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【製作国 : 日本 抽出】 >> 製作国別レビュー統計
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1.  真夏の方程式 《ネタバレ》 
傘、冒頭の落下と終盤の浮遊の見事さ。 赤から青へ。 そして電車は同構図の中で来て帰る。 それだけで素晴らしい。  西谷弘が視線劇をしっかりやってくるのはいつものことだが、 終盤の杏と風吹ジュンのカットバックはもうとんでもない。 見つめ合って黙っているのだけどもカットバックの間に回想を挟み、 ふたりの視線と回想で会話させている。 そして何より、マジック・ミラーを介した杏と前田吟の件などは、 視線劇を飛び越えて、もう何がふたりを会話をさせているのだろうか、 ああ、それは愛情か、血は繋がらないけども愛情だろう、やはり。 そしてシーンバックの見事な連鎖を起こさせるペットボトル・ロケットの件は、 勿論、お見事過ぎるのだし、あのペットボトルの中に仕込まれた携帯電話の動画機能、 これもまた、ある意味での視線によるカットバックをしているわけだ。  『アマルフィ』や『アンダルシア』では、ただの説明過多の回想シーンであったが、 この映画での回想はしっかりと物語として機能している。 それは、謎を解く、説明する回想ではなく、ひとを描く回想になっているからだろう。  現在の日本で唯一、シネコンで上映される大作娯楽映画を見事なまでに撮り上げてしまえる監督、 それが西谷弘であって、『真夏の方程式』は間違いなく西谷弘、ここまでの最高傑作。
[映画館(邦画)] 8点(2013-07-15 23:44:41)(良:2票)
2.  リアル 完全なる首長竜の日 《ネタバレ》 
映画なのだから、現実であろうと頭の中の世界であろうと、 そんなことはまったくもってどうでも良いことで、 その境目は物語のための説明でしかない。 物語の整合性であるとか、登場人物への感情移入などは、 映画に於いては本当に無駄な足掻きであって、 カットが変われば時間すら飛んでしまう出鱈目な映画に どうやって真っ直ぐ延びた一本道を敷けるのだろうか。 敷けない。敷く必要がない。何故なら敷かない方が面白いからだ。  いつも通りのホラー、まったく解決しないがどこか漂うミステリー、 走って落ちる活劇、まさかのジュラシック・パーク、 そしてまったく感動出来ないラブストーリー。 こういう連続的転換はスピルバーグの『宇宙戦争』を思い起こさせる。 感情から言葉を発して行動をするのは佐藤健と綾瀬はるかだけであり、 他の登場人物たちはすべて物語を形成するだけの役割だ。 そんな他の登場人物たちが退場し、 ふたりと首長竜だけしか出て来ないラストなんぞは、 物語はもう身も蓋もない状況になる。 綾瀬はるかの世界だと思って見ていた観客は、 ひっくり返ったことで実は佐藤健の世界だったと気付き、 それは綾瀬はるかがセンシングによって見ていたものと 同じものを観客が見ていたことになるわけだ。 まぁその辺の解釈はどうでも良くて、問題はそのひっくり返り後だ。 つまりは綾瀬はるかが走り出す瞬間ということだ。 それは『トウキョウソナタ』で小泉今日子が車をオープンカーにして 走り出す瞬間と同じ感動を味わえる。決意だ。 しかも、それは主役が佐藤健だったのが、 ひっくり返ることで、唐突に綾瀬はるかが主役になり、 そのままラストまで怒濤の如く雪崩れ込んでいくという 勢いを黒沢清はやりたかったんじゃないかと思う。 この物語を置き去りにする、継続性ではない連続性というのは、 どこからだろうか、恐らく『ドッペルゲンガー』からだろう。 そういった面で、この作品は黒沢清のひとつの集大成だと思う。 まぁ、それにしても、泳ぐ首長竜を俯瞰で撮らえたあの水面の美しさたるや、 固唾を呑んで見入ってしまった。
[映画館(邦画)] 8点(2013-06-03 23:45:14)(良:2票)
3.  クロユリ団地 《ネタバレ》 
兎に角、冒頭から伏線張り巡らしまくるのだが、とりあえずすべて回収している。 100分ちょいでこれだけやるわけだから、流石中田秀夫だというところ。 手持での主観と客観の切り替えという伏線の張り方は上手いが、 そこから更に台詞の反復があり、しかも何度も、流石にあざとすぎるだろう。 分かり易さとか、ましてや観客が望むのや期待しているのものへと媚び売る作りは 作品の質を落とすだけでまったく効果的ではない。 わからないやつなど放っておけば良いのだ。 誰でもわかるように作る必要性などない。 そんなものはテレビの子供番組くらいにしておけば良いのだ。 であるからこそ、公園での前田敦子と子供の会話が全部アフレコなのは 完全なる見事な伏線であり、あんなものは気付かないひとは気付かない。 しかし、どこかおかしいという違和感を覚える。 その違和感こそが映画を映画館で観る面白さだろう。 それにしても手塚里美の登場シーンの数々には笑えた。 あれこそがホラー映画の醍醐味というかなんというか。 霊を祓うなどという無力さが炸裂し、最後は吐血するという見事な出来栄え。 幽霊なんて、結局最後は暴力でしか解決できないからね。 この映画ではそういうものが一切ないのだが、 これはなんだか主役を替えて続編でも作ろうとする企画力なのか、 秋元康といえば『着信アリ』とかもあるわけで、ふーんと思った。
[映画館(邦画)] 6点(2013-05-25 01:47:49)
4.  骨までしゃぶる 《ネタバレ》 
あのぼろぼろのチラシが捲られる瞬間に涙ぐむ。 それは書いてある内容とはまったく関係なく、 あの紙きれ一枚の存在、しかもそのぼろぼろさに泣かされる。 そのぼろぼろさというのは、姉さんとか他の女郎たちの思いだからだ。  やはり、加藤泰といえば橋のひとだけども、 そう簡単に渡れる橋など加藤泰の映画には存在していないわけで、 この映画でも、雨の中、橋を渡れず連れ戻される女郎もいる。 しかし、最後、お絹は、晴れた日に橋を悠々と小走りで渡っていくわけで、 それはやはり、お絹が自分自身で仕合せをつかみ取った証なんだなと牜nああ、またそこが泣けてくるわけで、もうしょうがない。
[映画館(邦画)] 9点(2013-05-07 00:00:51)
5.  るろうに剣心
先ずはカットバックの酷さだろうか。 このひととこのひとが喋っているから、それをカットバックで撮る、 それで喋っている、視線が交わっている、 そしてより感情が昂る場面であればさらに寄るという、 まぁそういうことでしか会話のシーンを成立させられない 安易さというか下手糞さに満ち溢れている。 そして立ち回りもか。 手持ちでウェストサイズ以上で撮ってリズムでつないでというのもいいが、 何故に間に引き画がないのか。 そう、この映画は総じて病的に引き画が少ないのだ。 驚くばかりに速いであろう佐藤の殺陣は、寄りより引きで見たい。 そして武井が佐藤に傘を持っていくシーンの酷さ。 フルショットと寄りのカットバックに、記憶が捏造されていなければ、 ウェストサイズくらいのツーショットで片付けるようなシーンじゃない。 何かが芽生えるシーンなのに、せっかくシネスコでやってるのに、 引き画を全然撮らないのは何故だ。 それは引き画よりも寄り画の方が、感情が伝わる、迫力を見せつけられる、 という勘違いをしているからでしかない。 そういう映画は駄目だ。 ただ、雨、雪、桜、札、なんかいろんなものが降ったり俟ったりしていて、 それはそれで愉しい。
[映画館(邦画)] 4点(2012-11-27 01:30:11)
6.  任侠ヘルパー 《ネタバレ》 
西谷弘のテクネーなどという論文があったとするならば、 先ず論ずるべきは間違いなく、視線で描く演出の美学なるものだろうか。 西谷弘がまなざしで映画を作っていることは『アマルフィ』や『アンダルシア』の時点で 既に散々と書いてきたことなのだが、役者が向けるまなざしとそのまなざしの先にあるもの 例えば、草彅剛が見ているというショットと、何を見たかというショット これらが物語を展開していくという流麗な手捌きこそが 西谷弘の映画の巧みさのひとつであることは誰にでもわかるだろう。 それは、誰をどのような玉で撮るのか、広角で撮るか、望遠で撮るか 後ろのボケ具合はどうかといった、撮影山本英夫の巧みさと相俟って成立している。 更に、このシーン繋ぎの見事さはなんだ。ひとつ例を挙げるとすれば 介護都市にしようという看板へのトラックインに、演説の音声をずり上げし そのまま香川照之の演説シーンへと移行する華麗さ。見事という他にないだろう。 そして冒頭のトンネルのシーン、ラストのトンネルのシーンという反復性。 つまり主人公がこの先どうなるのかという暗示であり、この映画の結末である。 西谷弘の計算され尽くした演出力は、凡庸な脚本をここまでに仕立て上げてしまう。
[映画館(邦画)] 7点(2012-11-26 00:38:33)(良:1票)
7.  アナザー Another(2011) 《ネタバレ》 
前半にある主人公が南瓜が嫌いであるという食卓のシーン。 テーブルに用意されている食事はふたつ。 誰もが、何故ふたつしか用意されていないのだろうかと思うはずだ。 ここが完全なる伏線になっている。 中盤あたりからこの映画は死者探しへと物語を移行させるわけだが、 ああ、成る程、だからなのかと思う。 勿論、ここで死者が誰であるかということは誰にでも確信できるわけだが、 そこは問題ではない。 これは橋本愛のための映画だからだ。 あの眼帯を外す瞬間こそが、この映画の最高の見せ場であり、 そのためのライティングが成され、そのためのクロースアップで撮られている。 女優はスタッフにそうさせようと思わせる存在でなければならないが ただそれに甘んじてもいけない。 それはとても贅沢なことなのだから。 この映画での橋本愛が演じる鳴という存在の描き方。 その存在が一体なんであるのかが明らかになるシーンでの衣裳。 今までの制服から一転、私服になり人形に紛れる。 そしてラストシーンに至るまでの彼女の衣裳の変化だ。 徐々に徐々に明るい色へと変化していく彼女の私服は 彼女の感情の変化に他ならないはずだ。 これが演出というものだろう。 この映画は例えばルチオ・フルチのようなイタリアホラー的な要素が 詰め込まれていてそういう面でも楽しめるわけだが、 別にそんなことどうでもよく、結局は橋本愛だろう。 蛇足として、この映画には黒沢清『叫』の小西真奈美のシーンと 同じような解釈を施しているシーンがある。 勿論それは加藤あいが合宿の写真を見つけるシーンだ。 大胆というか、辻褄はまったく無視されているというか、 あのシーンの意味がね、まったくわからん。 あの絵のこととかを考えると、 実はさらりと感情的に深いとこをえぐっていたというとこなのだろうか。
[映画館(邦画)] 6点(2012-08-10 00:30:15)(良:1票)
8.  アンダルシア 女神の報復 《ネタバレ》 
やはり悪くない。寧ろ前作より良くなっている。視線でのやりとりを描くことが前作より更に意味を増しているし、重要なアクセントとして機能している。 冒頭近辺での織田の登場シーンは秀逸だろう。一番初めの登場は視線云々とは無関係だが、背景に何気なく溶け込んでいるという登場のさせ方も良い。そして何より2度目。黒木と伊藤の視線で描き出す黒田という役の神出鬼没ぶりが上手く描かれている。 この映画の上手さというのは実は列挙に暇ない。黒木の証拠隠滅シーンのモンタージュ、織田から壁に掛かった地図へパンしての空間処理の仕方、織田とバイクをワンショットに収めることでのその後の省略、どれも映画として実に素直であり上手い。 風や窓、ラジオからの曲などという効果も上手く散りばめられている。特に、ラストへの伏線としての窓の開け閉めの描き方は非常に良いカタルシスをもたらす。 黒木が脚を引き摺りながら逃げる横移動の美しさ、そしてバックからのロングショットに銃声を被せた突入の処理の仕方も好感が持てる。 そして何よりも言いたい。ダウンジャケットの羽。織田と黒木のジャケットから羽が出るという共通項であり、これは完全にミスリードを誘っている。上手い。 ただしかしながら、やはりラスト近辺での織田再登場時の説明過多なインサートシーンの数々は頂けないし「アンダルシア」の良い部分を台無しにしている。思考停止し脳内補完できないと観客を馬鹿にした作り方をしてはいけない。
[映画館(邦画)] 7点(2011-07-01 18:19:46)(良:1票)
9.  八日目の蝉 《ネタバレ》 
結局感情がいちばん揺さぶられたのは、自転車の動作の反復だった。 冒頭近辺で井上真央が坂道を自転車に乗り、脚を広げ下っていくというなんの変哲もないショットがある。このショットはその時点では本当に何の変哲もないショットなのだが、何かを凄く感じさせるものがある。それが何かはその時点では当然わからない。 これは溝口健二の「残菊物語」の勝手場での西瓜の件に何かを感じるのと似た感覚である。後にこの勝手場が同構図で反復される。「残菊物語」をご覧になっている方は勿論わかると思うが、反復された構図の中で主人公がただひとり佇んでいるだけなのだが、同構図が反復されることによって、観客はあのふたりで食べた西瓜の時を思い出しているのだろうと思うと、とても切なくなるのだ。 話は「八日目の蝉」に戻る。この井上真央が自転車に乗り、脚を広げるという動作は後に永作博美が行う動作である。つまり血の繋がりなど全くない母親と自転車に乗ったとき、その母親が行っていた動作「脚を広げる」ということを、思い出として身に染み入っていたということがここでわかるのだ。であるから、永作博美が自転車に子供を乗せた時点で、ああなるほどこれはやばいぞと思い、わたくしは迂闊にもここで涙した。 溝口は同構図という反復、この映画は動作。違いはあれど反復することで意味を成す場合、反復前のものに何かが宿ってしまうのは当然だ。だからこそ、井上真央の時点でスクリーンから何かが滲み出ていたように感じたのだ。  さて、涙したから良い映画なのかというとそれは少し違う。この映画は井上真央や永作博美や小池栄子に比重を置き過ぎで、その他があまりにも御座なりだ。特に男の描き方があまりにも極端だ。「お父さんみたいな男」という表現に全てを集約し、この映画の世界に完全に閉じ籠ってしまう。その閉じ籠った瞬間がある以上、その裏返しとして、女は伽藍堂であるかないかというだけの狭い世界となる。そうじゃないじゃんって思ってしまうわけだが、そこで小池栄子だ(彼女は素晴らしい。ホテルで告白するときのテンションの上げ方、背筋の曲げ具合、そしてあの台詞回しのテンポ、本当に凄まじい女優)。しかし、余りにも歪な役過ぎてそれを解消出来るポジションにはいないだろう。
[映画館(邦画)] 6点(2011-06-12 03:18:16)
10.  ノルウェイの森 《ネタバレ》 
何かが起こっていそうで、何も起こっていない退屈な130分近くというのは何だったのだろうか。ひとの死に何も感慨がわかないというのは珍しく、それはその人物に魅力がないという証拠なのだろう。  青春真っ只中のワタナベという視点から見るこの映画は、ワタナベが直子にするか、緑にするかと延々と悩み続ける頭の悪い映画に感じてくる。そんなのもうどっちでもいいよ、どっちも面倒臭い女だよ、だったら穴が空いてるのを選んどけよくらいにしか感じない。それは結局、直子も緑も魅力的に描かれないからで、李屏賓が切り取る映像的な魅力とは全く別の話だ。 結局、終始ワタナベの視点で描かれるわけだが、直子の視点、緑の視点、あるいはレイコの視点というワタナベを取り巻く女の視点でワタナベを描いていく方がワタナベの魅力を引き出せた気もする。ワタナベだけでは物語が転がらないからだ。 また手紙や電話という道具が果たして上手く機能していたのであろうか。個人的にはただの道具にしか感じなかった。 そして最後のワタナベの台詞だ。生きて愛することを選んだワタナベが「ここはどこなんだろう?」って馬鹿としか言いようがない。まだ悩むのかと。  原作を忠実に映像とすることが原作への敬意と言えるのかもしれないが、あまりにも巨大な原作を忠実に映像とすることが最善の策であったとは思えない。原作に怯え、映画の魅力が著しく欠落していた。
[映画館(邦画)] 4点(2010-12-15 21:53:49)(良:2票)
11.  行きずりの街 《ネタバレ》 
男は過去から抜け出せずに生きているのだった。 彼は過去の彼女が振り返る中を少女の手をしっかりと握り締め駆け抜けて行く。 過去の彼女の視線にとらわれることなく、現在を駆け抜けて行く。 そうして男は過去から抜け出して行く。 女は過去に取り残されていた。廃校舎の中に取り残されていた。 過去の彼女は振り返る。彼が自分を連れ去ってくれるのを待っている。 しかし過去は取り戻せない。 だから過去の彼女と現在の彼の視線が合うことなどない。 しかし過去の彼女はそれでいい。 彼が少女と過去を反映した廃校舎から抜け出してきたとき 彼女もまた過去から抜け出すのだから。 自分の境遇を重ね合わせることのできるもう一人の少女。 すべては現在に集束されていく。 過去という名の廃校舎をバックに現在を生きるスリーショット そしてストップモーション、ここに美しさを感じずにはいられない。
[映画館(邦画)] 8点(2010-12-14 00:45:01)(良:1票)
12.  FLOWERS フラワーズ 《ネタバレ》 
フェミニズムに溢れているのに保守的、長門裕之が言うようにこの映画はとことん矛盾している。脚本の質の悪さと演出力の無さと編集の下手さ(これじゃあ、全部駄目じゃないか)のせいで、子供を産み母となり、子供が育っていくことの幸せが「日本の美しい女性像」という結局保守的な着地点に辿り着いているように見える。じゃあ、子供が産めなかったり、容姿が整わない家系に産まれたり、愛するひとを見つけることの出来ない女性は美しくないのか。美しいものを並べて美しいですね、って当たり前だろ。これこそ広告的な「美しい」という概念。そんなの広告でやってろよ。決して容姿が美しいとは言い難くとも、およそ2時間という時間、映画的にはそれが5分だけかもしれないし、あるいは何日、何年という月日を経験することで、ああこの女性は美しいなと観客に感動を与えるのが映画であって、上辺だけの美しさなんて意味ねぇよ。  お通夜でおじさんが「次はいつなんだい?」と聞くと広末涼子が「それセクハラっていうんですよ」っていう阿呆みたいな会話はさて置き、フェミニンな格好で登場した田中麗奈に同僚が「でも意外と似合うじゃないか」って言うが、これがセクハラになってしまうという阿保らしい問題への無頓着さ。 一番許せないのが、田中麗奈の婚約者が次長課長河本であることで、美しい家系の女性は、心も美しくひとを顔で判断しませんという、糞みたいな表明。 フェミニズムは時として男性差別になるということをこの映画は無意識レベルで表現している。  そして最後は爆笑しそうになったんだけど、恥ずかしいからぐっと堪えた。鈴木京香をクレーンアップでとらえた映像にいつSHISEIDOのロゴが刻み込まれてもおかしくないラストの数カットを笑わずしてどうやって直視すりゃいいんだ。寧ろ鈴木京香の上にSHISEIDOのロゴ出せよ。それがわざわざ広告に金払った消費者への礼儀だろ。
[映画館(邦画)] 0点(2010-06-30 14:54:15)(良:2票)
13.  告白(2010) 《ネタバレ》 
はじめに映画と関係ない話。未成年の殺人検挙者は戦後1960年代をピークに減少し、2002年以降では年間100人を越えたことはない。これはピーク時のおよそ1/4以下の数字だ。  映画「告白」は全く衝撃的でも問題作でもない。これを観て命の重さとか少年法とかそんなことを真面目に考える馬鹿が出てくるなら、その面でこの映画は多少なりとも罪深いんじゃないかと思う。 何故なら、これは中島哲也と湊かなえの悪意によって、子供たちを悪の化身的モンスターに仕立て上げ、血みどろの犯罪劇を描いたエンターテイメントでしかないからだ。 また映像も新鮮味はなく凡庸で、よくテレビで見るような広告的あるいはミュージッククリップ的な映像の羅列だ。それを映画として用いたことで映像的センスがどうのこうのと勘違いし、また逆にそれは非難の的ともなる。ただ思う。そんなのどーでもいいよと。これはこれでいいじゃん。イメージとしての映像。意味を求めたショットでなく、あくまで悪というイメージを表象化しただけのショット。であるから、そこにリアリズムなどというものは存在し得ないという表現ともなる。そんな現実味を感じさせないところから、問題提起や答えを見出そうとするのは阿呆くさい作業だ。 この映画が徹底して悪のイメージを描こうとしていることは、登場人物に潔白な正義というものが殆ど皆無であることからもわかる。松たか子ですら正義ではない。木村佳乃が言う通り、彼女は自分の子供可愛さに娘を学校に連れ込み、先生としての職務を怠慢している。それは事実で、端からこの学級は崩壊していて、彼女の話に耳を貸す者など殆どいない。そう、この映画の唯一のメッセージらしきもの、それは子供をしっかり育てろよ馬鹿親!ということだ。渡辺修哉をモンスターにしたのは、息子に自己を押し付け終いには放置した母親だ。涙を流し散ってゆく姿は母性的だが、あの母親もまた悪の根源だ。モンスターの親はモンスターだ。 そう、この映画は人間という名のモンスター・エンターテイメント。意味なんてない。悪と悪が対立する、リアリティの欠片もない、ただの映画。それとしてこの映画は面白い。  最後にもう一度関係ない話。この映画と同様、未成年の犯罪が増幅されているように見えるのは、報道の自由という名のエンターテイメントが創り出した幻想であり、それは子供たちをモンスターにしているのは大人だという事実だ。なーんてね
[映画館(邦画)] 8点(2010-06-25 03:19:41)(良:3票)
14.  アウトレイジ(2010) 《ネタバレ》 
黒塗りの車が幾台も通り過ぎていく。少し間隔を空けて2台の黒塗りの車がやってくる。カメラは徐々にバンクしながらクレーンダウンして行き、丁度車がカメラに対しての真俯瞰の位置に来た時、流れていた映像がストップモーションとなり、北野映画初となったシネマスコープサイズのスクリーンいっぱいが車一台で埋め尽くされ、タイトル「OUTRAGE」が刻み込まれる。そして映像は再び流れ出し、2台の車が走り抜けて行く後姿を映す。その背景には、樹々が生い茂っているのだが、更にその奥には都心部のビル群が建ち並んでいる。この映画でこれから起こる抗争の舞台となる「都会」だ。このワンショットを観ればこの映画が傑作であり、これが北野映画の上手さだと誰もが直ぐにわかる。  この映画の畳み掛ける台詞と暴力の応酬は、物語など殆ど宙吊りにし、途轍もない速さで映画を展開していく。しかし物語を忘れているわけではなく、物語は物語として成立している。つまり物語を引っ張っていく映像なのだ。映像が物語を形成するという、映画として最も正しい形をこの映画は導き出す。  そして顔だ。常に笑みを浮かび続ける椎名桔平、それと対照的に色眼鏡を掛け笑みを見せない加瀬亮、北村総一朗にひっ叩かれたとき絶妙の表情をみせる三浦友和、そしていかにもずるさが滲み出ている北村総一朗と國村隼、喜劇役者と化した石橋蓮司、成功を夢見るも決して成功を得られそうにない杉本哲太、また真逆に成功を得るために生きていくかのような小日向文世、など主要キャストのみならず映画に登場するすべての役者、彼らの顔がクロースアップのワンショットとして幾度となく繰り返されるが、そのどの顔もすべて完璧であり、彼らはその為に最高の芝居をしている。  北野武久々のやくざ映画「アウトレイジ」は、北野映画が日本映画の中でも間違いなく最高峰であり、そして賢く、そして何より上手く、更には無駄な意味など持たせずともただ単純に面白い映画を作れるのだという証明である。  「会長、オレには?」「バカヤロウ」ストップモーション、最高の終幕である。
[映画館(邦画)] 9点(2010-06-14 00:47:52)(良:4票)
15.  時をかける少女(2010) 《ネタバレ》 
走るという運動の美しさに勝る運動は映画においてはないんじゃないかって毎度のことの様に思うのだけど、やっぱりこの映画を観ててもそれはそうで、あかりが駆けると、それは何やら美しくて泣けてくるもんだ。 そもそも映画における感情とか物語とかありとあらゆるそれらの整合性にあんまし興味がない自分としては、この映画のあまりにも割り切った出鱈目っぷりが好きで、それはあかりが合格発表の時に鞄の中からありとあらゆるものをぶちまけたにも関わらず次のカットではそんなの無視して立ち上がちゃう。何を描きたいか、今何を見せるべきなのかに重きを置き、あの鞄から出したあれらどーしたんだということなど、まぁそれはジャンプカットってことで繋がるってことでいいでしょと、すっとぼける。あそこで鞄にあれらを戻すショットを入れていたなら、あかりの感情は半減してこちらに届いていただろう。冒頭からその出鱈目っぷりさが目につき、これはそういう映画なのだと納得したのだ。 そしてラストはいい。亮太が作った映画のラストショットがあかりの背中だったのに対して、この映画のラストショットは背中を見せたあとの正面、更にはクロースアップのストップモーション。後ろとは亮太からの視線、つまり過去からの視線だ。前からの視線、それはあかりのこれからを予感させる視線。つまりラストショットの彼女の素晴らしい笑顔のストップモーションは、きっと素晴らしいであろう彼女の未来を予感させてくれるのだ。つまりたったふたつのショットであかりの未来を描いている。
[映画館(邦画)] 6点(2010-04-12 01:03:49)(良:1票)
16.  七夜待 《ネタバレ》 
困ったものだ。上映時間90分、ほとんどずっと長谷川京子のおっぱいばかりを見てしまった。だからこの映画の内容とか、何の話だったのかとか殆ど理解できなかった。
 列車を降りて、タイの暑さからタンクトップ姿となりおっぱいを惜しげもなく露にする長谷川京子。そんなことは考えられても、タクシーの運転手を最初は怪しい人だと思わせるためにわざと字幕を出さず、実はいい人だったんだよという展開に持ち込んでから字幕を出すという卑怯さとか、脈略もなくぶつ切りに導入される日本での裸の長谷川京子と村上淳は一体なんなのかとか、深く思考することは出来ない。何故なら気になるのはおっぱいだからだ。 
ふと我を取り戻したのは、もはや長谷川京子がスクリーンから姿を消した後、エンドロールで流れる「愛」がどうたらとか言ってるあたりだ。この音声は最初は本編内でもあった水の三か国語の件の続きだ。それを聞いていて気付いたのは、この映画はもっと沢山素材を撮っていたということだ。そのドキュメンタリー風だかなんだか知らないスタイルで、沢山回して、そこからいいと思ったところを抜き取って使っているのだろう。だからすべてに脈略がなく、繋いだだけみたいなものなのだ。情報が乏しすぎるのは、河瀬直美本人が理解しているものはみんなも理解してよという感じの、映画を描く、のではなく、映画を撮りました、みたいな完結運動で消化されただけということ。つまり私ってこんなの撮れるのという河瀬直美の自己顕示欲の塊でしかない。それにシャンプティエおばさんが付き合ったら、最後のショットとか奇跡みたいなことが起こったが、恐らく河瀬直美が思うドキュメンタリー風みたいのというのは、演技ではなく自然体の人間みたいのを撮りたいのだろうが、それは自然体を作ろうとする明らかな作為だということに気付かずいつまでも錯誤を繰り返すばかりだが、結局ラストの奇跡的なあのショットはどう考えても偶然、でもその方が力強くて、自然体を装った作為溢れるあのけんかのシーンなんか吹っ飛ぶくらいそっちの方の良いのだから、つまりあのラストショットは完全に矛盾してるのだと思う。
 大体、あそこまで長谷川京子のおっぱいを強調しておいて脱がせることのできない、河瀬直美ってどうなの?
[映画館(邦画)] 2点(2009-11-14 14:18:41)(良:1票)
17.  ヴィヨンの妻 ~桜桃とタンポポ~ 《ネタバレ》 
こういう日本映画を観ると残念だと思うのは、やはり資本力に乏しい日本映画の現状に対してだろう。すべてをオープンセットで組めずどこか狭苦しい町並み、そして制限されてしまうカメラの動きは勿論、ヴィスタという選択であり、シネスコだったらどうか、むしろスタンダードを選ぶという潔さはないのかと感じた。 そしてあの時代というのを美術、撮影・照明、衣裳で、雰囲気を醸し出そう、つまり再現しようと試みる。今やこの日本に戦中戦後の日本の面影などはないからだ。そして役者の、巧さとは別の、過去には溶け込むことの出来ない彼らの現代に生きているという事実。妻夫木が工員だという説得性の希薄さ。これは決して妻夫木やキャスティングの責任ではない。あの若さの役柄など誰が演じようとも大差はないだろう。つまりこれらが抗えない時代性であるが故に、一昔前のはずが、ちょんまげ・ちゃんばらと並列の立派な時代劇となってしまうのだ。つまりそんな一昔前の話すらも時代劇であるから故に資金が必要となり日本映画の現状では再現しきれないということなのだ。 しかしながら田中陽造の台詞づくりの美しさと松たか子の台詞回しのうまさを堪能する、それだけでも充分な作品ではある。またこの作品における広末涼子は良い。もはや彼女に清純さなど求めていないわけで、すれた女、陰のあるの女、それこそが彼女の道なのではないか。松たか子の潤いに満ちた視線と、広末涼子の口角のつり上がった冷笑、どちらも実に良い。 結局、よくないのは根岸吉太郎の演出だ。警官が心中を佐知に伝えにくるシーン。我々観客は事実を知っているのだから、わざわざ店の外で事実を告げるシーンを挿む必要性はない。ちょっと外でとふたりで出て行って、伊武と室井のツーショットを挟んで、電話をしに佐知が戻ってくるというシーンへ飛ばすだけで充分だ。また佐知が辻の事務所を訪れるシーン。佐知のワンショットで足音が近づいているのに佐知なめの辻になったときの距離感の遠いこと限りない。そもそもこんなシーン、紅をさした佐知が辻の事務所を訪れ、台詞などなしで佐知が辻のカットバック、もう次は少し乱れた佐知が事務所の前に立っているで充分だ。しかし根岸吉太郎は丁寧すぎるからいけない。丁寧は丁寧でも馬鹿丁寧だと間が悪い。脚本にどう書いてあれ、いい塩梅を探るというのが監督の仕事であり、この映画はそこが欠落している。
[映画館(邦画)] 6点(2009-11-06 23:41:47)(良:1票)
18.  パンドラの匣 《ネタバレ》 
冨永監督作品の持つどこか得体の知れない軽さというのはひとが生きている上での軽薄さに似ている。またあるときその軽さはポップさに姿を変えるのだが、それはひとが生きている上での明るさにも通ずるだろう。 「やっとるか」「やっとるぞ」「がんばれよ」「よーしきた」「いやらしい」「いじわる」「しるもんか」などと反復され続ける言葉、言葉、言葉と言葉で埋め尽くされた映画であるが故に、どれが真実の言葉であるかということは実に曖昧であり、ひばりが手紙で綴り続ける嘘という軽薄さがあり、即ち言葉自体の軽薄さだ。であるからこそ、その軽薄さというのがこの映画における徹底した同録からの回避というところに現れているのではないだろうか。ひとの本心と口から出てくる言葉や紙に綴られる言葉は必ずしも表裏一体ではないということだからだ。マア坊が布団部屋でひばりに詰め寄るシーンなどは言い方を変えただけの同じ台詞が多重録音され、どの言い方がマア坊の本心なのかなどさっぱりわからない。肉体と言葉が乖離するとき映像と台詞も乖離するのだ。 そしてやはり死と隣り合わせではあるものの、この作品は実にポップであり、生の明るさに満ちている。それは窓外を明るく飛ばし、全体をオーヴァーめにした撮影プランなどでもはっきりと伝わるのだし、それは実に清潔的で好感が持てる。しかしナイトシーンは実に情けない。夜は青くはない。夜は暗いのだ。べっとりと青く染まった人物の表情などは見るに耐えないものだった。 そして何よりも、歌手であり近年ではほとんど作家となっている川上未映子が女優として堂々と主演を勤めるわけだが、これが良い。贔屓目に見ても悪くない。ギターの演奏シーンなどは実に良い。このひとは一体どこへ向かっていくんだろうか。 この映画で冨永監督は太宰治の描くひとの軽薄さを軽やかに表現しているだろう。決して傑作というものではないが、太宰治の生誕百年を迎える今、作られるべき映画であったと言える佳作だった。
[映画館(邦画)] 7点(2009-11-05 01:29:21)(良:2票)
19.  カイジ 人生逆転ゲーム 《ネタバレ》 
 説明過多というのは 正にこの映画のためにあるような言葉だ どいつも こいつも べらべらとよくしゃべる 台詞でべらべらしゃべり 思考もだらだらと垂れ流す 画で見たことを 台詞で言って 更にもう一度画で見せて これほど説明しないと観客全員に理解してもらうことができないだろうと この監督は観客を馬鹿にして作っているようだ 流石テレビ出身の演出家である 観客を思考停止に陥らせようとするのだから恐ろしい 恐らくこういう類いの監督はマスター撮って寄り寄りと撮っていくだろう であるから役者は同じ芝居を幾度もやらなければならない 最後のカードゲームの香川照之の物凄い形相なども 彼の顔の筋肉が引き攣ってしまうほどに何度もやらされているだろう さぞかしお疲れになられたことだろう  そして藤原竜也演じるカイジのひらめきなどが あまりにも短絡的なフラッシュバックで表現される カイジがひらめいたというときにフラッシュバックするが つまりこの瞬間に観客には何かしらの情報が開示される 勘がいい観客であればそこで何をひらめいたのかがわかる であるからその通りの展開など見ても何も面白くない そして種明かしで何をひらめいたかを説明されたら 二度もフラッシュバックを見ているようなものだ こんな驚きもない展開などよくも描けるものだ わざわざフラッシュバックなどしなければ ひらめきを仕掛けられた山本太郎や香川照之 と同じ瞬間に観客も納得できるのではないのか こういったテレビ的な思考停止を誘導する演出 お茶の間で見てる誰にでも理解してもらいたい という馬鹿げた発想はもう終わりにしなければならない  で 結局何が言いたいのかというと 美術セットや装飾のセンスが悪い 日本テレビアートだったか これがテレビ業界の実力なのか 技術というよりセンスに欠けている  天海祐希の相変わらずの木偶の坊ぶり むしろあっぱれ
[映画館(邦画)] 3点(2009-10-17 22:51:09)(良:2票)
20.  空気人形 《ネタバレ》 
ぺ・ドゥナは素晴らしい 空気人形からひとへと徐々に姿を変化させていくとき 彼女が触れる物干し竿に滴る雨水のように透明で潤いに満ちている 李屏賓は侯孝賢の映画で切り取るような美しさをワンショット毎に魅せるのだし その中で動く彼女は躍動的である 彼女は輝きを放ち続けるのだが その反面 呟き続けるこころの虚無は実につまらない 空気が入っただけの人形があるときこころを持ってしまう 肉体を保持することなく精神だけを得るのだ しかしそのこころは真のこころではなく ひとの真似ごとであり 本当のこころとは何かと探し求める話であるようで そうではない 彼女は肉体を得ることのできない虚無であり 周囲は肉体を満足に使いこなせない虚無である それらを同列に挙げて社会の虚無を描くということが無理なのだ まずこころが空っぽなひとなどいない 空っぽということは何も無いということだ ひとは虚無というこころを持って生きている だからこそ辛いのだし乗り越えるのが困難なのだ 無いものを越えるなんて誰にでも出来る 虚無という過酷さはてっぺんが見えないほどに聳え立っているのだ であるから彼女が本当のこころを持ちたいと追い求めれば追い求めるほど ひとの本当のこころというのは実際は大概が虚無である という過酷さに堕ちていかなければならない しかし 恋をしました 恋をすることは辛いことです などという社会性の稀薄な問題などさっぱり過酷ではない 社会の虚無とは恋心などという甘ったるい幻想とは比較にならないほど過酷だ その過酷さに直面しなければ虚無の向う側は現れない どのひともそれぞれあーだこーだと事情を抱えていてるのは当たり前であるし 吉野弘の「生命は」という詩による人類愛を讃えるような青臭さ つまり虚無を他者に満たしてもらおうという甘ったれた結末 それでいいのかという疑問しか沸かない そんなことまったく興味がないし 2時間近く椅子に座って わざわざ映画なんかから教えてもらうことではない この映画では是枝監督が今まで描いたような人間の悪さという部分が欠落している その人間の悪さというのは当たり前のものなのにも関わらず それをわざわざ計算高く緻密に用意周到に描くから嫌いだったのだが いざ毒を抜いたら随分優しくなってしまったなという印象だった
[映画館(邦画)] 5点(2009-10-16 23:36:51)
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