1. カンヌ映画通り
「書かれた顔」や「トスカの接吻」等を見れば一目瞭然なのだけど、ダニエル・シュミットの映画に登場する老人は凄い。単なる数字的な加齢では説明の付かない老いがそこにはあって、何か怪物的な雰囲気が、いや、怪物だって人間の創造物に過ぎず、なんというか、物理法則の影響下から解放された特権階級みたいだ。というのも、この映画に登場するキーラ・ニジンスキーという老女が小さい頃、彼女の父つまりあの偉大なバレエダンサーであるニジンスキーが空で止まっているのを目の当たりにしたというエピソードが印象的だったからで、それに加えてキーラさんも信じられない身のこなしでダンスを披露するものだから・・・また、彼女とこの映画の主人公であるビュル・オジェ(彼女は「天国の門」を観る事が出来たのだろうか?)とが交わす視線が作り出す空間や、この映画の中で進行しているカンヌ映画祭と、ビュル・オジェがオペラグラス越しに見る昔のカンヌ映画祭との距離にみられるいかがわしさ、つまり本来交わらないものが何食わぬ顔で交じりあうダニエル・シュミット的な邂逅。最高です。ビュル・オジェ、当時42才。見えん。 [ビデオ(字幕)] 9点(2007-06-22 20:07:09)(良:1票) |
2. 太陽(2005)
《ネタバレ》 銀座シネパトス特有の地下鉄の走行音&微振動と、ソクーロフ映画特有のサウンドとの合成によって、気持ち良さのあまり序盤思わずウトウトしてしまったが、終わってみれば相変わらずのソクーロフ節というか、むしろ昭和天皇を演じるイッセー尾形という俳優を得たことで、ソクーロフの諸作品と比べると親しみやすい映画であったように思う。イッセー尾形の道化ぶり、佐野史朗の狼狽、桃井かおりのぎこちなさ等は普通に見ていて面白く、それらをあの独特の暗色画面の中でやってしまうソクーロフの大胆さも面白い。「昭和天皇は断じてこのような人物ではない」という意見もあるだろうが、それは確かにそうだろうと思う。ただ、そんなことは実はどうでも良く、むしろイッセー尾形が演じるヒロヒトが演じていた/演じざるを得なかった現人神(=太陽?)としての昭和天皇の姿を、人物そのものの造形ではなくて「関係(侍従との関係、マッカーサーとの関係、皇后との関係等・・・)」として捉えただけでなく、退避壕を中心としたほとんどが室内で構成された場面、あるいは妄想や窓越しからしか見る事の出来ない焼け跡の東京までもが昭和天皇の中に包含されるような世界として構成するそのやり方が見事であり、ラスト、佐野史朗の一言を聞き沈黙するヒロヒトを、桃井かおりが手を引っ張って部屋から出て行くシーンによって唐突に映画を終わらせることで、閉じられた世界にわずかな裂け目が作られた(それがエンドロールのあの白い鳥なのか?)。これは必見です。「あっそ。」と言われたらそれまでですが・・・(笑) [映画館(字幕)] 9点(2006-08-20 19:33:21)(良:2票) |
3. ラルジャン
魂消ちゃいました。 [映画館(字幕)] 10点(2006-08-04 19:18:01)(笑:1票) |
4. ベレジーナ
テオ・アンゲロプロスがギリシャを曇天と黒のロングコートの国にしてしまったように、ビクトル・エリセがスペインを熱情から詩情の国にしてしまったように、ダニエル・シュミットは「ベレジーナ」でスイスの国旗の白十字を黒に上塗りした。なんていうのは大げさだし、そーやって勝手に影響を受けている自分が単なるアホなのだが、この3人が作る映画は単なる「お国映画」に留まらず、独特な視点を提示している。この点の非凡さと同時に映画としての贅沢さも持ち合わせていて、言い方はあれだが、見たあと非常に得した気分になる(で、その後に「ヨーロッパ映画ってやっぱり深いねー」みたいな感じになるとちょっとマズいわけだが)。まあ、それ以前に「ベレジーナ」は文句なしに面白く、艶のある映画だと思った。うっとりするような反復(画面に見とれて字幕を見逃してしまうほど)が繰り返されながら少しずつズレが生じてきて、そのズレが決定的になった時、スイス最後の一日が始まる。その始め方が、とんでもなくバカにされたというか、煙に巻かれたようなひっくり返しなのだけど、その後の怒涛の展開はさらにぶっ飛んでいて、最後に独立の旗がバッと開いた時が最高潮。鑑賞後の幸福感がたまらない。ハラーショってあんた・・・ [映画館(字幕)] 10点(2006-06-14 18:46:19) |
5. アワーミュージック
2回見たが、むしろわからないこと(色んな事をやっているのはわかったが、なんでそれをやっているのかという事)が増えただけという感じ。パンフレットで絶賛されていた音響について集中して鑑賞してみたが、改めてびっくり。地獄編でのピアノの音と映像の関係は、あれは何だろう。映像が音に追従してる様だし、その反対ともいえる。あるいは印象的だった川のせせらぎの音もよく聞いてみると色んな音が加わっているように感じた。音を気にしすぎた結果、他の部分は川の流れと共にどこかへ行ってしまったが、こんなに心地良かった映画体験もなかなか無い。上映時間の短さも良い。ところで「ヒズ・ガール・フライデー」の切り返しショットをゴダールが説明する部分があったが、この二つの写真で組み合わされる切り返しは映画の中で一度も無いという情報を知り、実際に見てみたが「ヒズ・ガール・フライデー」が面白すぎて確認できなかった。 [映画館(字幕)] 10点(2005-11-11 00:15:21) |
6. こうのとり、たちずさんで
この映画でのテーマは多分日本人にとって一番理解しにくい部分の一つだろう。島国である以上、国境の存在はかなり曖昧だ。県境とはわけが違う。「あと幾つ国境を越えたら自分の家に帰れるのか」なんて、日本列島に住む人間が叫んでたら「頭、大丈夫?」と言われるのは確実だ。しかしこの映画ではこのセリフがそのまま現実としてある。ギリシャを含めたバルカン半島諸国は、その国境線を何度も蹂躙され、あるいは侵攻して、という歴史を繰り返して今の国土となった背景がある。だから国境線近傍は当然のことながら常に緊張している。そんな場所が舞台の「こうのとり、たちずさんで(この邦題、いいなあ)」はアンゲロプロスが国と国との間にある数え切れない襞に入り込んで、そこから見つめた人間ドラマである。これはもはや自分の理解のレベルを超えている。こういう場所が現実にあるのだと想像するしかない。マルチェロ・マストロヤンニ、ジャンヌ・モローという大物俳優が出ているがあの重たく暗いコートを着こんで、すっかりアンゲロプロスの子供になっている。そして映画の内容もこのコートのように暗く重たく、あるいは静かで冷たい。主人公は珍しく普通の人だ。彼に個性を持たせないことで、我々に直接に国境の住人達の感情を伝えている。必死とか諦めという言葉はここでしか意味にならないかのようだ。そしてあの結婚式。悲しさと美しさの間に立つアンゲロプロスにとって、川を挟んだ新郎新婦そして家族とその仲間たちは希望であって絶望なのか。頭を抱えるしかない。 [映画館(字幕)] 8点(2005-02-28 07:55:32) |