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1.  時をかける少女(2006) 《ネタバレ》 
青春なんて不細工なもんで。「あの頃」の事を思い返すと、誰しも恥ずかしくって布団の中でじたばたしてしまう様な恥ずかしい思い出がいくらでも出てくるんじゃないだろうか。この映画はそんな「青春」を描いたとしか言い様のない作品だ。主人公の真琴はどこにでもいる普通の女子高生。青春真っ只中を不器用に走り抜けている真っ最中である。そんな青春の不細工さの象徴として、真琴はとにかく走る。走っている。そこには日常が過ぎ去っていくスピードに追いつこうとする、そんな姿が垣間見える。time waits for no one.時は僕らを待ってくれない、はずだった。しかし真琴は過去へと走り始める。タイムリープ。そんな時間を飛び越える能力さえも、青春は不細工に染めていく。友達一人も思い通りにできないし、人の恋路は邪魔してばかり。そして一番重要な場面で、その能力は使えなくなってしまう。真琴はそこでもただただ走って、その運命の前になすすべなく泣き叫ぶのみだ。結局、時を遡る能力をもってしても「青春」が過ぎ去っていくのを止める事が出来なかった。友人や初恋の人のために真琴は走り続けたけど、運命を思い通りに操る事なんて不可能で。どうやったって青春は不細工で恥ずかしいものにしかならない。傷だらけで、鼻水たらしながら大泣きして。でも、そうやって懸命に青春を生きていくからこそ、そんな経験愛おしい思い出として昇華していくものなんだろう。この作品の「走る」表現には、クレヨンしんちゃん「オトナ帝国の逆襲」の影響を感じた。美化したい過去と未来をテーマに、子供が「今」を生きていく姿を描いている点も似ている。しんちゃんもラストに、転んで傷だらけになりながら鼻血を出しながら、それでも懸命に「走る」姿を見せている。真琴もタイムリープの能力を失った後、必死に初恋の人の元へと走っていく。それは日常に追いつくためでも、過去へと遡るためでもない、未来への道筋である。時は誰も待ってはくれない。しかし、時は誰にでも平等に訪れる。未来には愛しい人や素敵な出来事が待っているかもしれない。そんな「出会い」のために、僕らは必死に毎日を生きていく。そして日々を必死に生きていくからこそ、未来がより輝かしいものへと変わっていくのだろう。青空の下、淡々とした語り口で展開していく隙のない青春映画の傑作である。
[映画館(吹替)] 9点(2007-02-08 19:14:21)
2.  かもめ食堂 《ネタバレ》 
小林聡美さん、片桐はいりさん、もたいまさこさんっていうかなり強力な女性達が、フィンランドで食堂を営んじゃうっていう、これまた魅力的なお話。全体的にスローでロハスな雰囲気が漂う中、派手な事件が起こるわけでもなく、物語を見てるというよりも、「時間が過ぎていく」って感覚でした。この映画は正に、私の中では「女性的」ってカテゴリーに分けられるもので(女性監督だからと言う事ではなく、感覚的に。)、「何となく良い感じ」。そんな作品だったと思います。三人の女性達はそれぞれ、恐らく何らかの理由や過去があってフィンランドに来ているのですが、それらは映画の中では語られません。答えに近いものは提示されるのですが、その答えに重きを置いていないというか、そんな事よりも「何だかんだでフィンランドにいる」っていう事の方が重要なんだよっていう、そんな描き方がされているように感じました。「何故」とか「理由」とか「過去」とか、そういう事はどうでもよくて、「ただ、そこにいる事。そこに在る事」の方が重要だし、その事実に愛着を感じたりもする。そんな「偶然の必然性」の肯定、その偶然の受け入れ方がすごく優しくて。物事をありのままに受け入れる、受けとめてみる事の重要性というか、そういう「強さ」ってやっぱり女性の方があるような気がするし、そういった強さの描き方が本当に女性的だなぁと思いました。同時に、男性的な人にはこういう「偶然」がただただ過ぎ去って、積み重なっていく様な、「理屈じゃない」部分で展開していく物語だとか描き方っていうのは、ひょっとしたら理解しにくい領域なのかなぁとも感じました。うん、やっぱり猫が好きです。  
[映画館(字幕)] 9点(2006-05-23 03:35:31)(良:1票)
3.  耳をすませば(1995) 《ネタバレ》 
耳をすませばのテーマは「成長」だ。同年には、エヴァンゲリオンが「思春期における成長過程」を描き、耳をすませばとの類似が見える。エヴァンゲリオンとは「アイデンティティの確立」がテーマの物語だ。巨大ロボットという絶対的な存在と、思春期におけるアイデンティティの曖昧さの対比。敵の襲来、父や周りの人々との関係、全てにおいて主人公は周りに流されながらも、少しずつ成長の兆しを見せていく。そして主人公は「ここにいてもいいんだ」という結論を導く。一方「耳をすませば」の場合。雫は自分の可能性を試す事に受験勉強もそっちのけで没頭し、絶対的な自己を追い求めている。この非常に能動的な姿は、自己を相対化する時代においては異質に映る。現代社会では、場所ごと、接する人ごとに自分の姿を変えていく。雫の自己の可能性を追及する姿は、すこし古い考え方とも取れる。しかし、宮崎氏はこの時代に、自立し、他者に左右されず自己の行動によってのみ自我を確立する10代の姿を描きたかったのではないか。監督のインタビューで「当初、僕はこの雫なり、雫が想いを寄せる少年をフツーの男の子にしたかったんですが、宮崎さんの考えは絵コンテを描くに従い、違ってきた。途中から描くに値する理想の人物として雫や聖司を描き始めた。具体的には、雫が「物語」を書こうとするあたりからかな。やっぱり宮崎さんだなぁという感想を持ちましたね」と語っていることからもそれは推測される。つまり、エヴァンゲリオンの主人公像=現代の若者。宮崎駿アニメの主人公像=現代の若者に求める理想像である。この作品は、多様化する価値観が存在する現代に、あえて絶対的な「価値観」を提示したのではないか。耳をすませばでは、未来はぼやけたままだ。雫に小説の才能があるのか、聖司に職人の適正があるのか、そういった事が描かれていない。そこに描かれるのは夢に向かう前向きな姿勢であり、努力であり、それを温かい眼差しで見つめる家族の姿だ。宮崎駿氏はインタビューで「この作品は、一つの理想化した出会いに、ありったけのリアリティーを与えながら生きることの素晴らしさを、ぬけぬけと唄いあげようという挑戦である」と語った。混沌とする現代において「耳をすませば」とは、一つの理想形とも言えるものをを観客である私たちに示した上で、「成長」を求めた作品だったと言えるのではないか。
[DVD(字幕)] 7点(2006-03-10 23:11:39)
4.  シムソンズ
過不足ない青春映画の快作。前半はコメディタッチで、カーリングのルール説明的な感じも相まって力を溜めてる感じ。その力が中盤以降徐々に効いてきて、どんどんのめり込まされた。「自分が何者かでありたい」という欲求と、「自分が何者でもないかもしれない」という不安。そして、「自分は何者かであるんだ」という希望がしっかりと刻み付けられていた。そこに若者がいて、もがいて苦しんでもう「青春」としか言えないような「何か」があって、その何かがこの映画にはあったと思うし、その何かがこの映画を映画たらしめていた。演技がどーのこーのとか、お話がベタだとか、そんなんどーでもよくて。そんな理屈じゃなくて。澄み渡る常呂町の景色と、JAMの音楽と、カワイイオンナノコが揃ったら、もうそれだけで感情高ぶりますよね。やっぱ理屈じゃないところで「いーなー」って思えるのは、青春映画の良い所だと思います。大泉洋さんの漁師姿が似合いすぎててツボだったのと、高橋真唯さんがきゅーと。 常呂町に行ってみたくなりました。
[映画館(字幕)] 8点(2006-02-23 06:28:37)(良:2票)
5.  THE 有頂天ホテル 《ネタバレ》 
三谷幸喜が、やっと映画界で本領発揮という感じだろうか。舞台作家なのに「映画」を撮ろうとしてたのが前回までで、今回は映画を舞台の手法で作っていたように思う。というより、映画制作に慣れて来て、自分の手の内で作品を操れるようになっただけなのかもしれない。邦画をどうしても積極的には見れない私でも、これは素直に面白いと感じた。ワンシーンワンカットの長回しの手法がぴったりはまっていて、舞台の文法をそのまま引用できたのが成功の秘訣か。シーンの中で重要でない人物もしっかり生きていたし、笑いを誘っていた。こういう所が演劇的だなぁ、と。シチュエーションの積み重ねとミスリードの畳み掛けで、作品のテンションも落ちずに飽きる事無くエンディングまで見る事が出来た。各役者さんに見せ場と存在感があり、「オールスターキャスト」何ていう言葉だけの作品に陥らず、しっかり作品に必要なパーツとして存在していた。何だかんだで戸田恵子さんみたいな「良い」女性を描くのが、三谷さんの得意技。それにまんまとはまる僕。ラストは、YOUの歌と表情にやられる。年増なんて言葉は彼女達に存在しないね。素敵。っていうか、私が年上好きなだけか。全体的にベタなんだけど、鑑賞後に拍手したくなるような至福の一作。
[映画館(字幕)] 8点(2006-01-22 13:35:29)
6.  ハウルの動く城 《ネタバレ》 
この映画のテーマは宮崎アニメとしては画期的な「家族」だ。今回の主人公ソフィーは、今までの主人公像であった「成長し自立していく少女」とは別に、「母」という役割がある。ソフィーとハウルの出会いのシーンでは、「少女」として恋心を抱いているが、ハウルの苦悩が描かれていく内に単なる恋心から変化し、ソフィーは精神的な支えとなっていく。強大な力を持つ男と、精神的な支えである女。さらにハウルの弟子を子供役、元魔女の老婆を祖母とした擬似家族が形成されていく。テーマを「家族」として見ると、物語の背景にある戦争の描かれ方にも注目がいく。今までの宮崎作品ならば、主人公の少女が争いに絡んでいく役割を担っていたが、今回はむしろその逆だ。ソフィーの興味はハウルや城の掃除であったり、食事にある。ハウルが戦地に赴き、その帰りを心配しながら待つのが今回の主人公なのだ。重要な事は「ハウルが無事に城に戻って来られるかどうか」なのである。一方、ハウルのキャラクターは「千と千尋の神隠し」の「カオナシ」を再構築したキャラだったと言える。「ツギハギだらけの巨大な城の中にいる繊細な男」という設定は、宮崎氏の考える「現代の若者像」の比喩である。城自体がハウルの精神世界であり、これはエヴァンゲリオンの碇シンジとキャラ設定が似ている。エヴァでは「絶対的な巨大ロボットとアイデンティティーが曖昧な思春期の少年」で、エヴァンゲリオンとは碇君の母親そのものであった(詳しくは他のエヴァサイトなど参照)。ハウルでは「城=精神世界」に「ソフィー=母」という記号が注入され、「城=家」になり「家族」という記号に変化したと考えられる。ハウルが「家族」という守るべきものを得て、「父」として命がけで死守しようとする姿は、これまでの宮崎アニメの主人公達の姿に重なる。ハウルは「成長し自立する男性」であったのだ。ラストシーンは皆が家族として「生活」し、それに伴い戦争も終わってハッピーエンド。ハウルとソフィーが愛し合い、父性・母性が目覚め、家族が成立した時点で今回の物語は収束している。多少唐突に思えるラストだが、家族の成立が軸であるため、戦争であろうが何であろうが小さな事だったのだ。結局、血縁よりも絆で繋がった集合体が「家族」なんだという事だろうか。現代家族の理想像を描いていると言えるだろう。
[映画館(字幕)] 8点(2005-10-31 03:59:03)(良:2票)
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