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681.  ナージャの村
チェルノブイリの被害を受けた村の、リンゴの収穫から冬を経てまた春までの一年。こういう四季ものってのは、だいたい時間の循環を描くものだが、隔離され滅びるのを待たれている村なので、その循環がかえって直線的に滅亡へ向かう現状の厳しさを際立たせる。生活の営みはあるけれども、着実に人は減り、死者となって帰ってくる。バス停も店も草に覆われ、終末のイメージは隠せない。村に残っているのは老人ばかりでなく、タイトルのナージャという女の子もいれば、ボクサーという名のうさんくさい男もいる。屋根のスレートを剥がしては売りにいき、あとは釣りをしてブラブラしている。そういった豊かなキャラクターがありつつも、着実に村は衰亡に向かっている。ヤギのシロも死ぬ。ナチの侵攻に耐えた村だったが、「今度のやつは…」と村人は言う。それでもおばあちゃんは種を植え「外はいいぞ、早く芽を出せよ」と唱えるの。希望を見いだしづらい映画だが、現実がそうなのだから仕方ない。編集に佐藤真。
[映画館(字幕)] 7点(2009-02-05 12:11:29)(良:1票)
682.  鉄塔 武蔵野線
数字の誘惑。そうなんだ、子どものころって何か異常に数を数えることが好きで、カウントダウンした果てへの興味というか、「はるかさ」への誘いというか、もうこの主人公の気持ちが分かりすぎるほど分かって、懐かしくて仕方なかった。数字の果てが、電線が連続した向こうに確かにあるんだ、という興奮。家電製品からコンセントまで、そのはるかさの入り口として誘いかけてくる。これはもうたどって行くっきゃない。これぞ武蔵野という埼玉の風景。コンクリートと緑が平然と同居している。土留めの脇に雑草が繁り、どぶ川を自転車で越え、いちいちが懐かしい。父親とのからみがやや文学臭を与えてしまったが、ラストで、父‐ラーメン‐草刈りとつなげていくあたりは自然で納得。ミッチャンと呼びかける4年生のアキラ君もなかなかいい。
[映画館(邦画)] 9点(2009-02-03 12:11:20)
683.  四谷怪談[前篇/後篇](1949) 《ネタバレ》 
おそらく当時の観客には『愛染かつら』のコンビによる四谷怪談というふうに意識されたんだろう。木下が撮った時代劇は、これと深沢七郎の二作品のみか。冒頭、塀沿いに引いていく雨中の脱獄シーンはなかなかの迫力。木下は作品ごとになんか趣向を凝らすが、今回は俯瞰の多用で押していく。見下ろす者の視点。木下の実験性は、田中絹代の二役による会話シーンにも見られ、けっこう手間をかけている。伊右衛門は気が弱く決断を先送りしているうちに悪に勝手に入り込まれる、というような解釈だ。それに自分が足手まといかもしれない、と思いがちなお岩の不安が添う、やたらメソメソする。あの敗戦直後の失業者の家庭はこんなでもあったのだろう。佐田啓二の小仏小平がお岩を抱えてゆっくり歩む場に、鬼気迫る美しさがあった。ラストの炎の場も大変美しい。全体としてこれは「怪談」というより「事件」の扱いで、伊右衛門の気の弱さゆえの妄想とも言える。
[映画館(邦画)] 7点(2009-02-02 12:10:29)
684.  素浪人罷通る
刀を振り回すことを禁じられていた敗戦直後期の時代劇。天一坊のもとに、ひとつ当ててやろうという有象無象が集まってくるところなんか、このころの世相を映していたのではないか。阪妻の豪放な大芝居が楽しい。大岡越前との翳りゆく部屋での談判。暗くなると障子の向こうの廊下を手燭の灯が入ってくるあたりの味わい。天一坊の出立の声を耳にしつつ寺子屋の教授をしている場のリズム感も、大ぶりで良い。全体が大ぶりで骨太の味わいなの。ラストの瓦屋根の大きな構図に青空、御用提灯の場でも爽快である。時代劇の灯を絶やさせまいという決意、というほど大袈裟なものではないかもしれないが、とにかく時代劇のおおらかな気分が溢れていて、立ち回りができないという禁止がかえって作品を練り上げた。封建制を批判してるんだよ、という文章が頭と終わりに付くのは、進駐軍への確認のアピールか。
[映画館(邦画)] 7点(2009-02-01 12:14:55)
685.  鬼火(1997)
老いの秋ではなく、青々とした夏が背景となっているので、なかなか街に溶け込めないムショ帰りの主人公の気分が生きてくる。墓参りして改心した原田芳雄が街に戻るが、しかし力仕事はもう無理、けっきょくヤクザのとこの運転手となりズルズルかかわっていってしまうあたりのリアリティ。世の中と合わないこの感じを突き詰めていけば、新しい映画ジャンルを拓くか、とも思ったが、けっきょくタメて爆発するという仁侠映画の大枠に収まっていった。スカッとはするけど、ああまたそこに戻っちゃったか、という気もある。古本屋での会話「ハイ、百八十万円」「釣りはとっといてよ、家でも建てて」なんてあたり、いいよね。
[映画館(邦画)] 7点(2009-01-31 12:17:02)
686.  小原庄助さん 《ネタバレ》 
このもと封建地主、保守的なのではない。ミシン教室も開き野球もする。農村文化の振興おおいにけっこう、ただその旗振りは勘弁してくれ、というところ。ダンス教室もいいが自分は踊らない、柔道していたころを回顧する。和尚の娘を連れ戻すことを頼まれても、まあこういう生き方(ヤミ)もあろうと帰ってくる。村長になる気はない。時代に対するこのスタンスに、とても共感できた。家が重しになって働けなかった、でもこれで自由になれた、というラスト、「終」ではなく「始」と出る。古い拘束に対するヤンワリとした批判、これは新東宝の映画で、おそらく当時の東宝だったらもっと戦闘的に封建的なものを槍玉に挙げていただろう。でも裏を表に返しただけの民主主義演説映画よりこっちのほうが実感がこもってるし、名画として残ったのもこっちだった。家を横切る長い移動撮影が印象的だが、借金取りを見かけてロバだけを家に帰すあたりの、のどかな詩情も捨て難い。
[映画館(邦画)] 8点(2009-01-30 12:20:52)
687.  そよかぜ
戦争終わって、さてなんか映画撮ろうというとき、軽音楽バンドの話にしよう、ってなった気分は分かる。あの戦争時の固い気分の正反対といったら軽音楽であろう。禁止されるちょっと前までは盛んだったわけだから、勝ったアメリカに迎合するというより、元に戻れたって感じ。上原謙がトランペット、佐野周二がトロンボーン、斎藤達雄がサックスという楽団。上原が「花も嵐も…」を吹く場面もある。照明係からスターになっていくという戦前パターンの踏襲も、とにかく元に戻れたって感じだ。けっきょく戦争の数年間が異常な時間で、昭和ヒトケタと戦後は気分としてつながっている。戦争を思い起こさせるものは壊れた橋が出るくらいで、中盤は戦災のなかった田舎に話が移る。都会の観客には、傷ついていない田舎の風景が希望に見えたのではないか、ちょっとの妬みも含んで。舞台で並木路子が「リンゴの唄」を歌うところ、「り~ん~ごの気持ちは~」ってとこで、テンポを落としてゆっくりになるのが、正調らしい。軽音楽の響きに、時代のホッとした気分が満ちている。まだアメリカの検閲や指導は本腰を入れてないころで、かなり正直な反映と思っていいだろう。人々はついに吹かなかった神風のかわりに、そよかぜを求めたわけだ(新聞の検閲が始まるのが10月9日、映画の検閲もそのころに始まったらしい。翌年になると佐々木監督が『はたちの青春』でキスシーンを入れるように情報局に強要されるまでにうるさくなる)。
[映画館(邦画)] 6点(2009-01-27 12:17:21)
688.  アヒルと鴨のコインロッカー 《ネタバレ》 
後半の種明かしのとこ、同じ構図で反復されるのが映画ならではの楽しみ。原作は読んでないけど、映画向きでないようでいて、かえってこれ映画向きの話だった。大きな仕掛けをくらませるために、小さな仕掛けをバレやすいように据えてあるのが憎く、少なくとも私は引っかかった。仕掛けとは、ただアッと驚かせるだけでは駄目で、ネタが分かった瞬間に「あ、なるほどね」と、いちいちの伏線が思い出され納得できるように仕掛けておいてもらいたいもの、これはそうなってた(ああ教科書ね、ああ広辞林ね、うんうんオニギリ買うとこね…)。また別方向の伏線として、鳥葬の話が終盤でイキるとこも見てて嬉しい。本屋襲撃のとき歌い続ける「風に吹かれて」にグッときた。復讐の歌というより追悼の歌であって、そしてもちろん相棒を導いてくれた神の歌でもある、照れくさくならないように時間計測の歌という名目が付いてるのもいい。大塚寧々の役割りがちょっと中途半端だったような。
[DVD(邦画)] 7点(2009-01-25 12:10:58)(良:1票)
689.  舞姫(1951)
多くの登場人物に奥行きが感じられず、とくに肝心のヒロインが戦前松竹メロドラマの延長線上の演技で、まあ失敗作の部類に入るだろうが、ただひとりウジウジした山村聡の旦那のみ印象的である。この人はテレビではホームドラマのしっかり父さんという印象が強かったけど、映画ではけっこう暗いの専門。『宗方姉妹』はこの前年か。監督した映画も暗い。被害者意識が強くて鬱陶しさを周囲に振りまいてしまうという人、戦中は神がかったことを言ってて、今はぼんやり腑抜けという設定。家父長が身の置きどころを失ってしまった時代のお父さんを代表した俳優なのだろう。木村功がタイツ姿になるが、踊ってはくれない。岡田茉莉子は棒読み状態。チラチラと銀座が映るけど、時代を味わえるというほどではなかった。
[映画館(邦画)] 5点(2009-01-23 12:11:47)
690.  お國と五平
『めし』と『おかあさん』という代表作の間に、こういう全然毛色の違ったものもチャチャッと撮っているのだ、この監督は。大谷友右衛門てのは、いま歌舞伎の女形の大御所の中村雀右衛門。こういう古典劇出と対照的に新劇出の山村聡が出ると、だいたい暗いインテリの役ということになる。内攻し懐疑的といった役どころ。お国と五平は宿に泊まると二階に部屋をとる。道中の人の中から仇を見つけん、という意味があるが、映画としては、ここから下々の掟のない人々の暮らしが覗けるという仕掛け。より自由である芸人がしばしば登場し、現代劇におけるチンドン屋好みを思い出す。あれは庶民の暮らしのゴタゴタから離れた自由人の象徴だったのかな。盆踊りや嫁入り道中もあり、まあロードムービーの趣。この人の映画では、なにやら思いつめて道を歩く人のイメージがしばしば繰り返されるが、このロードムービーは、それを拡大したものだったのかもしれない。封建社会の非人間性といった社会的テーマより、この二人のハッキリしない間の気分の揺れの方に、監督としては興味があったみたいだ。追いかけているようでいて、実は目的に追われている旅、別れるために一緒に旅を続けていた『浮雲』と比較できるようなできないような。街道の木洩れ日が実に美しい。
[映画館(邦画)] 7点(2009-01-21 12:18:05)
691.  蟻の兵隊 《ネタバレ》 
ドキュメンタリーでいいのは、予定調和をカメラが裏切っていくところ。元日本兵の奥村さんが中国を訪問し、初年兵教育の最終試験として初めて人を殺した場所を訪れた後で、生き残った中国人の家族と対面するシーンがある。おそらくカメラは、謝罪と赦しのようなところを撮れればいいと思っていたのだろう。ところが奥村さんは、そのとき国民党軍と八路軍との間で妥協があったのではないか、ということを厳しく問い詰めだす。奥村さんの中に急に皇軍がよみがえったような感じ。もちろん司令官に裏切られ一部隊ごと中国側に傭兵として渡されたことへの恨み・悔しさ・死んだ戦友への義務などのもろもろが芯にあるのだが、彼の主張の根に感じられるのは、我々は皇軍として戦ったということを確認したい、という念願なのだ。あそこで奥村さんという個人が、兵士の経歴ごと・60年という歳月ごとまざまざと立ち上がり、彼の悔しさがひしひしと迫った。枯れるとか諦観とかの対極で深く怒っている老人像が、こちらのステレオタイプを砕いていく。ドキュメンタリー映画を見て良かったと思う瞬間だ。そしてこの司令官の卑劣さ・上部ほど無責任になり生き残る体質が、軍隊の本質なんだなあと思う。終わりの方、靖国で小野田さんとやりあう場は、いささかこしらえ過ぎかとも思ったが、どちらも残留者でありながら、小野田さんは中野学校出のエリート中のエリート、奥村さんは赤紙で引っ張られた一兵士、という違いが出た。皇軍教育を叩き込まれた小野田さんがあの戦争を自信を持って肯定するのに対し、奥村さんは「私は戦争を知らないかもしれない」という境地に至る。この境地が大事だ。元自衛隊の田母神某と小野田さんてそっくりに見えるんだけど、軍のエリートって同じ単線的な思考をして同じ顔になるものなのか、彼らには「私は知らないかもしれない」という謙虚な・しかし思考の始まりには必須な境地は訪れっこないだろう。
[DVD(邦画)] 8点(2009-01-20 12:23:38)(良:1票)
692.  銭形平次(1951) 《ネタバレ》 
活劇調ではなく、平次はひたすら推理する。最後は罠で引っかけるというのは、ちときたない。微罪の手下どもが毒薬で皆殺しにされてしまうのも気の毒であった。女房お静の長谷川裕見子のしょんぼりした場のみ、時代劇らしいしっとりとした味わいがあった。仕事に口出しするなと旦那に叱られて、酒買いに出ていくシーン。障子の影の使い方、外の路地の陰影などに、大映京都の手堅い仕事ぶり。女中役高森和子にも、こんなにかわいらしいときがあったのだ。「スタッフに松村禎三という名があったが、音楽ではなく美術であった」と見た日のメモに書き込まれている。
[映画館(邦画)] 6点(2009-01-19 09:09:41)
693.  てんやわんや
はきはきした女性とウジウジした男の対比って、日本人が好んで描き続けた一つの型だが、とりわけこの戦後の時期を象徴しているみたい。それと、せわしなく変化する東京と保守的なものが残る地方の対比。この時期の地方を描くときって、石坂洋次郎ものでもそうだったが、残り続ける保守的なものを苦笑を持って見る、ってなスタンスだった、これが後の経済成長期になると、ノスタルジックな味を持ち批判性が薄れていく。淡島の床屋でのダンスレッスンシーンなどイキイキし、パチンコ台を使って何となくミュージカル的な気配も漂う。演説会のとき、川に馬が入る騒ぎのあたりの詩情に、すでにノスタルジックな味が感じられたのは、現在の目で見ているからだろうか。
[映画館(邦画)] 6点(2009-01-16 12:10:20)
694.  獄門島(1949)
映画の中では誰もが「ゴクモンジマ」と発音していた。ついでに言うと“分鬼頭”は「ブンキトー」。これは同時代の物語だったのだ。引揚者のゴタゴタがまだ生々しかった時代。ラストに封建的なものへの批判が付いているのも、いかにもである。崑映画のノスタルジー的な味が入り込む余地がない。現実そのものだった。横溝ミステリーって、けっこう発表時ではリアリズムだったんだな。それにしても奇妙な気分である。崑作品のイメージが強いので、往年の名優たちによるリメイクを見ているような倒錯感。金田一が時代劇禁止中の片岡千恵蔵(いたってダンディ)。警部が大友柳太朗(何言ってんのかわかんない)。いい娘は三宅邦子で、島の警官が小杉勇、和尚が斎藤達雄、一番びっくりしたのは白痴三人娘の一人が千石規子だったことだ。やっぱりこの白痴三人娘はいいなあ。絢爛としたものが暗い風土の中を狂って駆け抜けていくってイメージは、横溝世界の芯であろう。海のギャングとの銃撃戦などで、壁に隠れてバキューンとピストルを撃つときの、片手で脇に低く構えたあの格好が懐かしい。実録やくざ映画あたりから、腰を落として両手で構えるリアリズムになってしまったが、昔の探偵はスタイル重視、反動もなんのその、片手でかっこよく撃っていたのだった。縁側のマムシを撃ったところでは場内が沸いた。犯人指摘の場で金田一が大笑いするのは、多羅尾伴内と混ざってる。
[映画館(邦画)] 6点(2009-01-14 12:18:37)
695.  恋の片道切符 《ネタバレ》 
60年の新宿を、それも大通りではない新宿をたっぷり見せてくれる。ロカビリー歌手をめぐる物語。ポスターの多用。人の通行と直角に立っている、壁に貼られた薄っぺらの人間。時代のイケニエとして消費されることを自覚している若者たち。現在から見るとそのナイーブさが滑稽と紙一重なんだけど、そのじれったいぐらいのナイーブさがラストで弾け、若者同士が傷つくという構図。やはり、怒りの映画の時代なのである。人間関係から逃げていた小坂が、ラストで急速にピストル犯になるところがサプライズで、社会的成功を軽蔑していたはずの者の底にも、わだかまりが眠っていて、それが一気に顕在化した、というか。テープが飛びくる通路を歩く小坂のあおり、ステージ前まで来て、ふと煙草を口にくわえる、彼の内面が切り替わっていくところの描写が的確。篠田のデビュー作。助監督に山田洋次。
[映画館(邦画)] 6点(2009-01-09 12:17:33)
696.  黒い画集 あるサラリーマンの証言 《ネタバレ》 
児玉清が学生役、当時は小玉と表記していたのか。日本映画がお得意とした小市民ものの陰画のような作品で、小市民がそのささやかな地位を保身するためには、他者に対して最も残酷になれる、ってな話だ。あの男は真犯人が見つかれば助かるけど、こちらは浮気がバレれば破滅だ、と主人公小林桂樹が破滅の場面を妄想していくあたりの心理は、だれでもぐっとリアリティを持って迫ってくるのではないか。小市民映画は、そうそう、と自分たちの暮らしを微笑ましく振り返るものが多かったが、これは、あるある、とぞっとしながら振り返る小市民映画。小林がアリバイづくりのために映画を見たことにする訓練、インディアンが駅馬車を狙っておりました、と内容を頭に叩き込んでおくと、客の入りを訊かれてドキッとさせられたりする。そうまでしても、けっきょく彼はささやかな一家団欒の多摩動物園へは行けないのであった。東宝の名脇役、織田政雄が、その“影の薄い実直さ”を充分に発揮した代表作でもある。
[映画館(邦画)] 8点(2009-01-06 12:23:14)(良:1票)
697.  育ちざかり
内藤洋子って映画から出た正統アイドルの最後の人かなあ(突然変異的な角川娘はいたけど)。と言っても微妙なところで、たしかにデビューは『赤ひげ』と映画だが、名前を売ったのはテレビの「氷点」で、そういう面では過渡期の人。映画ではさかんにおでこを強調して、アイドルとしてのセールスポイントにしている。でもこういう「愛くるしい系」の時代は終わりつつあり、次は秋吉久美子のようなちょっとスネた不良性を漂わす感じが70年代の主流となっていくのだった。時代に間に合わなかった哀しみが、この人にはある。一生懸命プロモーション映画としていろいろやっている。乗馬姿あり、水着姿あり、テニスもやって、レモンもかじるし、定番中の定番、海岸をスローモーションで走ったりもする。こういう不良性のないアイドルは、次からは完全にテレビへと、たとえば天地真理にバトンされていったのだろう。
[映画館(邦画)] 6点(2009-01-05 12:10:09)
698.  偽大学生 《ネタバレ》 
誰が正義なのか、誰が弱者なのか、誰が被害者なのか、と簡単に割り切れない社会の根を物語の設定に据えるの、初期の大江健三郎はうまかったが、これなんかそう。偽大学生をひとり60年安保時の学生集団に据えることで、権力の対抗者だけではなかった彼らの、特権性・エリート意識・権力志向をえぐっていく。学生たちは、その闘争の目標とするものにどこかで安住しているところがあり、コンパで偽大学生のジェリー藤尾が「学歴なんて関係ないんだ」ってはしゃぐところが皮肉。で仲間に警察のスパイと疑われて監禁される。“進歩的文化人”教授の船越英二も印象深い。偽証による学生たちの保身のあたりが、見ていて一番チリチリと来るところで、正義づらした・弱者づらした加害者たち。集会でジェリーが許しを乞うあたり、若尾文子の発言をエヘラエヘラ流すあたり、現場検証の場で偽学生を見る視線など、見事。
[映画館(邦画)] 8点(2009-01-03 12:13:20)
699.  東海道四谷怪談
なぜ直助殺しの場はあんなに感動的なのだろう。不意に隠亡堀にすべてが変わってしまうわけではない。屋内の構えはそのままで、そこに血の池ができ、葦が生え、戸板が流れ着いている。そしてそこにスローモーションで直助が倒れていく。屋内のままで外界の水が導かれている。廃墟という感じでもないのだ。タルコフスキーが好んだ設定、屋内の自然、雨が降ったりとか、あれに近いのだろうか。あと近いので思いつくのは、宮崎駿の『ラピュタ』にも、メカニックな世界の中央に草の原がしまわれているイメージがあった。なんかこういうの、外界が唐突に建物の中に呼び込まれることの驚きって、単に驚きだけでなく、もっと深い感動に通じているようなのだが、どうも私には分析しきれない。きちんとあるべきはずの屋根の下に、有機物が魔のように跋扈しつつある、ってことか。それだとやっぱり廃墟のイメージだな、それとは違うように思うんだが。とにかく私はなぜかそういうシーンになると、もうおののきながらめちゃくちゃ感動しきってしまうのだ。
[映画館(邦画)] 9点(2009-01-01 12:17:48)
700.  真剣勝負 《ネタバレ》 
内田吐夢の遺作、主演中村錦之助の宮本武蔵、しかし間違ってはいけない、これは東宝映画なのだ。東映時代劇の時代が終わったその燃え残りを見つめているような作品。低予算だったのだろう、安っぽさをあえてあげつらう気にはなれない、その中での工夫を味わいたいと言いたいところだけど、それにしても実にチープに武蔵の戦歴が冒頭で描かれ、そこから西部劇的な野中の一軒家にたどり着く。セット費用も安上がり。一幕ものである。見どころは敵が忍び寄ってくるとこで、虫の声がふと途絶え、柱に刺した風車が回り出す(そっと戸が開いたのだ)、そういった緊張感。で、まあ、三国連太郎が鬼となって野火をつけてまわり、ケモノ用の罠がパンパンと弾け、何か武蔵は悟ったらしく「活人剣は殺人剣」とか「剣はひっきょう暴力」とか、赤い活字が立ち上がってくるの。低予算で頑張っている、って褒めたいが、偉大な監督にこういうチープな遺作を撮らせてしまう日本映画界への不満の方が大きいわな。
[映画館(邦画)] 5点(2008-12-31 12:14:01)
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