでいってしまう、その勢いのよさに、一種の爽快感すらある。つまり泰平の世で、槍よりも茶の時代、おさゐの娘との婚約を決めちゃうのは、権三にとっては一勝負でもあったということ。泰平の世に対して、人々が何かイライラチリチリしてる感じ、ってのがずっと底にある。おさゐの縁側での長いモノローグなど、リアリズム離れするとこはいい。
[映画館(邦画)] 6点(2011-06-05 10:04:17)
350.  支那の夜 [前後篇]
古い劇映画は当時の記録映画としての意味も持ち、その意味でこれは「あの時代の日本人の自分勝手なエエカッコシイの精神」を知るに優れていた。兄的な立場、我慢している立場、そして教育者という立場。そのままあの戦争の大義に重なる。「白人に支配されているアジアを、アジアのなかの兄さんである日本が、もう我慢できずに解放してやるのだ」。現実にある抗日運動に対しては、一応上海で日本人が傍若無人に威張っていることは認めざるを得ない、そこにある現実だから。それは認めてそういう「一部の不届きな日本人」に説教する。でこちらにひとつ負い目を負わせておいてから、李香蘭の方には「抗日運動は目隠しされた愛国心」だと言えば、これを観ている日本の観客はその二つで釣り合いを取ってしまう。全然レベルの違うものを釣り合わせて、納得させる。李香蘭の崩れた旧家と、日本の兵士の戦死。そういったゴマカシの釣り合わせの果てに「だからこそ手をつながなければならないのよ」となってしまう。そしてそれを情緒のレベルで許してしまう日本人のいい加減さ。ひどい話であるが、そのひどさを平気で生んだ当時の日本人の精神が、この映画にはしっかり記録されていて貴重。
[映画館(邦画)] 7点(2011-06-04 09:56:35)
351.  水の旅人 侍KIDS
この監督は破綻するときは、いつも同じ傾向の破綻の仕方をする。ある種の大袈裟さ、テーマを扱う手つきに異様に力がはいってしまう(ダムに捨てられる空き缶)、コミカルを狙うのがハシャギになって、制御が利かなくなってしまう、パトカーを盗むあたりの演出。どこか「しっとり」とか「しんみり」があって、うまく釣り合いが取れるといいんだけど。合成も昔と比べりゃいいのかもしれないけど、なんせ『ジュラシック・パーク』観た後だと、金も時間もヒトケタ違う仕事って感じ。カラスの動きなんかもうちょっと何とかならなんだか。家庭の日常シーンは細かいカット割りでせかせかさせる(これを徹底させたのが次の『女ざかり』なんだろう)。この人のテーマとしての「時間」がやはり絡んできて、流水に「年をとること」や「若返ること」が重なる。カメラ・レコード・講談社の絵本、などの古物趣味を展開されると、何も昔ばかりがいいわけではない、とも思いたくなる。そして「水」は人間が保護するばかりのヒヨワなものではないことを、日本は最近また痛いほど知らされたわけで。
[映画館(邦画)] 5点(2011-06-03 10:08:46)
352.  煙突の見える場所 《ネタバレ》 
原作椎名麟三のドストエフスキー的なるものは、つまり邦画の庶民の世界として親しんでいたものと同じだったんだ。何気ない日常の会話が、不意に深淵に迫ってくる。ささいな言葉のやり取りが、実は人生についての深刻な論争であったりする。それをまたうまく人情コメディにまとめ上げる技術のたくみさ。旦那が自殺しかけているときに逃げてきちゃった関千恵子と赤ん坊を捨てた母親が、明るい土手を歩いていくあの晴れ晴れしさに感動した。人を悪と善で割り切らない・あるいは割り切れないものとして遇する態度、これって明るいドストエフスキーじゃないか(と感心したら、あの関千恵子は原作にはないんだそう)。邦画は1940年代、前半は国威発揚・後半は民主主義啓蒙と、「大きな話」が占めていた。しかしここではそういう大局論や評論家的な態度が退けられる。虫歯や子作りレベルの身近な話から大きなものを見通そうとする。それが黄金の50年代なのだ。芥川比呂志の「正義」も、上原謙のパチンコで茶化される。そして「大きな言葉」が去った後の、新しい在りようをみんなで襖越しに模索している。「庶民」を描くことに徹しながら、「人民」までを見通そうとしている。時代の息吹を感じた。部屋の中にやたら影を導く(窓の桟から庭木の枝振りまで)。しかしそれが暗さにはつながっていない。といって光の存在の強調でもない。何か外部が変わりつつある予兆、とまでは言えないかも知れないが、風通しのよさが感じられてくる。
[CS・衛星(邦画)] 8点(2011-06-02 10:21:36)
353.  部屋 THE ROOM
車窓から見た東京の風景に新鮮なものを感じられぬでもない。車から見た商店街。東京を中央線沿いに選び取る、ってのはちょっと面白いとこで。でも主人公が殺し屋と分かるとこで俄然色あせた。まあ最初の部屋の注文のあたりでもう何か60年代アングラ芝居(のよくないところ)が臭ったけど。なんでいまさら「殺し屋の哀愁」なんだろう。麿赤児もよくない。今ではパロディとしてしか成り立たないピラニア軍団的雰囲気。洞口依子が車の中で始めて視線を向けたとこのみ、ハッとした。移動は佐野史郎の体を運ぶとこと、洞口嬢が歩いていくとこの二つだけだったか。喫茶店でコーヒーを頼むあたりからシラけてしまった。サクラへのこだわりもよくわからない。
[映画館(邦画)] 5点(2011-05-31 12:09:44)
354.  月はどっちに出ている 《ネタバレ》 
問題の立て方は悪くないのだが、どうも映画としてザクッとくるところがない。そのエッジの不確かな鈍痛感こそ、在日外国人の痛みに一番近いのかも知れないけど。タクシー運転手という、他人と一対一の仕事場の面白さがあまり生かされなかったのでは。一番実感があったのは、乗り逃げ客の場だな。姜(が)さんと呼ぶ、自称韓国問題に関心のある客、ただただ穏やかに受けていく忠男、逃げた後の追っかけがあって、客は開き直って暴れ、次いで手をついて謝り、次いで防御の姿勢を取るところがおかしい。日本そのものの戯画として秀逸。釣銭を渡すのがいい。道に迷う新米、東京タワー、黄金のウンコ、の次に富士山が来る。タクシーの漂流の感覚と出稼ぎ者の感覚、その「地に足が着いていない」心細さと自由さ、それらをもっと詰めれば、在日の問題が普遍的なテーマにまで広がったようにも思えるが、ちょっとタクシー会社内のシーンの比重が大きすぎた。この浮島のような会社が燃える、ということの重さがも一つ感じられなかった。アイデンティティの不確かな世界を、満ちては欠ける月だけを頼りに車を走らせていく、って設定は理解できる。
[映画館(邦画)] 6点(2011-05-28 12:49:22)
355.  孤高のメス 《ネタバレ》 
地方を舞台に、熱血青年が古い因習に挑む、ってのは「坊っちゃん」以来の日本物語の定型で、「先生」と呼ばれる聖職ってのも大事なポイントなんだろう。イイモンはやたらかっこよく、ワルモンは俗物臭ぷんぷん。物語としてはそれでいいのかもしれないが、もし臓器移植への問題提起だとしたら、ちょっと話が都合よすぎる。ドナーの家族が、移植によって臓器の一部でも生き継がれればいい、と理想的に判断してくれて協力的。問題はすべて、移植を認めていない当時の法律や俗物の医師たちに寄せられる。これでは正解は「臓器移植」と最初から定まっていて、問題提起というより移植推進のプロパガンダだ。脳死の問題が医者の正義感だけに託されている。あの俗物の医者たちが脳死判定する可能性を除外している。脳死の問題は、たとえばずっと病院で臓器を待っている好青年がいて、そこにほとんど脳死状態の怪我人が運び込まれてくる、なんてとき、閉鎖的な日本の病院世界できちんと厳密な脳死判定がされるだろうか、という不安があるとこだ。臓器提供をためらう家族をこそ登場させなければならないんじゃないか。それでいて手術後は意外とあっさりゴタゴタは処理されてしまって肩透かし。脇筋の、子連れ看護婦の熱血医者に寄せる、敬愛と自分に言い聞かせているような恋愛感情の描き方が、押さえながらも筋を通していて味わえた。子どもが母の日記を読み、仕事一途だった母にもこういう華やぎの気持ちがあったと知る展開になっているのも良い。最後の別れの場では、ずっと「怒っている」夏川結衣が年齢相応にドタドタと車に走り寄り、「私は本当は○○○○が好きなんです」と告げるところでホロリ。ロケをした港は、震災の被害を避けられたのだろうか。
[DVD(邦画)] 6点(2011-05-27 09:57:30)(良:1票)
356.  卒業旅行 ニホンから来ました
この年、一色伸幸は『僕らはみんな生きている』と本作で東南アジア路線だった。あれにしろこれにしろ、戦争の疚しさを引きずってない世代の新鮮な目で見た東南アジアが好奇心の対象になっていて、こういうのがあるのもいいことではないかな。チトワンを見つつ視線が日本に戻ってくるようなところがあって。チトワン-日本の関係がそのまま日本-欧米の関係に重なり、いちいちのおかしみが己れのおかしみに返ってくる。「淫行」というTシャツは「Make Love」というTシャツと同じであり、そういう皮肉が屈折せずにコーンと突き抜けてるところが気持ちいい。よその国を憧れる、ってのは日本の慢性病だったけど、それを憧れる側から見てみるわけ。その誤解・捏造されたニホンのおかしさ。こっちのイイカゲンと向こうのマジメとが噛み合ってしまう。雨のなかでも映画を見続けるインドの客、自転車をライト代わりにするチトワンの客、こっちのイイカゲンを向こうのマジメが乗り越えていってしまう。戦争の傷跡にも経済侵略の問題にも触れてないけれども(チラリと鹿賀がジャパユキさんに絡んでいることを匂わせていた)、東南アジアと日本との今現在(公開当時)の関係の一面をうまく切り取ったような気がする。
[映画館(邦画)] 8点(2011-05-22 09:33:46)(良:1票)
357.  関の彌太ッぺ(1963) 《ネタバレ》 
長谷川伸の名作のうち本作は、時を置いて主人公が「すさむ」パターンが「一本刀土俵入」と共通しており、その「すさみ」のために思い出してもらえないほど人相が変わっているという話のツボも一緒。長谷川伸の一番お得意の展開なのだろう。本映画の場合、ちょうど錦ちゃん自身が、前期の明朗な役柄から後期のニヒルな役柄に移る時期と重なったことで、すさむ前とすさむ後と、どちらも無理なく演じられた。基調にあるのは、どうせヤクザもの、という「かたぎ」に対する疚しさ。それは甘えの裏返しかもしれないが、その「すさみ」のなかに「真情」を光らせる。彼の目に映るかたぎのなごやかな家庭は、いつも額縁に入ったように垣根の向こうに見えてくる。曇天の墓参りの場や暮れ六つの鐘が鳴り渡るラストシーンなどロケも美しい(あれ七つ鳴っているのを今回発見した、最後のひとつは弔鐘なのか)。あるいは妹について知らされている岩崎加根子との場で、ゆっくりゆっくり近寄っていくカメラ。それと本作で大事なのは木村功で、気のいい小悪党の悲しみを演じて非の打ちどころがない。前半の屈託のなさが、後半の自分の恋情に突き動かされる弱さに自然につながっている。結婚してかたぎになろうとしている。そのために亭主には頭を下げ、ならぬとなれば一度は引き下がろうと旅支度までしている。やくざものとかたぎとの敷居の高さに阻まれた絶望が荒れさせたのだ(この作品で敷居を越境できたのは、けっきょく悪党の娘からかたぎの娘となったお小夜だけで、弥太郎は、悪の川にさらわれてそのまま苦海へと越境できずに流れ去った妹の代理として、自ら川から救い上げたお小夜の越境だけはなんとしても守ろうとしたのだ)。木村功の最期は「いっそ尊敬するアニイにどうにかしてほしい」と願ったゆえのものなのか。かたぎでない者はみな自死のように、それぞれの死に場所へ向かっていく。この「すさむ」ことの美意識は現実世界では危険なものでもあるが、それをスクリーンという額縁の中でぎりぎりまで磨き尽くした本作の成果には、ただただうっとりさせられる。
[CS・衛星(邦画)] 9点(2011-05-21 09:58:15)(良:3票)
358.  女学生と与太者 《ネタバレ》 
昭和ひとけたの邦画はギャングやヨタモノが跳梁していて嬉しい。アメリカ映画の影響か。でも冒頭の夜の街の移動から宝石泥棒に至るタッチは、ドイツ映画の『アスファルト』を連想させられる。ビビッてる阿部正三郎の前のテーブルにカッとナイフが刺さったりする。話の本筋は、水久保澄子を姫として、与太者三人組が騎士道的に仕えるという話。そこにO・ヘンリーが重なったりするのだが、どこか日本的なものもあって、そのチグハグ具合がおかしい。ラストの金庫あけなんかまるっきりイタダキなんだが「きれいになって出直さなくちゃならない」なんてとこは、任侠もの的な日本の匂いがする。みんな元気よく走る。走るだけでなく、電柱に上ったり、終わりのほうでは自転車で東京へ疾駆する。これに水久保嬢の洋裁学校でのいじめが絡み、ここの女教師で洋服姿の飯田蝶子が見られるのも珍しい。とにかく戦前の町並みが映るだけで嬉しくなってしまうもので。
[映画館(邦画)] 7点(2011-05-19 09:56:14)
359.  反逆児(1961) 《ネタバレ》 
ヤマトタケルや義経にも通じる「一族に使い捨てにされるりりしい若者」という日本古来の悲劇の伝統、と錦ちゃん側から見ると古典劇的な設定なんだが、ドラマの展開の軸はどちらかというと女たちの心理ドラマで、だから杉村春子・岩崎加根子ら新劇俳優のほうが生き生き演じている。だいたい「忠臣蔵」でも、大石は旧劇系、吉良は新劇系という配役になるもので、複雑な心理を演じるとなると新劇系に託される。だからこれは時代劇ではあるけれど新劇なので、するとラストの介錯の刀がためらうあたりの大時代な演出はシッカリ浮いてしまう。いっそ女のドラマと割り切った作りにしてしまえばスッキリしただろう(ま、ポスターのトップは錦之助でなければならなかったんだろうが)。杉村・岩崎に加えて桜町弘子も、あの時代の「コマとして使われる女の悲劇」を演じていた。グレートマザーに滅ぼされていく若者を「反逆児」とわざわざ持ち上げなくても良かろう。このタイトルは「反逆児になれなかった坊ちゃんの悲劇」の略なのか。錦ちゃんて、悲憤慷慨する場面で歯を剥くといつも笑ってるように見えるので昔は戸惑ったが、慣れてくるとその笑ったような怒ったような不思議な表情が「なるほど、屈折した悲憤慷慨なんだなあ」と味わえるようになったものだ。
[CS・衛星(邦画)] 6点(2011-05-18 12:14:35)(良:1票)
360.  大殺陣 《ネタバレ》 
「世直しの大義」を実行する主人公一派のボス山鹿素行が、安部徹ってのがいい。対するのが大木実で、悪役同士。正義を声高に叫ぶ連中を突き放して見ようとしているところがある。どっちもどっち。一派の中にも、テロ実行直前に女を犯そうとするナマグサ坊主がいたり、それまでの「正義」の時代劇とは一線を画している。でも突き放しきれてない中途半端な仕上がりで、過渡期の試行錯誤ってとこだろう。このカッカしている人々の対照物として平幹二朗がいるんだけど、それが最後までニヒルを通せない。「大義でなく友情のために」という流れにはなっていたが、もっと主人公たちの批判者としてあり続けてほしかった。突き放しが弱いと、決行前に妻子を始末しておく残酷も、美談として受け取られかねない。そもそも軍学者の立てた計略にしては粗雑で、山鹿流ってのも大したことないじゃないか(あばれ馬が走りこんでくるあたりはワクワクしたが)。また幕府側も、ことが終わったと見て綱重をムキダシで歩かすなど、こっちも粗雑。ローアングルのワイド画面、しばしば梁や塀など障害物越しに対象を捉えるカメラ、などが楽しめた。大木と安部が廊下を行くシルエットと並行する侍の場も美しい。
[CS・衛星(邦画)] 7点(2011-05-16 09:56:20)(良:1票)
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