1. エレニの旅
《ネタバレ》 アンゲロプロスの映画は大抵が「戻る」か「帰る」に重点が置かれる。エレニは最後、水没した自分の村に戻り、唯一頭を出している自分の家で息子(最後の家族!)の死を目の当たりにして泣き崩れる。場所を失うということは思い出を失うのとほとんど変わらないことに違いない。「心の中に生きている」という言葉だってもはや介在する余地がない。エレニにはもう帰る(戻る)場所がないし思える人もいなくなった。そして余りにも重い慟哭が曇天の空とそれを写す水の間で響きを打ち、映画は終わる。独立した三部作の一作目になる予定の「エレニの旅」は、失うということをエレニという一人の女性に背負わせる。20世紀の総括のスタートとして。言葉だけでは表しきれない哀しさや孤独と映像にすることができない不在の間を流れる音楽が、この映画を物語り、同時にエレニへ向けた哀歌となる。二つの村を造り、片方は水没させ、片方には無数の白布を干した。映像は、意味をすっ飛ばして説明のつかない力強さを提示するが、それは同時にあの赤い糸のように脆くもある。170分という時間の密度にふさわしいアンゲロプロスの神話的世界は、彼とその仲間たちの不屈の精神によって作り出された、20世紀という戦争の世紀を生きた一人の女性の愛の物語だった。 [映画館(字幕)] 8点(2005-08-16 23:30:24) |
2. 1936年の日々
観客から笑い声が聞こえる。あのアンゲロプロスが笑いを取るとは・・・これは、ブラックコメディとして捉えればいいんだろうか。どんな作品かというと、ギリシャの独裁政権がどのようにして成立したのかを描いた、ギリシャ現代史三部作の1番目で彼の劇場公開作品としては多分2番目。後に続く「旅芸人の記録」と「狩人」があまりにも凄すぎて、この映画はアンゲロプロスとしては物足りない。この人はブラックコメディに収まるような人じゃないわけで、本人もこういう形になることをあまり望んでいなかったのでは、と思う。(この映画以降の作品は、どれ一つとして見えやすい形としての政治を提示せず、まずは「別」を撮る。政治や国家といった具体的問題は見えない/見せない部分に突然現れてくるようになり、それが余計に主題を深めている。)話としてはあまり面白くないが、やっぱり映画としての絵を作る事には相当こだわっている。序盤の刑務所の広場を挙動不審に歩き回る大量の囚人達のシーンや、鉄格子を囚人全員がカタカタと鳴らすシーン、ラストの処刑シーンでの遠景、そして夜中の刑務所360°ショットの緊迫感。そして彼のカメラに収まる人間はやっぱり皆アンゲロプロス的人間になる。この貴重な映画をスクリーンで観ることが出来たのはよかった。 8点(2005-03-18 16:49:14) |
3. 狩人
歴史に対する静かな反抗をこの映画に見た。旅芸人にしてもアレクサンダー大王にしても、歴史から零れ落ちた者たちによる一大絵巻がそこでは繰り広げられていた。「狩人」ではそんな忘れ去られた亡霊が、止まったままの時と共にパーティーにおける最大のショーを演出する。生者と死者をいとも簡単に交錯させるセンスに震えが止まらなかった。「切り返し?そんなのカメラを180度回せばいいじゃん!」と、言ったかどうかわからないがアンゲロプロスはこだわりの人だ。そんな彼の精神の最も尖っている部分がこの映画には良く出ている。見る側に置いてけぼりを食らわすかのように不可解な展開が襲う。眠くなるのは大抵この瞬間である。でも、目の前にはどこでも見ることの出来ない贅沢なロングショットが・・・ って、久しぶりにこの映画を再見したけどやっぱりスゲー。ヒッチコックの「ロープ」をやっていたのには改めて驚いた。この人はやっぱり「映画の人」だ。 [映画館(字幕)] 10点(2005-03-17 12:52:13) |
4. 旅芸人の記録
時間はこの人にとってあまり重要ではないのだろうか。いつも同じことが起きていた(場所)こそが彼にとって重要なのだと思う。記憶から思い出されるのは時間ではなくていつも場所である。時間の旅行が伝えているのは常に不変だった場所だ。ただの場所ではない。記憶としての場所と歴史としての場所が彼の映画ではいつも混在する。そしてここから人物は登場しているかのようだ。人物が、場所から発生しているというのは非常に重要な事で、というのも、アンゲロプロスが生み出す神話的空間の磁場によって時間を越えた普遍性が彼らに与えられるからだ。旅芸人たちには神話の人物名が与えられている。長い時間をかけてさえ、場所が創り出すギリシャ的なものは変わることがない。だが、それではまだ半分足りない。ギリシャはギリシャという場所であると同時にバルカン半島という場所に包まれている。ギリシャ的なものが内なる力だとすればバルカン半島は外力だろう。バルカン半島は民族同士の争いが絶えず、当然ギリシャも巻き込まれた。この辺の歴史は、もう何が何だか分からない。政権交代、内戦、外からの侵略、虐殺・・ひたすらにこれの繰り返し。この凄惨な歴史を語るためにはそれなりの語り手が必要だった。アンゲロプロスが旅芸人に託したもの。それはまさに吟遊詩人の役目だったのだろう。「ヤクセンボーレ!」と叫ぶあの曲の悲しみはもはや言葉で表現などできない。吟遊詩人でありながら、ギリシャ市民が味わった悲劇を彼らも当然味わっている。[DADA]さんが指摘するように遠景の長回しでゆっくり歩く彼らはギリシャの一般大衆でもあり、ここから彼の映画で重要な要素となる大衆と音楽の交差が見えてくる。こんなに贅沢で思索にも富んだ娯楽映画はない。最初に時間はあまり重要ではないと言ったが、例外が一つある。冒頭とラストのシーンだ。全く同じ構図で同じセリフなのにもかかわらず、見る側は全く違う印象でこのシーンを見つめることになる。4時間の長丁場がまるでこのシーンでの時間と空間の再会の為に用意されているのではないかという位の仕掛けだった。映画叙事詩の最高峰。 [映画館(字幕)] 10点(2005-03-03 12:32:13)(良:1票) |
5. こうのとり、たちずさんで
この映画でのテーマは多分日本人にとって一番理解しにくい部分の一つだろう。島国である以上、国境の存在はかなり曖昧だ。県境とはわけが違う。「あと幾つ国境を越えたら自分の家に帰れるのか」なんて、日本列島に住む人間が叫んでたら「頭、大丈夫?」と言われるのは確実だ。しかしこの映画ではこのセリフがそのまま現実としてある。ギリシャを含めたバルカン半島諸国は、その国境線を何度も蹂躙され、あるいは侵攻して、という歴史を繰り返して今の国土となった背景がある。だから国境線近傍は当然のことながら常に緊張している。そんな場所が舞台の「こうのとり、たちずさんで(この邦題、いいなあ)」はアンゲロプロスが国と国との間にある数え切れない襞に入り込んで、そこから見つめた人間ドラマである。これはもはや自分の理解のレベルを超えている。こういう場所が現実にあるのだと想像するしかない。マルチェロ・マストロヤンニ、ジャンヌ・モローという大物俳優が出ているがあの重たく暗いコートを着こんで、すっかりアンゲロプロスの子供になっている。そして映画の内容もこのコートのように暗く重たく、あるいは静かで冷たい。主人公は珍しく普通の人だ。彼に個性を持たせないことで、我々に直接に国境の住人達の感情を伝えている。必死とか諦めという言葉はここでしか意味にならないかのようだ。そしてあの結婚式。悲しさと美しさの間に立つアンゲロプロスにとって、川を挟んだ新郎新婦そして家族とその仲間たちは希望であって絶望なのか。頭を抱えるしかない。 [映画館(字幕)] 8点(2005-02-28 07:55:32) |
6. 霧の中の風景
完璧。もう一度言っちゃおう。完璧。映像も音楽もストーリーも、とにかく全てが。個人的にはいろんな意味でぶっ飛んでるギリシャ現代史三部作とか「アレクサンダー大王」のほうがアンゲロプロスの人間性を感じられて好きだが、「霧の中の風景」はかなり特別な存在だ。これの前の作品は「蜂の旅人」という非常にパーソナルな映画で、この映画からは老いを疲れるぐらいに感じたのに、数年後の次回作がこれだ。一体何があったのだろう。時空をまたぐ歴史語りに疲弊して旅に出た老人が、沈黙の詩人になって帰ってきた事は確かだ。ちなみにこれ以降は国境線上の夢遊病者になる。「霧の中・・・」に関しては色々と書きたい事があるが、一番重要と思われるのは、アンゲロプロスもまたこの二人の子どもたちのように原郷を探していたのだろうということだ。そしてこれが一つの答え、なのかどうかはわからない。というのもあそこがその場所なのだとしたら、それはこの世にはない場所だから。それは昔はあったはずだが今ではすでになくなってしまった場所とも言える。だから正確には探しあてたというよりも元の場所に戻ったというべきか。フェリーニには「アマルコルド」という原郷があり、タルコフスキーには「ノスタルジア」という失った原郷がある。そしてアンゲロプロスは「霧の中の風景」についに帰ることが出来た。ただし、これ以降彼の作品を包む霧はそんなに優しくはない。「ユリシーズの瞳」はまさにそれを象徴する。苦しい映像体験になると思うが、これもぜひ鑑賞していただきたい。彼特有の「あえて見せない」演出は曇天の鉛空だからこそ発揮するという事がよくわかるはず。 [映画館(字幕)] 9点(2005-02-24 14:17:48)(良:1票) |
7. アレクサンダー大王
1936年の日々」や「旅芸人の記録」あたりから始まるアンゲロプロスの「歴史と時空の旅」を主眼に置いた作品群はその全てが規格外で度肝を抜かれる。それは神聖な巻物を紐解いた時に感じるであろう、背徳の感覚に近い。「アレクサンダー大王」はその巻物の、まあ王様みたいなもんだ。これを読み解くのはそれ故困難を極める。キーワードは結婚式と歌合戦と銃。あと黒くて重たいコートと曇天の空も必需品。「霧の中の風景」では全開だった叙情は一度頭から放り出したほうがいいかもしれない。ついでにこの映画に流れている政治思想も無視。大衆の習俗にこそ醍醐味が盛りだくさんなのがこの映画だし、なんちゃらイズムを語るアンゲロプロスはあまり面白味がない。真面目過ぎるからだ。いや、だからこそアンゲロプロスの映画には、実はたくさん笑うところがあるのだ。それは、懸命であることを彼が一切茶化したり皮肉ったりしないからでもある。懸命さが笑いを誘うのはその人があまりに純粋であることの裏返しである。そしてこの映画の主人公アレクサンダーはそんなアンゲロプロス的人間の、まあ王様みたいなもんだ。4時間にわたる彼の栄枯盛衰を、ぜひ見ていただきたい。70年代アンゲロプロスはちょっと神入ってるですよ。 10点(2005-02-04 12:21:33)(良:1票) |
8. ボスニア
怪作(怪物のような作品の意)「アンダーグラウンド」のラストの字幕<この話には続きがある>という不穏なメッセージ。バトンを受け取ったボスニアの詩人でもある監督が描いたボスニアの内戦は、その不穏が筆舌に尽くしがたい程の絶望に変換されたものだった。いや、戦争の恐ろしさや狂気を描いた作品は今ではどこにでもある。そんなものまでも消費物としてポップコーンを飲み込むようにしてやがて排出される運命にある現状で、「ボスニアを東京まで拡大せよ」というメッセージを受け止める覚悟はなかった。「いつまでも平和ボケしていられると思ったら大間違いだ」と釘を刺されたような気分だった。反対に「ボスニア」を直接に体験する登場人物たちは確実に生きていてそして何かを勝ち取る為に死んでいく。生き長らえたとして残るものは・・・・全編通じて流れるジプシー音楽の調べは彼らの青春であり諦念でもあった。それらを包み込む「民族と友愛のトンネル」の暗闇と円環構造になっている物語がこれから続くであろう世界規模の内戦を予見している。アメリカ同時多発テロ後しばらくして見ただけに終了後はどうしようもない気分になった。とんでもないものを見てしまったという感情と、ユーゴ問題すら気がつけば忘却のかなたにあったということ。そして何よりも日本でこの映画を見たということにショックを受けた。にもかかわらず、この映画が自分にとって愛すべき映画になっている。それはこの映画にこもった魂があまりにも切実だったから。 [映画館(字幕)] 9点(2004-09-05 01:50:36) |
9. ユリシーズの瞳
映画誕生100年目にして出来た唯一無二のこの作品、一回見ただけでは何の判断も下せないでしょう。寄せては返す波のごとく行ったり来たりしながら、ハーベイ・カイテルが演じた映画監督Aとマナキス兄の現実(旅)と夢(追憶)に少しずつ近づく必要があります。映画はエンターテインメントだ、とはよく言われることでありますが、それと同時に抑圧から生まれる純度の高い結晶としての映画の存在も忘れてはならない。最初は何のけがれもなかった映画へのまなざしは100年を経て今の姿となりました。古典となった映画を今でも見るのは、映画にこびりついてしまった手垢に触れたくない時があるからでしょう。失われた無垢のまなざしを求める時空を超えた旅は歴史の渦に巻き込まれ、悲しすぎる惨劇でもってラストを迎えます。映画の敗北か、それとも第2章の始まりか。アンゲロプロスのまなざしは、私には遠すぎます。 [映画館(字幕)] 9点(2004-07-25 01:17:27) |