1. サンドラの週末
《ネタバレ》 マリオン・コティヤールがとある出来事で傷付いて、 (と言ってもこの映画内ではずっと傷付いているんだけども) 車に乗り込んで、買ったばかりのミネラルウォーターのキャップを夫に開けてもらい、 一心不乱に身体に水分を流し込み、走る車の車窓から傾げた首で風を切り光を浴びる。 苦しさを解き放つ為に。 ああこのワンショットはちょっと力強過ぎて凄いなと思って泣けた。 マリオン・コティヤールの芝居と、決してフレームの中で動くことのない車体と、 それとは逆に車窓外を流れ続ける街並みとが、サンドラという女性の風景だなぁと。 まぁよくわからんけど、そんな感じだ。 ダルデンヌ兄弟の芝居を引き出す能力は本当に凄いものだ。 エンドロールを眺めながら、この映画を端的に表現している曲をふと思い出した。 自分の幸せを願うことはわがままではない 私の涙が乾くころ あの子が泣いてる このまま僕らの地面は乾かない 誰かの願いが叶うころ あの子が泣いてる みんなの願いは同時には叶わない 小さな地球が回るほど優しさが身に付く もうー度あなたを抱き締めたい できるだけそっと というやつだ。まぁそういうことだと思う。 弱者であるとかそんなことじゃなくて、感情を有する人間の本質と だからこそ平等とか平和なんてこの世には存在し得ないという糞哀しい真理。 ならばせめてものってことだ。 君が笑ってくれるなら僕は悪にでもなる、という言葉選びの素晴らしさをも思い出した。 曲と言えば、ダルデンヌ兄弟があんなところでヴァン・モリソンなどを流し、 なにやら感傷的なドラマを生み出したことには少し驚いた。こんなことも出来んのかと。 [映画館(字幕)] 9点(2015-06-06 01:18:32) |
2. ホーリー・モーターズ
《ネタバレ》 最高に笑えるのだし、最高に泣ける。 終幕間際、リムジンが倉庫に続々と集まってくる。 そしてエディット・スコブは車を降りる前に仮面を被るのだ。 『顔のない眼』だ。なんというまさかのオマージュ。 そして彼女すらもスクリーンから消え去った後、彼らが遂に話始める。 「もう誰もモーターを望んでいない、行為を望んでいない」 自らをもうじき廃車になるのだと嘆いている。 そう、聖なる機械が、嘆いているのだ。 HOLY MOTORSとは、そういうことだったのではないかと思う。 日本では、舞台などでもそうだが、上手・下手と言うわけだが、 フィルムカメラは下手側にファインダー上手側にモーターがあって、 海外はファインダーとかモーターなどと言って方向の統一をするわけで、 モーターが駆動するように、この映画も駆動して人物の身体的躍動を撮らえるわけで・・ まぁ、そういうことは、本当にどうでもいいのだけども、 そういうことだと思えて仕方なく、ただ泣けてくるのだ。 冒頭の映画を観ている観客たちは果たして本当に映画を観ているのだろうか。 ただ眺めている、あるいは眠っている。 ミシェル・ピコリが言うだろう「観るひとがいなくなったら?」・・ ・・などと、そんな面倒くさいことなど考えることすらも放棄したい。 人物が動き、人物が喋り、カメラが動き、音が響き、 スクリーンに今まで見たこともない事実が投影され続ける。 そう、ゴジラの旋律に笑って、カイリー・ミノーグの歌声に涙する、 もうそれで充分過ぎるほどの映画だ。 [映画館(字幕)] 10点(2013-04-29 00:48:42)(良:1票) |
3. アーティスト
《ネタバレ》 このフォーマットにしたからには、きっと、このフォーマットの時代の映画と比較されたってしょうがないわけだが、つまり別に大したことはないわけだ。器用だが、その器用さは、過去の映画史が築き上げてきたものの既視感をモンタージュしたからだ。つまり、当たり前だが、懐古主義だ。懐古主義にならないはずがない。別にそこはどうでも良いが、今これをやるという快楽主義の問題だろう。このラストからわかることは、トーキーしか知らない世代が作る今だから出来るサイレントという表現、これは新しいのではなく、当然の表現だ。サイレントを撮れない世代が、サイレントを撮ったなら、みんながやりたいであろうことを片っ端からやっているので、そういう意味では凄く熱くなるのだ。 いちばんの見せ場は階段。サイレントからトーキーへと移り変わっていく様をひとのすれ違いで描くこと。女は上へ、男は下へ。ただこれをモノクロスタンダードサイレントのフォーマットに落とし込まなくては出来ない悲しさ、またサイレントでなければ出来ないことでもないということ。また、柱を隔て座ることの意味。これもまたサイレントだからということではない。現代でも同じことだ。今、そういうことを忘れた、知らない人々がただ映画と呼ばれるだけのものを作っている。この映画の意義はそういうことに無頓着になってしまったことを正すための良い教材になるであろうし、これをきっかけにサイレント映画を観返すひとが増えるならば、それはとても良いことなんだろうと思う。 さて、映画愛という言葉が流行っているいるようだが、『アーティスト』はアナログなことをしているが、結局は歴史と技術へのものだが、『ヒューゴ』は映画の進化を最大限に利用しているものの、映画を作るということの精神へのものだ。そして予告編にもあるフィルムを焼くシーン。ここには『イングロリアス・バスターズ』の様な映画愛はないし、ましてや、フィルムの終わりを意味するようなものなど微塵もない。 [映画館(字幕)] 5点(2012-04-08 20:03:42)(良:1票) |
4. ヒューゴの不思議な発明
《ネタバレ》 メリエス(のみならずリュミエール兄弟でもハロルド・ロイドでもどれでもそうだが)の映画が流れる度に涙が溢れそうになるのだが、それは別にメリエスの映画に涙しているのではなく、ぬけぬけと懐古的な映画愛を恥ずかしげも惜しげもなく披露してしまう、この映画の全体の一部に涙している。何故なら、スコセッシがそう仕向けてくるのだから。 であるからこそで、ふたりが映画館へと忍び込むところだ。暗闇を切り裂いて、光が、ただ光が、スクリーンを突くと、浮び上がる新たな世界。『ロイドの要心無用』の名シーン、ビル登り、をふたりが興奮して食い入るように観る。そう、子供の頃の映画という体験の興奮を忘れることが出来ず、ひとは繰り返し繰り返し、暗闇へと脚を運ぶ。 さて、どうして、こんなにも愚直で、稚拙で、恥じらいのない、映画愛に満ち溢れた映画を作ってしまったんだろうか、スコセッシは。何時にも増した下手くそさと、観客を選ぶような映画愛表現と、幾つものレイヤーを重ね合わせただけのような3D映像。こんな欠点だらけの映画、最高に好きである。 これは暴力やセックスを描いてきた作家の、映画が暴力やセックスと手を結ぶまでの映画。映画は未来のない発明だという劇中でも登場するリュミエール兄弟の台詞とは裏腹に、映画は、音、色、そして、デジタルへと変容し続けている。人々が暗闇へと脚を運び続ける限り、映画は死なない。 [映画館(字幕)] 8点(2012-03-08 01:10:41) |
5. 人生万歳!
《ネタバレ》 ウディ・アレン、久しぶりのアメリカ舞台の作品。アメリカを出て撮った数作のちょっとしたシリアス路線など無かったかのようないつものアレン映画。皮肉とジョークと良き音楽で魅せるアレンらしい映画だ。主演をラリー・デヴィッドに任せるも、あれはアレンの化身の他の何者でもない。 今回も「それでも恋するバルセロナ」の時に書いた様に、ある一点のみについて書いておこうと思う。それは尺取虫の母親が初めて写真を見せるシーンで写真のインサートを一切入れないのがアレンであるということだ。どんな写真なのかは必要な情報ではなく、その写真から始まる物語が重要であり、それはふたりと、ふたりがいる風景があればそれでいいのだということ。もし写真のインサートが入ると、その内容、尺取虫の娘のミスコンの情報が現れ、その物語が立ち上がってしまう。そうなると、あのふたりのこれからの物語に移行するのに遠回りになる。だから入れない。それで絶対的に正しいと思うのだ。 本作で監督作品40本目、そういった巧さを心得ているアレン、まだまだ枯れるはずなどない。 [映画館(字幕)] 7点(2011-01-14 18:59:21)(良:1票) |
6. ブロンド少女は過激に美しく
《ネタバレ》 まず、この女はどこを見ているのだろうかって思う。しかしそれは実はやはり単純なことで、男はこの物語を語る人、女はこの物語を聞く人、つまり彼女のやるべきことは男に視線をおくることなんかじゃなくて、彼に耳を貸すこと。ただそれだけ。女の耳はいつも必ず物語が紡ぎ出される男の方を向いている。故に女の視線はまるで盲目のそれのような妙ちくりんなものとなってしまった。 そしてやはり、ルイザの脚だ。ルイザの片脚がぴょんとなる。それはキスするのに身長が足りなくて、背伸びして、片脚立ちになるから。これをオリヴェイラは、ごくありふれたキスをするふたりというショットなどよりも、その脚のみを選択し可愛らしく切り取るわけだけど、それって実はラストへの布石だった。 ルイザが大股開きでソファーに浅く腰を据えぐったりと項垂れる。この風景の威力というのはかなりのものだ。この映画が60分をかけて描いてきたものをすべて崩壊させてしまう。これというのは彼女が唯一ひとりになったときに見せる彼女の本性であり、「ちっくしょー、やっちまったなぁ・・」っていう態度だ。実は柄の悪いお嬢様だったと(本当にお嬢様であったかすらもよくわからなくなってくるわけだけど)。 この真逆といえる人格を、片脚ぴょんと大股開き、という脚だけで、しかもふたつのショットで描いてしまうというのは、単純でありながらも、これこそが映画の豊かさなんじゃないのかって、オリヴェイラの映画を観ると毎度のことながら必ず気付かされるのだ。 [映画館(字幕)] 9点(2010-10-20 03:12:17)(良:1票) |
7. グリーン・ゾーン
手持であろうと、スタビかまそうと、クイックズームしようと、フォーカスが合ってなかろうとなんでもいいのだけれど、でもこれって「見せる」という気がないのか、あるいは失敗しまくってるのか、それともこれがかっこいいと思っているのか、つまりスタイルとして確立したいのか、全然わからなくて、やっぱし観ていて思うのはこんなの駄目だろってことだけで、極端な話だけど、ドキュメンタリーは即時性だからどうしたって追いきれないとか撮りきれない瞬間てあると思うのだけど(まぁそれを撮るのがプロフェッショナルだけど)、しかしこれってドキュメンタリーじゃなくて、所詮そっれぽい感じのフィクションだから、だったら、何を見せるべきか、つまり、撮るべき対象っていうのがしっかり固まっていて、つまり芝居をつけてそれを狙うわけで、それがちゃんと撮れてない、っていうか敢えて撮ろうとしないっていうのは、ただの撮影行為の放棄じゃねぇかよって思うし、戦場の雰囲気ってこういうことじゃないだろっても思うし、要するに撮ってる側が戦場に入り込みすぎた感じのぶれぶれの何映っているかわからない映像のどこに映画の客観性があるんだよってな話で、どんなに頑張ったてスクリーンのこっち側にいる人間は客観であるしかないわけで、それを飛び越える瞬間てあるとは思うけど、こういうことではないんだってことははっきりと言えるのだ。 もう一つ言えば、そういうフィクションさを消したい感じ、つまりリアリズムを求めるのは、それはそれで良いけど、まぁここまで書いた通り、この映画の映像はまず徹底的に駄目で、じゃあお話はどうかってことで、でもやっぱりお話部分も駄目だと思うわけで、結局、映画の面白さって、時に、嘘っぱちさだと思うわけで、事実に創作を入れ込んだものというのは、その創作部分が事実を塗潰してしまうような嘘っぱちであって欲しいのだ。 [映画館(字幕)] 3点(2010-06-01 22:20:15)(良:3票) |
8. コロンブス 永遠の海
こういう映画こそが、豊かな映画だなぁって思えるのは、潤沢なバジェットだとか、一流の役者の起用とか、大規模なオープンセットや海外ロケとかとは無縁なところで、時間と大陸を軽々と飛び越えてしまうからで、それが正に映画の魔術とか奇跡とか、まぁなんでもいいんだけど、映画ってそういうもんじゃんってことだと思う。 学のない自分なんかは、この映画って一体何の映画なんだかさっぱりわからんわけで、ハネムーンの前くらいまではこの映画って何についての映画なんだったけかと本当に疑問だったりして、コロンブスはコロンって呼んでねとか、ポルトガルの偉人の像を建てようぜだとか、更にはご老人たちのロマンスまで絡まっちゃって、最後はノスタルジアな曲を歌い出して、でも根本的にはアメリカ映画なんじゃないのかって思えたりして、でも本当にこれ何の映画なんですかって聞きたくなるのだけど、まぁそんなことは実際にはどーでもいいっちゃどーでもよくて、ちゃんと物語もやってるし、というのも、基本的にオリヴェイラの映画は歴史を物語るというよりは、歴史が物語ってくれるという感じで、それっぽいけど、出鱈目な風景の連続を映画の中に落とし込むことで、それで事実としちゃってるから、いつも、映画なんてそんなもんでしょって納得させられちゃうのだ。 101歳(撮影時は98歳か?)の老体が車を運転している姿が映画になるっていうのも恐ろしいことだし、霧の処理の仕方とか、信号の件とか、まぁ終始驚かされっ放しだったというのが正直なところだし、やっぱ笑っちゃうよね。 [映画館(字幕)] 8点(2010-05-30 11:35:16) |
9. 倫敦から来た男
《ネタバレ》 冒頭の長回され続けるあのショットの途中、船上で男ふたりが何やら会話をする。記憶が既に朧げだが「2分経ったら・・」とか「Be Careful・・」といった会話をするが、このときの台詞がオンでいいのか疑問だ。少なくとも硝子越しに撮られているのだし、これがオンだとあの密談が主役の男、マロワンに聞こえていたということになる。勿論、その後の大声での騒動などは、大声であり、マロワンの目撃のショットであるからオンで正しい。しかし、あの密談はオフでなければならないはずだ。 長回しというのは断絶されない時間の証明だ。それは映像だけでなく音にも同じ意味になる。であるからこそ、ひとつのショットの中で定まらぬ音の演出がされているということ、これは明らかに間違っていると断言できるものだ。 そんな冒頭の緩慢な長回しを見ているだけで疲労感覚えた。シンメトリーにフレーミングされた船の先端を途轍もない遅さでクレーンアップしていくのに何の意味があるのか。何の意味もない。あまりにも緩慢なカメラの動きと人物の動きは物語やサスペンス性を宙吊りにし、ただ、ハイコントラストなモノクロームの世界を演出するだけだ。しかしそれはそれで正しいのだ。これがタル・ベーラのスタイルだからだ。 タル・ベーラと言えば450分の「サタンタンゴ」や鯨が出てくる「ヴェルクマイスター・ハーモニー」といった映画が有名であるがいずれもモノクロである。彼は自分のスタイルというものに忠実である。1.66:1、モノクロ、長回し、長尺。いずれも時代性としては後退的なものだと言っても過言でない。自分の世界にのみ生きる閉ざされた映画作家であると見られることも恐れず、スタイルを忠実に貫く。映画はこういった作家を受け入れるが、個人的にはそこに何も感じないわけで、一刀両断にしてしまえば、アンゲロプロスのほうが巧く、より感動的であるということだ。 [映画館(字幕)] 6点(2009-12-22 01:02:03)(良:1票) |
10. クリーン (2004)
《ネタバレ》 駅の中でマギー・チャンがニック・ノルティを探し回るシーン、長玉で軽く修正移動をかましながら、カメラが彼女を追っかけ回すが、とても素晴らしい。あれを李屏賓がやると超絶にうまいのだけど、ゴーティエは(彼の場合彼自身がオペレートしてるのかはわからないが)決して丁寧とはいえないし、寧ろ、雑、というか下手上手いというか、味があるとでもいったらいいのだろうか、あれがいいのだ。「イントゥ・ザ・ワイルド」でも長玉、手持ちとかでぶんぶん振り回すのだけど、それもまた雑でありながら、どこか味があってよい。 そのことはさておき、マギー・チャン演じるエミリーが友人の家に居候をするのだが、その友人が犬を連れ家を出て行くが、忘れ物をして家に戻ると、エミリーが涙を流しているというシーンなどは格段に素晴らしく優しい。ただひとりぼっちになってしまった孤独感で泣くというシーンだが、友人が外出し気が緩んだというこの見せてはいないが見えるワンクッションこそが素晴らしいだろう。このシーンまでは常にマギー・チャン、あるいはニック・ノルティを切り取るカメラが、ふいに友人を主軸に動き出すのだが、映っていないところでのエミリーの感情というのが友人が扉をそっと開けた時に一気に動き出すということだ。これこそが映画の巧みな演出だ。 そしてこの映画のニック・ノルティのまなざしこそがアサイヤスのまなざしで、見守るよという、やはり他のアサイヤスの映画同様にこの映画もまた優しさに溢れている。 [映画館(字幕)] 8点(2009-09-16 17:31:08) |
11. レスラー
《ネタバレ》 ミッキー・ローク演じるレスラーのランディとマリサ・トメイ演じるストリッパーのキャシディは、どちらも年齢を重ね、自らの職業に限界を感じ始めていた。 ランディがリングに上るのを背後から追い掛けるカメラは、彼がスーパーの接客業に始めて挑む時にも彼を背後から追い掛ける。またある時そのカメラは、キャシディがストリップ小屋の舞台に立つとき彼女を背後から追い掛ける。人生はいつでも戦いであり、誰もが人生の舞台というリングに上り、戦っている。 しかし、大概、誰にでも限界は訪れるのだ。ランディやキャシディのように世間から見たときに、軽視されがちであったり、偏見の目で見られがちな職業についている場合、そこから引退することは、同時に様々な困難に立ち向かうことを意味するだろう。 だからこそ、ひとは選択をしなければならない。ランディの選択、キャシディの選択、それはどちらも間違った選択などでは決してないのだ。 ランディは自分の生きる道がやはりレスラーにしかないのだという選択をする。自分の居場所は、ファンの前に立つ、リングの上に立つということ、そこでしか自分の存在価値を見いだせないことに気付いてしまう。だから彼はいつもの戦いの場を選ぶのだが、それは同時に自らの死を選ぶことになることを彼は気付いている。即ち、彼は正に決死の覚悟でリングに滑り込む。 そしてもはや立っていることすらも侭ならないにも限らず、コーナーにのぼり、必殺技ラム・ジャムを放つ。 しかしそれは死ぬこと。 死ぬなら自分が一番輝いている場所、リングの上で死ぬ。これはほとんど自裁であり、リングという彼の聖域に自らの命を捧げるということだ。正に不器用な男の、不器用な覚悟なのだ。それがランディの生き様だ。 そういう生き様をミッキー・ロークという適任者で、ただただ愚直に描く。それもまたランディの生き様のごとく、なんの捻りもなく、もちろん巧さなんてなく、ただ愚直に描くのだ。それで充分ではないか。 自分はこの男を愛するべき人間であったと深く思えた。 [映画館(字幕)] 7点(2009-07-12 01:17:34) |
12. 夏時間の庭
《ネタバレ》 アサイヤスはきっと優しすぎるんだろうと思う。美術館に展示されるような価値あるものの中で生きている人々のごく普通の家族の集いであったり、親の死であったり、遺産の相続であったりするわけで、すべては我々が生きている日常の生活と何も変わらない。それを優しすぎるくらいのまなざしでアサイヤスは切り取っていく。 しかしエリック・ゴーティエのカメラは優しくはなくて、むしろ過酷。それはデプレシャンの映画を見ているとよくわかる。デプレシャンは常に過酷だから。それは映画に何を求めるかという話になると思うが、個人的には映画に優しさを求めてはいけないと思っている。映画は常に過酷でなければならないと思っている。 これをゴーティエの問題とするかは疑問が残るが、アサイヤスとデプレシャンのカットバックはどこか似ている気がする。人物の位置関係がはっきりとせず、どこか忙しない。これは決して優しいとは言えないのではないか。むしろ過酷に映る。そういう面で、アサイヤスは優しすぎるからこそどこか損をしているように思う。 ただ若人たちが集まってくると、過去(歴史)と現実(現代)が混ざり始めて混沌としてくる。ああアサイヤスはこれがやりたかったんだっと思ったのだが、それと同時にゴーティエのカメラも急に活き活きとしてくる。娘がノスタルジーに浸かりだすと、それは正に混沌として何やら過酷で素晴らしい。 ラスト、俯瞰で、緑生い茂る中を手を繋いだ若いカップルが駆け抜けていくだけで、もうそれでいいよねって思えてくる。だって最初だって子供たちが走り抜けていくところから始まるわけだし。 結局、何がしたかったかっていうと祭りがしたかったのかなと思った。過去や今を背負いながらも、寂しくならず、いつでも楽しい祭りがしたいのかもしれない。そういう風景を撮りたかったのかもしれない。 アサイヤスの素晴らしいところは、何でもないごくごく普通の人々を、またはその行動を風景の中に溶け込ませて、また別の風景を産み出してしまうところだ。 [映画館(字幕)] 7点(2009-06-27 00:35:49)(良:1票) |
13. バーン・アフター・リーディング
《ネタバレ》 『ノーカントリー』の時も感じたが、はっきり言って駄目なんじゃないかと思う。ただ無責任なことだがどーして駄目なのかがよくわからない。凄く簡単に言うと「つまらない」ってことなんだけど、その「つまらなさ」自体すら理解することが出来ないから困る。 まず脚本も演出もまったく巧くない。群像劇ということで点と点は何らかの形で繋がってはいるが、それは巧さとは何にも関係ない。 コーエン兄弟って本当にキャラクター創造の人たちで、それって役者が勝手にやってくれることなんだけど、それを脚本とか演出でがちがちに固めて造り出そうとするから駄目なんだろうなと思う。この人はこういう人でっていう縛り付けが強すぎるんだな、きっと。映画ってキャラクターショーではないのだから。 ま、結局それがコーエン兄弟らしさなのかもしれないが、となるとそれを楽しみにしていないと何も楽しくないってことになるのか?だったら見なけりゃいいということか?しかし哀しいかな、確かに過去のコーエン兄弟の映画は楽しかった、好きだった、だから今も見ているという人は大勢いるだろう。もはやコーエン兄弟とウディ・アレンは年中行事になりつつある。これは正直良くないことだ。このことについては最近よく考えるが、どーしていいやらわからない。もしかしたら「もう見ない」という断固たる決意が必要なのかもしれない。 それはさて置、あと主な登場人物たちが最後誰も出てこなくなるってことでこの映画はいいのかと思うのだが、それは観ているこっちからすれば何の感慨も沸かなくなるんじゃないのかと、まあ出てこなくてもいっこうに構わないんだが、ならばその最後の感慨ってものを観客に感じさせるのにあのCIAの幹部のふたりにすべてを負わせるっていうのは無理があるってことなんだと思う。そこにはキャスティングミスということもが多少なりある。主な登場人物があまりにも有名過ぎて、あのCIAの幹部ふたりは添え物でしかない。添え物にすべてを任せるなんてのはあまりにも無謀すぎるだろと。 Googleアース的に始まって終わろうとそんなことはどーでもいいんだが、あれの意味を考えると更にこの映画がつまらない映画だと露呈してきそうなので、止めておくことにした。だからきっともうコーエン兄弟の映画は楽しめないんだって思う。 [映画館(字幕)] 4点(2009-05-03 04:53:38) |
14. 肉屋
《ネタバレ》 長閑な田舎町で、幸せそうに暮らす人々、男は戦場に行っていた、女は昔の恋を引き摺り恋をしない。そんな中、連続殺人事件が起きる。映画はただそれだけで、特に何があるわけでもない。映画は何か大きな物語の展開がなければならないわけでもない。物語など、原因に過ぎない。結果は映画であり、それを導くための物語だ。であるから大きな展開が映画に重要視される必要はない。男と女がいて連続殺人が起きた、それだけで映画は成立する。あとはそれをどう描くかというだけだ。 それはもう、ああヒッチコックだね、ヒッチコックなんだねと思うわけだが、クロード・シャブロルの凄さとはやはり扉なのだなと。ただ扉を閉める(あるいは開ける)だけという行為のサスペンス性を追求するとこうなる。サスペンスといえば階段ということにもなり、階段をただ駆け下りて、ただ扉を閉めるだけでいい。木造の校舎の階段をピンヒールが駆け下りる音、そして扉を勢いよく閉める音、そして施錠する音、どれもサスペンス性を駆り立てる。人の死をエレベーターのランプで表現するなど、映画の終幕へ向かい畳み掛ける表象の見事さは言うまでもない。そして全編に響き渡る異様な音楽。 車を降りて朝陽を浴びるエレーヌは果たして肉屋を愛していたのか。肉屋はエレーヌを愛していたから彼女を刺さずして自らを刺したのだろう。では接吻をしたエレーヌに愛情はあったのだろうか。愛情故に人を殺める時もあるが、時に愛情の欠如は人を殺めてしまう。朝陽を浴びるエレーヌの無表情はナイフにも似た凶器に見えた。 [映画館(字幕)] 8点(2009-03-09 18:14:36) |
15. 石の微笑
《ネタバレ》 クロード・シャブロルはここ数年も撮り続けているはずだが、全く日本に入ってこない。困ったものだ。この映画を見ればクロード・シャブロルが枯れ果てた爺様になってなどいない、むしろ年を重ねますます映画が冴えてきているとさえ思えるだろう。こんなにも無駄を排した濃密な映画はなかなかない。 終盤、警察署内の扉が幾度となく開閉され、それを性急なまでに移動し、細かくモンタージュしていく。この辺りからこの映画の終幕へ向けての極度の緊迫感は高まっていく。 「もうしばらく会うのはよそう」とブノワ・マジメル演じるフィリップは、ローラ・スメット演じるセンタ(決して美人とは言えずとも、この怪しげな色香は一体何事か・・)に電話を通して言う(ここでも単純ながらも秀逸なカットバック)。しかしフィリップの衝動は抑えきれない。キャメラは浮遊感たっぷりにセンタの家へと入っていく。自然と玄関の扉は開き、半開きとなっていた地下への扉をくぐり抜け、左へ穏やかにカーブした階段を下りると裸電球がぶら下がっている。この緊迫感に唸りをあげない人などいないだろう。しかしセンタは地下の部屋にはいない。フィリップは階段を上り、義理の母とその恋人がタンゴを踊っている2階を通過し、悪臭が漂う3階へと足を踏み入れる。そしてまたひとつ扉を開けると、そこには椅子に腰掛け、前屈みになり煙草をふかすセンタがいる。この時の戦慄、もはや説明するまでもあるまい。そしてまたひとつ扉を開けると、そこには腐ったネズミではない、あの誘拐されていた少女の死体があるのだ。 この終幕までの10分から15分足らずで、幾度とない扉が開け放たれ、そこにはフィリップが虚構の世界に止めておきたかったものが現実となって広がっていく。勿論、このラストだけではない。この映画は常に扉が開かれること(あるいは閉ざすことで)、そしてその中を、その空間を移動することで物語が展開し、極度の緊迫感を醸し出している。この扉を開ける、閉めるで映画は作られ続けてきた。この扉というたった一枚の板に蝶番がついた装置が、ここまで機能してしまう。映画って凄いな、素晴らしいな、と感じる濃密なサスペンス。 [映画館(字幕)] 9点(2008-10-31 02:26:03)(良:1票) |
16. 百年恋歌
《ネタバレ》 電球、ランプ、蛍光灯、手紙、メール、自転車、船、バイク、高速道路、手を繋ぐ、服を着せる、服を脱がす、音楽、そしてサイレント・・そして舒淇・・様々なものがこの映画の中ではとても感動的に作用しているが、最も感動的で、なお官能的でもあり、そして躍動と流動と静と動を兼ね揃えた、もう一度言うが、最も感動的な瞬間の連続、それがファーストショットだ。まだ灯りの点かぬ電球から、キャメラは静かに下がっていき、ビリヤードの球のささやかな揺れと回転を、李屏賓のキャメラは優しく優しくフォローし続ける。この球とキャメラのあまりにもしなやかな動きに、もはや涙を堪える必要などない。恐らくビリヤードの球が転がっていくだけの様を見て泣けるなどということは、そうそう在ることではない。だからこの瞬間の連続に涙を流せばいいのだ。何故ならそれだけ美しく、そして官能的だからだ。そしてこのショットの続きをわざわざ説明する必要もないだろう。どうしてあんなにも人物を動かしておきながら、最後にふたりが完璧な形で、完璧な位置でフレームの中に存在しているんだろうか。驚愕。 第一話、張震が舒淇を探している様をずっと描いている。この場合、本来的に重要なのは恐らく張震が舒淇を見つけたという瞬間だろう。つまり張震側にてこの再会を描くのだろうが、侯孝賢はその選択をしない。再会の瞬間を、勿論、ワンショット内にてすべてを描いているが、先ず映っているのが舒淇だ。どこだかのビリヤード場で働いている。そこに、奥のほうから張震が入ってくるのだ。これが決定的に素晴らしい。つまり侯孝賢はふたりの中に我々観客を入り込ませないのだ。あえて一歩引いた立場でこの再会シーンを描いている。重要なのは張震の舒淇を見つけたという感情なのではない、その瞬間の風景なのだ。このあえて一歩引いた立場があるからこそ、ラストの、あのあまりにも唐突に現れる手を繋いだヨリのショットが感動的に見えるのだろう。 [映画館(字幕)] 9点(2008-09-28 02:19:41) |